2014年2月20日木曜日

<42>久留米藩士「大塚敬介」の正体?!<追記あり>

 こうなったら、久留米藩の大塚氏について、片っ端から調べなおしてやる!という意気込みで頑張っている私であるが、今日もまた面白いものを発見してしまった。

 幕末の動乱の折にどうも、ちょびっとだけ活躍したらしい久留米藩士「大塚敬介」が何者なのか、そのヒントになりそうな資料を見つけたので紹介してみる。

 今回、大塚敬介(あるいは敬助)が久留米藩の系譜や、分限帳に登場しない人物であることがわかったのだが、日田系大塚氏のついて調べているうちに、変なデータに行き当たった。

 それが、東京大学の資料で、

 「大分県下幕末維新期史料の調査」なるものである。(東京大学資料編纂所)
 http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/36/saiho_OITAKE~2.HTM


 長いので、「大塚」で検索をかけると、こんな箇所がある。

 元治元年8月1日の記事で、

「一、久留米飛脚大塚慶助去ル十九日夕京都発足、同廿日大坂着、直様乗船、同廿一日安治御出帆、昨廿六日御着船上陸、直ニ久留米江出足仕候」

と書いてある。

久留米・・・・大塚慶助? 怪しい。怪しすぎる!


 もちろん、この人物の名前が出てくるのはこの箇所だけなので、だからなんだと言われればそれまでだが、大塚敬介が、禁門の変にて朝廷に意見書を提出したのが


 元治元年(1864)7月17日


なのである!!

 
 つまり、ここでわざわざ久留米の大塚慶助のことを書いたのは、意味があるわけだ。おそらく大塚敬介と大塚慶助は同一人物で、その身分は


 飛脚


だということになるのだ!っだっだっだだ。



 飛脚!というのは簡単に言えば、あれだ。佐川急便の車に描いてある「半ケツの人」である。

 もとい、江戸時代の、通信を担った仕事である。


 しかし、久留米藩士大塚敬介の正体が「飛脚」というのはピンとこない。


 そうハテナにつままれていたところ、こんな論文が飛び込んできた!


 「幕末から明治初年にかけての久留米藩飛脚 小川喬義」 日本経済大学
http://wrs.search.yahoo.co.jp/FOR=Dg2jF1tV3ihtMSGnIfkoiSC2apfLI5PZCbk1j14i2h3bX6S8z1DX9IjeV0GKGBRFrTCxY9pHC7Mq74sGLrLfPI6jXN_yERgWMIE7uSMD_TjCdBOU.Y54BVP02xnRb43D9ruar419mFqR4JvqJxdBXJiIVvHKHCfWy4mxgwMFonmz2xfEfJoRM8m0wqz9Ik3kNiHu3zbd24O_RDEf.nMAPeECOEdCnE7e8Vl5eZRG2SsixsE025.xw0acB1Yjh5Z5pt6T9ObgET6BhHi33gNGnTZ.ztqDUHyH4VtrULpEKmhdUW2gAH._nu2A4RREZnPzoGX5S0yjeYIxOBPYZgg96mYfsJ1UERAnLrpvIxnkq8zSM14IS3xZixhrZGsGH8qXYSJKgfFx7jYYFr2UkiUYMGZiREAuhS6KNGKfhre_FonoWUxMVLtFsWMwZPQW/_ylt=A3xT6LSMqAVTum0AQIODTwx.;_ylu=X3oDMTEycTloYXRiBHBvcwMxBHNlYwNzcgRzbGsDdGl0bGUEdnRpZANqcDAwMTA-/SIG=16lfaerv1/EXP=1392980556/**https%3A//jue.repo.nii.ac.jp/index.php%3Faction=pages_view_main%26active_action=repository_action_common_download%26item_id=725%26item_no=1%26attribute_id=22%26file_no=1%26page_id=4%26block_id=80


 PDFファイルになっているので、ぜひ読んでみてほしいのだが、この論によると、「久留米藩飛脚」という仕事は、「筑後飛脚」と呼ばれたりもしたらしい。

 そして、この飛脚の位置づけがおもしろい。

 論の中では、当時の飛脚としての仕事の記録が載っているのだが、彼らは「久留米様御飛脚様」という扱いを受けているので、

 久留米藩の公的飛脚

であったことが想像できるわけである。


 なるほど、ふつうの飛脚とは異なり、藩の公用を仰せつかっているわけで、この論には面白いことがいっぱい書いてある。

 たとえば、便ごとに旅館代や、ろうそくや笠などの費用、人足の労賃や馬の経費などもカウントされていて、それらの領収書を全部持って帰って監査を受けなくてはならなかったりするわけだ。

 となると、単に下請の「飛脚」ではなく、完全に「公費出張」みたいな感じで動いていることになり、久留米から大阪・東京まで4人チームで行き来しまくっていたらしい。

 
 ちなみに、この人の論文は、自分の曽祖父の家のふすまの下張りから発見した「久留米藩飛脚小川源右衛門」の書付をもとに書かれているらしい。

 誰もがやっぱり、先祖のことを調べてみたいものなのだ(^^



 さて、大塚敬介(慶助)が久留米藩飛脚であったとすれば、幕末の情勢について最新の各地の情報をまさに身をもって体感したはずだから


「どけんかせんといかん」


と思ったとしても不思議ではない。そして、公的飛脚であったのなら「久留米藩士」(ただし、おそらくは下級武士の扱いであっただろう)として認識されていたとしても間違いではないと思う。


いやあ、歴史って本当に面白いですね。


==========

2014.5.8追記


 久留米にて新資料を見つけ、そこに大塚敬介についての記載があったので紹介しておく。


 『久留米人物誌』 篠原正一 久留米人物誌刊行委員会 菊竹金文堂S56


によると、大塚敬介は

■ 久留米藩士で漢学者、安政ごろから家塾を開く

■ 元治元年9月の第二次小倉出兵の際に、自分の槍・甲冑を持参したいと出兵を拒んだので録を奪われて謹慎をくらった。(久留米小史)

■ のち、家禄は戻るが左幕派として明治2年蟄居させられる。

■ 明治4年生葉郡吉井町に家塾を開く。

だそうである。



 この資料により、年代的なことを付き合わせると、問題点があったため当記事の一部を削除した。(修正部残している)




元治元年7月17日に大塚敬介が朝廷に意見書提出。

元治元年8月に大塚慶助の記事があるのだが、「去る19日に京都を出て、20日に大阪、26日に船がついてそのまま久留米へ」と書いてあるので、やっぱり朝廷に意見書を提出した大塚敬介のことで合っていると思われる。

元治元年9月には、処分を食らう。


という一連の流れから考えると「久留米飛脚大塚慶助」という記載は、身分を示すのではなく、


久留米藩飛脚便(同行)にて、大塚敬介が移動した


というニュアンスだと考えたほうがよさそうである。


 現代語に直せば

「在来線で行ったんじゃなくて、新幹線で行ったよ!」

という雰囲気だということではないか?!




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