2014年5月30日金曜日

<68>不可思議なデータ ~突然、偶然、それとも必然?!~

 しばらく更新が途絶えているのは、資料の到着を待っているからである。

 ああ、また書籍にお金をつかってしまった。



 「また、つまらぬものを斬ってしまった」


といえば、ルパン三世の五右衛門の台詞であるが、つまらぬものどころか、必要な資料である。


 しかし、うちの嫁はんからすれば、次々に届く「古本」に


「またしょーもないもんばっかり買いやがって!」


となるわけで、こちらは恐縮するばかりである。


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 長きに渡って絶賛お届け中の「わが大塚家の先祖探しツアー」であるが、実はなーんとなく、メドが付き始めている。

 そのためにも資料探しに奔走しているのだが、我らの先祖が「赤松系ではないとすれば、たぶんこうだろう」という推理が、ようやくできるようになった。


 その全容は、近々お伝えできそうな予感だが、請うご期待、といったところ。



 さて、今日はそこへ至る前段階として、また不可思議なデータを見つけたのでそちらを紹介しようと思う。


 以前当ブログでもちらりとお話したが、最近私は「地縁血縁解析法」という謎のテクニックを駆使して、自身の家系について分析しているのだが、その中で面白い事象に遭遇したのである。



 まずは、当ブログの<51>に立ち戻ろう。


 <51>農家 大塚氏の源流?!を求めて!
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/04/blog-post_12.html



 この中で、私の一族の出身のムラ(集落)において、一番多い名字が「北島」で、次が「大塚」であることは既に述べている。


 そして、ムラの中のとある北島家が地主で、またとある大塚家が作人という関係があることで両家のつながりやポジション、立ち位置について考慮すべきであることも頭に入れたわけである。


 そこで、こんなことを調べてみた。そもそも、北島氏とは、どんな一族なのか。


 すると、意外なことがわかったのである。


  以前紹介した「名字分布図鑑」さんで、北島姓を検索するとこうなった。



 「日本名字分布図鑑」さんより北島姓
 http://myozi.web.fc2.com/winter/zukan/frame/f000434.htm


 これだけではわけがわからないので、比較のために


 「日本名字分布図鑑」さんより大塚姓
 http://myozi.web.fc2.com/spring/zukan/frame/f000086.htm



  どちらも「市町村別分布地方地図a6(世帯数)」を広げてよく見てほしい。


 どうだろうか?とても不思議なことに、


「大塚姓」と「北島姓」の存在市町村分布図がとてもよく似ている


ことに気付かないだろうか。もちろん、細かな違いはあるが、大まかな分布としては、共通点が見えそうな感じする。


 さらに面白いことに「名字分布図鑑」さんの左の欄には、その姓の「高密度順位」が載っているのだが、北島姓においては


「1位 三潴郡大木町」「12位 (旧三潴郡・八女郡)筑後市」「17位(旧三潴郡)久留米市城島町」


という結果となっており、「北島は三潴地域の姓」だということがわかるのである。



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 これらのデータが何を示しているのか。それは


「大塚姓と北島姓」が歴史的に何らかの関係を有している


ということに他ならない。


 ちょっと、わかりにくければこういう例えはどうだろう。軍師官兵衛ちゃんでいえば


「小寺姓と黒田姓」


は関わりがある、という具合だ。当ブログではおなじみの「赤松系家臣団」でいえば、


「淡河姓・明石姓・衣笠姓」


などは、関わりがある、という訳だ。



 実際、久留米藩の分限帳にはこのあたりの苗字がやたら出てくるのだが、仮に「淡河さんと明石さん」が住んでいる地区が九州にあれば、

「うーむ、恐らく彼らは播磨からやってきた赤松家臣団だな」

という推測が成り立つわけである。



 残念ながら、北島氏族は、赤松系であるという資料はほとんどないので、大塚-北島ラインが繋がっているとすれば、


「大塚氏・北島氏が仕えた共通の戦国武将がいるのか」


といった目線で考えるのも面白いだろう。



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 ちなみに太田亮大先生の「姓氏家系大辞典」によると九州の北島姓は


 肥後の豪族。藤原氏族で本姓は「益子」氏のち「北島」。

 嘉吉三年の菊池持朝の侍帳に「北島新左衛門」、永正元年政隆の侍帳に「北島長門守氏定」が載っている。


とのこと。


 このあたりはさらなる調査を続行予定である。












2014年5月26日月曜日

<調査中>神奈川県の大塚さん

 いつも全国各地の「大塚さん」や「大塚」にゆかりのある方々からメールを頂いております。

 私のように、今の姓が「大塚」な方はもとより、母方の先祖に「大塚姓」がいらっしゃるなどの情報も断続的に頂いております。

 それぞれの大塚さんがお持ちの情報は断片的でも、繋ぎ合わせてゆくうちに新しい発見があるかもしれません。

 ぜひ、当ブログをお読みになって「面白いなあ」と思われた方は、メールを気軽にいただければ嬉しく思います。



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 さて、神奈川県にゆかりのある「大塚さん」からもご連絡をいただいております。その方は「横須賀」近辺の大塚さんに繋がる方だそうですが、「横須賀」「横浜」近辺にも大塚姓がいくつかあるようです。


 横須賀市のサイト
 http://www.city.yokosuka.kanagawa.jp/0210/shishi/shishi3-kankou.html



 によると、衣笠村というところに「村名主」を務めた大塚家がある、とのこと。


 
 横須賀 西来寺さんのサイト
 http://sairaiji.com/p1.php


 にも、地元の大塚氏のことが少し出てきます。



 地名のことで考えれば、神奈川県の「大塚」地名といえば、真っ先に思い浮かぶのが「相模大塚」ですね。駅もあります。



 ウィキペディアより 相模大塚
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E6%A8%A1%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E9%A7%85



 相模大塚の地名は、もともと古墳があったからのようです。


 というわけで、神奈川県の大塚さん、情報お寄せくださいませ!



2014年5月25日日曜日

<新技術!>ルーツ調べの秘技?!『地縁血縁解析法』って何だ?!

 ・・・ちょっと面白い「先祖調べ・ルーツ探しのための技術」を考案したので、実際に試してみたら


恐ろしい、いや面白いことがわかって


しまいました。


 頭ではわかっていたのですが、実際にやってみると「かなりズバッ」と結果が出るので、新しい活用法があるんじゃないかな、と思います。


 名づけて


「地縁血縁解析法」(先祖家系本貫地解析法)




 地域・地元の縁と一族の血縁を相互に解析するという「情報工学」に基づいた(ホンマか?!)最新技術です。


 情報工学に基づいてはいますが、意外とアナログです。

 いや、でも姓氏・家系調査をやってる人で、このワザを使っている人は意外に少ないんじゃないかなあ、と思う。






<「地縁血縁解析法」(先祖家系本貫地解析法)の良い所>


① その地域(広い地域)において、あなたの姓が特殊であったり、特徴的であったりした場合、あなたの一族の本拠地・本貫地をある程度割り出すことが可能かもしれません。


② たとえば、あなたの先祖がこの地区に「やってきた」という傍証を得ることができます。


③ あなたの一族の広がり、伝播を解析することができます。同族の移住状況などを知ることもできるでしょう。


④ あなたの一族の状況が、目で見て「一発」でわかります。面白いほどわかりやすいです。

 


<「地縁血縁解析法」のだめな所>


① その地域(広い地域)において、あなたの姓があまりにも一般的であったり、あまりにも多い場合に解析の効果が薄い場合があります。

(★その村に同じ苗字の人がたくさんいる、という状況は大丈夫です。解析可能です。むしろ、そのほうが好都合かもしれません。問題になるのは、「どこに行っても田中さんだらけ」とか「その地域の広い範囲で隅々まで鈴木さんがいる」といった状況では解析エラーになります)


② 一族の広がりが、広範囲過ぎた場合には、「伝播状況」はわかりますが「本拠地・本貫地」の解析には役に立たない場合があります。


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 で、具体的にどうやるんだ?!と思っておられる諸氏が多いと思いますが、まだちょっと方法論の確立に時間をかけてますので公開はしばらくお待ちを(ウフ)


 けして捏造ではありません。


「地縁血縁解析法」はあるんです!


私は何回も成功してるんです!


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★ ちなみにわが家系の場合、何がわかったかと言うと・・・。


① 筑後地域をはじめとして、三潴地域に「大塚姓」はもちろん広く流布しているんだけれど、うちに関して言えば


 ある特徴的な分布図を描いている


ことがわかりました。


② そしておそらく、当地域の大塚姓の「核」となるムラが、うちのムラであり、少なくとも同族・近い一族の本拠地ならびに伝播の中心地域が「うちのムラ♪(森高千里風に)」であることがわかりました。


③ ということは、我々の先祖は、何らかの事情で「ピンポイントでそこへやってきた」と考えることができます。


(つまり、大塚姓が生まれるような「塚」はもともとそのムラには無いし、伝承もない。とすれば、何らかの事情で「大塚誰それ」さんが、ある時点で、ポンとそこへやって来た、と考えるのが妥当)


④ その他、周辺事項と組み合わせると驚くべき仮説が立てられる・・・?!




 まあ、そこらへんはもう少し資料が揃えば書いていこうと思います。






2014年5月24日土曜日

<67>『北肥戦誌(九州治乱記)』を読む その3

 またまた続きを。


 近代デジタルライブラリー より 「北肥戦誌・九州治乱記」 エピソードツー
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441746




<コマ82> 大塚内蔵允


 龍造寺四天王の一人らしい「成松遠江守」(成松信勝)に引き続いて戦っている「大塚内蔵允」なる人物の名がちらりと。

 当然、龍造寺家臣。



<コマ85・99・100・107・124・140> 登場回数一位、ぼくかつえもん!

 
 後半戦になって、やたら登場するのがこの人物。龍造寺家臣の「大塚勝右衛門」なる男だが、たくさん出てくる割には、何者かよくわからない。

 
 コマ85では、「龍造寺隆信勢が、ちょっと押されて崩れかかったところ、大塚勝右衛門とその仲間たち30人くらいが頑張ったので、勢いを取り戻した」とある。

 やるな、勝えもん。


 コマ99では、肥後和仁城を攻めるに当たって、龍造寺は「鍋島信生」を筆頭に差し向け、大塚勝右衛門もそこに同行している。


 コマ100では、隅府攻めに際し、基本同じようなメンバーで戦っている。センター「鍋島信子(笑)」、チームNに「大塚勝右衛子(笑)」もいる。

 
 コマ107では、筑後山下城(蒲池志摩守鑑広の城・八女市)攻めに対して、なんと


一番槍


を勤めたらしい。これはっ!総選挙で一位になった「さしこ」みたいなもんなのか!


 ここにいっしょに登場するのが「大塚伯耆守」という人物。何者かは、やっぱりわからない。




★犬塚伯耆守の誤記の可能性あり。犬塚家重・家直か?



 コマ124では、勝右衛門は、我が一族に関わりのある大事件の現場に居合わせている。もちろん、龍造寺側の人間なので、


どちらかと言えば悪役の一味


なのだが、この話はもっとゆっくり別に機会を取るべし。


 事件は「蒲池鎮漣(かまちしげなみ)殺人事件」。鎮漣は、北肥戦誌では「蒲池鎮竝」と記載されている。




<コマ114> 

 龍造寺氏が肥後征伐へ向かう時の話。先陣はやっぱり不動のセンター「鍋島信生」なのだが、二陣に「大塚三郎右衛門家広」なる人物が挙がっている。


これはおそらく誤記で、正しくは「犬塚三郎右衛門家広」であり、肥前中津隈城主であろう。




<コマ140> 既出ですが。


 大塚勝右衛門ならびに大塚内蔵允の記載あり。




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 というわけでざっと見てきたが、「大塚と犬塚の記載まちがいが怪しい箇所」があるので、別の「北肥戦誌」と比較の上再度修正するかも。


 しかし、天下の犬塚氏は資料がたくさんあるのに、我らが大塚氏は資料があんまりないとはどういうこっちゃ!



 

2014年5月23日金曜日

<66>『北肥戦誌(九州治乱記)』を読む その2

 さて、なかなか濃い内容の「九州治乱記こと北肥戦誌」のつづきを読んでいきたいと思う。



 近代デジタルライブラリー より 「北肥戦誌・九州治乱記」 エピソードツー
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441746



 <コマ39> 「あの家紋、ほちぃ」


  鍋島氏と大友氏が戦っている時のこと。

「鍋島が大友方の陣を窺って見ていると、陣幕の紋が茗荷の丸であり、ろうそくの光に輝きその形がはっきりと写し出されていた。そこで鍋島信生(のちの佐賀藩主)は家臣に言う。

『おまいら、あの紋を見ろ。うるわしいではないか。よし、今からあの陣に一気に攻め込み、ぶちかましたことを吉例としてワシの紋にしようぢゃないか』

というわけで部下に「俺は神代長良だ!裏切って寝返るぞ」と大声でウソをつかせて陣内を混乱させ、一斉に襲い掛かったのであった」


 ・・・というわけで佐賀藩鍋島のお殿様まで「抱き茗荷」(実は抱き杏葉)を使うことになりましたとさ。

 パクリはするわ、成りすますわ、なかなか卑怯なり鍋島信生!




<コマ39> 犬塚姓のこと、そして小城一揆


 コマ39の続きである。

 
 実は北肥戦誌後半になると「犬塚姓」がたくさん登場するようになる。たとえばこのコマに出ている「犬塚伊豆守」など、大塚に似ているため気にかかるところであるが、実は「犬塚姓」のほうが出自がはっきりしているので押さえておく必要がある。


 犬塚氏は、三潴郡犬塚出身の蒲池氏系列であり、のち蒲池から独立し小弐氏につく。

 ややこしいが、その後犬塚氏は大友氏方につき、さらにのちは龍造寺についた。

(コマ39では犬塚伊豆守は龍造寺家臣となっている)


 ・・・敵も味方もあったもんじゃねえなあ。


(ちなみに犬塚姓と大塚姓の関わり、変化はよくわかっていない。おそらく無関係の可能性大)


 さて、次に「小城一揆」として列挙されている名前を見てみよう。


「小城一揆、徳島、粟飯原、空閑、大塚、桃崎、彌頭司」


 前回松浦党の事を書いたが、こちらも「小城グーン!ダーン!(軍団)」のことである。現在でも小城市が佐賀県中央部にあるが、そこらへんの武士集団ということになろう。


 のちに小城城を鍋島氏が建てたりするので、小城地域はずっと鍋島支配下にあったということがわかる。



<コマ40> 大塚左京允・大塚内蔵允


  小城一揆のメンバーとして「大塚左京允」の名前、それから小城勢かどうかは読み取れないが「大塚内蔵允」の名前が見える。


 ちなみに追加情報。


 佐賀県小城市小城町岩茂大塚


なる地名が現在もあるようで。ということは小城一揆勢の「大塚」姓の発祥はどう考えてもココでしょうね。


 ★これにて1氏追加?! 佐賀県小城出自の鍋島家臣、大塚氏ということで。




<コマ41> 謎の男がいる?!

 このコマ後半に

2尺7寸の太刀を振り回す「小城鯖岡の犬塚左京允盛家」なる人物が登場するのだが、なーんか気になるのは、前回の記事を参照してほしい。

 コマ189に「岡の大塚左京亮盛家」なる人物が出てきているのだが、名前が似てるような、似てないような・・・。

 どちらも小城周辺の武将なので、


同一人物


の可能性が大である。


★こうした「大塚」「犬塚」「木塚」などの誤記があると、困ってしまうのだが、江戸時代の人に文句を言っても仕方がない。状況から類推するより他ないのである。



 結論から先に言えば、この人物


犬塚鎮家 のこととごっちゃになってる?もしくはなってない?


別名犬塚盛家。


ウィキペディア参照のこと

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8A%AC%E5%A1%9A%E9%8E%AE%E5%AE%B6


犬塚鎮家は小城一揆衆じゃないと思うんだけど・・・。さらにいえば、鎮家は「弾正」「播磨守」ではあったが「左京允」だったかどうか・・・。



(長くなるので、この章もまた続く)



 


2014年5月20日火曜日

<65>『北肥戦誌(九州治乱記)』を読む その1

 このブログは、九州大塚氏、特に「抱き茗荷大塚氏」の先祖を「赤松氏」である、という仮定に基づいて執筆しているのであるが、実際のところほんまにそうなのかどうかは、じぇんじぇんわかっていない

 ブログを書いている本人は、けっこう真面目に調査をしているのであるが、そこはホレ。できることなら面白おかしく読んでいただきたい、ということで世にも希な


 エンターテイメント系ご先祖探しブログ


を目指してまい進しているところである。


 というわけで、本来であれば真っ先にやっておくべきはずの「九州大塚氏の調査」を完全に後回しにしてきているわけで、


 いよいよ本腰を入れて(←オイ)


九州地方の資料を読むわけである。


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「北肥戦誌」別名「九州治乱記」は、戦国期の九州を学ぶものについては必読の書である。

 書いた人は佐賀藩士、馬渡俊継。書かれた年代は正徳年間だそうである。


 うーん、うちの先祖が子供のお墓を作っている頃に、佐賀藩士がこんな本をカキコしていたなんて!



 この「北肥戦誌」、刊本としてはいろんなバージョンがあるようだが、今回はもちろん近代デジタルライブラリ版を無料で読んでみたい!

 ちょっと長いこともあって、分割してお届けするのだが、頑張ってついてきてほしい。



 近代デジタルライブラリー より 「北肥戦誌・九州治乱記」エピソード ワン
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3441745



 ☆読み落しがあるかもしれないけれど、ごめんね。


 
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<コマ28> 大塚三郎のひざ

 建武5年(1338)3月、菊池武重が筑後に攻めてきた時VSしたのが松浦党の軍団で、その家臣にいたのが「大塚三郎」だそうである。

 松浦党は肥前松浦地方で結成された「軍団(武士団)」で、源氏松浦氏を中心にその仲間たちで結成されているため血縁というより地縁で結びついた同盟軍である。

 
 この大塚三郎、右ヒザを射抜かれて重傷だったようだが、面白いことに、近代デジタルライブラリー版とその他の版でニュアンスが異なっている。


 近デジ(←略すな)版は、「一、赤木又次郎入道源栄 一、大塚三郎右ひざ口射疵」となっているが、

 
 松浦史 さんのサイト
 http://www.geocities.jp/tamatorijisi/matuurasi.html


で引用されている「九州治乱記」の版では

「一、赤木亦次郎入道源栄代大塚三郎 右ヒザ口射疵」

となっている。

 松浦史さんの方では、赤木亦次郎代わって大塚三郎と読めるため、この記載だと「松浦党大塚氏は、赤木氏ルーツ」ということになる。



<コマ55> 小弐氏子孫の大塚氏

 嘉禄元年(1225)に武藤資頼が宇佐八幡宮の太宰小弐に任官されはじまる武藤小弐氏は

「九州には肩を並べる者がなく、子孫は次第に繁栄し、朝日・窪・出雲・平井・馬場・山井・志賀・大塚・加茂・吉田と名字が分かれる」

と記載されている。さらに

「一門はそれぞれ肥筑地方に蔓延って大勢の者となった」

と続く。


 この大塚氏が、当家と関わりがあるかどうかはわからないが、実は同じ村の大塚氏と吉田氏がどとらも抱き茗荷紋を使っているので、気になるかもしれない。ならないかもしれない。



<コマ67> 大友氏と茗荷丸

 ホラ来た。この話は混乱するから困ってるんだよねえ。

 九州の名族「大友氏」は、言わずもがな有名なのだがこんな記載が。

「大友氏は3つに分かれていて、一つは、御紋衆。吉弘・一萬田・田原・清田・田北・立花・志賀・戸次、以上。大友の一門は藤原氏で、みな紋所は茗荷丸を用いる」


 これがやっかいなのである。大友氏も立花氏(柳川藩主)も、「みょうがまる」を用いてくれるのはいいんだが、実は「抱き杏葉」なんだから始末が悪い。

 この話は既出で書いたが、もちろん私も「大塚氏じつは抱き杏葉」説も頭の片隅には置いている。

 ★この本を書いた馬渡俊継が、正徳年間には「佐賀のお殿様は抱き茗荷やもんね」と思ってる可能性もあるし、違う可能性もある。



<コマ170>大塚七左衛門 討ち死に

 龍造寺家臣の「大塚七左衛門」が登場。佐賀勢、との記載。


「討ち死にした者、(略)大塚七左衛門


 龍造寺氏は、佐賀の国人で、はじめ千葉氏に仕えていたが、のちに小弐氏に仕えた。

 ところが小弐氏を下克上したり、のちに大友氏をぶっ飛ばしたりして、本来の家紋は「十二日足」だったのを「抱き杏葉」に変えたりしている。

 
 龍造寺氏はあの「赤いスイトピー」でおなじみ蒲池法子(松田聖子)な蒲池氏と仲がよく、筑後にもけっこう出入りしていたので、(蒲池氏は三潴地域が拠点)このあたりも怪しさプンプンである。

 もし我が家の「抱き茗荷」が「抱き杏葉あらため、抱き茗荷」だとすれば、赤松系の話は、一旦おじゃんにして、「小弐・龍造寺・蒲池系」を検討してもよいところである。



<コマ189> 地元の大塚氏

 佐賀、小城の近辺の郷司として次の名前があった。

「今河の持永(略)盛秀」から始まり、

「岡の大塚左京亮盛家

「西郷の空閑(略)・江頭(略)」など小城付近の武将が集まっている。


★持永盛秀は今川氏(九州探題)の子孫。佐賀小城の持永城城主。

 
★誤記の可能性あり。「その2」参照のこと。



<コマ190> 追加でいっとけ

 大塚氏追加。打ち死にした者として


大塚次郎兵衛(略)は安徳上野介直治の出勢の内(の者)である」とのこと。


安徳上野介の拠点は長崎島原の「安徳城」だそうだが、安徳氏は、はじめ有馬氏につき、のち龍造寺、その後再度有馬に付くなどしている。



<コマ203>大塚隠岐守が怪しい。

 「神代の家臣(略)大塚隠岐守

という記述があるのだが、このあたりざっくり説明すると、神代長良という肥前の戦国武将が、龍造寺隆信に攻められて死にそうになったときに、家臣に助けられて落ち延びる、というくだりである。

 神代氏は、久留米の高良玉垂神社の神官を務めた家柄で、もとは物部氏から分かれている。

 それが故あって小弐氏の家臣となり、龍造寺が小弐氏を下克上したときに龍造寺と戦うはめになっている。

 
 その後、大友家臣を経て、最終的には龍造寺に従うことになるのだが、はてさて大塚隠岐の子孫はどうなったのやら。


 で、何が怪しいのかと言えば!


 当家の氏神は「高良玉垂神社」であり、高良社の神仏習合寺は「天台宗」なので、そこから「茗荷紋」が来ているとすると、神代氏系大塚氏はあながちハズレでないかもしれないのである。


 うーん。難しい・・・。


 長いので、今日はここまで。
 


 ★記事一部修正しました。



2014年5月17日土曜日

<ニュース>”過去帳は部外者に見せないで”


 当ブログにも関わりのあるニュースが配信されていたので、ご紹介しておきます。


 「過去帳は部外者に見せないで」
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140516-00000023-asahi-soci


 yahoo!ニュースの5月16日配信版 朝日新聞からの記事です。

 
 ご先祖さま探しにおいて、「戸籍」「寺の過去帳」から辿る、ということが重要ではあるのですが、日本の歴史の悲しい部分である「身分差別」が明らかになることでもあるので、そうした記載のある資料はどんどん閲覧が厳しくなっていっています。


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 戸籍についてはすでに「壬申戸籍」(明治5年版)が完全に閲覧禁止になっており、私たちは基本的には明治5年以前の戸籍をたどることは不可能になっています。

 理由は、幕末時点での身分である「士族」「平民」「新平民」などの差別に関わる身分の記載があるからで、昭和43年以降は誰も見ることができません。(法務局に厳重保管されているそうです)


 それほど、差別の問題は大事なこと、なのです。

 
 ちなみに私たちが取得できるのは「明治19年式戸籍」の写しからで、明治19年当時に存在していた人の「前戸主(つまりお父さん)」までの記載はあるので、江戸期までなんとか辿れる、というしくみになっています。


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 寺の過去帳についても、いっそう閲覧が厳しくなることと思います。

 過去帳には被差別民の方たちがつけられた、悪意のある「差別戒名」なるものが記載してあることがあり、差別を助長する手段として使われることがあるからです。

 
 既に各宗派において「過去帳」の人権的取り扱いの既定が定められていますが、実際それぞれの現地の住職さんレベルで、徹底できていない事例もあり、問題になっています。

 

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 当ブログにおいても、プライバシー尊重の意味から、基本的には「江戸期」以前の人名についてを中心に取り上げ、明治大正期以降のものについては、そのご子孫の心情などに配慮して極力伏せています。

 明治期以降のもので個人名を挙げているものは、出版された刊本がインターネットで公開されているものや、図書館等で公開されているものに限っています。


 もし、それぞれの大塚さんのご子孫で、ご先祖の名前が当ブログに掲載されており支障がある場合は、ご連絡ください。

 誠実に対応させていただきます。


2014年5月13日火曜日

<調査中>織田信長と大塚氏

 以前から手をつけていたのですが、ブログにはなかなかアップできていなかったネタで今回はお届けしようと思います。

 タイトルどおり!あの「織田信長」と大塚氏の関係についてわかっていることを列挙してゆきましょう!


 織田家臣の大塚氏については、「レファレンス協同データベース」にとてもよい質問&回答事例が載っていますので、まずはそこから押さえておきます。



 レファレンス協同データベース より
 http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000151726



 このサイトは、公立図書館によせられた質問と、図書館職員(司書)による回答サポートの事例集なのですが、大阪府立図書館の司書さんのレベルの高さはなかなかのもの!

 まあ、ふつうの市町村図書館に行っておなじだけの回答をしてくださる方はおられないと思います。(^^; ★個人の感想です。


 と、その前にもう一つ、「ごさんべえさんのサイト」にも目を通しておくと理解が深まりますので、そちらもどうぞ。


 ごさんべえのぺえじ さんのサイトより
 http://gos.but.jp/otsukat.htm


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 さて、まとめます。


① 岡山県の大塚さんの先祖である「国富四郎兵衛」なる者が信長家臣であり、徳川家に仕えた子孫もいる、ということ。


② 信長の家臣に「国富姓」があまり見あたらないので、大塚姓を抜き出すと以下の通り。



■ 大塚新八郎  相撲取り。  信長主催の相撲会にて召抱え。注1)


■ 大塚孫三  小姓 本能寺の変に際して戦死。注2)


■ 大塚又一郎  馬廻。妻は生駒親正の娘。本能寺にて戦死。注2)


注1)

 戦国ウォーカーさんのブログ が参考になります。
 http://sengoku-walker.blog.jp/archives/51045786.html


注2)

 信長公記 さんのサイトが参考になります。
 http://home.att.ne.jp/sky/kakiti/shincho14.html


 文書解読研究室 さんのサイトで本能寺の状況がわかります。
 http://www.nobunaga-lab.com/labo/10_monjo/shiryou/sinchoukouki/folder/15kan/15-32.html



③ その他 詳細不明ですが 


■ 大塚太郎左衛門  注3)


なるものが信長家臣にいたようです。

 
注3)

 織田武将録 本能寺の変一覧 さんのサイトより
 http://www2s.biglobe.ne.jp/gokuh/ghp/busho/oda_y3.htm


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 さて、もう一点、信長自身の家来というよりも、信長とセットの「森蘭丸」の森家に仕えたと思われる大塚氏がおり、そちらも気になります。

 森一族、それに追従している大塚氏ともに美濃国の出で、森家はその後岡山美作に入りのち津山藩主、大塚氏は美濃時代から森氏に仕え、津山藩では家老職になります。



 ウィキペディアより大塚丹後守
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E4%B8%B9%E5%BE%8C%E5%AE%88



 再度 ごさんべえさんのサイト によると、この大塚氏は同一あるいは別系統もあり、


 ごさんべえのぺえじ さんのサイトより
 http://gos.but.jp/tzw.htm


「茨城の大塚将監」なる人物がおり、こちらは「下総から美濃入り、のち森氏へ仕える」ことになっています。


 ただ、大塚将監の系列は、森氏が信濃時代に仕えたことになっているので、丹後守の系統とは一度分かれて、津山でまた一緒になっていると思われます。だとすれば、美濃時代にある程度大塚氏は分派して存在していたことになります。



 というわけで、このあたりはまだまだ調査中ですが、とりいそぎ経過説明まで。


 毎度ですが、織田信長さん!生きてたら連絡ください。(笑)





2014年5月11日日曜日

<64>『新事実発見!』 大塚家300年の歴史を辿る

 先日の福岡、実家帰りにて収集したデータを整理しているところだが、まず大きな発見があったので、そちらから記しておこうと思う。


 もちろん、今回の探訪で多くの状況証拠を集めることができたのだが、明治大正昭和のもの以外で、


「最も古いもの」


を発見できたので報告しておきたい。


 わが大塚家の実家の敷地外れに墓所があることは既出である。中央に大きな墓碑があり、左周りに女性の墓が2つ、そして右手に1つ、最右端に自然石を置いただけの小さな墓石がある状況になっている。


 私も今回はじめて勉強したのだが、墓所における「順番・席次」のようなものがあるらしく、中央の墓石に対して、左周りに席次が下がるという。


 つまり、女性の墓が左方向に2つあるのは、当時の戸主から見て奥さんに相当する人の墓だったのだろうと考えられるわけである。


 男性戸主は当然、代々中央の墓に入る形のように思われるが、現在の墓は「昭和九年仲夏(旧暦五月)」に建立された、と記してあるため、昭和九年以前の墓碑がどうなっていたかは、現在ではわからない。

 もう少し突っ込んで言えば、この墓碑に家紋が掘り込んであるため、わが大塚家は昭和9年の時点で「抱き茗荷」が家紋だと認識していた、ということにもなる。


==========


 そして、今回私が読み取った最古の墓石は、中央から向かって右手側にある、


地蔵墓


と呼ばれる「お地蔵さん」を彫り込んだ墓になる。


 お地蔵さんをお墓に彫りこむのには意味があり、水子や幼子、あるいは元服前に子供が亡くなった時などに親が立てる墓が「地蔵墓」になるらしい。



 お墓の立て方 さんのサイトより
 http://www7b.biglobe.ne.jp/~boso/tatekata/tatekata_07.html



 こちらのサイトには、先ほどの「席次」についての指南もあり、我が実家の墓所も同様の配置をとっていることが理解できる。


 ★個人的見解だが、わが家の実家の最左の自然石墓もおそらくは水子のものではないかと想像する。

 

そして、肝心のお墓であるが、亡くなった子供の名前は伏せておくものの


「正徳三巳夭 九月九□(←読めず)」


の文字が彫り込まれていた。



★ □は”廾”の字に似ていたが、廿(にじゅう)だと92という意味不明な数字になるため、おそらくは九月九”日”ではないかと思われる。



「正徳三」年は1713年である。「癸巳」の年であるから「巳」の文字も合う。

「夭」は夭折の”よう”で、「若くして亡くなった」の意味であり、地蔵墓とも整合する。


 つまり、こういうことだ。


 大塚家に生まれたその子供は、1713年、つまり今から301年前に幼子のまま亡くなった。


 正徳3年とは、このブログでもたびたび登場する「暴れん坊将軍8代徳川吉宗」が、あと3年で即位するという「享保前夜」である。



 生類憐れみの令を廃止し、新しく通貨を鋳造するなど新井白石が「正徳の治」として7代徳川家継らとともに頑張っていた「マンガ日本の歴史」もしくは「山川出版社の赤い教科書」に出ていたあの時代である。


 そんなお墓が今もそこにあるわけだから、とりあえず我が「大塚家は300年前からそこにいた」ことはわかったわけだ。


 そして、もう少し考察すれば、言い伝え通り大塚家が久留米藩に仕えた武士であったとするならば、

① 郷士もしくは庄屋のような在郷武士身分であったとすれば、正徳年間前後を調査すべき。


② 城詰めの武士の末裔だとすれば、正徳年間以前に三潴地域へ移動もしくは蟄居したと考えられる。


わけである。


 ましてや、幼子のために300年前にそうした墓を建立できる「財力」のようなものを持っていたと考えれば、あながち父から聞いていた話が、「単なる先祖の自慢話の伝説」ではないとも思えてくる。


 少なくとも、300年前のちっちゃな子供とそのお父さんが、子孫であるわれわれに何がしかの痕跡を残してくれているのだと思うと、涙が出そうな思いである。


 300年後、たしかに私はここに生きていて、「あの時、その子は亡くなったかもしれないけれど、子々孫々はちゃんと生き延びて命を繋いでおります」と申し上げたい気持ちになる。


 子や孫を思う気持ちと、親や先祖を思う気持ちがこうして繋がったということは、すごいことだなあ、と改めて思うわけであり・・・・。





<調査中><63>岡山県の大塚さん ~陣内孝則さんを見ると涙がでちゃう~

 先週は福岡へ行っていたので、NHK大河ドラマ「黒田官兵衛」を見ていないのだが、早く録画を見ないと!と思っている間に、もう次の日曜日が来てしまった。

 さて、かなり唐突だが、”黒田官兵衛”といえば、私にとっては


 陣内孝則さん


が気になって仕方がない。なぜかというと、陣内さんは


「うちのおとん」にそっくり


だからである。


 実はうちのおとんは、数年前に若くして60代で亡くなっているので、私は陣内さんを見るたびにおとんを思い出して感慨にふけってしまう。

 それにしても、おとんがあまりにも陣内さんに似ているので、「うーむ、もしや彼はオヤジの隠し子かなんかではないのか?」と本気で思うほどである。


 それが面白いことに、当ブログの愛読者の方はおなじみの通り、うちのおとんは「福岡県三潴地域出身」であり、陣内孝則さんは「福岡県三潴地域」出身なのである。


 さらにぶっちゃけて言うなれば、陣内孝則さんは大川市出身であり、うちのおとんが通っていた高校が大川市の高校なのだから驚いた。


 そしてここからはもっと恐ろしいことなのだが、


私は陣内孝則さんに全く似ておらず、おかんにそっくり


なのであーる!いったいどうゆうこっちゃ!



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 最近、このブログは真面目な書き出しが多く、ツカミもボケもなかったので、久しぶりにやらかしてみたのだが、もちろん意味がある。


 そう、今回のテーマは、ズバリ戦国一の極悪男として有名な「宇喜多直家(陣内孝則)」と岡山大塚氏についてなのでである。
 



 では、気を取り直して、宇喜多家について見てみよう。

 いつものように近代デジタルライブラリーより「岡山県史」に「宇喜多家の分限帳」が収録されている。


 近代デジタルライブラリーより 「岡山県史 第2 『宇喜多家分限帳』」
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1261440



  さてこの分限帳、筆頭は「戸川肥後守 25600石」、次に「新免伊賀守 3600石」となっている。

 新免伊賀守は慶長5年に黒田長政に召抱えられているので、この宇喜多家分限帳はまさにその前夜戦国期のものということになる。


 宇喜多氏は、永禄期に備前を領有し、美作から播磨へ進出することを伺っていたが、戦国期の動乱の中で、浦上氏→毛利氏→織田氏につき、まさに大河ドラマ通りの「食えないやつ」ぶりを発揮している。


 ところで、この分限帳の中にも、あらまあ!「大塚」の名があるのである。

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 大塚彦七  50石


(中略)


何刻茂半役被仰付候衆

 大塚菅右衛門 530石


(中略)


 大塚半左衛門 150石


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 慶長以前の分限帳に、大塚の名が出てくるのだから、そりゃもちろんこの出自について知りたくなるものの、備前ならびに美作あたりの大塚氏だとすれば赤松系も視野に入ってくる。


 このあたりはまだよくわからないので、調査続行!


==========


 さて、岡山大塚氏を調べていると、別にちょっと気になる記事を見つけた。



 西国の山城 さんのブログより
 http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2011/04/blog-post_11.html



  オープンエア・おかやま さんのサイトより
 http://www2a.biglobe.ne.jp/marusan/phyurindo1.html



 どちらも同じ内容だが、岡山県玉野市の「友林堂」についての説明で、この霊廟と墓を守っていた「則武氏」がのちに「大塚」と姓を変える話が載っている。


 則武氏は、武田信玄で有名な甲斐の武田氏の子孫の一部が「則武」と姓を変えて宇喜多氏に仕えたとのことなので、


 ごさんべえ さんのサイトより
 http://gos.but.jp/norit.htm

 marusan さんのサイトより
 http://www2a.biglobe.ne.jp/marusan/phtogawayurinhakatoyurindo1.html



  この大塚氏がおなじ則武一族であれば、武田→則武→大塚、の流れを想定できそうだ。


★ただし、宇喜多分限帳の大塚氏より、ずっと後のことだと思われる。



 というわけで、岡山周辺の大塚さん!ぜひ家紋を教えてください!





2014年5月10日土曜日

<62>墓地についての考察 墓所と納骨堂

 先日の父の実家訪問における現地調査で気付いたのだが、どうも福岡県というところは、「お墓」について関西とは少し異なる風習があるらしい。

 私がふだん見慣れている兵庫県の村々の墓地・墓所というのは、(みなさんの地域はどうかわからないが)

 一族の墓地が概ね住居から少し離れた山すそや藪の中(あるいは近く)などにあり、おそらく江戸期ごろから残っているであろう墓石がいくつか立っていて、「これが先祖代々の墓所ですよ」というスタイル


を取っていることが多い。


 これらは古い時代のもので、明治大正昭和時代においては、それだけでは当然墓地が足りないので、「村」単位で南向きの日当たりの良い場所などに「村の墓地」なるスペースが作られ、そこにより多くの家々の墓地が「団地」のように作られていることが多いと思う。


 この時期のものは「寺」が主導権を握って近くの場所・あるいは寺の敷地内を提供して「檀家のための墓所」を形成しているところもある。


 「村」主体か「寺」主体かは別にして、檀家は当該地域の人々が多いので「ムラの人々が墓地を作る」という意味合いでは、ほぼ同じスタイルだと考えることもできる。


 さらに新しくなると、石材会社やマネージメントする「墓地を経営する法人(元は寺だったり・石材会社だったり)が開拓した土地、あるいは市レベルなどで設定した土地に墓地が作られ、それぞれ


私営の墓地・公営の墓地


として運用されているスタイルも見ることができる。


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 ところが、福岡県では、「墓地」が少ないらしい。というのも、わが実家においてもそうなのだが、福岡県の村々では


 ムラの納骨堂


というものが建立され、そこに骨をお納めする、という形式を取っている。

 今回調査した私の実家の地域にも当然「納骨堂」があり、興味深いことに納骨堂の周囲に「墓地」が分譲形式で形成されている。


 どういうことかというと、中央に納骨堂があり、その周囲に区画が切ってあって、それぞれの墓を持ってよいことになっているわけである。(当然、お金を出して区画を買っている形になる)


 さて、我が大塚家は、祖父と祖母が納骨堂に眠っているのだが、実は実家の敷地の裏にもちゃんと墓所があって、納骨型の大きな墓碑と、その周囲に江戸期からの古い墓が点在している形になっている。


 面白いことに、隣の敷地にもこれまた「別の大塚家」の墓所があって、そちらもおなじ形式の中央墓碑があり、古い墓石が点在しているので、


 納骨堂形式以前からの墓所スタイル


であることがわかるのである。


 実家のムラの納骨堂は昭和30年代の建立であるから、それ以前の墓地の風習がどうであったかはわからないのだが、(あるいは福岡県全体での墓地のスタイルの変遷を知りたい)付近の大塚家の状況を見る限り


 自分の土地の一部に墓所を持つ(結果的に敷地内に見える)


という形が、福岡県三潴郡の古い形なのではないか、と推測できる。


 もちろん、兵庫県山間部においては、おなじ自分の土地でも「田んぼに適している場所」は平地、「住居に適している」のは山すそ、そして「所有している」山林がセットであるから


 平地には墓所がなく、むしろ山側に墓所が作られる


ことが多い。


 これは、福岡における「宅地も田んぼも、基本的には平地(平野の一部)」という土地形状を考えると、


 住居の土地のいちばん外れに墓所が作られる


という形式にならざるを得ないことも、なんとなく見えてくる。



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 福岡地方の墓所について調べていると、家系図を作っておられる業者さんである


 家族の樹さんのサイト
 http://www.kakeisi.com/survey/survey_fukuoka.html#fukuoka


を発見した。

 
 こちらでは、少し気になる記事があり、上記のとおり「納骨堂形式」が多いため墓地が少ない点も指摘されていたのだが、それよりも


 福岡では


 茗荷紋が少ない


との旨記してあることが、興味深い。


 不思議なことに、我が大塚家の実家だけでなく、地域の別の少なくとも2家が「抱き茗荷」紋であり、それが私の実家地域の「特殊事情」だとするならば、


 抱き茗荷をチョイスした、あるいは伝承してきたその3家


にはどんな理由があるのか、が気になるわけである。



 というわけで、福岡県の大塚さん!家紋を教えてください!








2014年5月9日金曜日

<基礎資料>全国『大塚』地名記録一覧<随時更新>

注意:今回の記事は、先祖探しのために皆さんが利用し易いようにまとめた目録のみです。


最終更新日 2016・11・25


★当目録は、地方史・地域の歴史調査のために使用できる各地方自治体の「大塚」地名・地域・村の類についてまとめたものである。


★消失した地名も多く、全てを網羅するには時間がかかることを許していただきたい。



====================



<北海道地方>

■ 北海道



<東北地方>

■ 青森県 

 ◇(現在)八戸市大久保大塚

■ 岩手県

■ 宮城県

 ◇(現在)東松島市大塚  (近世)陸奥国桃生郡大塚浜

■ 秋田県

 ◇(現在)能代市大塚

 ◇(現在)横手市雄物川町会塚大塚 (近世)出羽国久保田藩領平鹿郡大塚村

■ 山形県

 ◇(現在)鶴岡市大塚町

 ◇(現在)川西町大塚 (近世)出羽国米沢藩領置賜郡大塚村 明治元年羽前国へ。

 ◇(現在)東村山郡山辺町大塚


■ 福島県

 ◇(現在)会津若松市大塚 (近世)陸奥国北会津郡大塚。

 ◇(現在)南相馬市原町区北原大塚

 ◇(現在)福島県石川郡浅川町東大畑大名大塚

 

<関東地方>


■ 茨城県

 ◇(現在)茨城県北茨城市磯原町大塚

 ◇(現在)茨城県潮来市大塚野

 ◇(現在)茨城県水戸市大塚町

 ◇(現在)茨城県石岡市大塚  (近世)新治郡大塚村

 ◇(現在)茨城県筑西市大塚

 ◇(現在)茨城県龍ヶ崎市大塚町

 ◇(現在)茨城県桜川市真壁町大塚新田


■ 栃木県

 ◇(現在)栃木県栃木市大塚町  (近世)下野国下都賀郡大塚村

 ◇(現在)栃木県宇都宮市大塚町 (近世)下野国河内郡大塚村。


■ 群馬県

 ◇(現在)群馬県吾妻郡中之条町大塚

 ◇(現在)群馬県藤岡市上大塚・中大塚


■ 埼玉県

 ◇(現在)熊谷市大塚 (近世)埼玉郡大塚村 忍藩領。

 ◇(現在)北葛飾郡杉戸町大塚 (近世)旗本領 武蔵国北葛飾郡大塚村

 ◇(現在)川越市大塚新田 

 ◇(現在)比企郡小川町大塚  (近世)比企郡西大塚村・東大塚村
  
 ◇(現在)埼玉県深谷市大塚・大塚島 (近世)榛沢郡大塚村・大塚島村


■ 千葉県

 ◇(現在)柏市大塚町 

 ◇(現在)印西市大塚 

 ◇(現在)旭市大塚原  (近世)匝瑳郡大塚原


■ 東京都

 ◇(現在)文京区大塚 (近世)豊島郡小石川村大塚 1629(寛永6)に記録あり。

 ◇(現在)八王子市大塚 (近世)武蔵国多摩郡大塚村 旗本領 大塚日向古墳が由来。

 ◇(現在)大田区雪谷大塚町

■ 神奈川県


<北陸・信越地方>

■ 新潟県

 ◇(現在)刈羽郡刈羽村大塚  (近世)刈羽郡大塚村


■ 富山県

■ 石川県

■ 福井県

■ 山梨県

 ◇(現在)市川三郷町大塚 (近世)幕府領市川代官所属大塚村 のち慶応四年市川県。旧名 甲斐国西八代郡大塚村


■ 長野県

 ◇(現在)長野市青木島町大塚

 ◇(現在)長野県佐久市中込大塚


<東海地方>

■ 岐阜県

 ◇(現在)養老郡養老町 (近世)美濃国多芸郡大塚村 大垣藩領。 戦国期丸毛氏の大塚城。


■ 静岡県

 ◇(現在)沼津市大塚 (中世)駿河国阿野庄大塚郷 (近世)幕府府韮山代官領


■ 愛知県

 ◇(現在)蒲郡市大塚町・豊川市御津町 (近世)三河吉田藩領・旗本領 宝飯郡大塚村

 ◇(現在)西尾市一色町大塚 (近世)三河国幡豆郡大塚村

 ◇(現在)一宮市丹羽大塚  (近世)尾張国中島郡大塚村

 ◇(現在)豊田市(足助町)大塚町  (近世)三河国加茂郡大塚村。 信長家臣、国富四郎兵衛が出る。のちに大塚氏に。

 ◇(現在)稲沢市大塚町 


■ 三重県

  ◇(現在)松阪市大塚町  (近世)伊勢国飯高郡大塚村


<近畿地方>

■ 滋賀県

  ◇(現在)東近江市大塚町

■ 京都府

  ◇(現在)京都市山科区大塚 (近世)山城国宇治郡大塚村

■ 大阪府

 ◇(現在)高槻市大塚町 (近世)摂津国島上郡大塚村

■ 兵庫県 

 ◇(現在)三木市大塚 (中世)久留美庄大塚 室町期に成立か。(近世)美嚢郡大塚町

 ◇(現在)養父市大塚 (古代)石禾郷大塚 (近世)但馬国養父郡大塚村 出石藩。

 ◇(現在)神戸市長田区大塚町

 ◇(現在)尼崎市南塚口町 大塚交差点

 ◇(現在)西宮市津門大塚町


■ 奈良県

  ◇(現在)北葛城郡広陵町大塚 (近世)大和国広瀬郡大塚村。近隣は大和郡山藩領だが、大塚村は寺社領。

■ 和歌山県



<中国地方>

■ 鳥取県

■ 島根県

 ◇(現在)安来市大塚 (近世)能義郡大塚村。尼子家臣大塚氏が出る。


■ 岡山県

■ 広島県

 ◇(現在)広島市安佐南区大塚 (近世)安芸国佐東郡(のち沼田郡)大塚村。古くは大墓と書いた。

■ 山口県

 ◇(現在)山陽小野田市大塚



<四国地方>

■ 徳島県

■ 香川県

■ 愛媛県

■ 高知県



<九州地方>

■ 福岡県 

 ◇(現在)朝倉郡筑前町大塚  (近世)秋月藩領 筑前国夜須郡大塚村。『筑前国続風土記附録』に記事あり。

 ◇(現在)みやま市瀬高町大塚 (近世)柳河藩領 筑後国山門郡大塚郷


■ 佐賀県

 ◇(現在)神崎郡吉野ヶ里町大塚ヶ里
 
 ◇(現在)小城市小城町岩蔵大塚 


■ 長崎県

■ 熊本県

■ 大分県

  ◇(現在)宇佐市大塚  (近世) 豊前国宇佐郡大塚村。 

  ◇(現在)中津市大塚  (近世) 豊前国下毛郡大塚村


■ 宮崎県

 ◇(現在)宮崎市大塚町 (近世)日向国諸県郡大塚村 古くは「大墓」と書いたとのこと。土持氏系大塚氏が出る。大墓別府。





■ 鹿児島県

 ◇(現在)枕崎市大塚南・中・西町 西鹿篭大塚

 ◇(現在)曽於市財部町大塚原
 

■ 沖縄県

2014年5月8日木曜日

<61>新資料報告 久留米関係の大塚さん先祖情報

 GWを利用して三潴へ帰ってきたのだが、そこで新しく読むことができた資料があったので、まずはそこから紹介してみよう。

 地元ならではの資料として、久留米市立図書館にて


『久留米人物誌』 篠原正一 久留米人物誌刊行委員会 菊竹金文堂S56


を発見、いくつか新しい情報を得ることができた。


 当資料に収められた久留米関係の大塚氏について、列記しておく。久留米・三潴地域の大塚氏においては参考にされたい。


==========


■ 大塚素水(俳人)  大塚四郎左衛門。久留米の人。延享5年死去

■ 大塚仙調(俳人)  大塚平十郎。久留米の人。明和ごろ。

■ 大塚魚光(俳人)  大塚又右衛門。久留米の人。安永ごろ。

■ 大塚太蔵   ※別記事にて詳細(追記あり)

  http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_17.html


■ 大塚猪之助  ※別記事にて詳細(追記あり) ※太蔵の孫

  http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_17.html


■ 大塚処平(志厚)   ※別記事にて詳細(追記あり)

  http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/03/blog-post_7.html


■ 大塚敬介  ※別記事にて詳細(追記あり)

  http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/02/blog-post_20.html


■ 大塚政次郎  嘉穂郡の生まれ。大塚清三の子。大正2年大分農学校獣医科を卒業し、三潴郡安武村に移住し獣医開業。


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 新しく入った情報に関しては、各記事の最後に「追記」として記しておいたので参照されたい。

 新情報を踏まえて一部記事内容を修正している箇所もあるため、ご注意のほど。



2014年5月7日水曜日

<ご報告・60>実家へ帰ってきました。~祖父と曽祖父の痕跡を探して~

 GW中、ぜんぜん更新できませんでしたが、多数のご閲覧をいただき、ありがとうございました。

 休みを利用して、九州へ帰ってきました。メインは親戚廻りだったのですが、できるだけ「大塚一族」についての調査も実施してきたので、そちらの成果は、またぼちぼち当ブログにてアップしてゆこうと思っています。


 私の場合は、ルーツのある九州ではなく、常に遠く離れた兵庫から調べものをしているのですが、やはり現地に行くと、また違った着眼点で物事を見ることができたり、地元ならではの資料があったり、となかなか有意義な休日となりました。

 
 実家のあるムラ(地域)では、


① 自宅の墓についての調査

② 親戚からの言い伝えなどの確認

③ 実家周辺の現地調査

④ 図書館での現地資料調査


の4点を、不十分ながら「軽~く、ざくざくっと」実施してきました。



<墓の調査>

 「大塚家之碑」とある骨壷収納型の大型墓碑の周囲に5基の小さな墓石があり、2つはおそらく女性のもの、2つがおそらく男性、もうひとつは天然石のみの小さなものが配置されていました。

 拓本まではとれていませんが、写真撮影と読み取れる文字だけは写してきました。

 江戸期の年号が入ったものがひとつあり、その時期に当家がその場所にいたことまでは、まあ確認できるというわけです。




<言い伝え>

 おじ・おばと話してきましたが、うちの父親がやはり祖父からいちばん詳しいことを聞かされていたようで、概ね父から聞いている内容と合致&それ以上のものはあまり出ませんでした。

 ただ、曽祖父が地域でちょっとした有名人もしくは、顔が広かったらしく、おばも「昔、地域の人に曽祖父の名前を出したら『ああ、あそこんとこの!』と言われたことがある、と父とおなじ話をしていました。

 そして、おじのほうも、「うちの先祖は相撲を呼ぶのにハマって財産を無くした」という話は聞いていたらしく、その旨話題に上りました。



<地域調査>

 
 地域の神社に、①寄付者の名簿(石に刻まれたもの)があり、その名簿の文字を書いたのが祖父だということで、確認してきました。

 それ以外に神社本殿の台座に、同様の②寄進者名簿が刻まれており、そちらでは曽祖父の名前も確認してきました。

 また、地域の納骨堂の③名簿、公民館横の石灯籠に刻まれた④名簿も確認できました。


 写真と、書き写しをしてきたので、

①昭和時代 ②大正時代  ③昭和30年代  ④大正時代の4年代に当地域に住んでいた「大塚一族」がそれぞれ二十数名ずつの名前を拾うことができました。

 これらの誰かが別の資料にひっかかってくれれば、「当地の大塚一族のおおむねのルーツ」に辿りつくことも可能かと思います。



<図書館>

 久留米市立図書館にて、いくつかの資料を見てきました。時間がなかったので全ての資料の全てのページを見たわけではありませんが、私がこれまでに見ていない久留米藩の分限帳もありました。

 藩士系譜については、以前に入手したもの以上のものは、ざっと見た感じではなかったように思いますが、こちらの資料は逃げませんので(笑)、また機会があれば一日中図書館に篭もることも可能かと思います。



==========

 さすがに、「これだ!」という資料は見つかりませんでしたが、ムラ・集落における大塚一族の痕跡や立ち位置を概観することができ、また祖父と曽祖父の痕跡を辿ることができたので、たいへん楽しかったです。

 まだ他に細かいことがいろいろあるので、それはブログの記事に絡めて紹介してゆきます。

 
 引き続き、これからの展開もお楽しみに!

(飴形を食べながら執筆しました)
 

2014年5月2日金曜日

<調査中><59> もう一人の”大塚将監”は何者なのか?! 山形県の大塚さん

 すでに連載開始から100回を軽く越えている当ブログであるが、「え?いまさら?!」という衝撃の内容でお届けする今日のお話。

 そう!実はかなり初期から気付いていたのに、読者のみなさんには「黙っていた」この一件を今更ながら取り上げてみようと思う。

 いったいどんな事実が飛び出すのか、とあの人の記者会見のようにドキドキしながら読んでいただきたい。


 実は、こんな話があるのだ。


 大塚将監は二人いる?!


 なんということでしょう!


 これまで赤松氏流大塚氏の正体のひとつ、としてずっと追いかけていた「大塚将監」であるが、実は、もう一人別の大塚将監が存在するのである!


 まずは、おさらいをしておこう。


 当ブログのメインテーマである、「赤松氏流大塚氏」として想定できそうな播州姫路地域の「大塚氏」として、後藤又兵衛の兄である後藤基こと「後藤将監」が、のちに「大塚将監」と名前を変えて姫路香呂地区に子孫を残したことは既に説明している。

 これが、播磨鑑に記載されているところの「永禄年間に生きていた赤松麾下の大塚将監」であり、もしかしたら九州大塚氏の祖かもしれないと現在調査中なわけだが、ここまでは既出。



 そして、今回登場する大塚将監は、おなじ戦国時代に生きた人物なのだが、


 活動した地域が全然違う!


ので、これまでノーマークでスルーしてきたのであった。


==========

 こちらの大塚将監(以降、紛らわしいので、大塚将監Ⅱと呼ぶ←呼ぶな)は東北地方の御仁である。

 拠点は山形県で、鎌倉時代からの大塚氏だと言われている。

 詳しいことは



 山形県教育委員会 大塚城跡発掘調査報告書
 http://wrs.search.yahoo.co.jp/FOR=qvZhArRV3iiMqcwBY30iIZaVj9jlVW4vCPzSQTM3B9GPPhaKJLCPDcLImEreQvn85TPGR.kmCaJ6xW1WIfRrDI6.4GatzoD5lKfS.g8r3FWrfkTFys2zYUZp3VSyDqEZvhAm0GucuDtvZUDyNFespPzehXpaOHoA8tZRXAygQ3a2upzv4V6CEtHjxvNeVXO8h8E2HfLkdAd1FuUrmMTT.dDx5QAkUWa9hbbMFfRc8eXVvQL4_sHA7idT9I4zerqrBZfX5ssnZ1i5QVam5lp1Ct20.oCVOOMW76dxro8Lr05YBqzDuwVmdti7w7M592TbID.duu_mGA35sNBax9ns7xOsv_4NzMOE8yce7zW6_GX7_UzoibpDRpeCMKhSjrvEm5Nkci3lBrxq_dPpJlTDlTFFwI2s3A87ajyWeV71mPe668KvCrW3FkVr0if5YiKK9sfoAbPEJeVqMx0UNAAiHbo-/_ylt=A8vY8izYzWFT4DcAV96DTwx.;_ylu=X3oDMTBuY3I0cTk1BHBvcwMxMARzZWMDc3IEc2xrA3RpdGxl/SIG=1a5inkvse/EXP=1399019416/**http%3A//rar.yamagata.nii.ac.jp/file/522/20111125095230/P-161_%25E5%25A4%25A7%25E5%25A1%259A%25E5%259F%258E%25E8%25B7%25A1%25E7%2599%25BA%25E6%258E%2598%25E8%25AA%25BF%25E6%259F%25BB%25E5%25A0%25B1%25E5%2591%258A%25E6%259B%25B8.pdf%23search=%27%25E5%25A4%25A7%25E5%25A1%259A%25E5%25B0%2586%25E7%259B%25A3%27


を参照願いたい。


 この大塚氏は鎌倉時代に「大塚因幡守親行」が置賜郡長井荘大塚城に拠点を持ち、その子孫である、「大塚将監(Ⅱ)」が、伊達晴宗に仕えたという記録が残っている。


 その後、大塚氏は、天正19年に伊達氏が岩手山に移封されたことで帰農し、大塚城は廃城になったという。


 城の雰囲気は


 お城の旅日記 さんのサイト
 http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/uzenootuka.htm


 にも紹介があるので、ぜひご覧いただきたい。



 その他、大塚将監Ⅱについては、


 梁川町郷土史年表 
 http://is2.sss.fukushima-u.ac.jp/fks-db/txt/10007.102.yanagawa/html/00003.html


 にも記載がある。


 
 ちなみに、大塚将監Ⅱが仕えた「伊達晴宗」は、独眼竜正宗(渡辺謙、古っ)の「おじいちゃん」である。


 さらにちなみに、伊達政宗のおじいちゃんだということは、すなわち


 サンドウィッチマンの伊達みきおさん

 とか

 麻生太郎氏

 とかの先祖だということでもある!

 
 ついでにちなみに、よもや誤解はないと思うが、杏さんがいくら渡辺謙さんの娘であっても、伊達氏とは何の関係もないことを申し添えておく。

 
 というわけで、山形県の大塚さん、家紋を教えてください!
 

2014年5月1日木曜日

<58>福岡藩 万延元年分限帳 (文久二年写し)を読む

 当ブログで取り上げている特に「福岡藩」「久留米藩」「柳河藩」などの分限帳は、市販本として刊行されているため、先立つものがないと読めない、という庶貧民には悲しい状況なのだが、

(いや、図書館行ったらタダで読めるお)

今回は、そんなあなたのために、無料で読める福岡藩の分限帳を一緒に読み解いてみようと思う。


 今日ご紹介するのは「福岡藩家中(万延元年)分限帳」というものである。

 これは「福岡藩分限帳集成」には収録されていないので、どちらにしてもぜひ目を通して置きたいところ。


 いつものように

 近代デジタルライブラリより 福岡県史資料 第9輯に収録
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207977


  コマ数は183コマからだが、かなり長いので頑張ってついてきて欲しい。


 当資料における大塚氏を列挙する。



==========

大組(中略)

 1000石 大塚七左衛門 因幡丁

(中略)


御馬廻組(中略)

 510石 大塚小三 土手ノ丁

 250石 大塚一二三 別府村

 100石 大塚牛次郎 御供道

 
無足組(中略)

 20石 大塚作太夫 極楽寺丁

 15石 大塚仁左衛門 道和小路

 
剣術(中略)

 14石 二天流 岡 大塚伊右衛門 中庄


中船頭(中略)

 110石 大塚五郎太夫 御山ノ下堀ノ内


小船頭(中略)

 20石 大塚喜太夫 州崎


両市中町家御扶持

 1 大塚休右衛門


==========




 ご覧の通り、万延年代における福岡藩大塚氏は、禄高の高いものから低いものまで、万遍なく揃っている。

 万延元年とは1860年であり、実はあと8年ほどで大政奉還を迎える幕末時代であることをイメージしてほしい。

 比較のために、以前に紹介した「安政分限帳」をもう一度見てみると面白いことが見えてくる。

 ちなみに安政時代は1855~1860年で、万延の直前に当たる。



 <48>もしかして謎が解けた?!
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/04/blog-post_6.html



 ここに登場した大塚氏は、例の◇が5つの「碁石?」紋の「千石 大塚六之助」であるが、今回登場した「大塚七左衛門」は、石高が同じ千石で、住んでいるところが同じ因幡丁(町)であるため、直系の同じ家であることがわかる。


 さて、この大塚七左衛門、別の資料にも登場しているので押さえておこう。



 東京大学資料編纂所 福岡県下幕末維新期史料調査より
 http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/20/saiho_FUKUOK~1.HTM



 70・71 慶応3年の項に大塚七左衛門の名前があり、この文書は福岡と預かり地になっていた長崎との間での事務文書のようだが、大塚は「御納戸頭」という役職になっていることもわかる。

 

 もうひとつ興味深いのは「剣術」の欄にある、「大塚伊右衛門」である。福岡藩では、大塚家は宮本武蔵の二天流の伝承家であったことは既に述べたが、こちらももうひとつ資料を挙げておく。



 「宮本武蔵」さんのサイトのうち 丹治峯均筆記8の項より
 http://www.geocities.jp/themusasi2de/houkin/d108.html


 この資料では黒田藩の「二天流 兵法者」について大塚伊右衛門・大塚作太夫を挙げているが、作太夫のほうも、上記分限帳に記載がある。

 
==========

 こうしてみると近世福岡県における「大塚氏」の様子がおぼろげながら見えてくるのだが、さすがにこれらの大塚氏が「どこから来たのか」については、まだまだ資料がない。


 というわけで福岡県の大塚さん!家紋を教えてください!
  
 

 

<基礎資料>全国地方誌・地方史資料集成 都道府県誌史・市町村誌史 先祖探しの秘策!<随時更新>

注意:今回の記事は、先祖探しのために皆さんが利用し易いようにまとめた目録のみです。


最終更新日 2018/12/17


★当目録は、地方史・地域の歴史調査のために使用できる各地方自治体の「都道府県史・都道府県誌」「市町村史・市町村誌」の類についてまとめたものである。

★当目録では各地方自治体の史書・資料について、

 ①書名・発行者などの情報

 ②現在における入手・閲覧方法(特にWEB等)

を随時更新して記載してゆく。


★消失した地方自治体も含めて、全てを網羅するには時間がかかることを許していただきたい。


★各資料は全巻リンクすると膨大になるので、主に1巻のみにリンクを貼り、その他は省略している。


====================



<北海道地方>

■ 北海道 『北海道史』(第1) 北海道庁1919
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960646
  ★別に「管轄略譜・年表・統計表」「付録地図」「年譜」あり。


■ 北海道 『新北海道史』 全9巻 北海道S45~S56



<東北地方>

■ 青森県 『青森県史』(1-8) 青森県1926
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020285


■ 岩手県 『岩手県史』全12巻 岩手県1961-1966


■ 宮城県 『宮城県誌』 宮城県内務部1902


■ 宮城県 『宮城県史』(1-35) 宮城県史刊行会1954-1987


■ 宮城県加美郡 『加美郡誌』 加美郡教育会1925
 googleブックス版 http://books.google.co.jp/books?id=xKEXKoPw4yYC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false


■ 秋田県 『秋田県史』(1-7) 秋田県1915-1966


■ 山形県 『山形県史』(1-4) 山形県内務部1920
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960708


■ 福島県 『福島県史』(1-26) 福島県1969‐


■ 福島県 『福島県郡誌集成』(1-16) 福島県史料叢書刊行会1966-



<関東地方>


■ 茨城県 『茨城県史』 茨城県史研究会S5
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1187025


■ 栃木県 『栃木県誌』 舟橋一也 両毛文庫本部 M37
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764270

■ 栃木県 『栃木県史』 通史8巻・資料2巻・史料23巻 栃木県史編纂委員会S59

■ 栃木県 『壬生町史』 壬生町史編纂委員会編集1985-1990


■ 群馬県 『群馬県史』(1-4) 群馬県教育委員会S2
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1258714
 

■ 埼玉県 『埼玉県誌』(上・下) 埼玉県T1
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/946515


■ 千葉県 『千葉県誌』(上・下) 千葉県T8
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/960652


■ 東京都 『東京府史』 東京府1929-1937


■ 神奈川県 『神奈川県誌』 神奈川県T2
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/950676


■ 神奈川県 『神奈川県誌』 小幡宗海 神奈川文庫M32
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/763729



<北陸・信越地方>

■ 新潟県

■ 富山県

■ 石川県

■ 福井県 『吉田郡誌』 吉田郡1909
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/994016/266


■ 山梨県

■ 長野県



<東海地方>

■ 岐阜県

■ 静岡県

■ 愛知県 『愛知県誌』 伊藤彊 鈴木製本所1901
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764782


■ 愛知県 『愛知県誌』 愛知郡高等小学校 鈴木製本所1903
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764781


■ 三重県



<近畿地方>

■ 丹波地域  『丹波志』永戸貞/古川茂正 名著出版1974

■         『篠山領地志』太田資置・奈良由繹 共撰1687


■ 滋賀県

■ 京都府 

■ 大阪府

■ 兵庫県 『兵庫県史談』(摂津・播磨・但馬・淡路) 浅羽粛也 船井弘文堂1896
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765905


■ 兵庫県 『兵庫県史』(全29巻) 兵庫県1974-1998


■ 兵庫県氷上郡 『(丹波)氷上郡誌』 丹波史談会事務所1927
  googleブックス版 http://books.google.co.jp/books/about/%E6%B0%B7%E4%B8%8A%E9%83%A1%E5%BF%97.html?id=ROcdIlupGBgC&redir_esc=y


■ 兵庫県多可郡 『多可郡誌』 多可郡教育委員会1923
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978710

  GoogleBooks 版 http://books.google.co.jp/books/about/%E5%A4%9A%E5%8F%AF%E9%83%A1%E8%AA%8C.html?id=cARkVCEWJ6cC&redir_esc=y


■ 兵庫県多紀郡 『多紀郡誌』 多紀郡教育会・辻広三郎1918
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/765803

  GoogleBooks版 https://play.google.com/store/books/details?id=ODxJP1vbf-0C&rdid=book-ODxJP1vbf-0C&rdot=1





■ 奈良県

■ 和歌山県



<中国地方>

■ 鳥取県

■ 島根県

■ 岡山県

■ 広島県

■ 山口県



<四国地方>

■ 徳島県


■ 香川県

■ 愛媛県 『南宇和郡史』 長山源雄1973
  googleブックス版
  http://books.google.co.jp/books/about/%E5%8D%97%E5%AE%87%E5%92%8C%E9%83%A1%E5%8F%B2.html?id=GfJpkR5V_BQC

■ 高知県



<九州地方>

■ 福岡県 『福岡県史資料』(1・2・3・4・5・9・10・続1) 福岡県1935~1941
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213832


■ 福岡県三潴郡 『福岡県三潴郡誌』 福岡県三潴郡1925
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1018306


■ 福岡県三潴郡 『新考三潴郡誌』 福岡県三潴郡小学校教育振興会1953


■ 福岡県八女郡 『稿本八女郡史』 福岡県八女郡1917
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/951645


■ 福岡県久留米 『久留米小史』(1-22) 戸田幹1895
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766615


■ 福岡県三潴郡大木町 『大木町誌』H5
   大木町図書・情報センター版 http://jyouhou.copport.jp/e1771.html


■ 佐賀県佐賀市 『佐賀市誌』佐賀市1926
  googleブックス版
  http://books.google.co.jp/books?id=IxOHahyWSVMC&printsec=frontcover&hl=ja&source=gbs_ge_summary_r&cad=0#v=onepage&q&f=false


■ 佐賀県佐賀市 『佐賀市史』 『諸冨町史』 『大和町史』 『富士町史』 『三瀬村誌』

            『川副町史』 『東与賀町史』 『久保田町史』
   佐賀市 市町村史PDFサイト
   http://www.city.saga.lg.jp/contents.jsp?id=33300



■ 長崎県

■ 熊本県

■ 大分県

■ 宮崎県

■ 鹿児島県

■ 沖縄県






☆参考図書☆


□ 『近代日本方言資料集[郡誌編]全8巻』 http://www.minatonohito.jp/products/053_02.html

 (発行された郡誌の一覧があり、索引のヒントとして使える)