2014年5月20日火曜日

<65>『北肥戦誌(九州治乱記)』を読む その1

 このブログは、九州大塚氏、特に「抱き茗荷大塚氏」の先祖を「赤松氏」である、という仮定に基づいて執筆しているのであるが、実際のところほんまにそうなのかどうかは、じぇんじぇんわかっていない

 ブログを書いている本人は、けっこう真面目に調査をしているのであるが、そこはホレ。できることなら面白おかしく読んでいただきたい、ということで世にも希な


 エンターテイメント系ご先祖探しブログ


を目指してまい進しているところである。


 というわけで、本来であれば真っ先にやっておくべきはずの「九州大塚氏の調査」を完全に後回しにしてきているわけで、


 いよいよ本腰を入れて(←オイ)


九州地方の資料を読むわけである。


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「北肥戦誌」別名「九州治乱記」は、戦国期の九州を学ぶものについては必読の書である。

 書いた人は佐賀藩士、馬渡俊継。書かれた年代は正徳年間だそうである。


 うーん、うちの先祖が子供のお墓を作っている頃に、佐賀藩士がこんな本をカキコしていたなんて!



 この「北肥戦誌」、刊本としてはいろんなバージョンがあるようだが、今回はもちろん近代デジタルライブラリ版を無料で読んでみたい!

 ちょっと長いこともあって、分割してお届けするのだが、頑張ってついてきてほしい。



 近代デジタルライブラリー より 「北肥戦誌・九州治乱記」エピソード ワン
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441745



 ☆読み落しがあるかもしれないけれど、ごめんね。


 
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<コマ28> 大塚三郎のひざ

 建武5年(1338)3月、菊池武重が筑後に攻めてきた時VSしたのが松浦党の軍団で、その家臣にいたのが「大塚三郎」だそうである。

 松浦党は肥前松浦地方で結成された「軍団(武士団)」で、源氏松浦氏を中心にその仲間たちで結成されているため血縁というより地縁で結びついた同盟軍である。

 
 この大塚三郎、右ヒザを射抜かれて重傷だったようだが、面白いことに、近代デジタルライブラリー版とその他の版でニュアンスが異なっている。


 近デジ(←略すな)版は、「一、赤木又次郎入道源栄 一、大塚三郎右ひざ口射疵」となっているが、

 
 松浦史 さんのサイト
 http://www.geocities.jp/tamatorijisi/matuurasi.html


で引用されている「九州治乱記」の版では

「一、赤木亦次郎入道源栄代大塚三郎 右ヒザ口射疵」

となっている。

 松浦史さんの方では、赤木亦次郎代わって大塚三郎と読めるため、この記載だと「松浦党大塚氏は、赤木氏ルーツ」ということになる。



<コマ55> 小弐氏子孫の大塚氏

 嘉禄元年(1225)に武藤資頼が宇佐八幡宮の太宰小弐に任官されはじまる武藤小弐氏は

「九州には肩を並べる者がなく、子孫は次第に繁栄し、朝日・窪・出雲・平井・馬場・山井・志賀・大塚・加茂・吉田と名字が分かれる」

と記載されている。さらに

「一門はそれぞれ肥筑地方に蔓延って大勢の者となった」

と続く。


 この大塚氏が、当家と関わりがあるかどうかはわからないが、実は同じ村の大塚氏と吉田氏がどとらも抱き茗荷紋を使っているので、気になるかもしれない。ならないかもしれない。



<コマ67> 大友氏と茗荷丸

 ホラ来た。この話は混乱するから困ってるんだよねえ。

 九州の名族「大友氏」は、言わずもがな有名なのだがこんな記載が。

「大友氏は3つに分かれていて、一つは、御紋衆。吉弘・一萬田・田原・清田・田北・立花・志賀・戸次、以上。大友の一門は藤原氏で、みな紋所は茗荷丸を用いる」


 これがやっかいなのである。大友氏も立花氏(柳川藩主)も、「みょうがまる」を用いてくれるのはいいんだが、実は「抱き杏葉」なんだから始末が悪い。

 この話は既出で書いたが、もちろん私も「大塚氏じつは抱き杏葉」説も頭の片隅には置いている。

 ★この本を書いた馬渡俊継が、正徳年間には「佐賀のお殿様は抱き茗荷やもんね」と思ってる可能性もあるし、違う可能性もある。



<コマ170>大塚七左衛門 討ち死に

 龍造寺家臣の「大塚七左衛門」が登場。佐賀勢、との記載。


「討ち死にした者、(略)大塚七左衛門


 龍造寺氏は、佐賀の国人で、はじめ千葉氏に仕えていたが、のちに小弐氏に仕えた。

 ところが小弐氏を下克上したり、のちに大友氏をぶっ飛ばしたりして、本来の家紋は「十二日足」だったのを「抱き杏葉」に変えたりしている。

 
 龍造寺氏はあの「赤いスイトピー」でおなじみ蒲池法子(松田聖子)な蒲池氏と仲がよく、筑後にもけっこう出入りしていたので、(蒲池氏は三潴地域が拠点)このあたりも怪しさプンプンである。

 もし我が家の「抱き茗荷」が「抱き杏葉あらため、抱き茗荷」だとすれば、赤松系の話は、一旦おじゃんにして、「小弐・龍造寺・蒲池系」を検討してもよいところである。



<コマ189> 地元の大塚氏

 佐賀、小城の近辺の郷司として次の名前があった。

「今河の持永(略)盛秀」から始まり、

「岡の大塚左京亮盛家

「西郷の空閑(略)・江頭(略)」など小城付近の武将が集まっている。


★持永盛秀は今川氏(九州探題)の子孫。佐賀小城の持永城城主。

 
★誤記の可能性あり。「その2」参照のこと。



<コマ190> 追加でいっとけ

 大塚氏追加。打ち死にした者として


大塚次郎兵衛(略)は安徳上野介直治の出勢の内(の者)である」とのこと。


安徳上野介の拠点は長崎島原の「安徳城」だそうだが、安徳氏は、はじめ有馬氏につき、のち龍造寺、その後再度有馬に付くなどしている。



<コマ203>大塚隠岐守が怪しい。

 「神代の家臣(略)大塚隠岐守

という記述があるのだが、このあたりざっくり説明すると、神代長良という肥前の戦国武将が、龍造寺隆信に攻められて死にそうになったときに、家臣に助けられて落ち延びる、というくだりである。

 神代氏は、久留米の高良玉垂神社の神官を務めた家柄で、もとは物部氏から分かれている。

 それが故あって小弐氏の家臣となり、龍造寺が小弐氏を下克上したときに龍造寺と戦うはめになっている。

 
 その後、大友家臣を経て、最終的には龍造寺に従うことになるのだが、はてさて大塚隠岐の子孫はどうなったのやら。


 で、何が怪しいのかと言えば!


 当家の氏神は「高良玉垂神社」であり、高良社の神仏習合寺は「天台宗」なので、そこから「茗荷紋」が来ているとすると、神代氏系大塚氏はあながちハズレでないかもしれないのである。


 うーん。難しい・・・。


 長いので、今日はここまで。
 


 ★記事一部修正しました。



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