2014年7月7日月曜日

<77>大塚(おおつか)?犬塚(いんつか)?それが問題だ。

 「北肥戦誌」を読んでいるあたりから、


 私の心を悩ませる、にくいあんちくしょう


がたびたび登場するのだが、どうしてくれよう。



 そうである。私の名前は「大塚氏」、彼の名前は「犬塚氏」筑後の名族「犬塚氏」がちょろちょろ、ちょろちょろ目の前を横切っているのである。




 ちなみに、我々文学部卒業生というのは、古文書を当るときにかならず


 間違い


がないかどうか気をつける。


 そう、読み間違い、書き間違い、写し間違いである。現代的に言えば、誤植だ。



 肥筑地方に「大塚氏」と「犬塚氏」が同時期にうろちょろしているものだから、そもそも書き誤りがあったり、翻刻の際にミスがあったり、活字を拾うときに誤植があったり、いろんな可能性がある。



 だから、今回は、大塚VS犬塚の比較対照スペシャル!を開催したい。


 
 ちなみに犬塚さんは、中世においては「いんつか」と発音されていたらしい。現在、三潴には「羽犬塚」というJRの駅があって、「はいぬづか」と読んでいるが、もともとは


「はいんつか」であり、あるいは原義は「灰塚(はいんつか)」


ではないか?との説もあるとか。


 もひとつちなみに「犬塚氏」というのは、蒲池氏の庶流で、三潴郡犬塚を本拠とした一族だが、蒲池氏から独立して少弐氏の家臣となり、最終的には龍造寺の家臣となった。



 ね?ややこしいでしょ?



 少弐系-龍造寺系大塚氏少弐-龍造寺系犬塚氏がいるわけ。それも同時期におなじような地域で痕跡を残しているものだから、間違いが起きてもしょーがないのである。



 ウィキペディアより 犬塚氏
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E5%A1%9A%E6%B0%8F



 おまけに、ウィキを見てもらえばわかる通り、犬塚氏の通字は「家」で、この間紹介した「少弐子孫大塚氏の通字も「家」なので、(両家とも、名前に”家”がつく)



 いやがらせかなんかですか?



とつい怒りを覚えてしまう。


 気をとりなおして、いきましょう!


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【北肥戦誌】

『嘉禄元年乙酉、宇佐八幡の遷宮に大宰少弐に任じけり。是より以来、武藤少弐の家始まりて、九州には肩を隻ぶる者もなく、子孫次第に繁栄し、朝日・窪・出雲・平井・馬場・山井・志賀・大塚・加茂・吉田と名字を分かる。一門各々肥・筑の間にはびこって大勢の者なりしかば、』




【三瀬町史】

『天文の頃、肥前の国では、少弐冬尚の威勢が衰え、佐嘉に龍造寺氏、山内に神代氏、蓮池に小田氏、その他、筑紫・横岳・八戸・高木・江上・姉川・馬場・本告・千葉・大塚・後藤・大村・有馬・深江・松浦党の諸氏が』

添付図 

<鳥栖>朝日氏・筑紫氏
<三養基>馬場氏・横岳氏
<神崎郡>神代氏・少弐氏・執行氏・江上氏・犬塚氏・姉川氏・小田氏・本告氏・太田氏・石井氏
<佐賀市>龍造寺氏・高木氏・鍋島氏・八戸氏
<佐賀郡・小城郡>千葉氏




【佐賀市史】


・・・長いのでまだ読んでない。


【諸富町史】

『永享六年少弐満貞の弟横岳頼房は、少弐氏復興を策し、鎮西探題渋川満直を攻めた”九州治乱記”(北肥戦誌とも言う)には

 翌六年、少弐旧好の輩を相語らうに高木胤秋・千葉胤鎮・龍造寺字季・於保宗親・小田貞光・馬場資幸・江上常種・姉河友安そのほか宗・出雲・筑紫・朝日以下一味同心す

とあり』

『鎮西要略には嘉吉元年に(略)

 肥前少弐一族馬場・横岳・宗・出雲・筑紫・姉河・小田・江上・三根・養父・左嘉・神崎・小城郡々士(略)

とあり』


『享禄三年(略)、少弐党の龍造寺家兼、その子家純、家門、盛家や小田政光(資光の孫)等は、神崎郡直鳥(現千代田町直鳥)の犬塚家清とその子尚家や(略)と大内勢と攻防をくり返した』

犬塚氏は下野宇都宮氏流で、朝綱六代の孫の久則が筑後下妻郡蒲池に下着し、蒲池を俗称としたという。久則の弟の家貞は三潴郡犬塚(現福岡県三潴郡三潴町玉満)に居住していたが、その曾孫家貞は神崎郡崎村(現千代田町崎村)に移住してきた。少弐氏に組した犬塚家貞は子息を各々分封した。長男家直を崎村城主(東犬塚)、同郡蒲田江城主(現佐賀市蓮池町)に次男家重(西犬塚)、同郡直鳥城主に四男家久を配した。(以上を三犬塚と称す。)さらに五男家喜は川副郷東古賀(現佐賀郡川副町東古賀)に館した。』

『土橋栄益は大友氏に通じると共に、神代勝利・江上武種・小田政光・馬場鑑周や高木・姉川・横岳・本告・八戸の諸氏並びに犬塚鎮尚以下の三犬塚氏など佐賀周辺の諸将をはじめ、』

『天文二十三年、隆信は三根郡綾部城を攻めて少弐冬尚を破り、綾部・犬塚両氏らを降伏させた』


(その他、長者林合戦で隆信が小田・犬塚両氏を救援せず、『やつらはもともと少弐家骨肉の者なので、今は龍造寺に従ってはいるものの、将来はわからない。敵になるかもしれん』と見捨てた話が出てくる。長いので割愛。出典は『北肥戦誌』)

(また、歴代鎮西要略によると永禄八年、江上・横岳・小田・犬塚・筑紫・綾部の東肥前の諸氏は少弐政興を主将として隆信追討に乗り出した話もある。)




【大和町史】

 とくに記載なし。




【富士町史】

『鎌倉幕府は元弘三年(1333)滅亡した。六波羅探題が滅亡すると、少弐貞経・大友貞宗・島津貞久らは博多に置かれていた鎮西探題を攻撃し、探題の北条英時は自害した。肥前の御家人たちの大半は少弐貞経に従って、(略)”鎮西要略”には草野・神代・江上・小田・国分・龍造寺・千葉・綾部等の名を挙げている』

『少弐氏は多くの一族庶家を生み出した。久保(窪)・出雲・朝日・平井・筑紫・筑後・馬場・横岳の諸氏がそれである』

『二十年(略)土橋栄益は、龍造寺隆信の相続には反対で(~略~)豊後の大友義鎮(宗麟)に通じ同志を集めた。集まった諸将は、神代勝利・高木鑑房・同胤秀・小田政光・八戸宗暘・江上武種・横岳資誠・馬場鑑周・筑紫惟門・姉川惟安・本告頼景や三犬塚・多久宗時・有馬の各氏であった』





【川副町誌】

『土橋栄益(~略~は、)豊後の大友氏に通じて、神代勝利・高木鑑房・同胤秀・小田政光・八戸宗暘・江上武種・横岳資誠・馬場鑑周・姉川惟安・本告頼景・綾部鎮幸・朝日宗贇・犬塚鎮尚などの東肥前の豪族を中心とする勢力は天文二十年十月、水ヶ江城を、次いで村中城を囲んだ。隆信は城を明け渡して』

『”天正八年 肥前豊太守龍造寺隆信公、同御長男政家公卿一家并御家中幕下之衆知行附写”(~略~)に、以下龍造寺一門、鍋島・小川(小河)・納富などの譜代の有力家臣団が名を連ね、かつては龍造寺氏と対立した馬場・高木・千布・犬塚・綾部・執行などの各氏の名も見える』





【東与賀町史】

『天文二十年(~略~)、少弐氏の再興を謀る馬場・横岳・高木・姉川・八戸・小田氏などが隆信を佐嘉城に攻めた』

『天正三年(~略~)、(龍造寺隆信は)東肥前の本告・姉川・横岳・犬塚などを従え』





【久保田町史】

『少弐氏は多くの一族庶家を生み出した。久保(窪)・出雲・朝日・平井・筑紫・筑後・馬場・横岳の諸氏がそれである』(中略)『”九州治乱記””歴代鎮西志”などにはその配下の武将として、龍造寺・江上・姉川・小田・犬塚・高木・於保・多久・綾部・本告(もとおり)・千葉などの諸氏の名が出ている』

『”歴代鎮西志”によると、天文十六年(~略~)頃肥前中・東部の宗(そう)・筑紫・馬場・横岳・綾部・江上・姉川・小田・犬塚・空閑・本告・高木・神代・八戸・窪田・徳島・千葉胤頼を一七人衆と称し』

『”九州治乱記”によると、天文二十年(~略~)龍造寺胤栄の家臣土橋栄益は、神代・高木・小田・八戸・江上・横岳・馬場・筑紫・姉川・本告の各氏の支援を受け佐賀城攻撃の準備を進めた』



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はい、結論!


 天文期に「大塚氏に言及している資料はひとつもない」ことから、三瀬村史の「大塚」記載は誤植と判明!


 正しくは犬塚のようだ。きゃんきゃん!



 しかし、「北肥戦誌」に「大塚は少弐末裔」と書いてあり、実際に「大塚系譜」が残っていることから、そのこと自体は誤りではないようだが、


 大塚氏は、豪族(一族)としてどこかの地域を治めていなかった。

 大塚氏は、結束しておらず、少弐系武将にバラバラに従って分散しているらしい。

 犬塚氏とは出自が違うので、そういう意味での混同はあまりされていないようだ。



 ということが伺える。


 というわけで、全国の犬塚さん、仲良くいこうぜ!



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