ここのところ、ちょびっとブログ記事が停滞しておりました。その間、「平井」「益田」姓について、北部九州の氏族とからめながらリストを作っていたのでお許しください。
あ、平井さんは少弐支流、益田さんはもと高木で龍造寺の出所ですので、そういうわけでピックアップです。
それとは別に、ずっと関西地方でのいろんな方面からの家系・氏族調査をしてます。戦国時代にからめてめっちゃ興味深いネタもあるので、そのへんはまた別の機会に。
さて、ついでに実は私の母方の先祖についても、一つずつチェックしているのですが、なかなか面白いご先祖様に出会うことができました。
えーっと、ややこしいのですが、私の父は「大塚」姓で、母は「Y」姓です。ここまでの一つ上の世代。それから。おじいちゃんは当然「大塚」で、おばあちゃんは「F」姓です。これが父方。母方のおじいちゃんは養子だったので、「H」姓、おばあちゃんが「Y」姓を女系で継いでいて、そのおばあちゃんのお母さんが「赤松」さんだったわけ。
当然ですが、おばあちゃんのお父さんは「Y」姓ですね。
で、今回発見されたのは、私の母方の直接のおじいちゃん「H」さんなのですが、この人は養子に入っているので、もとの姓の「H」という氏族を調査していたのです。
すると興味深い史料が出てきました。江戸時代、寛政期にある藩の武士が、管内の事象を詳しく調べてあるいた書物があり、その中にこれまた管内の「姓氏」についてもまとめてあったわけで。
その書物には、うちのおかんの姓である「Y」も、おかんのおとんである「H」さんもしっかり載っていました。
まー、江戸時代の人というのは凄いですな。昔のこととはいえ、フィールドワークを踏まえた現地調査&聞き取り結果が残っているわけで、現代人からみればかなり興味深い。
==========
ちなみに、おじいちゃんの「H」姓は、なんでも古来から「禁裏」←こう書いてある。つまりは、宮中とか朝廷ですね。その禁裏にある作物を献上していて、途中からその作物を入れる器である
檜曲げ物(ひのきをまげて作った器)
を献上するようになった家柄である、と。で、そのため、一帯の山林はH家のものと禁裏から定められており、他の氏族の者はそれを覆してはいけなかったとか。
もっと面白いのは、禁裏から書付を4通もらっているのだが、その書付は恐れ多くて見てはいけないので、書付を見てしまうとその家の当主であっても7日、
・・・・。ここがよくわからないのだけれど、見てしまったら、
7日で目がつぶれる?(失明する?)
のか
7日で死ぬ?
のか、ぼやかして書いてあるので読み取りづらい!
なんせ、7日で大変なことになるそうです(笑)
いつのまにか「恐れ多い気持ち」が変化して、天皇家を魔物扱いしているところがすごい。
あ、正確には、書付のことを「御綸旨」と書いてあります。
ウィキペディアより 綸旨
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B8%E6%97%A8
で、その御綸旨が怖くて、どこか他所の寺に預けているんだけれど、「まだ返してもらってない」と書いてある。わはは。
江戸時代のその藩士も聞き書きしながら、ちょっと返してほしい感じがにじみ出てるところが面白い。
で、4通のうち1通だけそのH家にあるとか、けっこう詳しく書いてあるので、よっぽどHさんの家での話が面白かったのだろう。
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まあ、そんなH家から養子に来たおじいちゃんですが、どうもY家にくるに当たっても
「とにかく家柄がよくないとあかん」
と言われ続けていたそうで、養子先のY家がどれほどの家柄か知らんけど(実はおなじ書物にY家は庄屋の家で、油屋もやってたと書いてある)、赤松家から嫁に貰っていることを考えると、
とにもかくにも家柄第一主義
であったことは疑いようがありません。
少なくとも、ひいおじいちゃんおばあちゃん、おじいちゃんおばあちゃんまでは
「近世家柄原理主義」(=封建的身分制度)
に縛られていたわけで、けして自由な結婚ではなかったのでしょう。
そういう意味では、近代自由恋愛を謳歌できたのは、団塊の世代である
「おとんとおかん」
の世代からで、それ以前には、自由恋愛なんてほとんどなかったということでもあります。
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でも、ちょっとおかしいと思いませんか?私たちが教科書で習ったのは、「士農工商」的な身分制度ですよね?
侍がいて、農民がいて、商人やらがいるという「身分」の上での「自由恋愛ができないよ」というやつ。
実態は、調査すればするほど違うんです。
今、Y家とH家の周辺で言ってたのは、「農民同士」の話です。江戸時代の身分で言えば。
つまり、職業身分というヒエラルキーがあったのではない、というところがポイント。
士族だから偉いとか、農民だからあかんとか、そういう単純な見方をしていると、この日本の実態は把握できません。
違うちがう、そこじゃない。
たとえば、Y家は、江戸期に庄屋だった、つまり
「帰農した戦国領主であった(本貫地を持っていた)」
から家柄がよくて、H家はもとから農産物を作ってますが
「朝廷から許可された山林土地を持っていた(本貫地を持っていた)」
から家柄がいいという発想なんです。
赤松家とておんなじ。
「多可郡野間に城と領地を持っていた(本貫地を持っていた)」
から、
Y家やH家と同格に扱われる=婚姻ができる
という図式になっているわけです。
==========
こうしてみてゆくと、近世以前の「氏族」のありようがはっきり見えてきます。そこには「農民だから」「武士だから」という観念はありません。たしかに江戸期には政治上「そういう身分におかれた」ことは事実ですが、氏族の中には脈々と
まさに「家柄」=我々はどういった経緯を持つ氏族なのか
を問う感覚が根強く残っていたことがわかるわけです。そして、それは、端的にいえば
「土地を持っているのかどうか」
に帰着します。だからこそ、人々はその土地に関わりのある苗字をつけたのでしょう。
==========
個人的には、こうした旧来の「家柄」感覚は、いよいよ現代になるとほとんど何の価値も持っていないと思います。
現代においては家柄がいいと金持ちだとか、家柄がいいとよい就職先にめぐり会えるわけではなく、あくまでも本人の能力と努力次第だからです。
しかし一方で、家柄・出自に関係ない社会が、「地縁や血縁」をだんだん解体していったことも事実で、そのせいで地方が疲弊したり、限界集落が生まれたりするわけで、難しいところ。
ここの辺りは、一度じっくりと考えてみないといけないですね。
2015年1月30日金曜日
2015年1月29日木曜日
<姓氏家系>完全網羅 苗字 益田(増田・枡田)姓・益田(増田・枡田)氏・益田(増田・枡田)さんのすべて! 全益田・増田・枡田氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル
今回の記事は、九州少弐氏に関係のある氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。
全国の増田氏・益田さん・枡田姓にまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。
抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。(最終更新 2015.1.29)
☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」
よりご依頼ください☆
==========
★ 参考文献 ★
今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。
① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
http://kindai.ndl.go.jp/
② 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
③ 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
④ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版
⑤ 「日本の苗字7000傑」 http://www.myj7000.jp-biz.net/
==========
今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「益田・増田姓」「増田・益田氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。
※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては【八木書店版】「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。
【 】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。
==========
A 益田氏 上野国益田郷より。藤原氏秀郷流小山氏族。寛政譜21 【片喰】【二つ巴】【対雁菱】
A 益田氏(のち丸橋氏) 同上 【丸に釘抜】【片喰】【結び雁金】
B 枡田氏 石見国美濃郡益田郷より。御神本氏族。【丸に堅二つ引】【丸に枡】
B 益田氏 藤原氏実頼流、小野宮流。石見国守護に御神本氏族益田氏。
C 増田氏 藤原氏山蔭流にてもと安川氏。寛政譜21 【丸に抱き茗荷】【十六葉菊】【上り藤に一文字】
D 増田氏 近江国浅井郡益田郷より。益田連または橘氏族。【井筒】
E 増田氏 陸奥国名取郡増田より。藤原氏秀郷流か。【蔓三つ柏】
F 益田氏 藤原氏隆家流より高木氏族。【日足か?】 肥前。
G 益田氏 信濃小笠原氏より出る。家紋不明。
H 増田氏 滋野氏流望月氏を経て増田氏。家紋不明。
J 増田氏 紀氏より増田氏。家紋不明。
ほかに
【唐撫子】
【梅鉢】
【亀甲】
などを用いるものがある。
このほかは現在調査中!
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全国の増田氏・益田さん・枡田姓にまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。
抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。(最終更新 2015.1.29)
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★ 参考文献 ★
今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。
① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
http://kindai.ndl.go.jp/
② 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
③ 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
④ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版
⑤ 「日本の苗字7000傑」 http://www.myj7000.jp-biz.net/
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今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「益田・増田姓」「増田・益田氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。
※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては【八木書店版】「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。
【 】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。
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A 益田氏 上野国益田郷より。藤原氏秀郷流小山氏族。寛政譜21 【片喰】【二つ巴】【対雁菱】
A 益田氏(のち丸橋氏) 同上 【丸に釘抜】【片喰】【結び雁金】
B 枡田氏 石見国美濃郡益田郷より。御神本氏族。【丸に堅二つ引】【丸に枡】
B 益田氏 藤原氏実頼流、小野宮流。石見国守護に御神本氏族益田氏。
C 増田氏 藤原氏山蔭流にてもと安川氏。寛政譜21 【丸に抱き茗荷】【十六葉菊】【上り藤に一文字】
D 増田氏 近江国浅井郡益田郷より。益田連または橘氏族。【井筒】
E 増田氏 陸奥国名取郡増田より。藤原氏秀郷流か。【蔓三つ柏】
F 益田氏 藤原氏隆家流より高木氏族。【日足か?】 肥前。
G 益田氏 信濃小笠原氏より出る。家紋不明。
H 増田氏 滋野氏流望月氏を経て増田氏。家紋不明。
J 増田氏 紀氏より増田氏。家紋不明。
ほかに
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2015年1月26日月曜日
<姓氏家系>完全網羅 苗字 平井姓・平井氏・平井さんのすべて! 全平井氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル
今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。
全国の平井氏・平井さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。
抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。(最終更新 2015.1.26)
☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
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★ 参考文献 ★
今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。
① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
http://kindai.ndl.go.jp/
② 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
③ 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
④ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版
⑤ 「日本の苗字7000傑」 http://www.myj7000.jp-biz.net/
==========
今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「平井姓」「平井氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。
※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては【八木書店版】「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。
【 】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。
==========
A 平井氏 清和源氏支流 紀伊徳川家に仕えた家系があり、家紋は【丸に立ち葵】、替え紋【左三つ巴】 寛政譜19
B 平井氏 橘氏族 寛政譜20 【井筒】
C 平井氏 藤原氏支流 寛政譜22 【井桁】【花菱】
D 平井氏 近江国高島郡平井より起こる、宇多源氏佐々木支流 寛政譜7 【源氏車】【波の丸】【七宝に蔦】
D? 平井氏(のち太田) 近江国宇多源氏佐々木支流 【目結車】
E 平井氏(のち牛田) 清和源氏満季流 寛政譜19 【五三桐】【十一菱】【扇紋?】
E? 平井氏(のち梶田) 清和源氏満季流 寛政譜19 【丸に亀甲に橘】【左三つ巴】
F 平井氏 摂津国河辺郡平井邑より。藤原氏南家。【井の字】【上りばら藤に平井筒】
G 平井氏 蜂須賀藩家臣にあり。
H 平井氏 近江国愛智郡平井より。清和源氏高屋氏族。【水仙】
I 平井氏 藤原氏秀郷流より、武藤少弐氏の支流。家紋不明。
J 平井氏 天武天皇より舎人親王を経て清原氏。豊後清原氏の支流。家紋不明。
K 平井氏 諏訪氏敦光流より出る。【梶の葉か?】
L 平井氏 村上源氏播磨赤松氏の庶流。【三つ巴か?】
M 平井氏 壱岐系卜部氏の支流。家紋不明。
N 平井氏 桓武平氏貞季流より酒井氏を経て平井氏。家紋不明。
その他、平井姓の家紋では
【石持地抜井桁】
【星梅鉢】
【地紙】
【抱き柏】
【方喰】
【半菊】
【五七桐】
【月星】
などがある。
このほかは現在調査中です。
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① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
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※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては【八木書店版】「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。
【 】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。
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A 平井氏 清和源氏支流 紀伊徳川家に仕えた家系があり、家紋は【丸に立ち葵】、替え紋【左三つ巴】 寛政譜19
B 平井氏 橘氏族 寛政譜20 【井筒】
C 平井氏 藤原氏支流 寛政譜22 【井桁】【花菱】
D 平井氏 近江国高島郡平井より起こる、宇多源氏佐々木支流 寛政譜7 【源氏車】【波の丸】【七宝に蔦】
D? 平井氏(のち太田) 近江国宇多源氏佐々木支流 【目結車】
E 平井氏(のち牛田) 清和源氏満季流 寛政譜19 【五三桐】【十一菱】【扇紋?】
E? 平井氏(のち梶田) 清和源氏満季流 寛政譜19 【丸に亀甲に橘】【左三つ巴】
F 平井氏 摂津国河辺郡平井邑より。藤原氏南家。【井の字】【上りばら藤に平井筒】
G 平井氏 蜂須賀藩家臣にあり。
H 平井氏 近江国愛智郡平井より。清和源氏高屋氏族。【水仙】
I 平井氏 藤原氏秀郷流より、武藤少弐氏の支流。家紋不明。
J 平井氏 天武天皇より舎人親王を経て清原氏。豊後清原氏の支流。家紋不明。
K 平井氏 諏訪氏敦光流より出る。【梶の葉か?】
L 平井氏 村上源氏播磨赤松氏の庶流。【三つ巴か?】
M 平井氏 壱岐系卜部氏の支流。家紋不明。
N 平井氏 桓武平氏貞季流より酒井氏を経て平井氏。家紋不明。
その他、平井姓の家紋では
【石持地抜井桁】
【星梅鉢】
【地紙】
【抱き柏】
【方喰】
【半菊】
【五七桐】
【月星】
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2015年1月24日土曜日
<101>福岡藩二天一流の系譜 ~大塚派をめぐって~ 宮本武蔵
すでにご承知の通り、当ブログでは北部九州の大塚姓・大塚氏に執拗な(笑)リサーチを重ねており、というわけで、福岡の大藩、黒田官兵衛ちゃんの「福岡黒田藩」についても特に念入りに調査しているところである。
で、これまた復習になるのだが、福岡藩に所属していた大塚氏に2氏、宮本武蔵の剣術を受け継いだ「二天一流」のワザを伝授されたものがいる、という話は既出の通り。
これまでも、何度かこのネタをお届けしているので、少しだけご参照いただこう。
<53-1>宮本武蔵と大塚氏 前編
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/04/blog-post_21.html
<53-2>宮本武蔵と大塚氏 後編
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/04/blog-post_24.html
<調査中>福岡県直方地方の大塚さん
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/11/blog-post_7.html
==========
さて、このたび、福岡藩の「二天流」を継承した大塚氏のうち
<53>の分限帳に登場する大塚作太夫にゆかりのある方から貴重な情報をいただいた。
その方は、母方の先祖に「大塚作太夫重威」という人物がいて、その子孫に当たるということだったのだが、これがなかなか興味深い。
武蔵研究では超絶なデータ量を誇る
宮本武蔵 (丹治峯均筆記)さんのサイト
http://www.geocities.jp/themusasi2de/houkin/d100.html
によれば、新免武蔵守玄信(みやもとむさし)にはじまる剣術の流派は、福岡藩の
大塚作太夫重寧―大塚初平藤郷→
と伝達されて大塚派を形成する。
また、おなじく
宮本武蔵 (五輪書異本集) さんのサイト
http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/gs00.html
によると、大塚派の詳細は五輪書の継承記録から
大塚重寧→ 大塚藤郷→ 大塚重庸→ 大塚重任→ 大塚重正
であることがわかる。
この時、誰が「作太夫」を名乗ったかについては不明だが、興味深いのは、ご連絡を下さった方の先祖「作太夫重威」と名前が異なる点である。
となると、重寧は作太夫であったことがわかっているので、おそらく重威は、重寧の父親だったのではないか、と推測したのだが、どうやら逆に重正のあとの可能性が高い。
ご連絡を下さった方の考察では、「15代の作太夫」であり、もっとも年代が若いのではないか、ということだが、恐らくその可能性が正しいと思う。
これまた同じく
宮本武蔵(異本集 水之巻)さんのサイト
http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/gv02.html
の大塚一族の最後「追記」として「作太夫重威」の名前が載っている。明治2年。
ぜひ機会があれば作太夫家の系図かなんかを探してみたいところである。
さらに興味深いのは、大塚藤郷以外、基本的に「重」の通字をみな使っていることから、おおむね大塚派の二天流は家督を継いだもの・近しい身内に継承されているのであろう。
というわけで、大塚作太夫にゆかりの方があれば、ぜひご連絡いただきたい!
==========
☆ 大塚某のお送りする苗字ルーツ解析 ☆
先日よりココナラさんでスタートさせていただいた
『苗字・名字の由来と先祖探し・ルーツ探しのアドバイス』
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少しずつ依頼いただいております。
”大塚”だけ調べているみたいに思われてますがそんなことありません(笑) どんな苗字でもリサーチします。
すでに5組の方に高評価を頂いております。自分のルーツにご興味のある方はぜひどうぞ。
で、これまた復習になるのだが、福岡藩に所属していた大塚氏に2氏、宮本武蔵の剣術を受け継いだ「二天一流」のワザを伝授されたものがいる、という話は既出の通り。
これまでも、何度かこのネタをお届けしているので、少しだけご参照いただこう。
<53-1>宮本武蔵と大塚氏 前編
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/04/blog-post_21.html
<53-2>宮本武蔵と大塚氏 後編
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/04/blog-post_24.html
<調査中>福岡県直方地方の大塚さん
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/11/blog-post_7.html
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さて、このたび、福岡藩の「二天流」を継承した大塚氏のうち
<53>の分限帳に登場する大塚作太夫にゆかりのある方から貴重な情報をいただいた。
その方は、母方の先祖に「大塚作太夫重威」という人物がいて、その子孫に当たるということだったのだが、これがなかなか興味深い。
武蔵研究では超絶なデータ量を誇る
宮本武蔵 (丹治峯均筆記)さんのサイト
http://www.geocities.jp/themusasi2de/houkin/d100.html
によれば、新免武蔵守玄信(みやもとむさし)にはじまる剣術の流派は、福岡藩の
大塚作太夫重寧―大塚初平藤郷→
と伝達されて大塚派を形成する。
また、おなじく
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によると、大塚派の詳細は五輪書の継承記録から
大塚重寧→ 大塚藤郷→ 大塚重庸→ 大塚重任→ 大塚重正
であることがわかる。
この時、誰が「作太夫」を名乗ったかについては不明だが、興味深いのは、ご連絡を下さった方の先祖「作太夫重威」と名前が異なる点である。
となると、重寧は作太夫であったことがわかっているので、おそらく重威は、重寧の父親だったのではないか、と推測したのだが、どうやら逆に重正のあとの可能性が高い。
ご連絡を下さった方の考察では、「15代の作太夫」であり、もっとも年代が若いのではないか、ということだが、恐らくその可能性が正しいと思う。
これまた同じく
宮本武蔵(異本集 水之巻)さんのサイト
http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/gv02.html
の大塚一族の最後「追記」として「作太夫重威」の名前が載っている。明治2年。
ぜひ機会があれば作太夫家の系図かなんかを探してみたいところである。
さらに興味深いのは、大塚藤郷以外、基本的に「重」の通字をみな使っていることから、おおむね大塚派の二天流は家督を継いだもの・近しい身内に継承されているのであろう。
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2015年1月20日火曜日
<番外編>恒ちゃんのおかげで今のボクがある・・・のかも?! 信長協奏曲後日談
ここのところ、金曜日は3週連続でルパン三世を放送するらしい日テレ!
先週は「カリオストロの城」をやっておりました。
あなたの心を盗んでしまいたい、大塚某ですこんにちは。
いわずと知れた日本漫画・アニメ界の大名作といっていいルパン三世ですが、作者のモンキー・パンチさんは北海道の浜中町という寒村出身です。
私も釧路管内に住んでいたことがあるので、浜中町がどういうところかは、よくよく知っております。隣の厚岸の道の駅に、よくカキの料理を食べに行っておりました。
その浜中町で、僻地医療に従事なさっていた道下先生というすごい人がいて、その人のもとでレントゲン助手をしていたのが、はるか昔のモンキー・パンチ氏です。
道下先生やモンキー・パンチ青年の奮闘はドラマになったり、NHK「プロジェクトX」で取り上げられたりしていたので、ご存知の方も多いかもしれません。
==========
さて、そんなルパン三世ですが、実は「アルセーヌ・ルパン」という人物はフランスと日本以外では全然有名ではないそうです。
明智小五郎のことを世界で知っている人はほとんどいませんが、日本では誰もが知っているみたいなもんでしょうか。
きっとコナン君はクールジャパンで海外でも有名でしょうが、毛利小五郎がなんで小五郎なのかは、誰も知らないはずです。外国の人は。
おなじ理屈で言えば、金田一少年のおじいちゃんのことは、外国人にはよくわからないと思います。いくら金田一くんがマンガで輸出されていても、外国の人は古谷一行さんをよく知らないからです(苦笑)
もとい。
話がずれましたが、日本人がアルセーヌ・ルパンのことをよく知っているのは、実はある人物のおかげなのだそうです。
それは、みなさんも一度は公民館や小学校の図書室で読んだり見たことがあるはずの
「ポプラ社刊 ルパンシリーズ」
(画像はポプラ社さんより引用)
を書いた南 洋一郎さん!!
このシリーズは、ルパンだけでなく、「江戸川乱歩の少年探偵団」と「名探偵ホームズ」の計3シリーズが出版されているのはご承知のとおりです。
日本人がルパンをよく知っているのは、このポプラ社の全集のおかげだそうです。
ちなみに江戸川乱歩モノは、乱歩自身が「大人版」と「子供版」を書いているというすごい内容で、ポプラ社版から怪人二十面相にハマッた人が大人になって乱歩小説を読むと
そのあまりのエロさにくらくらする
という大人の階段登る仕様になっているのも有名なお話。
==========
さて、そんなルパンシリーズやホームズシリーズ・二十面相シリーズをなんと
幼稚園児のうちに全巻読破した
のが、誰あろう幼児大塚某であり、これはもう江戸川乱歩先生と南洋一郎先生と、山中峯太郎先生(ホームズの翻訳)のおかげで現在の私がいるようなもんです。
幼児大塚某は、西宮市の移動図書館巡回車の中にある本を片っ端から読み漁り、次に小学校と中学校に進むにつれ、これまた図書館の本という本を全部読んでしまうという
変態
な活動に勤しみます。
さらに、本の虫と化した大塚某は、読むだけには飽き足らず「小説を書きたい!」と思い始め、大学は文学部日本文学専攻へと進学、しかし、突然「表現すること」よりも研究することのほうが面白くなってしまい
近世江戸文学プチマニア → 国語教師 → 大塚研究者
へと至ります。
それらもすべてポプラ社のおかげといっても過言ではありません。
==========
さて、そんな大塚某を導いてしまった南洋一郎先生は、本名を池田宜政(いけだよしまさ)といいます。
ん?なんか戦国武将みたいな名前だな、と思ったあなた!するどい!
ウィキペディアより 南 洋一郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E4%B8%80%E9%83%8E
そう、池田氏は誰あろう「信長協奏曲」で小栗旬くんを第一に助けていた
池田恒興(いけだつねおき つねちゃん)
の(おとうさんの)子孫なのだそうです。
それも恒ちゃんが長男で、その弟の家系が南先生に繋がるそうですから、よくぞ織田家とともに生き残ってくれた!という感じ(^^
いつもこのブログでは、戦国のみなさんと現在のみなさんのご縁をつなぐ活動にいそしんでいるわけですが、まさか恒ちゃんの一族のおかげで、
大塚某が文学変態の道へ進む
ことになろうとは神のみぞ知る驚きでありました。
先週は「カリオストロの城」をやっておりました。
あなたの心を盗んでしまいたい、大塚某ですこんにちは。
いわずと知れた日本漫画・アニメ界の大名作といっていいルパン三世ですが、作者のモンキー・パンチさんは北海道の浜中町という寒村出身です。
私も釧路管内に住んでいたことがあるので、浜中町がどういうところかは、よくよく知っております。隣の厚岸の道の駅に、よくカキの料理を食べに行っておりました。
その浜中町で、僻地医療に従事なさっていた道下先生というすごい人がいて、その人のもとでレントゲン助手をしていたのが、はるか昔のモンキー・パンチ氏です。
道下先生やモンキー・パンチ青年の奮闘はドラマになったり、NHK「プロジェクトX」で取り上げられたりしていたので、ご存知の方も多いかもしれません。
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さて、そんなルパン三世ですが、実は「アルセーヌ・ルパン」という人物はフランスと日本以外では全然有名ではないそうです。
明智小五郎のことを世界で知っている人はほとんどいませんが、日本では誰もが知っているみたいなもんでしょうか。
きっとコナン君はクールジャパンで海外でも有名でしょうが、毛利小五郎がなんで小五郎なのかは、誰も知らないはずです。外国の人は。
おなじ理屈で言えば、金田一少年のおじいちゃんのことは、外国人にはよくわからないと思います。いくら金田一くんがマンガで輸出されていても、外国の人は古谷一行さんをよく知らないからです(苦笑)
もとい。
話がずれましたが、日本人がアルセーヌ・ルパンのことをよく知っているのは、実はある人物のおかげなのだそうです。
それは、みなさんも一度は公民館や小学校の図書室で読んだり見たことがあるはずの
「ポプラ社刊 ルパンシリーズ」
(画像はポプラ社さんより引用)
を書いた南 洋一郎さん!!
このシリーズは、ルパンだけでなく、「江戸川乱歩の少年探偵団」と「名探偵ホームズ」の計3シリーズが出版されているのはご承知のとおりです。
日本人がルパンをよく知っているのは、このポプラ社の全集のおかげだそうです。
ちなみに江戸川乱歩モノは、乱歩自身が「大人版」と「子供版」を書いているというすごい内容で、ポプラ社版から怪人二十面相にハマッた人が大人になって乱歩小説を読むと
そのあまりのエロさにくらくらする
という大人の階段登る仕様になっているのも有名なお話。
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さて、そんなルパンシリーズやホームズシリーズ・二十面相シリーズをなんと
幼稚園児のうちに全巻読破した
のが、誰あろう幼児大塚某であり、これはもう江戸川乱歩先生と南洋一郎先生と、山中峯太郎先生(ホームズの翻訳)のおかげで現在の私がいるようなもんです。
幼児大塚某は、西宮市の移動図書館巡回車の中にある本を片っ端から読み漁り、次に小学校と中学校に進むにつれ、これまた図書館の本という本を全部読んでしまうという
変態
な活動に勤しみます。
さらに、本の虫と化した大塚某は、読むだけには飽き足らず「小説を書きたい!」と思い始め、大学は文学部日本文学専攻へと進学、しかし、突然「表現すること」よりも研究することのほうが面白くなってしまい
近世江戸文学プチマニア → 国語教師 → 大塚研究者
へと至ります。
それらもすべてポプラ社のおかげといっても過言ではありません。
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さて、そんな大塚某を導いてしまった南洋一郎先生は、本名を池田宜政(いけだよしまさ)といいます。
ん?なんか戦国武将みたいな名前だな、と思ったあなた!するどい!
ウィキペディアより 南 洋一郎
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%B4%8B%E4%B8%80%E9%83%8E
そう、池田氏は誰あろう「信長協奏曲」で小栗旬くんを第一に助けていた
池田恒興(いけだつねおき つねちゃん)
の(おとうさんの)子孫なのだそうです。
それも恒ちゃんが長男で、その弟の家系が南先生に繋がるそうですから、よくぞ織田家とともに生き残ってくれた!という感じ(^^
いつもこのブログでは、戦国のみなさんと現在のみなさんのご縁をつなぐ活動にいそしんでいるわけですが、まさか恒ちゃんの一族のおかげで、
大塚某が文学変態の道へ進む
ことになろうとは神のみぞ知る驚きでありました。
2015年1月16日金曜日
<100>三潴地方の「益田」さん
当家の大塚氏のルーツについて研究する上で、見逃せないデータというのがある。
それは、同じ地域やムラに存在する大塚以外の姓氏についての分布なのだが、たとえば当家大塚氏の周辺に
”吉田” ”馬場” ”古賀”
といった姓が多いことから「ん?どうやらこれはみな少弐由来の苗字が固まっているぞ」というような考察を加えることが可能になるわけだ。
さて、そうした中で今回特に注目したいのは、私の実家エリアでいえば大塚氏についで多い「益田」という姓についてである。
もちろん、上に挙げたような吉田馬場古賀などの苗字も多いのだが、件数的には「益田」姓はそこそこの分布を誇っている。
さあ、では三潴地方における「益田」姓とはいったいどのような氏族なのであろうか。
==========
日本全体における「益田」氏の動向は、やはり何をさしおいても島根県の「益田」氏がビッグネームだと言えるだろう。
現在でも島根には「益田市」が存在するように、益田という氏族や地名は島根では有名である。
益田市のサイトより
http://www.city.masuda.lg.jp/kanko/masudashi_01.html
上記のとおり、益田市のサイトでは「益田氏」について本姓藤原氏であり、石見国司として赴任した氏族の末だと解説されている。
==========
そのため、益田・増田姓はどうしてもこの島根益田氏との関連がまっさきに議論されるのだが、当家周辺のいわゆる「三潴益田氏」は、島根系ではないように思われる。
では、いったいこの益田氏はどこ由来なのであろう。
その一つのヒントが、やはり肥前にある。
古樹紀之房間さんのサイトより
肥前益田氏の系譜
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/masuda.htm
私も未調査だったのでついさっき知ったのだが、佐賀の与賀に「増田」さんがおられるという。
与賀・本庄といえば、肥前研究では「ど真ん中ストライク」みたいなもので、少弐=龍造寺=鍋島軍団の「本拠地」そのものみたいな場所にあたる。
そこに「増田」さんがいて、当家大塚氏の周辺に「益田」さんがいるというのは、なかなか面白い!
管理人さんの解説では、(もうほぼ全部書いてくださっているのだが)
『藤原姓高木氏流、益田氏』
というものが存在するらしい。
この高木氏、なんと肥前一の宮「河上神社の宮司」の一族だと言う。
さがの歴史・文化お宝帳
http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=1819
にかなりくわしいことが載っているのだが、高木氏こそが肥前龍造寺の地頭を命じられ、そこから益田をはじめ龍造寺氏本体をも生んでゆくルーツなのである。
もう、河上神社が出てきたあたりで、当ブログファンはズッキュン頭を打ちぬかれた気分になっているはずだが、そうなのだ。
いわゆる肥前一の宮をどこに見るか、という古代神社系支配史を検討するに当たって、古い時代は「河上社」に権力があり、そこから「与賀・本庄神社系」へと権力が移動してゆくのが、佐賀の権力構造を見る上でのバックグラウンドそのものなのである。
河上社の宮司が高木氏 そしてその末裔の益田氏
本庄神社の宮司は大塚氏
与賀神社の宮司は千布氏 神代氏の嫁の実家
もう、なんとなく全容が見えてきたじゃん!!
私の実家のエリアのほぼ大半の姓氏が、「少弐=龍造寺ライン」の本流に近いところばかり集まっているのはもう偶然ではないってことであろう。
こうなると、ムラのすべての苗字を再検討するぐらいの勢いがほしいところだが、こりゃ本当に、うちの実家の周囲は
佐賀勢の三潴における兵団駐屯地
だったのだということが伺えるというものである。
それは、同じ地域やムラに存在する大塚以外の姓氏についての分布なのだが、たとえば当家大塚氏の周辺に
”吉田” ”馬場” ”古賀”
といった姓が多いことから「ん?どうやらこれはみな少弐由来の苗字が固まっているぞ」というような考察を加えることが可能になるわけだ。
さて、そうした中で今回特に注目したいのは、私の実家エリアでいえば大塚氏についで多い「益田」という姓についてである。
もちろん、上に挙げたような吉田馬場古賀などの苗字も多いのだが、件数的には「益田」姓はそこそこの分布を誇っている。
さあ、では三潴地方における「益田」姓とはいったいどのような氏族なのであろうか。
==========
日本全体における「益田」氏の動向は、やはり何をさしおいても島根県の「益田」氏がビッグネームだと言えるだろう。
現在でも島根には「益田市」が存在するように、益田という氏族や地名は島根では有名である。
益田市のサイトより
http://www.city.masuda.lg.jp/kanko/masudashi_01.html
上記のとおり、益田市のサイトでは「益田氏」について本姓藤原氏であり、石見国司として赴任した氏族の末だと解説されている。
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そのため、益田・増田姓はどうしてもこの島根益田氏との関連がまっさきに議論されるのだが、当家周辺のいわゆる「三潴益田氏」は、島根系ではないように思われる。
では、いったいこの益田氏はどこ由来なのであろう。
その一つのヒントが、やはり肥前にある。
古樹紀之房間さんのサイトより
肥前益田氏の系譜
http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/keijiban/masuda.htm
私も未調査だったのでついさっき知ったのだが、佐賀の与賀に「増田」さんがおられるという。
与賀・本庄といえば、肥前研究では「ど真ん中ストライク」みたいなもので、少弐=龍造寺=鍋島軍団の「本拠地」そのものみたいな場所にあたる。
そこに「増田」さんがいて、当家大塚氏の周辺に「益田」さんがいるというのは、なかなか面白い!
管理人さんの解説では、(もうほぼ全部書いてくださっているのだが)
『藤原姓高木氏流、益田氏』
というものが存在するらしい。
この高木氏、なんと肥前一の宮「河上神社の宮司」の一族だと言う。
さがの歴史・文化お宝帳
http://www.saga-otakara.jp/search/detail.php?id=1819
にかなりくわしいことが載っているのだが、高木氏こそが肥前龍造寺の地頭を命じられ、そこから益田をはじめ龍造寺氏本体をも生んでゆくルーツなのである。
もう、河上神社が出てきたあたりで、当ブログファンはズッキュン頭を打ちぬかれた気分になっているはずだが、そうなのだ。
いわゆる肥前一の宮をどこに見るか、という古代神社系支配史を検討するに当たって、古い時代は「河上社」に権力があり、そこから「与賀・本庄神社系」へと権力が移動してゆくのが、佐賀の権力構造を見る上でのバックグラウンドそのものなのである。
河上社の宮司が高木氏 そしてその末裔の益田氏
本庄神社の宮司は大塚氏
与賀神社の宮司は千布氏 神代氏の嫁の実家
もう、なんとなく全容が見えてきたじゃん!!
私の実家のエリアのほぼ大半の姓氏が、「少弐=龍造寺ライン」の本流に近いところばかり集まっているのはもう偶然ではないってことであろう。
こうなると、ムラのすべての苗字を再検討するぐらいの勢いがほしいところだが、こりゃ本当に、うちの実家の周囲は
佐賀勢の三潴における兵団駐屯地
だったのだということが伺えるというものである。
2015年1月15日木曜日
<調査中> 青森県の大塚さん
北関東では、大塚姓はけっこうなメジャーネームなのですが、どんどん北上して青森に注目してみましょう。
ちなみに、青森と北海道では姓氏の分布の成り立ちが大きく異なりますので、戦国期~江戸期の苗字を追いかけて判定できる上限はここ青森まで、ということになるでしょうか。
北海道の場合は全国各地から入植しているので、別の調べ方が必要になります。
青森は、律令国名では「陸奥の国」ですが、津軽地方と南部地方という押さえ方の方がわかりやすいかもしれません。
さて、青森の大塚氏です。
弘前大学 さんのサイトより 大塚甲山
http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/1393/1/AN00211819_10_56.pdf#search='%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%A7%93+%E9%9D%92%E6%A3%AE%E7%9C%8C'
大塚甲山は明治期の詩人だそうですが、その先祖について若干の説明があるので、参考になります。
”父方の先祖は津田姓の江州(滋賀)の武士だったが、没落しおなじ江州の商人「大塚屋」が南部藩に御用商人として入り、彼に随伴してきた津田氏が暖簾分けで大塚姓を貰った”
といった話が載っているので、この大塚姓のもとのルーツは滋賀にあることがわかります。
大塚屋そのものは盛田姓を名乗ったらしく、このあたりの「苗字」に対する理論や受け止め方は現代のそれとはかなりずれがありそうです。
商人大塚屋自体は大塚氏ではなかった、ということでしょうか。
弘前藩・斗南藩の大塚氏
http://24senzo.net/blog-category-7.html
先祖探しでは第一人者の丸山先生のサイトに弘前藩・斗南藩の分限帳リストがあります。
いずれも「大塚姓」があることから、この地方に一定数の大塚氏が存在することがわかります。
詳細については、丸山先生が典拠を挙げておられますので、そのあたりの分限帳を読めば実名もわかってくるかと。
このうち「明治14年斗南藩分限帳」については
呆嶷館 さんのサイト
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame7/tonami-meibo.htm
に収録がありました。
これによると三戸郡五戸村に3名の大塚氏があり、この地区に大塚姓が関係ありそうだと推定できます。
ちなみに、青森と北海道では姓氏の分布の成り立ちが大きく異なりますので、戦国期~江戸期の苗字を追いかけて判定できる上限はここ青森まで、ということになるでしょうか。
北海道の場合は全国各地から入植しているので、別の調べ方が必要になります。
青森は、律令国名では「陸奥の国」ですが、津軽地方と南部地方という押さえ方の方がわかりやすいかもしれません。
さて、青森の大塚氏です。
弘前大学 さんのサイトより 大塚甲山
http://repository.ul.hirosaki-u.ac.jp/dspace/bitstream/10129/1393/1/AN00211819_10_56.pdf#search='%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%A7%93+%E9%9D%92%E6%A3%AE%E7%9C%8C'
大塚甲山は明治期の詩人だそうですが、その先祖について若干の説明があるので、参考になります。
”父方の先祖は津田姓の江州(滋賀)の武士だったが、没落しおなじ江州の商人「大塚屋」が南部藩に御用商人として入り、彼に随伴してきた津田氏が暖簾分けで大塚姓を貰った”
といった話が載っているので、この大塚姓のもとのルーツは滋賀にあることがわかります。
大塚屋そのものは盛田姓を名乗ったらしく、このあたりの「苗字」に対する理論や受け止め方は現代のそれとはかなりずれがありそうです。
商人大塚屋自体は大塚氏ではなかった、ということでしょうか。
弘前藩・斗南藩の大塚氏
http://24senzo.net/blog-category-7.html
先祖探しでは第一人者の丸山先生のサイトに弘前藩・斗南藩の分限帳リストがあります。
いずれも「大塚姓」があることから、この地方に一定数の大塚氏が存在することがわかります。
詳細については、丸山先生が典拠を挙げておられますので、そのあたりの分限帳を読めば実名もわかってくるかと。
このうち「明治14年斗南藩分限帳」については
呆嶷館 さんのサイト
http://homepage3.nifty.com/naitouhougyoku/frame7/tonami-meibo.htm
に収録がありました。
これによると三戸郡五戸村に3名の大塚氏があり、この地区に大塚姓が関係ありそうだと推定できます。
2015年1月14日水曜日
<調査中・99>姫路近辺の大塚さんへ ~播陽古城記を読む~
ちょいと故あって
「多可郡誌」
近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978710
GoogleBooks版
http://books.google.co.jp/books/about/%E5%A4%9A%E5%8F%AF%E9%83%A1%E8%AA%8C.html?id=cARkVCEWJ6cC&redir_esc=y
を読み込んでいたのだが、なかなか興味深いことがいろいろあったので報告がてら筆を執った次第である。
多可郡というのは、現在の兵庫県西脇市を含んだ一帯で、播磨地方で言えば「北播磨」にあたる地域である。
もう、このブログではおなじみではあるものの、ネタ的にかなり初期に戻ることになる「播州赤松氏系統」の領域であり、いわゆる「赤松系大塚氏」を含んだ赤松氏の調査対象に含まれるのがこのエリア、ということになる。
当ブログで播磨の大塚氏に注目していたのは<36>章前後なので、現在すでに<99>章を迎えるに当たってはめっちゃ昔のことのようになってしまったが、当時は真面目に三潴大塚氏のルーツを姫路に求めていたので、懐かしいったらありゃしない。
(☆結果的に、三潴大塚氏は播磨の大塚氏とは無関係です。ただし、福岡黒田藩領には、播磨由来の大塚氏がいても全く不思議ではありません)
==========
さて、多可郡誌を読んでいた直接の理由は、このエリアを拠点とした「野間衆(赤松軍団野間在留部隊)」について調べていたからで、野間衆の中心は有田(在田)氏なのだがその周辺までネチネチと調べていた次第。
ところがそれより面白いものがいろいろ出てきてしまい、気もそぞろといった感じに!!
そのひとつが「播陽古城記」からの引用で、
黒田庄村
黒田城 城主は黒田下野守重隆 秀吉に属し後徳川家康の代に至り慶長5年筑前福岡城主に封ぜらる。
多田城 城主は黒田下野守重隆嫡子官兵衛孝高 小寺美濃守職隆の嗣子となり姫路城を共に守護せり。
とある。
ほれほれやってきたよ、播磨黒田氏説!!
多可郡誌の刊行は大正12年なので、大正12年の時点で当地の教育委員会(発刊元)は江戸中期に書かれた「播陽古城記」に基づいて
「黒田官兵衛は播磨黒田城由来だもんね」ということを基本的には理解していることになる。
(ただし、播陽古城記には、「目薬売りが備前福岡を経て播磨に来た」話は書いていないので、ただあっさりと西脇黒田庄と黒田氏の関係を記しているにすぎないけど)
ついでにいえば、この記述は、(より詳しい部分に触れているかどうかはともかくとして)荘厳寺本黒田系譜と合致するところが面白い。
つまり、重隆が「黒田庄の黒田城を拠点」としていて、息子の官兵衛は小寺の柴田恭平の養子になり、二人で姫路城を守っていた、というくだりである。
==========
このあたり、どんどん攻め込んでいくと、興味がつきないので一応これくらいにしておくのだが、私は個人的には
「黒田家譜」(by貝原益軒)
「江原武鑑」(ずばり偽書)
あたりにしか近江出身黒田氏の典拠がないのだとすれば、もういい加減播磨出身黒田氏説で再構築したほうがいいっちゃない?(←福岡弁)と思うのだがいかがなものか。
それよりも、貝原益軒が、なーんでそんなことを書いたのかのほうに興味があったりして、そこに何がしかの謎が秘められているような気が!!
==========
さて、のっけから話がズレまくっているけれど、今日のテーマは姫路の大塚さんに読んでほしい「播陽古城記」のお話。
近代デジタルライブラリ版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541632
いいよ~。読んでるだけでわくわくする!
(ちょっと気になるのは、この近デジ版は、多可郡誌の典拠のバージョンとは多少記述が異なるような気がするところ。写本がいくつかあるのだろうか)
さて、この本の見所を一挙紹介するとすれば、こんな感じ!
まず、しょっぱなから最後まで 「城主 赤松誰それ」が連綿と続く感じは、この地における赤松一族の隆盛を偲ばせるというもの。
大河で龍野赤松氏に向かって、「おのれ赤松~」とか言ってましたが、あたり一面みんな赤松なんだってば。
コマ13にはあの「御着城 城主 小寺政職(片岡鶴太郎)」登場! 「村上源氏 宇野家の末ナリ」なんて書いてあり、ほうほう、小寺氏は宇野氏から続いているのかということがわかる。
ちなみに、村上源氏から分かれた宇野氏のほうが系図的には先に登場し、宇野を名乗らなかったものの子孫に赤松円心がいることになっている。
あるいは赤松氏のもとの姓として「宇野姓」が本姓だと考える向きもあるわけで。
というわけで、いずれにせよ「赤松=小寺」ラインが元来同族的集合体であることがわかるというもの。
コマ15には、「上野砦 領主 大塚将監」の記述! 赤松氏幕下永正年久。
これが言わずとしれた後藤又兵衛のお兄ちゃんです。
コマ19には「三木城 城主 別所長治」登場。羽柴秀吉と確執なんて書いてある。泣けるね。
コマ20は「白山城 書写山 城主 羽柴筑前前秀吉」の記述! 天正五年三月から居座った的な。
コマ27はいよいよ「姫路城」大トリ!なのだが、いろいろ記載が面白い。
”文明元年に置塩城に赤松政則が移った。そこでこの城は小寺伊勢守豊職が入り、その子加賀守則職、その子美濃守職隆、その猶子美濃守祐隆が相続して守っていたが、羽柴秀吉がこの国に入ることになり、小寺祐隆はこの城を勧め、自分は妻鹿の国府山へ移動しその子孝隆まで妻鹿に住んだ。”
んんんん???
・・・どーもこの版でも、柴田恭平の養子として「美濃守祐隆」なる人物が姫路城に入ったことになってるのであるが、問題は「祐隆の子、孝隆」と書いてある部分である。
一般的には、祐隆=官兵衛の前の名前とされているのだが、どーもこの播陽古城記では
あぶない刑事の養子になったのは、官兵衛のおとん、みたいな解釈になっている。やや面白い。
なんぼなんでも、祐隆=官兵衛だとして、その子孝隆は長政であろうはずがないので、まさにこの辺は、資料によって錯綜しまくりということで。
ちなみにこの播陽古城記を書いたのは
「赤松支流浪士某 これを誌す」
だそうです。うっ。私とキャラが似てる・・・。
いやあ、歴史って本当に難しいですね。さいならさいなら、さいなら。
「多可郡誌」
近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/978710
GoogleBooks版
http://books.google.co.jp/books/about/%E5%A4%9A%E5%8F%AF%E9%83%A1%E8%AA%8C.html?id=cARkVCEWJ6cC&redir_esc=y
を読み込んでいたのだが、なかなか興味深いことがいろいろあったので報告がてら筆を執った次第である。
多可郡というのは、現在の兵庫県西脇市を含んだ一帯で、播磨地方で言えば「北播磨」にあたる地域である。
もう、このブログではおなじみではあるものの、ネタ的にかなり初期に戻ることになる「播州赤松氏系統」の領域であり、いわゆる「赤松系大塚氏」を含んだ赤松氏の調査対象に含まれるのがこのエリア、ということになる。
当ブログで播磨の大塚氏に注目していたのは<36>章前後なので、現在すでに<99>章を迎えるに当たってはめっちゃ昔のことのようになってしまったが、当時は真面目に三潴大塚氏のルーツを姫路に求めていたので、懐かしいったらありゃしない。
(☆結果的に、三潴大塚氏は播磨の大塚氏とは無関係です。ただし、福岡黒田藩領には、播磨由来の大塚氏がいても全く不思議ではありません)
==========
さて、多可郡誌を読んでいた直接の理由は、このエリアを拠点とした「野間衆(赤松軍団野間在留部隊)」について調べていたからで、野間衆の中心は有田(在田)氏なのだがその周辺までネチネチと調べていた次第。
ところがそれより面白いものがいろいろ出てきてしまい、気もそぞろといった感じに!!
そのひとつが「播陽古城記」からの引用で、
黒田庄村
黒田城 城主は黒田下野守重隆 秀吉に属し後徳川家康の代に至り慶長5年筑前福岡城主に封ぜらる。
多田城 城主は黒田下野守重隆嫡子官兵衛孝高 小寺美濃守職隆の嗣子となり姫路城を共に守護せり。
とある。
ほれほれやってきたよ、播磨黒田氏説!!
多可郡誌の刊行は大正12年なので、大正12年の時点で当地の教育委員会(発刊元)は江戸中期に書かれた「播陽古城記」に基づいて
「黒田官兵衛は播磨黒田城由来だもんね」ということを基本的には理解していることになる。
(ただし、播陽古城記には、「目薬売りが備前福岡を経て播磨に来た」話は書いていないので、ただあっさりと西脇黒田庄と黒田氏の関係を記しているにすぎないけど)
ついでにいえば、この記述は、(より詳しい部分に触れているかどうかはともかくとして)荘厳寺本黒田系譜と合致するところが面白い。
つまり、重隆が「黒田庄の黒田城を拠点」としていて、息子の官兵衛は小寺の柴田恭平の養子になり、二人で姫路城を守っていた、というくだりである。
==========
このあたり、どんどん攻め込んでいくと、興味がつきないので一応これくらいにしておくのだが、私は個人的には
「黒田家譜」(by貝原益軒)
「江原武鑑」(ずばり偽書)
あたりにしか近江出身黒田氏の典拠がないのだとすれば、もういい加減播磨出身黒田氏説で再構築したほうがいいっちゃない?(←福岡弁)と思うのだがいかがなものか。
それよりも、貝原益軒が、なーんでそんなことを書いたのかのほうに興味があったりして、そこに何がしかの謎が秘められているような気が!!
==========
さて、のっけから話がズレまくっているけれど、今日のテーマは姫路の大塚さんに読んでほしい「播陽古城記」のお話。
近代デジタルライブラリ版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541632
いいよ~。読んでるだけでわくわくする!
(ちょっと気になるのは、この近デジ版は、多可郡誌の典拠のバージョンとは多少記述が異なるような気がするところ。写本がいくつかあるのだろうか)
さて、この本の見所を一挙紹介するとすれば、こんな感じ!
まず、しょっぱなから最後まで 「城主 赤松誰それ」が連綿と続く感じは、この地における赤松一族の隆盛を偲ばせるというもの。
大河で龍野赤松氏に向かって、「おのれ赤松~」とか言ってましたが、あたり一面みんな赤松なんだってば。
コマ13にはあの「御着城 城主 小寺政職(片岡鶴太郎)」登場! 「村上源氏 宇野家の末ナリ」なんて書いてあり、ほうほう、小寺氏は宇野氏から続いているのかということがわかる。
ちなみに、村上源氏から分かれた宇野氏のほうが系図的には先に登場し、宇野を名乗らなかったものの子孫に赤松円心がいることになっている。
あるいは赤松氏のもとの姓として「宇野姓」が本姓だと考える向きもあるわけで。
というわけで、いずれにせよ「赤松=小寺」ラインが元来同族的集合体であることがわかるというもの。
コマ15には、「上野砦 領主 大塚将監」の記述! 赤松氏幕下永正年久。
これが言わずとしれた後藤又兵衛のお兄ちゃんです。
コマ19には「三木城 城主 別所長治」登場。羽柴秀吉と確執なんて書いてある。泣けるね。
コマ20は「白山城 書写山 城主 羽柴筑前前秀吉」の記述! 天正五年三月から居座った的な。
コマ27はいよいよ「姫路城」大トリ!なのだが、いろいろ記載が面白い。
”文明元年に置塩城に赤松政則が移った。そこでこの城は小寺伊勢守豊職が入り、その子加賀守則職、その子美濃守職隆、その猶子美濃守祐隆が相続して守っていたが、羽柴秀吉がこの国に入ることになり、小寺祐隆はこの城を勧め、自分は妻鹿の国府山へ移動しその子孝隆まで妻鹿に住んだ。”
んんんん???
・・・どーもこの版でも、柴田恭平の養子として「美濃守祐隆」なる人物が姫路城に入ったことになってるのであるが、問題は「祐隆の子、孝隆」と書いてある部分である。
一般的には、祐隆=官兵衛の前の名前とされているのだが、どーもこの播陽古城記では
あぶない刑事の養子になったのは、官兵衛のおとん、みたいな解釈になっている。やや面白い。
なんぼなんでも、祐隆=官兵衛だとして、その子孝隆は長政であろうはずがないので、まさにこの辺は、資料によって錯綜しまくりということで。
ちなみにこの播陽古城記を書いたのは
「赤松支流浪士某 これを誌す」
だそうです。うっ。私とキャラが似てる・・・。
いやあ、歴史って本当に難しいですね。さいならさいなら、さいなら。
2015年1月10日土曜日
『大宰少弐武藤氏 ~その栄光と衰亡~』渡辺文吉 を読む ”大塚氏の発見はいつか?”
ずっと読みたかったのですが、古本であまり出ていなかったので未読だった
『大宰少弐武藤氏 ~その栄光と衰亡~』 渡辺文吉 1979
をようやく読むことができました。
中世九州の一大名族である「少弐」氏の概略を知る本、というのは意外に出版されておらず、基本的には、上記の本と、あと一冊
『武藤少弐興亡史』 渡辺文吉 海鳥社 1989
がありますが、この2冊がもっともベースを押さえた物、と言えるのではないでしょうか。
ちなみに、少弐関連資料の一覧は
太宰府市のサイトより
http://www.city.dazaifu.lg.jp/download/nenpo4-72-84.pdf#search='%E6%AD%A6%E8%97%A4%E5%B0%91%E5%BC%90+%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%96%87%E5%90%89'
にあり、たいへん参考になります。
(ところが、このリストに上がっている文献の大半は、少弐氏を部分部分で取り上げたものが多いため、やはり概論として少弐氏の全体像を知るには、渡辺文吉氏の2著がベターということになるでしょうか)
==========
さて、上記の本を読みたかったのは無論、「大塚氏」についての取り扱いがどうなっているのかを知るためです。
ところが、興味深いことに、渡辺氏はこの時点では少弐庶流の「大塚氏」についてまったく言及していません。
各系図の添付もあるのですが、そこに「馬場・横岳」などの他の諸流についての始祖等について言及されているのに、なぜか
大塚
氏について記載がなかったのです。
「北肥戦誌」や「歴代鎮西誌」を知っているものならば、当然「大塚氏」が少弐関連庶流であることには気付くのですが、渡辺氏は、1979年の段階では、あえてそこには踏み込んで書かなかったということになるでしょう。
一方、「武藤少弐興亡史」になると、添付系図に「大塚四郎氏提供」の大塚系図が収録されるようになり、渡辺氏はこの時点で少弐諸流としての「大塚氏」を論説に組み込むようになります。
つまり、1979年から1989年の10年間の間に、少弐大塚氏は「歴史上、再発見された」といっても過言ではないかもしれません(笑)
それほどまでに、当家を含む北部九州の大塚氏は「謎につつまれていた」のです。
☆ちなみになぜ「発見」じゃなくて「再発見」かと言うと、もっとも最初に発見したのは
馬渡俊継
と
犬塚盛純
の二人だと言えるからです。
馬渡俊継は正徳年間に北肥戦誌を書きますので、その時には「誰かからの聞き書き」もしくは「なんらかの資料」を所持して「大塚氏は少弐の末裔」ということを明示するわけです。
馬渡(もうたり)氏の系譜については
匡隆信朋 さんのサイト
http://nob7ba.web.fc2.com/nob/hai02.html
にかなり詳しいので、ご参照のこと。
一方、犬塚盛純は元禄年間に「歴代鎮西志」を書きますが、こちらは少弐貞経の息子に大塚氏祖を据えているため、何らかの「系譜のはしきれ」のようなものを見たか書き写しているはずです。
ところが、その原典が現存しているかどうかは定かではなく、あるいは口伝によるものだったのかもしれません。
==========
それではここで、少弐系大塚氏が、近現代においてどのように再発見されたかを時系列で読み解いてみたいと思います。
<刊行年一覧>
『国史叢書 北肥戦誌』 全2巻 1918(T7)
肥前叢書 第一巻 1937(S12)
肥前叢書 第二巻(北肥戦誌収録) 1939(S14)
『大宰少弐武藤氏 ~その栄光と衰亡~』 渡辺文吉 1979(S54)
「少弐氏と宗氏 第3号(大塚系譜収録 大塚四郎提供)」 1984(S59)
『武藤少弐興亡史』 渡辺文吉 海鳥社 1989(H1)
歴代鎮西志 1992(H4)
まず、国史叢書版「北肥戦誌」が大正7年に出ます。この時点で「大塚という苗字が少弐氏に関わりがあるらしい」というところまでは一般書として表に出てきます。
ところが、そこから渡辺文吉氏の最初の著作「大宰少弐武藤氏」までは、おおきな進展がなく、大塚氏はまだ埋もれたまま推移していました。
しかし、渡辺氏の研究グループである”少弐・宗体制懇話会”の研究によって、佐賀の大塚氏が所有する系譜が発見されます。
その資料が初出となったのが「少弐氏と宗氏第3号」であり、この時点で少弐大塚氏の系図発見が表舞台に出てきたわけです。
渡辺氏の第二の著作「武藤少弐興亡史」では、この成果が引用されていますので、少弐=大塚ラインはさらに一般に広く知られるようになってきました。
念押しのように、平成4年には佐賀藩門外不出の「歴代鎮西志」が完本として表に出てきます。これで、一般の研究者にとっても、少弐=大塚ラインの存在が容易に確かめられるようになってきたというわけです。
つまり、少弐=大塚ラインは、歴史研究の上で再発見されてたった30年くらいしか経っていない新しいデータだということです。
私はいま40歳ですから、私が10歳の頃には、研究者のほとんど誰も「大塚の由来」を知らなかった、ということになります。
だからこそ、太田亮氏・千鹿野茂氏らの先行研究に少弐系大塚氏の存在が出てこなかったのです。
そして今、ネットというツールを通して、ワタクシ大塚某がこの論説をバリバリ広めようとしておりますので、ぜひみなさんもその輪に入ってくださいね(笑)
少弐大塚氏は発見されてまだまだ30年しか経っていない最先端の研究分野です。
ぜひ!別系統の大塚系譜をお持ちの方がおられたらご連絡ください!
『大宰少弐武藤氏 ~その栄光と衰亡~』 渡辺文吉 1979
をようやく読むことができました。
中世九州の一大名族である「少弐」氏の概略を知る本、というのは意外に出版されておらず、基本的には、上記の本と、あと一冊
『武藤少弐興亡史』 渡辺文吉 海鳥社 1989
がありますが、この2冊がもっともベースを押さえた物、と言えるのではないでしょうか。
ちなみに、少弐関連資料の一覧は
太宰府市のサイトより
http://www.city.dazaifu.lg.jp/download/nenpo4-72-84.pdf#search='%E6%AD%A6%E8%97%A4%E5%B0%91%E5%BC%90+%E6%B8%A1%E8%BE%BA%E6%96%87%E5%90%89'
にあり、たいへん参考になります。
(ところが、このリストに上がっている文献の大半は、少弐氏を部分部分で取り上げたものが多いため、やはり概論として少弐氏の全体像を知るには、渡辺文吉氏の2著がベターということになるでしょうか)
==========
さて、上記の本を読みたかったのは無論、「大塚氏」についての取り扱いがどうなっているのかを知るためです。
ところが、興味深いことに、渡辺氏はこの時点では少弐庶流の「大塚氏」についてまったく言及していません。
各系図の添付もあるのですが、そこに「馬場・横岳」などの他の諸流についての始祖等について言及されているのに、なぜか
大塚
氏について記載がなかったのです。
「北肥戦誌」や「歴代鎮西誌」を知っているものならば、当然「大塚氏」が少弐関連庶流であることには気付くのですが、渡辺氏は、1979年の段階では、あえてそこには踏み込んで書かなかったということになるでしょう。
一方、「武藤少弐興亡史」になると、添付系図に「大塚四郎氏提供」の大塚系図が収録されるようになり、渡辺氏はこの時点で少弐諸流としての「大塚氏」を論説に組み込むようになります。
つまり、1979年から1989年の10年間の間に、少弐大塚氏は「歴史上、再発見された」といっても過言ではないかもしれません(笑)
それほどまでに、当家を含む北部九州の大塚氏は「謎につつまれていた」のです。
☆ちなみになぜ「発見」じゃなくて「再発見」かと言うと、もっとも最初に発見したのは
馬渡俊継
と
犬塚盛純
の二人だと言えるからです。
馬渡俊継は正徳年間に北肥戦誌を書きますので、その時には「誰かからの聞き書き」もしくは「なんらかの資料」を所持して「大塚氏は少弐の末裔」ということを明示するわけです。
馬渡(もうたり)氏の系譜については
匡隆信朋 さんのサイト
http://nob7ba.web.fc2.com/nob/hai02.html
にかなり詳しいので、ご参照のこと。
一方、犬塚盛純は元禄年間に「歴代鎮西志」を書きますが、こちらは少弐貞経の息子に大塚氏祖を据えているため、何らかの「系譜のはしきれ」のようなものを見たか書き写しているはずです。
ところが、その原典が現存しているかどうかは定かではなく、あるいは口伝によるものだったのかもしれません。
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それではここで、少弐系大塚氏が、近現代においてどのように再発見されたかを時系列で読み解いてみたいと思います。
<刊行年一覧>
『国史叢書 北肥戦誌』 全2巻 1918(T7)
肥前叢書 第一巻 1937(S12)
肥前叢書 第二巻(北肥戦誌収録) 1939(S14)
『大宰少弐武藤氏 ~その栄光と衰亡~』 渡辺文吉 1979(S54)
「少弐氏と宗氏 第3号(大塚系譜収録 大塚四郎提供)」 1984(S59)
『武藤少弐興亡史』 渡辺文吉 海鳥社 1989(H1)
歴代鎮西志 1992(H4)
まず、国史叢書版「北肥戦誌」が大正7年に出ます。この時点で「大塚という苗字が少弐氏に関わりがあるらしい」というところまでは一般書として表に出てきます。
ところが、そこから渡辺文吉氏の最初の著作「大宰少弐武藤氏」までは、おおきな進展がなく、大塚氏はまだ埋もれたまま推移していました。
しかし、渡辺氏の研究グループである”少弐・宗体制懇話会”の研究によって、佐賀の大塚氏が所有する系譜が発見されます。
その資料が初出となったのが「少弐氏と宗氏第3号」であり、この時点で少弐大塚氏の系図発見が表舞台に出てきたわけです。
渡辺氏の第二の著作「武藤少弐興亡史」では、この成果が引用されていますので、少弐=大塚ラインはさらに一般に広く知られるようになってきました。
念押しのように、平成4年には佐賀藩門外不出の「歴代鎮西志」が完本として表に出てきます。これで、一般の研究者にとっても、少弐=大塚ラインの存在が容易に確かめられるようになってきたというわけです。
つまり、少弐=大塚ラインは、歴史研究の上で再発見されてたった30年くらいしか経っていない新しいデータだということです。
私はいま40歳ですから、私が10歳の頃には、研究者のほとんど誰も「大塚の由来」を知らなかった、ということになります。
だからこそ、太田亮氏・千鹿野茂氏らの先行研究に少弐系大塚氏の存在が出てこなかったのです。
そして今、ネットというツールを通して、ワタクシ大塚某がこの論説をバリバリ広めようとしておりますので、ぜひみなさんもその輪に入ってくださいね(笑)
少弐大塚氏は発見されてまだまだ30年しか経っていない最先端の研究分野です。
ぜひ!別系統の大塚系譜をお持ちの方がおられたらご連絡ください!
2015年1月9日金曜日
【新年特別企画】最速で字が上手くなる『ミミズ文字トレーニング』
全国の「大塚氏・大塚姓」をめぐる旅でお届けしている『俺ん家コード ~武家 大塚氏の源流を求めて~』ブログですが、少し寄り道をして
特別編
を織り交ぜながらお届けしたいと思います。
昨年、自分の父親の生まれた実家へ再訪問して、祖父が残した神社への寄付者一覧名簿(石塔・石柱)があることをおばに教えてもらったので、さっそく見に行ってきたわけですが、きちんと
「筆書 大塚<祖父の名>」
と石柱に彫り込まれているのを見ると、ああ、おじいちゃんはやはり字が上手だったのだ、と感慨深いものがありました。
実はこの碑文の話はなぜかうちの奥さんが
「昔、お義父さんから聞いたことあるよ」
と言っており、私だけが覚えていないか、もしくは知らなかったらしいです(^^;
おまけに、面白いことに、祖父だけでなく、父も、そして私の妹も特に書道を習ったわけではないのに
めちゃくちゃ字がきれい
だったので、字が汚い私は「おまえはおかんの子やな」とバカにされたものです。
ところが、それほど字が上手ではなかった私ですが、とある「秘法」によって、見違えるほど字が上手になった、という経験を持っています。
まさに超魔術状態!
今では、誰からも「大塚さんは字がうまいねえ」と言われてしまうのですが、私自身は「秘法を使ってるだけでニセモノなので、本当にうまいのは、おとんとか妹なんだけど・・・」と心の中で恐縮している状態なわけで。
それでも、就職活動を控えた学生の皆さんなど「少しでも字がきれいになりたい!それも最速で!」と思っておられる方がいれば助けになるんじゃないかと、
このブログをお借りして秘法を伝授
する所存です。
ウソだと思ったら、試してみてください(笑)
本当は字がめちゃくちゃ汚い大塚某が、言うのですから間違いない!
本当は字がめちゃくちゃ汚い大塚某が、言うのですから間違いない!
==========
■この「字が最速で上手くなるトレーニング」は、京都のとある大学で日本文学を専門に学んだワタクシ大塚某が発見した『全く新しい練習法』です。
■ワタクシ大塚某の専門である『近世国文学』の英知を結集した秘法中の秘法、それが『ミミズ文字トレーニング』です。
■美しいお手本を書き写す必要は全くありません。むしろ、『ミミズが這ったような字』を、けっこういい加減になぞるだけ!
■ミミズ文字トレーニングは、1日・3日・1週間・ごとに成果が出ます。一度体が覚えてしまうと、元の文字には戻りません。
■どんな下手な字を書く人でも、ある程度は「実用的なそれらしい美しさ」をゲットできます。なので即効で役に立ちます。
==========
<用意するもの>
Bくらいの鉛筆 「ミミズ文字トレーニング練習セット」(リンクにあります)
練習セット(お手本用)
http://yahoo.jp/box/pFiEtS
練習セット(うす墨 なぞりやすいバージョン)
http://yahoo.jp/box/lpvmIA
<練習の仕方>
シートの1から7まで、とにかく1語句について3回ずつくらい鉛筆でなぞってください。
基本的にはただ、それだけでOK。
☆ワンセットのトレーニングで効果が現れない!という人は、おなじことを何度も繰り返してください。
人によっては最速で効果が現れますが、時間がかかる人もいます。
2015年1月8日木曜日
あけましておめでとうございます m(_ _)m 幕末のご先祖さまに会いに行こう!
日本中の”大塚”さんの謎を解くこのブログも、おかげさまでまるまる1年!
スタートしたのは2013年の12月でしたが、その頃は、こんな巨大(笑)ブログになるとは思ってもおりませんでした。
まあ、それだけ日本中の大塚さんの関心を集めているということでもあるので、本年もさらなる精進に励んで参りたいと思います。
さて、昨年は大河ドラマ「軍師官兵衛ちゃん」の放映があったので、官兵衛ちゃんネタを投入することが多かったのですが、今年は「花燃ゆ」
幕末
かあ・・・。
うーん。個人的には幕末ネタはいまいち食いつけないので、当ブログにおける「ご先祖探訪」的にも取り扱いは考慮中です。
でもまあ、何度かは記事にするかもしれません。
それより何より、そもそも幕末なんてのは、ご先祖ルーツ探しの旅からすれば、
ついこの間、すぐそこ
みたいなもんです。
たいていの人は、市役所行って戸籍取るだけで「幕末くらいのご先祖」さまにはすぐ辿りつけます。
これってとってもすごいことで、別に難しい調査研究も必要とせず、手数料だけでお国が幕末のあなたの先祖を出してくれるわけですから、超入門編といったところ。
もっと難しい歴史的な資料の上でも幕末ものはたくさん現存しているので、調査はしやすいほうだと思います。
==========
さて、基本「戦国時代」をベースにわが国の在り方を再構築している当ブログですが、当ブログ的見地から語る
明治維新とは何か
という壮大なテーマについては、また日を改めて書こうと思っています。
武士の時代の戦国期から、武士の終わりの明治維新は、いろんな意味で繋がっていますが、そこにどんな理論の転換があったのか?!
薩長土肥は、なぜ維新を進めることができたのか、アーンド、どうして今でも田舎なのか?!
などなど。
==========
ちなみに、先日の「花燃ゆ」では懐かしいあの紋が出てましたね!
そう長州毛利家の「一文字に三つ星」紋です。
関係ないけど、幕末には「長州おはぎ」なんてものが流行したそうで。
京都新聞さんより
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20140912000064
いいねえ!これ、こんどまねしてみよう!!
これまたどうでもいい話ですが、吉田松陰さんはちっとも悪くないのに、つボイノリオのせいで
吉田松陰物語
が頭から離れません。(^^;;
よ、良い子は絶対に聴いてはいけないよ!!!念のため。
スタートしたのは2013年の12月でしたが、その頃は、こんな巨大(笑)ブログになるとは思ってもおりませんでした。
まあ、それだけ日本中の大塚さんの関心を集めているということでもあるので、本年もさらなる精進に励んで参りたいと思います。
さて、昨年は大河ドラマ「軍師官兵衛ちゃん」の放映があったので、官兵衛ちゃんネタを投入することが多かったのですが、今年は「花燃ゆ」
幕末
かあ・・・。
うーん。個人的には幕末ネタはいまいち食いつけないので、当ブログにおける「ご先祖探訪」的にも取り扱いは考慮中です。
でもまあ、何度かは記事にするかもしれません。
それより何より、そもそも幕末なんてのは、ご先祖ルーツ探しの旅からすれば、
ついこの間、すぐそこ
みたいなもんです。
たいていの人は、市役所行って戸籍取るだけで「幕末くらいのご先祖」さまにはすぐ辿りつけます。
これってとってもすごいことで、別に難しい調査研究も必要とせず、手数料だけでお国が幕末のあなたの先祖を出してくれるわけですから、超入門編といったところ。
もっと難しい歴史的な資料の上でも幕末ものはたくさん現存しているので、調査はしやすいほうだと思います。
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さて、基本「戦国時代」をベースにわが国の在り方を再構築している当ブログですが、当ブログ的見地から語る
明治維新とは何か
という壮大なテーマについては、また日を改めて書こうと思っています。
武士の時代の戦国期から、武士の終わりの明治維新は、いろんな意味で繋がっていますが、そこにどんな理論の転換があったのか?!
薩長土肥は、なぜ維新を進めることができたのか、アーンド、どうして今でも田舎なのか?!
などなど。
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ちなみに、先日の「花燃ゆ」では懐かしいあの紋が出てましたね!
そう長州毛利家の「一文字に三つ星」紋です。
関係ないけど、幕末には「長州おはぎ」なんてものが流行したそうで。
京都新聞さんより
http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20140912000064
いいねえ!これ、こんどまねしてみよう!!
これまたどうでもいい話ですが、吉田松陰さんはちっとも悪くないのに、つボイノリオのせいで
吉田松陰物語
が頭から離れません。(^^;;
よ、良い子は絶対に聴いてはいけないよ!!!念のため。
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