毎度おなじみ、NHK大河ドラマ軍師官兵衛ちゃんを徹底解剖する連載の時間です。
今日の官兵衛ちゃんは、官兵衛の隠居の話、茶々の懐妊と出産、北条氏の動向、などをあっさりとまとめつつも見ごたえのある人間模様に仕立て上げてあります。
毎回、上手に脚本をまとめてくるなあ、と感心しきりなのですが、長政が家督を継ぐと、いつのまにか思慮深く見えてくるから不思議なものです(^^
これまで、当ブログ記事では、官兵衛ちゃんにいろんな「チャチャ」を入れながら書いてきたのですが、今回は、
・・・つ、突っ込みどころが、あまりない!
と茶々懐妊に免じて真面目に進行いたしましょう(笑)
その前に、小さなお楽しみ。まさかのAMEMIYA2週連続クレジットです!
==========
あんなこんなウワサ話もあり、隠居を決意した官兵衛ちゃん。実際に隠居できるのは、もう少し後ですが、家督を長政に譲った後は、秀吉の側近として「京都」にずっと滞在したようです。(京都市に如水町という地名もあります。となりが小寺町なのですが関係あるのかな?)
さて、いよいよ話が出てきた「小田原の北条氏征伐」ですが、ここにあの名作
「のぼうの城」
が関係してきます。
のぼうの城「成田氏」が守った忍城(おしじょう)は、小田原城の支城であり、映画でご覧になれるとおり、
「先に本城である小田原城のほうが落ちてしまった」
という状況。小田原勢で最後まで落ちずに残ったのが、あの忍城というわけ。
ぜひ、官兵衛ちゃんと合わせて「のぼうの城」も見てね!!!
==========
のぼうの城と大塚氏の関係については、当ブログの以前の記事でもとりあげていますので、復習もね!
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/03/blog-post_14.html
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/07/blog-post_8090.html
==========
ついでといってはなんですが、小田原攻めのちょうどこの時期、関東一帯には
「関東髑髏党」
という謎の一団が暗躍しておりました。
この関東髑髏党に追われていた一人の少女を助けてしまったのが、謎のおっさん「玉転がしの捨の介」。
関東髑髏党の首領と、捨の介にはなにやら因縁がある模様。
行きがかり上、髑髏党と戦うことになった捨の介は、これまた謎の髭おやじ、浪人「狸穴二郎衛門」とともに一大アクションを繰り広げるはめに。
捨の介、二郎衛門、そして関東髑髏党の首領「天魔王」の正体とは?!
・・・というのが、実は歴史的事実ではなく、フィクションのお話。
そう、劇団新感線の大ヒット作「髑髏城の七人」でございます。
関東髑髏党の首領の名前は”天魔王”ですから、歴史ファンなら、その正体にピンとくるはず!
のぼうの城の裏で、こんな事件が起こっていたのか!とハマること間違いないので、ぜひこちらもご覧くださいまし(^^
古田新太バージョンと、市川染五郎バージョン、小栗旬バージョンがあるのですが、やっぱり私は古田新太バージョンが・・・(笑)
2014年9月28日日曜日
2014年9月25日木曜日
<調査中>香川県の大塚さん 讃岐生駒家と大塚氏
全国の大塚さんをめぐる調査も、徐々に進んでいる今日この頃ですが、香川県・讃岐地方に詳しい方から
讃岐生駒家の家臣の大塚氏
について情報をいただきました。
讃岐生駒氏の状況は、ウィキペディア「高松藩」の項でちらりと予習しておきましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E8%97%A9
ざっくり言えば、天正15年(うーん、戦国時代でいえば、末期ですな)に秀吉から讃岐を与えられ、そのまま江戸初期まで讃岐を支配したのが生駒氏、ということになります。
さて、情報をお寄せいただいた方からは、生駒家の分限帳を紹介していただきました。
生駒家家臣分限ノ記
http://kousakashikenshoukai.blogspot.jp/2010/10/blog-post_1559.html
これによると、生駒家臣には
大塚采女 500石
大塚茂左衛門 500石
大塚亦市 10人扶持
の3名の大塚氏が存在したようです。
というわけで、ではこれらの大塚氏のルーツがどこか?!ということが当ブログの調査内容になるのですが、ここからなかなか面白くなってきます。
==========
香川県、讃岐国に縁のある「生駒氏」ではあるものの、生駒氏にとって讃岐は本領ではありません。
じゃあ、どこからやってきたのか?というとこれが面白い。
ウィキペディアより「生駒親正」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A7%92%E8%A6%AA%E6%AD%A3
生駒氏の初代は、この生駒親正のおとんである、生駒(もと土田)親重なのですが、この一族はそもそも美濃国の氏族です。
美濃ですので、当然織田家に仕えることになり、また秀吉に仕えるようになるわけで、秀吉から讃岐を与えられる、という一連の流れに繋がってゆきます。
実は、美濃地方に「大塚」姓がいくつか存在していて、織田信長の直接の家臣にも何人かの「大塚氏」が存在していることがわかっています。
さて、ここでウィキペディアをじっくり読みましょう。
親正が讃岐を受領するに当たり、讃岐国の前領主である十河氏の嫡男を「甥の大塚采女に命じて毒殺させた」との記述。
なるほど、生駒氏と大塚氏は親族だということですね。かつ、大塚采女、ここにも登場です。
生駒氏と大塚氏の関係は、こんな記事を発見。
(ちょっと原典がわからないので、要調査ですが・・・)
えんちゅるでぃげん爺が三食繰言 さんのブログより引用
http://d.hatena.ne.jp/muxia/20100426
『本能寺の変で討死した大塚又一郎は実名を正光といい、生駒親正の女婿であったという。又一郎の子、大塚采女正三正は生駒家に仕え、田辺城の戦いなどに参陣している。』
なるほど、あの大塚又一郎の子が大塚采女であり、生駒家と親戚になったということですね。
あの大塚又一郎が、どの大塚又一郎かわからなくなっている人は、以前の記事をどうぞ。
<調査中>織田信長と大塚氏
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/05/blog-post_13.html
ということは、生駒家臣の大塚氏と織田家臣の大塚氏は同族という可能性が高いわけで、ルーツはやはり岐阜近辺と考えるのが妥当だと思います。
生駒家は、讃岐に入ったあと、実は御家騒動を起こして秋田県矢島町にひっそりと飛ばされるため、もしかしたら大塚氏の子孫の一部がそちらに行っている可能性もあります。
==========
ちなみに、讃岐生駒氏に属した大塚氏については、もう一名名前を見つけました。
香川県埋蔵文化財調査センターだより より
https://www.pref.kagawa.lg.jp/maibun/inishienosanuki/inishienosanuki31.pdf#search='%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E9%87%87%E5%A5%B3'
これによると大塚采女の家のとなりに「大塚八右衛門」の家があったそうです。
というわけで、香川県の大塚さん!家紋教えてください!
讃岐生駒家の家臣の大塚氏
について情報をいただきました。
讃岐生駒氏の状況は、ウィキペディア「高松藩」の項でちらりと予習しておきましょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E6%9D%BE%E8%97%A9
ざっくり言えば、天正15年(うーん、戦国時代でいえば、末期ですな)に秀吉から讃岐を与えられ、そのまま江戸初期まで讃岐を支配したのが生駒氏、ということになります。
さて、情報をお寄せいただいた方からは、生駒家の分限帳を紹介していただきました。
生駒家家臣分限ノ記
http://kousakashikenshoukai.blogspot.jp/2010/10/blog-post_1559.html
これによると、生駒家臣には
大塚采女 500石
大塚茂左衛門 500石
大塚亦市 10人扶持
の3名の大塚氏が存在したようです。
というわけで、ではこれらの大塚氏のルーツがどこか?!ということが当ブログの調査内容になるのですが、ここからなかなか面白くなってきます。
==========
香川県、讃岐国に縁のある「生駒氏」ではあるものの、生駒氏にとって讃岐は本領ではありません。
じゃあ、どこからやってきたのか?というとこれが面白い。
ウィキペディアより「生駒親正」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%A7%92%E8%A6%AA%E6%AD%A3
生駒氏の初代は、この生駒親正のおとんである、生駒(もと土田)親重なのですが、この一族はそもそも美濃国の氏族です。
美濃ですので、当然織田家に仕えることになり、また秀吉に仕えるようになるわけで、秀吉から讃岐を与えられる、という一連の流れに繋がってゆきます。
実は、美濃地方に「大塚」姓がいくつか存在していて、織田信長の直接の家臣にも何人かの「大塚氏」が存在していることがわかっています。
さて、ここでウィキペディアをじっくり読みましょう。
親正が讃岐を受領するに当たり、讃岐国の前領主である十河氏の嫡男を「甥の大塚采女に命じて毒殺させた」との記述。
なるほど、生駒氏と大塚氏は親族だということですね。かつ、大塚采女、ここにも登場です。
生駒氏と大塚氏の関係は、こんな記事を発見。
(ちょっと原典がわからないので、要調査ですが・・・)
えんちゅるでぃげん爺が三食繰言 さんのブログより引用
http://d.hatena.ne.jp/muxia/20100426
『本能寺の変で討死した大塚又一郎は実名を正光といい、生駒親正の女婿であったという。又一郎の子、大塚采女正三正は生駒家に仕え、田辺城の戦いなどに参陣している。』
なるほど、あの大塚又一郎の子が大塚采女であり、生駒家と親戚になったということですね。
あの大塚又一郎が、どの大塚又一郎かわからなくなっている人は、以前の記事をどうぞ。
<調査中>織田信長と大塚氏
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/05/blog-post_13.html
ということは、生駒家臣の大塚氏と織田家臣の大塚氏は同族という可能性が高いわけで、ルーツはやはり岐阜近辺と考えるのが妥当だと思います。
生駒家は、讃岐に入ったあと、実は御家騒動を起こして秋田県矢島町にひっそりと飛ばされるため、もしかしたら大塚氏の子孫の一部がそちらに行っている可能性もあります。
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ちなみに、讃岐生駒氏に属した大塚氏については、もう一名名前を見つけました。
香川県埋蔵文化財調査センターだより より
https://www.pref.kagawa.lg.jp/maibun/inishienosanuki/inishienosanuki31.pdf#search='%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E9%87%87%E5%A5%B3'
これによると大塚采女の家のとなりに「大塚八右衛門」の家があったそうです。
というわけで、香川県の大塚さん!家紋教えてください!
2014年9月24日水曜日
<94>佐賀・蓮池鍋島藩と関わりのある大塚氏
当家、大塚氏探しの旅を続ける「俺ん家コード本編」では、かなりおひさしぶりの更新になるのだが、近況をご報告。
ふだんは、官兵衛ちゃんネタとか、周辺事項とかで「尺を繋いでる」感も否めない当ブログだが、水面下ではいろいろと活躍しているらしい今日この頃である。
三潴地方の「大塚姓」については、どうやらその源流が佐賀にあるらしい、ということで現在は佐賀の大塚さんからの情報を集約しながら、同時に同じ「少弐」系の各苗字についても平行して追跡しているというのがこれまでのあらすじ。
そんな中、佐賀に縁のある大塚さんから、新しい情報を寄せていただいた。
詳細については、個人情報のこともあり、まろやかにぼかして紹介するが、どうやら
佐賀、蓮池鍋島藩士もしくは蓮池鍋島領と関わりのある大塚氏
が存在するらしく、このルートは未発見だったので面白くなってきたところである。
==========
さて、蓮池藩とはどんな藩なのか。
龍造寺くまモン隆信亡き後、少弐=龍造寺系の正当な後継者を自認し、またそれらしく活動してきたのが、佐賀藩祖となる鍋島氏である。
その鍋島氏が、龍造寺の影響力を超えるために、とある秘策を打つ。それが支藩を作って「鍋島軍団」で龍造寺エリアを囲む、というテクニックであった。
(ここで、西部警察のテーマを脳内で流していただきたい♪)
ちゃんちゃんちゃーん♪ ちゃちゃっちゃ、ちゃちゃちゃーん♪
「ボス 鍋島家」 北肥戦誌ではおなじみの信生の息子「鍋島勝茂」より始まる鍋島宗家
「渡 蓮池鍋島家」 勝茂の子、直澄よりはじまる。もともとは佐賀城三の丸が政庁。のち蓮池へ。
「神田 小城鍋島家」 勝茂の子、元茂よりはじまる。佐賀城西の丸が政庁。のち小城へ。
「館 鹿島鍋島家」 勝茂の弟、忠茂よりはじまる。鹿島地方を掌握。
というわけで、蓮池と小城については、元々は佐賀城本体に帰属し、領地だけが分かれている社内ベンチャーのような存在だったのだが、それぞれの支藩に別れてのちは、
「個別に参勤交代を行う」
などの独立性を持ち、そのせいで鍋島一族はお金ばかりかかって苦労するはめになる。
まあ、松下とサンヨーに別れてまた松下に戻るようなものかな。ちがうかー。
==========
そうした由来なので、蓮池藩に存在した大塚氏が独立した存在なのか、と言えばどうもそうは考えられない。
本来は佐賀藩本体、つまり少弐=龍造寺=鍋島=ラインの全体の分脈の中で存在する大塚氏であろうので、大元は少弐系藤原氏もしくは、本庄神社系藤原氏であろうと思っている。
それにしても、最近調査が進んで思うのは、おなじ少弐末裔である「筑紫・朝日・馬場など」の諸氏に対して、大塚氏は最初からあまり独立せず、少弐=龍造寺=鍋島の家臣として
それとなくさりげなくひっそりと
自己主張せず生き延びてきているらしい。
佐賀本藩と支藩も、のちにしょっちゅうケンカすることになるのだが、どこの氏族も「独立志向」を始めると仲間内で争うことになる。
赤松氏の一族もそうだし、少弐の末裔も同じで、どうしても「俺が俺が」になるらしい。
その点、大塚氏は歴史の表舞台からは抹殺されているに等しいので、そもそも少弐系大塚氏の存在を知っている研究者ですら、それほど多くないと思われる。
なぜ歴史から抹殺されているのか!それは他のビッグネームにやられているからに他ならないのである(苦笑)
というわけで、ワタクシ大塚某も全国の大塚氏の片隅でひっそりと今日も生きている。なーんて。
2014年9月21日日曜日
<話題>今日の軍師官兵衛ちゃんはじめました。 ダブル驚きの展開!の巻
毎度おなじみ「今週の軍師官兵衛ちゃん」のお時間がやってきました。
今日は、オープニングから
驚き!で目が離せない!
状態でした。
6時からのBSバージョンをご覧になった方、気付きましたか?!
オープニングの出演者の欄に
AMEMIYA
の文字があることを。
冷やし中華の時期はとっくに過ぎているのに、なぜかAMEMIYA!
ほんとにAMEMIYA?
と、目を疑いながら本編スタート!
さあ、8時からの通常版をご覧の方は、ぜひ目を凝らして「AMEMIYA」を探してくださいね!
確実に出てきますので、お楽しみに!
==========
そんなオープニングの驚きをさらに上回る「さらなる驚きの展開」が続きます。
先日より引っ張っている「豊前宇都宮・城井氏」謀殺のお話、なんと宇都宮の息子を
官兵衛ちゃんが直接その手で!!!!!あんなことやこんなことを!!!!!
してしまいます。
史実では、官兵衛ちゃんの放った刺客に殺されることになっている宇都宮朝房を、あろうことか、
岡田くん本人に殺させてしまう
という大河のすごさ!!!
思わず、「ひらパーにいさあああああーん!」と絶叫してしまいました。
その代わり、侍女もろとも惨殺されることになっていた鶴姫を逃がすという、
ドラえもんとのび太くんばりに歴史を変えてしまう
というストーリー展開、なかなか驚きが続きます。
==========
物語は、
◇ ダメっ子長政ちゃん、おかんに叱られる
◇ 茶々の決めセリフ、「あなたの子供がほちいの」
◇ AMEMIYA、こんなところで登場
の三本立てで進行しますので、特に「長政ちゃんファン」には、よだれものです。
基本的に黒田家を救ったはずなのに、「ダメっこ」「ドジっこ」扱いされてしまうという黒田家中での長政の扱いがみどころです。
歴史ファンには、今回から「せいしょこさん」登場ですから、これまた見逃せません。今後話が展開する朝鮮出兵にも、大きく絡んでゆく武将ですので、楽しみですね。
今日は、オープニングから
驚き!で目が離せない!
状態でした。
6時からのBSバージョンをご覧になった方、気付きましたか?!
オープニングの出演者の欄に
AMEMIYA
の文字があることを。
冷やし中華の時期はとっくに過ぎているのに、なぜかAMEMIYA!
ほんとにAMEMIYA?
と、目を疑いながら本編スタート!
さあ、8時からの通常版をご覧の方は、ぜひ目を凝らして「AMEMIYA」を探してくださいね!
確実に出てきますので、お楽しみに!
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そんなオープニングの驚きをさらに上回る「さらなる驚きの展開」が続きます。
先日より引っ張っている「豊前宇都宮・城井氏」謀殺のお話、なんと宇都宮の息子を
官兵衛ちゃんが直接その手で!!!!!あんなことやこんなことを!!!!!
してしまいます。
史実では、官兵衛ちゃんの放った刺客に殺されることになっている宇都宮朝房を、あろうことか、
岡田くん本人に殺させてしまう
という大河のすごさ!!!
思わず、「ひらパーにいさあああああーん!」と絶叫してしまいました。
その代わり、侍女もろとも惨殺されることになっていた鶴姫を逃がすという、
ドラえもんとのび太くんばりに歴史を変えてしまう
というストーリー展開、なかなか驚きが続きます。
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物語は、
◇ ダメっ子長政ちゃん、おかんに叱られる
◇ 茶々の決めセリフ、「あなたの子供がほちいの」
◇ AMEMIYA、こんなところで登場
の三本立てで進行しますので、特に「長政ちゃんファン」には、よだれものです。
基本的に黒田家を救ったはずなのに、「ダメっこ」「ドジっこ」扱いされてしまうという黒田家中での長政の扱いがみどころです。
歴史ファンには、今回から「せいしょこさん」登場ですから、これまた見逃せません。今後話が展開する朝鮮出兵にも、大きく絡んでゆく武将ですので、楽しみですね。
2014年9月19日金曜日
<<尋ね人>>神奈川県?ご在住と思われる大塚さんに関わりのある方について<再掲>
今回の記事は、ほんの一部の方に向けてのご案内です。
必要性がなくなり次第消去しますので、あしからず。
『神奈川県ご在住と又聞きしておりますが、大塚さんにゆかりのある方で、最近九州・筑後三潴方面にルーツ探しの旅に行かれた方』
について、大塚さんもしくは大塚姓に関わりがある方と伺います。
もし、当ブログをご覧になっておられましたら、ぜひ
samurai_otsuka@yahoo.co.jp 大塚某
までメールでお知らせくださいませ。
おそらく、お尋ねの情報を当方で所有している可能性が高いです。
よろしくご返事のほどお願い申し上げます。
必要性がなくなり次第消去しますので、あしからず。
『神奈川県ご在住と又聞きしておりますが、大塚さんにゆかりのある方で、最近九州・筑後三潴方面にルーツ探しの旅に行かれた方』
について、大塚さんもしくは大塚姓に関わりがある方と伺います。
もし、当ブログをご覧になっておられましたら、ぜひ
samurai_otsuka@yahoo.co.jp 大塚某
までメールでお知らせくださいませ。
おそらく、お尋ねの情報を当方で所有している可能性が高いです。
よろしくご返事のほどお願い申し上げます。
2014年9月18日木曜日
<話題> 祝!荒木村重(田中さん)婚礼!
今日は、おめでたい話題です。
当ブログで全力を挙げてプッシュしていた大河ドラマ「荒木村重ちゃん」こと田中哲司さんが、なんとご結婚なさるそうです!
おめでとうございます。
奥方になられるのは、これまた連続テレビ小説「柳原白蓮ちゃん」こと仲間由紀恵さん。
仲間由紀恵さんも、ワタクシ大のTRICKファンですので、まるっとごりっと心からお祝い申し上げます。ウヒョヒョヒョヒョ!
それにしても、芸能界の誇る名優二人が一緒になられるということで、末永くお幸せになっていただきたい!
いや~、これから田中さん、仲間さんの出演なさる映画やドラマがいっそう楽しみになります。
どこかで上田次郎からのお祝いコメント放映してくれないかな~!
ファンファン大佐もきっとあの世で喜んでおられることでしょう!
当ブログで全力を挙げてプッシュしていた大河ドラマ「荒木村重ちゃん」こと田中哲司さんが、なんとご結婚なさるそうです!
おめでとうございます。
奥方になられるのは、これまた連続テレビ小説「柳原白蓮ちゃん」こと仲間由紀恵さん。
仲間由紀恵さんも、ワタクシ大のTRICKファンですので、まるっとごりっと心からお祝い申し上げます。ウヒョヒョヒョヒョ!
それにしても、芸能界の誇る名優二人が一緒になられるということで、末永くお幸せになっていただきたい!
いや~、これから田中さん、仲間さんの出演なさる映画やドラマがいっそう楽しみになります。
どこかで上田次郎からのお祝いコメント放映してくれないかな~!
ファンファン大佐もきっとあの世で喜んでおられることでしょう!
2014年9月14日日曜日
<話題>今日の軍師官兵衛ちゃん 宇都宮、謀殺。
毎週日曜日のお楽しみ、軍師官兵衛ちゃんのコーナーです。
いつもならBS版大河ドラマを一足先に視聴して、地上派本編が始まる前にブログに書いてしまうところですが、いろんなことがあって今回は遅くなりました。
いろんなこと?そう!猫にLANケーブルを食いちぎられたとか、たこ焼きパーティをしていて、アホほど焼かされていたとか、いろいろです。
犯人はおそらく、こいつ。
3箇所ほど穴があいていました。
さて、そんな慌てふためいた中で、8時からの本編を拝聴した今日の「軍師官兵衛ちゃん」ですが、
なかなかの素晴らしい回
でしたね!
城井氏謀殺の件、どんな風に描くのかな、と思っていたら、あんなふう(笑)でした。
ポイントをおさらい。
① 秀吉のいけずによって、どんどんと追い詰められる黒田一族。
② 官兵衛ちゃん、というより岡田君に汚れ役をやらせない、上手い表現技法。
③ とりあえず、アホの長政にやらせとけ、みたいな。
==========
この3つのポイントによって、史実から大きく逸れることなく、かつ岡田君のジャニーズらしさを損なわない素晴らしい脚本が完成しました。
今回は、心おきなく脚本家に一本とられた感じです!パチパチパチ。
しかし、史実によれば、このあと、宇都宮の息子の朝房と鶴姫は、今度は長政ではなく
官兵衛ちゃんの手によって抹殺
されますので、そこをどう描くのかがさらに見所です。
さすがに、長政にばかり悪役をさせるわけにはいきません。あのいい男官兵衛ちゃんの悪事を、とくと拝見したいところですね。
しかし、今回の長政は、ハリウッド映画だったら、真っ先に殺されてる脇役バリに浅はかさ満載でした。命からがら逃げ帰ってきても、親父に張り倒される始末。
日本中のみんなが、「アホか!長政!」と応援していることを忘れないでね!
いつもならBS版大河ドラマを一足先に視聴して、地上派本編が始まる前にブログに書いてしまうところですが、いろんなことがあって今回は遅くなりました。
いろんなこと?そう!猫にLANケーブルを食いちぎられたとか、たこ焼きパーティをしていて、アホほど焼かされていたとか、いろいろです。
犯人はおそらく、こいつ。
3箇所ほど穴があいていました。
さて、そんな慌てふためいた中で、8時からの本編を拝聴した今日の「軍師官兵衛ちゃん」ですが、
なかなかの素晴らしい回
でしたね!
城井氏謀殺の件、どんな風に描くのかな、と思っていたら、あんなふう(笑)でした。
ポイントをおさらい。
① 秀吉のいけずによって、どんどんと追い詰められる黒田一族。
② 官兵衛ちゃん、というより岡田君に汚れ役をやらせない、上手い表現技法。
③ とりあえず、アホの長政にやらせとけ、みたいな。
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この3つのポイントによって、史実から大きく逸れることなく、かつ岡田君のジャニーズらしさを損なわない素晴らしい脚本が完成しました。
今回は、心おきなく脚本家に一本とられた感じです!パチパチパチ。
しかし、史実によれば、このあと、宇都宮の息子の朝房と鶴姫は、今度は長政ではなく
官兵衛ちゃんの手によって抹殺
されますので、そこをどう描くのかがさらに見所です。
さすがに、長政にばかり悪役をさせるわけにはいきません。あのいい男官兵衛ちゃんの悪事を、とくと拝見したいところですね。
しかし、今回の長政は、ハリウッド映画だったら、真っ先に殺されてる脇役バリに浅はかさ満載でした。命からがら逃げ帰ってきても、親父に張り倒される始末。
日本中のみんなが、「アホか!長政!」と応援していることを忘れないでね!
2014年9月12日金曜日
<特別編・補足> 森鴎外「栗山大膳」に登場する大塚権兵衛について
以前、福岡藩に関わる大塚氏についての特別編ということで、文豪「森鴎外」の描いた作品の中に大塚氏が登場することについて2つばかり記事を書きました。
<特別編>文豪森鴎外の描く大塚氏 ~「栗山大膳」を読む~
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_22.html
<特別編つづき>「栗山大膳」登場の「大塚権兵衛」の正体
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_28.html
ここでは、大塚権兵衛とは何者か、ということについてあれこれ資料を引っ張ってきて考察したのですが、新たに詳しい事情をご存知の方からご連絡をいただきました!
心より感謝申し上げます!
なんとこの方、吉田家の系図を調べてくださっており、より詳しいことがわかってきました。
以下、その方のメールより、重要箇所を引用しておきます。
”吉田家の系図を確認しましたところ、記載されているとおり吉田久太夫の子が大塚権兵衛家を継いでいます。
これをもう少し詳しく述べると、吉田久太夫利安の二男六之助(寛永20年生:初名半之助)が大塚権兵衛直重の養子になり十右衛門直信となりました。
直信の母は竹中半兵衛重治の曾孫です。
また、父吉田久太夫利安の母(長光院)は毛利元就と大友宗麟の孫にあたる人ですので、この大塚家も毛利元就、大友宗麟、竹中半兵衛の血をひくのではないでしょうか。”
大塚氏の出自は明らかではありませんが、実際に養子として大塚氏を継いだ吉田久太夫の子の系統が明らかになりました。
竹中半兵衛に繋がるあたり、大河ドラマファンとしてはワクワクですね!
その他、前記事では明示していなかった「吉田家」と「小河家」についても教えてくださいました。
”両家とも黒田24騎(吉田壱岐長利と小河傳右衛門信章)の家であり、吉田家も元々姫路(八代)の出身で吉田家と小河家とは血縁関係があります。
例えば、吉田久太夫利安の兄吉田六郎太夫知年の妻が小河内蔵允之直の娘です。”
私もちょっとまだ手がつけられていないのですが、播磨にはもともと「淡河」という地名や「淡河氏」という一族がおり、赤松系に所属していました。
その淡河氏は現在地元では「おうご」と発音するのですが、「淡河」「小河」「小川」といった一族が関連しているのではないか、と言われています。
また、大塚十右衛門直重が正徳6年に没しており、曹洞宗大宝山明光寺に葬られているとのことですので、こちらも次回九州行きの際には要チェックですね。
==========
こうして当ブログでは、大塚さんに関わる数多くの人の情報交換によって、さらなる歴史の真実に近づくという
まるで、大塚SNS(ソーシャルネットワークサービス)
と化しております(笑)
個人情報には特に配慮してデータを取り扱っておりますので、遠慮なくメールくださいね!
匿名でもいっこうにかまいません。
『大塚』に関しては、世界一詳しいブログを自負しております。(まあ、世界一ですな、結果的に。みなさまのおかげです。)
今後ともよろしくお願い申し上げます。
<特別編>文豪森鴎外の描く大塚氏 ~「栗山大膳」を読む~
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_22.html
<特別編つづき>「栗山大膳」登場の「大塚権兵衛」の正体
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_28.html
ここでは、大塚権兵衛とは何者か、ということについてあれこれ資料を引っ張ってきて考察したのですが、新たに詳しい事情をご存知の方からご連絡をいただきました!
心より感謝申し上げます!
なんとこの方、吉田家の系図を調べてくださっており、より詳しいことがわかってきました。
以下、その方のメールより、重要箇所を引用しておきます。
”吉田家の系図を確認しましたところ、記載されているとおり吉田久太夫の子が大塚権兵衛家を継いでいます。
これをもう少し詳しく述べると、吉田久太夫利安の二男六之助(寛永20年生:初名半之助)が大塚権兵衛直重の養子になり十右衛門直信となりました。
直信の母は竹中半兵衛重治の曾孫です。
また、父吉田久太夫利安の母(長光院)は毛利元就と大友宗麟の孫にあたる人ですので、この大塚家も毛利元就、大友宗麟、竹中半兵衛の血をひくのではないでしょうか。”
大塚氏の出自は明らかではありませんが、実際に養子として大塚氏を継いだ吉田久太夫の子の系統が明らかになりました。
竹中半兵衛に繋がるあたり、大河ドラマファンとしてはワクワクですね!
その他、前記事では明示していなかった「吉田家」と「小河家」についても教えてくださいました。
”両家とも黒田24騎(吉田壱岐長利と小河傳右衛門信章)の家であり、吉田家も元々姫路(八代)の出身で吉田家と小河家とは血縁関係があります。
例えば、吉田久太夫利安の兄吉田六郎太夫知年の妻が小河内蔵允之直の娘です。”
私もちょっとまだ手がつけられていないのですが、播磨にはもともと「淡河」という地名や「淡河氏」という一族がおり、赤松系に所属していました。
その淡河氏は現在地元では「おうご」と発音するのですが、「淡河」「小河」「小川」といった一族が関連しているのではないか、と言われています。
また、大塚十右衛門直重が正徳6年に没しており、曹洞宗大宝山明光寺に葬られているとのことですので、こちらも次回九州行きの際には要チェックですね。
==========
こうして当ブログでは、大塚さんに関わる数多くの人の情報交換によって、さらなる歴史の真実に近づくという
まるで、大塚SNS(ソーシャルネットワークサービス)
と化しております(笑)
個人情報には特に配慮してデータを取り扱っておりますので、遠慮なくメールくださいね!
匿名でもいっこうにかまいません。
『大塚』に関しては、世界一詳しいブログを自負しております。(まあ、世界一ですな、結果的に。みなさまのおかげです。)
今後ともよろしくお願い申し上げます。
2014年9月11日木曜日
<妄想>この国を作ったのは信長だ?! 戦国から読み解く現代日本のあれこれ
大河ドラマが「軍師官兵衛ちゃん」だからか、最近NHKで戦国がらみのネタをいろいろやってくれているのでつい見てしまいます。
たとえば、歴史ヒストリアで「関が原の農民から見た合戦の様子」を取り上げていたり、タイプスクープハンターで「武将の手柄とは」というテーマでリサーチがあったり。
現代の日本人からすれば「へー、ほー、ふーん」な遠い昔の話のように思いますが、実は私は
現代日本は、戦国時代を引きずっている?!
という大胆な仮説を根に持っています(笑)
逆の言い方をすれば、
現代日本のありようを作ったのは、実は信長様だ?!
とまで言えるかもしれません。
これはもう、「第六天魔王」を祀らねばならないほどです(爆)
そんな冗談はさておき、なぜ現代日本が戦国時代の影響下にあると言えるのか、ということをちょびっとだけお話してみたいと思います。
たとえば、私は中高時代のみ「織田家」の領地で過ごしていたのですが、(つまり織田藩のエリアに住んでいたということ)、面白いことに、その町はど田舎村にあるのに、その地区の高校は県内でも最も歴史が古い学校のひとつであり、早くから旧制中学や女学校が整備されていたのです。
それから、近隣の市町村に比べて、なぜかど田舎村のその町に「県の総合庁舎」があり、県の土木事務所の出先機関があったり、地方裁判所の支部があったりするのです。
ということはつまり、県や国の重要出張所が、他の地域を差し置いてなぜかその町にある、ということになるわけです。
なんでか?!
歴史的には、織田藩が「徳川家の主君筋」であるからに他なりません。
簡単に言えば、現代の県と市町村は、江戸時代の藩のエリアに準じて制定されており、行政機構もその影響下にあります。
そして、各地域が特に行政上の重要度において序列化されており、その序列のもともとの基準は、徳川家との関係にあると言っても過言ではないわけです。
もちろん、経済社会になってからは、港があったり、工場ができたりして、経済的により発展してしまった町はいくらでもあります。
それでも行政上は、それらの振興都市よりも「徳川的親藩・譜代市町村」のほうが優遇されているという不思議があったりするわけです。
==========
これらのことは、実はあんまり紹介されたり、議論されたりしていません。ちょっとした現代史の謎だったりします。
さて、徳川時代の影響を受けている、ということはその礎はつまり、戦国時代にあるということにもなります。
以前、このブログでもお話しましたが、最終的に豪農・庄屋などとして農地を現地支配したのは、元々は直接領有していた「戦国武将」たちでした。それは、天下統一以降の「近代大名」たちのような転勤制度とは違い、天正15年前後で固定化された戦国イス取りゲームの勝者?たちだったということです。
その後の江戸時代300年間は、天正15年で「はい!そこでストップ!」となった身分や地域が、そのまま冷凍保存された期間だった、ということになります。
では、その冷凍期間が終わったら、日本はどうなったのか?
==========
最近、もともとうちの奥さんが「新撰組」ファンだったこともあって、幕末期の状況について書物を読んだりしているのですが、面白いことに気付きました。
私は、坂本龍馬がどうのとか、池田屋がどうのとか、あんまりそこらへんの「幕末の志士ネタ」に食いつかない方なので、アレなのですが、一般的に議論されないところに興味が沸いております。
それは何か?!
・・・なぜ、薩長土肥なのか!
ということです。
明治以降の日本、この薩摩・長州・土佐・肥前出身者が政治を動かしてきたことは紛れもない事実です。
でも、なぜ薩長土肥なのでしょう。
「軍師官兵衛ちゃん」を毎週ご覧になっている方は「ん?」と思われると思います。
薩摩・・・島津家。
長州・・・毛利家。
土佐・・・山内家。
肥前・・・鍋島家。
なーんとなく、わかってきました?
そう、いずれも天下統一まで「反信長勢力」の雄だったところなのです。そして、いずれも
中国以西の西日本
エリアの諸藩ということになります。まさに官兵衛ちゃんが攻略したエリアです。
これは単なる偶然なのでしょうか?!
現代日本とは、信長の亡霊に対するアンチテーゼだというのです!
==========
もうすこし詳しいことを見てゆきましょう。
薩摩藩はいわずとしれた島津氏の領地であり、秀吉軍(官兵衛ちゃん)に攻められるまで抵抗を続けていた最後の「反信長勢力」でした。
長州はこれまた「あの」毛利の最後の領地です。中国地帯を全て手中にしていた毛利一族ですが、のちにいろいろあって長州だけを与えられて過ごすことになっていました。そして、毛利を攻略したのは、これまた官兵衛ちゃんです。
土佐は、少し説明が必要です。山内家はあとから入ってきたのですが、もともと四国を治めていたのは「長宗我部氏」です。ところが、四国はこれまた「官兵衛ちゃん」に滅ぼされてしまい、いろいろあって、長宗我部は土佐のみ領地とされます。
その後、土佐藩は関が原以降山内氏の領地になりますが、そこに長宗我部旧家臣が山ほど残留している状態となり、土佐藩は手を焼きます。山内氏は、藩政のうち上層部を山内系で占め、郷士という形で長宗我部系を一応藩政に組み込みつつ差別します。
土佐藩は、おそらく藩士内での上下関係が一番厳しく、下士は上士とすれ違うときは土下座せねばならないほどでした。
坂本龍馬たち「下士」が幕末を大きく動かすのも、このことに関係があります。つまり、土佐は「長宗我部」の遺志で動いているわけです。
肥前は、我らが鍋島藩ですが、島津と並んで少弐・龍造寺・鍋島と続く純粋培養九州人です。大河ドラマではスルーされましたが、もともと信長とは無関係で独立していたのに、九州動乱の渦の中で秀吉側に恭順してゆくことになりました。
==========
こうしてみると、意外な背景が明らかになってきます。
信長の戦国時代とは、中部地方から関東、北部へと延びてゆく天下統一戦線。
秀吉の戦国時代とは、中部地方から関西、九州へと延びてゆく天下統一戦線。
家康の統治とは、関東を軸足とした全国支配。
だったことがわかります。
それに対して、明治維新は
「中国・四国を中心にした、反信長・秀吉・家康運動」
と考えることも可能です。
それは、
信長以前の状態に戻す運動
と言っても過言ではありません。
だ・か・ら、朝廷(皇室)が出てくるのです。
そう考えてゆくと、面白いでしょ?!
たとえば、歴史ヒストリアで「関が原の農民から見た合戦の様子」を取り上げていたり、タイプスクープハンターで「武将の手柄とは」というテーマでリサーチがあったり。
現代の日本人からすれば「へー、ほー、ふーん」な遠い昔の話のように思いますが、実は私は
現代日本は、戦国時代を引きずっている?!
という大胆な仮説を根に持っています(笑)
逆の言い方をすれば、
現代日本のありようを作ったのは、実は信長様だ?!
とまで言えるかもしれません。
これはもう、「第六天魔王」を祀らねばならないほどです(爆)
そんな冗談はさておき、なぜ現代日本が戦国時代の影響下にあると言えるのか、ということをちょびっとだけお話してみたいと思います。
たとえば、私は中高時代のみ「織田家」の領地で過ごしていたのですが、(つまり織田藩のエリアに住んでいたということ)、面白いことに、その町はど田舎村にあるのに、その地区の高校は県内でも最も歴史が古い学校のひとつであり、早くから旧制中学や女学校が整備されていたのです。
それから、近隣の市町村に比べて、なぜかど田舎村のその町に「県の総合庁舎」があり、県の土木事務所の出先機関があったり、地方裁判所の支部があったりするのです。
ということはつまり、県や国の重要出張所が、他の地域を差し置いてなぜかその町にある、ということになるわけです。
なんでか?!
歴史的には、織田藩が「徳川家の主君筋」であるからに他なりません。
簡単に言えば、現代の県と市町村は、江戸時代の藩のエリアに準じて制定されており、行政機構もその影響下にあります。
そして、各地域が特に行政上の重要度において序列化されており、その序列のもともとの基準は、徳川家との関係にあると言っても過言ではないわけです。
もちろん、経済社会になってからは、港があったり、工場ができたりして、経済的により発展してしまった町はいくらでもあります。
それでも行政上は、それらの振興都市よりも「徳川的親藩・譜代市町村」のほうが優遇されているという不思議があったりするわけです。
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これらのことは、実はあんまり紹介されたり、議論されたりしていません。ちょっとした現代史の謎だったりします。
さて、徳川時代の影響を受けている、ということはその礎はつまり、戦国時代にあるということにもなります。
以前、このブログでもお話しましたが、最終的に豪農・庄屋などとして農地を現地支配したのは、元々は直接領有していた「戦国武将」たちでした。それは、天下統一以降の「近代大名」たちのような転勤制度とは違い、天正15年前後で固定化された戦国イス取りゲームの勝者?たちだったということです。
その後の江戸時代300年間は、天正15年で「はい!そこでストップ!」となった身分や地域が、そのまま冷凍保存された期間だった、ということになります。
では、その冷凍期間が終わったら、日本はどうなったのか?
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最近、もともとうちの奥さんが「新撰組」ファンだったこともあって、幕末期の状況について書物を読んだりしているのですが、面白いことに気付きました。
私は、坂本龍馬がどうのとか、池田屋がどうのとか、あんまりそこらへんの「幕末の志士ネタ」に食いつかない方なので、アレなのですが、一般的に議論されないところに興味が沸いております。
それは何か?!
・・・なぜ、薩長土肥なのか!
ということです。
明治以降の日本、この薩摩・長州・土佐・肥前出身者が政治を動かしてきたことは紛れもない事実です。
でも、なぜ薩長土肥なのでしょう。
「軍師官兵衛ちゃん」を毎週ご覧になっている方は「ん?」と思われると思います。
薩摩・・・島津家。
長州・・・毛利家。
土佐・・・山内家。
肥前・・・鍋島家。
なーんとなく、わかってきました?
そう、いずれも天下統一まで「反信長勢力」の雄だったところなのです。そして、いずれも
中国以西の西日本
エリアの諸藩ということになります。まさに官兵衛ちゃんが攻略したエリアです。
これは単なる偶然なのでしょうか?!
現代日本とは、信長の亡霊に対するアンチテーゼだというのです!
==========
もうすこし詳しいことを見てゆきましょう。
薩摩藩はいわずとしれた島津氏の領地であり、秀吉軍(官兵衛ちゃん)に攻められるまで抵抗を続けていた最後の「反信長勢力」でした。
長州はこれまた「あの」毛利の最後の領地です。中国地帯を全て手中にしていた毛利一族ですが、のちにいろいろあって長州だけを与えられて過ごすことになっていました。そして、毛利を攻略したのは、これまた官兵衛ちゃんです。
土佐は、少し説明が必要です。山内家はあとから入ってきたのですが、もともと四国を治めていたのは「長宗我部氏」です。ところが、四国はこれまた「官兵衛ちゃん」に滅ぼされてしまい、いろいろあって、長宗我部は土佐のみ領地とされます。
その後、土佐藩は関が原以降山内氏の領地になりますが、そこに長宗我部旧家臣が山ほど残留している状態となり、土佐藩は手を焼きます。山内氏は、藩政のうち上層部を山内系で占め、郷士という形で長宗我部系を一応藩政に組み込みつつ差別します。
土佐藩は、おそらく藩士内での上下関係が一番厳しく、下士は上士とすれ違うときは土下座せねばならないほどでした。
坂本龍馬たち「下士」が幕末を大きく動かすのも、このことに関係があります。つまり、土佐は「長宗我部」の遺志で動いているわけです。
肥前は、我らが鍋島藩ですが、島津と並んで少弐・龍造寺・鍋島と続く純粋培養九州人です。大河ドラマではスルーされましたが、もともと信長とは無関係で独立していたのに、九州動乱の渦の中で秀吉側に恭順してゆくことになりました。
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こうしてみると、意外な背景が明らかになってきます。
信長の戦国時代とは、中部地方から関東、北部へと延びてゆく天下統一戦線。
秀吉の戦国時代とは、中部地方から関西、九州へと延びてゆく天下統一戦線。
家康の統治とは、関東を軸足とした全国支配。
だったことがわかります。
それに対して、明治維新は
「中国・四国を中心にした、反信長・秀吉・家康運動」
と考えることも可能です。
それは、
信長以前の状態に戻す運動
と言っても過言ではありません。
だ・か・ら、朝廷(皇室)が出てくるのです。
そう考えてゆくと、面白いでしょ?!
2014年9月10日水曜日
<調査中>全国の大塚さんからのお便り 抱き茗荷追加発見?! 静岡県の大塚さん
お久しぶりです、こんにちは。
当ブログの名物コーナー『今日の軍師官兵衛ちゃん』は毎週更新しているものの、通常の
「日本全国大塚家探しブログ旅」(ロケみつ風に)
はちょびっと停滞している今日このごろ。
はい、その通り!別名義の活動が忙しくて、というかさらには、自治会の役員の仕事やらもあって、バタバタしておりました。
というわけで全国のみなさまから「続きはまだか!新しい情報はないのか!」と叱咤激励の声が聞こえてきそうです。
このゆるーい停滞期間の間に、全国の大塚さん、大塚さんにゆかりのある方から、どんどんお手紙が来ています。
順番に返信しておりますので、みなさま方これからもよろしくお願い申し上げます。
==========
さて、その中で、別の地域の「抱き茗荷大塚家」さんにゆかりのある方からご連絡をいただきました。
これまで「福岡」「徳島」「東京」に記録がある「抱き茗荷」の大塚家ですが、新情報は「静岡」です。
駿河国益津郡の田中藩、本多氏
の家臣に大塚氏がいたようで、その家紋が「抱き茗荷」だそうです。
本多氏の本流は、古くから三河松平氏に仕え、徳川政権下で多くの系列大名や、旗本を輩出しました。
田中藩の本多家は駿河のあと、安房国長尾藩に移動し、幕末を迎えます。
ウィキペディアより 田中藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%97%A9
ご連絡をくださった方の情報では、千葉にもこの系列の大塚氏が別れて移動しているようです。
==========
ところで、ではこの「大塚氏」がどういった氏族か、となると現時点での情報量ではちょっと判別しかねるところ。
もちろん何か意味があって「抱き茗荷」を用いていると思われるので、調査続行です。
本多氏と田中藩の関わりは、享保15年ですから、それ以前の時期に本多氏の「転封元」である上野国沼田藩からついてきたとすれば、
茨城・埼玉系大塚氏
の可能性も出てきます。
本多氏全体として、徳川幕府と密接に関係がありますので、その絡みでどこかからかやってきた大塚氏という可能性もあります。
いずれにしても、三河から北関東あたりが調査範囲になりそうですね。
かるーく気になるのは、本多氏の拠点であった三河国に大塚城というのがあって、そこの岩瀬氏が一度本多氏とガチバトルを繰り広げているので、そのあたりの絡みから本多家臣の大塚姓が生まれても不思議ではなさそうです。
もっとも、↑は思いつきレベルの仮説ですが・・・。
というわけで 静岡、千葉の大塚さん!ブログ読んでいたら連絡くださいね!
当ブログの名物コーナー『今日の軍師官兵衛ちゃん』は毎週更新しているものの、通常の
「日本全国大塚家探しブログ旅」(ロケみつ風に)
はちょびっと停滞している今日このごろ。
はい、その通り!別名義の活動が忙しくて、というかさらには、自治会の役員の仕事やらもあって、バタバタしておりました。
というわけで全国のみなさまから「続きはまだか!新しい情報はないのか!」と叱咤激励の声が聞こえてきそうです。
このゆるーい停滞期間の間に、全国の大塚さん、大塚さんにゆかりのある方から、どんどんお手紙が来ています。
順番に返信しておりますので、みなさま方これからもよろしくお願い申し上げます。
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さて、その中で、別の地域の「抱き茗荷大塚家」さんにゆかりのある方からご連絡をいただきました。
これまで「福岡」「徳島」「東京」に記録がある「抱き茗荷」の大塚家ですが、新情報は「静岡」です。
駿河国益津郡の田中藩、本多氏
の家臣に大塚氏がいたようで、その家紋が「抱き茗荷」だそうです。
本多氏の本流は、古くから三河松平氏に仕え、徳川政権下で多くの系列大名や、旗本を輩出しました。
田中藩の本多家は駿河のあと、安房国長尾藩に移動し、幕末を迎えます。
ウィキペディアより 田中藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%97%A9
ご連絡をくださった方の情報では、千葉にもこの系列の大塚氏が別れて移動しているようです。
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ところで、ではこの「大塚氏」がどういった氏族か、となると現時点での情報量ではちょっと判別しかねるところ。
もちろん何か意味があって「抱き茗荷」を用いていると思われるので、調査続行です。
本多氏と田中藩の関わりは、享保15年ですから、それ以前の時期に本多氏の「転封元」である上野国沼田藩からついてきたとすれば、
茨城・埼玉系大塚氏
の可能性も出てきます。
本多氏全体として、徳川幕府と密接に関係がありますので、その絡みでどこかからかやってきた大塚氏という可能性もあります。
いずれにしても、三河から北関東あたりが調査範囲になりそうですね。
かるーく気になるのは、本多氏の拠点であった三河国に大塚城というのがあって、そこの岩瀬氏が一度本多氏とガチバトルを繰り広げているので、そのあたりの絡みから本多家臣の大塚姓が生まれても不思議ではなさそうです。
もっとも、↑は思いつきレベルの仮説ですが・・・。
というわけで 静岡、千葉の大塚さん!ブログ読んでいたら連絡くださいね!
2014年9月7日日曜日
<話題>今日の軍師官兵衛ちゃん もう!長政のバ・カ!
毎週日曜日のお楽しみ、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛ちゃん」のお時間でございます。
今日のあらすじは、
さらっと高山右近マニラ行き
からスタートして、黒田家の侍女「おふく」が「播磨に残りたい」だの、「やっぱりついていく」だの、
何このおまけエピソード?!
的展開を楽しむ前半部分と、段々とキナ臭い感じになってきた「豊前宇都宮氏」との絡みが後半部分でした。
今日のスタート段階では、「豊前宇都宮(城井)氏がらみは、今日でさらっと決着つけるのかな?」と思いきや、まさかのいいところで「次回に続く!」となり、いい意味で期待を裏切られました!(^^
この後何が起きるのは、来週以降のお楽しみ、結果的にはなかなか濃い展開になります。
========
それにつけてもおやつはカール!
もとい
それにつけても長政ちゃんのバカっぷりがいつも発揮されております(^^
おとうやんが「待て」と言ってるのに待てない、すぐ先走ろうとする黒田長政。今回もテレビの前の皆が
「だから罠だっていってるじゃん長政~!」
と声援を送っているのにも関わらず、 「いや、行く!」と言って突っ込んでいきます。
それがどんな結果になるか!・・・暇な人はググってみてください。
予想通りの展開が待っております(笑)
==========
さて、その長政を支える役どころが我らが赤松系大塚氏ゆかりの後藤又兵衛ちゃんですが、彼から見ても長政ぼっちゃまは「危なっかしい馬鹿息子」だったようで。
のちに黒田家を出て細川家についた又兵衛は、「ところで長政とはどんなヤツだ?」と尋ねられて、「戦になれば突入してくるやつら(黒田軍)の頭から鉄砲隊で撃ちまくっていれば、最初から2番か3番目ぐらいに弾が当たるやつが長政だ」と答えたとか。
それくらい、真っ先に飛び出してくるので「猪武者」とも呼ばれていたようです。
ただし、この話にはオチがあって、細川から見れば「なるほど、又兵衛という男は、長政のことをバカにしているようでいて、元の主君の侍ぶりを自慢しているのだな」と感じ入ったそうで。
==========
ところで、今回のドラマのワンシーンで我らが少弐家の
寄り掛け目結
の紋が一瞬映ったのですが、どういうことでしょう?
ぼけーーっと見ていたので、意味が分かりませんでした。
というわけで、この後8時から、
もう一回官兵衛ちゃんを見る!
という暴挙に出ることにします!!
もう、ボクのバ・カ!!
補足>2回目の視聴でわかりました。隈本に入った佐々成政の家紋が
『角立七つ割り四つ目結』
というものだそうです。角が立っていて(45度傾いている)、かつ四つ目結の線と空白部分が均等に7分割されている四つ目結という家紋です。
NHK大河の絵だと、ふつうの角立四つ目結との差がわかりにくかったですね。
今日のあらすじは、
さらっと高山右近マニラ行き
からスタートして、黒田家の侍女「おふく」が「播磨に残りたい」だの、「やっぱりついていく」だの、
何このおまけエピソード?!
的展開を楽しむ前半部分と、段々とキナ臭い感じになってきた「豊前宇都宮氏」との絡みが後半部分でした。
今日のスタート段階では、「豊前宇都宮(城井)氏がらみは、今日でさらっと決着つけるのかな?」と思いきや、まさかのいいところで「次回に続く!」となり、いい意味で期待を裏切られました!(^^
この後何が起きるのは、来週以降のお楽しみ、結果的にはなかなか濃い展開になります。
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それにつけてもおやつはカール!
もとい
それにつけても長政ちゃんのバカっぷりがいつも発揮されております(^^
おとうやんが「待て」と言ってるのに待てない、すぐ先走ろうとする黒田長政。今回もテレビの前の皆が
「だから罠だっていってるじゃん長政~!」
と声援を送っているのにも関わらず、 「いや、行く!」と言って突っ込んでいきます。
それがどんな結果になるか!・・・暇な人はググってみてください。
予想通りの展開が待っております(笑)
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さて、その長政を支える役どころが我らが赤松系大塚氏ゆかりの後藤又兵衛ちゃんですが、彼から見ても長政ぼっちゃまは「危なっかしい馬鹿息子」だったようで。
のちに黒田家を出て細川家についた又兵衛は、「ところで長政とはどんなヤツだ?」と尋ねられて、「戦になれば突入してくるやつら(黒田軍)の頭から鉄砲隊で撃ちまくっていれば、最初から2番か3番目ぐらいに弾が当たるやつが長政だ」と答えたとか。
それくらい、真っ先に飛び出してくるので「猪武者」とも呼ばれていたようです。
ただし、この話にはオチがあって、細川から見れば「なるほど、又兵衛という男は、長政のことをバカにしているようでいて、元の主君の侍ぶりを自慢しているのだな」と感じ入ったそうで。
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ところで、今回のドラマのワンシーンで我らが少弐家の
寄り掛け目結
の紋が一瞬映ったのですが、どういうことでしょう?
ぼけーーっと見ていたので、意味が分かりませんでした。
というわけで、この後8時から、
もう一回官兵衛ちゃんを見る!
という暴挙に出ることにします!!
もう、ボクのバ・カ!!
補足>2回目の視聴でわかりました。隈本に入った佐々成政の家紋が
『角立七つ割り四つ目結』
というものだそうです。角が立っていて(45度傾いている)、かつ四つ目結の線と空白部分が均等に7分割されている四つ目結という家紋です。
NHK大河の絵だと、ふつうの角立四つ目結との差がわかりにくかったですね。
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