2014年7月31日木曜日

<85>謎の大塚氏発見! 事件は豊前国へ!

 「木を見て森を見ず」という言葉があるように、物事の一部だけを取り上げていると、全体像を見失うことになりかねない。

 というわけで、基本的になんでもかんでも「網羅的に」研究を続ける大塚某の前に、


 また新たな情報が!!!!


 今回の話は、時間的にも、空間的にもより深く広がってしまうのだが、頑張ってついてきてほしい。


 見つかった資料というのは、まずは「空間」のほうから説明しよう。 場所は宇佐市、現在大分県に属する旧国名では豊前国宇佐である。

  宇佐といえば、宇佐八幡宮が超有名である。宇佐八幡は、なんと、全国の八幡神社の総本宮であり、宇佐八幡信託事件でも有名。


 そう、あの弓削道鏡が「天皇になるんがいいっちゃない?」という神のお告げが出た、という 奈良時代のクーデター未遂事件の舞台でもあるのだ。


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 その宇佐八幡の2番目に重要な歴史的社寺が「宇佐 大楽寺」である。


 そこに、こんな文書があるのだ。


”大楽寺雑掌申す、豊前国上毛郡節丸名已下散在の田地等の事、先度仰せらるるの処、猶遵行せずと云々、早く垂水宮内大夫・大塚孫次郎・新巻新兵衛入道・柳田兵庫入道・原孫太郎等の違乱を止め、注文の旨に任せ、不日これを沙汰し付け、寺家の請取を執り進めらるべきの状、仰せに依り執達件の如し、
 正平十八年(1363)五月二十三日 (坊門資世)右中将 (花押)
 大宰少弐(頼澄)殿”


 これは懐良親王が少弐頼澄に対して、「宇佐大楽寺領で好き勝手している奴らがいるから、ちゃんと取り締まれ」と命令している文書なのだが、その好き勝手しているやつら(大楽寺領で言うことを聞いていないやつら)の中に、大塚孫次郎なる人物がいるのである。




 だ、誰なんだお前は!!!




  さきほど「空間」の話を先にすると言った。つまり、それは肥前や筑後を離れて、ここは豊前だということである。現代語に直すと、佐賀県と福岡県の話ではなく、大分県に飛んだというわけだ。


 こんどは「時間」の話である。1363年というのは、足利義詮のころ。つまり、一休さんでおなじみの義満(金閣寺を建てたおっさん)の直前なのだ。


  このころ、朝廷は南北朝に分かれており、懐良親王は南朝方の征西将軍宮」として九州地方を管理していた。


 さあ、ここで問題になるのは「大塚孫太郎」が何者かということである。少弐頼澄が出てくるので、そこに引きずられそうになるが、まずは整理しておこう。


 「歴代鎮西志」によれば、大塚氏の祖は、少弐貞経の四男、貞衡ということになっている。貞経の長男が頼尚で、頼尚の子が頼澄なので、時代の流れで言えば、


 1363年には既に、少弐系大塚氏は存在する


ということになる。ところが、場所がずれている。少弐関係者がうろちょろしているのは、基本的には大宰府周辺からのちに佐賀にかけてなので、豊前宇佐というのがひっかかる。


 そりゃたしかに、豊前に少弐大塚氏がいてもおかしくはないのかもしれないが、一緒に徒党を組んでいる悪い仲間


 垂水宮内大夫・新巻新兵衛入道・柳田兵庫入道・原孫太郎


が、全員肥前筑後では聞きなれない苗字なので、こりゃ、また別の大塚氏なのではないか?と思うわけだ。


 この文書の出典である「宇佐宮 大楽寺」という本では、これらのギャングのことを


『豊前の北朝系の人で、大楽寺領を占有していたやつらではないか?』


と推測しているが、この辺りをもう少し突き詰めてみたい。


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 しかしである。天正前後の「戦国時代の様子」はなんとなく把握できてきたが、さすがに南北朝時代がどうなっていたか、はまだリサーチしていないので、


 さっぱりわからない


中での、調査なのだ。というわけで、この件はまた何かわかったら追跡報告したい。















<姓氏家系>なぜ”名家”は没落するのか?! 

 ご先祖さま探しをしていると、当家に関わらずよく、こんな話を聞きます。



「うちは昔名家だったらしいが、没落した」
「昔は土地をたくさんもっていたが、今は全部手放している」
「うちは庄屋だった。現在はただの庶民だが」



 こういう話を、一般的には「ああ、少しでも自分の家をよく思いたい、よく感じたい気持ちの名残なんだな」と解釈することが多く、家系図業者さんのサイトやブログ、苗字研究家さんの記述なども、そういう見立てをしている場合が見受けられます。


 なので、私を含めて「ご先祖様探し系」の活動をしている人は、「その家に伝わっている伝承や、言い伝え、昔話は脚色されていることが多いから、注意しようね」というスタンスで物事に当っておられると思います。


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 ところが、最近、いろいろ調査しているうちに、私個人は少し違う見立てをするようになりました。一般論として「家系は装飾しがちである」「伝承は、ちょっと良く見せたがるものである」ということまで否定するつもりはないのですが、


名家とは、没落するものである!


という公式のようなものを発見したわけです。


 私のところに情報を寄せてくださる大塚さんの中に、同じような話を寄せてくださる沢山おられます。

「うちは昔は名家だったらしく、土地もたくさんもっていたらしいが没落した」

とか、今日の記事の冒頭に書いたような伝承は、やたら溢れているのです。


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 実は、うちの母方の先祖について、大塚家同様に調査に入っているのですが、その家については、江戸中期に書かれた書物に

「○○家は、旧家であり、この地方の庄屋を代々務めていた」

という記録が残っています。

 さて、この記録。別に自画自賛でもなんでもなく、別の藩の藩士が現地調査をして書きとめていった記録なので、客観的にその時代にその家は、たしかに庄屋だったということになります。


 ところが、母方の実家は、現在では庶民も庶民、ド庶民です。名家の面影は、まったくありません。

 まさしく没落した名家そのものなのです。


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 なぜ、こういうことが起きるのか。なぜ、実際に名家は没落するのか。そこには、


激動のシステム ー リストラクチャー


が渦巻いていることがわかってきました。


 少し考えてみるとわかりますが、逆説的に言ってみると、


「没落していない、名家」


を例示することができるのか。という考え方を投げかけてみます。


 ”昔から庄屋の家柄で、今もたくさんの土地を持っていて、豪農として、地域一番の農協の得意先である、そんな氏族がいる”


という仮の命題を掲げてみたとき、「あれ?そんなヤツ、あんまりいないなあ」ということにすぐ気付くと思います。


 そうなんです。いないんです。そんな人。




 武士でもいいです。

 ”昔からの武家の名家で、今も子孫はみな警察と自衛隊に行っていて、地域一番の武家として崇敬を集めている家がある”


 ・・・こっちになると、さらに想像しやすいですね。そんなヤツいない、と。


 
 どういうことか。今度は、最後の例を挙げてみます。


”昔からの商家で、いまも続いていて、大企業として残っている家柄がある”


これは、あるんです。それもたくさん!



 三井とか三菱とか、住友とか。いわゆる豪商の名家から現代に続く企業はたくさんあります。


 これがどういうことかわかりますか?


 名家の農家は現代では没落している。

 名家の武家は現代では没落している。

 名家の商家は現代でも残っている。


 そう。つまり、これは



 産業構造の変化



を如実に説明してるわけです。



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 江戸時代における農家豪農・庄屋層というのは「米の生産」を貨幣価値に換算して資産を形成していました。

 おなじく、武家は、それらの米を「領主」として一定歩合でピンはねすることで、資産を形成していました。



 ところが、少なくとも明治維新によって、農家は直接的に貨幣を生産することが不可能になりました。


 武家の給料が「石高」で表されていたように、武家も「米という貨幣」によって、資産を維持していたのに、それが崩壊しました。


 ご存知の通り、明治維新以後は貨幣経済がメインになっています。また、これも歴史通なら自明のことですが、


 江戸時代中期から、実際には米=貨幣システムは破綻しはじめていた


ことがわかっています。だから札差などの商人が力を持つようになったのです。



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 さて、当初の問題に戻りましょう。



 武家としての「名家」とは領地をたくさん持ち、米のとれる石高が多い家柄を示しています。

 庄屋などの農家もそれに準じて、実際に土地を動かし実務上取れる米が多い家柄を示しました。


 ところが、米経済から貨幣経済に切り替わった瞬間、旧来の「名家」は


 大規模なリストラクチャー


を迫られることになったのです。土地をそのまま米の石高で運用できなくなり、明治期に「商人」としてスタイルを変化させられたものだけが、生き残れることになったわけです。


 つまり、それができなかった大半の名家は、そこで没落したのです。
 

 元地主で、今も名家であり続けられている家は、明治大正昭和の初期に「会社を起こして商人となった」者だけです。


 持っていた土地資産を、別の形に変えて運用できたものだけが、現代の名家になれたのです。



 それ以外の「元名家」がなにをやってしまったか。それが、名家没落の定番ルートです。


 そう、彼らは、持っていた土地を少しずつ小作人などに切り売りし、土地を現金化して、江戸期から昭和初期までを生活しました。



 だから、ほとんどすべての名家は没落したのです。



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 恐ろしいことに、かつて名家だった庄屋や武家は「土地や領地を持っていた」だけで、実務として資産を運用したり、生産したことはただの一度もありませんでした。


 つまり、貨幣経済にはまったく太刀打ちができなかったために、大半の名家は、ただ、資産を垂れ流しただけに終わってしまったようです。


 それゆえに、各家の伝承には


「どうやって土地を失っていったか」


という話がけっこうリアルに残っています。


 恐ろしいことです。





2014年7月30日水曜日

<84>殖産興業・富国強兵時代の九州大塚氏を読む お、お金持ち?!

 以前からやりたかったのだが、なかなか着手できなかったあるネタを今回はお届けする。



 ご存知の通り、九州一帯の「大塚氏」については、非常に一般的なデータが少ない。もちろん、どの大塚氏族であっても、分布はかなりあるのに、その出自を示す情報が少ないのだ。

 それはひとえに、戦国期・江戸期を通じて、この地方の大塚氏について


 戦国武将とか、各藩の重鎮とか、とにかく大物と呼ばれた大塚さんが少ない


ことにも起因する。


 というわけで、江戸時代の大半の九州地方大塚氏は、「農民として影をひそめていた」ことが伺える。あるいは、各藩の藩士であっても、「ふつうのリーマン」レベルであったということになるわけだ。

 ぶっちゃけ、家老とか、ほにゃらら役とか、そういう上級武士の大塚氏も、ほとんどいない。(福岡藩千石取りの大塚氏ぐらいだ)



 ところが、そうした江戸期の状況から、明治大正になると、



 にょきにょき



と大塚氏が姿を現すようになる。以前にも、三池地方のお医者さんだった大塚氏を紹介したことがあるが、


 <52>名家「大塚家」は真実か?! ~福岡をめぐる新資料~
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/04/blog-post_19.html



どの氏族においても、明治期以降の「どや!うちはこんなにすごいんや!」熱は、いっそう高まるようである。



 というわけで、ツカミはこれくらいにして本題へ。今日読むのは以下の資料である。



 近代デジタルライブラリより 

 福岡県壱万円以上実業家資産名鑑と大日本富豪家蓄財の経歴. 大正11年8月現在
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/908913



 のっけからすっごいタイトル!


 この明治~大正あたりの「新生明治政府ジャパン!のイケイケどんどん!」なオーラが毎回やみつきになるのだが、まあ、微笑みながら読み進もう。


 昔、教科書に「成金がお金を燃やしながら”どうだ?明るくなっただろう”の図」が載っていたのを思い出す。




 では。(一部略して書いています。特に住所は省略)

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◇ 七万円  福岡市 洋品・メリヤス 大塚次太郎

◇ 二万円  福岡市 米穀 大塚昇

◇ 五万円  久留米市 大塚弥一

◇ 二万円  小倉市 樽製造 大塚円次郎

◇ 一万円  浮羽郡 荒物呉服 大塚三四郎



 以上が大正11年の「お金持ち」大塚氏の分布である。それぞれ商っているものも違うのだけれども、なんとなくこれまで調査してきたように「福岡藩」「久留米藩」などを中心に大塚氏の子孫が頑張っている様子が伺える。


 残念ながら三潴地方には「お金持ちの大塚氏」はいなかった(--;;;;




ついでに気になる人、いろいろ


◇ 五万円 福岡市 小間物 新免久次郎


 出たー!福岡市の新免さん。これはやっぱり宮本武蔵の子孫ということでいいとも!



◇ 二十万円 三井郡 金貸 神代村次郎


 桁がひとつ違うのは金貸しの「神代」氏。我らが神代勝利・長良の子孫かもしれない。龍造寺には負けたが、時代の荒波は乗り越えるぜ!



◇ 十万円 三潴郡 酒造 蒲池龍雄

◇ 三万円 三潴郡 酒造 蒲池号
 

 あの蒲池氏の子孫は、お酒をつくってるようだ。三潴は酒どころでも一時有名だったのですぞ。



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 というわけで、明治維新を経て、いろんな氏族が「新しい貨幣経済」の荒波の中へ放り込まれていく様子が見えてくる。


 これらの方々が今も、イケイケどんどんかどうかは、・・・・。推して知るべし(^^;;;

2014年7月28日月曜日

<話題>うちの息子は「弟」なんです。 ~不妊治療をめぐる議論~

 こんにちは

 江戸期から戦国までなんでも収集癖のある当ブログですが、こと「家」と「家族」「家系」については、いろいろと考えてしまう大塚某です。

 今朝はyahoo!!ニュースがらみでもこんな話題が



 『義父の精子で誕生118人、体外受精で79組が出産』(ニュース)
 http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann?a=20140728-00000019-ann-soci



 元ネタはテレビ朝日さんのようですが、概略はこう。



①不妊治療をしているカップルのうち、男性側に問題がある場合も多々ある。

②その場合、体外受精をして子を授かることもできるのだが、一般的には「父親は誰か不明」

③そうじゃなくて合意の上で「夫の父親の遺伝子」を使って体外受精をする実例が明らかに。



 事実関係は、ここまでです。


 さて、ここからが議論の対象ですね。


<議論1>

 まったく見ず知らずの「実の父親の遺伝子」を提供されるより、家族として血縁が繋がっていたほうがいいのではないか?いや、どうなんだろうね。という議論。


<議論2>

 お父さんの遺伝子を受け継ぐということは、結果的に「実の子供は腹違いの弟」になってしまう。それが家族関係を形成する上でいいのか?いや、どうなんだろう。という議論。



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 実際問題、当事者が悩みに悩みぬいたすえ出す結論ですから、その状況になっていない「私」や「あなた」がとやかく言うことはできません。

 まったくの他人の遺伝子が用いられることにも、何らかの不安や不満があるでしょうし、家族関係がややこしくなるということももちろん正論です。

 
 というわけで、ここからは歴史に学んでみることにします。

 


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<実例その1> うちの息子は”おじさん”なんです。 ~崇徳天皇の場合~

 第76代天皇となった「崇徳天皇」。そのおとうさんである「鳥羽天皇」に着目してみましょう。


 鳥羽天皇からみて、おじいさんが「白河天皇」、おとうさんが「堀河天皇」です。で、息子が「崇徳天皇」。


 ウィキペディアより 崇徳天皇
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B4%87%E5%BE%B3%E5%A4%A9%E7%9A%87



 ところが、この鳥羽天皇は、息子のことを毛嫌いします。言うにことかいて「叔父子」と呼んで嫌っていたというから驚き。

 というのも、どうやら、鳥羽天皇からみておじいさんの白河天皇が、まごの嫁に手をつけて出来たのが「崇徳天皇」らしい、ということで、

 ヤフーニュースどこの騒ぎではありません。もうひとつ世代飛び越えてます。


 崇徳天皇、のちの崇徳上皇は、天皇時代・上皇時代とも不遇の生活を強いられ、最終的には保元の乱により流罪、そして


 日本最強の怨霊


として、末代までわが国を祟ることになるのです。たたりじゃ~!!!


 あの明治天皇も、昭和天皇も、崇徳院の霊を慰めるために、儀礼を執り行っています。


 ちなみに、日本三大怨霊といえば。

 「菅原道真」「平将門」「崇徳上皇」の三人です。

 道真は、いち官僚。将門は、関東一円を治めて「新皇」止まり、崇徳院はなんといっても「天皇」ですから、最強と呼ばれるのも頷けます。


 まあ、歴史上そんな事件があった、ということで。




 

<実例その2> 戦国期の体外受精 ~豊臣秀吉の場合~


 
 体外受精といえば、この人のことを忘れてはいけません。今をときめく黒田官兵衛ちゃんの上司にして


 竹中筑前守直人


こと、豊臣秀吉です。


 秀吉にはやたら養子がいて、どうも実子が少なかった?あるいはいなかったのではないか?という説がたくさんあるほど、秀吉本人は


「男性不妊で悩んでいた」


ようです。


いちおう、実子は、「秀勝」「女子」「鶴松」「秀頼」の4人いたことになっているようですが、秀勝にいたっては「そもそも存在しない説」があり、鶴松は2歳で死去(数え三歳までに死去)、秀頼だけはご存知の通り大阪城にて自害することになるわけです。


 まあ、詳しいことは、いろんな方がブログで書いておられますのでご紹介しておきます。


 元ネタはあの山川出版社から2012年に服部英雄さんという学者さんが出された説ですが、簡単にいえば




「淀君は、祈祷師ASUKA(仮名)を呼んで、秀吉がいない間にあんなことやこんなことをしたらしい」


説です。SAY YES! これを戦国期の不妊治療と申します。



武将ジャパンさんのサイトより
http://bushoojapan.com/scandal/2013/10/08/7199



歴史ニュースウォーカーさんのブログより
http://d.hatena.ne.jp/emiyosiki/20121231/1356925654



さわらびTさんのブログより
http://blog.livedoor.jp/sawarabiblog/archives/52086623.html




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 このように歴史から学ぶと、実子ができないのに、それを作ろうとする行為は、どうやっても



禍根を残す



ことになりそうですね。


 これまた歴史から学びたいところですが、血縁無関係の「養子」制度の拡充のほうが、よっぽど健康的な感じもします。

 実際、おそらく日本中のすべての家系で「無血縁の養子」が取られていることは疑いがありません。

 すべての家でDNAが途切れていることをもってすれば、通常「養子」にも意味があるような気が。










2014年7月27日日曜日

<話題>今日の軍師官兵衛ちゃん さよなら光秀!

 毎度おなじみ日曜日の名物コーナー「今日の軍師官兵衛ちゃん」がやってまいりました。

 どうやら「俺んちコード 大塚家編本編」よりも、たまに莫大なアクセス数を稼ぎ出している日があるので、グーグルさんの何かに引っかかっているのでしょう(苦笑)



  さて、今日はいろいろ詰め込まれていたので、それぞれのエピソードはあっさりでした。



 さあーて今週の官兵衛さんは?!



① 官兵衛たち一気に「中国大返し」。

② 摂津衆、サルの味方に。

③ 明智、たった11日で死去。


の三本です。 これであらかたのあらすじがわかってしまうというwww


 個人的には、来週の予告に「村重ちらりと写る」のほうが、ドキワクです。

 だって、村重好きなんだもの(笑) 最終的に秀吉に「茶人」として認められてしまうという恐ろしいばかりの


「生きろ」


を具現化した男、村重。アシタカもびっくりです。


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 さて、今日のイチオシは、織田信孝!(信長の三男)


 ドラマにも出てきますが、いちおう「信長弔い合戦の総大将」という位置づけで秀吉軍に参加するこの男、最終的には


26歳にて切腹


させられることになります。


 一体全体なにがあったかは、

 ウィキペディア 織田信孝を参照のこと。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E5%AD%9D


 そして、最もすごいのは、信孝が切腹した後に、首を弔ったのが


 大塚俄左衛門(佐藤蛾次郎ではない)


 と

 太田牛一


だというからすごい!
 

 大塚俄左衛門って誰なんだ?!どこのどいつだ!また調査対象が増えたじゃないか!


 ちなみに太田牛一は「信長公記」と「大かうさまくんきのうち」の作者。超有名人である。


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 さて、もう残念ながら会えない元金髪○野郎こと明智光秀について、振り返っておきましょう。

  今回まで小朝師匠を敬愛するがゆえに封印していたこの金髪○野郎という名称。


 実は深い因縁があるということを知っていますか?



 織田信長が秀吉を呼ぶときは「サル」だったことは有名ですが、光秀を呼ぶとき


 「このキンカ頭!」


 だったそうです。


 これには諸説あって、光秀の二つの文字の上と下を組み合わせると「禿」になることから、


「ハゲ」


と呼んだ信長のギャグだとか、そうでないとか。



 ところがどっこい、面白いのはそこじゃない!


 キンカ頭とは漢字で書くと


「金柑頭」


 のことで、金柑がつるっときらりと光る様子から来ているそうです。


 しかし、みなさんにはもうお分かりですね。


 金柑頭・・・・

 金柑・・・

 金・・・


 金髪○野郎!!!!


  大河ドラマのプロデューサーがここまで考えて配役したとすれば、まさに軍師官兵衛にふさわしい策士ぶり!!!!!

  真実はわかりませんが、何はともあれ、小朝師匠お疲れ様でした。何度も言いますが


 三匹が斬る!大好きでした!


 そして、今日9時から、桃太郎侍こと高橋秀樹様が、「必殺!」に登場!!!

 NHKのあとは、 テレビ朝日をつけるのじゃーーーー!!!



 余談:山手樹一郎の大ファンだった亡父に南無南無。





2014年7月24日木曜日

<83>捜査範囲を拡大するぞ!の段

 基本的には、当家の三潴「大塚氏」のルーツ探しは一定の成果を挙げてお開き、と行きたいところなのだが、気になることがあればどんどん追求してしまう癖があるので、まだまだ調査は終わっていない。


 当ブログを通じてお友達になれた九州戦国期の専門家、栞さんから面白いことを聞いたので、それがずっと引っかかっているのである。

 面白いこと、というのはこういうことだ。


 ①当家の元主君と思われる「龍造寺氏」やその「腰ぎんちゃ・・・ブルブル、忠実な部下の鍋島氏」の本拠地は当然肥前佐賀。

 ②当家のある位置は旧筑後国三潴郡、概ね戦国期のこの地の支配者は大友氏。

 ③三潴の最南端「柳河」地域は、蒲池氏の支配下。蒲池は歴史的に、龍造寺と協力関係にあった時期が多い。でも、最終的に決裂。



 この前提で話をすると、当家の先祖が『龍造寺家臣』だったのであれば、どちらかというと敵の懐に近いようなところに、飛び込んでいって、そこで土着・帰農したことになる。


  それを現代の言葉に訳せば、


 なんで、佐賀県の連中が福岡県に定着したの?理由は?


ということになるわけである。



 そこで栞さんが指摘してくださったのは、「大友氏の支配地域(筑後)に、龍造寺氏が領地を貰った場所があるよ」という点であった。


 こうなると面白い。


 何か、龍造寺家臣が筑後に定着する素地があったことになるからだ。


 
 九州戦国ブログ さんより 大友氏の龍造寺氏への領地あげるよ手紙
 http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori/10771438.html?type=folderlist などなど



 ところが、その地域というのが、筑後国生葉郡大石村(現福岡県うきは市)あたりだと言う。 

 微妙~にずれてる、というか。微妙~に三潴じゃないというか!


 というわけで、もやもやしながら捜査範囲を拡大している最中に、また面白い発見があった。


 まずは龍造寺隆信の挙動について。


 佐賀市のサイトより
 http://www.city.saga.lg.jp/contents.jsp?id=2611


 一時期、隆信が佐賀を追われて筑後に避難していた話は有名だが、その場所が「大川市一木村」だという。


 ついでに


 城郭放浪記 さんのサイトより
 http://www.hb.pei.jp/shiro/chikugo/sakemi-jyo/


  にもあるが、大川市酒見には、龍造寺方の拠点「酒見城」があったという。



 守っていたのは、鍋島直茂(我々には信生のほうがなじみがある。そうあの信リンだ。)、のちの佐賀藩祖である。



 この地域が天正15年ごろまでは龍造寺の支配下にあったとすれば、



 実に面白い



ことになる。



 城郭放浪記さんの地図を見るとわかりやすいが、佐賀側から見て、柳川近辺までの位置関係が一目瞭然である。


 どういうことか。


 もちろん、三潴地域全体については蒲池氏を始めとして、西牟田氏など筑後メンバーの支配地域が広がるのだが、少なくとも


 筑後川を佐賀から越えて筑後に入ってすぐの地域


までは、龍造寺のエリアということになるわけだ。



 ここに三潴全体を見ていてはわかりにくいポイントがありそうだ。



  のちに、慶長5年(1600年)の江上・八院合戦という


 鍋島による柳川立花氏殲滅作戦


の舞台になるのも、やっぱりこの地域である。


 そして、ついでに言っとくが、鍋島が柳川城を攻めるはめになったのは、今をときめく


 黒田官兵衛ちゃん


の指示だというから恐ろしい。 官兵衛ちゃんの怖いところは、


鍋島が、立花をちゃんとやつけようとするか、すぐそばでじっと見ていた



という性的な意味じゃなくて「やらしい」目線。


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  話が飛んでいったので、引き戻すが、とにかく


大川市をマークせよ


ということだけは確かである。




 



<調査中>福岡市西区の大塚さん

 当ブログには全国の大塚さんから、いろんな情報が寄せられるのですが、しばらく前に福岡市西区にゆかりのある大塚さんから情報を頂きました。


 当然、当家も「福岡県の大塚さん」の一員ではあるのですが、実は、九州地方の大塚氏にはナゾが多いので、じっくり取り組みたいところです。


 福岡市の場合は、今をときめく「黒田官兵衛ちゃん」のお膝元、福岡藩管轄になりますから、藩士についてもチェックする必要があります。


 当方の調査でわかっていることは、以下の通りです。





① 福岡藩の藩士として「大塚氏」は数氏存在する。


② 分限帳からは「本姓が平氏」「本姓が源氏」の2氏が判別できる。


③ 福岡藩士として家紋が判明しているものは◇が十字に5つ並んでいるもの(家紋名不詳)


④ 恐らく、黒田氏が播磨から連れてきた大塚氏がいる。


⑤ 後藤又兵衛のお兄さんの子孫である大塚氏が福岡市に定着したかどうかは不明。


⑥ その他、黒田氏入城以前からの地元の「大塚氏」がいるかどうか調査中。




 果たして、福岡市西区の大塚さんが、どのパターンなのかは、まだまだわかっていません。


 現段階でのざっくりとした仮説は、こんな感じのことが想像できます。



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<仮説いろいろ>

■ 黒田氏が姫路から連れてきた大塚氏というのは、可能性として2氏考えられる。ひとつは、後藤又兵衛の兄「大塚将監」の系統。もうひとつは、赤松本流から別れ出た「村上源氏赤松氏流」の大塚氏。


■ 源姓大塚氏は、なんとなくわかる。しかし、後藤系だとしたら「本姓 藤原氏」を名乗りそうなものだ。さらに平姓大塚氏がまったく不明。


■ 千石取りの◇が五つ並んだ家紋の大塚氏は、黒田藩初期からいる。これがもし姫路系の大塚氏だとすれば、何者かかなり知りたい。しかし、家紋のデザインから考えると◇が十字に5つ並んでいるということは、□が並んでいるデザインを「傾けた」と見ることもできる。これならば「寄り掛け目結もしくは釘抜」の変種なので少弐系の可能性があり、地元の大塚氏だということになる。


■ 筑前地方の大塚氏は、実は未調査なのでこれから攻めていこうと思っている。


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 というわけで、福岡県(旧筑前国エリア)の大塚さん!家紋を教えてください!



 

2014年7月22日火曜日

<祝!>1万アクセス達成しました!全国の大塚さんのおかげです。

 毎度おなじみ大塚某でございます。

 昨年12月後半からスタートした当ブログですが、約半年+1ヶ月を経て、昨日



 10000アクセス



を達成しました!


 m(_ _)m 感謝!



 これもひとえに、当ブログを愛読してくださる、全国の大塚さん+ゲストのみなさんのおかげです。


インターネット全盛のこの時代、たった1万アクセスぽっちがなんぼのもんやねん、とお思いの方も多いと思いますが、


全国に大塚さんは約20万人いる


とされておりますので、その観点で話しております。



 全国の大塚さんに一度は覗いてほしい、そんなブログ。アクセス20万件をめざしてまっしぐらです。



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 というわけで、全国の「大塚マニア」なあなたのための当ブログ、アクセスランキングを発表しましょう!(2014・7・22現在)



【アクセス 第一位】

918ポイント!もうちょっとで1000!

<8>完全網羅 大塚姓・大塚氏・大塚さんのすべて! 全大塚氏族超まとめスペシャル
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html


 やっぱり第一位はこれ!

 判明している限りの全大塚氏族を、ルーツや家紋などから総まとめした一覧です。

 これまで見つかっているのは45氏族。まだまだ漏れている「あなたの大塚家」があるはずですが、ルーツ探しはやっぱりここからスタートしてくださいね。


 新しい「大塚氏」が判明するたびに、リストは増えてゆきますので、お楽しみに!





【アクセス 第二位】

303ポイント

<おまけ>都道府県別 「大塚」さんのルーツ一覧表<常に最新>
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_3758.html


 北海道から沖縄まで、県別に「どの大塚氏族かな?」というアタリをつけた判別表です。これも判明分のみ掲載しているので、今後どんどん更新される可能性があります。

 基本的には、第一位の「全大塚氏族総まとめスペシャル」と連動企画ですので、どちらも合わせてご覧ください。





【アクセス 第三位】


292ポイント おしい!

<基礎資料>全国諸藩分限帳総覧 <常に追加更新中>
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html

 
 残念ながら僅差で2位を逃しましたが、これも人気絶大です。

 なんと、日本中の刊行されている「分限帳・侍帳・着到」などの出版元・年・タイトルなどを総まとめした「分限帳の一覧リスト」です。

 これも、ありそうで他にはない資料ですので、みなさんのお役に立てていることとと思います。


 先祖が「侍」かもしれないあなた!ぜひ一度チェックしてみてね!




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 実はこれらのランキング、ダイレクトに上記のブログ記事を読まれた数の集計ですので、その前後の記事から流れで読まれた分はカウントされていません。

 
 さらにさらに!これらの記事だけでなく「なぜか」一部の記事だけマニアックに読まれていたり、いろんなことが起きている当ブログです。


 このあたりは、また別の機会にお知らせしますので、よろしくね。





2014年7月20日日曜日

<話題>今日の軍師官兵衛ちゃん 恵瓊どの、お主も悪よのう。

 さて、毎週楽しみにしている「軍師官兵衛ちゃん」でございます。

 いつものように一足お先に「BSバージョン」を見てからのブログ更新。

 今日前半のみどころはなんと言っても


「恵瓊殿、おぬしも悪よのう」


的な、官兵衛と恵瓊の「腹黒密談」でしょうか(笑)

 まあ、あんな会話があったかどうかは別にして、毛利との和睦をちゃっちゃと済ませて


中国大返し


のスタートです。


 ちなみに、天正10年6月2日に本能寺の変が起こり、6月3日夜から6月4日明け方のうちには備中の秀吉が「事件が起こったことを知っていた」そうですから、


 秒速で情報を知る男


ということになります。twitterよりは遅いものの、あるいは新聞より速いかも?!


3日夜に恵瓊と官兵衛の対談、3日深夜から4日早朝に毛利方との会談、6月4日午前中に清水宗治切腹の段取りだったというのだから、


すべてが超ハイスピードで


進んでいます。

 秀吉の備中撤退は、6月4日もしくは6日説、姫路城到着は6日もしくは8日説とのことですから、


 超高速!参勤交代


もびっくりの最速大移動ということになります。


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 それにしても、今回の官兵衛ちゃんの発言で目立ったのは


トップシークレットを誰にでもバラしているその口の軽さ


でありました。 まあ、ドラマですからな。

 しかし、逆に言えば、敵であるはずの恵瓊どのにバラした件は横に置いといても、あれだけ最速で事を進めるためには、「ナイショ」にしていてはおそらく無理です。





 秀吉軍上層部の間にあっては、早急に状況を把握して、「意思統一」がなされなくてはならなかったはず。


 それをあまりに迅速にやってのけたところが「秀吉が本能寺の変にいっちょ噛んでたんじゃないの?」説に繋がるのかもしれません。


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 ちなみに、今回一番の影の立役者「安国寺恵瓊」は、なかなか謎の人物です。


 ウィキペディアより 安国寺恵瓊
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9B%BD%E5%AF%BA%E6%81%B5%E7%93%8A


 毛利家臣から秀吉家臣、朝鮮出兵まで行っているこの男、僧でありながら戦国大名としての裏の姿もあったとかなかったとか。




2014年7月17日木曜日

<話題>最高裁判決は、”戦国時代”で読み解け! DNA父子訴訟の真の意味

 今日は、ちょっと用事で仕事を朝から休んでいたのですが、テレビ番組では


「親子関係の訴訟」



について何度も特集していました。


 どういう話か、簡単にまとめておくと、日本各地で


「本当の生物的な父と、法律上の父が異なっている子供がたくさんいて、それらをどう”法的に位置づけるか”を問う裁判がたくさん起こっていた」


というのが第一段階です。


 ところが、日本各地の裁判所で、これらについてそれぞれ独立した解釈がなされていることに対し


「最高裁判所が、統一見解を出した」


というのが今日の判断。


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 yahoo!ニュースより  <DNA鑑定>法律上の父子関係取り消せず 最高裁が初判断
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140717-00000049-mai-soci



 結論から言えば


 DNA鑑定によって、生物学的父子でないと判断した場合でも、それを法律上の父子より優先させることはしない


ということになります。


 原則、民法772条の「妻が結婚中に妊娠した子は夫の子と推定する」(嫡出推定)規定を優先することになる、というのが今回の


 表面的な話


ですが、よくよく調べてみると、意外なことがわかってきます。


 たとえば、別の判例


「性転換手術をして、女性から男性になったお父さんの子について、DNA的には、絶対にありえなくても『嫡出推定を適用する』ということを最高裁はやってのけている」


ことを知ると、ナゾが解けてきます。


 これも簡単に言いましょう。元女性の男がいて、その奥さんがいて、どちらも生物的には女性なのに、奥さん側が人工授精で子供をもうけたら


「元女性の夫を父と認める」


としたのです。すごいでしょ?!



 表面だけを見ると、この判例は「元女性でも今男なんだったら、それを尊重する」という風に見えます。

 だから画期的な判決!ともてはやされたわけです。


 ところが、今回は「DNA上明らかに正しい父親でも、最高裁は認めない」という、表面的には時代錯誤な判決に見えるのです。


 だから、明治時代の民法そのままだなんて、旧態依然とした判決!だとコケ下ろされるわけです。



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 ところが、戦国時代から「家系」を見ている大塚某としては、最高裁判所が何を考えているか、はっきりわかります。


 最高裁判所がイメージしている「家」は、戦国史で解き明かさなくては理解できません。



 いったい全体どういうことか?!



 じっくり説明しましょう。




 当ブログでは、戦国時代からの「家のあり方」「苗字の由来」について研究しています。戦国・江戸期・明治期を通じて、「家」というものが連綿と続いている事実、これをきちんと理解しないと、


 最高裁判所のキ・モ・チ


は全く理解できないと思います。



 私たちがしがちな最大の誤解は


「家というのは家族のことで、それはお父さんとお母さんとこどもから成り立っている核家族のことだ」
 

というイメージです。残念ながら結果からいえば、それは間違っています。


 戦国時代の「家」というのは、

「主君を中心としたグループ・チーム・集団」

を指します。


 戦国武将の「大塚某」という人物がいたとして、そのいわゆる家族親族も「大塚氏」ですが、その家臣団も「大塚氏」だったりします。

 極端なことを言えば、その領民も「大塚氏」でかまわないわけです。


 そこにDNA的な血縁が入っていることもあれば、入っていないこともあります。初期にはなるべく婚姻関係を結ぶことでDNAを関連付けたいというベクトルが働きましたが、集団が大きくなったり歴史が下ってくると、「養子で継ぐ」とか「家督だけ継承」とか、いろんな形でDNAは形骸化します。



 でも「家」は続いていくのです。それも現代まで!



 そして、当時の「家」というチームは、それが即、職業集団を指し示していました。


 江戸時代の例のほうが分かり易いですが、「大塚家は家老の家柄だ」ということなら、


「大塚家の子孫は代々家老を継ぎ、長男以外も、なんらかの役職を求めてその藩にできるだけ臣従する」


わけですから、家柄すなわち職業でもあったわけです。




 これに一番近いのは


「うちの親族はみな国鉄系」


とか


「うちの家系はみんなトヨタ」


とか、そういう言い方・文脈ですね。”家”は”トヨタ”に似ています。



 うちはトヨタ系の家系だといえば、親戚のうちけっこうな人数がトヨタ社に所属していて、トヨタ軍の家臣であるというわけですね。




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 戦国時代の「家」は、そういう一族集団=「チーム」を指し示していましたので、江戸期に入っても、明治期に入ってもそのイメージは維持されてきました。


「家長制度」「家父長制度」はその端的な例です。

 「一族の長であるおっさんがいて、そこにいろんな家臣(家族)が所属している」という形で、当時の戸籍は編集されています。



 今回の最高裁判例を、その考え方で紐解いてみると、よくわかります。



① 「家族というのは、集団・チームをあらわす”箱”である」


② 「父という役割は、法的には”父という職域・職名”だと想定できる」


③ 「なので、その父がDNA上の父であろうとなかろうとどうでもいい。職域上の父子関係は尊重される」



というルールなのですね。


 だ・か・ら、父(夫)は職名にすぎないので、DNA上は女性であっても、その役職につけると考えたのです。



 言い方を変えてみましょう。


① 「ここに大塚藩という藩がある。大塚藩という箱なのだ」

② 「ここに藩主という職名がある。家老という職名もある」

③ 「なので、その藩主が大塚家の生まれであってもなくても、他の家から入れた養子であっても、どうでもいい。職域上の藩主・家臣関係は尊重される」


ということです。


 江戸時代には、藩主の跡継ぎがない場合は、「お家断絶」でした。なので、その場合はなんでもいいからどこかから子供を拾ってきて跡継ぎにすればOKだったのです。



 だから日本の法制度においては



 「DNA上の実父よりも、法制度上の”父”が優先される」



と考えたのです。



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 それを言うのならば、もっとすごいことがあります。

 みなさんが「家」だと思っている箱の名称についてです。



 私は「大塚家」という箱の名前を持っていますが、そのラベルが正式についたのは


明治3年(1870)の平民苗字許可令、明治8年(1875)の平民苗字必称義務令


によります。


 この時代に大塚姓を名乗った人物からすると、私は、1/16のDNAしか受け継いでいません。

 人によっては、1/32のDNAで現在の苗字を名乗っていることになるわけです。



 これを%で言い直します。


1/16=6.25%

1/32=3.125%



いいですか?


私の93.75%は大塚の血が入っていないのに「大塚というラベルをつけている」


あなたの96.875%は田中か鈴木か佐藤かの血が入っていないのに「田中・鈴木・佐藤のラベルをつけている」


ということになるのです。



 だから最高裁判所は、DNAに固執しないのです。


 そもそも家制度は「箱」「ラベル」なのだから、DNAを一部分だけ取り出してどうこう言っても仕方がないわけです。








2014年7月16日水曜日

<82>五ヶ国御領地之節配分帳・異本五箇国配分帳・竜公御幕下并御祈願寺附を読む

 いやはや、最後のあがきであることはわかっているのだが、一応念のため、誰がなんと言おうと調べておかなくてはならなかったのがこの資料、そうである。


 五ヶ国御領地之節配分帳

 異本五箇国配分帳

 竜公御幕下并御祈願寺附


という簡単に言えば「龍造寺隆信の家臣一覧」である。



 これらの資料、名前が違うのは「写本」がいくつかあって、内容の異同も多いので、いちおうタイトルが分けられているのだが、要するに「くまモンの部下リスト」であることには変わりない。





 なぜ山を登るのか?

 そこに山があるからさ。


 なぜ資料を読むのか?

 そこに資料があるからさ!!!!





というわけで、なんでこんなもんを読むのかといえば「隠岐や古賀伊豆」を探したいからである。


 もっとも、結論から言うのだが、はい!見つかりませんでした!!!




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 上記資料には、「隠岐」は「牧口隠岐守」、伊豆は「岩松伊豆守」しか登場せず、大塚も古賀も名前がない。

 その理由として考えられることはいくつかある。


 ①上記家臣リストは天正8年頃からそれ以前のものと考えられているが、もし隠岐や古賀伊豆が天正4~5年頃に引退していれば、載っていなくて当然という説。


 ②上記家臣リストには神代長良が載っているが、長良の部下までは細かく載っていないだろう、という説。


などなど。


 そういう意味では、ほんの少しだけ時期がずれていて残念でもあるし、仮説がファンタジーのまま残りそうなところがロマンというか永遠の謎というか、まあ感傷的にもならざるを得ないわけで。

  載ってたら載ってたで小躍りしただろうし、載ってなかったからといって、「まあそうだろうな」みたいな。


 ようするに、


 悔しいです!!!


 さみしいです!!!



 というわけで、また別の資料探しの旅が続きそうです。誰か


天正4年頃の龍造寺隆信の家臣リストください。(ない、っちゅーねん)



<姓氏家系>自分のルーツ(先祖)の探し方 3ステップ

 今回は、メモ書きみたいなものです。いずれきちんとまとめると思います。

 ご先祖様探しやルーツ調べには、誰にでも共通したステップと、個別に事情が異なる調査が混在するのですが、おおむね


「このやり方、この公式である程度のところまでは行ける」


という3ステップをまとめておきます。




※)注

 ここでいう「ご先祖様探し・ルーツ調べ」は「自分の苗字の由来を探す」という点を主眼に置いています。
 自分から漏れなく直系親族を全て辿る、などの場合は他の手立ても必要。




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【ステップ1】 本拠地探し

 ◇ 1-1 戸籍から辿る「本拠地探し」

  自分の直系尊属の戸籍を取得することで、一族の拠点となる土地を探します。



 ◇ 1-2 地縁血縁解析による「本拠地確定」

  自分の先祖の出身地(本籍地の一番古いもの)から、一族の中心となるムラ名を探します。




【ステップ2】 誌史調査

 ◇ 2-1 近代・現代 町誌(町史)レベル

  本拠地がわかれば、明治以降近現代の「町誌(町史)」の記事を読みます。


 ◇ 2-2 近代・現代 市誌(市史)・郡誌(郡史)レベル

  同様に、おなじ地域について「市誌(市史)」「郡誌(郡史)」の記事を読みます。



 ◇ 2-3 近世 藩・郡誌史レベル調査

  おなじことですが、それぞれの出典となる「近世(江戸時代)レベル」の藩・郡に関わる資料がありますのでそれを調査します。

  名称は、各土地によって全く異なりますが、「寺・神社・史跡」等についてそれぞれリストアップされているもので、「各村の様子」について書かれているものもあります。

  まずは、この資料の名前を見つけることが解明のポイントになります。



【ステップ3】 それ以上

 ◇ 3 その他の資料探し・文献探し

  ステップ2程度まで進むと、概ね「出典はほにゃららという書物で、どこそこに書いてある」という但し書きがつくようになってきます。

 それらの資料をひとつずつ当ることが最終段階です。ここから先は、個別の事情がより深くなりますので、一般論で説明するのが厳しくなります。





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 どの家にも共通の話をするならば、まず目指すのは”ステップ2-3”の資料名を探す、ということになります。


 それぞれの家の住所がわかれば、本拠地までは辿りつきやすいし、その県・郡・市町村の誌史を探すのはそれほど苦労はないと思うのですが、問題はそこからです。


 近世(つまり江戸時代)の資料でそれらの出典を探すという辺りが、全くの初心者さんではちょっと苦労しそうですね。

 少なくとも文学部とか人文科学部系卒業の人間であれば「出来なきゃマズイ」のですが、そうでない人たちもたくさんいらっしゃると思うので、ここはサポートがほしいところです。


 もし質問等いただければ、手助けは可能だと思います。


 ステップ3は、あまりに個別の事情が関係しますので、また別のお話ということになりますね。



 


2014年7月15日火曜日

<81-2> 『肥陽軍記』を読む 夢の共演?!

 前回は能書きばっかりで、ちっとも本編に入れなかったので、今回こそ中身を読もうと思うのだが、ついつい脱線してしまうので、お許し願いたい。


 ちなみに、今回『肥陽軍記』を紹介したのは、当ブログにおいて勝手にお世話になっている(^^;方に少しでも恩返しを、という気持ちで引っ張りだしてきたのである。

 その方のブログを見なければ、肥前系の大塚氏には目が行かなかったので、心より感謝している。
 この場を借りて御礼申し上げますm(_ _)m


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 ついでながら私信。

 http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E5%8F%A2%E6%9B%B8
 

 http://kindai.ndl.go.jp/search/searchResult?searchWord=%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E5%8F%B2%E8%B3%87%E6%96%99


この辺りにも、思わぬ拾い物が転がっていたりするので、暇つぶしにでも。



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 というわけで、話を戻して『肥陽軍記』である。


 近代デジタルライブラリーより 「史籍集覧 第15冊」
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920302


 コマ285から「肥陽軍記」は始まるのだが、ざっと読むだけで佐賀大塚氏がパラパラ登場。



<コマ295> 「大塚左兵衛尉」「大塚市左」の記述。この親子は当然龍造寺家臣。同じ名前は北肥戦誌にも、歴代鎮西志にも出てくる。



<コマ319> 628Pに「大塚半左衛門」登場。この人物は北肥戦誌にも、歴代鎮西志にも出てくる。


 さて、ここからが今日のメインテーマ”夢の共演”である。


 629Pにこうある。


 『河浪大塚福地中島犬塚石井のこらず打ちふせられ』


 すごい!大塚と犬塚をちゃんと書き分けている一文に出会ったのははじめて!キャー!


 これまで、当ブログで書いてきたように、とにかく「大塚と犬塚」の混同誤用があるので、目をこらしてしっかり見張っていなければならないのだが、珍しく「肥陽軍記」だけは、ちゃんと使い分けをしているのである。


 というわけで、この作者を褒めてつかわそうと思っていたのだが、よくよく読んでみると・・・。


 問題の箇所は629Pではなく、むしろその前だった。628P、さっき「大塚半左衛門」が出てきた箇所をもう一度読み直してほしい。



 『河浪河内守福地周防守中島内蔵助大塚半左衛門大塚宮内少輔石井大隈守以下死人を乗り越えのりこえ』


 ん??


 んん??


 もう気付いたと思うが、628のフルネームと、629の苗字呼び捨ては、ちゃんと呼応している。


 ということはである。


 「大塚宮内少輔」は、犬塚宮内少輔の間違いなのである!!


注)犬塚宮内少輔は北肥戦誌に登場。



 やっぱり間違えとるやないけ!



 せっかく褒めてやろうと思ったのに「肥陽軍記」よお前もか!!



2014年7月14日月曜日

<81-1>『肥陽軍記』を読む 

 自分のこと(=九州大塚氏)のことはそろそろ終わりにして、全国の大塚氏調査に戻りたいところではあるが、それでも性格が凝り性だからか、ついついいろんなことを調べてしまう今日この頃。


 実は、そろそろいい加減に最終章に突入しているので、あといくつか資料の到着を待って、自家の調査は本当に根幹部分は終わりになるはずである。


 というわけで今日はその待ち時間の間に、一冊文献を読んでみよう!


 今回ご紹介するのは、「肥陽軍記」という軍記物である。




 そもそも戦国時代の資料は、まず「その時代の、リアルタイムの資料」というものがあり、それから、後の人が書いた資料というものが出てくる。

 前者を1次資料(同時代資料)、後者を2次資料(後代の資料)というように分けて考えておく必要がある。


 
 我々、ご先祖様探偵団は、一次資料に当ることは、まずない。

というのも、その時代の資料というのは、「A武将からB武将への手紙そのもの」とか、「C神社の屋根裏に打ち付けられていた棟札」とか、そういうものなので、その現物を見たり調べたりすることは、なかなかチャンスがないのである。


 その代わりに、地方の市町村誌やら、歴史の研究書などには「どこそこにこんな文書があるよ」とか、「誰それが誰それに宛てた手紙があるよ」とか、それらの内容を引用して記述してくれていることが多い。

 というわけで、私たちはそうした文書(2次以降の資料)を読むことが大半なのである。



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 当ブログではおなじみの「北肥戦誌」や「歴代鎮西志」は、古い時代の資料ではあるが、「1次資料」ではない。


 そりゃそうだろう。戦国時代のことを、江戸時代になってから、全然別の人が書いているわけだから、



「おまえ、見たんか?!」



とつっこまれること請け合いである。



 そのため、「どういう経緯で」「どういう意図で」それが書かれたかを理解しなくてはならない。


 幸いなことに「北肥戦誌」や「歴代鎮西志」は、いちおう作者が「できるだけ1次資料に当り、かつ当時のことを知っている人物から話を聞いたり、できるかぎり伝承を丁寧に収集しよう」という姿勢があるので、こっちからすれば


大変に助かっている


のだが、同じように戦国期のことをまとめたものの中には



「売れたらええねん!」



というスタンスで、おもしろおかしく書かれているものもあるので要注意である。


 しかし、そこまでひどくなくても、基本的にはこうした軍記物は


「うちの初代の殿様は、こんなにすごいんでっせ」


ということを主張するバイアスがかかっている場合が多い。


 当然、北肥戦誌や歴代鎮西志には「鍋島バイアス」がかかっていると言ってよい。


 
 今回取り上げる「肥陽軍記」は、「龍造寺バイアス」がかかった書物である。


 なので、逆に言えば龍造寺家臣の手のものである我々三潴大塚氏からすると、それなりに都合が良かったりする。

 そう、龍造寺関係のことは、レバレッジが効いてより深く載っている可能性があるからだ。




 というわけで、「肥陽軍記」のありかを伝授。



 近代デジタルライブラリーより 「史籍集覧 第15冊」



の中にひっそりと収録されている。


 
 この「史籍集覧」というのも面白いシリーズで、岡崎藩の近藤瓶城が編纂した江戸時代までの日本の国史のコレクションである。


 そう。江戸のディアゴスティーニなのである!(ちがうわ)


 
 そして、すごいことに、なんと明治16年版「史籍集覧 第99巻」には、あの伝説の


歴代鎮西要略


が収録されているのだが、ネットでも古本でも転がってないんじゃーーーー!!!!


(号泣モードで読んでね)



 というわけで、ちっとも本編に進まないまま。


まて次回!



2014年7月13日日曜日

<話題>今日の軍師官兵衛ちゃん 「殿のご運が開けましたな」

 本日はBS版午後6時からの官兵衛ちゃんを見ていた大塚某です。


 いやはや、本能寺が落ちました。


 私は大学時代は京都にいたので、本能寺(ただし、新)の前をよくうろちょろしながら買い物をしてましたね。そう、あの辺は京都でも一番の繁華街です。


 信リンが亡くなった頃の本能寺は、ちょっとだけ位置がずれていたようですが。そういえば、今日の官兵衛ちゃんでは、二条城に逃げた織田信忠がらみの話は大幅カットだったのはご愛嬌。


 さて、本日の名場面は、やはりこれまでホワイトなイメージが強かった官兵衛ちゃんが、ニタニタと悪い顔をしながら、竹中秀吉にささやくところ


「これで、殿のご運が開けましたな」


というシーンです。

 秀吉が、あまりに顔を近づけて官兵衛の顔をこれまた撫で回していたので、思わず

「チュッ」


とでもやりかねない緊迫感でしたが、果てさて、この元ネタはといえば


「老人雑話」という江村専斎なるおっさんの昔話


だそうです。


 ウィキペディアより 江村専斎
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%9D%91%E5%B0%82%E6%96%8E



 彼は加藤清正や森忠政に仕え、人脈も広かったようですので、言ってることはなかなかポイントポイントが面白いのですが、しかしまあ、おっさんの戯言でもありますので、どこかのTV局がやっている


ほんまでっか?!


的な感じで受け止めるのがよろしいかと。


 まあ、大河ドラマ版官兵衛ちゃんは、これからどんどん悪い顔が増えることと思います。そもそも伊丹有岡城から出てきたあたりから、「ちょっと、グレてる」ので、 今後の彼の活躍が楽しみですね。


 福岡県の大塚氏の関係で、「福岡藩に関わる資料」もざっくりと見ているのですが、基本的に私の印象だと


貝原益軒


は嫌い!です。福岡藩正史「黒田家譜」をはじめ、貝原益軒の息のかかった資料は、全体的に恣意的に改ざんされていることが多いので信用ならんのです。


そりゃまあ、なんといっても藩のため、黒田家のために良かれと思ってやっているらしいのですが、


①黒田ヨイショが強すぎて、けっこうやっちまってる感が。

②黒田長政寄りで、時としておとうちゃん官兵衛より長政を立てる。


みたいなところが、気になります。


  もちろん、黒田家を離れた部分で言えば「養生訓」「和俗童子訓」などの教育書、「大和本草」などの本草書をまとめた学者としてのすばらしさを大々的に評価したいのですが、それは益軒の年をとってからの成果であるとか。


 やはり、黒田家譜をまとめていたころの「リーマン社畜」だった若き時代の益軒に黒田家へのヨイショをやめろ、というのは酷な話ですね。



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 さて、歴史にもしはないのですが、うちの奥さんに


「そういえば、もし信長が死んでなかったら、今頃日本はどうなってたの?」


と聞かれました。


  うーん。豊臣家も徳川家も、今の歴史とは違う形で進行したであろうし、もっとも大きな違いというのは


「江戸時代が存在しなかった」

「鎖国はたぶんしてなかった」

「朝鮮出兵どころか、明へ侵攻していた」


だろうあたりは想像がつきますね。結果を問うことこそ「もし」が尽きませんが、上の3点だけで


「全然違う世界の歴史」


が生まれていただろうことは容易に想像できそうです。


 ましてや天皇の権威まで否定して絶対君主を目指していた信長さまでしたので、今頃


「あのフィギュアスケートの人の肖像」


が国内いたるところに張り巡らされているかもしれません(苦笑)



 結論、秀吉殿のご運が開けたのも、まあ、なんだ。良かったじゃん(^^;







2014年7月12日土曜日

<姓氏家系>自分でできるご先祖様の探し方・家系調査 家系図づくり

 現在進行形で、「ご先祖様探し・家系調査」を自分でやっているところですが、業者さんに頼むのと自分でやるのといい面、悪い面を挙げてみようと思います。


 私の場合は、「完全自力」でやっていますが、本音を言えば、業者さんに頼むより


はるかに詳しいところまで判明した


と思っています。



 自分でやっているからこそわかるのですが、


「業者さんだとこのレベルまで判明した段階で、成果としてまとめるだろうな」


というポイントが何箇所か見えてきます。





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【自力でやるメリット その1】 反論を自分で行える


 たとえば、「◇◇という苗字の由来は□□である」というところまでが判明したとしましょう。


 業者さんの場合は、それが判明した時点で、その結果を報告なさると思います。


 ところが、自力でやると「本当にそうなのか?違う角度から見てもそうだと言えるのか」という反証作業・検証作業が可能なのです。


 反証作業は、自分で自分を疑う行為であり、否定する行為です。


 それでもなお反証をはねのけて「立証・傍証される事実」というのが出てきます。


 それをいくつ積み重ねられるのかが、真実に近づく鍵だと思うわけです。



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【自力でやるメリット その2】 別の角度から論考できる


 業者さんが追いかけるのは、基本的には「その氏族(苗字)」の動向です。

 ところが自力でやると、その氏族や苗字・名前に関係のないところから「全く別の視点」で考証することが可能になります。

 
 例で言えば、私の場合は「筑後国三潴郡」の大塚氏ですが、「筑後国内」の資料だけでなく、「肥前国」に属するすべての市町村の資料を把握した上で話をしています。


 もっと言えば、このブログのように「全国の大塚姓」の動向を押さえながら、縦横無尽にデータを駆け巡ることができるわけです。


 これを、私が得意とする「網羅的研究」と呼ぶのですが、業者さんの中でこれができるのは、


 とにかく取り扱い件数をたくさん持っている業者さん


だけです。件数が多ければ、他地域の同姓の状況との比較が可能になります。


 この多角的な研究は「直線的・戸籍からの芋づる式」な調査だけでは絶対に答えが出てきません。



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【自力でやるメリット その3】 無尽蔵な時間、無尽蔵なデータ


 業者さんの場合は、費用と時間が限られています。


 100万円の苗字家系調査があったとして、その内訳は「資料調査」「現地調査」「系図作成」などそれぞれ項目が限られています。


 現地調査に費やせる日程は「何日分」と必然的に決まります。

 資料調査に費やせる日数も「何時間分」と決まります。


 多少、伸びたり縮んだりはするでしょうが、「その予算の範囲内でしか」物事はできないのです。


 そのため、先ほど述べたような「業者さんだと、この話が見つかった時点で、それを報告書にまとめるだろうな」というツボが生まれるわけです。


 そのツボまでは探しますが、そのツボが見つかった時点で、「成果が出たねよかったね。ちゃんちゃん」となってしまうからです。



 実は、私は別の絡みで「文化財の発掘」のしくみを知っているのですが、みなさんは遺跡の発掘がどのように行われるか気付いていないと思います。


 遺跡がそこにあることはわかっています。何が出てくるかもほぼ推定されていたりします。ところが実際の発掘は、


 国や市町村の事業として、穴掘りの労務費と機械代の予算がついたところまでしか掘れない


という仕組みなのです。


 ぶっちゃけたことを言えば、


掘れる予算は最初から決まっていて、その日数までにそれが出てこなければ、その日でおしまい


ということなのです。


 あと一日掘れば出てくるかもしれないけれど、その日がくれば埋め戻す


のが現実です。


 しかし、自分でやる調査は、お金も時間も無尽蔵です。



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【自分でやるデメリット その1】 めんどくさい


 ぶっちゃけ、自分でご先祖様探しをすると、時間と手間がかかります。

 イラち(短気)な人には不向きかもしれません。


 しかし、人生のライフワークとしてダラダラやるのは、おすすめです(笑)。一定の結論が出ても、さらに調べることはいくらでもあります。

 何より、そこらへんの推理小説よりはるかに面白いです。




【自分でやるデメリット その2】 専門知識がない


 私の場合は、幸せなことに近世文学の専門家でしたので、ほとんど悩むことなく資料に当ることができましたが、一般の方には難しく感じられるかもしれません。


 しかし、大丈夫です。私がいます!(ババーン!)


 何かわからないことやアドバイスが必要な場合は、メールください。


 ご相談に応じることはいくらでも可能です。



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 というわけで、ぜひ一度ご自分で調査をはじめてください。きっと人生が変わりますよ!

2014年7月11日金曜日

<80>ネタの出所を突き止めろ! ~大塚は犬塚の誤記なのか?!~

 おかしなことを発見した。


 うーん、まあこのブログではけっこう毎回「何かを発見してしまうのが常であるが、今回もまた変なのだ。



 実は、第77回の「大塚(おおつか)?犬塚(いんつか)?それが問題だ。」の段
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/07/blog-post_7.html



で、比較検証したように、「三瀬町史」だけが、天文の頃に佐賀各地の群雄割拠の様子として「大塚」氏の名を挙げていたので、これは「犬塚」氏の誤記である、と判定したわけだが、今回「上峰村史」を入手したところこちらにも


 まったく同様の記載


があったのである。変でしょ?



 さらに面白いことに、「上峰村史」にも群雄割拠図がついていて、これも「三瀬町史」とおなじよう
に、地図上は「犬塚氏」になっていて、両方ともおんなじ記載なのである。



 こ、これがうわさのコピペというやつか!!!!!



 ・・・まあ三瀬町史・上峰村史の編纂委員会の名誉のために申し添えておくが、コピペというよりも引用元がそもそも「大塚・犬塚の混同」を起こしている可能性がある。


 というわけで、ネタの出所をつきとめるべく、調査に入ったのであった。




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 まずは記載の確認。




三瀬町史

 『天文の頃、肥前の国では、少弐冬尚の威勢が衰え、佐嘉に龍造寺氏、山内に神代氏、蓮池に小田氏、その他、筑紫・横岳・八戸・高木・江上・姉川・馬場・本告・千葉・大塚・後藤・大村・有馬・深江・松浦党の諸氏が』




上峰村史

『これに対し、享禄三年(1530)、大内義興の子義隆は探題渋川氏を後援し、少弐資元・冬尚父子を討たんと筑前守護代杉興運を将として肥前に攻め入り、筑紫・朝日・横岳氏を降し、少弐氏に迫ったが、少弐方は龍造寺・小田・大塚・馬場・江上・姉川・本告・執行らの神埼・佐賀勢を従えて防戦し、遂に大内勢を大宰府に敗走させた。この時、龍造寺家兼の部下鍋島清久・野田清孝らが一族以下農兵100余名に赤熊(しゃぐま)をかぶせて浮立に似せ、敵陣に突入し、勝利の因をつくったという赤熊武者の話は有名である。
 同じく天文三年(1534)』



 すみれっ、セプテンバーラブアゲーン!♪



 それはシャズナ!!! ・・・こっちはしゃぐま。



 ボケはいいので、次。図面の比較。



 三瀬町史(再掲)


(引用は三瀬町史より)




 上峰村史


    
  (引用は上峰村史より)

  
 こうしてみると、「上峰村史」の図は、原本は「三瀬町史」の図で、それを活字に起こしたもののように見えるのだが、いずれにしてもどちらも「犬塚氏」と記載している。



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 では、ここから考察。


 ネタ元は、おそらく「北肥戦誌」だと思われるので、さっそく読んでみると、やっぱり「犬塚」のほうであった。

 
 北肥戦誌

 『軍兵を集めらるるに、先づ中佐嘉龍造寺山城守家兼・子息右衛門大夫家重・同三郎兵衛家門・同名伯耆守盛家・蓮池小田九郎政光・直鳥犬塚安房守家清・子息山城守尚家、其他少弐譜代の輩には馬場肥前守・・・・・・』


 ほら、犬塚でしょ?


 直鳥城は、佐賀神崎の地にあり、犬塚家久が築城、2代目が家清になる。


 
 というわけで、2冊目の誤記決定!!!



 「上峰村史よ、おまえもか・・・・・・」



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おまけ。


「上峰村史」はどうも中津隈城主の記述も間違っていて「大塚氏」だと書いているが、本当は中津隈は「犬塚氏」が正しい。


 犬塚家広


です。






2014年7月10日木曜日

<79>なななんと!大塚隠岐守の出自が分かった!! ~ご先祖様は関西人?~

 えらいこっちゃ!

 である。



  赤松系大塚氏だと言ってみたり、少弐系大塚氏だと言ってみたり、常に言いたい放題な当ブログであるが、今回はさらに驚きの発見をしてしまった。


 だって、仕方ないではないか!常に新資料が飛び出してくるのである!


 どういうことか。これまでのおさらいをしておこう。


 当三潴大塚氏のルーツとして神代長良の家臣『大塚隠岐守』が怪しいのではないか、という展開で進んできたのだが、実は大塚隠岐から先が、


 すっとんで


少弐大塚氏へと繋いでいた感は否めなかった。もちろん、神代も少弐家臣なのだが、少弐系大塚氏の本拠地は三根郡近辺であり、神代氏の本拠地とのつながりがいまいちわからなかったのである。


 むしろ、三根郡近辺から出た大塚氏は、龍造寺や鍋島の支配地域に近く、佐賀勢の「大塚」となるには簡単な気がするが、神代氏とのリンクが繋がらなかったのである。



 そのミッシング・リンクが出てきた、というわけだ。



 念のため書いておくが、当家のルーツは「龍造寺家臣の隠岐、もしくは古賀伊豆の家中の者」ということは確からしいが、それが「大塚隠岐」と合致するかはまだわかっていない。


 というわけで、ここから先の話は確率としては50%:50%だと思ってほしい。





 その新資料と言うのは、「肥前叢書 第一輯」に収録されている『肥前旧事続編料』という資料である。

 永正9年(1512年)の項に以下のような記事がある。




『本荘淀姫神社奉再興、肥前州與賀庄本荘大塚大明神御宝殿一宇 大檀那太宰都督司馬少卿藤原朝臣資元 願主武藤書雲民部大輔藤原冬雪 宮司別当大塚新右衛門藤原重家  (或曰此家絶ゆ 今の大塚氏は與賀神社神官千布氏の次男 絶家を□き大塚と称したる者) 願主鍋島平右衛門尉清久 永正九年壬申蜡月下浣日、或曰伊勢松坂の人山田 (或は松本)五郎大夫則之 呉祥瑞と号す 明に航し磁工を学び永正十年帰朝し肥前伊万里に窯を開き、盛に其の業を修め遂にその地に没す』



 この書物は明治三十四年4月中に糸山貞幹によって清書された、とあるのだが、もともとは古い資料を集めてきて年毎に並べ記載したものである。


 さて、内容を精査してみよう。記述がだらだら続くのでわかりにくいが、後半は別の話であるっぽい。


 まず、『本荘淀姫神社』とは佐賀市本庄町の本庄神社のことである。



 さがの歴史・文化お宝帳 さんのサイトより
 http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=755

 

 なぜ、”大塚”なのかと言えば、こういういわれがある。

 
 (参照)新古代学の扉 さんのサイトより 
  http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/simin11/yomitiyo.html

  
 「肥陽古跡記」に ”佐賀郡本荘妙見山淀姫大明神 云々 知僧元年九月二十八日夜於大塚妙見社来現垂跡給之神霊也”とあるのだがこれを簡単に訳すと、

 本庄神社はもとは大塚妙見社であり、そこに佐賀本庄の淀姫大明神が現れたというのだ。


 これを昔話風に書いているのが、佐賀の文化・お宝帳の記事で、農夫が薪取りをしていると、突然大地が鳴り響いて淀姫の霊が現れたくだりである。


 
  さて、この本庄神社、実は佐賀城のすぐとなりで当然鍋島氏ゆかりの神社ということになる。それが元の記事内容で、
 
 永正9年(1512)2月に鍋島清久(直茂の祖父)が再興したとき
 
の願主であったり宮司であったりが記録されているわけである。


  人物について、詳しく見てみると、

■ 大檀那(檀家のいちばんえらい人)太宰都督司馬少卿藤原朝臣資元  

  少弐資元のこと。本姓の藤原を名乗っている。少弐氏16代の当主である。

■ 願主(祈願した人)武藤書雲民部大輔藤原冬雪

  よくわからないが民部大輔は役職なので、本姓藤原氏の武藤書雲冬雪なる人物だと思われる。調査中。武藤氏であるので少弐氏であろう。


■  宮司別当 大塚新右衛門藤原重家

   当時は神仏習合だったので、神主さんと僧侶がダブル役割になっており、宮司が神主、別当が僧侶を意味する。 藤原氏なので、この流れでいくと基本少弐一族だと考える。


■ 願主 鍋島平右衛門尉清久

  鍋島清久は佐賀藩祖「鍋島直茂(北肥戦誌でいう信生である)」の祖父。少弐氏孫であり、母方の鍋島姓を継いでいる。


 さて、ここに登場する人物は、全員「少弐氏」だと思われる。とすれば、大塚重家は、少弐氏であり、「大塚大明神の宮司」として大塚を名乗った可能性もある。


 ただし、ここからだ。

 
 注記によれば、この大塚氏の家は絶えており、となりの与賀神社の神主であった千布氏の次男が、大塚を(養子縁組しない形で)継いで名乗っている、というのだ。


 千布氏とは何者か?!


 そう、ここがミッシングリンクなのだ。


 筑後を追われ放浪の旅をしていた神代対馬守の子新次郎は千布氏の娘と結婚し、ついに新次郎あらため神代勝利は三瀬・山内の総領として立ち上がるわけである。


 大塚隠岐守は、神代長良の側近であった。とすれば、この大塚氏は、千布あらため大塚氏である可能性が大である。


 千布氏のルーツは、



 さがの歴史・文化お宝帳 さんのサイト
 http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=1776



 によれば、陣内氏とともに大阪住吉大社の縁で九州へやってきたという。


 ☆「三瀬村史」では、摂津住吉大社を千布村に勧請した際に、摂津より神を供奉してきたのが陣内氏と千布氏であるとしている。



  つまり、バリバリの関西人ということになるんや!



 ☆ついでに「三瀬村史」によると、千布氏の系譜は

 『千布氏の遠祖は甲斐弥次郎の三男、千布次郎兵衛尉利明である。彼岐郡から来て上佐嘉郡安富庄の地頭となり、千布に土生島の城を築き、姓を千布氏と名乗った。利明十二代千布兵庫入道浄貞、その子十三代千布因幡守家利、十四代千布太郎左エ門茂利に至る。茂利は鍋島直茂の御側役、のちに小城鍋島光茂の附人となった。その後、姓を改めて柴田宗俊と言い、子孫は皆柴田姓を名乗っている』

とある。







==========

 いちおう整理しておく。


 大塚隠岐守の出自が元千布氏だとしても、苗字としての大塚はやはり少弐由来であることには相違ない。ただし、DNA的には、この時点でコテコテの関西人の血が流れていることになる。


  もちろん、ぶっちゃけ少弐氏の始祖である武藤資頼その人が、武藤氏ではなく養子だったので、すでに藤原氏のDNAは途絶えているわけで、またここで血筋が変わっていることが判明したことになる。


  実におもしろい。ハマる!


 というわけで、もう少し調査は続くのであった。

2014年7月9日水曜日

<話題>後藤又兵衛物語 ~又兵衛と大塚氏~

 NHK大河ドラマ「軍師官兵衛ちゃん」では、いよいよ次週が「本能寺の変」ということで、さらに面白くなってきました。


 それはさておき、先日の回では


 突然の後藤又兵衛の登場


に、ちょっと拍子抜け、というかポッカーンと口を開けてしまいました。



 後藤又兵衛といえば、間接的にではありますが、播磨大塚氏の祖と言ってよいくらいの大塚氏にとっては縁の人物。それをあんなないがしろな扱いにしては、いけませんぞ。



※注 後藤又兵衛の父、後藤将監基国のあとを継いだ後藤基こと二代目後藤将監は、のちに現在の姫路市山田町にて隠居、大塚将監となって香呂・溝口周辺の大塚氏の祖となった。

 後藤又兵衛基次は、次男なので「基次」、という説・解釈もある。




 「軍師官兵衛ちゃん」では、”又兵衛と叔父は赤鼻のトナカイ野郎(小寺)についていって、黒田を裏切ったのでごめんね”という展開にしているが、これは黒田藩につたわる貝原益軒の伝承に拠っている解釈で、真実を知りたければ


 三木合戦前後における春日山城(後藤家本家)・南山田城(弟又兵衛の城)などの動向


をきちんと踏まえなければならない。


 三木城落城以前に、これらの後藤氏族の城は落ちており、三木合戦の間に又兵衛は黒田家に召抱えられた可能性が高い。

 時系列を見ると


 天正6年5月 春日山城落城(後藤本流敗北)

 天正6年7月 毛利が上月城を攻略。(秀吉軍は書写まで撤退。三木城戦優先する)

 天正6年10月 荒木村重離反(三木攻めに参加していたのに、伊丹有岡城にひきこもる)

 天正6年10月 官兵衛有岡城に行き、そのまま幽閉

 天正7年10月 有岡城陥落 官兵衛救出される

 天正8年1月  三木城開城 別所自害


となる。


 後藤氏はそもそも赤松本流に従っており、赤松本流は早々に織田に下っていたのに、別所らが逆心して離反した、という流れを考えると、後藤氏が別所に呼応しておなじく離反したとしても、播磨攻めの早期に


 すでにやられている(もしくは降参している)


のである。だから大塚将監は「すんまへん。もう隠居しときまっさ」と早々に蟄居するのだ。


 よって、又兵衛については


①そもそも後藤本流は離反しても、当人は織田方を離反しなかった可能性もある。

②後藤本流とともに織田方を離反したとしても、早期に降参している。


わけだ。



==========


 ちなみに、歴史的には、又兵衛は三木攻めのあと、浪人して仙石秀久に仕え、仙石が島津家久に負けてまた浪人したので黒田長政に召抱えられたことになっている。

 長政は栗山善助に又兵衛を預けて家臣とする、という流れである。


(しかし、長政と又兵衛は仲が悪く、結局又兵衛は黒田家を飛び出して盗んだバイクで走り出すので、真実は

 官兵衛が早期に召抱えた又兵衛は官兵衛のために頑張るが、息子の代になってボンボンと意見が合わず、「お前の親父には世話になったが、お前とはやってられんわ」と辞めてしまった


というあたりがリアルなところであろう)


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 さて、この後藤又兵衛と大塚氏について、気になる点がいくつかある。


① 「播州後藤氏の栄光」によれば、大塚将監の子孫は大分にもいるらしい。


② ウィキペディア 後藤又兵衛によれば、実は生き延びていて大分県中津で死んだらしい。
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1


③当方の調査で、大分日田地方に由来のある「ナゾの大塚氏がいる」ことがわかっている。



 どうも、播磨後藤系大塚氏は、大分県と不思議な接点をいくつも持っているらしいので、今後の調査に期待するところである。


 


 

 





 

2014年7月8日火曜日

<78>新発見!武藤少弐大塚氏には別系図があった?!

 先日少弐系大塚氏の系譜について紹介したところだが、なんと別の系譜が発見されたので早速追いかけてみよう!


「歴代鎮西志」には以下のようにある。(原文漢文にて、訳した)


『 大永四年、馬場肥前守頼周は筑紫満門父子三人を謀略によって殺した。千葉胤勝の属衆は山中に逃げたが、この馬場氏は少弐氏の一族である。
  玄祖少弐貞経入道妙恵に5人の男子があった。頼尚は世継ぎであり、次男は馬場肥前守経員と号した。三男は頼賢である。四男貞衡は大塚氏を称した。五男は僧宗応』


 大永四年は1524年であり、馬場頼周は三根郡中野城を本拠とした馬場氏最後の武将である。(馬場氏は頼周をもって滅亡する)

 その馬場氏の出自を示したのが上の記事なのだが、この記事によれば大塚氏は


「少弐頼尚と馬場経員の弟、少弐貞衡」


よりはじまることになる。


 少弐頼尚は、南北朝~室町期の人であり、とすれば大塚氏もそこからはじまることになる。佐賀大塚家譜による「大塚」の出自より、少し早い。

 それより何より、少弐頼尚その人こそが、筑後川の戦いにて敗戦し大宰府を追われた張本人なのである。


 頼尚の跡を継いだのが、子の冬資であり、大塚家譜では冬資の弟を大塚家の祖とする。



 いずれにせよ、少弐本流から分かれた「大塚氏」はたしかに存在するということである。このあたりは、系図の違いであり、現在の大塚氏への大きな流れはおそらく同一だと考える。

( 2つの別の大塚氏が存在するのではなく、ルーツの把握の仕方が異なる、ということであろう)





2014年7月7日月曜日

<77>大塚(おおつか)?犬塚(いんつか)?それが問題だ。

 「北肥戦誌」を読んでいるあたりから、


 私の心を悩ませる、にくいあんちくしょう


がたびたび登場するのだが、どうしてくれよう。



 そうである。私の名前は「大塚氏」、彼の名前は「犬塚氏」筑後の名族「犬塚氏」がちょろちょろ、ちょろちょろ目の前を横切っているのである。




 ちなみに、我々文学部卒業生というのは、古文書を当るときにかならず


 間違い


がないかどうか気をつける。


 そう、読み間違い、書き間違い、写し間違いである。現代的に言えば、誤植だ。



 肥筑地方に「大塚氏」と「犬塚氏」が同時期にうろちょろしているものだから、そもそも書き誤りがあったり、翻刻の際にミスがあったり、活字を拾うときに誤植があったり、いろんな可能性がある。



 だから、今回は、大塚VS犬塚の比較対照スペシャル!を開催したい。


 
 ちなみに犬塚さんは、中世においては「いんつか」と発音されていたらしい。現在、三潴には「羽犬塚」というJRの駅があって、「はいぬづか」と読んでいるが、もともとは


「はいんつか」であり、あるいは原義は「灰塚(はいんつか)」


ではないか?との説もあるとか。


 もひとつちなみに「犬塚氏」というのは、蒲池氏の庶流で、三潴郡犬塚を本拠とした一族だが、蒲池氏から独立して少弐氏の家臣となり、最終的には龍造寺の家臣となった。



 ね?ややこしいでしょ?



 少弐系-龍造寺系大塚氏少弐-龍造寺系犬塚氏がいるわけ。それも同時期におなじような地域で痕跡を残しているものだから、間違いが起きてもしょーがないのである。



 ウィキペディアより 犬塚氏
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E5%A1%9A%E6%B0%8F



 おまけに、ウィキを見てもらえばわかる通り、犬塚氏の通字は「家」で、この間紹介した「少弐子孫大塚氏の通字も「家」なので、(両家とも、名前に”家”がつく)



 いやがらせかなんかですか?



とつい怒りを覚えてしまう。


 気をとりなおして、いきましょう!


==========



【北肥戦誌】

『嘉禄元年乙酉、宇佐八幡の遷宮に大宰少弐に任じけり。是より以来、武藤少弐の家始まりて、九州には肩を隻ぶる者もなく、子孫次第に繁栄し、朝日・窪・出雲・平井・馬場・山井・志賀・大塚・加茂・吉田と名字を分かる。一門各々肥・筑の間にはびこって大勢の者なりしかば、』




【三瀬町史】

『天文の頃、肥前の国では、少弐冬尚の威勢が衰え、佐嘉に龍造寺氏、山内に神代氏、蓮池に小田氏、その他、筑紫・横岳・八戸・高木・江上・姉川・馬場・本告・千葉・大塚・後藤・大村・有馬・深江・松浦党の諸氏が』

添付図 

<鳥栖>朝日氏・筑紫氏
<三養基>馬場氏・横岳氏
<神崎郡>神代氏・少弐氏・執行氏・江上氏・犬塚氏・姉川氏・小田氏・本告氏・太田氏・石井氏
<佐賀市>龍造寺氏・高木氏・鍋島氏・八戸氏
<佐賀郡・小城郡>千葉氏




【佐賀市史】


・・・長いのでまだ読んでない。


【諸富町史】

『永享六年少弐満貞の弟横岳頼房は、少弐氏復興を策し、鎮西探題渋川満直を攻めた”九州治乱記”(北肥戦誌とも言う)には

 翌六年、少弐旧好の輩を相語らうに高木胤秋・千葉胤鎮・龍造寺字季・於保宗親・小田貞光・馬場資幸・江上常種・姉河友安そのほか宗・出雲・筑紫・朝日以下一味同心す

とあり』

『鎮西要略には嘉吉元年に(略)

 肥前少弐一族馬場・横岳・宗・出雲・筑紫・姉河・小田・江上・三根・養父・左嘉・神崎・小城郡々士(略)

とあり』


『享禄三年(略)、少弐党の龍造寺家兼、その子家純、家門、盛家や小田政光(資光の孫)等は、神崎郡直鳥(現千代田町直鳥)の犬塚家清とその子尚家や(略)と大内勢と攻防をくり返した』

犬塚氏は下野宇都宮氏流で、朝綱六代の孫の久則が筑後下妻郡蒲池に下着し、蒲池を俗称としたという。久則の弟の家貞は三潴郡犬塚(現福岡県三潴郡三潴町玉満)に居住していたが、その曾孫家貞は神崎郡崎村(現千代田町崎村)に移住してきた。少弐氏に組した犬塚家貞は子息を各々分封した。長男家直を崎村城主(東犬塚)、同郡蒲田江城主(現佐賀市蓮池町)に次男家重(西犬塚)、同郡直鳥城主に四男家久を配した。(以上を三犬塚と称す。)さらに五男家喜は川副郷東古賀(現佐賀郡川副町東古賀)に館した。』

『土橋栄益は大友氏に通じると共に、神代勝利・江上武種・小田政光・馬場鑑周や高木・姉川・横岳・本告・八戸の諸氏並びに犬塚鎮尚以下の三犬塚氏など佐賀周辺の諸将をはじめ、』

『天文二十三年、隆信は三根郡綾部城を攻めて少弐冬尚を破り、綾部・犬塚両氏らを降伏させた』


(その他、長者林合戦で隆信が小田・犬塚両氏を救援せず、『やつらはもともと少弐家骨肉の者なので、今は龍造寺に従ってはいるものの、将来はわからない。敵になるかもしれん』と見捨てた話が出てくる。長いので割愛。出典は『北肥戦誌』)

(また、歴代鎮西要略によると永禄八年、江上・横岳・小田・犬塚・筑紫・綾部の東肥前の諸氏は少弐政興を主将として隆信追討に乗り出した話もある。)




【大和町史】

 とくに記載なし。




【富士町史】

『鎌倉幕府は元弘三年(1333)滅亡した。六波羅探題が滅亡すると、少弐貞経・大友貞宗・島津貞久らは博多に置かれていた鎮西探題を攻撃し、探題の北条英時は自害した。肥前の御家人たちの大半は少弐貞経に従って、(略)”鎮西要略”には草野・神代・江上・小田・国分・龍造寺・千葉・綾部等の名を挙げている』

『少弐氏は多くの一族庶家を生み出した。久保(窪)・出雲・朝日・平井・筑紫・筑後・馬場・横岳の諸氏がそれである』

『二十年(略)土橋栄益は、龍造寺隆信の相続には反対で(~略~)豊後の大友義鎮(宗麟)に通じ同志を集めた。集まった諸将は、神代勝利・高木鑑房・同胤秀・小田政光・八戸宗暘・江上武種・横岳資誠・馬場鑑周・筑紫惟門・姉川惟安・本告頼景や三犬塚・多久宗時・有馬の各氏であった』





【川副町誌】

『土橋栄益(~略~は、)豊後の大友氏に通じて、神代勝利・高木鑑房・同胤秀・小田政光・八戸宗暘・江上武種・横岳資誠・馬場鑑周・姉川惟安・本告頼景・綾部鎮幸・朝日宗贇・犬塚鎮尚などの東肥前の豪族を中心とする勢力は天文二十年十月、水ヶ江城を、次いで村中城を囲んだ。隆信は城を明け渡して』

『”天正八年 肥前豊太守龍造寺隆信公、同御長男政家公卿一家并御家中幕下之衆知行附写”(~略~)に、以下龍造寺一門、鍋島・小川(小河)・納富などの譜代の有力家臣団が名を連ね、かつては龍造寺氏と対立した馬場・高木・千布・犬塚・綾部・執行などの各氏の名も見える』





【東与賀町史】

『天文二十年(~略~)、少弐氏の再興を謀る馬場・横岳・高木・姉川・八戸・小田氏などが隆信を佐嘉城に攻めた』

『天正三年(~略~)、(龍造寺隆信は)東肥前の本告・姉川・横岳・犬塚などを従え』





【久保田町史】

『少弐氏は多くの一族庶家を生み出した。久保(窪)・出雲・朝日・平井・筑紫・筑後・馬場・横岳の諸氏がそれである』(中略)『”九州治乱記””歴代鎮西志”などにはその配下の武将として、龍造寺・江上・姉川・小田・犬塚・高木・於保・多久・綾部・本告(もとおり)・千葉などの諸氏の名が出ている』

『”歴代鎮西志”によると、天文十六年(~略~)頃肥前中・東部の宗(そう)・筑紫・馬場・横岳・綾部・江上・姉川・小田・犬塚・空閑・本告・高木・神代・八戸・窪田・徳島・千葉胤頼を一七人衆と称し』

『”九州治乱記”によると、天文二十年(~略~)龍造寺胤栄の家臣土橋栄益は、神代・高木・小田・八戸・江上・横岳・馬場・筑紫・姉川・本告の各氏の支援を受け佐賀城攻撃の準備を進めた』



==========


はい、結論!


 天文期に「大塚氏に言及している資料はひとつもない」ことから、三瀬村史の「大塚」記載は誤植と判明!


 正しくは犬塚のようだ。きゃんきゃん!



 しかし、「北肥戦誌」に「大塚は少弐末裔」と書いてあり、実際に「大塚系譜」が残っていることから、そのこと自体は誤りではないようだが、


 大塚氏は、豪族(一族)としてどこかの地域を治めていなかった。

 大塚氏は、結束しておらず、少弐系武将にバラバラに従って分散しているらしい。

 犬塚氏とは出自が違うので、そういう意味での混同はあまりされていないようだ。



 ということが伺える。


 というわけで、全国の犬塚さん、仲良くいこうぜ!



2014年7月6日日曜日

<76>武藤少弐大塚氏 系図スペシャル! 親愛なる九州の大塚さんへ

 さて、お立会い!

 九州、肥筑地方に広がっている「大塚」姓、「大塚」氏、「大塚」さんのうち、もしかしたらご先祖様かもしれない?!可能性が大きい


 武藤少弐 大宰少弐 系 大塚氏


系図スペシャルが登場である。


 この系図は、もともと「大塚系譜」というもので、佐賀藩士として現存する大塚家の系図、ということになる。

 引用元は 渡辺文吉著『武藤少弐興亡史』海鳥社1989 であるが、「大塚氏研究」のために中世期に限って必要最小限を引用、かつ考察を加えるものとする。

※一部略記あり。


==========


大塚氏  本姓藤原 家紋重釘抜


武藤筑後守資頼より6代

- 頼尚 (大宰少弐筑前守) 

- 直資(新少弐早良次郎)

   冬資(大宰少弐)

   資俊(西筑前守) - 某(西弾正大弼) - 資忠(西山城守) - 資家(西尾張守)


<資家より>

- 俊氏(西三河守)

  嘉吉元年少弐教頼没落の時筑前より当国三根郡大塚村に来たり居、苗字を大塚に改め家紋靠目結を略して釘抜の紋とす。


- 家政(大塚三河守) - □ - □ - □ - 家俊(大塚左兵衛祇園原戦死)

  家郷(大塚左京亮 初め西上総介)


<家郷より>

- 家国(西陸奥守 後に改め倉町上野介家直)

- 頼宗(大塚左京亮 実は馬場伊豆守頼経の子)

   家光(倉町蔵人)


<家国より>

- 家宗(大塚三郎四郎) - 家清(大塚左京) - 盛家(大塚左京)


<家宗より>

- 家房(大塚新兵衛)

   宗清(左兵衛尉) - 氏清(右衛門允) - 為清(久右衛門) - 頼清(与兵衛)


<頼清より>

- 輔清(右衛門允) - 俊清(久右衛門)寛文元年卒



==========

 嘉吉元年が1441年で、室町時代のこと。

 寛文元年は1661年で江戸時代前期のこと。


 この大塚氏は最終的には佐賀鍋島家臣となるので、


 少弐氏 - 龍造寺氏  - 鍋島氏  と仕えてきたことになる。



==========



 「北肥戦誌」に、「大塚左京亮盛家」なる人物が、小城勢の中に「岡の大塚左京亮盛家」などとして登場するのだが、


家国のひ孫の「盛家(大塚左京)」


がその人物なのだろうか?


 その他、「小城一揆」メンバーに「大塚左京允」が出てくるのだが、上記系図の大塚氏は「大塚左京亮」を名乗っているので、同系列か?


※「亮(まこと)」「允(まこと)」意味はおなじ。


 とすると、小城衆の大塚氏は、独立氏族ではなく、そもそもは少弐から出た、ということになる可能性あり。




<基礎資料>「北肥戦誌」「九州治乱記」マニアックス ~九州戦国総まとめ~

 当ブログにおいては毎度おなじみの「北肥戦誌(九州治乱記)」ですが、九州戦国時代を語る上では、



 誰もが避けて通ることができない必読の書



となっております。


 事実、九州各地の県誌・市町村誌においては、必ず絶対何が何でも一度や二度や数え切れないほど、「北肥戦誌」からの引用があり、それだけ



 絶大な人気を誇る、九州戦国界の不動のセンター



と言ってよい実力を持った人気者なのです。



 その理由。


 蒙古襲来から秀吉の九州統一までを通時的に追っており、さらにとにかく「読みやすい」のがポイント。初心者でもけっこう読めます。


 基本的には淡々と著述されているものの、時にドラマティックに盛り上がるあたりがツボ。

 
 やたらめったら人が出てきて、マイナーな登場人物にもスポットが当るのが、グッド。



・・・能書きはこれくらいにして、今回の記事は基礎資料なので、「北肥戦誌」情報を一挙大公開です。


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☆ 今回の記事はこれから「北肥戦誌」ファンになりたいあなたのための、入門編です。

 九州にお住まいのあなた!あなたのご先祖もきっと登場している「北肥戦誌」を読んでみてね!



<「北肥戦誌」とは>

 佐賀藩士 馬渡俊継によって書かれた「肥前を中心とする」九州戦国期の通史。

 書かれたのは江戸時代中期であるため、戦国期当時の即時記録ではないが、馬渡俊継は著述に当りできるだけ正確に書くために当時の記録・文書・伝承の収集に励んでいるので、それなりに妥当性がある。



<書名について>

 正式名称がない変わった書物であり、「北肥戦誌」「九州治乱記」など呼ばれる。マイナーな写本になると「覚書(おぼえがき)」みたいなタイトルがついているものも。

 単に「治乱記」とするものや、「肥陽治乱記」という名称もある。


 一般的には(各市町村史誌・県史誌などでは)引用元として「北肥戦誌」の名が広く使われている。



<現在入手できる「北肥戦誌」は4パターン>


 ① 国史叢書バージョン 「北肥戦誌」

   国史研究会(矢野太郎)編 『国史叢書 北肥戦誌』 全2巻 国史研究会1918(大正7)

   東大史料編纂所蔵「鍋島直大蔵本写」を活字化したもの。原本は30巻本。



 ② 肥前叢書バージョン 「北肥戦誌」

   肥前史談会編 『肥前叢書 第ニ輯』 肥前史談会1939(昭和14)

   肥前叢書そのものは第一輯・第二輯と全2巻なのだが、第一輯には
   「肥前風土記・肥前旧事・肥前旧事続編料・肥前古跡縁起」
   が収録され、第二輯に「九州治乱記/北肥戦誌」が収録されている。35巻本。


 ③ 青潮社バージョン 「肥前叢書」全2巻

   肥前叢書全2巻の復刻版、35巻本。 青潮社1973(昭和48)



 ④ 青潮社バージョン 「北肥戦誌」
 
   高野和人編 『北肥戦誌 九州治乱記』 全1巻 青潮社1995

   国史叢書版の写真製版による”完全コピー”に、35巻本からの5巻分を補完したもの。

   従って、30巻分までは、国史叢書版と全く同じ。人名・戦場一覧が付属。

   31-35巻分は、肥前叢書からの再活字化。



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 無料(タダ)で読める「北肥戦誌」

  ネットで、無料で読める「北肥戦誌」は2バージョンあります。



◇ 国史叢書バージョン 「北肥戦誌」 全2巻


  国立国会図書館近代デジタルライブラリー 「北肥戦誌(一)」
  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441745

  
  国立国会図書館近代デジタルライブラリー 「北肥戦誌(ニ)」
  http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441746



◇ 肥前叢書バージョン 「九州治乱記/北肥戦誌」


  グーグルブックス 「肥前叢書第ニ輯」
  http://books.google.com.au/books?id=Sbn038p2RPUC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false



 両方あわせると30巻本部分、35巻本部分のどちらも網羅できますよ。



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 無料でできる「北肥戦誌」の人名検索

  青潮社1995版には、人名索引があるのですが、実はネットで無料でできちゃいます。

  高野和人さん、ごめんなさい。僕は一冊買ったので許してください。



◇ 佐賀県立図書館 デジタルライブラリー 人名検索

  http://www.sagakentosyo.jp/jinmeiseek/php/index.php

  

  ※ 主要図書検索から「北肥戦誌」を選んで気になる人名や苗字を打ち込むとあら便利!結果が返ってきます。



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2014年7月5日土曜日

<75>三潴「大塚氏」系譜考補遺② ~神代氏を探れ~

 さて、前回は主に少弐氏に着目しながら、当家三潴大塚氏との関係について考察を深めてみたのであるが、今回は


 神代氏


に注目してみる。


 神代氏を取り上げるのは、もちろん当家大塚氏のご先祖様が「神代長良の家臣、大塚隠岐」なのかどうかを検証するためである。



 もちろん、前回<74>でも言及したとおり、仮に当家大塚氏の直接的先祖が「大塚隠岐」でなかったとしても、当家が少弐氏の末裔である可能性はかなり高い。


 従って、神代氏と当家大塚氏が万一「無関係」でも、それはそれでOKということになる。


 というわけで、今回はちょびっと「オプショナルツアー」でもあるので、気を楽にしていこう!






 神代氏というのは、そもそも久留米の高良神社の神主の家系で、そこら辺りが本拠地であるという話は少し前に書いている。


 ところが、そんなざっくりとした話ではなく、「もっともっと詳しい話」をわかりやすく書いている書物があるので、紹介しよう。


 
 それが、現在は佐賀市に編入されている「三瀬村」というところで編纂された「三瀬村史」であり、三瀬村にとって神代氏は


 スーパースター!


であるらしく、史実・伝説全て網羅して何でもかんでも書いてあるすごい書物になっている。


 当然、三瀬村の人たちも


「全部が全部信じてるわけじゃないし、他の資料との整合性もあるので、そこはほれ、まあ、ほれ、おらが村のスーパースターなんだからいいじゃないか」


というスタンスで記述なさっているので、尊重しよう。しかし、おかげで神代氏については、ものすごい分量でまとめられている。こっちは資料が多い分かなり助かっている。





 佐賀市のサイトより 三瀬村史





 三瀬村史の「神代伝説スペシャル」はPDFファイルのうち「第三章 中世」「第四章 近世」の回に跨る。


 内容をざっくりとまとめると、(中世 109ページから読むとわかりやすい)





◇ 神代氏は、武内宿禰の子孫らしく、久留米高良大社の大宮司である物部氏から分かれた。


◇ かつては熊代と書いたのを神代とあらため、高良周辺を治めていた地方豪族だった。


◇ しかし、神代対馬守宗元が没落し浪人となって旅していたところ、上佐賀の千布村の陣内大和守と出会い、逗留するようになる。のち、神代対馬守の子新次郎が(佐賀)三瀬城の野田氏(三瀬氏)の剣術指南役となり、そのままこの地方のボスへと成長していった。


◇ 新次郎(小泉ではない)あらため神代勝利は、三瀬地域の総領主となり、少弐氏の家臣としてその地を支配するようになった。


◇ 少弐家臣といっても、赤松氏が小寺やら別所やらごちゃごちゃ分かれたように、佐賀一帯は「少弐の末裔たちが独立していろいろケンカするように」なっていた。


◇ その時の各氏族の立ち位置は、120ページを見て欲しい。



(図は三瀬村史より引用)



◇ 少弐冬尚の統率力が衰えた結果、各地は少弐系諸氏が乱立してにらみ合い状態。


◇ ”佐賀に龍造寺氏、山内に神代氏、蓮池に小田氏、その他、筑紫、横岳、八戸、高木、江上、姉川、馬場、本告、千葉、大塚、後藤、大竹、有馬、深江、松浦党の諸氏が”(三瀬村史より)ガチバトル。



ところが、ここで要注意。


◇ 地図を目をこらして見ると右上から

鳥栖 「朝日氏」 「筑紫氏」 

三養基郡 「馬場氏」 「横岳氏」

神崎郡 「執行氏」 「犬塚氏」 「少弐氏」 「江上氏」 「姉川氏」 「小田氏」 「本告氏」

佐賀市 「龍造寺氏」 「高木氏」 「鍋島氏」


・・・等とつづいている。


☆大塚と犬塚は、いつも「誤植があやしい」ので、またじっくり比較やります!


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 クマシロ=スーパースター伝説はまだ続くのだが、ちょっと中断。


 いったん、話をまとめたい。


 大塚氏の位置は、前回出てきた少弐大塚氏の本拠地、


「三根郡大塚村」 (三養基郡をへて現在みやき町もしくは(三根郡)上峰町)


である。


 で、その隣に同じく少弐家臣である「犬塚氏」が神崎郡に陣取っている。


 ややこしいことに、大塚氏の本拠地のとなりに「犬塚氏」がいたのである。

 
 まあ、そこらへんはまたじっくり説明するとして、


 まさか三瀬町史の記事のほうも「大塚じゃなくて、犬塚の誤植だったりしねえよな!」とつっこみたくなる。



 話を戻そう。


 朝日、筑紫、馬場氏などの少弐庶流メンバーは、皆、三養基郡周辺に固まっている。


 そして、北に少弐氏、西に龍造寺氏と鍋島氏、はるか北上して「神代氏」という領地図である。



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 さて、この後の流れだが、平たく言えば


 ザ・スター神代勝利 VS 龍造寺隆信(くまもん


の永遠のガチンコバトルがいつまでも繰り広げられる、という展開である。しつこい。


 そして、神代勝利の息子が「神代長良」で、おとうちゃんの代は、あまりくまもんに負けなかったのだが、最終的には神代長良はくまもんに負ける、という展開へと続いていゆく。長い。




 大事なことは、次の点である。


「神代長良の家臣、大塚隠岐は、どこから来た何者か?」


・・・その答えは、これまでのあらすじを見る限り、やはり少弐系大塚氏と見ざるを得ないのだが、諸君はどのように考察なさるだろうか。


 

 犬塚氏が、ちらちらさっきから横切っている姿があるのだが、そこはちょっと無視して。
 


 歴史的経緯(少弐家臣としての神代氏)、地理的関係、など総合的に見て、「別の大塚氏が入り込む余地」は果たしてあるのだろうか。


 ちなみに、余談だが、鍋島家臣には「大塚姓」はやたら出てくる。「北肥戦誌」しかり、「大塚家譜」しかり、そこらへんの大塚氏は、少弐系で間違いないと考えられる。



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 さて、最後にどうしてもふれておきたいのが、「大塚隠岐は隠居したのでは?」という仮説である。


 「三瀬町史」の159ページ(近世)に面白いことが書いてあるのだ。


 天正4年、原田氏の兵が神代長良たちを襲う、という話があり、そこに


「小副川出雲守、同隠岐守」が討ち死にした


と書いてあるのだ。


 面白い、というのは”隠岐守”という言葉である。


 神代長良の家臣「大塚隠岐守」は永禄8年(1565)年の記事に登場する。

 そして、天正4(1576)年には、神代家中における隠岐守は小副川氏になっている。



 神代長良その人も、天正9(1581)年には亡くなり、その直前天正7年には養子、神代家良(実は鍋島氏)を迎えるのである。



 たたみかけるように書くが、R和尚がX寺を建てたのが天正5年で、「おっかしいなあ、蒲池殺人事件は、天正9年なのに話が合わんなあ」とちょっとした疑問符がついていた。




 古賀伊豆と隠岐が、当家の村に来れたのは、天正5年から天正15年の間と推測しているし、ほぼ間違いない。



 重ねて書くが、天正4年に「小副川隠岐守」が存在する。



 これらの点と線を結ぶ答えがあるとすれば、


 天正4年頃に、大塚隠岐は引退している。あるいは、最前線を離れている。はたまたあるいは、蟄居した。


などの仮説が立てられるのではないか?


 細かいかもしれないが、天正4年・5年頃にも、きっと龍造寺家臣団に何かがあったのだ。


 あるいは大塚隠岐は、この頃「神代氏の中心部」から離れていたのだ。


 引退していたからこそ、三潴に蟄居帰農した可能性もある。裏づけというには弱い証拠だが、


わたし、気になります!


(しつこい)