2014年12月28日日曜日

<日常> 官兵衛の湯へ行ってきました

 先週で「軍師官兵衛」が終わってしまったので、ゆっくり残り香を楽しんでいる今日このごろ(笑)

 今日は、某所にある「官兵衛の湯」へ行ってきました。


 一見すると、なんともまあ「大河に乗っかりやがったなwww」的な施設なのですが、実はここ、少し前まで別の温浴施設として営業しておりまして、今回新たにリニューアルしてのオープンだそうです。

 このお風呂、簡単にいえば温泉ではなくスーパー銭湯です。

 でもでも、スーパー銭湯といえば、お値段もスーパーなところが増えている中、質素・倹約をモットーにしていた官兵衛(?)だけあって、


 500円(大人1名)


で楽しめます!!


 それでいて、サウナは2系統あるし、露天風呂は4系統あるし、 打たせ湯・泡風呂・寝湯なんかもひととおりちゃんとあって、楽しめます。


 そして、特筆すべきは何がすごいって?!


 お風呂の床が全部畳!!たたみですよたたみ!

 という驚きの官兵衛仕様です(どこが笑)

 
  なんということでしょう!レベルです。想像してみてください。畳にお湯をじゃばっとかけるわけです。畳の上を濡れながら歩きまわるのです。

 かなりおかんに怒られそうな気分に最初なりますが、そのうち慣れます。


 秘密は、専用仕様になっている防水畳(というよりプラ畳)で、でも堅いわけじゃなく感触はふわふわの畳の上を歩いているのとおんなじです。

 子どもや老人にとっては、万一転んだりしても安全なので、ある意味よくできたしくみなのですが、メンテナンスはどうなのでしょう。


 さて、どうやらこの畳、お風呂専用の特殊畳のようで、極東産機さんというところで作られているようです。

 極東産機さんでは「ひらかたパークのプール」にも特殊畳を納めておられるようで、ひらパーも耐水畳仕様なのでしょう。


 ここで、関西在住の当ブログファンはにやりとしたに違いありません!!!


 なんでニヤリなのか知りたい方は下のリンク


 http://www.hirakatapark.co.jp/hirapar_niisan/


をクリックしてくださいね!。


 変なサイトに飛んだりしません。大真面目に大ギャグぶっ放してます(笑)


 そう!ひらかたパーク、ひらパー、ひらパー兄さん!!!今年はひらパー園長?!


  やるな、さすが官兵衛の湯・・・・。そういうつながりがあったとは。


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 おみやげは、おわんにしました。おわんおわん。

たいへんに良く出来た美味しい和菓子です(^^




  黒田一族の出身地においでくださった際はぜひ、お土産にどうぞ~。



2014年12月22日月曜日

<完結>信長協奏曲も終わってしまいますた!

 昨日の大河ドラマ軍師官兵衛ちゃんに引き続き、月9戦国ドラマでヒットしていた「信長協奏曲」も終わってしまいました(涙)

 まあ、こちらのほうは、フィクションですので、それほど本気で見てなくても大丈夫だったのですが、なんと今日は


 浅井一生長政の切腹シーン


が良かった!!!!昨日に続いて九郎衛門グッジョーーーーブ!!!!


 いやあ、高橋さん、どちらも気合入っていて良かったです。ね!恒ちゃん!


 それに引き換えといえば可哀相ですが、脱糞大名、岳ちゃんも世間の評価を度外視した名演技(迷?)でした。こちらもお疲れ様でした。


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 さて、信長協奏曲、どこまでやるのかと思ったら、とりあえず浅井軍との戦いを終えていったん幕引き、つづきは来年冬の映画で!という告知でした。

 あろうことか竹中半兵衛が信長と秀吉に謀殺されたところで話が終わってしまい、約1年も


気になるやんけーーーーー!


状態が続く模様です。


 さあ、現在業績低迷中のフジテレビが、踊る大走査線以来のヒット映画化できるか、という試金石になりそうな「信長協奏曲映画版」を楽しみに待つことにしましょう。



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<告知です>

500円でなんでも頼めるココナラにおいて「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」というサービスを開始しました。

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みなさんの「名字・苗字のルーツ調べ」をさくっとお手軽にお手伝いいたします。

詳しいサービス内容は上記リンクをご参照ください。


既に何件かサポートさせていただきましたが、喜んでいただいております(^^


あなたも歴史ミステリーの扉を開いてみませんか?!



2014年12月21日日曜日

<完結>NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」ちゃん 最終回スペシャル!!

 

 お疲れ様でございました!



 長い期間に渡ってお届けしてきた「軍師官兵衛ちゃん」レポートもいよいよ今回が最終回!今日は60分拡大版の「軍師官兵衛」涙の最終回スペシャル!でした。


 今日のみどころは満載すぎて説明しきれない!ほどの黒田エピソード詰め込み教育だったわけですが、いくつかの視点からご解説申し上げます!




<テーマ1> 岡田くんも!高橋君も!これぞ演技合戦やりたい放題スペシャル!

 「残り3回は好き放題やる!」と公言していた岡田官兵衛。輿に乗ってのスタイルなども、岡田君の提案から採用された演出だったそうですが、なんと最終回は

「輿の上で、足を組みながらふんぞり返りながら登場」

という新しすぎる映像で度肝を抜かれました。 そうなんです!岡田官兵衛は、お椀をかぶりながら、リクライニング状態で登場。まさかの大胆不敵な絵面で、最終回はスタートしたわけで(笑)



 一方の高橋九郎衛門も、最初から岡田君と同級生(タメ)ということもあり、主役とサブではありながら、お互い気を抜かずに演技に全力を掛けてきただけあって、

「鼻水全開で垂らしながらの、死に行く如水見送りシーン」(どアップ)

で本気度が伝わります。

 横で頑張ろうとしているけれど、頑張りきれていない「もこみち太兵衛」との対比をお楽しみ下さい(^^



<テーマ2>これでもか!の黒田エピソード満載特集!

 エピソード系では、残り全部ぶちこんでくるという大判振る舞い!


☆ 罪人の石田三成に上着をかけてやる長政ちゃんの話。

☆ お前の左手は何しとったんじゃー!の話。

☆ 息子じゃなくて、あえて栗山岳ちゃんにお椀兜を与える話。

☆ 又兵衛、大阪城にて討死すの話。


  もう、これで最後なので思い残すことなく、全て語り切ります。戦国エピソードファンの方も、これで「すっきり!」なこと間違いなしですね。




<テーマ3>絶賛すべし!大河脚本の相変わらずのすばらしさ!

  毎回、脚本の「よくできてる」ところを絶賛し続けてきた当ブログですが、今回もやはりしてやられました。

 そもそも、最終回近くになってから俄然「官兵衛が、あえて九州から天下を狙いに行く」説を採っていた今回の大河脚本だったのですが、 それをやりすぎると家康と対立構造になってしまい、史実のニュアンスと離れていってしまいます。

 ここは描くのが難しいところだったのですが、なんとこれまたある意味「裏ワザ」を用いながら解決してしまったのです!!!


 それはどんな方法か!なんとなんと、関が原が終わってから、官兵衛ちゃんが家康に会いに行くのですが、なななんと


「家康にケンカ腰!!!」


で喋るのです。うっひょー!!

  家康も家康で「ジョスイてめえ、九州で変な動きしやがって」みたいな感じで睨み付けているし、官兵衛ちゃんも「俺もお前も天下を狙った身だろーがこのやろう」みたいなオーラで対峙するわけで、下手したら歴史が変わってしまうようなガチんこ勝負になるところなのに、そこは脚本の妙!!

官兵衛「家康さまは、どんな世をつくるつもりなのですか」

家康「・・・天下は、1人のモノではない。わしが死んだ後も、争いが起きないような、真の平和な世の中を作りたい」

という展開で、


「・・・わかった、それならあんたに任せよう」<心の声>


とこれまでの敵意を一切なくして納得する、という話にしています。

 これで、当初からの官兵衛ちゃんのテーマである「戦無き世」「乱世を終わらせる」という信念が、家康の天下によって成ることを追認する、ということで解決するわけです。

 この描き方で、これまでのいろんなもやもやがこれまたスッキリ!しますね。よく出来ています。



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  もう一つ、「賢い父」に対して、「バカ息子長政」というやっかいな対立構造がずっとあったのですが、これもうまく脚本で解決。

 ギリギリまで「家康に褒められてただ喜んでるなんて、お前はアホか!左手は何しとったんじゃー!」と長政をマヌケ呼ばわりしていたのですが、これも家康との対談の中でヒントを貰いながら、解決に向かいます。

 つまり、関が原で長政の活躍により「たった一日で戦が終わってしまって、九州殲滅作戦もこれまでやんけー!」と官兵衛ちゃんははじめ苦々しく思っていたのですが、 後から振り返ってみれば


長政が家康側につき、長政のおかげもあって早期に決着がついたことそのものが、「黒田家のその後を安泰に導いた」わけで、それはすなわち=長政なりのやり方で、父を越え、黒田家を守ったということに気がついた



わけで、父と子のわだかまりもこれにて一件落着、というお話になっています。




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 ・・・こうして、全体を通して積み残していた課題もなんとか解決し、官兵衛ちゃんは逝き、ついでに「大阪城」が落ちます。

(昨日はプリンセス・トヨトミを地上派でやってましたが、ワザとぶつけてますねwww)


 ラストシーン。ベタですが泣けます。思わず泣いてしまうのは、岡田くんがカッコ良過ぎるからではないと思います。


 そう!黒田官兵衛の生き様がカッコ良過ぎるから泣けてくるのだと思います。




 というわけで、かなりの長きに渡り当ブログの本来のテーマを奪い去った「今週の黒田官兵衛ちゃん」のコーナーも今回にて終了。ご愛読ありがとうございましたm(_ _)m
 

2014年12月17日水曜日

<コラム>家を継ぐとはどういうことか ~法律上、家を継ぐ事は存在しない~

 苗字や家系について調べていると、どうしても「家」というものに着目せざるを得ないことが多々あるのですが、ちょっと面白いことを思いついたのでせっかくの機会なのでお話しておこうと思います。


「家を継ぐ」


という言葉を、みなさんは耳にしたり使ったりしているはずですが、実は「家を継ぐ」ということは現在の日本には存在しないのを知ってますか?!



 これを聞いて「はあ?」と思う方も少なくないかもしれません。


「え?だってうちの兄貴は家を継いでおやじの家に住んでいるよ」


とか


「あたしは女子1人なので、親が『家を継ぐのに養子をもらえ』みたいなことを言ってるよ」


とか、そんな事例は山ほどあるので、「家を継ぐということが存在しない」ということについてはピンとこないかもしれません。




 しかし、はっきり言っておくと「家を継ぐ」ということは、みなさんの意識の中の慣習としては残っているのですが、実際には法的には全く存在しない出来事なのです。



 というわけで、今日はそのへんをズバリ解説してみましょう。



 戦前までの家父長制度では、「家」というものが存在しており、それを継ぐという行為もきっちり決まっていました。

 ところが、戦後民法が改正され、私たちは法律上「家を継ぐ」ということを失っています。


 ここまでが「語句と規定」上のお話。


 実際問題として、私たちのこころには「家を継ぐ」という行為がイメージとして残っていますよね?



 それは、具体的には、


①父親の家屋敷を、長男が相続してそのまま代が代わっても住み続ける。

②女の子ばかりのこどもの時、父親の姓を残すために、娘の夫の苗字を変えてもらう。

③長男が都会に出てしまったので、次男のほうが実家に残っておかんや家族を養う。


なんてことが多々あると思います。もう少し詳しく言えば、「お墓を誰が守るのか」とか、「地域との繋がりを誰が受け継ぐのか」とか「神社の氏子として誰が参加するのか」といった付随事項もたくさんありますが、基本的には


「実家を誰か子供が継ぎ、苗字を受け継ぐ」


という行為を「家を継ぐ」と認定していることと思います。


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 ところが、現在の民法の規定上は、たとえば家屋敷などは

「おかん2分の1と子供で等分割して分けっこしなさい」

というのが正式な規定ですから、「誰かが受け継ぐ」という発想はありません。


 厳密に運用するならば、実家は売ってしまって代金を山分けすべきだというのが民法の規定なわけです。


 ところが、そうすると実家が無くなってしまうので、長男などの「誰か」にまるごと相続させて保全し、それ以外の人は別の形で取り分を考えようね、ということが実際として行われていることになります。


 また、苗字についても、わたしは大塚なので大塚で考えますが、「『大塚ひろし』の長男の『大塚しんのすけ』」という人物がいるとすれば、イメージとして

「大塚の家を、息子が継いでいる」

と思いがちですが、民法では違う解釈をしていて、


「大塚ひろしの家」から分裂して新設された「大塚しんのすけの家」が登場!


ということになっているわけです。継いでいるのではなく、「新しく別の大塚家が出来た」ということに過ぎません。



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 古い戸籍を見ているとよくわかるのですが、家父長制の時の戸籍は、「大塚家」という大きな枠の中に



「戸主(いちばんえらいひと)」を筆頭として

「息子」「息子の嫁」「戸主のおかん」「娘」「弟」「姪っ子」「戸主のおじさんのおっさん」



などがみんなその「家という箱」の中に入れられているように書かれているのです。

 現代の戸籍なら、息子に嫁ができた時点で


「戸主の戸籍」には戸主と娘だけが書かれ、

「息子の戸籍」には息子と嫁が書かれ、

「戸主の弟の戸籍」には弟とその娘(姪っ子)が書かれ、

「戸主のおじの戸籍」には戸主のおじが書かれ、

「戸主のおとんの戸籍」には死んだおとんに×印とおかんの名前が書かれているわけです。



 つまり、旧来の家制度では「大塚家」とかかれた大きな箱を誰が受け継ぐのかということが重視されていたので「家を継ぐ」という発想が生まれていました。

 だから、上の例でいえば、


「戸主のところが息子の名前」になり、かつ「戸主の父」「息子の嫁」「おばあちゃん」「おねえちゃん」「おじさん」「いとこ」「遠い親戚のおっさん」


が記入されるから、「ああ、たしかにこれはあの大きな箱を子供の名前で受け継いだんだな」とわかることになったのです。


 これが「家を継ぐ」ということで、戸主から息子の代になったのにまだ生きているから「隠居」という立場も生じたことになるのです。




 しかし、現代の戸籍では、それぞれの箱が「夫婦と未婚のこども」でしか構成されませんので、「こどもが結婚しておとんもおかんも死んだ」となると、


 
 箱はだれにも継承されずに蓋をして閉じる


ことになります。(閉鎖された戸籍)


 そう!だから家を継ぐという行為が存在しないのです。


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 じゃあ、現在みんながわーわー言っている「家を継ぐ」というのは、どういうことなのでしょうか?

 まずひとつ言えるのは、


①先祖から受け継いだ土地や家業を、誰かがそっくり継承する。


という行為でしょう。これは主に長男に課せられた使命になっています。ただ、これは正式には、「お兄ちゃんが、たくさんぶん取っていったことをみんなが納得した」ということに過ぎません。


そして、次にあるのが


②お父さんとおなじ苗字を持つものが、次の世代にいる。


ということになります。子供が男子の時はあまり誰も意識しませんが、子供が女子だとわーわー言いたくなるやつです。


 しかし、法的には、「大塚さんの娘さんである「大塚ひまわり」さんが、野原みさおくんという青年と結婚した場合」を考えると


「みさおくんとひまわりさんが、合意の上で『大塚姓を選択する』(夫の姓を称する)」


ことに過ぎません。別に家は継いでいないわけです。


 なので、よく行われるのは、ただ夫婦の姓が大塚だけなのはなんとなくきもち悪いため、


「みさおくんを大塚の家の養子に縁組して、本来の姓を”大塚みさお”にしてから娘と結婚させる」


という裏ワザを使っていることが多く、これを「婿養子」と呼んでいることになります。


 これだと、戸籍上は息子と娘が結婚するので近親相姦になってまずいのですが、民法的には、まーしゃーないなと許されています。

 

 なぜか?ここが大事!


 「養子として大塚父の子供として認定されると、法定相続人になれる」


からです!!! そうしないと、苗字が大塚になっただけでは、お父さんの財産は娘にしかいかず、あくまでもみさお君は横から見ているだけの人になってしまうので、名実ともに資産を継承させるために婿養子システムは便利だということになるのです。


 このシステムを使えば、①と②が比較的容易に実現可能だというわけです。



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 しかし、こうしたシステムは、先祖代々の土地があってはじめて成立するので、都会の賃貸マンション暮らしで貯金もない一家の場合は、「家を継ぐもくそもない」わけで。

 その場合は、女の子だけしかいなければ、「せめて苗字が残ってくれたらなあ」みたいに思うのかもしれません。

(あとは、実家のお墓の面倒を誰が見てくれるねん、的な話は出るかも)












 





 


2014年12月15日月曜日

<話題> 小栗旬!信長協奏曲もいよいよあと1話!今日は「サブローばれちゃいました」の段

 いやー、月曜日のお楽しみだった「信長協奏曲」もいよいよ次週で最終回だそうです。

 奇しくも選挙のせいで、大河と連チャンで最終回を迎えることになりますが、今日は


 恒ちゃんに正体がバレた



 おゆきちゃんが亡くなった



 秀吉が入れ替わっていることがバレた


り、大変な一日でした。


 フィクションだとわかっていても「ついつい引き込まれて」しまう信長協奏曲も終わっちゃうなんて!来週以降は腑抜けになりそうです(笑)


 さて、本日サブロー信長が名づけた『年号』が戦国時代を代表する


天正


だったのですが、実はこの年号でワタクシ悩んでいることがあるのです。 信長とも大塚とも関係ありませんが、ちょっとばかりミステリーなので紹介しておきましょう。



 とある墓石を調査中なのですが、そのお墓はどうやら江戸時代に子孫が先祖を偲んで立てた碑のようで


『元祖■■□□の墓』


と書いてあります。

 で、裏面に


『 天正十一癸酉年 ■月■日没

 通称 ほにゃらら

 戒名 なんとか

  明治十四辛巳年 ■月■日  なんとかかんとか

                     同なんたらかんたら

                     同なんたらかんたら』


みたいな刻印があるのですが、読めないところが多いわけで。


 さて、この墓碑を私は「子孫たち一同が、明治十四年に建てたもので、祀られているのは天正十一年になくなった先祖のだれそれ」だと認識しているのですが、おかしいところが一箇所あるのです。


 それは”天正十一癸酉” のところ。

 天正十一年は”癸未”のはずなんですね。だから干支がずれているのです。


 もしや!と思って「大正十一年」の誤りの可能性もあるので、一応確認してみたら、


大正十一年は”壬戌”なので、これはやっぱり違う!


(そもそも、大正十一年に死んだ人のことを明治十四年に追悼できないので、やっぱりもとの年号は天正であってると思うのですが)



ちなみに問題の画像はこれ




ね?天正十一癸酉年って書いてあるでしょ?


 やっぱりこれは墓碑を作った人たちが間違えたのかなあ、と思うのですが真実はわかりません。


 ちょっともやっとしております(笑)



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 このブログのおなじみさんには、あまりたいしたニュースではないのですが、500円でいろんなちょっとしたサービスが受けられるという

 ココナラ

に”苗字・名字の由来調べます”サービスを登録しました。


 ココナラさんより
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 ご先祖様調べや家系図作成は、ものすごいお金がかかる、というイメージですが、ワンステップごとに自分に必要なヒントをお伝えするだけなら安価でできるなあ、ということでこんなサービスを提案しています。

 基本、ネット・文献・資料と「地縁血縁解析」を組み合わせながら「ご先祖さま探しのヒント・アドバイス」をお送りする予定です。


 当ブログをお読みの方で、もうちょっと自分の家・一族に近寄ったことを知りたい!と思っておられた方は軽くお試しください。





2014年12月14日日曜日

<話題>今日は無いのよ軍師官兵衛ちゃん 播磨官兵衛ツアーでGO!

 今日は衆議院選挙のため、われらがNHK大河ドラマ「軍師官兵衛ちゃん」はお預け状態になっています。


 というわけで、一週間もフラストレーションが溜まっているみなさんのために、なんとリアル官兵衛ちゃんツアーを決行!して参りました。


  基本的に貝原益軒説をとらない当ブログのひねくれたスタンスでお送りしますので、もちろん行くところは


 播磨黒田氏ゆかりの場所


でございます(笑)

 
 それでは、最終回直前ミニツアーのはじまりはじまり。


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 黒田氏播磨出自説によれば、黒田一族は現在の西脇市黒田庄町の出身だとされています。この町に「黒田城」という小さな城があり、赤松一族の諸流としてこの北播磨の地を守っていたとか。


 黒田庄町には現在「本黒田」と呼ばれる地域があり、その一角の山城が「黒田城跡」だとされています。





 現在ちいさな稲荷神社が祀られているこの山の上が、黒田城あと。付近には、







 今回の大河ドラマにあわせて地元の人が気合を入れて作った

「黒田官兵衛生誕の里」

の碑が!

 ついでに、山の麓は家臣たちの邸宅や館が集合されていたとされ、ちょうど山の真下あたりに

「官兵衛が生まれた屋敷」

の伝承が残っている地名の場所があったりします。


 「姥が懐」なる地名が残されており、そこが官兵衛の生まれた屋敷があったとされる場所!ここにも気合の入った碑が立っております。


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 さて、ここからはミステリー不思議発見!ひとし君人形が飛び出しそうなエピソードですが、この黒田一族がいたかもしれない地域に、なんと


キリシタンの遺物


が残っているのです。

 官兵衛の真実に近づくには、けして避けて通れないキリシタンの道。


 そう!この地に「キリシタン大名の影響があった」と推測できる遺物が、「背中に十字架を背負った地蔵像(江戸期)」なのです。


 この背面に十字架がある地蔵は、長い間当地でも発見されていなかったそうです。


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 さて、播磨黒田氏最大とも言える遺跡が、これ!


 さきほどの本黒田から少し南に下った地区にある、「兵主神社」はなんと県の文化財になっています。
 
 何がいったい文化財なのかと言えば、聞いて驚け見て笑え、




 この茅葺の拝殿が、


なんと天正19年棟上


だという棟札が屋根裏についているのです!!!

 つまり、戦国時代からの現存築建物だというわけ!

 
 地域の伝承では、「三木攻めに当たって、秀吉が黒田官兵衛に代参させて勝利を祈ったのがこの神社である」ということですが、天正19年といえば、既に官兵衛はジョスイとして隠居していますので、ちょっと時代が違いますね。

 しかし、「勝利を祈った」ということと、「実際に拝殿を寄進した」ということを切り離して考えれば、このエリアが、秀吉や官兵衛ゆかりの場所であることは全然不思議なことではありません。


 むしろ、黒田氏が当地出身だからこそ、この場所での祈願や、拝殿の寄進が可能になるわけだと考えれば、


「近江の薬売りの子孫がなんでこんなとこで?」


という説より、よっぽど信憑性があると想うのですが、どうでしょう?!



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 さて、実は今日はこの場所からそれほど離れていないとある場所で、うちの母方の先祖の研究を進めてきました。

 そこではおなじ天正時代にかかわる


「大きな謎」


に遭遇してしまったのですが、それはまた別のお話。


 では、来週の黒田官兵衛ちゃん最終回スペシャルでお会いしましょう!





2014年12月10日水曜日

<話題>日本人の名字マップ 立命館大文学部地理学専攻

 立命館大学の文学部地理学専攻で

「名字マップ」

なるものを作成したらしく話題になっています(^^



日本人の名字マップ(立命館大学)
 http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/asp/research/geo/surname/surname_map_in_japan.html


 
<ニュース>
私の名前どこに多い?(日本経済新聞さんより)
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG03H0V_V01C14A2000000/


あなたの名字はある?(ITメディアニュースさんより)
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1412/05/news126.html




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 いやあ、楽しそうですね。ごく一部だけに特化した名字研究家である大塚某もドキワクです(^^


 立命館大学さんでは、人々の移動・交流の歴史を追うために名字に着目したそうですが、大塚某の研究も


苗字を通じて、政治・歴史・文化そして国家の在りようを深く追求する


ということを壮大なテーマとしてやっております(笑)



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 さて、今回の名字マップ、立命館大学の文学部&アートリサーチセンターが主になってまとめておられるようですが、


(ちなみに、執筆者の矢野桂司さんは、文学部教授兼アートリサーチセンター長だそうです)


立命館アートリサーチセンターといえば


うちの師匠の絡んでる研究所じゃないけーーーーー!!!


・・・はあはあ。思わず取り乱しました。




 はいそうです。大塚某の大学時代の指導教官は、現在上記施設で「浮世絵を全部デジタルにしてアーカイブする」みたいなプロジェクトをやっている人です。

 ということはすなわち、


「日本文学・日本文化をデジタルな手法で科学する。それも片っ端から」


という立命館大文学部とアートリサーチセンターの基本技法は、立派に弟子である大塚某にも受け継がれているというわけで(^^;;;;;


(私が大学生の時には、そんな施設はまだなかったけどね)



 私は残念ながら、文学研究のほうには進まずに、いち会社員として「好き勝手やっている」わけですが、いつか大塚研究では第一人者になってみせましょう(笑)



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 さて、そんなワタクシの昔話は置いといて、名字データを「大塚研究者」の視点から切り込んでみたいと思います。


①ローマ字表記なのはなぜか


 ・・・日本語は「おと」で判別する言語です。”おおた”さんでも太田だけとは限りません。”おおつか”でも大塚と大束の表記が可能です。”こが”姓は古賀もあれば空閑もあります。

 なので、漢字の字面よりも「おと」を尊重しながら調査したほうが良いのです。

 今回の地図がローマ字表記なのは、そのあたりに関係します。


②大塚氏はどこにいるのか


 ・・・鈴木や佐藤といったビッグネームで埋め尽くされているこの地図ですが、一見マイナーに思える名字が突出して現れる地域があるので面白いですね。

 そこに歴史のミステリーが隠れているというわけです。


 ちなみに大塚氏について言えば、大半は埋もれてしまっているものの「北関東に2点」出現しています。

 これは、当方の「大塚調査」とも概ね合致しており、だいたいどこの系統の大塚さんか判定可能です。


③九州のビッグネームは意外にも?!

 ・・・北部九州のビッグネーム「古賀」姓。田中や山口といった「ありふれた」名前のなかに突如現れる「地域性の高い名字」でもあります。

 九州南部では「黒木」姓もガツンと登場。これも興味深い名前です。


 個人的には少弐系統と思われる「吉田」氏が佐賀周辺に展開していることも気になりますが、九州らしい分布としては「中島」氏がいたり、北九州の「石橋」ブリジストンさんも面白そう。



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 というわけで、私も名字研究を通じて日本の歴史をもっと明らかにしてまいります!よろしくね。





2014年12月9日火曜日

<話題>キターッ!九鬼家関連の「信長」「秀吉」書状が出た!

 今日も戦国関連で面白そうなニュースが出ていました。



民家に信長の書状=秀吉も、九鬼家宛て―神戸
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141208-00000132-jij-soci



元ネタは時事通信さんです。


 話の概要は、神戸の民家で「信長から九鬼家」「秀吉から九鬼家」あての手紙が見つかった、とのことで、所有者は九鬼家から流出したものを持っておられたようです。


 いやいや、さすが九鬼(くき)家!現在はニュータウンが広がる兵庫県三田(さんだ)市の三田藩主の家柄です。


 もちろん、当ブログにも大いに関係のある「三田藩と九鬼家」!今日はそこらへんをおさらいしておきましょう。


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 まず、私が今の会社に入った時、関係先として「九鬼さん」という方がおられました。九鬼氏の拠点は当然摂津三田だったのですが、ちょっと違う別の地に九鬼一族が住んでおり、その地の方とお聞きしています。

 おそらく三田九鬼家とは分家筋だったのでしょう。


 現在、その「九鬼さん」は引退なさっているとのこと。




 さて、三田市の九鬼家については


 旧九鬼家住宅資料館
 http://www.jalan.net/kankou/spt_28219ae2180119485/



が公開されていますので、お好きな方はどうぞ。



 さて、その九鬼氏が治めた三田藩、もともとは我らが赤松有馬氏の居城です。そう!久留米藩に移動した有馬氏は、もともと三田も治めていたというわけ。


 なので、ここから面白いのですが、


 現在、三田藩のお城「三田城」跡には有馬高校が建って


おります。


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 ところが、歴史ファンのみなさんには九鬼氏は「水軍」として知られています。


ウィキペディアより 九鬼氏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%AC%BC%E6%B0%8F


 そうなんです。もともとは志摩スペイン村パルケエスパーニャ!の志摩国が拠点なので


 海の男


だったわけ。


 織田信長に従った九鬼水軍とそれに抗する毛利水軍は有名ですね。しかし、関が原以降の平和な時代には水軍は不要となり、九鬼氏も否応なしに陸に上げられてしまいます。


 九鬼氏の船にはお風呂もついていたとか。家臣への指示の手紙に風呂の寸法まで載っているらしいです(笑)





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 さて、最初の話に出てきた「九鬼さん」という方。実は彼の住んでいるところには「九頭神社」なるものが鎮座しています。


九鬼氏はそもそもは和歌山の熊野大社の神官の末裔とされており、そこから志摩国へ移動し海沿いに展開した一族が海賊になったといいます。


 九頭神を祀っていることからも、この集落に住む「九鬼氏」がガチな九鬼系だとわかるのですが、藩主一族ではなく、何かの理由で流れ着いた別の一団の可能性もあります。


 このあたりは私も流石に調査していませんが、詳しく調べると何かわかりそうな予感がします。





 クズの神を祀る神社 さんのサイトより
 http://kamnavi.jp/jm/kuzukami.htm


 わらじ祭り公式ホームページ さんより
 http://www.warajimatsuri.jp/saijin/iyagongen.html




あたりを参考にすると、どうやら九鬼氏は「くずの神」を祀っていたらしく、どうやら「くずの神信仰」は


ダイダラボッチ


と関係があるらしい!さあ、ここからは



もののけ姫


の世界ですね(^^


 ・・・だんだんと脱線しそうなので、今日はこのへんで。
 

 





2014年12月7日日曜日

<話題>今日の軍師官兵衛ちゃん 兜(カブト)祭りじゃー!

 いよいよ最終回まであとちょっと!今年一年を楽しませてくれた「NHK大河ドラマ軍師官兵衛ちゃん」の第49回でございます。


 物語は関が原へ至るまでの両軍&九州のピリピリした様子を「じらしながら」ネットリと描く


 前夜祭


でした(^^


 今回の見所は、主に3つ!


【1】井上九郎衛門一生のカッコイイ男(おとこ)祭り!

  前回は岳ちゃんの見せ場でしたが、今回は高橋九郎衛門の泣けるエピソードです。

 これまたカッコよすぎで涙なしでは見られません。

 的場浩司演じる吉弘統幸との一戦は、胸に迫るものが!




【2】これぞ戦国ドラマ!あれやこれやのカブト祭り!

  なんでいままで隠していたのかというくらい「あれやこれや、百花繚乱の兜」が登場します。

  如水の「おわん」は元より、長政の「F1ウイング」も出るし、マニアがよろこぶ「サザエのツボ焼き」から、三成の「デカ(角)つの乱髪(らんぱつ)兜」、九郎衛門の「ネズミミ?ミッキー兜」、善助の「蛾の頭?ゲジ眉兜」など、みどころ満載です。

 (いずれも正式名称は知りませんので、ご興味のある方は調べてね)



【3】九州といえば!大友「抱き杏葉」祭り!

  いやいや、大河であの大友の名紋「大友杏葉」が見られるとは!

 さすがは鍋島信生が「あれ、ほちい!」と言った戦国のシャネル「茗荷丸」です。

  いろんな意味で、当家大塚家の家紋「抱き茗荷」のルーツにもなった「大いに関係のある家紋」ですので、九州大友氏子孫・家臣だけでなく、鍋島系佐賀人も必見の回になりました。


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 というわけで、本来なら来週最終回のはずでしたが、


現代の関が原こと、衆院選


のため一週間おあずけ!最終回も楽しみです!





2014年12月3日水曜日

<調査中> 福岡・大分にまたがる大塚さん 旧豊前国を中心にして

 九州地方に「大塚姓」がたくさん存在することはよく知られていますが、そのルーツはおなじ九州でも地域によってかなり系統が異なるように思います。


 当ブログでもこれまで九州地方の「大塚姓」についてかなり詳細な調査をしてきましたが、調べれば調べるほどその内容の多様さに驚かされます。


 特に私の出自である「福岡県」に存在する大塚氏については、「筑前」「筑後」「豊前」という旧国名での分布を検討する必要があります。それに、隣接する「肥前」や「豊後」についての流入がないかを調べることで、ずいぶんと明らかになってきたことが増えてきました。


 さて、今回は、おなじ福岡県でも深く切り込めていなかった「豊前」地域を概観したいと思います。


 現在放映中の大河ドラマ軍師官兵衛でもおなじみの通り、のちに福岡藩となる黒田氏は、はじめ豊前中津より九州時代をスタートさせます。

 そのため、福岡藩に属する大塚氏のルーツについて

①播磨由来の者

②もともと豊前にいた者

③どこかから豊前に来た者

など、多用な出自を想定しなくてはならない状況でした。


 たしかに、南北朝時代から戦国時代にかけて、もともと筑前「太宰府」を中心に活動した少弐子孫の大塚氏が存在していることから、彼らが北部九州一帯に分布していることは想定可能です。


 しかし、個人的には「なーんかひっかかる」という思いが強くあります。


 これまた、当ブログの読者であればご存知の通り、少弐氏は当初こそ筑前太宰府近くにいますが、どんどんと肥前佐賀方面へと拠点を移します。

 地図で言えば、左へ左へ本隊が移動している中、豊前と言う右側に「大塚氏」が残るというのが「ひっかかる」理由です。

 

 久留米藩の系譜から推測すると、「豊後日田」地方には財津氏・日田氏系統の大塚氏が存在していることがわかっており、そのことから類推しても


 豊前に別の系統の大塚氏がいたのではないか?


と見ることは不自然ではありません。


 というわけで、今日はこの仮説を元にしながらデータを読み解いてゆきましょう。


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■ 伊予宇都宮氏と大塚氏


 ご先祖探しデータベース さんのサイト
http://blog.livedoor.jp/popothan-3915/archives/1009166892.html


 に面白いことが載っていました。

 現在愛媛県の伊予国を治めた宇都宮氏は豊前宇都宮氏が伊予守護を任ぜられたことにはじまるという話です。

 そして、筑前国大木にいた宇都宮氏も、養子にいくことでこの流れを継承します。

 同サイトには家臣団の名前として


 大塚嵐之助
 大塚助兵衛
 大塚新兵衛

の名前が挙がっていますが、彼らがいつの年代の人物かは明示されていません。



 この大塚氏が豊前系なのか、筑前系なのか、まだこの段階ではよくわからないので一旦保留にしておきましょう。




■ 豊前小倉藩と大塚氏


 豊前小倉藩十五万石 さんのサイト
 http://kokurahan.seesaa.net/


にも興味深いデータがあります。


 明治4年の知行帳・切米帳からの名簿がアップされていますが、


大塚鶴之助(後に英治)   250石 中士

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大束庫太郎         17石銀2枚5人
              干城隊正衛半隊司令士
大束可右衛門(後に可平)  13石3人 准中士 下等
大束今右衛門(後に今衛)   6石金2歩3人 差紙方


の名前がありました。石高でもらっている大塚氏は「大塚」、切米でもらっているほうは「大束」を名乗っているようですので、本家筋・分家筋・家格ランクで苗字を変えている可能性が想像できます。


 ただ、この名簿は近代のものになるため、その出自についてはまったくもって不明と言わざる得ません。




■ 豊前大塚氏の古い記録


 これは以前当ブログで取り上げたものです。
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/07/blog-post_2.html


 豊前宇佐八幡あるいはその周辺に1363年(室町時代)に大塚氏が存在した記録です。


 この記事を書いているときから、この大塚氏が「少弐系」なのかそうではないのか、ということはずっと引っかかっています。





■ 秋月氏から大塚氏になった者が!


 今回一番の発見はこれ!ちょっと興味深い記事を見つけました。


 かわけんブログ さんの記事から
http://blogs.yahoo.co.jp/kawasakikennkyuukai/12088381.html



 なんと!豊前と筑前の境である「木城」地区。この地域を治めていた秋月蔵人種正の子、大膳守政時が大塚姓を称したらしいのです。


 ネタ元は「豊前大鑑」だそうで、リンク元には引用文も載っています。


 秋月氏本体は秀吉に負けて日向に飛ばされますが、大塚氏の子孫は豊前のこの地で帰農して庄屋になっているとのこと。



 ちょっと大塚の出現時期としては「最近」過ぎるので、近隣の戦国大名に「この大塚氏のうちの誰か」が召抱えられることはあるでしょうが、どこまでメインストリームをぶっちぎれるかは微妙なところ。


 豊前大塚氏の中核にはなれなさそうです・・・。




■ 黒田官兵衛 中津にて兵を集める。


 最後もなかなかの大ネタです。


 ちょっと引用元が不明なので、アレですが、私が調べきれてないだけです。ちょうど前回の「軍師官兵衛」ちゃんの放送でやっていたとこですが、


慶長5年(1600)に黒田如水、中津にて浪人を集めまくる


ということをやってます。


 この時、豊前の地侍とか浪人とか素人みたいのとかを召抱えまくるのですが、


荒牧軍兵衛・小城源兵衛・大塚角太夫・樋口山城・中間喜兵衛


などのメンバーも参入します。

(原典未確認のため、確認次第引用元明記します)


となると、福岡藩士「大塚氏」に豊前メンバーがいた、ということが立証されそうです。