2015年12月16日水曜日

<話題> 苗字研究家が考える「夫婦別姓」 〜最高裁判決を解説する〜

 みなさんこんにちは。お久しぶりです。ちょっと、諸事情で更新が止まっていましたが、復活しました(^^


 さて、今日は、先日よりニュースになっていた


 夫婦別姓を認めないのは、違憲かどうか?


の最高裁判決がありました。


 ニュースなどはこちら

 NHKニュース 夫婦別姓認めない規定 合憲判断
 http://www3.nhk.or.jp/news/html/20151216/k10010343011000.html



 さて、最高裁判決は、


「夫婦が一つの姓を名乗るのは、合理性がある」


というもので、結果として夫婦別姓を認めないことを合憲とするものでした。


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 で、この最高裁判決がどうなるかについては、当ブログでも予言しておりまして。 

 その記事がこちらです〜。


<話題>夫婦別姓 最高裁判決を予言してみる! ~姓氏家系研究家がみた「夫婦別姓」問題~

http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2015/02/blog-post_20.html

 

 はい。ここにも書いていたとおり、日本の戸籍制度は「父という枠、母という枠、子という枠を家族という箱」に入れて管理することにしています。

  これは、近代国家が民主主義社会において運用している「個人の人格や人権」とはまた別の管理方式であり、あまり個人の概念については、この枠や箱には組み込まれていません。

 

 そのため、同姓同士が「父という枠、母という枠に入っても構わない」(同姓同士の結婚が認められた)し、養子のように、DNAに基づかない親子関係が認められるようになっているわけです。

 

  こうした形は、民法上は明治になってからの規定ですが、実際には戦国時代あたりから、こうした形が運用されるようになっていた、と姓氏家系研究家である大塚某は見ています。

 

 家という箱は、徳川家や、伊達家、黒田家のような当主とその家臣団にも似ています。こうした「家」の概念は、戦国時代から現代まで、実は連綿と続いているわけです。

 

==========

  もし、日本で夫婦別姓を実現するためには、現実の運用上必要な住民票レベルでは、けっこう早く対応できると思いますが、戸籍制度のほうは、かなり改変を要するものと思います。

 欧米で夫婦別姓が実現しているのは、すでに「個人」の概念で市民管理制度が運用されているからで、「家」という箱概念を重視する日本では、そこからひっくり返さない限り、難しいということになるのでしょう。

 

 たとえば、こういうことです。

 

 「どこそこに住んでいるAさんという個人」を管理することを積み重ねるのであれば、夫婦別姓は可能です。AさんのDNA上の父はBさんで、DNA上の母はCさんだけれども、それらは血縁上だけ重要なのであって、市民生活上はどうでもいい、というのが個人主義的な管理方法です。

 

 ところが、日本では実態も運用も違います。管理は「家単位」でなされているので、「Bさんという世帯主がいて、その配偶者がCさんで、こどものAさんはこの家のこどもである」という形で管理されているので、行政がこの家族にアクセスするのもまずは世帯主Bさん宛になるし、学校に通わせる義務もBさんにあるし、こどもであるAさんは結婚するまで独立した戸籍を持てないのです。 

 

 ちなみに、今、上の例を読むとみなさんは普通の3人家族を思い浮かべるでしょうが、実体としては、BさんとCさんは再婚同士で、Aさんは養子で入った子という設定でも、Bさんは男性で、Cさんは性別変更した元男性で、AさんはCさんの連れ子という設定でもおなじなのです。

 

 つまり、やっぱり日本では「父という枠、母という枠、子という枠」にあてはめて物事が遂行されていることがわかるのです。

 

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 ところで、姓氏家系研究の上では、「夫婦別姓」は反対すべき制度なのか、と言われれば、けしてそうではありません。


 夫婦別姓も、ちゃんと、姓氏家系と名字の成り立ちの上では、忘れてはいけない概念なのです。


 古い時代の苗字・本姓の例を挙げる時に


「源平藤橘」

 

 という言葉を使うことがよくありますが、これは、日本人のルーツを辿ると、

 

源氏・平氏・藤原氏・橘氏

 

が源流になっている家が多いよ、ということで代表的な4つの姓として取り上げられるわけです。


 このうち、橘氏の成り立ちがおもしろいのです。


 橘氏というのは、

 

 Wikipediaより、橘氏 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E6%B0%8F

 

県犬養三千代という女性(奈良時代の女官)が、元明天皇から「橘宿禰」の姓をもらったことに始まります。

 

 県犬養というのが彼女のお父さんの名字で、なので、

「県犬養さん家のみっちゃん」

が、”橘みっちゃん”になるわけです。

 

で、この橘三千代さんは、 藤原不比等(あの中臣鎌足の二男で、いわゆる藤原氏の祖)の後妻になるわけですが、不比等と三千代の子は当然、「藤原氏」ということになりますね。

 

 でもでも、そうすると、橘氏は存在しないことになりませんか?

  だって、三千代は藤原不比等の嫁で、子供は藤原なんだから、橘姓を名乗る者がいないじゃん!ということになりますね。これは変です。


 実は、みっちゃんは、不比等の後妻になる前に、美努王という皇族の王子様と結婚しており、その時に「葛城王」という王子様が生まれていたのです。

 この王子様は皇族ですから、もちろん最初は名字がありません。ところが、彼がのちに臣籍降下して「苗字を必要とするようになった」時に、源氏でも平氏でもなく、


 おかんの名字である橘を名乗って、”橘諸兄”となる


のです。ちなみに彼は大伴家持の友達ですので、万葉集には彼の歌がよく出てきます。



 この橘さんの話を読み解くと、古代の「夫婦別姓」の様子がなんとなく見えてきます。


 まず、みっちゃんは、藤原不比等さんと結婚したものの、実は「藤原のみっちゃん」にはならずに、最後まで「橘三千代」だったことがわかっています。


 そう、みっちゃんは夫婦別姓だったのです!!!!


  夫、藤原不比等。妻、橘三千代。と思えば、夫婦別姓でなかなかカッコイイじゃありませんか!

 しかし、子供は「父の苗字を名乗る」のが一般的だったようですね。なので、不比等と三千代の子は「藤原姓」になっていました。


 でも、母の姓というのもそれなりに重要だったので、再婚前のお兄ちゃんたちは、(もともと姓のない皇族だったことも関係あるのですが)


おかんの苗字を名乗るぜマミー!!


ということになりました。

(意外に、これは現代でもありますね。山田さんと結婚した鈴木さんという女性が、離婚して子供は生まれたときの姓は山田なのに、鈴木姓を名乗る、みたいな)



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 というわけで、古代と現代はちょびっと違うところもありますが、日本の歴史を振り返れば


 夫婦同姓も歴史が長いし、夫婦別姓も昔はあったんだぜ


ということが学べます。以上、今後のご参考に(なんの参考やねん)


2015年11月14日土曜日

<話題>全く新しいオリジナルサービス!「あなたが生まれるまでの1000年の物語」を歴史教科書に!

 おかげさまでココナラさんでやっているサービスがみなさんに評価され、エキスパート認定を受けることができましたが、今回はそれを記念して新しいサービスを開始しました!



あなただけの「日本史」教科書を作成します ~あなたが生まれるまでの1000年の物語~





 なんと!世界にひとつだけの「あなただけの日本史教科書」を書いてしまうという、暴挙です(^^;


 御祖父さま、御祖母さま、お父様お母様の旧姓をお教えいただくと、可能な限りルーツを遡って、それぞれの家の歴史と日本の歴史をかみ合わせながら


「あの、中学高校で使ったような教科書風」


の書物(PDFファイルです)にしてお届けするという、人類史上初のサービスが出来上がりました。



年頃のお子さんにプレゼントして、歴史の授業に興味を持ってもらったり、あるいは「自分がなぜ生きているのか」のヒントを得たり、いろいろなあなた自身の発見があると思いますよ。


価格は1000円です。


※最新価格は、ココナラさんでお確かめください!



ご興味のある方は、一度お問い合わせくださいませ。



☆もちろん、ルーツがはっきりわからない。判定できないという場合もあろうかと存じます。その場合は、わかったところまでをきちんとご報告します。




 

2015年11月4日水曜日

<話題>日本で最も古い家へ行ってみた!

 こんにちは。

 昨晩は、あの伝説的番組「学校へ行こう!」の同窓会編とも言うべき2015年版が放送されていましたが、ネットでもかなり話題だったようです(^^


 もちろん、学校へ行こう!といえば、出演者のV6があんなことやこんなことをして学生生活と絡んでいくという番組なのですが、ちゃんと


 岡田官兵衛ネタ


も随所に仕込んであり、当ブログでもみっちり追いかけていた官兵衛ちゃんが再び見られて大変うれしゅうございました。


 ちなみに、ジャニーズには、「イケメンなのに残念な2大巨頭」というのがおりまして、1人が長瀬くんで、もう1人が岡田くんであります。


 どちらも、完全にそうは見えないのに、かなりおバ○で有名で、そのエピソードの数たるや枚挙にいとまがないそうなのですが、昨日の岡田先生も、かなり残念振りを発揮なさっていましたね(苦笑)


 大軍師や、大教官よりも、やっぱりひらパーにいさんが最もしっくりきそうな、岡田准一さまでございました。



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 さて、そんな岡田君、いや黒田官兵衛どのを体感できる「同時代ツアー」を敢行して参りましたので、レポートです。


 同時代ツアーとは、その名のとおり、官兵衛が生きた時代を体感できる旅でございます。



 今回、旅して来たのは、旧国名で言えば摂津ではありますが、現代の三木市にほどちかい神戸市北区の山田町は


「箱木千年家」


です。ババーン。


 


 場所は、新神戸トンネルの北側出口から車で十数分といったところですが、なんと室町期から建っているという



 日本で一番古い家(国指定重要文化財)


なのですよ、この箱木家は!!


 ウィキにもあるよ
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AE%B1%E6%9C%A8%E5%AE%B6%E4%BD%8F%E5%AE%85



 さて、このおうち。大同元年という「棟上の記録」が残っているため平安時代からあるという


 千年家


と呼ばれていますが、現在の建物に残る6本の柱は、移築解体の際に


 室町時代からのもの


だと推定されています。






 ↑中から外を見ると、頭がぶつかりそうなくらい深い軒。






 ↑戦国期大河ドラマに出てきそうな、板の間づくり。注目は、床板です。




 まだ、「かんな」が発明されていないので、床板は槍鉋(やりがんな)で削られており、完全に平面にはなっていません。


 荒い板を、槍の曲がったような道具でちょこちょこ削って大きな平面を作っていったのです。






 ↑官兵衛ちゃんの時代の息吹を伝える、「柱」。角が大きく面取りしてあるのが特徴で、古い時代ほどこの面取り巾が大きいそうです。

 (これもチョウナで”はつって”いったものと思われる)




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 さて、そんな箱木家住宅ですが、いまでも管理は子孫の「箱木一族」が担当しておられます。


 


 古いよろいなども展示されていて、箱木一族の「戦国武将」→「帰農して豪農」→「旧家として今へ至る」歴史がよくわかるというものです。



 というわけで、ここからは箱木氏と官兵衛ちゃんの同時代体感話をいくつかお届けしましょう。



 展示してある系図には、なかなか興味深いことが書いてあります。


 

 
 箱木一族は、もともとからこの摂津国山田庄に根付いた一族だったようですが、この建物がバリバリの現役だったころ、


 そう、つまり官兵衛ちゃんの時代


には、箱木氏は、あの別所氏に従っていました。(摂津国とはいえ、三木城はけっこう近い)


 そのあたりの息吹が感じ取れる、上の系図をデジタル変換して読みやすくしてみましたよ!





 どうだ!これで読めるでしょ?!(加工は大塚某)


『属 三木城別所氏 天正五年四月一日~』 からはじまって、『同年羽柴筑前守秀吉 播国府御着城小寺加賀守ヲ攻むる時~』



 出ましたね~。


 ここらへんで赤鼻のトナカイとあぶない刑事が脳裏に浮かんでくるというものです!!


 
 右半分には、箱木与一左衛門が、別所長治に従っており、戦死した話が書いてあります。



 いっぽう左半分は、さらに興味深いです。


『箱木與一郎 藤徳 母は別所大和守村重の女(むすめ) 藤徳は人質となる為三木城内に入り~』

『別所長治君自殺し後、秀吉の命に依り 三木篭城の諸士退散』

して、衝原館にやってきたというわけ。


(箱木千年家は山田町衝原にあります)



 まさしく、大河ドラマでみた、あのシーンの一部ですね。


 箱木氏は、三木城で官兵衛軍と相対していたのでしょう。


 その頃から建っている住宅を現代でも見られる、というのは凄いことだと思います。



 
 この地域は、秀吉が直轄した有馬温泉や、当時有馬氏が支配した淡河地域などとも隣接しており、戦国の息吹がそこかしこに眠っています。


 神戸近辺の方はぜひ、一度遊びに来てくださいね。

2015年11月1日日曜日

<話題> ココナラエキスパートに認定されました。 苗字・名字を研究しています。


 更新お久しぶりです。

 大塚氏に関する研究は、現在大物が出ていないのでひそかにやってます(^^


 その分、他の名字・苗字に関わる研究や分析をやらせていただいており、全国各地のあらゆる苗字・名字・氏族・お名前について調査をしているところです。


 ココナラというサイトで、依頼を受け付けておりますが、おかげさまで今回、私大塚某のサービスが

”ココナラエキスパート”に認定されました!!


 ココナラ

苗字・名字の由来と先祖探し・ルーツ探しのアドバイスをします 

  https://coconala.com/services/41874



 本来、氏族のルーツを探るというのは膨大な手間と費用がかかるのですが、なんと私のサービスは


540円


という驚愕の値段でやっております(笑)


 というのも正式な氏族のルーツ探しは、


①戸籍謄本を可能な限り取得する。

②墓石や寺などの情報を集める。

③親戚・関係者などから話を聞く。

④土地台帳などの資料を取得する。

⑤おなじ名字の情報について図書館などで調べる。


などの調査をひとつひとつ丹念に実施してゆくので、日当だけで十数万円から数十万円かかるのですが、


(仮に10日間、親戚周りと図書館通いをしただけで、日当1万円なら10万円、というわけ)


私大塚某の調査は、


⑤について、地域とネット上のデータ、図書館等の資料を探す


というところに特化してやりますので、たった500円&最速1日で結果が判明するのです。



 これまで数多くの方に喜んでもらっておりますので、ご自身のルーツについて興味のある方はぜひ一度ご利用ください。



 というわけで、たまには宣伝でした!

2015年10月18日日曜日

<姓氏家系>完全網羅 苗字 筑紫姓・筑紫氏・筑紫さんのすべて! 全筑紫氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル

 今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。

 全国の筑紫氏・筑紫さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。

 抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。(最終更新 2015.10.18)


☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」
よりご依頼ください☆



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★ 参考文献 ★

 今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。

 ① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館

    http://kindai.ndl.go.jp/

 ② 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ③ 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ④ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版

 ⑤ 「日本の苗字7000傑」  http://www.myj7000.jp-biz.net/
 

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 今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「筑紫姓」「筑紫氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。

※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては【八木書店版】「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。

【  】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。


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A  筑紫氏  筑前国御笠郡筑紫村より。藤原氏長家流。寛政譜5 【黒餅】

B  筑紫氏  武藤少弐系。筑紫尚重より。【寄り掛け目結】

C  筑紫氏  姫姓文帝の末裔、高向氏より筑紫氏。詳細不明。

D  筑紫氏  物部氏流の末羅国造、矢田稲置命の末裔。詳細不明。



そのほか、筑紫姓の家紋では

【十六葉菊】
【八つ日足】
【目結】
【つなぎ四つ目】



を用いるものがある。


 この他は現在調査中。

==========


<告知です>

500円でなんでも頼めるココナラにおいて「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」というサービスを開始しました。

 https://coconala.com/services/41874


みなさんの「名字・苗字のルーツ調べ」をさくっとお手軽にお手伝いいたします。

詳しいサービス内容は上記リンクをご参照ください。


既に何件かサポートさせていただきましたが、喜んでいただいております(^^


あなたも歴史ミステリーの扉を開いてみませんか?!


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<特集で紹介されました~>

「こんなの見たことない!」ワクワクするユニークなサービスまとめ

http://coconala.com/featured/entry/4372



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<新サービス開始>

「戦国武将・歴史上の人物に出会う旅! ~あなたと偉人を繋げます~」

https://coconala.com/services/47988



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2015年10月17日土曜日

<姓氏家系>完全網羅 苗字 志賀姓・志賀氏・志賀さんのすべて! 全志賀氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル

 今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。

 全国の志賀氏・志賀さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。

 抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。(最終更新 2015.10.17)


☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」
よりご依頼ください☆



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★ 参考文献 ★

 今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。

 ① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館

    http://kindai.ndl.go.jp/

 ② 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ③ 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ④ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版

 ⑤ 「日本の苗字7000傑」  http://www.myj7000.jp-biz.net/
 

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 今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「志賀姓」「志賀氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。

※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては【八木書店版】「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。

【  】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。


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A  志賀氏  丹波氏族「志賀」姓、のちに吉田氏。近江国滋賀郡志賀に住んだ。近江国清和源氏頼光流 寛政譜5 【向こう梅】【五七桐】【十六葉八重菊】

B  志賀氏  近江国より起こる。宇多源氏佐々木氏族 寛政譜19 【丸に五葉根笹】【蔦】【四つ目】

C  志賀氏  清和源氏義家流 寛政譜2 【七葉根笹】

C'  志賀氏  義家流新田支流山名氏族。海老名・南条・渡辺と称し、のち志賀。【向こう梅】【丸に三つ梅】

D  志賀氏  豊後国大野郡志賀より。藤原氏秀郷流大友氏族 【抱き杏葉】  

E  志賀氏  後光武帝裔氏族、劉姓志賀氏(坂上氏系列) 詳細不明

F 志賀氏  天智天皇末裔、施基親王より志賀氏 詳細不明

G 志賀氏  後漢献帝裔大友皇子より志賀氏。 詳細不明。

H 志賀氏  武藤少弐流 少弐経資の子、志賀時経(あるいは経秀)から始まる。【寄掛目結】 



そのほか、志賀姓の家紋では


【沢瀉】
【柏】
【雁金】
【五三桐】
【十文字】
【三本杉】


を用いるものがある。


 この他は現在調査中

==========


<告知です>

500円でなんでも頼めるココナラにおいて「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」というサービスを開始しました。

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詳しいサービス内容は上記リンクをご参照ください。


既に何件かサポートさせていただきましたが、喜んでいただいております(^^


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<特集で紹介されました~>

「こんなの見たことない!」ワクワクするユニークなサービスまとめ

http://coconala.com/featured/entry/4372



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<新サービス開始>

「戦国武将・歴史上の人物に出会う旅! ~あなたと偉人を繋げます~」

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2015年10月10日土曜日

葉隠(はがくれ)を悟る。 〜武士道と云うは、死ぬことと見つけたり〜

 みなさまおひさしぶりです。


 全国の大塚氏に関する考察はちょっとお休みをいただいておりまして、なんせ仕事やプライベートで忙しく落ち着いてから再会しようと思っております。

 といいながら、日々あっちやこっちの文献を見たり、考え事をしたりするのは続けているのでご安心ください。

 ただ、新しい発見や、それをまとめる時間がないというか・・・(^^;;


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 さて、そうした資料をいろいろ読み漁るうちに、私の中で「ストンと腑に落ちる」体験があったので、今日はそのお話を。


 そうです。大塚氏について調べることはすなわち戦国の世の武士の生き様を調べることとほとんど同義なのですが、武士道といえば鍋島佐賀藩に伝わるかの有名な


 葉隠


です。


一般には「武士道と云うは、死ぬことと見つけたり」で有名な武士の心がけをまとめた葉隠ですが、



 ようやく、これが何を意味しているのか。何がいいたいのか悟った。


のであります!(笑)


 解脱ですよ解脱!まさに、目からうろこが落ちるように、ユーレカ!と叫ぶようにビビビと来てしまったこの「葉隠を悟る」体験。


 というわけで、今回は、佐賀藩秘伝の書といわれた葉隠の真の意味を知る旅へとみなさまを誘ってまいります。



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 さて、”武士道”といえば、一般の人は、なんとなく江戸時代の武士の考え方や哲学のようなものをイメージすると思いますが、厳密にいえば「葉隠」が指し示している武士道と、いわゆる一般論の武士道とは意味合いが異なることを最初に押さえておかなくてはなりません。



 専門的な言い方をすれば、その違いは「中世の武士道」と「近世の武士道」という大枠で比較をするのですが、これは簡単にいえば


「儒教が取り入れられる前の武士道」と「儒教が取り入れられてからの武士道」の違いであり、また「実戦・戦争を想定した武士道」と「実戦を伴わない武士道」の違いでもあります。



(もちろん、葉隠の原作者山本常朝は、すでに後者の武士道が蔓延している時代の人間であるため、その境界がすこしあやふやになっているところがある部分は否めないが)



  葉隠はいうまでもなく、前者の武士道です。一般的に私たちがイメージする武士あるいは武士道は、


「ストイックで、かつ仁義に篤く、自らの行為に責任を持つ生き方」(←個人として)



「上位の者に対する忠義と孝行の気持ちを持ち、死をも厭わない生き方」(←組織人として)


というものであろうと思います。


 たしかに、この前半部分は、戦国期の武士道でも相通じるものがありますが、後半部分のニュアンスが少し異なることを忘れてはなりません。


 「上官の命令にしたがう」とか「殿に忠義を尽くす」とか、「切腹を命じられたら受け入れる」とか、そういう思想は、江戸時代になってから幕府が中国から輸入した新宗教である

「儒教」

の思想によって生じたものです。


 中世の武士道は、そうではなく、鎌倉幕府&源頼朝以来の


「御恩と奉公」


によって、理論化されています。

 御恩とは、鎌倉幕府や上位の者から与えられる恩賞=基本的には土地、です。つまり
武士は、土地の支配権を認めてくれる上位者に対して、奉公=忠節を尽くす、のです。


 日本中で築城の名人と言われた戦国武将・藤堂高虎は「主君を7回変えなければ武士ではない」と言ったといいますが、このニュアンスが中世の武士道に通じます。


 報奨を約束する主君に対して精一杯働くことが武士道であって、逆にいえば


「褒美をくれない主君は、その時点で捨てろ」


ということでもあるわけです。


 このあたりの感覚を理解すれば、中世の武士道が現在思われている武士道の感覚よりも
、どちらかといえば


「傭兵」とか「ゴルゴ13」とかに近いハードボイルドなもの


であることが伺い知れるというものです。


 大河ドラマ「軍師官兵衛」でもしつこく繰り返されていましたが、


「本領安堵してくれるかどうか」が常に重要


なのは、こういうことを意味しているのです。



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 ところが、戦国武士道における主君と家臣の関係が、「報償と本領安堵を基軸通貨にしたドライでストイックなもの」だったとしても、それがなぜ


”武士道とは死ぬことと見つけた”


につながるのでしょうか?


 葉隠全編を読めば、この「死ぬ」という言葉は、ある種の「精一杯生を全うする=生きる」ことと密接に関連していることがわかるのですが、

「死を覚悟して生きろ」

みたいな表面的なものだけではないことは確かです。


 作者山本常朝が、葉隠の精神としてバックグラウンドに持っていたものはどういうものなのか。

 そして、なぜ葉隠が「佐賀藩士によって書かれ、佐賀藩において禁書扱い」だったのか。

 この辺には、かなりおもしろい事実が隠れているように思えるのです。



==========

 さあ、結論へと筆を進めましょう。結論からいえば、現代人は「葉隠」だけを読んでもその根底に流れる基本哲学は理解できません。


 ましてや、武士道において「死ぬ」の本意について直感的にわかることはないと思われます。


 では、どこにそのヒントがあるのか。


 今回、大塚某は研究のために佐賀藩にまつわるいろいろな資料を読みましたが、


「北肥戦誌」「歴代鎮西志」「歴代鎮西要略」の3資料を読んでから葉隠を読まないといけないことがやっとわかったのです。


  少なくとも、「北肥戦誌」を読んでみて、それから「葉隠」を読むと、武士道の本質がまるで釈迦が解脱するかのようにビビビと体感できるのです。



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 一体どういうことか。


 このブログでも「北肥戦誌」講読の回を設けてきましたが、あの書物は単なる「歴史を書いた書物」ではありません。一般的に「軍記物」と言われるジャンルの資料ですが、ただの「戦の記録」でもないのです。

 
  一度でも「北肥戦誌」を読んだことがある人は、すぐ気づくと思いますが、

 「こいつは一体誰やねん!」

という名もなき武将や雑兵の名前がとにかく何百人単位で出てきます。中堅の武将だけでなく、時には足軽に近い人物の名前も物語にきちんと登場します。


 どうして歴史や戦いの記録に、逐一関係者全員の名前を挙げて書き付けねばならなかったか、これが大きなポイントです。


  そうです。「北肥戦誌」の最終目的は、歴史物語ではないのです。


”どこの誰それという家臣が、どういう戦いぶりをして死んでいったか”


を明確に記録するのが目的であると考えられるのです!!


 なぜ、それが重要なのか。答えはひとつです。

 その子孫が、佐賀藩において「先祖が功績を挙げたことを確認し、それについての恩賞を与え適切な処遇をしてもらえるように」ということです。


  変な言い方をすれば、軍記物語とは、「子孫のための先祖の成績表」と言ってもよいかもしれません。

 まさに、「御恩と奉公」という中世的主君家臣関係を如実に受け継ぐものであるわけです。


==========

 しかし、まだ「成績表と死」の関係性が見えてきませんね。そこで、私の先祖と思われる大塚隠岐の動きを追って考えましょう。


1)大塚隠岐は、神代長良の家臣として土生島城の戦いで、長良を逃す働きをした。

 この働きについては記録され、逆にここで死んだという記録はされていない。



2)大塚隠岐は、その後長良が龍造寺隆信家臣になったのに伴い、龍造寺軍下に合流した。



3)大塚隠岐は、 三潴地域のある村に所領をもらい、そこに駐屯したがその間に隆信が死に、龍造寺軍は佐賀へ撤退した。



4)取り残された大塚隠岐は、所領に居座る間に秀吉軍の侵攻を受け、武装解除され帰農した。



 そして、その土地に子孫が居続け、私につながるわけですが、隠岐が死なずに生きつづけたことはすなわち「武士から帰農し、おまけに隣の国で漫然と暮らし続けた」ということと如実に関係しているわけです。


  それは、まさしく大塚隠岐という武将が「武士道を失った」ことに相違ありません。



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 軍記物語において、「死が記録される」ということは武士としての功績が永遠に記録され、主君に認められることに他なりませんでした。

 そして、その功績によって、子孫は死んだ本人になり変わって御恩を享受することができたわけです。


 武士の死とは、そういう側面がありました。


 逆に生き続ければ、主君との関係は現在進行形で続くか、あるいは帰農して失われるかのどちらかになってしまうわけです。


 そこには、「漫然と生きたことで、功績もなくただだらだらと生き延びたのみ」であるという職業的不完全・未達成が残ることになります。


 それを現代風に言い直せば、「死を覚悟して生き抜いたかどうか」というニュアンスになるわけですが、中世的価値観では、もしだらだら生きたのみで功績を挙げなければ、


「所領は誰かほかの家臣に与えられてしまうかもしれない」


という恐怖を孕むものであったでしょう。それは、もちろん、本人にとってというより、子孫にとっての恐怖でもありました。


==========

 ここまで思いを馳せたときに、葉隠の云う


「武士道とは死ぬことと見つけたり」


の真意が、大きな波となって私の胸を打ったのです。



 太平洋戦争では、この言葉が曲解され「天皇のために死ね」という意味で用いられましたが、本当の意味でもし使うのだとすれば、


「国のために死んだ兵士の子孫が、子々孫々まで安心して暮らせる報償を国は与えたのか?それを与える覚悟で死を差し出させたのか!」


という国家の覚悟を問いかけるものであったということに気づいて愕然としたわけです。


 少なくとも、中世的武士道では、これはそういう意味なのです。


「我々は国に奉公する、しかし、それは国よりのご恩(所領と身分の安堵)の約束が前提であり、それが報いられないのであれば、国は主君ではない!」

 ということです。


  私たちは、たとえば自衛隊員の子孫末代までの生活を保証する気概を持って、彼らを送り出せるでしょうか?その一票を投じることができますか?


 これは、考えれば考えるほどものすごい思想です。



==========

 よく一般的に歴史の授業で、日本人はその昔


「やあやあ我こそはどこの誰であるぞ!」

と名乗りながら戦をした、という話を聞いたものですが、なぜそれが必要だったかはもう明白ですね。

 その功績をもって、子々孫々に対して恩賞を施すためであり、またそれだからこそ、武将たちはたとえ死んでも安心して死ねたわけです。こどもたちは、安堵されるわけですから。


 しかし、銃の発明で、「誰の功績で誰を殺したか」が不明瞭になり、マシンガンや近代兵器の発明で「よくわからないものによって、大量の人が殺される」事態が生まれるようになりました。


 これを歴史的には近代戦争のはじまりとして定義するわけですが、 この時国家が国民を、主君が家臣を守り抜くという約束が失われたことになります。


  誰かが誰かを殺したという功績と、誰かが誰かに殺されたという事実がリンクしてはじめて、国家は国民と対等でいられるということは、恐ろしい話だけれども重要な視点ではないでしょうか?



 これが「武士道とは死ぬことと見つけたり」の本当の意味なのです。



 近い将来、もし戦争が起こったとして、私たちは戦士を犬死にさせるなんてことは絶対にあってはなりません。


 それは国家の責任でもあり、国家の主権者たる国民の責任であるからです。


 私たちが、この国の主権者であるならば、 戦士の子々孫々を守り抜く覚悟が求められているのです。

2015年9月14日月曜日

<日常>2015 鬼怒川大洪水・水害 〜姓氏家系研究で、災害は予防できるか?〜

 先日の関東・東北地方での大水害については、広範囲で甚大な被害が起き、心を痛めています。

 被害に遭われた方には、心よりお見舞い申し上げます。


 さて、特に鬼怒川などでの河川氾濫・堤防決壊などの映像をみて、東日本大震災での津波の映像を思い起こした方も多いと思いますが、水害被害が甚大であれば「まるで津波のように町が水に沈む」というわけではなく、厳密に言えばその表現は間違いであると言えます。


 そうではなくて、「関東の平野における水害とは、本来もともと海だった地域を開墾して農地や宅地にしているだけで、町が水に沈んだのではなく、もともと水に沈んでいた場所が町になったのだ」という言い方のほうが正しいことになります。


  というわけで、水害想定地域=津波想定地域という図式が成り立ち、一旦水の被害が出ればそれはすなわち津波のような状況になる、というのは当たり前のことなのかもしれません。


 このあたりの解説は、JBPressさんの記事でとてもわかりやすいものがあったので紹介しておきます。



鬼怒川で起きた大洪水を歴史と科学で検証する 

〜水を治めてきた先達の知恵を疎かにしていないか〜

http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44777






 さて、まちづくりや土木の世界では、「ここの地盤は強いとか弱い」といった判断や、「ここは埋立地である」という開発の視点や、「この町の降水量がどうのこうの」といった現代における科学的な見方で災害を防ごうとしています。


 ところが、こうした考え方だけでは、自然災害には太刀打ちできない、ということがだんだんと明らかになってきました。


 昨今取り沙汰されている「富士山が噴火するのかどうか」といった問題や課題も、今現時点で地質的にどうこう言うのではなく、これまで歴史上何回噴火したのかとか、そのスパンがどうだったのかという、


 かなり長期に渡っての歴史学的見地からの判断


が求められるようになってきているわけです。



 少なくとも、「この火山の噴火ペースがどのくらいか」とか「この地点は津波が来たことがあるのかないのか」とか「ここはもともと海なのか川なのか」といった考え方は、


近代・現代


の視点ではまったく太刀打ちできません。


 そうです。自然災害を予見しようと思えば、明治大正昭和の記録ではとうてい判断できず、江戸時代以前の近世・中世・中古・古代といった


超ロングスパンでの見地


が欠かせなくなっているわけです。


===========

 さて、私はふだん姓氏や家系・名字について調べていますが、苗字調べの中でそうした自然災害の痕跡やデータに遭遇することが多々あります。


 具体的な事例は個人情報のこともあるので差し控えますが、「苗字調べ・ルーツ調べ」を依頼してくださった実例の中に、実は大災害や大津波、地震などが大きく関わっていたという事実が存在していました。


  なぜ、そうしたことが生じるのか。


 理由は簡単です。


 苗字調べをしていると、ある氏族が大きく本拠地・本貫地を変更している・移動している事例に出くわします。


 この理由に当たる事実はいくつかパターンがあるのですが、中世以前の古い時代であれば


「A氏族がどこそこの守護・地頭などに任命された」

とか、近世以前であれば


「どこそこ藩主の領地替えに連動して移動した」


とか、そうした任官・職業・身分に関わる本拠地の移動がデータとして浮かび上がってくるわけです。



 ところが、そうした移動の中に、任官を伴わないものが存在することが出てくるのです。

「Aという氏族が、なぜかある時期に本拠地を移動している」


とか


「Aという氏族が、ある時期に2つや3つの集団に分派している」


とか


「関連氏族がごっそり違う土地へ移動している」


といった事例です。



  ここに、災害が存在するわけです。


 阪神大震災以来、仮設住宅を作るという方法が一般的になり、東日本大震災においては低地から高地への集団移転という手法もとられるようになりましたが、まったく同じで、


中古中世江戸時代に至るまで、おなじように「氏族が災害のために移転した」


痕跡がちゃんと残っているということがわかるのです。


 これらの事例の解析がなぜ重要かというと、こうして移動・移転した氏族は、


「災害を生き残って、生き延びた側のデータ」


を有しているからです。


 滅んでしまった氏族は、移動や移転の記録を持ちませんが、生き延びて生き残ったからこそ、氏族の歴史のなかに違う土地へ移った痕跡が残るわけです。


 そして、その分布を現代のそれを比較すると、今現時点で災害は起こっていないけれど、


「このA地点が問題ありで、その結果安全なB地点へ移った」


といったことも解析できることがわかってきました。


=========

 これをうまく活用すれば、災害に対する姿勢がおおきく変わると思います。

 これまでは

「なんとかという市でその昔川が氾濫して、洪水が起こったよ」という語り口調だったので、日本昔話レベルでしか誰も話を聞かなかったのが、


「どこそこで川が氾濫して、山田一族や鈴木一族は高台に移転して助かったので、山田さんあなたはその時の生き残った先祖の子孫です。なので、あなたは今ここに存在しますよ」

とか

「別の氏族はそのまま洪水で滅亡したので、この町には鎌倉時代まではなんとかさんが存在していたけど、みんな消えてしまいました」


とか、そういう認識になると、防災に対する心がまったく新しいものになると考えるのです。


========

 現在の私の研究では、さすがに災害や事変のすべてを網羅するほどではありませんが、いち氏族の動向からそうした異変を察知することは可能になっています。


 これらの異変には、「一揆が起きた」とか「動乱があった」とか、自然災害以外のものも含まれます。

 一揆が起きれば、それまでの農民指導者層から別の指導者層へと権力が移りますし、動乱があれば氏族が離散する方向へ移動します。


 こうした事例を積み重ねてゆけば、「問題ないと思われている地点」の災害予知などにも活用できるかもしれません。


 





2015年8月6日木曜日

<115>新発見!ついに見つけた「大友氏流大塚氏」 大友から出た大塚氏が見つかった!

 前回の記事で、豊前や豊後に着目しながら、いわゆる


 どう考えても少弐系じゃないよね、な大塚氏


についてスポットを当ててきたのだが、いよいよ大発見である!



 なんと、なんと、あの中世九州の大モノ中の大物、大友氏から出た大塚氏を発見したのである!!


 いやー、これはまさしくヒバゴンとかビッグフットとか、ツチノコ級の発見といってよいだろう。



 なんといってもあの大友氏の末流なのだ。たしかにこれまで家臣団の中に大塚氏がいたことはわかっていたが、まさか


大友氏の直接の子孫に大塚がいる


とは思わなかった!



==========


 その資料はこちらにある。



 直入郡志
 https://books.google.co.jp/books/about/%E7%9B%B4%E5%85%A5%E9%83%A1%E5%BF%97.html?id=rxMzC-q8p6oC



 直入郡とは現在の大分県竹田市にあたり、この地域にも大塚さんがたくさんおられる。


 さっそく記事をみてゆこう。


 P146

 【満徳寺】 豊岡村鏡にあり、真宗大谷派本願寺の末寺にして阿弥陀如来を本尊とす。

 大友能直十一代の孫右宗亮親著の庶子に大塚親左衛門親右といふ者あり。

 応仁丁亥元年、本願寺第八世蓮如上人に帰依し、剃髪して了善と改名せしが、文明庚寅二年、師上人より一寺建立を許容せられ、寺号満徳寺を賜ひ同丙甲八年荻村字馬場に一寺を創建す。

(以下略)



==========

 パターンは、なんとなく少弐系大塚氏と似ている。


 大友親著 ウィキペディアより
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E8%A6%AA%E8%91%97



 大友親著は室町時代中期の大友家当主であるから、一応直系。”親”の字を貰っているあたりが、いかにも庶子っぽい。


 本庄予賀神社(+神宮寺)の宮司別当になった大塚氏のように、大友家から出て宗教ネットワークを押さえるために出家した人材だと推定できるが、実際その後の満徳寺は隆盛したようである。



==========


 この話と別に大塚氏に関する話が、もう一つ直入郡志には載っていて、そちらはこんな話である。


 P134

 【村社大塚八幡社】 菅生村大字戸上にあり、応神天皇・玉依姫命・菅原神を祭る。加藤家熊本退城の際、その家臣大塚某戸上村へ来たり、駄原ヶ城を築き居る。その守護神として八幡の神を祭れるものなり、と伝ふ。



 たしかに、加藤清正の家臣団にも大塚の名はあるのだが、気になるのは駄原ヶ城のほうだ。

 
 竹田の駄原城といえば岡城の支城であり、志賀氏とその城代朝倉氏が守っていた。

 天正14年には島津VS大友の「岡城の戦い」「駄原城の戦い」が起こっており、「駄原城」の成立由来は少なくとも戦国期に遡る。(岡城そのものは鎌倉期に成立)


 加藤家が熊本を去るのは三代、寛永9年のことなので時代が錯誤すぎる。なので、この話そのものはかなり誤解があるように感じられるのだがいかがだろう。



 なるべく史実に近い解釈をするならば、大塚某は、本来大友氏とその子孫である志賀氏に関連野ある「大友系大塚氏」なのではなかろうか。


 
 ウィキペディアより 岡城
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1%E5%9F%8E_(%E8%B1%8A%E5%BE%8C%E5%9B%BD)



 あるいは、岡城にまつわるエピソードでは、文禄の役で小西行長を見捨てて大友氏が所領没収の罰を受けた際、志賀氏が岡城を追い出されているので、それと混同が起こっている可能性もある。

 

==========


 いずれにせよ、大友氏系列の大塚氏の存在が明らかになった今、豊前豊後の大塚氏は、一気に大友系で推定できるようになったというものだ。わっはっは。


 というわけで


 家紋、抱き杏葉の大塚さん、連絡ください!!




<114>福岡藩黒田家臣の大塚氏についての仮説 ~豊前国宇佐・中津を中心に~ 官兵衛ちゃんと大塚氏

 さまざまな人のデータ提供、情報提供もあって、おぼろげながら福岡藩大塚氏の構成・成り立ちがわかってきた今日このごろ。


 話がバラバラにならないように、ちょいとまとめておきたい。



 福岡藩というのは、言わずとしれた「黒田官兵衛ちゃん」と息子の「長政」によって率いられた黒田家とその家臣団である。


 で、黒田氏そのものは、播磨からやってきている。このブログでは通説の近江出身黒田氏説ではなく、播磨出身黒田氏説を採っているが、その家臣団には播磨の人が多いことが判明している。


 黒田家の分限帳によれば、数氏の大塚氏が見つかるが、その中には「源氏の大塚」「平氏の大塚」「それ以外」と大きく3パターン以上の大塚氏が見つかっている。


 さて、それらの中で、


①播磨からやってきた大塚氏


も当然見つかっているし、可能性として


②最初に入封した豊前中津から従った大塚氏



③筑前福岡に入ってからの大塚氏


がいてもおかしくない、と考えている。



=========

 さて、播磨姫路系大塚氏については今回は触れないが、豊前国にいた大塚氏とはどのような存在だったのか。これまでにもいろいろと調査をしているのだが、これまでははっきりした実像が浮かんでこなかった。


 ところが、今回、氏族からではなく、地名関係から推測できそうな新発見があったので、今日はそのあたりのお話をしようと思う。






☆参考までにこれまでに挙げた豊前系大塚氏についての考察はこのへんに↓


 宇佐八幡と大塚氏
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/07/blog-post_2.html


 大友家臣、朽綱系大塚氏
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html

 
 宇都宮(伊予・大木)系大塚氏  秋月氏流大塚氏
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/12/blog-post.html

 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2015/04/blog-post_23.html




==========

 さて、まずは宇佐八幡に関係しそうな大塚氏について、新しい資料が発見されたので挙げておきたい。



東京大学史料編纂所 宇佐永弘文書調査 のページより
https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/22/saiho_usa%20nagahiro%20monjo.htm



 めちゃくちゃ長いので検索をかけてもらうとよいのだが、宇佐神宮の荘園である、豊後国田染庄


大塚二郎五郎


という人物がいた記録である。この田染荘は現在の豊後高田市に当る。


 豊後高田というのは、宇佐の隣なので、もしかすると宇佐八幡関係で登場した大塚氏と関係があるかもしれないということで、さらっと記憶しておこう。


 ちなみに、豊後高田には其の名もズバリ「大塚古墳」という史跡もあるので、宇佐地域の大塚氏はむしろ豊後高田発祥という可能性もないわけではない。



=========


 さて、上の話はさらっと流しておくが、氏族ではなく地名から攻略すると面白いことがわかってくる。


 実は宇佐市に大塚という地名があるのだ!


 また、これまたついでだが、


 中津市にも大塚という地名があるのだ!


(旧国名ではそれぞれ、豊前国宇佐郡大塚村、豊前国下毛郡大塚村になる)


 まあ、中津のほうはもともと中津城が大塚山という場所にあるので、そちらとも関連するのだが。



==========


 そうすると、これらの地名に由来する従来からの氏族「大塚氏」が存在した、と仮定しても全然おかしくないと思うのだがいかがだろうか?



 宇佐地域にいた大塚氏は、そもそも地場の大塚氏であり出自不明。


 中津にいた大塚氏も地場の大塚氏で出自不明。(ただし、こちらは黒田氏に従ったか)



という目線で見ることも、あながちハズレではないような気がする。




==========


 補足的な言い方をすれば、北肥戦誌において少弐氏の末流たちは「それぞれ肥筑地方にはびこり」とあるわけで、文字通り、肥前肥後・筑前筑後にいる大塚氏は少弐系の可能性がある、と読めば



 当然、豊前豊後は除外されてしかるべき



というわけである(笑)




 しかし、今回の話は物証・実証拠がないのであくまでも仮説ね。仮説。


2015年8月5日水曜日

【情報日本文学会 会報 1】 コンピュータに面白い小説は書けるのか? 

 夏真っ盛り、みなさんいかがお過ごしでしょうか?


 漢字で書けば大塚某こと、大塚とあるです。


 勝手に名乗り、勝手に始めた「情報日本文学会」なる”学会?!”なるものの第一弾です。

 本人はいたってまじめに取り組んでいますが、そのうちころ良い加減に力が抜けると思うのでよろしく。

 まあ、”と学会”のようにゆるーくやりたいと思っております。



 ☆ と学会 ・・・トンデモ本を批判的に楽しむ某団体。
 http://www.togakkai.com/



 いいよねー。あのまじめさとユルさの中間ぐらいのノリが好き。



==========

 というわけで、今回は、現代ビジネスさんに面白い記事があったのでそのあたりを。


 コンピュータに「面白い小説」は書けるか
 http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44477



 今村友紀さん、海猫沢めろんさんという二人の作家の対談なのですが、今村さんという方は、カンタンに言えば、


「売れる小説の設定や要素をパターン化して再構築すれば、半ば自動化された”ヒット小説”が作れるのではないか?」


という考え方で実験をなさっているそうです。


 いやあ!面白い。まさに「情報日本文学」にふさわしい発想ですね。


( 実は私も、ちょっと傾向と対策は違うのですが、似たようなことをずっと考えていて、近々それに基づいたネタをひとつ公開する予定なので、こういう話はわくわくします。)


 実は上の記事と似たような話はすでに存在していて、アメリカのハリウッド映画の脚本なんかでは、

「スタートして何分でこういうことが起きて、それから何分で主人公にアレが起きて、その後第三者が出てきて・・・」


という魔法のセオリーみたいなものが決まっていて、だいたいそれに沿っていれば面白くて売れる映画になるという話を聞いたことがあります。ほんまかいな。


==========

 しかし、そうしてパターン化された創作物は、作家の個性というか心のようなものが入っていないのだとすればどうなの?!という疑義があります。

 それを、記事では「作家の魂」と表現していますが、読者はやっぱり魂を求めるのではないか、ということです。


 この問いへの答えは、みなさんにもいろいろ意見があろうかと思いますが、大塚某的には、


「案外、人間ってのは魂がなくてもパターンで感動し、面白いと感じちゃうんじゃないの?」


と思ってます(爆笑)


 というのも、大塚某は、このブログではほとんど正体を明かしていませんが、別の活動で

 「映像作家の真似事」のようなことをしたり、「台本のようなもの」を書く仕事に関わったり、「音楽製作に関するアーチストの真似事」のようなことをしたりしている

 ので気づくのですが、映像にしても筋書きにしても

 「物語の中の誰かが死んだら、客は泣く」

し、音楽ひとつにとっても

「カノン進行で曲を作ったら、それらしく聴こえる」

というセオリーが存在するので、人が感動したり心が震えるポイントなんて、実は狭いのじゃないか、と思っているわけです。


 面白い話があって、私が審査員として携わっていた、とある「青少年の主張」みたいな意見発表の場があったのですが、 若者が次々に登壇しては「感動的な話」をするわけです。

 自分の家族がどうとか、親がどうとか、あるいは自分の境遇はこうだけど頑張る、みたいな「お涙頂戴」の話が次々に繰り出されるわけですが、出場していたオトコの子がぽつりと控え室で言ってました。


「・・・いったい、今日何人死んだんやろな」


と。


 彼はお父さんが亡くなって辛い思いをしており、その話を壇上でしたのですが、そんな当人が、「この大会では一体何人死ぬんだ」と苦笑するほど、まあ出場者の家族が次々に死んだ話をするというのは、ある種パターン化された


「いい話」「感動する話」


が存在するという証でもあるでしょう。


==========



【情報日本文学会 今日の研究1】

 
  えーっと、後半戦は学術的なお話。


 この世に出ているすべての書籍をアーカイブしてデジタル保存しよう、というとんでもない取り組みをしている集団がおりまして。

 実現したらすごいことになるだろうなあ、と思っているのですが、そんな世界征服みたいな真似事をしているのはもちろん


 グーグルさん


に他なりません。


 当ブログでも取り上げているいろんな学術書や貴重書のたぐいがありますが、グーグルさんはすでにデジタル化を済ませており、今日はその実例をご紹介してみましょう。



 歴代鎮西要略
 https://books.google.co.jp/books?id=QJZHAAAAMAAJ&hl=ja&source=gbs_book_similarbooks



 上のリンクには、グーグルブックスにおける「歴代鎮西要略」が収納されていますが、これだけではデジタルテキストとして読むことはできません。

 しかし、検索窓がついているので、そこに文字を打ち込めば、その文字が含まれているかどうかの検索はできるようになっています。

 たとえば「大塚」と打ち込むと、全6件中3件の回答が上がってきます。


 ところがよ!!!


  でもでも、この全文検索は不十分で、どうやら全文スキャンはされているものの、OCRの精度が低く文字化けがたくさん存在するので、「大塚」が完全に抽出されるわけではないのです。

 なので、現時点ではあまり役に立たないのですが、情報日本文学会的には、こうした資料の全文テキスト化計画はぜひどんどんやってほしいものです。


 まあ、権利関係もあるので、すべてを無料公開するわけにはいかないとは思いますが・・・。



例)「歴代鎮西要略」のグーグルブックス版は、2007年にミシガン大学にあった本を全文スキャン&デジタルOCR読み込みをしていると考えられる。

しかし、版元の文献出版(現存する企業さん)が、無料公開を許可していないので、デジタルファイルを閲覧することができない。

また、OCRについても読み込んだのみで原本との照らしあわせができておらず、かなり不完全。



 当ブログではこれまでにも、デジタル公開されている資料や検索できるエンジンを発掘してはじゃんじゃん利用していますが、こういうものを探す技術、使いこなす技術がまず大事かな~なんて思いますです。はい。






 

 

2015年7月25日土曜日

<姓氏家系>完全網羅 苗字 横岳姓・横岳氏・横岳さんのすべて! 全横岳氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル

 今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。

 全国の横岳氏・横岳さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。

 抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。(最終更新 2015.7.25)


 ☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
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★ 参考文献 ★

 今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。


 

 ① 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版

 ② 「日本の苗字7000傑」  http://www.myj7000.jp-biz.net/
 
 ③ その他

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 今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「横岳姓」「横岳氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。



【  】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。


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A  横岳氏  少弐系 少弐貞頼の二男頼房が肥前国三根郡西島に居城して横岳を称す。【寄掛目結】

A'   横岳氏  少弐系 肥前国神崎郡横武邑より起こる。少弐系図では「頼房(横岳孫次郎・横岳組)とある。


A' 横武氏  佐賀県神埼市神埼町横武発祥。(少弐横岳氏と同系か?)



 この他は現在調査中

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<告知です>

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<姓氏家系>完全網羅 苗字 安永姓・安永氏・安永さんのすべて! 全安永氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル

 今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。

 全国の安永氏・安永さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。

 抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。(最終更新 2016.3.28)


 ☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」
よりご依頼ください☆



==========


★ 参考文献 ★

 今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。

 

 ① 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ② 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ③ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版

 ④ 「日本の苗字7000傑」  http://www.myj7000.jp-biz.net/
 
 ⑤ その他

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 今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「安永姓」「安永氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。



【  】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。


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A 安永氏  大蔵氏流(帰化漢族の末裔) 岩門氏を経て安永氏 安永種永が祖 【地紙か?】

B 安永氏  豊前田川の豪族 応永正長の頃に安永大膳允がいた。 家紋不明

B' 安永氏  少弐系 武藤資頼の次男頼茂から四代後の定行が安永と称し鞍手(郡)に住む。領地田川郡大任町安永より名を取る。 家紋不明

B' 安永氏  少弐系  資頼の次男頼茂の四代目である定行が筑後国三原郡の安永荘を賜り姓を安永と定めその子、安永但馬守藤原重勝が若宮町日少神社(北斗宮)を建立した、とある。

C 安永氏  肥前三根郡安永より出た氏族がいたか? 家紋不明

D 安永氏  熊本県上益城郡益城町安永より出た氏族がいたか? 家紋不明

E 安永氏  御井郡安永村(久留米市北野町中川・安永)より出た氏族がいたか? 家紋不明


そのほか、安永姓の家紋では

【桐紋】


を用いるものがある。


 この他は現在調査中

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<告知です>

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2015年7月22日水曜日

<113>福岡藩大塚氏 続報 ~官兵衛ちゃんの家臣はやっぱり播磨から来たのだ~

 いつも、福岡藩の大塚氏について色々な情報をお寄せくださっている方から、新しいデータが届いたので紹介しておきたい。


 いやあ、それにして九州の大塚姓は、一筋縄ではいかない!それぞれ様々な由緒を持っている別個の氏族が入り混じっているので、ロマンティックが止まらないのである。


 だ・れ・か、ロマンティックと・め・て♪


 CCBはココナッツボーイズの略だって知ってた?それから眼鏡の笠さんは福岡出身だってことも!


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 だからなんなんだ、という余興は置いといて、本題へ。



<1>大塚権兵衛 情報続編


 以前、何度かシリーズで取り上げた福岡藩の「大塚権兵衛」、彼は森鴎外の名作「栗山大膳」にも登場する。

 
 <特別編>文豪森鴎外の描く大塚氏 ~「栗山大膳」を読む~
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_22.html


 <特別編つづき>「栗山大膳」登場の「大塚権兵衛」の正体
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_28.html


 <特別編・補足> 森鴎外「栗山大膳」に登場する大塚権兵衛について
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/09/blog-post_12.html


 
 とまあ、3回も記事になっているので当ブログでは有名人の大塚権兵衛であるが、以前に考察したとおり、吉田家と養子のやり取りをしている関係上、吉田氏とともにチェックすべしである。

 今回寄せてくださった情報では、


「吉田家伝録」



「大塚権兵衛直重ハ播州ノ人ナリ。始祖ノ系伝未ダ知ラズ。権兵衛直重若年ノ比ロ、前田加賀ノ守利家ニ仕エシトカヤ」


という記述があった、という。


 吉田家も播磨から官兵衛ちゃんに付き従っているので、大塚氏も播磨系であってもいっこうにおかしくなかったのだが、ここにきちんと「播磨大塚氏」という存在が出てきたわけである。


 推定としては、「後藤又兵衛兄の大塚将監の系」「白鳥にいる島根から来た大塚氏」「寛政譜の赤松支流大塚氏」が真っ先に考えられるのだが、前田利家との絡みでいえば、


 <調査中>石川県周辺の大塚さん
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/03/blog-post_29.html


で考察したとおり、加賀前田家臣にはやたらと大塚氏がいるので、関係があるのかもしれない。


 余談だが、三木攻めの時に、播磨に小さい砦がたくさん築かれるのだが、その中で


「高木大塚城」

お城の旅日記さんのサイトより
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/takagiootuka.htm



は前田利家が築城担当であった。これは関係ないかな?




<2>福岡藩船方の大塚氏


 これも、同じ方からの情報。福岡藩で船方を担当していた大塚氏は、福岡市博物館の資料によれば、


「大塚右京之進宗種」が大友義統の家臣であり、大友氏衰退ののち「大塚宗久(惣太夫)」が長政に召抱えられ、「大塚喜太夫」に至る


とのこと。


 大塚右京と言えば、佐賀勢では小城に「大塚右京」がいたことが知られているが、


(「小城桜岡、其昔鯖岡と申候由、天正之頃大塚右京宅地のよし、日峰様御隠居あそばれ候には、鯖の字を桜の字にあそばれ候よし」 小城町史「「千枝の落ち葉」より)

 
 これはおそらく別人。それよりも、以前に考察した大友配下の大塚氏との関連性を調べたいところである。



<86>豊前大塚氏の痕跡を追え! 大友家臣の大塚氏はいたのか?!
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html



 いやあ、それにしても尽きませんねえ。北部九州の大塚氏の系統を読むだけで、論文が書けそうなくらい!




2015年7月19日日曜日

<112・話題> 『情報日本文学会』をマジで立ち上げたいお年頃。『情報国文学会』でもいいからさ。

 ワタクシ大塚某のような在野の研究家のことを平たく言えば



 ・・・マニア



と言うのがおそらく正解だと思うが、ちょっと卑猥な感じがするので(どこが)、せめて



 ・・・研究家



と呼んでほしい。


 で、大塚某がいったい何の専門家なのかと言えば、そりゃ「国文学・国史学」の狭い領域(特に苗字と家系と限られたエリア)になるわけだが、本当はもう少し広い意味での


「情報と国文学」とか「情報と国史学」


という分野領域に興味がある。


 実はこの分野は、学問としてはまーったくと言っていいほど立ち上がっていないと思われる。国文学にしても、国史学にしても、基本的には


 「元ネタとなる実物や、原本というテクスト」


が存在するわけで、国文学や国史学のアプローチから言えば、そのホンモノこそに価値があり、まずはそこから学問が波及するというわけだ。



 ところが、どんどこしょ。



 情報と冠が付くくらいだから、私がやりたい国文学は、何がしかの形で「電子化」されているだろうし、IT化されているのだろうが、モノホンの研究者から見れば、電子化されたテクストや史料なんて、二番煎じでちゃんちゃらおかしいぜ、ということになるのだが、ワタクシは、そこに落とし穴があると考えている。




 いいですか?みなさん。



 国文学研究の歴史をひもといてみれば、とりあえずはホンモノからの活字化の歴史だったと言ってよい。


 漢文を訓読し、くずし字を解いてなんぼという国文学・国史学の歴史は、考え方をちょっとやわらかくしてやれば、


「ただの、テクストへの変換」


に過ぎなかったことになる。


 活字化に成功して、索引を作りまくって、図書館にある資料同士を繋げて考察するのが人間さまの役目であり、それが国文学国史学だったのだ、という部分に着目すれば、



 そんなの、電子テキストとハイパーリンクにまかせてしまえばいいじゃん!


ということになる。


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 ワタクシが大学を卒業したのは、1997年だったのだけれども、ワタクシの直接のセンセイに当たる人物は当時から面白いことをしていた。


 彼は、今でも基本的にはおんなじことをやっているのだが、「浮世絵」をデジカメで撮って集める、という作業を命がけでやっている。



 浮世絵をデジカメで撮る、というと、なんだかアホみたいだが本人は当時から大真面目だった。


 かっこよく今風に言い直そうか?


「浮世絵コンテンツを、デジタルでスキャンして補正し、データをアーカイブしてクラウドに収蔵してビッグデータに変換する」


ということを彼はやっていたわけだ。


 もう随分ご無沙汰しているので、センセイはワタクシのことなんぞ忘れてしまっているに違いないが、現在でも「文化のデジタルアーカイブと分析」にかけては最先端を突っ走っておられる。



 その直属の教え子なので、ワタクシも当然そういう発想で動いている。だから、パソコンの前に諏座っているだけでたいていの研究はやってしまうし、たいていの史料はただでどこからか探してくる。


 そこで思うのである。


「とりあえず、史料をデジタル化するところまでは、たくさんの研究機関がやっている。図書館にあるデジタルデータもそうだし、検索のデジタル化もそうだ。しかし!しかしなのだよ!


 それらのデータを有機的に繋いで、デジタル上で研究を進める手法を、私たちはまだ発見していない!


ということなのだ」




 このブログを長く読んでおられる読者にはおなじみだが、私のやっている大塚研究は基本は「インターネット上のテキスト検索」だけである。


 そんなのグーグル先生だってやるし、siri先生だってお得意だ。


 だが、彼らは単純にキーワードを順番に並べているだけで、まだ有機的な検索結果を出してはこない。



 情報日本文学の研究者は、その間隙を突きたいのだ!!


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 ちなみに、「研究者」と名乗っていいのは、大学に所属しているとか「学会に属している」人だけなんだそうだ。


 というわけでワタクシのような在野の兄ちゃんは「研究家(マニア)」でしかないのだが、それなら勝手に「学会を作ればいいんだろ、バーロー」と開き直った。


 だいたい、人文学系の大学をつぶそうなんて動きがあるくらいだから、大学のセンセイたちが在野に転げ落とされてくるのも時間の問題である。



 それなら、大学なんて縛りは気にせずに、俺たちゃ好きなようにやるぜ!


ってこと。



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 というわけで、自称「情報日本文学会」なる学会を1人ではじめました。まるで、冷やし中華のごとく!


”Infomation Technology of literature”

”Infomation Technology of history”


をよろしくね!

2015年7月18日土曜日

<111>講読『歴代鎮西志』『歴代鎮西要略』 ~忘れられた氏族 大塚氏~

 というわけで、前回は心ならずも引っ張ってしまった「歴代鎮西要略」発見の段なのだが、阿波国蜂須賀家に残っていたのは、


 全13巻のうち6巻だけ


なので、主に前半に関わる部分での講読を進めたいと思う。



 さて、この歴代鎮西要略だが、いちおう表向きは「歴代鎮西志のダイジェスト」ということになっている。

 なので、言い方を正せば


「歴代鎮西志があれば、要略のほうはいらないじゃん」


ということになりそうなものだが、果たしてそれでいいのか?!


 ってことで、歴代鎮西志と歴代鎮西要略の記述を追いながら、そのあたりのことも考察してゆこう。



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 大塚氏の由来については歴代鎮西志では「大永四年」の項に説明がある。原文は漢文であり。返り点や送り仮名はついているのだが、ネットだと表現しにくいので、白文で失礼させていただく。




『歴代鎮西志』 

 四年甲申

 春正月十八日 馬場肥前守頼周 以謀殺戮 筑紫満門父子三人 於所々(満門之廟在 綾部 或曰 四月四日也) 

 千葉胤勝之属衆 逃山中 蓋此馬場氏者少弐氏一族也

 玄祖少弐貞経入道妙恵 有五男子 頼尚為世子 次男号馬場肥前守経員 三男頼賢 四男貞衡(称大塚氏) 五男僧宗応也

 経員生頼興 頼興生頼継(於那須城討死) 頼継之子肥前守資幸(資一作頼) 斉名源幸 頼周者源幸之適孫也



『歴代鎮西要略』

 四年 甲申

 春正月十八日 少二一族馬場肥前守頼周 謀而殺戮 筑紫満門父子三人(或曰 二月四日也 満門之廟在綾部)

 資元称誅 得満門以報父兄之仇 略其采地而与之 馬場頼周矣 夫頼周其先筑前人 太宰府之司馬而 与少二蓋同胞也




 こうして読み比べてみると、最初の2行についてはよく似ているものの、後半部分は


 それぞれ言っていることがだいぶん違う


ことに気付くと思う。


「鎮西志」のほうは、「少弐貞経に5人のこどもがおってじゃな」、と系譜をつらつら喋りだしているのに、「鎮西要略」のほうは、

「少弐資元はこれでやっと父と兄の仇を報いることができた」

なんて感傷に浸っているわけである。   



 こうしてみると、「歴代鎮西要略は歴代鎮西志のダイジェストなんかではない」と言うことがよくわかる。


 取り上げている事象は共通しているかもしれないが、視点の置き方や、着眼点がそれぞれ違うのだ。


 これはすなわち、執筆者の姿勢や立場を暗示しているのではないか、と考えられる。



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 さて、ここにきて判明したのは「歴代鎮西要略」では大塚氏の由来が著述されていない、ということである。


 これで少弐系大塚氏の成り立ちについて記載しているのは「歴代鎮西志」と「北肥戦誌」の2つだけだ、ということがわかった。

 悲しいかな、戦国北部九州の歴史において、大塚氏はそれほど活躍しなかったからである。




<110>講読『歴代鎮西志』『歴代鎮西要略』 幻の史書がいよいよ登場!

 以前の記事でがっちり読み込んだ「北肥戦誌」講読の段であるが、北肥戦誌だけ取り上げるのはさすがにツメが甘いので、ここはぜひとも


「歴代鎮西志」と「歴代鎮西要略」


についても、読み込んでいきたいところではある。しかし、まあ慌てなさんな。



 古きをたずねて新しきを知る、というが、書物は逃げはしない。時間はたっぷりあるのだ。


 というわけで、大塚隠岐に関する神代長良受難の戦いの場面は、とりあえずお楽しみにとっておくことにして、今回は「大塚氏」そのものの記述について読み込んでいくことにする。



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「歴代鎮西志」は青潮社から平成になって影印復刻されているため、比較的入手しやすく現時点でも古本屋で何冊も出物がある。


ところが、一方の「歴代鎮西要略」は、オリジナルの「史籍集覧」には一度採録されたものの、新編集の時に欠落してしまいそのままになっているという幻の書である。


 我々一般人が読むには、文献出版から出された「増補 歴代鎮西要略」を購入・閲覧するしかないのだが、これも限定300部で作られたお宝書物なのである。


 というわけで、戦国九州を学ぼうとするものの間では、必読の書でありながら、入手が難しいマニアよだれだらだらな資料となっている。


 ああ、失礼。つい本音が飛び出してしまった。よだれだらだらを熟語で書くと


「マニア垂涎(すいぜん)の資料」


と表現する。けして水前寺清子とは関係ないので、答案にそう書かないように。



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 さて、その幻のお宝「歴代鎮西要略 全13巻」のうち、前半部分を今回は特別にお届けしよう!


 そして、「歴代鎮西要略 原本(写本)」を読みながら、大塚氏の成立について大いに考察しようではないか!!!バババーン。


 
 ずっと探し求めていた歴代鎮西要略だが、今回大塚某の国際的「情報収集能力」により、6巻までの閲覧に成功した。


 これぞまさしくIT(いんふぉめーしょん・てくのろじー)である。自分をほめてやりたいので、


「情報日本文学会」(情報国文学会)ならびに「情報日本史学会」


を勝手に立ち上げそうなくらいである。



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 さて、どこかのテレビ番組のように、ネタを引っ張っているが悪意があるわけではないので、そろそろ本題に突入しよう。

 「歴代鎮西要略」はここにある。



 徳島県立図書館 デジタルライブラリ 阿波国文庫
 http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/monjyo/awadegitalhyouzi.php



なんと阿波藩主であった蜂須賀家が、藩政期に収集した資料の中に眠っていたのだ。


ありがとう蜂須賀小六!

長政が”いとちゃん”を離縁したけど、そろそろ許してやってくれ!



と声を大にして言いたいところである。



 それにしても、大塚某が長い間見つけられなかったのはリストに「鎮西要略」という名前で登録されているからだった。


 表紙にはたしかに「鎮西要略」と書いてあるが、見開きにはちゃんと「歴代鎮西要略」と書かれているのだからそこらへんはちゃんと登録しとけーーーー!!!


 こういう書誌情報ひとつにとっても、こんな小さなことで検索に漏れたりするんだから、情報国文学の視点はとても大事なのだ!



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 というわけで、長くなったのでつづきはまたのちほど・・・・


(この節つづく。前置き長すぎwww)




2015年7月13日月曜日

<109> 新視点で読み解く佐賀大塚氏 ~大塚佐渡とは何者か~

 膠着状態が続いており、新しいデータが集まってこない今日この頃。

 それでも、新しい切り口や、新しい視点はないか?と多角的に考察を深めている大塚某だが、ちょっと気になる事実を発見した。


 ここに来て、面白い人物の存在に気付いたのである。




 その名は「大塚佐渡」マルキド・サドではない。オオツカ・サドである。

 ちなみに、マルキド・サドは史上最強の変態である。かっこわらい。





 もとい。大塚佐渡は、本来の表記で言えば「大塚佐渡守」という名称こそ正しいと思われる戦国時代の武将である。


 現在、資料取り寄せ中なので、詳しいことは手元に古書が来てから解説したいのだが、現時点でわかっていることは、


①水ヶ江龍造寺家の家臣に、大塚なんとかという者がおり、その先祖が「大塚佐渡」らしい。

②大塚佐渡の親分は「天理様」だそうである。


ということに過ぎない。


 しかし、我らが「大塚隠岐」に対して、「大塚佐渡」がいた、となるとその気なんの気、気になる気である。


 それはもう、大塚サドと大塚マゾがいたくらいの、怪しさ満点だとは思わないか?・・・・・・え?思わないって?



 サドネタはいいかげんにしつこいので、これくらいにしておくが、もう少し調査をすすめておこう。



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 「大塚佐渡」の名前が登場するのは、次の2つの資料である。



■ 「水江臣記」 (九州史料落穂集 第五冊) 

■ 「丹邱邑誌」



 水江臣記のほうは、簡単にいえば「水ヶ江龍造寺氏、つまり後多久氏」の家臣録ということになる。


 ちなみに、この氏族のことをキムタクに対して「アトタク」と呼ぼう!


 これまたちなみに、龍造寺の後を鍋島が継ごうとするのだが、のちのち龍造寺の系統のにいちゃんが


「いや、俺のほうが鍋島より本家スジだし」


と言い出したときに、


「ちょ、ちょっと待てよ!それなら俺のほうがマジ龍造寺だし」


と鍋島の肩を持ったので、ゴタゴタが丸くおさまったという、要は鍋島家にとってのHEROなのである。


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 キムタクのせいで話がややこしくなったので、話を戻そう。


 くまモン龍造寺隆信のいちばん末の弟がおり、彼の名を龍造寺長信という。この人物の別名が天理様なので、ようするに、大塚佐賀は龍造寺長信の家臣だったということになる。


 で、この長信の長男が、多久安順なので、お父さんの時代は龍造寺を名乗っていて、息子のアトタクが、多久氏を名乗りはじめた、ということになるわけである。




 水江臣記・丹邱邑誌を参考にすると(まだ読み込んでないので簡易検索ね)


「大塚佐渡と子の大塚大塚弥八左エ門は、天理様が多久へ入城する際に従って多久入りしており、その子孫に大塚伝右衛門がいる」


ということが書いてあるらしい。


 天理様の存命期間は「天文7年(1538年) - 慶長18年10月26日(1613年12月7日)」とされている。

 この時代に、大塚佐渡が生きていたとすれば、土生島城から神代長良が脱出したのが永禄8年(1565)なので、同世代の人物とすることができる。


 つまり、大塚佐渡と大塚隠岐は、同時代に生きていて、どちらも龍造寺の家臣だった可能性が高い。


 もっと精査するとこうなる。




■永禄8年(1565) 大塚隠岐守 神代長良を脱出させる。

■元亀2年(1571) 以降、神代長良は龍造寺家臣となる。





□天正年間(1573~1593) 隠岐が現在の当家の村にやってくる。




□天正9年(1581) 神代長良 死去(45歳)

□天正12年(1584) 龍造寺隆信 死去(55歳)



■天文7年(1538年) - 慶長18年(1613年) 天理様:龍造寺長信の存命期間


□大塚佐渡は上記期間に準じて存在する。



ね?大塚隠岐とうちの村の隠岐は同一人物の可能性があるし、大塚隠岐と大塚佐渡も同時代の人物の可能性があるでしょ?



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 で、何が言いたいかといえば、大塚隠岐と大塚佐渡が、おなじ系列の大塚氏だという可能性だってあるわけで。隠岐と佐渡をそれぞれ「武将名としてもらっている」あたりが気になるわけである。



(この節つづく)





2015年7月11日土曜日

<話題> なんと!くずし字が自動で解読できる時代?! ~来年の大河は「真田丸」~

 いよいよ来年の大河ドラマ「真田丸」の出演者陣が決まり始めており、楽しみになってきたところですが、いかがお過ごしでしょうか?

 
2016年大河ドラマ「真田丸」出演者発表

http://www2.nhk.or.jp/pr-movie/detail/index.cgi?id=07_0003#1412


 真田幸村ちゃんこと堺雅人さんはさておき、


 なぜか大泉洋ちゃんが真田信之とか(^^

 個人的には、藤岡弘、の 本多忠勝が気になって仕方ありません(笑)ていうか、藤岡さん大河ドラマ21年ぶりらしいです!


 というわけで、来年の大河は、昨年のように新年より当ブログでも追いかけてゆくつもりなので、よろしくお願いします。


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 さて、この夏とっても面白い情報が飛び込んできました。

 それは凸版印刷さんのプレスリリースなのですが、


 凸版印刷 くずし字解読するOCR発表
 http://www.toppan.co.jp/news/2015/07/newsrelease150703_2.html


 とのこと。われら日本文学・日本史専攻者にとっては、


 すっげーーーーーーー!!!


という時代の幕開けのようで(笑)


 くずし字というのは、本来は「変体かな」や「草書体」というものなのですが、なんせ近世以前の人には


 楷書という発想がない


のです。 なので、自筆でも印刷物でも、ぜんぶ「くずし字で書いてある」のが普通!それを読みこなすのは、日本史研究の上でとても重要かつ難解なのでありました。


 ところが、OCRである程度読んでくれれば、解読スピードが大幅にアップすること間違い無しです。 これは楽しみな技術ですね。


 そもそも、人間が読み解く「くずし字解読」も、実は技能の根幹部分はパターン認識です。

 この形のくずし字は、本来この字であるというパターン化された経験則があれば、解読の速度と精度が飛躍的に上がるので、コンピュータ向きかもしれません。

(実際、くずし字辞典はよりたくさんの用例が載っていることに意義があります。つまり、パターンマッチングなのですね)


 ただし、気になるのはリンク先にあるくずし字の実例なのですが・・・・。


 あまりに美しいくずし字の見本なので、


 これやったら誰でもすぐ読めるわーーーー!!!!


と突っ込みたくなるのは私だけでしょうか?(笑)

 ぜひ、もっと難解なやつにも対応できるよう、お願いしますね。


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 さて、それはともかく、IT技術と古典を結びつけるといういわば「情報日本文学」「情報国文学」という領域・ジャンルはまだ学問的に確立していません。

 研究段階としてはプロジェクトがいろいろあることと思いますが、これから「古典とテキスト」の問題とか、研究テーマがたくさん生まれてくるように想像します。


 あー、私が研究者として生きていれば、絶対この分野を絡めていただろうなあ。と思いますが、残念ながらそれは空想のお話。このあたりのことは、また別にお話する機会を設けたいと思っています。


 では。今日のところはこれくらいで。





2015年7月3日金曜日

<話題>サマーウォーズ、はじめました

 やってますねー。金曜ロードショー。

 細田守監督の「サマーウォーズ」絶賛放映中でございます。


 長野県上田市を舞台に繰り広げられる、現実社会とネット社会の大混乱を


 花札で解決する


というお話。(合ってるけど、なんかちがーう!)


 さて、お話の舞台は、室町時代から続くという架空の一族


 陣内家(じんのうちけ)


の大家族を中心にしながら繰り広げられるのですが、 床に飾られている六文銭の甲冑から、


信州真田家


をモデルにしていると思われます。


六文銭は、真田家の旗印。本来の家紋は、結び雁金であり、サマーウォーズでも、おばあちゃんの着ている和服に、この紋が入っていますね。







 さて、この真田氏、次の大河ドラマでは主役なのですが、実は出自はよくわかっていません。


 信濃の名族である、滋野流、ひいては源氏を名乗ってはいるものの、どうも偉くなってからの仮冒だと考えられています。


 本当のところは、信濃の根津氏の支流もしくは配下にあったプチ領主・ミニ豪族だったのではないかと。

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 さて、この信濃上田方面には、

 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2015/06/blog-post.html


でも軽く説明したとおり、滋野/海野系の大塚氏がおります。


 というわけで、サマーウォーズにご縁のある大塚さんが今頃テレビに釘付けなのでは?(笑)

 
 

2015年6月29日月曜日

<108> 講読『北肥戦誌』 ”神代長良妻室の事” 

 前回までの講読で、神代長良が千布・土生島城をからくも脱出した話を読み込んでみました。

 一方奥さんとは離れ離れになっていますので、長良の妻がどうなったのか、については巻の十七にて説明されることになるわけです。


 というわけで、今回はその次の巻を読んでみましょう。


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 神代長良妻室の事


  さて、長良の妻は、土生島の城を忍んで脱出し、河窪藤付の先達の坊へとひとまず身を落ち着かせていた。

 しかし、しばらくは良いとしても、このままいつまでもここに居るわけにはいかないだろうと、松延勘内に長良の元へ戻るよう命じ、乳母だけをお供にして故郷である鹿江へ向かうことにした。


 そこで、村の女が旅をしているような服へ変装し、編み笠姿にさもボロボロの草履を履いて、夜の闇に紛れるように出発なさった。

 頃は四月の末、ホトトギスの鳴き声が遠空にこだまするのを聞く彼女の心持はいかばかりのことだろうか。つと、その心境を筆に執り、

『心せよ なればかりかは時鳥(ほととぎす) 物思う身に夜半の一声』

としたためては、



※ここから先の部分は、ある意味軍記モノらしく、ちょっぴり浄瑠璃の脚本のように文章が書かれています。歌舞伎・浄瑠璃に詳しい人であれば、なるほど長良の妻の足取りを『道行(みちゆき)』に見立てて書いているのかな?と思わせるほど情緒的なシーンです(^^

(というわけで、まるで近松門左衛門のパクリのような原作のテイストをお楽しみください)


~と打誦して、分けつつ行けば小笠原、袖に玉散る篠木野や、ここはいずくぞ八溝の、水の流れの末かけて、妻の行方を安穏に守らせ給えと、あたりなる白髭の御社へ、心ばかりに奉幣あり~。


 さて、このようにあちこちと辿りながら、河窪から鹿江まではわずかの行程なのだが、三日三晩泣く泣く歩いてゆく様子はたいへんに痛々しい。

 ようやく実家にたどり着いた時には、母をはじめ皆大いに驚き、また大いに彼女を労わったものの、龍造寺に知られてはいけないと大堂の社家にかくまうのであった。


(この段終わり)

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 道行になっているところは、突然「七五調」に切り替わりますので、原文を読んでいる人はすぐに気づくと思います。

 この道行きの文体、今では歌舞伎や浄瑠璃でしか体験できませんが、実は鎌倉時代には成立していて、『太平記』あたりではバリバリ使われているようですね。

 さて、話を元に戻します。

 とりあえず神代長良の妻も、無事実家に帰ることができたわけですが、この後、神代長良本人も、浪人となって再起を誓います。

 残念ながらこのあたりでは、誰がどうしたという話は大変少なく、いろんな周囲の武将たちの助けを得ながら、龍造寺隆信へのリベンジの機会をうかがう、という話になってゆきます。

「長良の従者二百余人」

 という言葉がたくさん出てきますので、それくらいの家臣団が生き延びており、大塚隠岐もこの中にいるか、もしくは一旦別行動を取ったものの、後で合流しているのではないか、と想像します。

 その後、大きな活躍をしたのは古川新四郎で、彼はにっくき納富但馬守に復讐を果します。



 こうして読み込んでみましたが、大塚隠岐がその後どうなったのかは、一切記載がありません。

 ただ、「討ち死に」という記載がないことを重視すれば、なんとか生き延びて神代家臣として従い続けたのではなかろうか、と読むことができるのではないでしょうか?


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<おまけ>

 さて、おまけで今日は高校国語「古典」の授業をかましておきましょう。

問 なぜ北肥戦誌の作者、馬渡俊継はこの場面で「ホトトギス」を描写しているのでしょう。考えられる理由を説明しなさい。



 ・・・いやあ、高度ですねえ。高度だけれども、なかなか興味深い良問です(自画自賛)。東大入試で出たりしないかな(笑)

 でもまあ、いちおう高校国語レベルの知識で解けますので、いってみよ!


【解答】 

 ホトトギスは、漢字で書くと「時鳥」と書いたり、カッコウに似ているので誤って「郭公」と書かれたりします。正岡子規は、血を吐いたので、「血を吐くまで鳴く」と言われたホトトギスをもじって「子規」と号しました。

 また、「不如帰」という当て字で書くこともあります。これは中国の故事に由来しますが、『帰るに如かず』つまり、帰ることにかなわない・帰ることに越したことはない=帰りたい!という意味を持っています。

  神代長良の妻が、戦乱の中実家に戻ろうとする場面ですから、「無事に帰りたい」という彼女の気持ち、心情をホトトギスを使って感傷的に表現したものだと考えられます。





 馬渡俊継ちゃんは、基本的には冷たいというか淡々と文章を書いている人なのですが、実はハートはなかなかのセンチメンタル文学者なのです。ツンデレ?!





 






2015年6月27日土曜日

<107> 講読『北肥戦誌』 ”神代長良千布落城の事” その3

(前回から続く)

 さて、講読「北肥戦誌」の段もいよいよ第3回に突入!

 前回までは、神代☆グッド☆長良が、肥前のくまモン龍造寺隆信に攻められる経緯について読み込んでいきましたが、土生島城をかろうじて脱出した長良の下に「大塚隠岐守」がたしかにいたことまでわかったところです。

 というわけでここからは、陣営のうち「誰が死んで誰が死んでいないのか」についてじっくりと検証したいと思います。

 まずは、前回の続きをお楽しみくださいね!


==========

 こうして長良は、付き添っていた家臣たちとも散り散りになり、今はわずかに島田入道鶴栖・古川新四郎・松延勘内ばかりを連れて金立権現の下宮の辺りまで落ち延びてきたが、思い出されるのは妻のこと、さすがに心配でならない。

 そこで、今年15になる勘内が、

「殿、私が城の様子を隠れながら見て参ります!」

と申し出るので、 よしわかったと土生島へ戻すことにした。


 勘内が、森に紛れながら城に潜入すると、城内の外れに長良の妻たちが呆然としながら身を隠しているのに出くわした。そこで勘内は、

「よかった!ご無事でおられたのですね。殿は無事落ち延びられました。しかし、御前のことが心配でならず、金立から私をお帰しになったのです。早くおいでになってください、急いでお供いたします!」

と言ったのだが、長良の妻は首を縦に振ろうとしない。

「いえいえ、私の身などどうなってもよろしいのです。あなたこそ早く殿のところへ戻って、お守りしてください。殿のことこそ、心配でなりません」

そう言って、勘内を戻そうとするところを、

「何をおっしゃるのですか!なんとしてもお連れしますので急いでください!」

と無理やり諌めて、 長良の妻や乳母と共に城の後ろの堀に橋をかけ脱出し、主従3人は河窪村藤付の山伏の坊まで逃げて行った。


 一方、土生島城では、まだ敵味方入り乱れ命をかけて切り合いが続いていた。

  神代左馬助は、長良の行方を追って金立の松原まで馬を駆けて落ちてきた。味方も次々に追いついてきて、24人が残っている。

 左馬助は、彼らを従えて座主町を過ぎようとしていたが、頃は4月下旬のこと、24日の朝、辰の刻になった。

 すると、左馬助一行の具足や甲冑兜に朝日がきらめいて、光が反射する。それを遠方から見つけたのは、もちろん龍造寺の軍勢だった。

「やや!あそこに、長良の勢らしき者がいるぞ!あるいは、大将長良かもしれぬ!」

と龍造寺軍は、即座に追跡を始める。

 左馬助は、歳の頃壮年を過ぎ、イケメンの若武者である。 その左馬助も、佐賀勢が追ってきているのに気づき、

「気づいたか・・・、しつこい奴らだ!」

ときびすを返して、佐賀勢に向かって馬を駆け始めた。

 左馬助勢と龍造寺軍は、やがて真っ向勝負となり、近づく敵を切っては駆け、駆けては切って互いに暴れ回った。

 しかし、一人減り、二人減り、かくして24人は一人残らず討ち死にしてしまったのであった。


「首を取ったり!」

龍造寺軍の一人が、ついに左馬助の首を討ち、

「長良を討ったぞ!」

と勝ち鬨を上げた。龍造寺軍は一斉に声を上げ、勝利を確信したのであった。



 土生島に静寂が戻り、龍造寺勢が帰陣を始めた頃である。

 長良は、金立の下宮の西方の森に潜んでいたが、それから24日の朝金立山に登り、雲上寺の座主成長法印に対面した。

 この寺でしばらく休息してから、主従3人は名尾山へ向かって名尾式部大輔のところへ、島田入道を遣わして状況を知らせたところ、式部大輔は肝をつぶして驚き、

「それは、大変なことでした。すぐに、長良殿をお迎えいたそう!」

と島田と共に名尾勢6、7人をつけて出迎えに向かった。


 長良は、こうして名尾勢と合流し、畑瀬の城へ落ちていった。おりしもこの日は、神代勝利の死去から六十七日(むなのか)に当たっており、こうして長良の命があったのも、亡き勝利公の加護に違いないと、畑瀬城家中の者どもはみな泣いて、長良の姿を見て喜ぶのであった。

(巻之十六 終  十七へ続く  )



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 ・・・はてさて。

 相変わらずドラマチックな展開が続きますが、ここで原作の「巻16」は終了、次号へ続くという状態になっております。

  しかし、今回は検証作業がありますので、とりあえずここまでのおさらいをしておきましょう。


 まず、土生島城・神代長良サイドの人間と行動を確認しておきます。


 ■ 神代長良     → Aルート脱出成功
 ■ 妻          → Bルート脱出成功
 ■ 乳母         → Bルート脱出成功


 ■ 島田入道鶴栖     → Aルート金立まで脱出
 ■ 大塚隠岐守
 ■ 神代左京亮
 ■ 神代左馬助     →計24人討死
 ■ 中野新十郎
 ■ 古河新四郎     →Aルート金立まで脱出
 ■ 秀島伊賀守
 ■ 福所大蔵     →長良を名乗って切腹自死
 ■ 福島式部少輔     →敵中に入り討死
   
 ■ 松延勘内     →Aルート金立まで脱出 →城へ戻り妻と合流 →Bルート脱出


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 こうしてまとめるとわかりやすいのですが、登場人物それぞれの生死や行動を確認すると、大塚隠岐は、この段階ではどうしているのかさっぱりわかりません(笑)


 ひとつの考え方は、

「大塚隠岐は、あるいは城内に立てこもり戦っていた」

もうひとつは

「大塚隠岐は、長良に従って城を出た」

という考え方です。このふたつは、カンタンに言えば、夫を守っていたか妻を守っていたかの違いということになりましょう。


しかし、城を出ていたとしても、北肥戦誌の記述からは問題点があります。ここは原文でいってみましょう!


『かくて長良は付き添ひし者も散々になり、今は僅かに島田入道鶴栖・古川新四郎・松延勘内ばかりを召し具して』


 さあ、ここで問題になるのは「ばかり」の用法です。いきなり古文の時間ですが、大学入試を受けた人は、高校古文を思い出してください。

 もちろん、”ばかり”というのは「推し量る」「はかりごとをする」の計る・測るから来ています。なので一般的には「ほど・ぐらい」という訳し方をするのですが、ところが、”ばかり”が「程度」を表すのは、平安時代くらいまでで、それから後は、ほとんど


「ばかり=だけ」

という限定の用法へと変わるわけです。

 そうすると、この文章は、

『島田・古川・松延の三人だけ』

というニュアンスが強くなり、 ここにそのほかのメンバーはいない!とほぼ断定できることになるのです。ましてや、このあと松延勘内は奥さんの方を助けに行きますので、残りは、長良と島田・古川の3人きりです。

 それを裏付けるように、今日読み込んだ最後のほう、たしかに原文でも


「主従三人」



と書いてあり、状況は合致するのです。


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 とすれば、現時点において、大塚隠岐は、

① 長良に同行はしていない。しようとしたが、はぐれた可能性がある。

② 妻を助けるべく城に残っている。あるいは城内で戦っている。

③ しかし、妻と一緒に脱出したかどうかは、わからない。

④ 城内にいたまま、あるいは城下付近で戦いが終了した可能性がある。


ということになります。

 そして、大事な点として、

「死んだとは書かれていない」

ことも忘れてはいけません。


 そう!北肥戦誌は、討死者については丁寧に拾い上げて記載していますので、その中に入っていないことは、逆に重要なポイントだと考えることもできるわけで。



  そんな観点を持ちながら、それでは次回以降は、巻十七を読み進めてゆくとしましょう!


 おたのしみに。

 

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追伸>Sさま。

 こうやって読み込むと、北肥戦誌は歴史を追っているのではなく、『誰がどのように戦ったのか、あるいはどのように死んだか』を追っている戦功書だとよくわかりますね。

 だとすればなおさら、大塚隠岐は死んでない!

 (関係者が死んだ記録を出していない。そしてあるいはゆるゆる前線から引退したので、そこからはたいした武功がない。)

と推察しても、あながち外れじゃない気がするのですが(笑)