2014年4月24日木曜日

<53-2>宮本武蔵と大塚氏 後編

 宮本武蔵は謎の人である。


 もちろん、おそらく日本史上最強かつ最も有名な剣豪・剣術家であることは言うまでもなく、たぶん木村拓哉や萬屋錦之助には似ていなかっただろうと思われるが、それでも武蔵は謎の人と言わざるを得ない。



 ウィキペディアより 宮本武蔵
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E8%94%B5


 
 ところが、これまた不思議なことに日本人のほとんどが「宮本武蔵」のことを良く知っていて、巌流島で佐々木小次郎と対決をして、武蔵が遅れてやってきたとか、小次郎が秘剣「つばめ返し」のワザで戦ったけれど、舟の櫂を両手に持った武蔵にやられたとか、いろんなことが有名になりすぎている。


 ところが、実際のところ武蔵は小次郎との戦いに勝ったものの、


 そもそも遅刻してない


とか


 起き上がった小次郎を隠れていた武蔵の弟子たちがフルボッコにして殺害した


とか、


 ところで、佐々木小次郎って誰?

 
とか、それはもういろんなツッコミどころがあるのだ。


 詳しいことは、それこそネットに山ほど情報が転がっているので、ぜひそうしたサイトを読みながら「へえ、ほお、ふうん」と驚いていただきたい。

 
 とにもかくにも、講談や吉川英治の小説で有名になってしまった「虚構の宮本武蔵像」が一人歩きしている中で、真実を探るのは面白いものである。


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 さて、福岡黒田藩の分限帳に戻る。


 なぜ、慶長分限帳が、宮本武蔵研究において「興味深い」「意義深い」存在なのかといえば、前回紹介したように

「新免無二」

なる人物が記載されているからである。


 そして宮本武蔵は「五輪書」の中で、自分のことを

「生まれた国は播磨」「新免武蔵守藤原玄信」

と書いている。

 つまり、新免無二は新免玄信の父であり、ついでに武蔵は藤原氏流だということである。


 しかし、話はここからさらにややこしくなり、「新免無二」は実父説、あるいは養父説、はたまた「新免無二とは宮本無二説」、など、枚挙にいとまがないくらい実態が不明なのである。


 となると、さらに、新免無二が黒田家に仕えていることをもって、「武蔵と父の無二が戦国期に官兵衛の下で戦っていたと」いう説もあれば、「いやいや、途絶えた新免家を継いだだけで無二と武蔵は出会ってもいない」説まで、楽しすぎる展開となっている。


 詳しい検証は、


 宮本武蔵 さんのサイト
 http://www.geocities.jp/themusasi1/


 を参考にしてほしい。


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 何はともあれ、とりあえず新免無二は黒田藩において「大塚氏」と顔くらいは見知った同僚(←推測)だったのだが、歴史は下って宮本武蔵と大塚氏のそこはかとない関係はいっそう香ばしくなってゆく。




 新免無二は、姫路から黒田家に従って九州へ移るのだが、武蔵はいったん姫路へ戻っているらしい。それから10代・20代と武蔵は決闘三昧であり、当初は播磨、のちに全国を廻って対決をしていた、ということになる。


 20代を決闘で過ごした武蔵は30代になると「卒業」し、弟子に教えるなどの「新しい生活」に入ったのだが、その中で30代半ばには姫路城主「本多氏」に仕えて播磨にて「宮本家」を創設したという。

 よって、この頃までは武蔵はあくまでも「新免さん」である。



 40代頃、養子の伊織が小笠原氏の家老職となり、小笠原氏が豊前小倉に転封になると、子供にくっついて再び九州入り、50代には肥後細川藩の客分として熊本入り、60代に熊本にて死去、という流れである。


 
 こうして概観すると、やはり武蔵も面白いように「九州と播磨」を行き来しながら生きていることがわかる。
 
 
 特に肥後において武蔵の流派は、2代「寺尾孫之允」、3代「柴任三左衛門」へと伝達されるのだが、柴任はのちに肥後細川藩をやめて福岡藩に移り、そこで「大塚氏」が柴任の弟子として武蔵の兵法を受け継いでいった、という話は前にもしたことがあると思う。

 
 詳しいことは<26>謎は熊本にあり、の記事を参照のこと。

 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_4.html



  というわけで、ここから先は新しい情報はないので、この節おわり!
 



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