2014年3月31日月曜日

<番外編>全国の大塚姓分布を読む


 みなさんこんにちは。

 例のごとく我が三潴地方の「大塚姓」ルーツ探しは停滞しておりますが、今回は全国の大塚姓を俯瞰的に見てみようと思います。


 日本名字分布図鑑 さんというすばらしいサイトを運営なさっておられる方がいらっしゃいますので、そちらを参考にしながら読み解いてゆきましょう。


 日本名字分布図鑑 さんのサイト(入り口)
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~tami/


 
 このサイトで「大塚姓」を検索すると


 大塚姓検索結果
 http://myozi.web.fc2.com/spring/zukan/frame/f000086.htm


 ① 大塚姓高密度21市町村(左欄外)

 ② 大塚姓県別分布地図

 ③ 大塚姓市町村別分布全国地図

 ④ 大塚姓市町村別分布地方地図

 
 の四つの分布図が得られます。


 全国の「大塚姓」はそれぞれが無関係に発生しており、当ブログで集めている件数で言えば40氏以上の別々の大塚姓があるわけですが、地域的な分布と連動させながら考えると理解が進むと思います。




<全国的視野で見る、大塚姓>

 ②の図から概観できますが、まず大塚姓が多いのは、

「東京を中心とした関東一円」
「北海道」
「大阪と兵庫県」
「福岡県を中心とした九州北部」 

のおおむね4つのブロックが浮かび上がります。

 北海道については、移住者が多いので一旦横に置きますが、これまでも茨城系大塚氏を取り上げたりしているので、関東の傾向はなんとなく見えそうですね。


 兵庫県については、赤松系大塚氏がポイントになりそうです。大阪府については、まだブログに書いていませんが別の大塚氏がいます。

 そして、福岡。これが我が家系に関係ありそうな部分ですが、やはり福岡・大分・熊本に大塚氏がたくさんいます。

 
<市町村別分布で見る、大塚姓>

 ③の図を見ると、大塚さんの実際の居住地が見えてきます。

 関東はびっしりおられますね。それから岐阜・大阪・兵庫姫路一帯・岡山の南沿岸・そして福岡全面・熊本・大分です。


 
<市町村別(地方詳細)分布で見る、大塚姓>

 ④の図は詳細過ぎるので、全ては網羅できませんが、たとえば北海道の図を見ると

 旭川市・帯広市・函館市などに集中していることも見えてきます。


 我が九州北部の大塚氏については、福岡県内に「まんべんなく」大塚さんがおられることがわかります。多少久留米は多いかな?という程度ですね。


 各地の大塚さんも、ぜひご参考になさってください。





 

2014年3月29日土曜日

<調査中>石川県周辺の大塚さん

 最近になって当ブログを読んで下さる方が劇的に増えています。たぶん、全国の大塚さんがこっそりと読んでおられることと思いますが、何かご自分のルーツに関してご存知のことがおありでしたら遠慮なくメールくださいね。

 みなさまからの情報が縦に横に絡んでいろんな発見が生まれることと思います。

 今後ともごひいきに!



 さて、今回は石川県周辺の大塚さんにスポットを当ててみましょう。この項だけ「石川県周辺」と多少範囲が広くなっているのには意味があります。


 というのは、江戸時代に石川県を含めたこの地域を治めた「加賀藩」の領地がやたら広いからで、藩主前田家は加賀百万石なんて呼ばれた最強の外様大名だったのです。

 藩としては全国最大で、徳川御三家と同格扱いだった前田家は、「松平姓」と「葵の紋」まで貰っていたとのこと。



 ウィキペディアより 加賀藩
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E8%97%A9



 さて、この加賀藩の領域は、現代では「石川県」「富山県」にまたがります。その他、明治維新後に北海道の北見礼文、枝幸、宗谷まで支配していたといいます。



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 この加賀藩における「大塚氏」の動向ですが、既にこれまでに関係がありそうなネタをご紹介しております。


【全大塚氏族超まとめスペシャル】 加賀藩給帳の大塚氏 <I><L>の2氏
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html


【家紋『鶴の丸』の大塚さん】 
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_9.html


【姫路打越の大塚氏と本願寺の関係】
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/02/blog-post.html



 というわけで、今回はそれ以外の情報をご紹介しておきましょう。



①加賀藩の侍帳を読む

 石川県立図書館さんに加賀藩侍帳の影印がアップされていますので、加賀藩関係の大塚さんはぜひご覧ください。

 
 石川県立図書館さんの貴重資料ギャラリーより
 http://www.library.pref.ishikawa.jp/toshokan/dglib/samurai/index.html


 「慶長10年富山侍帳」

 ■ 慶長10年に前田利家が富山へつれてきた「大塚壱岐」


 「慶長17~19年」

 ■ 大塚庄大夫


 「元和1~2年」

 ■ 大塚壱岐 大塚庄大夫 大塚帯刀

 
 「寛永4年」

 ■ 大塚帯刀 大塚少大夫 


 ★見落としがあるかもしれません。
 ★関係ないですが、「小塚」姓もけっこうあって気になるところです。

 
 「寛文侍帳」

 ■ 大塚庄大夫 大塚長兵衛 大塚源兵衛 


 「寛文9年侍帳」


 ■ 大塚庄太夫 大塚次郎八郎 



 ★太平サブローシローみたいな「次郎八郎」さんが気になります。次男なのか八男なのか!?




②「石川県史」収録の侍帳を読む

 TRC-ADEACという自治体史・歴史資料検索システムが順次稼動しており、まだ資料は少ないですが、石川県史に収録の大塚氏が検索できます。


 石川県史 侍帳 検索結果より
 https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1400/WJJS18U/1700105100/1700105100100020/?Word=%E5%A4%A7%E5%A1%9A&Relation=AND&BfrDispId=WJJS15U&SlctView=20


 ここに掲載されている大塚氏は2氏です。

 禄高200石の「大塚巳之助」「大塚右膳」、もちろん加賀藩士です。



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 富山・石川周辺の大塚さんについては、また情報が入り次第追跡しますね!


 というわけで、全国の大塚さん、家紋教えてください!!



 



2014年3月24日月曜日

<調査中>考察「巴紋」の大塚氏

 全国の大塚さんと情報交換を続けている当ブログですが、これまでにいろいろな家紋をお持ちの「大塚さん」からご連絡を頂いているところです。

 さて、先日より「左三つ巴」の大塚さんから複数情報を頂いているので、今回は「巴紋」の大塚氏にスポットを当てて考察・推測してみようと思います。


 前回の記事でも紹介したとおり、茨城県の大塚さん、福井県の大塚さんに「左三つ巴」の大塚さんがおられるところから、いろいろ考えを巡らせてみましょう。


 茨城の大塚さんからの情報では、「現茨城在住。郡上八幡藩井上氏との関係。織田信長の家臣だったという伝承」の3点を伺っています。

 情報を頂いた当初は、織田家臣としての大塚氏に着目していたのですが、調査が進むに連れて少し面白いことがわかってきました。


① 郡上八幡藩に着目してみる。

 郡上八幡藩は、遠藤氏5代につづいて、井上氏2代、金森氏2代、青山氏7代と続く異動の多い藩です。


 歴代城主については、

 郡上八幡城さんのサイト
 http://www.gujohachiman.com/siro/lord/


 に詳細が載っています。

 
 さて、井上氏は元禄5年から5年間郡上八幡を治めますが、井上正任が「茨城県笠間城主から」やってきて、そして「丹波亀山城主」となり出てゆくわけです。

 この間、正任の息子正岑が幕府の老中へと出世したらしいので、まあ城主はほとんど江戸にいただろうと推測されます。


 ここで、ちょっと不可思議なのは、茨城の大塚さんが、茨城出身で丹波亀山(現在の亀岡)に移ったので現在亀岡在住なら話はわかりやすいのですが、

「この時、大塚氏は郡上八幡から茨城へ移った」

と把握なさっているため、順序が逆のようにも思えます。

 となると「井上氏がもともと茨城から連れてきた家臣が、丹波まで行かないで茨城に戻った」と考えれば、筋は通ります。

 では、現茨城在住の大塚氏一族は、郡上八幡経由ではあるものの、やっぱりもともと茨城の氏族ということになるのでしょうか?

(しかし、それでは織田家臣との整合性がとれません)

★2014・4・28追記、井上正任の3男、井上正長が茨城下妻藩を立藩するという事実がわかりました。郡上八幡から下妻へ大塚氏が移動した可能性があります。



② 茨城という地域性が示すもの。

 ではまず、この大塚氏が「もとから茨城出身」だと仮定してみましょう。茨城の大塚さんは、以前にこのブログで紹介した通り

 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/03/blog-post_12.html


 秀郷流 - 小野崎氏 - 大塚氏の「大塚氏族」が有名です。

 そして、面白いことにこの小野崎氏の家紋が「巴紋」なのです。


 播磨屋さんのサイトより
 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/onozaki.html


 毎度おなじみ播磨屋さんの記事によると、さらに面白いことが書いてあります。


 「小野崎一族の家紋は左二つ巴と決まっている」とおそらく小野崎系大塚氏の子孫の「大塚さん」という方の指摘があるのです。

 (この大塚さんの家紋がぜひ知りたいところですが)もしかしたら、こうした関係で、小野崎系大塚氏の家紋が「左三つ巴」になったかもしれません。(2から3に変えた?)


 とすれば、茨城系大塚さんの「巴紋」の系譜はなんとなく見えてきそうですね。

 しかし、そうなると、織田信長との絡みが消えてしまいます。



③ 織田信長について再考する。


 そこで、再度信長について考えてみましょう。


 郡上八幡というのは、現在の岐阜県です。戦国時代は織田氏がこの地域を完全に支配していましたので、たしかに信長と郡上八幡とは関係があります。

 そもそも郡上八幡の藩祖遠藤氏は、美濃の斎藤道三の後、織田氏に臣従します。


 ウィキペディアより 遠藤慶隆
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%97%A4%E6%85%B6%E9%9A%86 


 そうすると、「織田家臣の大塚氏が郡上八幡へ異動してきた井上氏に従い、その関係で茨城へ移った」という説も成り立つように思います。


 しかし、その場合も少しだけ論理の飛躍があります。というのも、井上氏の家臣となったのなら、京都亀岡へ移るほうが自然な感じがするからです。

★2014・4・28追記、井上正任の3男、井上正長が茨城下妻藩を立藩しますので、合致します。
 
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 いずれにしてもこの辺りはもう少し情報量が足りません。どこかに伝承の混同もしくは欠落があって、わかりにくくなっているのかもしれませんね。


 皆様からの新たな情報お待ちしております!


 

<調査中>福井県の大塚さん

 福井県にゆかりのある大塚さんからご連絡を頂きまして、その大塚氏の家紋が「三つ巴」だそうです。

 また、その大塚さんがもしかしたら「新義真言宗系」のお寺と関係があるかも、というお話も頂いています。

 福井県については、私も未調査であまり情報がないのですが、たしかに福井県越前市周辺に多くの大塚さんがおられるようです。


 家紋「三つ巴」の大塚氏については、以前に茨城県在住の方からのご報告を頂いております。

 その方の情報では、郡上八幡藩の井上家の転封により茨城へ移ったというお話も。


 郡上八幡は現岐阜県ですので、岐阜美濃の左三つ巴大塚氏と、越前の左三つ巴大塚氏に果たして関係があるのかないのか、気になるところですね!






2014年3月17日月曜日

<調査中-徳島2><46> 現場にいる不審な人影 徳島編つづき

 いつもこのブログを書くときは、自分の家系に関する内容と、それ以外の大塚氏についてなるべく分けて書くように心がけているのだが、今回は<調査中-徳島編>とわが家系の大塚氏編<46>の併用区間でお届けしたい。


 なぜ、徳島の大塚さんの話が三潴の大塚さんと絡むのか、それは今回の記事を読み進めていけば、じわじわとわかってくる。


 まず、前回のおさらいとして、徳島の大塚さんは主に淡路島を拠点とした「稲田氏」の家臣に存在し、稲田氏が徳島藩の領主「蜂須賀氏」の家老でもあった関係で、四国側にも大塚さんが存在することを思い出して欲しい。


 では、それらの大塚氏が、どのような経緯で稲田・蜂須賀家の家臣となったのかという疑問については、「稲田家御家中筋目書」等に記載があるかないか現時点では確認できていない。


 しかし、仮説段階として、どうもキナくさい感じがする。



 そう、またまた不審な人影がちらついているのである。


 

 まず、大塚氏を抱えていたことが確実な稲田氏の動向を探ってみよう。

 (再掲)ウィキペディアより 稲田植元
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%B0%E6%A4%8D%E5%85%83



 これまたおさらいがてらであるが

①稲田家は、村上源氏の系統で、播州赤松で浪人をしていた。

②のち尾張の織田家に仕え、このころ蜂須賀氏と密接になる。

③秀吉に仕えて、三木合戦等にも参加。

④はじめ播磨龍野をもらう話もあったが、いろいろあって阿波を蜂須賀・稲田で領有。

多彩な家臣構成であり、元武田氏や加藤氏の家臣もいた。


などがわかっているという。




 なんだか、とってもプンプンにおう感じ、わかってもらえるだろうか?!




 不審な人影とは、そう播州赤松氏の影である。そして、それらがやっぱり三木合戦・播州攻めあたりの時代背景で一点に繋がってくるのだ。

 実際の稲田氏のルーツには不明な点が多いらしいが、赤松氏流大塚氏と同じように、「赤松系」を名乗っていたという。

 そうである。稲田氏も、大塚氏と同じく「わけわからん赤松系」の一氏族なのである!


 そして、恐ろしいことに、前回の情報の通り、「徳島系大塚氏に抱き茗荷紋の大塚さん」がいる、ということになると、これまた寛政譜の記載通り、


 すわ「赤松氏流大塚氏」か?!


となってしまうことにお気づきだろうか!



 ・・・・・・いくらなんでも、出来すぎの感が否めないが、


 ①寛政譜の大塚氏は赤松氏流を名乗っている。抱き茗荷。

 ②久留米藩士伝承のある三潴の大塚さんは抱き茗荷。もちろん、久留米藩主は赤松そのもの。

 ③徳島藩家老稲田氏は自称赤松氏流で、徳島に抱き茗荷の大塚さんがいる。



 これは、何の偶然か冗談か、マジでダヴィンチコードばりの家系ミステリーなのか、と思えてくるではないか!

 

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 稲田氏だけではない、義兄弟であり、名実ともに2家で徳島・淡路を治めた「蜂須賀氏」とて同じである。


 ウィキペディアより 蜂須賀正勝・家政
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E6%AD%A3%E5%8B%9D


 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9C%82%E9%A0%88%E8%B3%80%E5%AE%B6%E6%94%BF

 
 徳島藩以前の蜂須賀氏は、尾張出身でありながら、秀吉の家来として、播磨攻めに参戦し


 播磨龍野5万3千石や播磨佐用3千石


を領有した経緯がある。


 とすれば稲田・蜂須賀両家に仕えた大塚氏が、いわゆる「赤松系」であっても全然不思議ではない。状況証拠だけは、限りなくクロなのだ。




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 正直なところ、自分の家系を調査すればするほど、「赤松氏流大塚氏」なるものの正体がだんだんぼやけてきていて、歴史的にそういう一族は記録に残っておらず、他の家系の者が旧主君に仮託して名乗っている、と思うようになっていたのだが、今に至ってなんだかゾワゾワするのは気のせいか、おそらく風邪の引き始めかのどちらかだろう。



 なんで、抱き茗荷の大塚さんの背後に赤松氏が見え隠れするのか。


 
 さあ、みんなで一緒にハマりましょう!





<調査中-徳島1>徳島県の大塚さん 概論

 現代において「大塚史上最大のビッグネーム」といえば、誰もが知ってる「大塚製薬」さんで異存はないと思います。

 このブログの愛読者さんの大半が、子供の時の自己紹介で「大塚です」と名乗ると、「製薬?!」なんてツッコミが入ったり、あるいはそのまま大塚製薬さんがらみの「あだ名」をつけられた経験があるのではないでしょうか(笑)

 大塚グループさんのホーロー看板は、それこそ日本の高度経済成長の生き証人として、今でも日本中のどこかに佇んでいます。


 さて、そんな「大塚製薬」さんの創業者は、徳島県ご出身。今回は、徳島に着目します。


 というのも、実は徳島県出身の大塚さんで「抱き茗荷」紋の大塚さんの情報を頂いたので、これはぜひ調べてみよう、と思い立ったわけです。



 正直なところ、抱き茗荷紋かつ大塚氏で現在確認がとれているのは、



 『寛政譜収録の幕臣大塚氏』
 
 『三潴地方の我が大塚氏』

 『今回情報を頂いた徳島系大塚氏』


 
の3氏だけですので、これらが相互に関係あるのやら、ないのやら興味津々な毎日です。


 というわけでここでいつものCM 


「家紋『抱き茗荷』な大塚さん!ご連絡待ってます!」




 ちなみに、私は徳島県にご縁があって、徳島県立男女共同参画センターの名前(愛称)をつけたのは



です。えへへ。

ちなみに、もう宇宙の塵となって消えてしまいましたが、JAXAの月探査人工衛星「かぐや」の名前をつけたのも




です。うへへ。


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  さて、徳島の大塚さんについてですが、もともと地域に根ざした地場の「大塚さん」がおられるのではないか、と考えられる指摘が見つかりました。


 阿波学会研究紀要 さんのサイトから (郷土研究発表会紀要第36号)
http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/webkiyou/36/3617.html


 こちらの論文では、柳田国男が着目した徳島県板野郡土成町の「十三塚」の周辺をめぐって、この地に

「大塚姓」

の方がたくさんおられることと、恐らく当地の古墳に由来して「大塚姓」が発生した可能性が示されています。

 ただ、当論文は史跡としての十三塚の研究がテーマであるため、姓と塚との関係については、それ以上の言及を避けています。



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 近世における徳島と「大塚氏」の関係については、以前にも「北海道の大塚さん編」でご紹介した


 快左衛門 さんのサイト(稲田騒動に関するページ)
 http://kaizaemon.com/inada/inada.html


にいろいろ面白いことが紹介されています。


① 「阿波藩稲田家御家中と類親の系譜」(国見慶英編) より引用の藩士名簿に大塚氏の名前(けっこう多い)があります。


 大塚氏の箇所
 http://kaizaemon.com/inada/am/05.jpg


② 洲本(淡路島)の稲田家家臣にも、大塚氏の名前があります。順不同だそうです。

 http://kaizaemon.com/inada/sm/sm.html


 ★徳島藩は、淡路島も治めていたので、淡路とも関連があります。


 ★「稲田家御家中筋目書」(猪井達雄編)という藩士の取り立て経緯などのわかる文書があるそうです。これを入手すれば、稲田家臣の大塚氏の系譜がわかるかもしれません。




 さて、少し話は戻りますが、徳島藩という藩は、事前に知っておかなくてはいけない知識が必要な藩で、多少ややこしいですがお付き合いください。


 まず、徳島藩を治めていたのは蜂須賀氏で、徳島藩は「徳島(阿波国)と淡路島(淡路国)」を領地としていました。


 しかし、淡路の支配権を持っていたのは蜂須賀家家老の「稲田氏」であり、稲田氏は淡路島洲本を拠点として幕末まで続いています。


 そして、面白いことに、稲田氏は、蜂須賀氏に遠慮して「家臣」を名乗ってはいるものの、実はかなり対等に近いような力関係を有していたと考えられているのです。



 ウィキペディアより 稲田植元
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E7%94%B0%E6%A4%8D%E5%85%83


 洲本市のサイトより 「稲田騒動」
 http://www.city.sumoto.hyogo.jp/hp/shisei/simaitosi/kougo.html



 従って、徳島・淡路に跨るこの地については「徳島藩」と簡単にまとめることもできますが、その実「蜂須賀家臣」と「稲田家臣」の2系統がある、と言えるわけです。

 そのため快左衛門さんのサイトにあるように「稲田家の家臣」だけに着目することができるのです。


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 さて、誰もが気になる大塚製薬さんのルーツについてですが、創業者の方のコメントがありましたので紹介しておきます。

 大塚製薬そのものを創業なさったのは、大塚武三郎さんという方ですが、


 ウィキペディアより 大塚武三郎
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E6%AD%A6%E4%B8%89%E9%83%8E


 彼の息子さんが先祖についてのコメントを残しておられます。


 大塚国際美術館 さんのサイトより
 http://www.o-museum.or.jp/character/story.html


 これによると、息子さんの正士さんからみて「祖先は曽祖父辺りまでは知っているけれど、その上はわからない」とのこと。

 
 ご本人がそうおっしゃっておられるので、大塚製薬の詳細なルーツは探れないようです。



(この章つづく)

2014年3月15日土曜日

<おまけ>密室トリック?! 誰にも気付かれずに”消えた”あいつを追え!  

 いやあ、今回はなかなか「大塚不思議発見! この子誰の子あなたの子スペシャル」ですよ!

 毎回、ルーツ探しはミステリーの連続なのですが、なんと明智小五郎も真っ青の密室トリックが起きてしまいました。


 ただ「大塚さん」について調べているだけなのに、何があったんだ?!と驚かれることと思いますが、私にも思いもよらないあんなことやこんなことが起きてしまったのです!


 ・・・・・・はあはあ。まずは、ちょっと落ち着いて。気を取り直していきましょう。

 

 今年1月12日の当ブログ記事

「あなたの大塚は”大塚”ですか?」
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_5376.html


でお伝えした通り、私の苗字「大塚」には「、」が間に入っている”大塚”なのです。

 という訳で、もちろん戸籍も住民票も全部”大塚”になっているのが当然だと思っています。このことを私は、自分で勝手にそうしたわけではなく、父親から、


「うちの塚は旧字なので、本来は「てん」を入れて書かなくちゃならないんだよ」

と教わっていて、そして実際公文書もそうなっているので何の不思議も感じていなかったのです。



 ここで、漠然とみなさんも思うことがあると思います。


「ああ、古い時代には旧字を使っていて、その名残で本来は”てん”の入った塚なんだなあ」

と。


 よく似た事例に「斉藤さん」なんかもありますね。斉藤と略記しますが、実は「齋藤」とか「齊藤」とかだったりする例です。


 
 ところが、現在大塚さんのルーツ探しで古文書にたくさん当たっていると、おかしな現象に出くわすのです。

 それが「消えた?”あいつ”」もしくは「勝手に現れた?”あいつ”」こと、そうです。「”てん”」がとにかくミステリーなのです。

 怪盗ルパンか、はたまた二十面相なのか、あるいはセイント・テールでもキャッツ・アイでもいいのですが、とにかく、


 消えた「てん」を追え!


はじまりはじまり!


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  まず、「寛政重修諸家譜」1520巻に記載の手書きの「大塚」について4家並べてみました。

 その画像が、これ!(画像引用 国立国会図書館デジタルライブラリより 一部抜き出し加工)






 当然ながら、これは江戸時代の書物です。筆跡の違いからわかる通り、それぞれ別人が書いています。

 ところが、どうも全部「てん」がないのです。これがどういうことかというと、江戸時代の人にとって「塚」に「てん」が必要だということを、

全然意識していなかった

ということに他なりません。


 これはある意味凄いことで、現代人の我々は「塚にてんが必要だと意識していない」し、江戸時代も「塚にてんが必要だと意識していない」のだとすれば、



 いつどこの誰が「てん」がいるとか抜かしてけつかるんじゃい!


ということになるわけです(笑)


 もうすこし事例を挙げましょう。


 今度は、久留米市立図書館から取り寄せた系譜類です。(御家中略系譜・中小姓略系譜2種類・正徳諸士系譜)





 
 これまた、揃いも揃ってどいつもこいつも「てん」がありません。これでやっぱり、江戸時代の久留米の人たちも塚にてんが必要だと


全く思ってない


ことがわかるわけです。


 さらにひどいことに、わが家系の戸籍そのものを見てみると、



 これまたまた、私の高祖父大塚喜平次の記載ですら、「てん」がついていないのです。

 ★この戸籍は、喜平次の長男のものであるため、当然長男についても


 「てん」はついていない。たぶん筆跡から見て、この2つは同じ人が書いている。



 ここまでくると、私の苗字に「てんがついている」と思っていたのが誤解かなんかじゃないかと思い始めてしまう次第です。


 ところが、これが近代に近づくにつれてヤツは突然現れるのです。


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 まず、これが現在の父の戸籍謄本(正式には除籍されている)と私の戸籍謄本です。



  (画像は線が出やすいように加工しています。)

 これらはコンピュータ上で表現された電子文字であり、そこからレーザープリンタで出力されたものが現在戸籍謄本として用いられています。

 いずれも「てん」があります。


 次は、父の改正原戸籍の画像です。

これは、現在は閉鎖されているものを画像の形で電子化し、それをレーザープリンタで出力するものですが、おそらく原本は金属活字で打たれていると思われます。

  これにも「てん」があります。


 さて、祖父の時代はどうでしょう。これは祖父の代のもので、金属活字で打たれていると考えられるものです。




 少し見えにくいですが、「てん」があるように思われます。

 ところが、おなじ祖父の戸籍であるのに、これの原戸籍となると、突然「てん」が消えるのです。

  「てん」が完全に消えています。これも祖父の戸籍です。違いは手書きであることです。


 ついでに、喜平次の長男についても手書きの戸籍(ただし、戸主を改めた際の新しいもの)が残っているのでそちらも見てみましょう。



 ほら!やっぱり「てん」が消えています!

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 これらのミステリーから、推測できることがあります。


 それは、「活字になってはじめて、人は旧字を意識した」ということです。

 手書きの際は、今の人も昔の人も

「てん」なんて気にしちゃいない

のではないか?!それがおそらく真実に近いと思います。

 というわけで、うちの大塚にてんがあるべきなのか、ないべきなのかは実はよくわかりません(笑)

ただ、正式な字体を考慮すれば、


おそらく「てん」はあってよい


ということだと思うのですが、みなさんも一緒に探ってみてくださいね!







2014年3月14日金曜日

<調査中>埼玉県の大塚さん 「のぼうの城」と大塚氏

 現在、久留米・三潴の大塚さん以外の都府県の「大塚氏」についてわかっている情報をまとめ中です。

 今回は埼玉県の「大塚さん」を取り上げます。


 実は、この埼玉については、私なんかよりはるかに詳しいことを調査なさっている方がいて、そちらにほとんど全てのデータが揃っていますので、ここではそのご紹介を!


 茂木和平さんという方が執筆なさったものすごい書物「埼玉苗字辞典」という本があり、これは40年以上かけて数多くの集落を廻りデータを拾い集めたという執念の一冊です。

 今私が自分の家に繋がるデータを必死の形相で集めているところですが、自分の家どころか県内のすべての苗字を追いかけるという途方もない作業のすごいこと!

 まさに感服・圧巻の書籍です。


 「埼玉苗字辞典」の案内
 http://homepage1.nifty.com/joichi/


  とにかく埼玉県の方なら、うちのブログを見ているよりこっちを読んだほうが早いと思います(苦笑)

 埼玉苗字辞典は、自費出版100冊のみ販売、全4巻セットだそうです。


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 さて、その埼玉苗字辞典のエッセンスから「大塚」氏について概略を。

 http://homepage1.nifty.com/joichi/1-4o.html
 

 上記リンクに、概要版がありますが、それによると

【横瀬党の大塚氏】

【児玉党の大塚氏】

【藤原氏流の大塚氏】

【斉藤実盛家臣の大塚氏】

【平氏河越氏流の大塚氏】

【佐々木氏流の大塚氏】

などをはじめ、戦国期から江戸期、明治に至る埼玉県の大塚氏の痕跡が余すところなくピックアップされています。


 中にはあの「のぼうの城」で有名な忍城・成田家家臣の「大塚氏」についての記載もあり、埼玉大塚氏にとってはワクワクの内容です!


 というわけで、私のような小さな存在ではとうてい敵わない「埼玉苗字辞典」をぜひ一家に一冊!



 埼玉県の大塚さんも、今後ともよろしくお願い申し上げます!


 

2014年3月12日水曜日

<調査中>茨城県の大塚さん 戦国武将

 現在、我が家系の久留米藩・三潴地方「大塚氏」の調査が停滞しているため、この時間を利用して全国の「大塚さん」探しを続けようと思います。

 それぞれ出自を別とする全国の「大塚氏」の中でも、戦国期におけるビッグネームのひとつと言えるのが、現在の茨城県を中心とする「常陸国」の大塚氏ではないでしょうか。

 一般的にウェブなどで「大塚氏のルーツ」などで検索すると、たくさんの情報が見つかるのがこの系統の大塚氏で、当ブログの

「全大塚氏族超まとめスペシャル!」
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html

においては

<AD>の常陸国多珂荘大塚郷出身の大塚氏になります。



 ということで、今回は北関東周辺の大塚さんのルーツにも繋がるこの氏族を追ってみます。


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 鎌倉時代に多珂荘大塚郷の地頭職になった「大塚氏」はもともとは藤原氏秀郷流で、はじめ小野崎氏、のち上記大塚郷に入って「大塚氏」を名乗ったようです。

 
 秀郷流 - 小野崎氏 - 大塚氏 への系統は

日本の苗字7千傑さんに略譜があるので、ご参照ください。

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02020b4.htm



 
 さて、この大塚氏は、戦乱の歴史にあって、なかなかの流転の歴史を経て現代へ至ります。


 まず、もともと北茨城の地場を本拠地にしていた大塚氏は鎌倉幕府末期に新田義貞の配下になります。

 このあたりの動向は、

 ふるさとの歴史散歩(高萩市) さんのサイト
 http://bearhous.web.fc2.com/history/takahagi/tqtsugoyama.htm


に詳しいのでご参照ください。

 
 そこから戦国時代に至る「大塚氏」の動きは、

武ちゃんの写真館 さんの茨城県の城訪問記がとても参考になります。詳細なレポがあり、わかり易く書かれている素晴らしいサイトです。

http://ww36.tiki.ne.jp/~taketyan-512/siro3/ibaragi.html


 本拠地は北茨城市の「菅股城」のち「竜子山城」であったようで、南北朝時代に佐竹氏に負け、佐竹一族として戦国時代に向かいます。


 竜子山城時代の大塚氏の概略は


 常陸きこりの会 さんのサイトにある資料
 http://kuri222.cocolog-nifty.com/kikori_matsuoka/otsuka_masanari.pdf


 に丁寧にまとめられています。 


 竜子山城主としての大塚氏は、岩城の(福島県広野町)「折木城」へ移動になりますが、佐竹氏から結城氏へ鞍替えした者もいたようです。結城氏も秀郷流ですので、北関東の武士団は、かなり藤原氏系統が多いように思います。


 ウィキペディアより 「大塚綱久」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E7%B6%B1%E4%B9%85




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 その他、時代はずいぶん下りますが、茨城県つくば市には「大塚家住宅」なる家屋が残されていて、こちらは太田道灌の子孫だそうです。

 
 茨城県教育委員会 さんのサイトより
 http://www.edu.pref.ibaraki.jp/board/bunkazai/kuni/kenzou/1-20/1-20.html


 たかさんの茨城放浪記 さんのブログに訪問記あり
 http://takasannoibaraki.blog58.fc2.com/blog-entry-1466.html



 というわけで、関東地方の大塚さん!ぜひ家紋を教えてください!






2014年3月10日月曜日

<45>奇妙な符合  ~ 二人の喜平次 ~

 我が祖先のルーツ探しが停滞する中、実は奇妙なデータを発見したので、今日はその話を書いておこう。


 「家系は元久留米藩士」という伝承のある私の家の高祖父は、大塚喜平次という。

 現在確認できる戸籍は、この「大塚喜平次」の長男のものであり、この長男は、三潴地方の現在の私の本家実家がある住所に戸籍を持っている。

 「大塚喜平次」の名がわかったのは、この長男の戸籍に「前戸主 大塚喜平次」の記載があるからで、喜平次その人の戸籍はないため、生没年については不明である。


 しかし、状況証拠がいくつか転がっているので、大塚喜平次の動向について、おおまかに捉えることは可能だと思われる。


 まず、喜平次の子で、長男より先に生まれた女の子がいて、戸籍には「長男 (個人名は伏せる)の」、と記載されている。

 つまり、こういうことだ。



 <大塚喜平次の家族 (長男の戸籍)>

 妻(長男から見れば母)   文政12年生まれ 嘉永3年入籍 明治23年死去

 姉・三女   慶応2年生まれ  

 長男   明治2年生まれ 昭和4年死去

 (・・・・以下略)


 明治の戸籍は「戸主制度」になっているため、一族の長がまず書いてあって、そこに母やら姉やらが記載されているのだが、長男から見て「長女・二女」についてはそれ以前に嫁にいっているらしく長男の戸籍には記載がない。

 逆に三女が掲載されているのは、一度結婚して離婚の後戻ってきていたので、長男の戸籍に載ってしまった、というわけである。


 さて、ここで時間軸を見てゆこう。



【文政12年】 1829年 妻誕生

【嘉永3年】 1850年 結婚

【慶応2年】 1866年 第3子誕生

【明治2年】 1869年 第4子誕生




 大塚喜平次から見て、妻が21歳の時に結婚したことになり、おそらく妻より年上であっただろうと仮定すると、ざっくり考えて喜平次は1815年から1825年頃の生まれであろうと見ることができよう。(文化12年~文政8年頃)

 そして、結婚当時20代とすれば、

嘉永 20代

安政 30代

万延

文久 40代

元治 

慶応

明治 50代

と考えることができる。


==========


 さて、ここからが本題である。久留米藩有馬家家臣の略系譜によると、実は「大塚喜平次」なる人物が記載されているのである。

 
 じゃあ、なぜ早くそのことを書かないんだ!とお叱りを受けそうだが、その記載は、いろいろと考察が必要なデータなのである。

 そのため、今回のタイトルを「奇妙な符合」としたわけだ。つまり、2人の喜平次が、存在するのである。

 まるでミステリーだ。


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 その喜平次が記載されている中小姓格系譜を以下引用する。


『  △ 大塚  紋 碁石

 ○ 林賀 

  慈源院様御代坊主 (略) 元禄元(年)百石 同九(年)加増 都合御蔵米百六十石

 |

助次郎

 |

四郎右衛門 (略) 延享五(年)病死

 |

助次郎  初(め) 十太夫 喜平太 喜平次





辰次郎  坪池源兵衛養子




(助次郎より)

 |

平次  初(め) 文次 後 喜平太  

源次

四郎右衛門 実(は)浪人 佐野衣蔵(の)子

  寛政九年中小姓組(略)八十石 天保八年病死



(四郎右衛門より)

 |

九兵衛  初(め) 助三郎

順蔵

(ここまで)』


 上記を読んでわかるとおり、たしかに「大塚喜平次」は略系譜に存在する。しかし、確定できる年代として「延享5年」(1748年)に四郎衛門から家督を継いだのであるから、わが高祖父の生きた年代とは


100年くらい違う


のである。これは大問題である。いくら次の世代が親の名前を継ぐことがあっても、これだけ年代が離れすぎていると、「たぶん偶然の一致」と考えたほうが適切ではないか。



 というわけで、さらに混迷を極める我が祖先探しの旅であるが、久留米・三潴地方の大塚さん、一緒に謎解きしませんか?








2014年3月7日金曜日

<44>西郷隆盛と久留米藩士大塚処平<追記あり>

 久留米藩の略系譜を入手して、じっくり調べている途中だが、そういえば竹の間組の大塚平十郎やら、中小姓格の大塚九兵衛やらは系譜にあったものの、徒士格の大塚処平などについては、系図が見つからなかった。

 そんな大塚処平の名前が、あろうことかtwitterで流れてきたからビックリ仰天である。

 いくら情報化社会とはいえ、当ブログ「俺ん家コード」の愛読者以外まったくどうでもいい、あるいは知りもしない「大塚処平」さんの名前が、ツイートされちゃうんだからすごい時代である!


 そんな凄いツイートをなさっていた方は幕末の研究をなさっている「町田明広さん」という方。

 特に明治維新前後について、詳しく調べておられる大学の先生である。


 ツイートの内容はこれ


 町田明広さんのtwitterより
 https://twitter.com/machi82175302/status/437917392400691200

 以下引用

 「慶應1年2月24日、「鹿児島藩士西郷吉之助・同三原次郎左衛門・同関山新兵衛・熊本藩士和田権五郎・同古閑富次・久留米藩士伴勝三郎・同大塚処平・福岡藩士月形洗蔵「詳」・同筑紫衛「義門」・同万代安之丞・同三坂小兵衛・佐賀藩士中野数馬等、太宰府に会商(す)」


 出典が書かれていなかったのだが、何かの記録(日記)からの引用だと思われる。町田さんはこのほかにも、幕末関連のツイートを多数なさっているので、いろいろ興味深いことが流れてくる。


 さて、大塚処平の動向である。まず、ここに登場する人物を調べてみよう。


鹿児島藩士

「西郷吉之助」 ・・・誰あろう西郷隆盛その人である。通名「吉之助」。


「三原次郎左衛門」 ・・・詳細不明だが、代々の三原次郎左衛門は島津家の家老の(分家)家柄。

「関山新兵衛」 ・・・詳細不明。


熊本藩士

「和田権五郎」 ・・・新・肥後細川藩侍帳さんに名前あり。大村益次郎の彰義隊討伐軍に名前。

「古関富次」 ・・・詳細不明。


久留米藩士

「伴勝三郎」 ・・・藩の参政役だったらしいとの記述あり。

「大塚処平」 ・・・久留米藩分限帳に名前あり。うちの先祖の関係者かもしれないし、違うかも。


福岡藩士

「月形洗蔵」 ・・・月形半平太のモデル。薩長同盟の立役者。ウィキペディア参照。

「筑紫衛義門」 ・・・福岡県護国神社、明治維新志士之墓に祀られている。

「万代安之丞」 ・・・詳細不明。

「三坂小兵衛」 ・・・「三坂小兵衛私情事件」という事件があったらしい。何をしたんだ?!


佐賀藩士

「中野数馬」 ・・・尊皇攘夷派の重臣。


これらが大宰府で集まって相談をした、というのである。


 いやあ、なかなかに濃いメンバーに思える。西郷どんやら「月さま、雨が・・・」やら、ビッグネームもちらほらいるし、当時各藩でそれなりの地位にあった人物の名前もある。

 大塚敬介のこともそうだが、幕末の志士たちのネットワークのすごさにも驚かされるし、まあ、藩を横に飛び越えてしっちゃかめっちゃかいろんなことがあったのだろう、と興味は尽きない。


 しかし、個人的には大塚処平はたぶん、うちの直接の先祖ではナイと考えている。なぜなら、幕末から明治新政府の時代にかけて、わが先祖の大塚氏はすでに久留米城下ではなく三潴地域に暮らしているからである。

 それでも、家系は繋がっているかもしれないが、遠いおじいちゃんではなさそうな大塚処平の活躍が、こんなところで見られたのは嬉しい楽しい大好き♪


 というわけで、久留米市内在住の大塚さん!あなたのご先祖は西郷隆盛と一緒にツーショットだったんですよ!

といったお話で今日のところはご勘弁を。


 引き続き、久留米・三潴の大塚さんを始め、全国の大塚さんからの熱いメールを待ってます。


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2014.5.8 追記

「大塚処平」氏について、詳しく説明がされている文献があったので紹介しておく。

 『久留米人物誌』 篠原正一 久留米人物誌刊行委員会 菊竹金文堂S56

によると、大塚処平は

■文政10年生まれ、父は大塚九兵衛、

■嘉永3年 御徒士取り立て

■万延元年 江戸勤務

■慶応2年 中小姓取り立て

■明治6年 北荘島小学校 初代校長

という人物だったとのこと。



2014年3月6日木曜日

<43>福岡県周辺の「大塚さん」

 福岡県の大塚さんについて、もう一度先入観なしで洗い直しをしているところだが、久留米藩・に限らず、その周辺についても出来る限り調べてみようと思う。

 そこで、今回は、ひとつひとつは小さなデータでも、いつか面白いことになるかもしれないので、列挙してみるつもりである。



【1】飯塚の大塚さん

 福岡県飯塚市に「大塚石材㈱」さんという会社があるのだが、そこの会社案内によれば、

 
 大塚石材㈱さんのサイトより
 http://www.ohtsuka-sekizai.com/factory/index.html


 天保6年(1835年)に、頴田村(いまの飯塚市勢田)に大塚甚助なる人物がいたことが示されている。

 ちなみに飯塚は、福岡藩領。



【2】柳川の大塚さん

 福岡県柳川市の大塚さんについて、柳川市から出版されている「柳河藩立花家分限帳」を取り寄せて調べてみた。

 詳細は略するが、たしかに各年代の分限帳に「大塚氏」が存在している。禄高はそれほど高くないので、上級武士ではないように思える。

 柳川市からは、おなじく「柳河藩享保八年藩士系図(上下巻)」が出版されているが、こちらも調べてみたところ「大塚氏」の項はなかった。


 柳川歴史資料集成 シリーズ
 http://www.city.yanagawa.fukuoka.jp/rekishi/sisi/shoukai_backnum/


 余談だが、旧柳河藩の上記資料はとてもよくまとまっており、特に一部の家臣について、江戸時代にどこに住んでいて、明治20年ごろにどこに転居したかをまとめた資料がついているので、該当する家系の人には、すごく貴重な情報になる。

 ぜひ、旧柳川藩士の家系の人は、上記資料を一度読んでみてほしいと思う。


【3】福岡仏師の「大塚」氏


 福岡市博物館の資料によると

 http://ikr031.i-kyushu.or.jp/jf/2013/fukuoka25/images/fukuoka25_panfu.pdf#search='%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%A7%93+%E8%B1%8A%E5%89%8D'


 江戸時代から佐田氏という仏師の家系が福岡藩にあり、そこから「大塚」を名乗った「大塚武平慶般」という仏師が江戸時代後期にいたことがわかる。

 彼の名前は

 関西大学近世仏師事績データベース にも見える。

 http://www2.itc.kansai-u.ac.jp/~hasey/bussi/list_a.htm


 佐田氏の動向については、またまた

 播磨屋さんのサイト に詳しく出ているのでご参照願いたい。

 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/ki_sada.html


 上記によると、藤原氏宇都宮氏流がルーツで、豊前・豊後の大内氏・大友氏のからみから、最後は黒田氏や細川氏についたようだ。

 
 福岡藩における「佐田仏師(佐田家)」は御用仏師のような働きをしていたらしいのだが、大塚武平は、佐田グループから独立したと考えられているようだ。



 こうなると、福岡県の大塚氏には、いろいろなルーツや系列が隠れていそうな気がする。これらを徐々に明らかにするには、


みなさんのご協力だけが頼りである!ぜひ情報をお寄せいただきたい!



 




 

 

2014年3月4日火曜日

<調査メモ>大塚捜査網 アンタッチャブル

 「大江戸捜査網」というテレビドラマが昔ありまして、大ファンでございました。今でもテーマソングを口ずさめる程です。

 かっこいいねえ!隠密同心。杉さまにメロメロになっちゃいます。

 ちなみに、「大江戸捜査網」にはナレーションに決め台詞があって、

 ”死して屍拾う者なし”

 でかならず終わる、という決まりがありました。これを3回繰り返すところが渋い!



 さて、ここのところ更新できていないのは、特に我が大塚氏の情報が停滞しているからです。

 引き続き、大塚捜査網へのご参加と、皆様からの情報、お待ちしております!




 今回は、当ブログのコアなファンもきっとどこかにおられるだろう!というわけで、現在漠然と頭に置いているネタをメモ代わりに挙げて置こうと思います。



「播州後藤氏の栄光」(松本多喜雄著)を読破中。

 播磨大塚氏(特に香呂周辺)について詳細な記載がある「播州後藤氏の栄光」を読んでいるところです。

 姫路の現在香寺町周辺の大塚氏のルーツについて詳しく書かれていますが、九州の大塚氏との関係がほんの数行しか情報がありません。

 それも、九州から播磨に戻ってきて蟄居のち「後藤将監あらため大塚将監」と名前を変えるので、九州在住の子孫は、「後藤さん」の可能性も高いです。

 このあたり、他のデータが出ないか調べていますが、止まっています。




②「北九州の大塚さん」(長門系)について情報。

 長門国守護であった「厚東氏」の子孫に大塚氏がいることが判明。長門は山口県です。


 慶応大学 恋田知子さんの論文「御伽草子『まんじゅのまへ』試論 より

 http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/AN00072643-00780001-0024.pdf?file_id=70395


 厚東武村が豊前国企救郡(北九州地方)を拝領していることから、山口から大塚氏が九州入りしている可能性があります。

 ちなみに厚東氏は物部氏の子孫らしいです。




③「佐賀の大塚さん」(鍋島家臣)について情報。

 未確認2chネタですが、鍋島家臣に少弐氏という一族がいて、その末裔に大塚氏がいるとのこと。


 戦国時代 少弐氏について語ろう より

http://2ch.hork.info/res/ikura.2ch.net/sengoku/1178212969


 佐賀県三根郡大塚村に来て「大塚氏」を名乗ったようです。




とまあ、捜索範囲を広げながら日々戦っておりますので、気長にお待ちください。