毎週日曜日のお楽しみ、今日の「軍師官兵衛ちゃん」の時間がやってまいりました。
今回は、
あっ!という間に九州を平定してしまい、
あっ!という間にキリシタンを禁止してしまい、
かなり、はしょった展開でしたね。
うーん、どういう配分で脚本をまとめてくるのか、ちょっと不明ですが、このままだとあっと言う間に、朝鮮出兵も終わってしまいそうです。
まあ、時節的に韓国の人たちの感情もあるので、さらっと流す気まんまんだと思いますが、そのお隣の韓国では
「鳴梁」という秀吉軍を撃退した李舜臣の映画
が大ヒット中だそうです。
対比も兼ねて、ワールドワイドな視点で、我らが官兵衛ちゃんを見てみたいところ。
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さて、話は変わって今日のメインは、やっぱり豊前宇都宮氏こと城井氏がらみの展開でしょう。
ウィキペディアより 城井氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E4%BA%95%E6%B0%8F
これから、黒田氏は豊前国へと国替えさせられるのですが、そこでジモティの城井氏と当然ぶつかることになります。
それがどういう結末になるのかは、次回をお楽しみに!といったところ。
歴史的には、これまでクリーンなイメージの強かった黒田家に、謀略の影が・・・・(おおっと!ここまで)
==========
そんな本編に対して、今日のみどころをふたつほど
① 全国の村重ちゃんファンの声援にこたえて、今日もちらみせ!
ああ!終わったと思ってたらまさかの不意打ち!思い出しシーンの形で、村重ちゃん登場です。もう!ファンサービスが良すぎるNHK!
みんなが思わず画面に釘付けになる、村重回想シーンをお見逃しなく!
② 石田三成のセクシー大作戦!
最近、秀吉とただならぬ関係を匂わせている石田三成。三成といえば、常に
衆道(男色)
のうわさが絶えぬ男です。残念ながら、ワタクシ大塚某にはそっちの趣味はないので、詳しく知りたいことはグーグル先生に聞いてください。
しかーし!
三成が秀吉の尻を揉むシーンを取り入れることで、彼の性癖を暗示しているNHK演出のすばらしさ!
そういう視点で見ると、もうそういう視点でしか見られない、罠にはまりましたな。くくく。
==========
さて、最近やや視聴率が落ちている理由がわかりました。
後半になって、
「茶々がヤヴァイ」
のは、まあ良いとして、次のほうがポイント大きいかも。
「・・・秀吉がこ、怖い」
もうなんか、演技がすごすぎて、秀吉が怖いんだか、竹中直人が怖いんだかわけわからなくなってきます。
今の秀吉の顔なら、絶対に「稲川淳二の会談より怖い」自信があります。
というわけで、大河ドラマでは存在そのものを抹殺された龍造寺家臣の大塚がお送りしました!
2014年8月31日日曜日
2014年8月30日土曜日
<姓氏家系>完全網羅 苗字 馬場姓・馬場氏・馬場さんのすべて! 全馬場氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル
<改定済>
今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。
全国の馬場氏・馬場さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。
抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。(最終更新 2014.10.8)
☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」
よりご依頼ください☆
==========
★ 参考文献 ★
今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。
① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
http://kindai.ndl.go.jp/
② 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
③ 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
④ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版
⑤ 「日本の苗字7000傑」 http://www.myj7000.jp-biz.net/
⑥ その他の資料など
==========
今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「馬場姓」「馬場氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。
※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては【八木書店版】「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。
【 】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。
==========
A 馬場氏 清和源氏義光流武田支流 寛政譜19 【井桁】【丸に花菱】
A+ 馬場氏 甲斐国清和源氏義光流武田支流 寛政譜3 【五瓜に松皮菱】【揚葉蝶】
A+ 馬場氏 Aのうち信明支流 寛政譜19 【割り菱】【揚葉蝶】【目結】
B 馬場氏 現在は平野氏を称す、桓武平氏維将流 寛政譜20 【丸に三つ鱗】【五本骨扇】
C 馬場氏 信濃国の清和源氏為義流 寛政譜2 【笹竜胆】【釘抜】【檜扇】【外四つ環に釘抜】【隅切角に釘抜】
C? 馬場氏 為義流より木曾氏を経て馬場氏 【笹竜胆か?】
D 馬場氏 常陸国那珂郡馬場より、桓武平氏大掾氏族 寛政譜20 【丸に十五枚笹】【十曜】
D? 馬場氏 桓武平氏良文流 寛政譜20 【丸に十五枚笹】【十曜】
E 馬場氏 甲斐国教来石より、のち馬場に。寛政譜3 【割り菱】【笹竜胆】【花菱】【三つ蝶に菊】【陰陽割り菱】
F 馬場氏 近江国の宇多源氏佐々木氏族 【丸に違い角】【七宝に四つ目】
G 馬場氏 肥前少弐氏族(秀郷流武藤氏より) 【寄り懸け目結】
H 馬場氏 上加茂社家氏より出る、加茂氏末裔。
I 馬場氏 惟宗氏より忠親流・執印氏を経て馬場氏 【五本骨扇か?】
J 馬場氏 嵯峨源氏融流、上松浦党を経て馬場氏。
K 馬場氏 多々良氏より大内氏を経て馬場氏。
L 馬場氏 尾張姓熱田大宮司家より出る。
M 馬場氏 義光流、美濃佐竹氏より馬場氏。【日の丸扇】
N 馬場氏 千葉氏より出る。【九曜か?】
O 馬場氏 建部氏末裔、禰寝氏より出る。
その他馬場姓の家紋として
【片喰】
【三つ盛片喰】
【五三鬼桐】
【釘抜菱】
【七宝】
【丸に葉付切竹】
【三つ根笹】
を用いるものあり。
この他は現在調査中!
新しい発見があれば更新します。
==========
<告知です>
500円でなんでも頼めるココナラにおいて「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」というサービスを開始しました。
https://coconala.com/services/41874
みなさんの「名字・苗字のルーツ調べ」をさくっとお手軽にお手伝いいたします。
詳しいサービス内容は上記リンクをご参照ください。
既に何件かサポートさせていただきましたが、喜んでいただいております(^^
あなたも歴史ミステリーの扉を開いてみませんか?!
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「こんなの見たことない!」ワクワクするユニークなサービスまとめ
http://coconala.com/featured/entry/4372
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<新サービス開始>
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今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。
全国の馬場氏・馬場さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。
抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。(最終更新 2014.10.8)
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★ 参考文献 ★
今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。
① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
http://kindai.ndl.go.jp/
② 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
③ 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
④ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版
⑤ 「日本の苗字7000傑」 http://www.myj7000.jp-biz.net/
⑥ その他の資料など
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今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「馬場姓」「馬場氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。
※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては【八木書店版】「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。
【 】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。
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A 馬場氏 清和源氏義光流武田支流 寛政譜19 【井桁】【丸に花菱】
A+ 馬場氏 甲斐国清和源氏義光流武田支流 寛政譜3 【五瓜に松皮菱】【揚葉蝶】
A+ 馬場氏 Aのうち信明支流 寛政譜19 【割り菱】【揚葉蝶】【目結】
B 馬場氏 現在は平野氏を称す、桓武平氏維将流 寛政譜20 【丸に三つ鱗】【五本骨扇】
C 馬場氏 信濃国の清和源氏為義流 寛政譜2 【笹竜胆】【釘抜】【檜扇】【外四つ環に釘抜】【隅切角に釘抜】
C? 馬場氏 為義流より木曾氏を経て馬場氏 【笹竜胆か?】
D 馬場氏 常陸国那珂郡馬場より、桓武平氏大掾氏族 寛政譜20 【丸に十五枚笹】【十曜】
D? 馬場氏 桓武平氏良文流 寛政譜20 【丸に十五枚笹】【十曜】
E 馬場氏 甲斐国教来石より、のち馬場に。寛政譜3 【割り菱】【笹竜胆】【花菱】【三つ蝶に菊】【陰陽割り菱】
F 馬場氏 近江国の宇多源氏佐々木氏族 【丸に違い角】【七宝に四つ目】
G 馬場氏 肥前少弐氏族(秀郷流武藤氏より) 【寄り懸け目結】
H 馬場氏 上加茂社家氏より出る、加茂氏末裔。
I 馬場氏 惟宗氏より忠親流・執印氏を経て馬場氏 【五本骨扇か?】
J 馬場氏 嵯峨源氏融流、上松浦党を経て馬場氏。
K 馬場氏 多々良氏より大内氏を経て馬場氏。
L 馬場氏 尾張姓熱田大宮司家より出る。
M 馬場氏 義光流、美濃佐竹氏より馬場氏。【日の丸扇】
N 馬場氏 千葉氏より出る。【九曜か?】
O 馬場氏 建部氏末裔、禰寝氏より出る。
その他馬場姓の家紋として
【片喰】
【三つ盛片喰】
【五三鬼桐】
【釘抜菱】
【七宝】
【丸に葉付切竹】
【三つ根笹】
を用いるものあり。
この他は現在調査中!
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500円でなんでも頼めるココナラにおいて「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」というサービスを開始しました。
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<姓氏家系>完全網羅 苗字 古賀姓・古賀氏・古賀さんのすべて! 全古賀氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル
<改定済>
今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。
全国の古賀氏・古賀さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。
抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。 (最終更新 2014.10.8)
☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」
よりご依頼ください☆
==========
★ 参考文献 ★
今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。
① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
http://kindai.ndl.go.jp/
② 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
③ 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
④ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版
⑤ 「日本の苗字7000傑」 http://www.myj7000.jp-biz.net/
⑥ その他「考証古賀家譜」etc
==========
今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「古賀姓」「古賀氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。
※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては【八木書店版】「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。
【 】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。
==========
A 古賀氏 筑後国三潴郡古賀郷の漢帰化族(劉姓)。寛政譜22 【二重釘抜】【三つ鱗】
A 古賀氏 後漢霊帝の末裔といわれる帰化人 坂上田村麿流
B 古賀氏 肥前国の少弐氏族 秀郷流藤原氏より出る。
C 古賀氏 寛政譜にある狛氏流とされる古賀氏。佐賀藩に仕え、一部幕臣。
D 古賀氏 清和源氏武田氏流 肥前空閑邑より起こる。
E(A~D?) 古賀氏 豊前中津・宇佐に古賀氏あり。
その他古賀姓の家紋として
【梅鉢】
【五本骨日の丸扇】
【丸に枡】
を用いるものあり詳細未詳。
==========
但し、古賀姓はそもそも「空閑」=空き地、開発前の土地を意味することばから起こっており、九州地方特有の「古賀」姓のみならず、それに類した別の漢字が当てられている場合も考慮が必要です。
「古賀」・・・筑前・筑後・肥前に多い。
「空閑」・・・肥前に多い。
「古我」・・・相模にあり。
「古河」・・・下総にあり。
「小鹿」
「小賀」・・・安芸にあり。
「玖賀」・・・丹波にあり。
「玖珂」・・・周防にあり。
「久賀」・・・山城・下野・周防にあり。
「久我」・・・山城にあり。
(参考文献、『考証古賀家譜』)
このほかは、現在調査中!
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==========
今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。
全国の古賀氏・古賀さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。
抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。 (最終更新 2014.10.8)
☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」
よりご依頼ください☆
==========
★ 参考文献 ★
今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。
① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
http://kindai.ndl.go.jp/
② 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
③ 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
④ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版
⑤ 「日本の苗字7000傑」 http://www.myj7000.jp-biz.net/
⑥ その他「考証古賀家譜」etc
==========
今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「古賀姓」「古賀氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。
※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては【八木書店版】「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。
【 】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。
==========
A 古賀氏 筑後国三潴郡古賀郷の漢帰化族(劉姓)。寛政譜22 【二重釘抜】【三つ鱗】
A 古賀氏 後漢霊帝の末裔といわれる帰化人 坂上田村麿流
B 古賀氏 肥前国の少弐氏族 秀郷流藤原氏より出る。
C 古賀氏 寛政譜にある狛氏流とされる古賀氏。佐賀藩に仕え、一部幕臣。
D 古賀氏 清和源氏武田氏流 肥前空閑邑より起こる。
E(A~D?) 古賀氏 豊前中津・宇佐に古賀氏あり。
その他古賀姓の家紋として
【梅鉢】
【五本骨日の丸扇】
【丸に枡】
を用いるものあり詳細未詳。
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但し、古賀姓はそもそも「空閑」=空き地、開発前の土地を意味することばから起こっており、九州地方特有の「古賀」姓のみならず、それに類した別の漢字が当てられている場合も考慮が必要です。
「古賀」・・・筑前・筑後・肥前に多い。
「空閑」・・・肥前に多い。
「古我」・・・相模にあり。
「古河」・・・下総にあり。
「小鹿」
「小賀」・・・安芸にあり。
「玖賀」・・・丹波にあり。
「玖珂」・・・周防にあり。
「久賀」・・・山城・下野・周防にあり。
「久我」・・・山城にあり。
(参考文献、『考証古賀家譜』)
このほかは、現在調査中!
==========
<告知です>
500円でなんでも頼めるココナラにおいて「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」というサービスを開始しました。
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みなさんの「名字・苗字のルーツ調べ」をさくっとお手軽にお手伝いいたします。
詳しいサービス内容は上記リンクをご参照ください。
既に何件かサポートさせていただきましたが、喜んでいただいております(^^
あなたも歴史ミステリーの扉を開いてみませんか?!
==========
<特集で紹介されました~>
「こんなの見たことない!」ワクワクするユニークなサービスまとめ
http://coconala.com/featured/entry/4372
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<新サービス開始>
「戦国武将・歴史上の人物に出会う旅! ~あなたと偉人を繋げます~」
https://coconala.com/services/47988
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2014年8月24日日曜日
<話題>今日の軍師官兵衛ちゃん どこかで誰かが上條恒彦
どこかで~♪ 誰かが~♪
そんな懐かしいメロディで始まった今日の官兵衛ちゃん!(違うわ)
そうです。大友宗麟役でしょっぱなから登場したのは、我らが上條恒彦!いい俳優さんを使ってますね~!
ちなみに、若い人は知らないかもしれませんが、上條恒彦が歌う「誰かが風の中で」はかの
木枯らし紋次郎
のテーマ曲です。
そもそも木枯らし紋次郎を知らない?! 長い楊枝をくわえた旅姿のおっさんの話です。
==========
さて、上條恒彦さんといえば、私が高校生の頃、「阿国」というミュージカル(木の実ナナ主演)をやっておりまして、以来ファンでございます。
「声のでかさで四条を制す」
というセリフにはまりましたな。
ちなみに、大学時代研究テーマが「江戸の演劇」になったのも、もしかしたら上條恒彦効果だったかもしれません。
さて、今日の主人公の一人、大友宗麟は豊後の戦国大名、祖先大友氏は、少弐氏のいとこです。
もともと同族と言ってよい少弐系と大友系ですが、お約束どおり親族同士喧嘩しまくりなので、戦国期にはすでに誰が敵で誰が味方かよくわからんようになってしまっていました。
(このあたりは、赤松系の内紛とかとよく似ています)
そこへ薩摩から島津軍団が北部九州へ攻め上ってきたので、大慌て!というわけ。
島津軍団にはあのくまモン隆信も殺されていますので、 その隙に筑後奪回をめざすも、また島津に追い詰められる、という
いろいろとドツボ
状態のまま秀吉軍を迎え入れることに。
しかし、不思議なのは「大友宗麟」はキリシタン大名なのに、なぜか仏教の法号である
宗麟
で呼ばれることが多く、本人も不本意なことでしょう。
ここはいっそ、洗礼名である
ドン・大友(小西)
とか
大友フランシスコ
と呼んであげるべきでしょう。
本人は
「”フラン大友”と呼んで(はあと)」
と言っていたとかいないとか(笑)
==========
ちなみに、今日の影の主役だった吉川元春は、四十五を過ぎても足でシンバルを蹴り上げるという・・・・
ちがーう!
それは吉川晃司!
というお約束のギャグをおりまぜつつ、実に「かっこいい役」で出ておりました(^^
それもそのはず、吉川晃司は吉川氏のマジ子孫だそうで。
詳細はウィキペディアをご参照くださいね!
吉川元春
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%85%83%E6%98%A5
そんな懐かしいメロディで始まった今日の官兵衛ちゃん!(違うわ)
そうです。大友宗麟役でしょっぱなから登場したのは、我らが上條恒彦!いい俳優さんを使ってますね~!
ちなみに、若い人は知らないかもしれませんが、上條恒彦が歌う「誰かが風の中で」はかの
木枯らし紋次郎
のテーマ曲です。
そもそも木枯らし紋次郎を知らない?! 長い楊枝をくわえた旅姿のおっさんの話です。
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さて、上條恒彦さんといえば、私が高校生の頃、「阿国」というミュージカル(木の実ナナ主演)をやっておりまして、以来ファンでございます。
「声のでかさで四条を制す」
というセリフにはまりましたな。
ちなみに、大学時代研究テーマが「江戸の演劇」になったのも、もしかしたら上條恒彦効果だったかもしれません。
さて、今日の主人公の一人、大友宗麟は豊後の戦国大名、祖先大友氏は、少弐氏のいとこです。
もともと同族と言ってよい少弐系と大友系ですが、お約束どおり親族同士喧嘩しまくりなので、戦国期にはすでに誰が敵で誰が味方かよくわからんようになってしまっていました。
(このあたりは、赤松系の内紛とかとよく似ています)
そこへ薩摩から島津軍団が北部九州へ攻め上ってきたので、大慌て!というわけ。
島津軍団にはあのくまモン隆信も殺されていますので、 その隙に筑後奪回をめざすも、また島津に追い詰められる、という
いろいろとドツボ
状態のまま秀吉軍を迎え入れることに。
しかし、不思議なのは「大友宗麟」はキリシタン大名なのに、なぜか仏教の法号である
宗麟
で呼ばれることが多く、本人も不本意なことでしょう。
ここはいっそ、洗礼名である
ドン・大友(小西)
とか
大友フランシスコ
と呼んであげるべきでしょう。
本人は
「”フラン大友”と呼んで(はあと)」
と言っていたとかいないとか(笑)
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ちなみに、今日の影の主役だった吉川元春は、四十五を過ぎても足でシンバルを蹴り上げるという・・・・
ちがーう!
それは吉川晃司!
というお約束のギャグをおりまぜつつ、実に「かっこいい役」で出ておりました(^^
それもそのはず、吉川晃司は吉川氏のマジ子孫だそうで。
詳細はウィキペディアをご参照くださいね!
吉川元春
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E5%B7%9D%E5%85%83%E6%98%A5
2014年8月22日金曜日
<92-2・姓氏家系>九州北部の苗字スペシャル!少弐氏末裔・子孫の姓氏・苗字総まとめ!
前回に引き続いて九州中世のビッグネーム「少弐氏」とそこから分かれた各諸氏について紹介する今回の記事。
判明分ごとに詳細を追加してゆくのでお楽しみに!!
(2014.8.23判明分)
基礎資料
『北肥戦誌』によれば
「九州には肩を並べる者がなく、子孫は次第に繁栄し、朝日・窪・出雲・平井・馬場・山井・志賀・大塚・加茂・吉田と名字が分かれる。一門はそれぞれ肥筑地方に蔓延って大勢の者となった」
との記載があります。
◇「少弐」さん
現在も九州に残る少弐姓、苗字の由来はもちろん大宰少弐の官職による「武藤少弐」の系列だと考えられます。
戦国武将・戦国大名としての少弐本流は滅び、大半の子孫は「武藤」に苗字を戻していますが、「少弐」姓のまま現代にいたる家系も。
福岡県から山口県にかけて現在も分布している苗字だそうです。
◇「武藤」さん
少弐氏の本来の苗字、それが「武藤」氏です。少弐本流が滅びた後、苗字を武藤に戻している家系がおおいとのこと。「少弐さん」の項を参照のこと。
◇「朝日」さん
少弐盛経の子の少弐資法が祖とされています。佐賀県朝日山城を拠点としましたが、本流は断絶しています。
ウィキペディアを参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%B0%8F
◇「横岳」さん
少弐貞頼の子頼房が文安元年(1444)、肥前国三根郡西島を拠点として横岳を称したことからはじまります。
播磨屋さんのサイトを参照のこと。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yokotake.html
◇「平井」さん
少弐資頼の次男盛氏の子経氏が平井と改姓し肥前に移ったとされています。
室町時代には千葉氏家臣となったことが、佐賀県杵島郡白石町のサイトに示されています。
白石町ウェブサイト
http://www.town.shiroishi.lg.jp/view.php?pageId=2298
◇「馬場」さん
少弐貞経の息子「少弐経員」から始まり、佐賀県綾部城近辺を拠点としました。(現みやき町)
系譜の詳細は「大塚さん」の項を参照のこと。
◇「大塚」さん
当ブログにて追跡中の、少弐系大塚氏は、3系統見つかっています。
① 佐賀の大塚家に伝わる系譜では、少弐冬資の弟、資俊から-某-資忠-資家-俊氏と続き、この少弐俊氏が嘉吉元年に佐賀、三根郡大塚村に来て大塚と名乗ったとのこと。
家紋は、靠目結を略して釘抜の紋に変えたそうです。出典は『武藤少弐興亡史 渡辺文吉著 海鳥社1989』
② 『歴代鎮西志』によると、
『少弐貞経入道妙恵に5人の男子があった。頼尚は世継ぎであり、次男は馬場肥前守経員と号した。三男は頼賢である。四男貞衡は大塚氏を称した。五男は僧宗応』
という系譜で、少弐貞衡から大塚氏がはじまります。
③ 『肥前旧事続編料』によれば、
『永正9年、佐賀本庄神社の宮司別当大塚新右衛門藤原重家という人物がいたが、あるいはこの家は現在は絶えていて、今の大塚氏は與賀神社神官千布氏の次男が家を継いで大塚と称している』
という話が伝わっています。
◇「吉田」さん
少弐資頼の弟宗平の子孫の頼宗が、規矩郡(現在の北九州市小倉近辺)吉田村を開発して土着し吉田を称したことにはじまります。下記サイト参照のこと。
企救の里のサイト
http://www.geocities.jp/kikunosato2005/sub1a.html
◇「古賀」さん
少弐氏系の古賀氏の系譜です。
『永正3年、少弐重房が穂波郡弥山に隠れて、はじめて古賀氏を称し、その子、古賀重儀が天文23年に上座郡に移住、平松村を興した』
という話が、『考証古賀家譜・S13古賀氏同族会』に記されています。
==========
判明分ごとに詳細を追加してゆくのでお楽しみに!!
(2014.8.23判明分)
基礎資料
『北肥戦誌』によれば
「九州には肩を並べる者がなく、子孫は次第に繁栄し、朝日・窪・出雲・平井・馬場・山井・志賀・大塚・加茂・吉田と名字が分かれる。一門はそれぞれ肥筑地方に蔓延って大勢の者となった」
との記載があります。
◇「少弐」さん
現在も九州に残る少弐姓、苗字の由来はもちろん大宰少弐の官職による「武藤少弐」の系列だと考えられます。
戦国武将・戦国大名としての少弐本流は滅び、大半の子孫は「武藤」に苗字を戻していますが、「少弐」姓のまま現代にいたる家系も。
福岡県から山口県にかけて現在も分布している苗字だそうです。
◇「武藤」さん
少弐氏の本来の苗字、それが「武藤」氏です。少弐本流が滅びた後、苗字を武藤に戻している家系がおおいとのこと。「少弐さん」の項を参照のこと。
◇「朝日」さん
少弐盛経の子の少弐資法が祖とされています。佐賀県朝日山城を拠点としましたが、本流は断絶しています。
ウィキペディアを参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%B0%8F
◇「横岳」さん
少弐貞頼の子頼房が文安元年(1444)、肥前国三根郡西島を拠点として横岳を称したことからはじまります。
播磨屋さんのサイトを参照のこと。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yokotake.html
◇「平井」さん
少弐資頼の次男盛氏の子経氏が平井と改姓し肥前に移ったとされています。
室町時代には千葉氏家臣となったことが、佐賀県杵島郡白石町のサイトに示されています。
白石町ウェブサイト
http://www.town.shiroishi.lg.jp/view.php?pageId=2298
◇「馬場」さん
少弐貞経の息子「少弐経員」から始まり、佐賀県綾部城近辺を拠点としました。(現みやき町)
系譜の詳細は「大塚さん」の項を参照のこと。
◇「大塚」さん
当ブログにて追跡中の、少弐系大塚氏は、3系統見つかっています。
① 佐賀の大塚家に伝わる系譜では、少弐冬資の弟、資俊から-某-資忠-資家-俊氏と続き、この少弐俊氏が嘉吉元年に佐賀、三根郡大塚村に来て大塚と名乗ったとのこと。
家紋は、靠目結を略して釘抜の紋に変えたそうです。出典は『武藤少弐興亡史 渡辺文吉著 海鳥社1989』
② 『歴代鎮西志』によると、
『少弐貞経入道妙恵に5人の男子があった。頼尚は世継ぎであり、次男は馬場肥前守経員と号した。三男は頼賢である。四男貞衡は大塚氏を称した。五男は僧宗応』
という系譜で、少弐貞衡から大塚氏がはじまります。
③ 『肥前旧事続編料』によれば、
『永正9年、佐賀本庄神社の宮司別当大塚新右衛門藤原重家という人物がいたが、あるいはこの家は現在は絶えていて、今の大塚氏は與賀神社神官千布氏の次男が家を継いで大塚と称している』
という話が伝わっています。
◇「吉田」さん
少弐資頼の弟宗平の子孫の頼宗が、規矩郡(現在の北九州市小倉近辺)吉田村を開発して土着し吉田を称したことにはじまります。下記サイト参照のこと。
企救の里のサイト
http://www.geocities.jp/kikunosato2005/sub1a.html
◇「古賀」さん
少弐氏系の古賀氏の系譜です。
『永正3年、少弐重房が穂波郡弥山に隠れて、はじめて古賀氏を称し、その子、古賀重儀が天文23年に上座郡に移住、平松村を興した』
という話が、『考証古賀家譜・S13古賀氏同族会』に記されています。
==========
2014年8月21日木曜日
<93・番外編>あめがた(飴形)のナゾを解け! 龍造寺支配エリアとの不思議な関連?!
ついこないだまでなーんにも思わなかったのだが、ふとひらめいた不思議なことを思いついたので書いておこうと思う。
当ブログの最初のほうで「柳川のまち」について触れたりしたこともあるが、
<4>水郷 柳川
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_3812.html
当家(本家)は柳川にも近いので(当たり前だ三潴地方だもん)遊びに出かけたり、うなぎを食べにいったりすることは多いのである。
そして、私がほんの子どもの頃から、実家には常に置いてあり、また関西へもわざわざ送ってくれていたのが
「大松下のあめ」
という飴であった。
大松下飴本舗 (店主 古賀さん)
http://www.omatusita.com/
どんなのかというと、
こんなの。(画像は大松下飴本舗さんより転載です)
この飴は、もち米と麦芽だけで作っており、砂糖を入れて甘くしているわけではない。
(でも、めちゃくちゃ甘い)
麦芽から糖ができ、発酵させるとビールとなったり、糖から水あめができたりするのはご存知のとおり。
それがもち米と組み合わさって最高の飴ができあがる。
この飴、叩くと割れるくらい「硬い」のに、伸びたり曲がったりするくらい「やわらかい」という不思議な性質をもっている。
このナゾ加減は、実際に食べたものしかわからない(笑)
==========
さて、ここからが本題。この大松下のあめ、実家では「あめがた」と呼んでいる。
おそらく地元周辺の人は、みな「飴形(あめがた)」という名前でこの飴を認知していると思うのだが、この
「あめがた」
というキーワードで探ってゆくことにする。
なぜか?
それは、大松下の飴さん以外に、あめがたを製造販売しているところをピックアップすると不思議なことがわかってくるのである。
==========
「徳永飴 総本舗」
http://www.tokunagaame.com/
アマゾンでもYahoo!でも買えるという最も入手しやすい「あめがた」のお店。佐賀市金立町薬師丸。店主 江口さん。江戸後期創業。
「徳永飴本家」
http://www.its-mo.com/c/%E5%BE%B3%E6%B0%B8%E9%A3%B4%E6%9C%AC%E5%AE%B6/DIDX_DKE,6119323/
上のお店と親戚筋にあたるらしい。おなじく佐賀市金立町徳永。店主 江口さん。江戸期創業。
「小笠原商店」
http://www.e-ame.com/info_meika.html
麦芽系の飴(水あめ)がメインのお店だが「あめがた」も製造。佐賀県鹿島市高津原。店主 藤田さん。文政5年(1822)創業。
「あめがた屋」
http://www.spa-u.net/shopping.html?id=22&cate=5
嬉野温泉にあるあめがた店。佐賀県嬉野市嬉野町下宿乙。店主 中村さん。
ここまでが現存する飴形専門店。大松下のあめ以外、全部佐賀というのが面白い。
さて、ここからさらに面白くなってくるのである!
以下は、別の地域のあめがたにまつわる話を拾い上げてみた。
「筑後飴 磯家食品」
http://www.isoyashokuhin.com/
今はあめがたを作っていないが、昭和13年ごろあめがた製造。福岡県三潴郡大木町横溝。店主 磯野さん。
「赤坂飴本舗」
http://www.crossroadfukuoka.jp/jp/event/?mode=detail&isSpot=1&id=400000005997
明治15年創業。筑後市蔵数。まだあめがた販売中。
「八女市のあめがた祭」
http://www.city.yame.fukuoka.jp/kankou/yame/yanajima.html
こちらは、店舗ではなく「祭」の説明。”柳島の十七夜”というのが正式。
その昔、黒木城主の奥さんが観音像を抱いて矢部川に身を投げ、それを飴形売りが拾ってあめがたを備えて供養したという伝説があるのであめがた祭。福岡県八女市柳島。
「あめがたや」
http://www.its-mo.com/c/%E3%81%82%E3%82%81%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%82%84/DIDX_DKE,5577266/
長崎の魚屋さん。今もあるかどうか不明。屋号は「あめがたや」なので、もともと飴形を売っていたと思われる。長崎県北松浦郡小値賀町笛吹郷。
==========
ここまでリストアップしてくると、当ブログのファンの方は、なんとなくピンとくるに違いない。
そうなのだ。
まず、あめがた文化のスタートはおそらく佐賀であり、柳川などの筑後系あめがたはそれに続いて広がっていることがわかる。
そして、面白いことに、あめがたが北部九州に放射状に広がっているというよりも、
龍造寺くまもん支配エリア
に伝播しているという可能性が高いのだ!!!
位置関係を整理しよう。
長崎県小値賀町は離島なのでちょっとほっとくが、松浦あたりまで「あめがた」が存在していた証拠として仮置きしておく。
まず、西から嬉野・そして鹿島・佐賀と有明海を回るように東へ向かう。そして、大木町・柳川・八女市と有明海沿いに回ってゆく。(ただし、海岸線ではない。米と麦がとれないと飴はできないので穀倉地帯をめぐるルートだ)
これが、飴形ロードなのだ!
黒木城がらみの話は、もうちょっと検証しなくてはならない部分があるが、少なくとも黒木氏は
龍造寺家臣
である。柳川も当然蒲池エリアで龍造寺家臣、大木町横溝も、柳川城を建てた蒲池治久の弟の城「横溝城」があったところなのだ。
もちろん、戦国時代に飴形があるわけもなく、いわゆる飴文化は江戸期より栄えることになるので、少し時代錯誤がある。
しかし、佐賀と筑後の一部に文化的近縁性がみられることが、実に興味深い。
このあたりのナゾ、誰か論文にしてみませんか?(笑)
P.S. 個人的には、あめがたと朝鮮飴(長生飴)の関係についても気になる。
当ブログの最初のほうで「柳川のまち」について触れたりしたこともあるが、
<4>水郷 柳川
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_3812.html
当家(本家)は柳川にも近いので(当たり前だ三潴地方だもん)遊びに出かけたり、うなぎを食べにいったりすることは多いのである。
そして、私がほんの子どもの頃から、実家には常に置いてあり、また関西へもわざわざ送ってくれていたのが
「大松下のあめ」
という飴であった。
大松下飴本舗 (店主 古賀さん)
http://www.omatusita.com/
どんなのかというと、
こんなの。(画像は大松下飴本舗さんより転載です)
この飴は、もち米と麦芽だけで作っており、砂糖を入れて甘くしているわけではない。
(でも、めちゃくちゃ甘い)
麦芽から糖ができ、発酵させるとビールとなったり、糖から水あめができたりするのはご存知のとおり。
それがもち米と組み合わさって最高の飴ができあがる。
この飴、叩くと割れるくらい「硬い」のに、伸びたり曲がったりするくらい「やわらかい」という不思議な性質をもっている。
このナゾ加減は、実際に食べたものしかわからない(笑)
==========
さて、ここからが本題。この大松下のあめ、実家では「あめがた」と呼んでいる。
おそらく地元周辺の人は、みな「飴形(あめがた)」という名前でこの飴を認知していると思うのだが、この
「あめがた」
というキーワードで探ってゆくことにする。
なぜか?
それは、大松下の飴さん以外に、あめがたを製造販売しているところをピックアップすると不思議なことがわかってくるのである。
==========
「徳永飴 総本舗」
http://www.tokunagaame.com/
アマゾンでもYahoo!でも買えるという最も入手しやすい「あめがた」のお店。佐賀市金立町薬師丸。店主 江口さん。江戸後期創業。
「徳永飴本家」
http://www.its-mo.com/c/%E5%BE%B3%E6%B0%B8%E9%A3%B4%E6%9C%AC%E5%AE%B6/DIDX_DKE,6119323/
上のお店と親戚筋にあたるらしい。おなじく佐賀市金立町徳永。店主 江口さん。江戸期創業。
「小笠原商店」
http://www.e-ame.com/info_meika.html
麦芽系の飴(水あめ)がメインのお店だが「あめがた」も製造。佐賀県鹿島市高津原。店主 藤田さん。文政5年(1822)創業。
「あめがた屋」
http://www.spa-u.net/shopping.html?id=22&cate=5
嬉野温泉にあるあめがた店。佐賀県嬉野市嬉野町下宿乙。店主 中村さん。
ここまでが現存する飴形専門店。大松下のあめ以外、全部佐賀というのが面白い。
さて、ここからさらに面白くなってくるのである!
以下は、別の地域のあめがたにまつわる話を拾い上げてみた。
「筑後飴 磯家食品」
http://www.isoyashokuhin.com/
今はあめがたを作っていないが、昭和13年ごろあめがた製造。福岡県三潴郡大木町横溝。店主 磯野さん。
「赤坂飴本舗」
http://www.crossroadfukuoka.jp/jp/event/?mode=detail&isSpot=1&id=400000005997
明治15年創業。筑後市蔵数。まだあめがた販売中。
「八女市のあめがた祭」
http://www.city.yame.fukuoka.jp/kankou/yame/yanajima.html
こちらは、店舗ではなく「祭」の説明。”柳島の十七夜”というのが正式。
その昔、黒木城主の奥さんが観音像を抱いて矢部川に身を投げ、それを飴形売りが拾ってあめがたを備えて供養したという伝説があるのであめがた祭。福岡県八女市柳島。
「あめがたや」
http://www.its-mo.com/c/%E3%81%82%E3%82%81%E3%81%8C%E3%81%9F%E3%82%84/DIDX_DKE,5577266/
長崎の魚屋さん。今もあるかどうか不明。屋号は「あめがたや」なので、もともと飴形を売っていたと思われる。長崎県北松浦郡小値賀町笛吹郷。
==========
ここまでリストアップしてくると、当ブログのファンの方は、なんとなくピンとくるに違いない。
そうなのだ。
まず、あめがた文化のスタートはおそらく佐賀であり、柳川などの筑後系あめがたはそれに続いて広がっていることがわかる。
そして、面白いことに、あめがたが北部九州に放射状に広がっているというよりも、
龍造寺くまもん支配エリア
に伝播しているという可能性が高いのだ!!!
位置関係を整理しよう。
長崎県小値賀町は離島なのでちょっとほっとくが、松浦あたりまで「あめがた」が存在していた証拠として仮置きしておく。
まず、西から嬉野・そして鹿島・佐賀と有明海を回るように東へ向かう。そして、大木町・柳川・八女市と有明海沿いに回ってゆく。(ただし、海岸線ではない。米と麦がとれないと飴はできないので穀倉地帯をめぐるルートだ)
これが、飴形ロードなのだ!
黒木城がらみの話は、もうちょっと検証しなくてはならない部分があるが、少なくとも黒木氏は
龍造寺家臣
である。柳川も当然蒲池エリアで龍造寺家臣、大木町横溝も、柳川城を建てた蒲池治久の弟の城「横溝城」があったところなのだ。
もちろん、戦国時代に飴形があるわけもなく、いわゆる飴文化は江戸期より栄えることになるので、少し時代錯誤がある。
しかし、佐賀と筑後の一部に文化的近縁性がみられることが、実に興味深い。
このあたりのナゾ、誰か論文にしてみませんか?(笑)
P.S. 個人的には、あめがたと朝鮮飴(長生飴)の関係についても気になる。
2014年8月19日火曜日
<92-1・姓氏家系>北部九州の苗字スペシャル まずは少弐氏! 少弐末裔子孫総まとめ!
今回は、少弐末裔を自称する大塚某が、じっくりじんわりと調査した「少弐子孫スペシャル!」をお届けします。
福岡・佐賀・長崎など、九州の北部から中部にかけて広がっているはずの「少弐氏の子孫」を明らかにする大特集!
もしかしたら、あなたの苗字があるかもしれません!
まずは、前半戦。少弐氏の歴史について振り返っておきましょう。
『少弐氏とは』
時は平安時代の末から鎌倉時代にかけて、武藤頼平という武将がおりました。
武藤とは「武蔵の国に拠点をもつ藤原氏」の意味で、藤原北家の出、藤原秀郷の子孫とも藤原道長の子孫とも言われています。
頼平は、平安時代末期「武者所」に就き、のち源頼朝に従い、鎌倉幕府御家人となります。
その頼平の養子となったのが武藤資頼、この武将ははじめ平氏方にいたものの、これまた源頼朝の御家人となります。
ちなみに頼平の本姓は「藤原」ですから、本名は「藤原頼平」となります。この藤原頼平のお兄ちゃんに「藤原能成」がおり、彼は近藤能成を名乗ります。
その息子「藤原能直」は、母方の領地、相模国足柄上郡大友郷を領してから大友能直を名乗ります。
血縁関係はないものの、家柄的にはいとこである「武藤資頼」と「大友能直」の二人は、このあと激動の九州史を率いてゆくことになるのです。
~~~~~~~~~~~~
時は建久年間(1190~)のこと。1192いいくにつくろう鎌倉幕府が始まってまもないこの時期に、資頼と能直の義理のいとこ同士の二人は、そろって九州行きを命じられます。
資頼は大宰府少弐職、能直は資頼と一緒に鎮西奉行に就任、また、それぞれ北部九州の守護職なども歴任するようになるのでした。
これをもって、藤原資頼かつ武藤資頼は「少弐氏」の祖、藤原能直かつ大友能直は「(豊後)大友氏」の祖となります。
少弐氏、大友氏ともこのあと激動の南北朝・戦国時代をフルスロットルで駆け抜けてゆくことになるですが、それはまた別のお話。
『少弐氏の子孫たち・庶家・支流・分家』
朝日
出雲
安永
窪〔久保〕
吉田
西
山井
志賀
加茂
城
堀
平井
肥後
横岳
馬場
早良
筑紫
島
大塚
倉町
関
平原
宗
など 古樹紀之房間さんより引用
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/fujiwarag.htm
『大友氏の子孫たち・庶家・支流・分家』
立花
戸次
田原
志賀
田北
託磨
臼杵
入田
吉弘
堤
木付
清田
など ウィキペディアより引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E6%B0%8F
朝日
出雲
安永
窪〔久保〕
吉田
西
山井
志賀
加茂
城
堀
平井
肥後
横岳
馬場
早良
筑紫
島
大塚
倉町
関
平原
宗
など 古樹紀之房間さんより引用
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keihu/sizokugairan/fujiwarag.htm
『大友氏の子孫たち・庶家・支流・分家』
立花
戸次
田原
志賀
田北
託磨
臼杵
入田
吉弘
堤
木付
清田
など ウィキペディアより引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E6%B0%8F
2014年8月18日月曜日
<91>ミッシング・リンクを探して ~久留米藩内大塚氏を調査中~
お盆休みの間、あまりブログの更新はしていなかったものの、地道な調査は継続して行っていた。
そんな折、前々回の記事に少し書いたのだが、「九州地方を旅して大塚さんの先祖を探している方」というのが登場したらしく、当家を取り巻く事態に大きな展開があったのだが、それは個人情報のこともあるので、まろやかにぼやかしながら書いておこう。
なぜ、そのような方がいることを、兵庫県に住んでいる私が知っているのか、というミステリーのナゾが解ければ、意味がすぐ理解できるに違いない。
そう!賢明な読者諸君ならもうおわかりのことと思う。
その大塚さん、もしくは大塚さんに関わりがある方が訪ねていった先は、うちの先祖と共通なのである。
というわけで、もし当ブログをお読みでしたら、ご連絡をいただきたい!
あ!っと驚くようなさらに深い真実と、綿密な調査に基づくものすごい情報を
お伝えできるのに、残念でならない。
メールアドレスは
samurai_otsuka@yahoo.co.jp
なので、心あたりのあなた!ぜひメールください。
==========
さて、夏の間どこに引きこもっていたかといえば、当家、三潴の大塚家について
「ミッシング・リンク」
を探していた。
おさらいがてら説明しよう。
そもそも、当家に伝わる伝承は、久留米藩に仕えていた武士の大塚氏が当家の先祖である、というおじいちゃんの昔話であった。
そこから、「久留米藩の藩士の名簿」、「久留米藩の藩士の系図」などをしらみつぶしに当たり、また「久留米藩内の浪人のリスト」や「久留米藩内の旧家の経歴」などまでガッツリ調査したのである。
しかし!あえて言おう!
どこにも当家の痕跡が出てこないのである。
もちろん、久留米藩の藩士名簿に大塚氏は存在する。しかし、最も石高の高い馬廻りクラスの大塚氏は、天領日田から移動してきた幕府直轄の代官の手下であったし、それ以外の大塚氏も文献から判明する限りは、大分系からの移動者であった。
そして、今回新たに判明したのだが、
「久留米藩 有馬家」が、関西から久留米に連れて行った武士の中に、「大塚」の苗字がなく、また久留米藩の初期体制の中にも、「大塚」の苗字の武士がいない
ということがわかったのである。
つまり、お隣の黒田家と違って、久留米藩と大塚氏の関わりはそもそも薄いということがわかってきたのだ。
==========
これは、ある意味では当ブログの調査結果と合致する。
というのも、前半戦こそ「有馬家と大塚氏」の線で調べていたが、後半戦では「佐賀勢大塚氏」の線が色濃くなっている。
三潴の大塚氏は、久留米藩よりも、佐賀系武士と関わりが強いことがわかってきているのだ。
そこで、「ミッシングリンク」の話である。
旧三潴地域は、
<天正の頃・戦国時代は> 龍造寺氏の支配化にあった(可能性が限りなく強い)
<秀吉の天下統一時は> 立花氏が柳川城に入った。
<江戸時代草創期は> 田中氏が三潴を領した。
<江戸時代初期以降は> 久留米藩有馬氏・柳川藩立花氏が分割統治
という流れになっている。
そして、このブログの推論によれば、当家大塚氏は「龍造寺の現地駐留部隊として三潴地域に屋敷を構えたまま、帰農」した可能性が高い。
ついでに言えば、有馬氏が田中氏から三潴を引き継いだ際、旧田中がらみの家臣をほとんど取り立てず、家臣団はすでに足りているという判断をしたので、
この時点で三潴大塚氏(旧龍造寺家臣グループ)はおそらく「庄屋止まり」で完全に農民化されただろうと推測できるわけだ。
さらに言えば、このあと江戸時代宝暦期を中心に、久留米藩内では大規模な一揆が起きており、その際に各三潴地域の庄屋たちが一揆の標的になったり、あるいは農民側についたり、大混乱が起きていることがわかっている。
つまり、宝暦時点でも「庄屋としての仕置」に何らかの処分が行われた可能性もある。
(農民側についた庄屋は、打ち首になった者もいるし、藩側にいた庄屋も打ち壊しの被害や庄屋交代などの処分もあった)
事実、当家に存在する江戸期の墓碑は、宝暦の時点で止まっており、それ以降に建立された墓碑が現存していないことが、何かの事情を指し示している可能性が高い。
==========
つまりだ。
田中藩政から有馬藩政の移行の際と、宝暦一揆前後の2つの時期に、当家をめぐる藩政上の処遇が大きく変わった可能性があるわけで、そこで情報が途切れているのである。
そこをつなぐものが、まだ見つかっていない。
頑張れ!大塚某!負けるな!大塚某!
そんな折、前々回の記事に少し書いたのだが、「九州地方を旅して大塚さんの先祖を探している方」というのが登場したらしく、当家を取り巻く事態に大きな展開があったのだが、それは個人情報のこともあるので、まろやかにぼやかしながら書いておこう。
なぜ、そのような方がいることを、兵庫県に住んでいる私が知っているのか、というミステリーのナゾが解ければ、意味がすぐ理解できるに違いない。
そう!賢明な読者諸君ならもうおわかりのことと思う。
その大塚さん、もしくは大塚さんに関わりがある方が訪ねていった先は、うちの先祖と共通なのである。
というわけで、もし当ブログをお読みでしたら、ご連絡をいただきたい!
あ!っと驚くようなさらに深い真実と、綿密な調査に基づくものすごい情報を
お伝えできるのに、残念でならない。
メールアドレスは
samurai_otsuka@yahoo.co.jp
なので、心あたりのあなた!ぜひメールください。
==========
さて、夏の間どこに引きこもっていたかといえば、当家、三潴の大塚家について
「ミッシング・リンク」
を探していた。
おさらいがてら説明しよう。
そもそも、当家に伝わる伝承は、久留米藩に仕えていた武士の大塚氏が当家の先祖である、というおじいちゃんの昔話であった。
そこから、「久留米藩の藩士の名簿」、「久留米藩の藩士の系図」などをしらみつぶしに当たり、また「久留米藩内の浪人のリスト」や「久留米藩内の旧家の経歴」などまでガッツリ調査したのである。
しかし!あえて言おう!
どこにも当家の痕跡が出てこないのである。
もちろん、久留米藩の藩士名簿に大塚氏は存在する。しかし、最も石高の高い馬廻りクラスの大塚氏は、天領日田から移動してきた幕府直轄の代官の手下であったし、それ以外の大塚氏も文献から判明する限りは、大分系からの移動者であった。
そして、今回新たに判明したのだが、
「久留米藩 有馬家」が、関西から久留米に連れて行った武士の中に、「大塚」の苗字がなく、また久留米藩の初期体制の中にも、「大塚」の苗字の武士がいない
ということがわかったのである。
つまり、お隣の黒田家と違って、久留米藩と大塚氏の関わりはそもそも薄いということがわかってきたのだ。
==========
これは、ある意味では当ブログの調査結果と合致する。
というのも、前半戦こそ「有馬家と大塚氏」の線で調べていたが、後半戦では「佐賀勢大塚氏」の線が色濃くなっている。
三潴の大塚氏は、久留米藩よりも、佐賀系武士と関わりが強いことがわかってきているのだ。
そこで、「ミッシングリンク」の話である。
旧三潴地域は、
<天正の頃・戦国時代は> 龍造寺氏の支配化にあった(可能性が限りなく強い)
<秀吉の天下統一時は> 立花氏が柳川城に入った。
<江戸時代草創期は> 田中氏が三潴を領した。
<江戸時代初期以降は> 久留米藩有馬氏・柳川藩立花氏が分割統治
という流れになっている。
そして、このブログの推論によれば、当家大塚氏は「龍造寺の現地駐留部隊として三潴地域に屋敷を構えたまま、帰農」した可能性が高い。
ついでに言えば、有馬氏が田中氏から三潴を引き継いだ際、旧田中がらみの家臣をほとんど取り立てず、家臣団はすでに足りているという判断をしたので、
この時点で三潴大塚氏(旧龍造寺家臣グループ)はおそらく「庄屋止まり」で完全に農民化されただろうと推測できるわけだ。
さらに言えば、このあと江戸時代宝暦期を中心に、久留米藩内では大規模な一揆が起きており、その際に各三潴地域の庄屋たちが一揆の標的になったり、あるいは農民側についたり、大混乱が起きていることがわかっている。
つまり、宝暦時点でも「庄屋としての仕置」に何らかの処分が行われた可能性もある。
(農民側についた庄屋は、打ち首になった者もいるし、藩側にいた庄屋も打ち壊しの被害や庄屋交代などの処分もあった)
事実、当家に存在する江戸期の墓碑は、宝暦の時点で止まっており、それ以降に建立された墓碑が現存していないことが、何かの事情を指し示している可能性が高い。
==========
つまりだ。
田中藩政から有馬藩政の移行の際と、宝暦一揆前後の2つの時期に、当家をめぐる藩政上の処遇が大きく変わった可能性があるわけで、そこで情報が途切れているのである。
そこをつなぐものが、まだ見つかっていない。
頑張れ!大塚某!負けるな!大塚某!
2014年8月17日日曜日
<話題>今日の軍師官兵衛ちゃん 村重ちゃんファン感謝デー!涙腺崩壊スペシャル!
日曜日のお楽しみ、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛ちゃん」のコーナーがやってまいりました。お盆休みで、ブログ本編はあまり更新できませんでしたが、いかがお過ごしでしょうか?
私の住む関西の某地方、台風11号とそれに続いての大雨で近辺はいろいろと被害が出ているようです。 みなさまのご無事をお祈り申し上げます。
さて、今日の「黒田官兵衛」ちゃんは、我らが荒木村重ちゃんファン感謝デースペシャル!でしたね!
歴史的事実としての展開は、
”官兵衛、キリシタンになる”
ぐらいで、それ以外のエピソードはほとんど創作想像妄想イメージでした(笑)
<村重ちゃんエピソード1>
相変わらずグレている浅井CHACHAに「有岡城での話が聞きたい」とわがままをぶちかまされ、秀吉以下みんなの前で当時の話をさせられるという
マゾプレイ
展開でしたが、「有岡が負けたのは高山右近が裏切ったから」とか「父や兄を殺されてるのに、なんで側室になって生き恥さらしてんねん」と逆にぶちかます
サド展開!
なかなか強烈なサービスシーンでしたね。
<村重ちゃんエピソード2>
突然「実は生きてました」と村重ちゃんの息子が登場!
涙の再会になるか、とみせかけて
「そんなやつはしらん!」
とうそぶく村重ちゃん。 ここは期待を裏切らない鬼畜ぶりです。
<村重ちゃんエピソード3>
最後は堺に追放される村重ちゃんですが、その前に息子に再会。ここはお約束どおり、涙、なみだのシーンです。
はじめて村重ちゃんが「すまなかった」と息子に詫びる重い場面です。
でも、いよいよ別れの段になって、みんなでしんみりしているのに、
「官兵衛どの、いや官兵衛!俺はまだまだいきのびるぜーーーーっと!」
とあえてのタメ口!!!!
最後まで村重ファンを裏切らない、ツンデレキャラを演じきって、田中哲史さんクランクアップでございます。パチパチパチ!お疲れ様でした!
・・・そんな展開だけでほとんど終わってしまった今回の官兵衛ちゃん。
一人寂しく洗礼を受け、いよいよ黒田シメオンと改名します。キリシタン大名、官兵衛の活躍はまて次回!!
私の住む関西の某地方、台風11号とそれに続いての大雨で近辺はいろいろと被害が出ているようです。 みなさまのご無事をお祈り申し上げます。
さて、今日の「黒田官兵衛」ちゃんは、我らが荒木村重ちゃんファン感謝デースペシャル!でしたね!
歴史的事実としての展開は、
”官兵衛、キリシタンになる”
ぐらいで、それ以外のエピソードはほとんど創作想像妄想イメージでした(笑)
<村重ちゃんエピソード1>
相変わらずグレている浅井CHACHAに「有岡城での話が聞きたい」とわがままをぶちかまされ、秀吉以下みんなの前で当時の話をさせられるという
マゾプレイ
展開でしたが、「有岡が負けたのは高山右近が裏切ったから」とか「父や兄を殺されてるのに、なんで側室になって生き恥さらしてんねん」と逆にぶちかます
サド展開!
なかなか強烈なサービスシーンでしたね。
<村重ちゃんエピソード2>
突然「実は生きてました」と村重ちゃんの息子が登場!
涙の再会になるか、とみせかけて
「そんなやつはしらん!」
とうそぶく村重ちゃん。 ここは期待を裏切らない鬼畜ぶりです。
<村重ちゃんエピソード3>
最後は堺に追放される村重ちゃんですが、その前に息子に再会。ここはお約束どおり、涙、なみだのシーンです。
はじめて村重ちゃんが「すまなかった」と息子に詫びる重い場面です。
でも、いよいよ別れの段になって、みんなでしんみりしているのに、
「官兵衛どの、いや官兵衛!俺はまだまだいきのびるぜーーーーっと!」
とあえてのタメ口!!!!
最後まで村重ファンを裏切らない、ツンデレキャラを演じきって、田中哲史さんクランクアップでございます。パチパチパチ!お疲れ様でした!
・・・そんな展開だけでほとんど終わってしまった今回の官兵衛ちゃん。
一人寂しく洗礼を受け、いよいよ黒田シメオンと改名します。キリシタン大名、官兵衛の活躍はまて次回!!
2014年8月10日日曜日
<話題>今日の軍師官兵衛ちゃん ちょびっとサスペンス仕立てで新展開?!
毎度おなじみ、日曜日のお楽しみ「軍師官兵衛ちゃん」の時間がやってきました。
大河では語られない裏話や、ちょっと突っ込んだネタをお届けしている当ブログの人気コーナーになってしまいましたが、今日も大事なポイントがいっぱいありますよ!
さて、今回の官兵衛ちゃんは、これまでのように「カラッと明るく元気な秀吉軍」から一転、それぞれの人物の心の闇がにじみ出るようなサスペンス風展開です。
秀吉の心が少しずつどんよりと曇ってゆき、官兵衛もちょびっとモヤモヤしながら話が進みます。
われらが愛しの荒木道薫こと村重ちゃんも、サブキャラとして登場。いらんことをつぶやいて去って行きました(笑)
それにしても、すばらしいのは竹中直人さんの演技力!
こないだまで喜んでアホを演じていたのに、いよいよ権力にとりつかれた男らしくなってきました。
今回は全体的に史実よりも、いかにもドラマっぽいエピソードに満ちていた回でしたが、たまにはこういうのもいいんじゃないでしょうか?
あぶない武士、柴田恭平さんがいい仕事してますね!
==========
さて、戦国がらみブログらしく真面目な話をしておきましょう。
ドラマではあっさりとスルーされましたが、小牧長久手の戦い、は重要なポイントです。
結局どちらが勝ったのかよくわからん戦いではありましたが、ポイントは
家康側が、戦いそのものは勝っていた
という点です。
秀吉軍と相対した家康は、ここで滅ぼされず首を繋ぎます。どころか、ここから大事な話。
秀吉は、家康のいる三河から北を直接手出しできないことに気付く、というのがツボ。
家康はいちおう秀吉の家臣となりますが、実働部隊としての家康軍は、三河中心に
ガッツリ居座っている
わけですから、簡単にいえば中部を越えた関東は秀吉が手を出せないわけです。
なので、秀吉は
征夷大将軍になれなかった
という説があるわけ。
将軍とはもともと、東国の蝦夷を討つための役職です。しかし、東国に直接手出しできない。うーん、もやもやする!
だから
関白になるもんね!
という説ですね。なるほど説得力があります。歴代の天下取りの中で、秀吉だけが幕府を開かず、将軍になっていない、というのはそういう側面があるのかもしれません。
(もちろん、「将軍」とは武官にとっての最上級職ですから、農民上がりを自負している秀吉は、武官の官職にそれほどこだわらなかった、という意味もあるでしょう)
==========
さてもうひとつ、桃李くん長政が領地の領民の扱いに苦労する、というエピソードが出てきますが、このへんが深い意味を持っています。
前回のブログで論説したとおり、天下が統一され、戦国大名が領地を持つということは天下人に「どこか知らん土地を与えられる」ということに他なりません。
ドラマでも出てきた通り、そこには地場の豪族(地侍)や、農民がおり、土地の実行支配をしているのは、当然彼らということになります。
もちろん、領主としての戦国大名はそこに君臨しますが、実は実行支配はしていない。このことは明治まで結局続くことになるのです。
大河では語られない裏話や、ちょっと突っ込んだネタをお届けしている当ブログの人気コーナーになってしまいましたが、今日も大事なポイントがいっぱいありますよ!
さて、今回の官兵衛ちゃんは、これまでのように「カラッと明るく元気な秀吉軍」から一転、それぞれの人物の心の闇がにじみ出るようなサスペンス風展開です。
秀吉の心が少しずつどんよりと曇ってゆき、官兵衛もちょびっとモヤモヤしながら話が進みます。
われらが愛しの荒木道薫こと村重ちゃんも、サブキャラとして登場。いらんことをつぶやいて去って行きました(笑)
それにしても、すばらしいのは竹中直人さんの演技力!
こないだまで喜んでアホを演じていたのに、いよいよ権力にとりつかれた男らしくなってきました。
今回は全体的に史実よりも、いかにもドラマっぽいエピソードに満ちていた回でしたが、たまにはこういうのもいいんじゃないでしょうか?
あぶない武士、柴田恭平さんがいい仕事してますね!
==========
さて、戦国がらみブログらしく真面目な話をしておきましょう。
ドラマではあっさりとスルーされましたが、小牧長久手の戦い、は重要なポイントです。
結局どちらが勝ったのかよくわからん戦いではありましたが、ポイントは
家康側が、戦いそのものは勝っていた
という点です。
秀吉軍と相対した家康は、ここで滅ぼされず首を繋ぎます。どころか、ここから大事な話。
秀吉は、家康のいる三河から北を直接手出しできないことに気付く、というのがツボ。
家康はいちおう秀吉の家臣となりますが、実働部隊としての家康軍は、三河中心に
ガッツリ居座っている
わけですから、簡単にいえば中部を越えた関東は秀吉が手を出せないわけです。
なので、秀吉は
征夷大将軍になれなかった
という説があるわけ。
将軍とはもともと、東国の蝦夷を討つための役職です。しかし、東国に直接手出しできない。うーん、もやもやする!
だから
関白になるもんね!
という説ですね。なるほど説得力があります。歴代の天下取りの中で、秀吉だけが幕府を開かず、将軍になっていない、というのはそういう側面があるのかもしれません。
(もちろん、「将軍」とは武官にとっての最上級職ですから、農民上がりを自負している秀吉は、武官の官職にそれほどこだわらなかった、という意味もあるでしょう)
==========
さてもうひとつ、桃李くん長政が領地の領民の扱いに苦労する、というエピソードが出てきますが、このへんが深い意味を持っています。
前回のブログで論説したとおり、天下が統一され、戦国大名が領地を持つということは天下人に「どこか知らん土地を与えられる」ということに他なりません。
ドラマでも出てきた通り、そこには地場の豪族(地侍)や、農民がおり、土地の実行支配をしているのは、当然彼らということになります。
もちろん、領主としての戦国大名はそこに君臨しますが、実は実行支配はしていない。このことは明治まで結局続くことになるのです。
2014年8月8日金曜日
<90・姓氏家系>農民よ大志を抱け! ~在地在農主義で読み解く農家論~
苗字や家系について研究しているうちに、一般的に思われていることとは多少様子が違う、
「真実」
のようなものを感じるようになった。こうしたことは、おそらく専門の研究者の方々であれば、それぞれの立場で把握なさっていることなのかもしれないが、どうもそういうことが一般論として流布していないので、今回まとめてみようと思う。
テーマはズバリ! 農民よ大志を抱け! 農家農民の重要性を姓氏家系から読み解く!
である。
一般的には、”士農工商”なんてことばがあるように、近世においては一定の階層化と序列化があったように解釈されている。
それが明治維新の結果、「皇族・華族・士族・平民」といった階層分類に受け継がれていったことは、みなさん御承知の通りである。
ところが、それは「明治政府と支配層」から一方的に見た分類であって、この国で起きていたリアルな実態とは実はズレがあるように思う。
では、見方を変えればどんなことがわかるのか?今回は「姓氏家系」のサイドからみた、わが国の在り様を考えてみたいのだ。
<重要視点 その1> 冷凍保存された苗字?!260年の時空を越えて
江戸時代の身分制度とは「イス取りゲーム」のような側面がある。それまで戦国武将たちが好き勝手に領地を拡大したり、あっちへいったりこっちへ行ったりしていたのが、「天下統一」された時点で、
はい、その場所でストップ!動いたらダメよ
と言われたような感じなのだ。
その瞬間、戦国大名だったものは、「その場所で本領安堵される」か、天下統一者(初期は秀吉、のちに徳川家)に「転封させられる」かのどちらか、というわけである。
武将だったもので、大名下で参戦していなかった者、在地領主化していたものは、そのまま帰農せざるを得なくなり、「土地を所有している農家の親分」としてその場所にとどめ置かれた。
ひどい場合には、元の親分は違う領地に国替えになっているのに、在地化していたことで(隠居なども含む)、家臣としてついていくわけにもいかず、取り残されたものも多いことになる。
当家大塚氏の場合は、どうやら天正末期の時点で、三潴に居たことで龍造寺本体に従属してゆくことが困難になったと考えられる。佐賀藩そのものは、天下人秀吉に従い、のち家康に従うのだが、佐賀藩の領土を決めるのは秀吉ないし家康である。
その領地以外に、「実は、どこそこに家来がいるんですけど」と思っていても、そこは既に別の大名にあてがわれている、ということが起きたのだ。
同時に、刀狩が行われ、また身分が統制されていくことで「取り残された元武士たち」や「半侍半農」だった武装農民も、みな農家としてその場所に固定化されてゆくわけである。
そして、江戸時代になり、農民は「苗字が名乗れなくなった」!
これはすごいことで、苗字という権利が停止させられたことで、天正期の苗字がそのまま冷凍保存されてしまったのである。それも明治期まで260年、凍結されてしまったのである。
わが大塚家も、恐らくは天正以降凍結された苗字だと考えられる。母方の苗字なんかは、ズバリそのまま天正11年から家が続いていることが記録に残されている。
一方の武士階級については、諸事情で苗字が変わるということが頻繁に起こっている。功績によって変わったり、主君に与えられたり、理由不明のものまで、けっこう苗字が変わっているケースがある。
苗字を名乗れるということは、苗字を変えて名乗れるということでもある。
苗字を名乗れないということは、変えることもできないのである。
(幕末~明治維新期の有名人で苗字も名前も変わっている人物が多いことは、言うまでもない)
つまり、在地領主・帰農武家を発生とする農家の苗字は、中世の氏族の証をそのまま残している可能性がある、という意味で重要なのである。
<重要視点 その2> ”領地”とは誰のものだったのか?庄屋という存在が意味するもの
ふたつめの超大事ポイントは、領地とは結局誰のものか、という視点である。
わが国の領地は、もともとは天皇家のものだった。それが「開墾したやつはその土地をもらえる」ことになり、様々な事情で「その土地を朝廷由来の権力で掌握したものや、武力で実行支配したものが領地を我が物にする」ことができるようになった。
戦国時代がまさにそれで、戦国大名が武力で実行支配した地域は、その戦国大名のものとされたわけである。
ところが、江戸幕府ができると、すべての領地は徳川家のものであり、諸国の大名は、それを徳川家の権威の下で預かり支配できることになった。
だから徳川の意向に沿わない場合は、領地変えや取り潰しにされたのである。
ここからが重要ポイント。
明治維新になって、徳川家が領地支配を放棄した際、土地は誰のものになったのか、というナゾを考えて欲しい。
支配権は天皇家に移った。とすれば国内の土地はすべて天皇家の領地になったのか?!
違うのだ!
明治6年地租改正により、それぞれ土地は「土地所有者」のものとなった。それはつまり、誰なのか。誰が土地を持っていたのか!
江戸時代に戻ろう。農村には2種類の農民がいた。土地を所有していた農民と、耕作を請け負っていた土地を持たない農民である。
土地を持っていた農民とは何者か、・・・・そうなのだ。それはかつてその土地を実行支配していた、直接統治していた武家の家臣たちなのである。
ちょっとわかりにくいが、こういうことだ。
守護大名も、戦国大名も、領地を所有してはいても実行支配していたのは部下たちであった。戦国武将たちも、石高制で領地を貰っていたが「そこに住んでいた」わけではなかった。石高が多ければ多いほど、名目上広い土地を所有できたが、
その場所にいて、その大地を踏みしめているわけにはいかなかった
のである。
とすれば、その場所に住んでいたのは誰か?それは戦国武将にもなれなかったその家臣団の誰それという一武士である。(その大半は武将たちの親族や縁の深いものだっただろう)
その者達は、江戸時代には「庄屋層」として「土地持ちの農民」という位置づけを受けていた。
彼らが、最終的に、現地にいてその土地を実行支配しており、明治になって「実際にその土地を所有」することになったのである。
だから、ここからが結論!
日本という国を最終的に実行支配し、わが国の最後の領主となったのは「庄屋層」、つまり農民だったのだ。
(☆荘園・寺領・天領などその他いろいろの要素は、あえて省いて簡略化しています)
<重要視点 その3> 在地在農主義で読む わが国のカタチ
明治維新とは何か。それは、天皇家にしろ、徳川家にしろ「朝廷的権威に裏付けられた領地所有」の終焉を意味した。
そして、ある意味恐ろしいことに、特権階級だった武士たちに対して「実は何も与えるものが残っていなかった」という放置プレイと化したのである。
自分たちが所有していたと勘違いしていた石高・領地は、実はまったく仮想のものであり、米を生み出す土地を実行支配していた農民(ただし、庄屋層)がそれらを名実ともに掌握してしまったのである。
経済史的には、これをもって近代型資本主義が成立した(資本=土地を所有している連中が生まれた)とするが、もっともっと基本的なことを確認しよう。
そうなのだ。土地は実行支配したやつが勝つのだ。
某竹島みたいなもんで、名目上の支配権は、実行支配に立ち向かえないのである。
この「実行支配」の重要性を、私は「在地在農論」「在地在農主義」ということばで表したい。
わが国の国土形成をしているのは、すくなくとも戦国時代の終わりに「在地」を実効支配した層である。
そして、彼らは「在農者(造語)」として、その地で農民として過ごしてきた。
この農民は、一般的な歴史観で捉えられている農民とはまったく違う。
歴史学的には、こうした庄屋層が支配者サイドに立っていた例がたくさんあるが、
士・農
というラベルだけでこれらを論じるのは軽率である。
明治維新が明らかにしたように、”士”は、名目上の領主に過ぎず、実態としての庄屋層”農”が実の領主だったとすれば、わが国の歴史観は大きく変わってくる。
というわけで、超激論でお届けした今回の結論はこちら!
農民よ大志を抱け!わが国の最終領主は、田舎の農家のみなさんなのだ!
たとえ耕作を放棄していても、わが国の国土と国体を維持しているのは、戦国志士の末裔である農家のあなたがたなのです!
ババーン!!!!!
「真実」
のようなものを感じるようになった。こうしたことは、おそらく専門の研究者の方々であれば、それぞれの立場で把握なさっていることなのかもしれないが、どうもそういうことが一般論として流布していないので、今回まとめてみようと思う。
テーマはズバリ! 農民よ大志を抱け! 農家農民の重要性を姓氏家系から読み解く!
である。
一般的には、”士農工商”なんてことばがあるように、近世においては一定の階層化と序列化があったように解釈されている。
それが明治維新の結果、「皇族・華族・士族・平民」といった階層分類に受け継がれていったことは、みなさん御承知の通りである。
ところが、それは「明治政府と支配層」から一方的に見た分類であって、この国で起きていたリアルな実態とは実はズレがあるように思う。
では、見方を変えればどんなことがわかるのか?今回は「姓氏家系」のサイドからみた、わが国の在り様を考えてみたいのだ。
<重要視点 その1> 冷凍保存された苗字?!260年の時空を越えて
江戸時代の身分制度とは「イス取りゲーム」のような側面がある。それまで戦国武将たちが好き勝手に領地を拡大したり、あっちへいったりこっちへ行ったりしていたのが、「天下統一」された時点で、
はい、その場所でストップ!動いたらダメよ
と言われたような感じなのだ。
その瞬間、戦国大名だったものは、「その場所で本領安堵される」か、天下統一者(初期は秀吉、のちに徳川家)に「転封させられる」かのどちらか、というわけである。
武将だったもので、大名下で参戦していなかった者、在地領主化していたものは、そのまま帰農せざるを得なくなり、「土地を所有している農家の親分」としてその場所にとどめ置かれた。
ひどい場合には、元の親分は違う領地に国替えになっているのに、在地化していたことで(隠居なども含む)、家臣としてついていくわけにもいかず、取り残されたものも多いことになる。
当家大塚氏の場合は、どうやら天正末期の時点で、三潴に居たことで龍造寺本体に従属してゆくことが困難になったと考えられる。佐賀藩そのものは、天下人秀吉に従い、のち家康に従うのだが、佐賀藩の領土を決めるのは秀吉ないし家康である。
その領地以外に、「実は、どこそこに家来がいるんですけど」と思っていても、そこは既に別の大名にあてがわれている、ということが起きたのだ。
同時に、刀狩が行われ、また身分が統制されていくことで「取り残された元武士たち」や「半侍半農」だった武装農民も、みな農家としてその場所に固定化されてゆくわけである。
そして、江戸時代になり、農民は「苗字が名乗れなくなった」!
これはすごいことで、苗字という権利が停止させられたことで、天正期の苗字がそのまま冷凍保存されてしまったのである。それも明治期まで260年、凍結されてしまったのである。
わが大塚家も、恐らくは天正以降凍結された苗字だと考えられる。母方の苗字なんかは、ズバリそのまま天正11年から家が続いていることが記録に残されている。
一方の武士階級については、諸事情で苗字が変わるということが頻繁に起こっている。功績によって変わったり、主君に与えられたり、理由不明のものまで、けっこう苗字が変わっているケースがある。
苗字を名乗れるということは、苗字を変えて名乗れるということでもある。
苗字を名乗れないということは、変えることもできないのである。
(幕末~明治維新期の有名人で苗字も名前も変わっている人物が多いことは、言うまでもない)
つまり、在地領主・帰農武家を発生とする農家の苗字は、中世の氏族の証をそのまま残している可能性がある、という意味で重要なのである。
<重要視点 その2> ”領地”とは誰のものだったのか?庄屋という存在が意味するもの
ふたつめの超大事ポイントは、領地とは結局誰のものか、という視点である。
わが国の領地は、もともとは天皇家のものだった。それが「開墾したやつはその土地をもらえる」ことになり、様々な事情で「その土地を朝廷由来の権力で掌握したものや、武力で実行支配したものが領地を我が物にする」ことができるようになった。
戦国時代がまさにそれで、戦国大名が武力で実行支配した地域は、その戦国大名のものとされたわけである。
ところが、江戸幕府ができると、すべての領地は徳川家のものであり、諸国の大名は、それを徳川家の権威の下で預かり支配できることになった。
だから徳川の意向に沿わない場合は、領地変えや取り潰しにされたのである。
ここからが重要ポイント。
明治維新になって、徳川家が領地支配を放棄した際、土地は誰のものになったのか、というナゾを考えて欲しい。
支配権は天皇家に移った。とすれば国内の土地はすべて天皇家の領地になったのか?!
違うのだ!
明治6年地租改正により、それぞれ土地は「土地所有者」のものとなった。それはつまり、誰なのか。誰が土地を持っていたのか!
江戸時代に戻ろう。農村には2種類の農民がいた。土地を所有していた農民と、耕作を請け負っていた土地を持たない農民である。
土地を持っていた農民とは何者か、・・・・そうなのだ。それはかつてその土地を実行支配していた、直接統治していた武家の家臣たちなのである。
ちょっとわかりにくいが、こういうことだ。
守護大名も、戦国大名も、領地を所有してはいても実行支配していたのは部下たちであった。戦国武将たちも、石高制で領地を貰っていたが「そこに住んでいた」わけではなかった。石高が多ければ多いほど、名目上広い土地を所有できたが、
その場所にいて、その大地を踏みしめているわけにはいかなかった
のである。
とすれば、その場所に住んでいたのは誰か?それは戦国武将にもなれなかったその家臣団の誰それという一武士である。(その大半は武将たちの親族や縁の深いものだっただろう)
その者達は、江戸時代には「庄屋層」として「土地持ちの農民」という位置づけを受けていた。
彼らが、最終的に、現地にいてその土地を実行支配しており、明治になって「実際にその土地を所有」することになったのである。
だから、ここからが結論!
日本という国を最終的に実行支配し、わが国の最後の領主となったのは「庄屋層」、つまり農民だったのだ。
(☆荘園・寺領・天領などその他いろいろの要素は、あえて省いて簡略化しています)
<重要視点 その3> 在地在農主義で読む わが国のカタチ
明治維新とは何か。それは、天皇家にしろ、徳川家にしろ「朝廷的権威に裏付けられた領地所有」の終焉を意味した。
そして、ある意味恐ろしいことに、特権階級だった武士たちに対して「実は何も与えるものが残っていなかった」という放置プレイと化したのである。
自分たちが所有していたと勘違いしていた石高・領地は、実はまったく仮想のものであり、米を生み出す土地を実行支配していた農民(ただし、庄屋層)がそれらを名実ともに掌握してしまったのである。
経済史的には、これをもって近代型資本主義が成立した(資本=土地を所有している連中が生まれた)とするが、もっともっと基本的なことを確認しよう。
そうなのだ。土地は実行支配したやつが勝つのだ。
某竹島みたいなもんで、名目上の支配権は、実行支配に立ち向かえないのである。
この「実行支配」の重要性を、私は「在地在農論」「在地在農主義」ということばで表したい。
わが国の国土形成をしているのは、すくなくとも戦国時代の終わりに「在地」を実効支配した層である。
そして、彼らは「在農者(造語)」として、その地で農民として過ごしてきた。
この農民は、一般的な歴史観で捉えられている農民とはまったく違う。
歴史学的には、こうした庄屋層が支配者サイドに立っていた例がたくさんあるが、
士・農
というラベルだけでこれらを論じるのは軽率である。
明治維新が明らかにしたように、”士”は、名目上の領主に過ぎず、実態としての庄屋層”農”が実の領主だったとすれば、わが国の歴史観は大きく変わってくる。
というわけで、超激論でお届けした今回の結論はこちら!
農民よ大志を抱け!わが国の最終領主は、田舎の農家のみなさんなのだ!
たとえ耕作を放棄していても、わが国の国土と国体を維持しているのは、戦国志士の末裔である農家のあなたがたなのです!
ババーン!!!!!
2014年8月6日水曜日
<89>少弐系「古賀」氏を示す一大資料! 九州の「古賀」さんのルーツ 「考証古賀家譜」
ちょっとここのところ更新が滞っているが
「著者取材のため休載」
なーんてかっこいいことを書いてみたいが、そうではない。
(書いとるやんけ)
実は、いろんな情報が「ワーッ」と集まってきたりしているので、全然整理が追いつかないのである。
とある大塚さんから、佐賀藩に伝わる「大塚氏」の一系統について情報を寄せていただいたり、先日来追いかけている「豊前大塚氏」について、新しい情報が入ったり、三潴は三潴で、ちょっと違う角度から調査をやり直したりしている。
というわけで、今回はメモ代わりの記事。
==========
九州地方の「古賀」さん、といえば、有名中の有名な苗字である。
古くは、
古賀政男 さん
ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7
いわずとしれた大作曲家である。この方、現在は大川市という名前になっているが、れっきとした旧三潴郡の出であり、あるいは、当ブログでは有名な
「古賀伊豆」
に関わりがあるかもしれないかも。なんてね!
近年では、柔道の
古賀 稔彦 さん
ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E7%A8%94%E5%BD%A6
平成の三四郎と呼ばれた男、これまた言わずとしれた金メダリストである。
ん?んん?
出身が、”佐賀県三養基郡北茂安町(現・みやき町)”?!
バ、バリバリの少弐・龍造寺・鍋島エリアではないか!
などの有名人を多数輩出している古賀氏であるが、一般的には、
「劉姓渡来人末裔の古賀氏(三潴郡古賀村本拠)」
が幕臣として伝承を遺しているので、姓氏辞典などではこちらの系統を伝えているものが多い。
もちろん、私も、当初はそれを信じた。
しかーし!である。
上記古賀氏が、ゆえあって「龍造寺、鍋島に仕えて、現在に至る」というお話。そういう系統もあるかもしれないが、私はけっこう半信半疑になってきた。
ここで、あえて言おう!
まだ、ちょっと自分でも未整理なので、これを口にするのは時期尚早なのだが、
そもそも赤松氏流大塚氏なんて、いたのか?
とも思う今日この頃。あーあ、言っちゃった。
当ブログの初期からのファンの方は今頃「ちゅどーん!!!」とぶっ飛ばされている気がするが、平に、ひらにお許しいただきたい。
==========
どういうことか。
「寛政重修緒家譜」に記載のある各家の系図であるが、どうも現地から遠く離れた「江戸中心」に書かれている点や、「とりあえずお前の家の由緒をもってこい」と集めさせた点から見て、
あ・や・し・い
系譜が紛れ込んでいるように思うのだ。
鍋島氏ですらそうだ。同僚の幕臣から「今度、系譜調査があるらしいよ。ちなみにあんたの家の由来は?」みたいなことを聞かれて、
「え?あ、少弐!しょうにだよ(たぶん)。佐賀では一番の名家だし、そうそう、少弐しょうに!」
とその場しのぎで答えた、と記録にあるくらい怪しいのだ。
悪いが、当ブログにおいて綿密な調査をすればするほど「赤松系大塚氏」なんて出てこないのである。
(もちろん、赤松”家臣”の大塚氏は存在する)
幕臣古賀氏の系譜もそうだ。漢の高祖の末裔とか、ほんまか?と疑いたくなる。
つまり、こういうことである。現地サイドに立つと、姫路には赤松系大塚氏なんていないし、筑後には劉姓古賀氏なんてよくわからんのである。
だから、「寛政重修諸家譜」の記載は、あてにならん記述が含まれているということだ。
しかし、姓氏家系研究を全国規模でやろうとすると、とりあえずビールのように「寛政譜」はおさえとかないとダメなので、そのせいで
実はあやしい記載でも、それなりのポジション(信頼性があるような位置)におかれている
ことがあるような気がするのである。
==========
そこで、佐賀と福岡の地元民が、何を探してきたか、ということで、私がやってるのと同じようなことをしていた
古賀益城さん
という偉大な先輩が書いた資料を公開しよう。
近代デジタルライブラリより 「考証古賀家譜」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1096892?tocOpened=1
この資料は、簡単に言えば
「う、うちらの『古賀』は、どう考えても少弐末裔じゃい!」
(少弐末裔の古賀がいるんだもん)
ということを調べまくった資料である。
私も、とりあえず上記「考証古賀家譜」を一定度合い支持したい。
(すべての古賀さんじゃないかもだけど、少弐系古賀さんは、確かにいるんだもん、ということ)
==========
ちなみに、われらが黒田官兵衛は、貝原益軒が勝手に系譜を捏造したので、近江だとかわけわからんとこの出身にされているが、
ガッツだぜ!の播磨黒田庄 (トータス松本氏の出身地)
こそが、真の黒田ルーツだと、私も思っている。それが地元調査の重みである。
「著者取材のため休載」
なーんてかっこいいことを書いてみたいが、そうではない。
(書いとるやんけ)
実は、いろんな情報が「ワーッ」と集まってきたりしているので、全然整理が追いつかないのである。
とある大塚さんから、佐賀藩に伝わる「大塚氏」の一系統について情報を寄せていただいたり、先日来追いかけている「豊前大塚氏」について、新しい情報が入ったり、三潴は三潴で、ちょっと違う角度から調査をやり直したりしている。
というわけで、今回はメモ代わりの記事。
==========
九州地方の「古賀」さん、といえば、有名中の有名な苗字である。
古くは、
古賀政男 さん
ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E6%94%BF%E7%94%B7
いわずとしれた大作曲家である。この方、現在は大川市という名前になっているが、れっきとした旧三潴郡の出であり、あるいは、当ブログでは有名な
「古賀伊豆」
に関わりがあるかもしれないかも。なんてね!
近年では、柔道の
古賀 稔彦 さん
ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E8%B3%80%E7%A8%94%E5%BD%A6
平成の三四郎と呼ばれた男、これまた言わずとしれた金メダリストである。
ん?んん?
出身が、”佐賀県三養基郡北茂安町(現・みやき町)”?!
バ、バリバリの少弐・龍造寺・鍋島エリアではないか!
などの有名人を多数輩出している古賀氏であるが、一般的には、
「劉姓渡来人末裔の古賀氏(三潴郡古賀村本拠)」
が幕臣として伝承を遺しているので、姓氏辞典などではこちらの系統を伝えているものが多い。
もちろん、私も、当初はそれを信じた。
しかーし!である。
上記古賀氏が、ゆえあって「龍造寺、鍋島に仕えて、現在に至る」というお話。そういう系統もあるかもしれないが、私はけっこう半信半疑になってきた。
ここで、あえて言おう!
まだ、ちょっと自分でも未整理なので、これを口にするのは時期尚早なのだが、
そもそも赤松氏流大塚氏なんて、いたのか?
とも思う今日この頃。あーあ、言っちゃった。
当ブログの初期からのファンの方は今頃「ちゅどーん!!!」とぶっ飛ばされている気がするが、平に、ひらにお許しいただきたい。
==========
どういうことか。
「寛政重修緒家譜」に記載のある各家の系図であるが、どうも現地から遠く離れた「江戸中心」に書かれている点や、「とりあえずお前の家の由緒をもってこい」と集めさせた点から見て、
あ・や・し・い
系譜が紛れ込んでいるように思うのだ。
鍋島氏ですらそうだ。同僚の幕臣から「今度、系譜調査があるらしいよ。ちなみにあんたの家の由来は?」みたいなことを聞かれて、
「え?あ、少弐!しょうにだよ(たぶん)。佐賀では一番の名家だし、そうそう、少弐しょうに!」
とその場しのぎで答えた、と記録にあるくらい怪しいのだ。
悪いが、当ブログにおいて綿密な調査をすればするほど「赤松系大塚氏」なんて出てこないのである。
(もちろん、赤松”家臣”の大塚氏は存在する)
幕臣古賀氏の系譜もそうだ。漢の高祖の末裔とか、ほんまか?と疑いたくなる。
つまり、こういうことである。現地サイドに立つと、姫路には赤松系大塚氏なんていないし、筑後には劉姓古賀氏なんてよくわからんのである。
だから、「寛政重修諸家譜」の記載は、あてにならん記述が含まれているということだ。
しかし、姓氏家系研究を全国規模でやろうとすると、とりあえずビールのように「寛政譜」はおさえとかないとダメなので、そのせいで
実はあやしい記載でも、それなりのポジション(信頼性があるような位置)におかれている
ことがあるような気がするのである。
==========
そこで、佐賀と福岡の地元民が、何を探してきたか、ということで、私がやってるのと同じようなことをしていた
古賀益城さん
という偉大な先輩が書いた資料を公開しよう。
近代デジタルライブラリより 「考証古賀家譜」
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1096892?tocOpened=1
この資料は、簡単に言えば
「う、うちらの『古賀』は、どう考えても少弐末裔じゃい!」
(少弐末裔の古賀がいるんだもん)
ということを調べまくった資料である。
私も、とりあえず上記「考証古賀家譜」を一定度合い支持したい。
(すべての古賀さんじゃないかもだけど、少弐系古賀さんは、確かにいるんだもん、ということ)
==========
ちなみに、われらが黒田官兵衛は、貝原益軒が勝手に系譜を捏造したので、近江だとかわけわからんとこの出身にされているが、
ガッツだぜ!の播磨黒田庄 (トータス松本氏の出身地)
こそが、真の黒田ルーツだと、私も思っている。それが地元調査の重みである。
2014年8月3日日曜日
<話題>今日の軍師官兵衛ちゃん ~茶人村重ちゃん~
毎週日曜日のお楽しみ、今日の軍師官兵衛ちゃんのコーナーがやってきました。
BSバージョンで一足お先に鑑賞したのち、ネタバレするかしないか程度で副音声解説みたいなことをやっている当ブログの人気コーナーですが、今日は、
あの人
が返ってきます(笑) そう、
クソ野郎、こと荒木村重ちゃん
です。
「このクソ野郎~」
は、ダイハードシリーズにおけるブルースウィリス(ハゲ)の名セリフですが、ちなみに
ダイ・ハードとはそもそも”Die hard”とは『なかなか死なない』という意味ですから、
荒木村重にこそふさわしい!
戦国のダイ・ハードこと、荒木村重をよろしくね!
ちなみに、なぜ村重がクソ野郎かというと、伊丹有岡城を逃げ出したのち、諸国をさまよい、
荒木道糞(みちのクソ)
と名乗って茶人となったからです。まさに、ダイ・ハードでクソ野郎。おまけにハゲwww
==========
冗談はさておき、今回の村重もいい味出しています。戦国の世にあって「生きる」とはどういうことか、考えさせられる名演技。
武士としての名誉ある死
に相対する
人間としての無様な生
という問いかけ。重いです。みんながみんなカッコつけられたわけでもなく、時にはカッコ悪い生き方もあってこその戦国時代、いや現代においても全く同じです。
かっこ悪い生き方を応援したい。そんな村重ファンの大塚某
ですから、 クソ野郎という自虐ネームも嫌いじゃないかも。
荒木道糞を名乗った時点で、村重もわかってるんですね。自分の行いと、そこまでして生きている弱さを。そしてそれがカッコ悪いことであることも承知している。
田中哲司さんの名演技です。
==========
さて、今回は短いネタでしたが、重要なポイントもちりばめられておりました。
清須会議のことや、織田家の跡継ぎ話、信長の葬儀、柴田勝家との戦い。このあたりははしょってはしょってはしょりながら猛スピードで解説終了、といったところです。
一瞬ですが「江 ~姫たちの戦国~」ネタを入れてあるので、NHK大河ファンは、にやりとする場面も。
しかし、千利休を演じている伊武雅刀さんもすごい人ですなあ。
近年は「空から日本を見てみよう」のくもじいで大活躍ですが、じつは
デスラー総統(宇宙戦艦ヤマト)
でもあります。
名曲?迷曲?! 『子供達を責めないで』を覚えている人、手をあげて~!!!
https://www.youtube.com/watch?v=RiGRbC4n6mc
ちなみに、訳詩はあの秋元康さんです。
ごめんなさい。今回は戦国時代からどんどん離れてゆきました(笑)
BSバージョンで一足お先に鑑賞したのち、ネタバレするかしないか程度で副音声解説みたいなことをやっている当ブログの人気コーナーですが、今日は、
あの人
が返ってきます(笑) そう、
クソ野郎、こと荒木村重ちゃん
です。
「このクソ野郎~」
は、ダイハードシリーズにおけるブルースウィリス(ハゲ)の名セリフですが、ちなみに
ダイ・ハードとはそもそも”Die hard”とは『なかなか死なない』という意味ですから、
荒木村重にこそふさわしい!
戦国のダイ・ハードこと、荒木村重をよろしくね!
ちなみに、なぜ村重がクソ野郎かというと、伊丹有岡城を逃げ出したのち、諸国をさまよい、
荒木道糞(みちのクソ)
と名乗って茶人となったからです。まさに、ダイ・ハードでクソ野郎。おまけにハゲwww
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冗談はさておき、今回の村重もいい味出しています。戦国の世にあって「生きる」とはどういうことか、考えさせられる名演技。
武士としての名誉ある死
に相対する
人間としての無様な生
という問いかけ。重いです。みんながみんなカッコつけられたわけでもなく、時にはカッコ悪い生き方もあってこその戦国時代、いや現代においても全く同じです。
かっこ悪い生き方を応援したい。そんな村重ファンの大塚某
ですから、 クソ野郎という自虐ネームも嫌いじゃないかも。
荒木道糞を名乗った時点で、村重もわかってるんですね。自分の行いと、そこまでして生きている弱さを。そしてそれがカッコ悪いことであることも承知している。
田中哲司さんの名演技です。
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さて、今回は短いネタでしたが、重要なポイントもちりばめられておりました。
清須会議のことや、織田家の跡継ぎ話、信長の葬儀、柴田勝家との戦い。このあたりははしょってはしょってはしょりながら猛スピードで解説終了、といったところです。
一瞬ですが「江 ~姫たちの戦国~」ネタを入れてあるので、NHK大河ファンは、にやりとする場面も。
しかし、千利休を演じている伊武雅刀さんもすごい人ですなあ。
近年は「空から日本を見てみよう」のくもじいで大活躍ですが、じつは
デスラー総統(宇宙戦艦ヤマト)
でもあります。
名曲?迷曲?! 『子供達を責めないで』を覚えている人、手をあげて~!!!
https://www.youtube.com/watch?v=RiGRbC4n6mc
ちなみに、訳詩はあの秋元康さんです。
ごめんなさい。今回は戦国時代からどんどん離れてゆきました(笑)
<88>神代家臣の大塚氏、追加発見!
九州北部の大塚さんからどんどんメールが寄せられているこの週末。かるーく返信させていただいているが、それぞれ「かなり濃密な」情報をお知らせくださっているので、これから詳細な調査に入りたいと思っている。
なかでも、神代家に関わりのありそうな大塚さんのゆかりの方から、たいへん重要なデータをいただいた。
龍造寺氏にとって、「おまえだけには勝てねえよ」な相手だった神代勝利。その息子、神代長良の代になって、いよいよ龍造寺隆信は神代氏を打ち負かすことができたのだが、そんなこんなで、
今の私がいる
かもしれないと思うと、感慨深い今日この頃。
ちょっとおさらいだが、
神代氏の親戚となった千布氏は佐賀與賀神社の神主で、そのとなりの本庄神社の神主が、大塚氏で、千布氏が大塚の名前を継いだ話
を以前当ブログに書いた。
この話が、前回の記事とも関係していて、つまりは千布氏も大塚氏も、神社ネットワークを支配するために
「少弐・龍造寺・鍋島」あたりの誰かから送り込まれている潜入部隊
であることがわかってきた。 (本庄神社の場合は、登場人物が全員少弐氏だったので、まあ少弐から送り込まれたんでしょう)
==========
さて、近世になると佐賀藩に大塚氏がやたら存在することがわかっているのだが、私は何系統かパターンがあるように考えている。
ひとつは、少弐本流から分かれて、いつのまにか少弐~龍造寺~鍋島にくっついてゆくことになった本流系「大塚氏」、そして、ちょっと回り道をして神代氏についていった神代系「大塚氏」である。
この2系統は、最終的に佐賀藩士として一緒に戻ってゆくので、ちょっとわかりにくい。
もちろん、近世に至るまでに帰納して在地農家になっていった大塚氏もたくさんいるように思う。
==========
さて、今日の本筋のお話。それは神代系大塚氏の別の人間を発見した、ということである。
佐賀市史より
http://www.city.saga.lg.jp/up_download_file/s34608_20121227125631.pdf
神代長良の子は、養子である。あれだけ龍造寺方と戦った神代一族だったが、勝利はともかく、長良は隆信の家臣となり、そして子供もいなかった。
そこで長良は、龍造寺氏もしくは鍋島氏から養子がほしいと考え、結局「鍋島信生あらため鍋島信昌(最終的に直茂)」の養子になっていた信生の弟の子(つまり甥っ子)だった犬法師丸を養子に迎えることになった。
これが神代家良である。
これが天正7年ごろのことで、長良は結局病気で天正9年に亡くなったので、まあこの判断は良かったとしよう。
さて、神代家は佐賀のちょっと山奥「山内」地方を本拠地としていたが、山内軍団はもともと龍造寺とガチンコバトルをしていたこともあり、結束が強かった。
そこで、龍造寺から権力を継承した鍋島は、(家良が親族だとわかってるけど)、あえて、神代を領地替えして地元から引き離そうとした。
よって、神代氏の領地は、山内から芦刈(現在小城市)へ移動した。
さて、それから話が進んで佐賀市史でいうところの168ページ、関が原の戦いに参戦した神代長良の家臣に
大塚半助
という人物が出てくる。
物語は、この半助が、夜間に敵の斥候とたまたま出会ってしまい、ガンガン斬り合ってなんとか撃退したけどヘロヘロになった、というエピソードである。
で、まあよく頑張ったね、と大塚半助は「嘉光の腰物」と三十石を拝領したらしいのだが、まあほうびが安っぽいので、半助はそれほど身分が高くなかったのだろう。
しかし、神代氏の家臣に大塚氏がいた証としては面白い話である。
おとうちゃんの側近「大塚隠岐守」はもう少し位が高かったであろうし、千布氏系大塚氏もただの一平卒ではなさそうなので、
ある程度(身分の上から下まで)大塚一族が広がっていた
と考えることができる。
ただ、ひとつ気をつけたいのは「神代家良」とはすなわち鍋島の庶子なので、この大塚半助は
鍋島系から与えられた家臣(少弐系大塚氏であって、純粋な神代系大塚氏ではない)
可能性もある。
というわけで、大塚半助さんのご子孫の方、メールください!
(関が原の戦いで戦功を挙げて、鍋島の殿さんから刀をもらった伝説がある大塚さん)
なかでも、神代家に関わりのありそうな大塚さんのゆかりの方から、たいへん重要なデータをいただいた。
龍造寺氏にとって、「おまえだけには勝てねえよ」な相手だった神代勝利。その息子、神代長良の代になって、いよいよ龍造寺隆信は神代氏を打ち負かすことができたのだが、そんなこんなで、
今の私がいる
かもしれないと思うと、感慨深い今日この頃。
ちょっとおさらいだが、
神代氏の親戚となった千布氏は佐賀與賀神社の神主で、そのとなりの本庄神社の神主が、大塚氏で、千布氏が大塚の名前を継いだ話
を以前当ブログに書いた。
この話が、前回の記事とも関係していて、つまりは千布氏も大塚氏も、神社ネットワークを支配するために
「少弐・龍造寺・鍋島」あたりの誰かから送り込まれている潜入部隊
であることがわかってきた。 (本庄神社の場合は、登場人物が全員少弐氏だったので、まあ少弐から送り込まれたんでしょう)
==========
さて、近世になると佐賀藩に大塚氏がやたら存在することがわかっているのだが、私は何系統かパターンがあるように考えている。
ひとつは、少弐本流から分かれて、いつのまにか少弐~龍造寺~鍋島にくっついてゆくことになった本流系「大塚氏」、そして、ちょっと回り道をして神代氏についていった神代系「大塚氏」である。
この2系統は、最終的に佐賀藩士として一緒に戻ってゆくので、ちょっとわかりにくい。
もちろん、近世に至るまでに帰納して在地農家になっていった大塚氏もたくさんいるように思う。
==========
さて、今日の本筋のお話。それは神代系大塚氏の別の人間を発見した、ということである。
佐賀市史より
http://www.city.saga.lg.jp/up_download_file/s34608_20121227125631.pdf
神代長良の子は、養子である。あれだけ龍造寺方と戦った神代一族だったが、勝利はともかく、長良は隆信の家臣となり、そして子供もいなかった。
そこで長良は、龍造寺氏もしくは鍋島氏から養子がほしいと考え、結局「鍋島信生あらため鍋島信昌(最終的に直茂)」の養子になっていた信生の弟の子(つまり甥っ子)だった犬法師丸を養子に迎えることになった。
これが神代家良である。
これが天正7年ごろのことで、長良は結局病気で天正9年に亡くなったので、まあこの判断は良かったとしよう。
さて、神代家は佐賀のちょっと山奥「山内」地方を本拠地としていたが、山内軍団はもともと龍造寺とガチンコバトルをしていたこともあり、結束が強かった。
そこで、龍造寺から権力を継承した鍋島は、(家良が親族だとわかってるけど)、あえて、神代を領地替えして地元から引き離そうとした。
よって、神代氏の領地は、山内から芦刈(現在小城市)へ移動した。
さて、それから話が進んで佐賀市史でいうところの168ページ、関が原の戦いに参戦した神代長良の家臣に
大塚半助
という人物が出てくる。
物語は、この半助が、夜間に敵の斥候とたまたま出会ってしまい、ガンガン斬り合ってなんとか撃退したけどヘロヘロになった、というエピソードである。
で、まあよく頑張ったね、と大塚半助は「嘉光の腰物」と三十石を拝領したらしいのだが、まあほうびが安っぽいので、半助はそれほど身分が高くなかったのだろう。
しかし、神代氏の家臣に大塚氏がいた証としては面白い話である。
おとうちゃんの側近「大塚隠岐守」はもう少し位が高かったであろうし、千布氏系大塚氏もただの一平卒ではなさそうなので、
ある程度(身分の上から下まで)大塚一族が広がっていた
と考えることができる。
ただ、ひとつ気をつけたいのは「神代家良」とはすなわち鍋島の庶子なので、この大塚半助は
鍋島系から与えられた家臣(少弐系大塚氏であって、純粋な神代系大塚氏ではない)
可能性もある。
というわけで、大塚半助さんのご子孫の方、メールください!
(関が原の戦いで戦功を挙げて、鍋島の殿さんから刀をもらった伝説がある大塚さん)
<87>謎はすべて解けた!じっちゃんのじっちゃんのじっちゃんの・・・名にかけて! 先祖は龍造寺を離反してなどいない!
「謎は全て解けた!じっちゃんの名にかけて」は”金田一少年の事件簿”の名セリフである。
ドラマ版だと、堂本剛バージョンが好きだった。ともさかりえの「はじめちゅわん!」も。
というわけで、ずーっと気になっていたことの謎が、すっぱりくっきりかっつり判明したので、 今回はその推理をお届けする。
話はもちろん、じっちゃんのじっちゃんのじっちゃんの・・・つまりはご先祖さまのことだ。
当家三潴大塚家については、まだ解決していないいくつかの謎が残っていた。
① 当地には天正時代に肥前龍造寺の家臣がやたら住み着いており、当家大塚家はその子孫であると考えられること。しかし、なぜ?どうして当地にいるのか?
②当家の菩提寺であるX寺のR和尚は、蒲池鎮漣の霊を弔うために出家したことになっているが、寺の創建年と蒲池事件の年が逆転していてつじつまが合わないのはなぜか?
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/06/blog-post_1978.html
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/06/blog-post_9.html
しかし、これらの謎をとくヒントがわかったのである。
いやいやいや、恥ずかしい限りだが、戦国時代の様相を勘違いしていた。もっともっと、タイムスリップしたつもりになって物事を捉えなくてはならないことを忘れていた。
そうタイムスクープハンターのように!!!(byNHK)
ヒントを下さったのは、いつものように
「九州戦国ブログ」の栞様
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori
である。この場を借りて厚く御礼申し上げたい。
==========
さて、詳しく説明しよう。まず、私が誤っていた大きなポイントは、龍造寺は肥前の武将であり、当家は筑後三潴にあることで
「当家の先祖たちは竜造寺から、何らかの意味で離反した」
と勝手にイメージしていたことである。ここが、すでに違う。
もしかしたら、当家の先祖は離反なんか全くしておらず、バリバリの龍造寺派閥であった!かもしれないのだ。
これは、肥前と筑後を別の地域として理解していた現代人の視点が招いた誤りである。
そして、もう一点、
「X寺のR和尚の創建年と蒲池事件の年が入れ替わっていることの意味」
がわかったのだ。
これは、「R和尚は蒲池氏の霊を弔うために出家した」のイメージを勝手に現代人の視点で捉えていた誤りである。
そう、現代人の視点が、間違いの元なのだ。身も心も戦国人の気持ちになると、まったく別のことがわかってくるのである!
==========
まずは、「三潴地域は、完全に龍造寺支配下にあった?!」ということを説明してみよう。
以前紹介したが、”五ヶ国御領地之節配分帳”をもう一度みてみよう。
この資料は天正8年ごろの龍造寺家の家臣リストなので、当然「神代長良」が載っていることは以前触れた。
ところが、この文書の巻末には
”肥後筑後筑前豊幕下侍”
として、佐賀以外の地域の家臣リストがついていたのである。
その筆頭に挙げられているのが、誰あろう蒲池鎮漣なのであった。
鎮漣殺人事件は天正9年のことなので、まだ彼はくまモンの部下として生きている。
このリスト、以降のメンバーの苗字がなかなかすごい。
蒲池・黒木・三池・安武・西牟田・大木・秋月・戸次・立花といった、戦国HKT48(戦国北部九州48)の選抜メンバーが勢ぞろいなのである。
そう、くまモン隆信からみて、「(家臣)合計三十四人 (領地)七万三千五百三十一町」は
わしのモンじゃい!
ということだったのだっだっだ!
==========
面白いことに、このあと、リストは寺の名前が列記されている。そしてその中には
『筑後大善寺・高良山・坂東寺・善道寺』
も、龍造寺の支配下にあることが記載されている。
大善寺は現在久留米市大善寺町にあるが、この寺は高良玉垂宮の三潴支店の神宮寺である。
ちょっとわかりにくい説明だが、次の高良山こそ、久留米市内にある「高良玉垂宮本店」そのものなので、その本店と支店が押さえられているということだ。
坂東寺は、筑後市にある。
坂東寺史さんのサイト
http://kurumenmon.com/chikugoshi/bandouji/bandouji.html
を見ると、この頃の坂東寺の様子がわかるが、蒲池・安武・西牟田氏あたりの影響下にあったことが読み取れる。つまり、くまモンのものだ(笑)
善道寺は久留米市にある「浄土宗大本山」である。
つまりだ。龍造寺氏は、三潴地方のあらかたのメイン寺社を「完全に支配下においていた」ということである。
だから、このエリアに天正初期~中期にいる龍造寺氏直下の家臣は、けして離反したのではなく、
「現地駐留部隊」
だということなのである。
==========
さて、もう一つの謎について考えよう。
X寺のR和尚は、蒲池氏の菩提を弔うために出家した、という伝承がそもそもの話だった。
しかし、X寺の創建年が天正5年で、蒲池事件が天正9年なので、つじつまが合わなかった。
だが、これはけしておかしくないのだ!!!
これは、現代人の我々(市町村誌などを書いた執筆者を含めて)が間違っているのである。
”出家する”
ということは、今では「世を儚んで、この世を捨てて僧侶になる」ということを意味する。
ちっがーううう!!!!!
戦国時代に出家する、寺と関わるということは、つまり「支配者が社寺を支配下に置くために、自身の子息や有力な部下を送り込む」ということなのだ。
R和尚は、天皇の子孫とされている高貴な人物である。龍造寺家臣の天皇の子孫が、三潴地域にX寺を創建するということは、つまり、
「重要人物を送り込んで、そのエリアの宗教ネットワークも支配する」
ということに他ならない。
だから、大善寺も玉垂宮も坂東寺も善道寺も支配下に置かねばならなかったわけだ。
真実はいつもひとつ!(by江戸川コナン)
つまり、こうだ。
X寺はR和尚によって、天正5年に創建され、彼は龍造寺から送り込まれた重要人物だった。
武将であったかどうかは不明だが、武官ではなく、貴族方としてその指示を受けていただろう。
ところが、赴任して数年、天正9年に蒲池事件が起こった。
当然、僧侶なので、蒲池の霊を弔うことになる。
これで、時系列の話も、矛盾なく全て話が合う。起きた出来事は、創建と出家と蒲池の霊と弔う、という3点だけ。それをどういうストーリーでつなげるか、の際に誤りが起きている。
蒲池の霊を弔うために出家した、のくだりがおかしいのである。
そうじゃない。
もしかしたら、もっと恐ろしい解釈もできる。R和尚が蒲池の霊を弔う理由は、ひとつしかない。
それは、
主君である龍造寺隆信を恨んで祟らぬように、霊を封じ込める!
意味だったかもしれないのである!!!
だとすれば、R和尚も離反はしていない。最後まで龍造寺氏の精鋭現地部隊だったかもしれない、というわけだ。
ドラマ版だと、堂本剛バージョンが好きだった。ともさかりえの「はじめちゅわん!」も。
というわけで、ずーっと気になっていたことの謎が、すっぱりくっきりかっつり判明したので、 今回はその推理をお届けする。
話はもちろん、じっちゃんのじっちゃんのじっちゃんの・・・つまりはご先祖さまのことだ。
当家三潴大塚家については、まだ解決していないいくつかの謎が残っていた。
① 当地には天正時代に肥前龍造寺の家臣がやたら住み着いており、当家大塚家はその子孫であると考えられること。しかし、なぜ?どうして当地にいるのか?
②当家の菩提寺であるX寺のR和尚は、蒲池鎮漣の霊を弔うために出家したことになっているが、寺の創建年と蒲池事件の年が逆転していてつじつまが合わないのはなぜか?
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/06/blog-post_1978.html
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/06/blog-post_9.html
しかし、これらの謎をとくヒントがわかったのである。
いやいやいや、恥ずかしい限りだが、戦国時代の様相を勘違いしていた。もっともっと、タイムスリップしたつもりになって物事を捉えなくてはならないことを忘れていた。
そうタイムスクープハンターのように!!!(byNHK)
ヒントを下さったのは、いつものように
「九州戦国ブログ」の栞様
http://blogs.yahoo.co.jp/tokino_siori
である。この場を借りて厚く御礼申し上げたい。
==========
さて、詳しく説明しよう。まず、私が誤っていた大きなポイントは、龍造寺は肥前の武将であり、当家は筑後三潴にあることで
「当家の先祖たちは竜造寺から、何らかの意味で離反した」
と勝手にイメージしていたことである。ここが、すでに違う。
もしかしたら、当家の先祖は離反なんか全くしておらず、バリバリの龍造寺派閥であった!かもしれないのだ。
これは、肥前と筑後を別の地域として理解していた現代人の視点が招いた誤りである。
そして、もう一点、
「X寺のR和尚の創建年と蒲池事件の年が入れ替わっていることの意味」
がわかったのだ。
これは、「R和尚は蒲池氏の霊を弔うために出家した」のイメージを勝手に現代人の視点で捉えていた誤りである。
そう、現代人の視点が、間違いの元なのだ。身も心も戦国人の気持ちになると、まったく別のことがわかってくるのである!
==========
まずは、「三潴地域は、完全に龍造寺支配下にあった?!」ということを説明してみよう。
以前紹介したが、”五ヶ国御領地之節配分帳”をもう一度みてみよう。
この資料は天正8年ごろの龍造寺家の家臣リストなので、当然「神代長良」が載っていることは以前触れた。
ところが、この文書の巻末には
”肥後筑後筑前豊幕下侍”
として、佐賀以外の地域の家臣リストがついていたのである。
その筆頭に挙げられているのが、誰あろう蒲池鎮漣なのであった。
鎮漣殺人事件は天正9年のことなので、まだ彼はくまモンの部下として生きている。
このリスト、以降のメンバーの苗字がなかなかすごい。
蒲池・黒木・三池・安武・西牟田・大木・秋月・戸次・立花といった、戦国HKT48(戦国北部九州48)の選抜メンバーが勢ぞろいなのである。
そう、くまモン隆信からみて、「(家臣)合計三十四人 (領地)七万三千五百三十一町」は
わしのモンじゃい!
ということだったのだっだっだ!
==========
面白いことに、このあと、リストは寺の名前が列記されている。そしてその中には
『筑後大善寺・高良山・坂東寺・善道寺』
も、龍造寺の支配下にあることが記載されている。
大善寺は現在久留米市大善寺町にあるが、この寺は高良玉垂宮の三潴支店の神宮寺である。
ちょっとわかりにくい説明だが、次の高良山こそ、久留米市内にある「高良玉垂宮本店」そのものなので、その本店と支店が押さえられているということだ。
坂東寺は、筑後市にある。
坂東寺史さんのサイト
http://kurumenmon.com/chikugoshi/bandouji/bandouji.html
を見ると、この頃の坂東寺の様子がわかるが、蒲池・安武・西牟田氏あたりの影響下にあったことが読み取れる。つまり、くまモンのものだ(笑)
善道寺は久留米市にある「浄土宗大本山」である。
つまりだ。龍造寺氏は、三潴地方のあらかたのメイン寺社を「完全に支配下においていた」ということである。
だから、このエリアに天正初期~中期にいる龍造寺氏直下の家臣は、けして離反したのではなく、
「現地駐留部隊」
だということなのである。
==========
さて、もう一つの謎について考えよう。
X寺のR和尚は、蒲池氏の菩提を弔うために出家した、という伝承がそもそもの話だった。
しかし、X寺の創建年が天正5年で、蒲池事件が天正9年なので、つじつまが合わなかった。
だが、これはけしておかしくないのだ!!!
これは、現代人の我々(市町村誌などを書いた執筆者を含めて)が間違っているのである。
”出家する”
ということは、今では「世を儚んで、この世を捨てて僧侶になる」ということを意味する。
ちっがーううう!!!!!
戦国時代に出家する、寺と関わるということは、つまり「支配者が社寺を支配下に置くために、自身の子息や有力な部下を送り込む」ということなのだ。
R和尚は、天皇の子孫とされている高貴な人物である。龍造寺家臣の天皇の子孫が、三潴地域にX寺を創建するということは、つまり、
「重要人物を送り込んで、そのエリアの宗教ネットワークも支配する」
ということに他ならない。
だから、大善寺も玉垂宮も坂東寺も善道寺も支配下に置かねばならなかったわけだ。
真実はいつもひとつ!(by江戸川コナン)
つまり、こうだ。
X寺はR和尚によって、天正5年に創建され、彼は龍造寺から送り込まれた重要人物だった。
武将であったかどうかは不明だが、武官ではなく、貴族方としてその指示を受けていただろう。
ところが、赴任して数年、天正9年に蒲池事件が起こった。
当然、僧侶なので、蒲池の霊を弔うことになる。
これで、時系列の話も、矛盾なく全て話が合う。起きた出来事は、創建と出家と蒲池の霊と弔う、という3点だけ。それをどういうストーリーでつなげるか、の際に誤りが起きている。
蒲池の霊を弔うために出家した、のくだりがおかしいのである。
そうじゃない。
もしかしたら、もっと恐ろしい解釈もできる。R和尚が蒲池の霊を弔う理由は、ひとつしかない。
それは、
主君である龍造寺隆信を恨んで祟らぬように、霊を封じ込める!
意味だったかもしれないのである!!!
だとすれば、R和尚も離反はしていない。最後まで龍造寺氏の精鋭現地部隊だったかもしれない、というわけだ。
2014年8月1日金曜日
<86>豊前大塚氏の痕跡を追え! 大友家臣の大塚氏はいたのか?!
前回、南北朝時代の豊前国にナゾの大塚氏がいた資料を挙げた。
しかし、時間的にも空間的にも、いまいちピンとこないので、歴史のはざまを彷徨っている最中である。
というわけで軽-くおさらいしておこう。現在の地理関係で、把握してほしい。
長崎県 | 佐賀県 | 福岡県 | 山口県
| 熊本県 | 大分県
地図くらい絵で描けよ!というツッコミはなしね。
これを旧国名で描き直すとこんな感じ。
肥前 | 筑前 | 豊前 | 長門
| 筑後 | 豊後 |
| 肥後 |
上下の図を対比させながら、イメージするとわかりやすいが、現在の福岡県というのは、「筑前・筑後・豊前」が合体してできていることになる。
もっとざっくり言えば、「福岡県とは博多と久留米と小倉でできている」ともいえるのだ。
もちろん、詳しく言えば、豊前国は現在、福岡県と大分県に分割されている。
大宰府との位置関係で言えば、大宰府は現在の太宰府市~筑紫野市とされているので、
すぐ肥前 ← 大宰府 → すぐ豊前
↓
すぐ筑後
ということになる。 なるほど、少弐系大塚氏が豊前に行くことは不可能ではない。
==========
そこで、豊前国の番を張っていた「大友氏」を中心に大塚氏との関係を見てゆこう、と思い立った。
九州トップクラスの戦国大名「大友氏」の家臣に大塚氏がいたのか?!
という壮大な調査である。
大友氏は、そもそも関東人である。少弐(武藤)氏も関東人であり、鎌倉時代に平家グループの多かった九州において源氏サイドからの「見張り役」の意味で、送り込まれた東国御家人たちだったのである。
その大友氏、豊後守護職として豊後を拠点に活躍する。
(ちなみに武藤氏は、最初は平家方であり、一の谷合戦の後源氏方に投降。そののち、源氏サイドの九州見張り番として鎮西奉行を任ぜられる)
==========
戦国期に入ると、豊後大友氏と佐賀龍造寺氏は永遠のライバルとして戦うことになるわけで、当ブログではおなじみの
「茗荷丸の家紋をゲットだぜえええええ!by信生」
伝説へと繋がるわけだ。ポケモンか!
さて、肝心の「大友家臣大塚氏」について二つばかり記録を発見した。
①<中世> 戦国大名城下町の移転と大名権力 八木直樹(大分大学)
http://www.ed.oita-u.ac.jp/kykenkyu/bulletin/kiyou/yagi34-1.pdf#search='%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E6%B0%8F+%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E6%B0%8F'
上記論文に収録されている戦国期の大友家臣団リストに「大塚氏」が見える。
『臼杵宝岸寺過去帳』より 天正15年4月19日 大塚民部
さて、記載はこれだけなので、大塚民部が何者かよくわからなかったのだが、下の資料に面白いことが載っていることがわかった。
②<近世> 中川氏と旧大友領民 芦刈政治(別府大学)
http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/download.php/kc09001.pdf?file_id=6902
これはまた別の論文だが、近世江戸時代の「大友家臣団のその後」について説明がなされている。
江戸期になり、中川秀成が初代豊後岡藩主として入部した際、旧大友家臣たちがどのように藩政に組み込まれたかを示すのがこの論文だが、そこに2氏大塚氏が見えるのだ。
大塚利兵衛 (旧主家)朽綱家 長野邑千石庄屋(直入町)
文禄三年
大塚武左衛門 (旧主家)朽綱家 枌原村小庄屋(直入町)
宝永三年
直入町は、現在の大分県竹田市に当たる。 この村の庄屋として大塚氏が存在していたが、もともとは大友家臣団の大塚氏が、中川藩政にあっても「庄屋として重用された」ことがわかる。
ちなみに現在の大分県竹田市直入町近辺に大塚さんがたくさん存在していることが判明。
しかし、この地区の大塚さんの大友氏従属以前のルーツが、まだわからない。
さて、この論文において「大塚民部」について解説があった。(以下引用)
『また、大塚民部は、朽綱家没落のときに浪人となったが、その子善右衛門は中川久盛の嶋原一揆出陣に従った。その子武左衛門は父の武功によって枌原村小庄屋に任ぜられている。(郷中旧家系図)』
これで大友氏家臣大塚氏の「戦国期~近世初期」の系譜が繋がったわけだが、残念ながらこの大塚氏が「どこから来たのか」はわからない。
ナゾがナゾを呼ぶ豊前近辺の大塚氏については、今後の調査を待て!
しかし、時間的にも空間的にも、いまいちピンとこないので、歴史のはざまを彷徨っている最中である。
というわけで軽-くおさらいしておこう。現在の地理関係で、把握してほしい。
長崎県 | 佐賀県 | 福岡県 | 山口県
| 熊本県 | 大分県
地図くらい絵で描けよ!というツッコミはなしね。
これを旧国名で描き直すとこんな感じ。
肥前 | 筑前 | 豊前 | 長門
| 筑後 | 豊後 |
| 肥後 |
上下の図を対比させながら、イメージするとわかりやすいが、現在の福岡県というのは、「筑前・筑後・豊前」が合体してできていることになる。
もっとざっくり言えば、「福岡県とは博多と久留米と小倉でできている」ともいえるのだ。
もちろん、詳しく言えば、豊前国は現在、福岡県と大分県に分割されている。
大宰府との位置関係で言えば、大宰府は現在の太宰府市~筑紫野市とされているので、
すぐ肥前 ← 大宰府 → すぐ豊前
↓
すぐ筑後
ということになる。 なるほど、少弐系大塚氏が豊前に行くことは不可能ではない。
==========
そこで、豊前国の番を張っていた「大友氏」を中心に大塚氏との関係を見てゆこう、と思い立った。
九州トップクラスの戦国大名「大友氏」の家臣に大塚氏がいたのか?!
という壮大な調査である。
大友氏は、そもそも関東人である。少弐(武藤)氏も関東人であり、鎌倉時代に平家グループの多かった九州において源氏サイドからの「見張り役」の意味で、送り込まれた東国御家人たちだったのである。
その大友氏、豊後守護職として豊後を拠点に活躍する。
(ちなみに武藤氏は、最初は平家方であり、一の谷合戦の後源氏方に投降。そののち、源氏サイドの九州見張り番として鎮西奉行を任ぜられる)
==========
戦国期に入ると、豊後大友氏と佐賀龍造寺氏は永遠のライバルとして戦うことになるわけで、当ブログではおなじみの
「茗荷丸の家紋をゲットだぜえええええ!by信生」
伝説へと繋がるわけだ。ポケモンか!
さて、肝心の「大友家臣大塚氏」について二つばかり記録を発見した。
①<中世> 戦国大名城下町の移転と大名権力 八木直樹(大分大学)
http://www.ed.oita-u.ac.jp/kykenkyu/bulletin/kiyou/yagi34-1.pdf#search='%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E6%B0%8F+%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E6%B0%8F'
上記論文に収録されている戦国期の大友家臣団リストに「大塚氏」が見える。
『臼杵宝岸寺過去帳』より 天正15年4月19日 大塚民部
さて、記載はこれだけなので、大塚民部が何者かよくわからなかったのだが、下の資料に面白いことが載っていることがわかった。
②<近世> 中川氏と旧大友領民 芦刈政治(別府大学)
http://bud.beppu-u.ac.jp/xoops/modules/xoonips/download.php/kc09001.pdf?file_id=6902
これはまた別の論文だが、近世江戸時代の「大友家臣団のその後」について説明がなされている。
江戸期になり、中川秀成が初代豊後岡藩主として入部した際、旧大友家臣たちがどのように藩政に組み込まれたかを示すのがこの論文だが、そこに2氏大塚氏が見えるのだ。
大塚利兵衛 (旧主家)朽綱家 長野邑千石庄屋(直入町)
文禄三年
大塚武左衛門 (旧主家)朽綱家 枌原村小庄屋(直入町)
宝永三年
直入町は、現在の大分県竹田市に当たる。 この村の庄屋として大塚氏が存在していたが、もともとは大友家臣団の大塚氏が、中川藩政にあっても「庄屋として重用された」ことがわかる。
ちなみに現在の大分県竹田市直入町近辺に大塚さんがたくさん存在していることが判明。
しかし、この地区の大塚さんの大友氏従属以前のルーツが、まだわからない。
さて、この論文において「大塚民部」について解説があった。(以下引用)
『また、大塚民部は、朽綱家没落のときに浪人となったが、その子善右衛門は中川久盛の嶋原一揆出陣に従った。その子武左衛門は父の武功によって枌原村小庄屋に任ぜられている。(郷中旧家系図)』
これで大友氏家臣大塚氏の「戦国期~近世初期」の系譜が繋がったわけだが、残念ながらこの大塚氏が「どこから来たのか」はわからない。
ナゾがナゾを呼ぶ豊前近辺の大塚氏については、今後の調査を待て!
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