2015年2月21日土曜日

<102・話題>2015年も終わっちゃいないぜ!軍師官兵衛ちゃん続編「後藤又兵衛を追え!」スペシャル

 昨年の大河ドラマ「軍師官兵衛ちゃん」がすばらしく、今年の「花燃ゆ」はなかなかパッとしない視聴率だそうですが、NHKのみなさん頑張ってください。


 それはともかく、超ひらぱー兄さんあらため、ひらパー園長は絶好調だそうで、

http://www.hirakatapark.co.jp/hirapar_niisan/


100万人まであとすこし!実現可能性大だそうです。頑張れ官兵衛!



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 というわけで、2015年になっても終わっちゃいないぜ官兵衛ネタで当ブログもまだまだやりますが、今回はなんと


 兵庫県某地域で、家紋『抱き茗荷』な大塚


にゆかりのある方からご連絡を頂きました!!!


 これはなかなか興味深い情報で、なんといっても「抱き茗荷」なところがポイント。そして、お話を聞くと、どうやらこの大塚氏は


「後藤又兵衛兄、大塚将監系」の大塚家


である可能性がかなり高いのです。


 だとすれば、寛政重修諸家譜に載っている、あの謎の


赤松支流大塚氏 (抱き茗荷)


と繋がる可能性が俄然出てきたわけで、これは失われていたミッシングリンクの発見か?と個人的にはドキドキしております。


 というわけで、2015年も、官兵衛ちゃんと又兵衛ちゃんと大塚氏には目が離せそうにありません!!!



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 さて、その後藤又兵衛を追いかけていると、なかなか不思議なことがわかりました。もちろん、この話は知っていたのですが、大塚氏との絡みでは気付かなかった点も!



 まずは概略です。天下無敵のヤリ男(こう書くと、なんかチャラいな)、ただしくは、槍の達人こと後藤又兵衛は、官兵衛亡きあと


例のダメっ子長政とケンカして、あろうことか家出してしまう!


というのがドラマ後のお話。


 そして浪人になったり、他の大名の客分みたいな感じでフラフラしつつ最後は大阪の陣に参戦して戦死するわけですが、


 ダメっ子長政は「あいつを雇ったらあかんで」と他家に圧力をかけたり


けっこう激しくケンカしているようです。


 さて、史実では大阪城方として戦った又兵衛は、乱戦の中傷を負い、


ウィキペディアでは
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%8C%E8%97%A4%E5%9F%BA%E6%AC%A1


のように、撃たれ落馬した又兵衛に対し、従者吉村武右衛門が介錯して、首を泥の中に埋めたことになっています。



 ところがどんどこしょ。


 「又兵衛は生きていた」説などが別に生まれたりする中で、死ぬトコまではおんなじなんだけれど、


「又兵衛の首は、泥の中にあらず」


という、その続きがある説が存在するのです。



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愛媛県は伊予市、その「伊予市史」によると、愛媛と又兵衛の関係について、いくつか不思議な話が上がってきます。


①「豫州大洲領御替地古今集」より

引用元は
http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=3&P_SNO=35&P_FLG1=13&P_FLG2=1&P_FLG3=3&P_FLG4=0


『(伊予郡) 同郡宮野下村

<中略>

一 太閤秀吉御子秀頼之御時代後藤又兵衛当村長泉寺住僧伯父二而御座候由大坂落城後又兵衛回国之姿二而当国江渡り久万岩谷山江参座禅し居候処其節松前城主左馬之佐様御参詣被成先走りの申今日は国守御参詣被遊候間片付居よと申聞しが打仰而大乃目玉を光らし国守とハ加藤左馬之佐かと申に驚走り帰り見坂にて右言上す故に左馬之佐様是より御帰城ありしとなん其後又兵衛宮ノ下村江参り伯父二掛り相果半弓種が島鉄砲ハ一所に葬り笈ハ只今寺に御座候昔者村之中に寺御座候由百姓屋敷二彼塚御座候 』




 古文なので簡単に現代語訳すると、


 秀頼の時代に、後藤又兵衛は伯父の住んでいる長泉寺に縁があったので、大阪の陣のあと山伏あるいは遍路みたいな格好で四国に来て、久万岩谷山で座禅などをしていた。

 あるとき松前城主「左馬の介」がその寺に参詣しに来たとき、先に来たマネージャーが「城主が来たから、片付けとけ」と言ったところ、くわっと眼光するどく目を見開いて

「城主とは、加藤左馬の介の野郎か!」

と言ったので、マネージャーはビビッて飛んで帰り、それを聞いた左馬の介はなんとなく察して参詣せずに帰ってしまった。

 その後、又兵衛は宮の下村へ来て死に、武器一式とともに葬られ、それは今も寺にある。

 また村の百姓屋敷に、彼の塚がある。


みたいな感じですね。


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 ところがどんどこしょ。


 これとは全く話が違うけれど、場所がおんなじな不思議な話パート2があって、そちらも紹介してみたいと思います。



② おなじ伊予市史より「現代の寺院」の節

引用元
http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=3&P_SNO=35&P_FLG1=8&P_FLG2=2&P_FLG3=2&P_FLG4=0


『長泉寺
 伊予市宮下一五六三番地にあって、住職は友澤良謙で医王山瑠璃光院と称し真言宗智山派、京都智積院の末寺で本尊は十一面観音(行基の作という)である。本寺は昔戦火にかかり古文書などを焼失したため、開基や開創などが不明であるが、口碑によると、後藤又兵衛基次が、大坂落城後一六一五(元和元)年河内の国小松山で戦死し、家臣吉村武兵衛が遺命を受けてその首を当地に持ち帰り、基次の伯父に当たる住職に託してこの地に葬ったとある。現在は当寺の近くの大塚氏の屋敷内に後藤又兵衛の墓と称する五輪の塔がある。この事がら本寺の開基は、今から三〇〇年以上も前であろうという。境内にあった一本の松の老木が一九八三(昭和五八)年に枯れた、年輪は数百あったことからも、古刹であることが推察される。又兵衛の死後はその菩提寺として、今も当地方で有名である。

<中略>

また境内には後藤又兵衛の記念碑が建っている(又兵衛の第一七代目の子孫、後藤氏が現在四国中央市農人町に、武兵衛の子孫(永井と改姓)が現在大阪市に住み、この両家に系図や記録が残っている)。 』


 こっちは話が全然違っていて、又兵衛はどちらかと言えば大阪の陣(の直後)で死んでおり、従者「吉村武兵衛」が出てきて、(前の話は武右衛門だったけど)首を愛媛に持ってきたというのが骨子。


 ただ、ポイントとなるのは、どちらも


「又兵衛のおじさんは、愛媛長泉寺の住職だった」


という点は共通なので、これは面白い。


 そして、後藤氏と、吉村氏の子孫がいて、資料が残っているというのだから、さらに気になるわけで。



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 さて、この2つの話で、もうひとつ忘れていることがあって、①のほうで


「寺にも墓があるし、村の百姓のところにも墓がある」


みたいな書き方をしているのだけれど、これがまた実際に別にあるんですわ。その個人宅の名前が


大塚さん


なのです。これが偶然の一致なのかどうなのか?謎が謎を呼ぶ展開に!




 ちなみに、伯父さんというのは


伊予市のサイト
http://www.city.iyo.lg.jp/shisetsu/shisetsu/bunka/bunka-094.html


によれば、妻のおじである「藤岡九兵衛」だそう。



 もし、この大塚氏が、後藤又兵衛兄の大塚氏と関係があるのだとすれば、ちょっと面白くなってくるのだが、まだまだ調査中です。




2015年2月20日金曜日

<話題>夫婦別姓 最高裁判決を予言してみる! ~姓氏家系研究家がみた「夫婦別姓」問題~

昨日のニュースで、興味深い話題が挙がっていました。


夫婦別姓 最高裁が憲法判断 (弁護士ドットコムさん)
http://www.bengo4.com/topics/2703/



<最高裁大法廷>民法の夫婦同姓、再婚禁止期間…憲法判断へ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150218-00000101-mai-soci



 現在、法律的には夫婦は同姓でどちらかの姓を名乗らなくてはいけませんが、通称としては会社勤めなどで旧姓を使うことはけっこう行われている事例があります。



 さて、この問題!いよいよ最高裁が「結論を出す」つもりになっているわけですが、姓氏家系研究家としては、その判断が気になるとともに、


おおかたの予想はつく


というのが正直なところ。


 っていうか、最高裁の判断としては「こういう結論しかない」とぶっちゃけ答えは決まっているように思います。


というわけで、まだ答えが出ていない今日の段階で


「最高裁の判決を大予言スペシャル!」


と題してお届けしてしまいましょう。さあ、夫婦別姓はどうなるのか?!



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 さて、ここからはみなさんの一般常識とはすこしかけ離れた視点で話がすすんでゆきます。私たちにとって「どうか」ということよりも、「この国は(裁判所は)、国のありかたと家族のありかたをこう考えている」という視点で、みなさんも考えてみてください。


 私たちにとっては、「夫と妻がいて、その血を受け継いだ子どもがいる」という形態を基本的な家族だと思っていますが、裁判所はちょっと違った見方で家族を定義しています。

 それは、


「夫という枠があり、妻という枠があり、子という枠がある」


というのがまず第一段階です。もう少しくわしく言えば


「夫という役割を演じる配役が1枠あり、妻という役割を演じる配役が1枠あり、子という役割を演じる枠がいくつかある」


というイメージです。


 もっといえば、最近の裁判所の考え方では男女同権ですから夫・妻という考え方もなくてOKです。



「世帯主という人物の枠があり、その配偶者の枠があり、その子という枠がある」


これが、日本のすべての家族の基本形だと考えているのです。このユニットは、国家を形作る最小単位ですから、その形ですべての戸籍は作られています。



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 さて、ここからみなさんの考える一般常識とは、ずれてきます。


 用意されているのはすべて「枠」ですから、枠にさえ当てはまっていればそこに入る人物は誰でもかまいません。


 夫・妻・子という3つの枠に対して、夫が「女性」、妻が「女性」でもOKです。(性同一性障害を持つ人の結婚など)

 夫・妻・子という3つの枠に対して、血が繋がっていない子でもOKです。(養子制度など)


 そもそも、夫・妻は男女同権ですので、どちらの姓をチョイスしてもいいし、どちらが世帯主になってもOKです。(姓は妻の姓を称して、世帯主は夫でもいいのです)



☆ただし、「戸籍の筆頭者は妻になる」。住民票上の世帯主は、どちらでもよい)




 極端にいえば、三人が三人とも全然血縁関係がなくても、家族という枠組みは成立するし、現在もそうした家族は存在するわけです。


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 ここまでの考え方については、実は以前の記事でも示しています。



<話題>最高裁判決は、”戦国時代”で読み解け! DNA父子訴訟の真の意味
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/07/dna.html



 この記事でもわかるとおり、裁判所は「箱」(今回の記事では「枠」)と役割を重視しているので、血縁がどうとか、個人の権利がどうとかは別の次元でものを考えていることがはっきりわかります。



 では、いよいよ結論ですが、夫婦別姓はどうなるのか?



 結論:「夫婦別姓は認められない」




 その理由。原理原則論でいえば、


 家族は「3つの枠をもつ箱」なのであるが、その箱が「他と違うユニーク(個別)なものである」ということを示すラベルが


 苗字


であるため、ひとつの箱に2つ以上のラベルをつけるのはふさわしくないから。


ということになりましょう。

 補足していえば、夫婦別姓だとおなじ箱に属しているかどうかがわかりにくくなり、もっといえば


「個人」という箱


を認めないかぎり成立しなくなります。戸籍制度もそうだし、日本のあり方、社会制度のあり方が、まだ個人という箱単位で考えられていないため、これを認めると社会システムをすべてどんぶり返さなくてはならなくなるので、認めることは不可能なのです。


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 まあ、もっともこんな説明を裁判所はしません。この話は内緒にしておいて、一般の人にはもう少しわかりやすい説明をしてくれるはずです。


 では、姓氏家系研究家であるこのワタクシが、裁判所が口先でつかう言い訳まで予言しちゃいましょう!!!

 なーんて。






 夫婦別姓による、誰にでもわかりやすい問題点はひとつだけです。それは「こどもの姓はどうするのか」ということです。これを裁判所的には



「父母の姓が別だと、子どもが(制度的に)混乱し、こどもの利益が損害されるから棄却するのだ」


という言い方をするでしょう。


「こどもが利益を損ねることのほうが、親が不自由を感じることよりも問題が大きいので親の利益を制限する」


という言い方もします。こどもが可哀想やろ? わかりやすいですね。


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 というふうに一般の人への説明はこれでOKですが、専門的にはもっとややこしい問題が潜んでいます。


 夫と妻が別々の姓を維持した場合、こどもはどちらの姓を名乗るかについては、どちらでも権利的にはOKです。


 しかし、こどもは権利として自由に姓を選べません(20歳未満は責任をとれません)から、20歳時点であらためて姓を自分の責任で選択する制度を設けなくてはなりません。


 すると、すべての国民が、一度は自由に姓を変えられることになり、親と子が別であるどころか、大学在学中に半分くらいみんな姓が変わるとか、18歳で就職した人の厚生年金リストが、20歳で半分くらい書き換わるとか、


それはもう無茶苦茶になり、公共の利益に完全に反する


ことが生じます。



だからどう考えても無理なんですね。



なので、事態は


「戸籍制度の枠組みを最小家族から個人へと変更する」


という議論を経ないとダメなのです。




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 ちなみに、戦国家系研究の場面においては、奥さんの苗字というのは「どこの氏族の出か」ということをきちんと把握するためにずっと記憶・記録されており、夫婦同姓のように「抹殺」されることはありませんでした。

 正式な家系図には、妻「だれそれ氏の出」」ということがちゃんと明記されています。

 そういう意味では、夫婦別姓でしたので、考え方としてはやはり


「家という箱、父という枠・子という枠を維持継続するための、ツールとしての妻(母)という枠」

のニュアンスだったのでしょう。男尊女卑ですから、家系の主体は基本男性です。












2015年2月18日水曜日

<話題>八幡神社と厄神さんの謎を解く ~厄年のあなたに~

 突然ですが、わたくし大塚某は厄年でございまして。

 厄年といえば厄除け祈願をせねば、ということで兵庫県は中ほどにある「柏原八幡宮」の厄除大祭へ参詣して参りました。

 仕事終わってから行ったので夜です。雨模様でしたが、すごい人数!!




 関西にも厄除け神社がたくさんありますが、阪神間ではなんといっても門戸厄神さんが有名です。子どものころは「やくじんさん」といえば門戸厄神を意味していたくらい。

 そうです。大塚某は小さい頃は阪神間モダニズム文化の真っ只中で生活しておりました(^^


 さて、実はこの門戸厄神さんと、柏原八幡宮の「厄除神社」のやくじんさんはちょっと違いがあります。



 門戸厄神さんは「東光寺」さんというお寺におられる「厄神明王」という仏教の明王です。なんでも


「愛染明王」と「不動明王」が合体すると「厄神明王」


に変化してパワーアップするそうなので、まるで超合金か東映特撮ヒーローみたいな存在です。シャキーン!!



 それに対して、八幡神社の厄神さんは「八幡神」なので、神道の神様です。ただ、八幡神には厄除けのパワーがあるとされているので「やくじんさん」と呼ばれているとか。


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 というふうに、本来「厄神明王」と「八幡神」は別物なのですが、じゃあ、


門戸厄神のやくじんさんと、柏原八幡神社のやくじんさんは別人か(別神か?)


という問題を出すと、別人とは言い切れない部分も出てきます。



なんでか?


 というわけで、今日は、このやくじんさんの謎を解き明かしましょう。


 その謎をとくカギとして、柏原八幡神社の写真を見てみましょう。





 まず、上の写真が本殿(というか拝殿も兼ねる)。天正13年に建てられており、国の重要文化財です。

 天正13年で丹波地域といえばアレですね。そうです。


 秀吉の命で社殿は建てられている


わけですが、ちなみに、そのまえに丹波攻めで元もとあった八幡神社を


焼き払ったのは信長(の手下の光秀)



です(笑)


 柏原八幡宮のサイト
 http://www.kaibarahachiman.jp/publics/index/17/





 さて、今度は下の写真に注目。こちらにヒントがあるのですが、実は柏原八幡神社には


 三重塔


があります。


 三重塔とか五重塔というのはストゥーバですから仏教の塔です。それが神社にあるということは、

「神社と仏教が一体になった神仏習合」

をよく表している形態であるといえますね。


 さて、その神仏習合ですが、明治の廃仏毀釈運動で、たいていの神社と寺は切り離されたり、神社にくっついていた寺はぶち壊されたりするのですが、八幡神社系だけはちょっと様子が違うのです。



もともと、源氏の親分である源義家が「八幡太郎義家」と名乗るように、八幡神は


「八幡大菩薩」


として武家全体の守護神として崇敬を集めてきました。というわけで、歴代の武家政権の中で、八幡神社だけは「八幡大菩薩」という概念が根強く残り、ちょびっと特別扱いされているわけです。


 もちろん、廃仏毀釈の波に八幡神社も飲み込まれますが、他の神社とはニュアンスがちょっと違っていたようで。



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 さて、厄神明王と八幡神が「神仏習合」で合体したっぽいことはなんとなくわかってきました。
 

 しかし、八幡神なら誰でもどこでも厄神さんなのか、といえばそうじゃないから面白いのです。



 もともと、八幡神社の本家は、九州の宇佐八幡宮でした。そこから平安時代に「岩清水八幡宮」が京都に出来て宇佐八幡の神が分家するのですが、さすが都のあった京都の岩清水八幡宮ですから、


全国の八幡さんの総元締めとして岩清水系八幡神社


というのが一定の広がりを見せるわけです。



 企業で言えば、創業地は九州なんだけど、本社は東京にあるみたいな感じです。ブリジストンなんかそうですね。


 もとは久留米のゴム会社だけど、本社はすでに東京でワールドワイド


みたいな。



 さて、時代は平安時代のこと。空海という密教パワーをもつすごいお坊さんが、嵯峨天皇の厄年だったので厄除け祈願をしたところ、


嵯峨天皇の脳みそにビビビ!と来て、嵯峨天皇の脳内で愛染明王と不動明王が合体したイメージが展開した!


そうです。


「わわわ、わし。すごいもの見ちゃった!」

と嵯峨天皇はすぐに空海を呼び出し、空海は、そりゃあすごいねとさっそく愛染明王と不動明王が合体した


合体仏像


を3体作ったそうです。


 その厄神明王像が配置されたのが、


① 高野山天野大社

② 門戸厄神東光寺

③ 岩清水八幡宮


の3つであり、現存する像は東光寺にのみ残っているとか。



 従って、天野大社さんもしくはその支店は「厄神さん」であり、門戸厄神東光寺さんも「厄神さん」であり、岩清水八幡宮もしくはその支店は「厄神さん」になるのです。


 ここで、おさらい問題です。


Q.宇佐八幡宮もしくはその支店は「厄神さんである」。正しいか間違いか述べよ。


A. 厄神さんではない。なぜなら、宇佐八幡は岩清水八幡の本家なので、岩清水八幡以降に広まった厄神信仰を受け継いでいないから。


ということですね。



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 ちなみに京都八坂神社ならびにその支店では由来の異なる「疫神社」において「疫除け」をしているそうですよ。







2015年2月4日水曜日

<話題> なんと!山田風太郎のダットサンが発見される?!

 ある意味、歴史マニアがドキドキする面白い話題が入ってきました。

 兵庫県の北部但馬地方、養父市でなんと!山田風太郎にゆかりのある戦前のダットサンが発見されたというのです!


 元ネタは産経新聞さん
 小説家、山田風太郎のダットサン発見 兵庫



 yahoo!の記事では写真も見られますが、ここで


「おお!戦前のダットサンだなんてすげえ」と言うのは、車マニア


「おお!山田風太郎といえば、甲賀忍法帳!」というのは歴史マニア


「おお!山田風太郎と聞くだけで鼻血が・・・・」というのはエッチなおとうさん。


です(笑)


 かくいう私も、もちろん多少たしなんでおりますが、娯楽時代小説を書かせたら「山田風太郎」の右に出るものはいないと思っています。


 あるいは、”くの一忍法帳”の原作者といえば、お父さんたちにはピン!と来るでしょう。特に下半身が。


 はたまた、ちょっと中二病をこじらせ気味のオタクなあなたにとっては


「魔界転生」


の作者、山田風太郎はすでに神の領域のはず!


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 というわけで、池上さんみたいにわかりやすく「山田風太郎ワールド」をご説明しましょう!


ウィキペディアより 山田風太郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E9%A2%A8%E5%A4%AA%E9%83%8E



 予習は上のリンクでして頂くとして、大塚某お勧めの山田風太郎ワールドといえば、まずは


「魔界転生」あたりから。


 物語は原作では謎の老人が由比正雪と手を組み、天草四郎をはじめ宮本武蔵やら柳生十兵衛を復活(転生)させて徳川幕府を滅ぼそうとする、というもの。

 歴史小説のふりをしながら、完全にやっていることは聖飢魔Ⅱもびっくりの悪魔的SFであり、ついでに転生の仕方が、


 女性と○×△したら生まれ変わる


というエロスな方法なので、現代のエロゲーもびっくりな破廉恥ぶりなのであります。


 そう、山田作品を知るには、エロスを避けては通れないので、そこ、よろしくね!



 そして、「忍法帳」シリーズ。甲賀忍法帳がスタートなんだけど、実際私たちが目にしやすいのは、Vシネマ化された「くの一忍法帳」シリーズでしょうか。


 いったい、忍法帳シリーズで山田大先生が何をやらかしているのかは、


「真面目をモットーとしている当ブログでは、R指定にひっかかる」


ため、いろんな人のブログのお力を拝借しておきます。


(以下、書評・感想等リンクしております。あしからず)
http://hayamonogurai.net/archives/353

http://blog.livedoor.jp/sheep_tmc/archives/51576148.html

http://x001it.xxxxxxxx.jp/book-060.html

http://bookmeter.com/b/4062645599


まだまだあるけど、むったりしてくるからこのへんで。



 さて、こんな元祖・SFラノベ作家ともいえる山田大先生、大正11年生まれです。亡くなられたのは2001だそうですから、最近までご存命だったんですね。



 私の場合は、先祖調べをするまでは、いわゆる「歴史マニア」というほどではなかったのですが、亡き父上、大塚某父 がかなりの時代小説好きでございまして、幼少の頃より山手樹一郎の文庫本とかが転がっていました。さすがに山田風太郎は転がっておらず、どこかに隠してありましたが(笑)


 しかし、山手樹一郎と山田風太郎は、ある意味真逆の路線ですね。(桃太郎侍の作者さんです。超さわやか路線)



 ああ、時代小説(娯楽)が書きたくなってきた~!