2015年3月15日日曜日

<おまけ>兵庫・播磨大塚氏の痕跡を調べてきました~

 今日は久しぶりに、予定が入っていない日曜日だったので、ドライブがてら播磨地域へ出向き、

「赤松系と思われる大塚氏」

の所在地を3箇所巡ってきました。

  家族連れで行ったので、さすがに墓所調査などはしておりませんが、それでも3地域の町・ムラに入って地区の雰囲気を確認してきました。

 なるほど少なくとも中世から続いていそうな旧家がたくさん残っており、200年近く建っていそうないぶし瓦の邸宅をお持ちの「大塚さん」も住んでおられたので、おおよその地域の成り立ちも推測できそうな感じでした。


 だんだんと、リアルなエリアに入っていくので、地域名は今回は伏せておきますが、概ね後藤又兵衛のお兄ちゃん「大塚将監」の住んだ地域から、別の町へまたがった近辺ですので、この大塚氏ももとは後藤氏だと推測しています。


 町の図書館にかなり濃い資料がたくさんありましたので、ぜひ次回は時間を作って文献調査と墓碑調査をしてみたいなあ、と思っている次第。


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 この後藤又兵衛関係の大塚氏に「抱き茗荷」の家紋を持つ家があるらしい、という情報からスタートしたこの調査なのですが、今日はさすがに現物家紋を見てはおりません。


 推測レベルですが、この町の「文化財」レベルの寺院はやはり「天台宗」が多く、書写山と同じく法道仙人を開基とする寺もあります。

 これらの天台系信仰と抱き茗荷が関係しているのではないか、と思いながら調査中。


 というわけでこのネタは続行します~。

 

2015年3月14日土曜日

<話題> 「かぐや姫の物語」 誰も知らないあれこれ祭り!

 昨日は、地上波テレビ放送で「かぐや姫の物語」をやってました(^^

 もちろん私も拝聴しましたが、なかなかすばらしい映像と物語で、うるうるきてしまいました(苦笑)



 かぐや姫といえば、いわずとしれた日本文学の最古典「竹取物語」です。創作物語とはいえ、歴史とご先祖探求をモットーとする当ブログで取り上げないわけにはいきません。

 おまけに大塚某の専門は、日本の国文学(古典)ですので、そっちの面からも捨て置くことはできません(^^;


 というわけで、今回は俺ん家コード流、「かぐや姫の物語」祭りでお届けします!


 

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 まず、この映画の原作である「竹取物語」は、日本で最も最初にかかれた文学であるとされています。

 国語の授業でも、そこは試験に出るポイントですね!


 ただ、みなさんなんとなく、「かぐや姫が十二単を着ている」といったイメージから、


 平安時代のお話かなあ


と思っているかもしれませんが、それは雰囲気です(笑)


 実際には、かぐや姫に求婚する5人の貴族がいるのですが、そのうち3人は実在が確認されており、


阿倍御主人、大伴御行、石上麻呂は全て飛鳥時代・奈良時代の人


です。


 残りの二人は、実在の人物名とは違いますが、作中の名前のつけ方などから「だいたいこの人物ではないか」という推測がついており、彼らもおなじ時代の人物だとわかっています。



 さて、飛鳥時代・奈良時代といってもピンときませんね?都でいえば、奈良の明日香宮と平城京が思い浮かびますが、ブンガク的には百人一首の


「春すぎて夏來にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香具山」


で有名な持統天皇の前後あたりをイメージしてください。お父さんは中大江皇子であった天智天皇、先帝は大海人皇子だった天武天皇といった時代です。


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 ところが、この物語、わたしたちが想像するように、十二単を着て牛車に乗っているようなかぐや姫像で、


間違いというわけではない


とも言えるから面白いのです。


 そう!たしかに舞台設定は「奈良時代のこと」と見せ掛けてありますが、このお話が書かれたのは「平安時代」であろう、と推定されるからです。


 正確な執筆年代や、作者についてはいろいろ説があるようですが、大事なのは、「書かれたのは平安時代なので、その時代の風俗についても触れてある」というわけなんです。



 なんてったって創作ですから、「古い昔のことじゃった」とその時代よりもさらに昔のお話として設定されているわけですね。時代劇とか大河ドラマみたいなもんだと思えば、そうおかしくはありません。

 そして、その頃は時代考証とか無関係なので、飛鳥時代でも牛車に乗ってたりするわけです。



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 それよりも、もっと面白いのは、なんと現存する「竹取物語」はさらに時代が下って室町時代のものしかなく、さらに完全版となると、


天正20年


のものしかないというのだから驚きです。出た!天正年間!このブログファンにとっては、もうおなじみの時代、ついこないだみたいなもんです(笑)

 
 本来は歴史がながいのに、現存しているのはそれくらい「最近の写本」しかないわけですが、ということはつまり、原本から戦国時代までは


「手書きで、何度も何度もコピペされまくった」


著作権とか、もうなんか飛び越えてる存在だということがわかります。

 
 日本の文学の著作権有効期間は作者の死後50年ですが、「竹取物語」のコピペ暦は、なんと


700年


以上に渡ります。(成立~完全写本まで)


 ここまでコピペされると、これはもう文化です。


 その昔、一太郎とかロータス123がコピーされまくって広まったのと似てますね(爆)


 さらにすごいのは、原作は漢文だったのに、現存写本は「かな文字」で書かれているらしいので、


BASICからC++に移植されたみたいなもん


でもあるのです。すごい!あなどれません。



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 さらに竹取物語のすごいところは、実は「オヤジギャグ満載!」なところです。

 まあ、古典文学的には、この手の説話風物語には「ことばあそび」的(駄洒落っぽい)由来譚がつきものなのですが、そのレベルが恐ろしいほどオヤジなので、ご紹介しておきましょう。


 石作皇子がニセモノの鉢を持ってきて、嘘がばれて鉢を捨てても言い寄ったので「ハヂを捨てる」。

 車持皇子が玉の枝を作らせていた間、しばらく姿が見えなかったので「たまさか(希)」。

 つばめの子安貝をつかんだ!と思ったら体が落ちて離してしまったので「かいなし」。


などなど。うーん、ベタやなあああ!!


 極め付きは、なんと読者をひっかける、ひっかけ付き駄洒落!


 原作のラストシーンで、かぐや姫が帝に贈った「不老不死の薬」を、彼女がいないのであれば意味がないと帝は

「(月に近い)一番高い山で焼いてしまってくれ」

と命令するのですが、そこで


「不死(ふし)の薬を焼いたから富士(ふじ)山なのかな」


と思わせといて、


「ざんねーん、武士がたくさん登って焼いたので、士に富む山でした~」


と書いてあるわけです。作者はなかなかのつわものだと思われます。




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 それもそのはず、最近の研究では、どうも作者は


あの日本で初に違いない女装家  紀貫之


ではないかと言われています。なんといっても



「おっさんなのにギャルのふりして丸文字で書いちゃった(おとこもすなる日記といふものを女もしてみむとてするなり)」


りする、マツコもミッツもびっくりな、元祖ネットおかまですから読者をあざむくなど、おちゃのこさいさいといったところでしょうか。


(どうも、貫之作の土佐日記には駄洒落やギャグ満載というところもあって、作者が彼だと推定されているとか)


 ちなみに、土佐日記は日本の日記文学のはじめだとされているため、


 元祖ネカマかつ元祖ブロガー


だったことも間違いないようで(^^;



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 さて、紀貫之に話がとんだところで、ジブリ版「かぐや姫の物語」では、ヒロインの朝倉あきちゃんの幼馴染にして天然パーマのおにいちゃんとして



捨丸にいちゃん



という人物が出てきましたが、捨(すて)ということばは、そのまんま「捨てる・捨てられる」という意味で、丸(まる・まろ)という言葉は



 ・・・う○こ


という意味です。ダイハードシリーズでブルースウィリスが連呼するところの



「クソ野郎~ぅ」


とかなり近いです。


 そういえば、大河ドラマ「軍師官兵衛ちゃんbyひらパー園長延長おめでとう」でも、秀吉のこどもが最初「捨(すて)」で、つぎが「拾(ひろい)」でしたね。


 この話はおんなじことで、こどもには悪霊が取り付かぬように、最初から「悪いネーミングをつける」というのが、当時の基本でした。


 悪を悪ではねのける、という意味合いなんです。


 紀貫之も、幼名は「阿古久曽(あこくそ)」でした。


 う○ちくん、ぐらいの意味です。
 

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 さて、そんな感じでとめどなくどこへでも広がりそうな「竹取物語トリビア」でしたが、とりあえずはこの辺でお開きとしておきましょう。










2015年3月9日月曜日

<話題> 戦国武将に出会う旅 ~歴男さん、歴女さんのための面白サービス~

 お久しぶりです。こんにちは。

 関西地方はずっと雨が断続的に降ったりやんだりしていて、なかなか思うように現地調査に行けないので参っております。大塚氏族研究の旅には、しばらく出られそうにありません。

 というわけで、大塚のみならず、いろいろな苗字研究にいそしんでいるのですが、これだけいろいろな氏族の歴史について調べていると、


「苗字のルーツを探る方法」


には、一定の公式やプロセスがあることがわかってきました。もちろん、個人のご先祖さまを辿ってゆくには、戸籍のことをはじめ、ある程度専門的な手順などもあるのですが、少なくとも


「おなじ苗字がどのようにその地方に存在しているのか」


については、調べる方法がパターン化できることがわかってきたのです。


 というわけで、既に「苗字の由来を知りたい」という方には、ある程度の段階までの方法を伝達して、ご先祖さま調べのサポートをさせていただいているのですが、

(注:家計図を作成したり、戸籍を取得するような代行作業はしていません)

今回、新しい切り口で「ご先祖さまを身近に考える」アイデアを思いつきました。




 それが、


「戦国武将に出会う旅 歴史上の人物や、偉人とあなたの関係を繋げます!」
 https://coconala.com/services/47988

という 切り口です(^^


 みなさんは意外に気づいていませんが、実は「あの歴史上の人物と接点が!」あったりすることが多いようです。

 あるいは、「教科書に出てた人!」と繋がったりするかもしれません。



 もちろん、全然リンクしない場合もあるのですが、そこはほれ!多くのご先祖様がみなさんにはいるので、

「父方のおじいちゃん、おばあちゃんの苗字」

「母方のおじいちゃん、おばあちゃんの苗字」

などを含めて、多面的にリサーチすることができます。


 歴男さん、歴女さんは、一度チェックしてみてはいかがでしょうか?


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 というわけで、ちょっと宣伝になりましたが、大塚某のデータ調査の「濃さ」「ねちっこさ」「こだわり具合」は当ブログをご覧になっている方ならすでにご存知だと思います。

 ブログを見ているだけではなく、ぜひ「参加型」で楽しんでみてくださいね!
 

2015年3月3日火曜日

<話題> え?下鴨神社境内にマンション?! ~問題解決はこれしかない!~

 しばらく更新できていませんでしたが、全国の大塚さん、また他の名字の方々いかがお過ごしでしょうか?

 さて、今日はご先祖様と氏族に関わる興味深いニュースが飛び込んできたので、ご紹介!



 下鴨神社境内にマンション建設?!
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150302-00000085-mai-soci


 世界遺産となりにマンション?! 式年遷宮費用の足しに
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150302-00000036-kyt-l26&pos=4



 話を簡単にまとめると、京都でも屈指の神社である「下鴨神社」さんが、境内の一部に定期借地権形式でマンションを建て、50年間の地代をもらって、50年後にはまた更地で返してもらうという計画を立てておられるとのことです。


 その理由は、神様のお引越しである「式年遷宮」の費用をまかなうため。一説には30億円程度かかる費用を捻出しようと思えば、寄付だけでは到底足りない、のだそうです。



 さあ、これを聞いてびっくりしたのが世間の人たち。景観上どうなんだとか、そうした手段しかないこと自体が拝金主義的だとか、世界遺産が壊されるとか、それはもういろんな意見が出ています。


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 特に、京都にゆかりのある人たちの反発、反対の印象はかなり強そうです。なんといっても古都・京都全体にとっても象徴的な神社のひとつであることは間違いないからです。



 さて、そんな意見たちはよそに、大塚某が考える解決策はもっと別のところにあります。そもそも、なんでそんなことになってしまったのかといえば、特に戦後のGHQ主導の政策において、戦国由来の「氏族の解体」を行ってしまったのが根本的原因だと考えます。



 簡単にいえば、現代のわたしたちは、戦前の家父長制度から切り離され、「おとうさんとおかあさんとこども」という3構成の世帯をひとつとするシステムで「家族」を定義されています。


 そして、私たちは自分たちの先祖がどんな存在だったかわからないように「壬申戸籍」を隠され、氏族ではなく個人で成立するような個人主義体制に組み込まれているわけです。


 もちろん、壬申戸籍を封印したのは「旧身分を知られないようにするため」でもあるので、それ自体には意味があるのですが、できれば身分の欄を抹消してでも、壬申戸籍のその他の記載を公開してほしいなあと思うのは、多くの研究者の願いでもあるわけで。


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 さて、そんな風に現状に対する不満を言ってるだけでは始まりませんので、下鴨神社の問題をどう解決するかのアイデアをお話しましょう。


 まず、覚えていてほしいのは、下鴨神社というのは、


「観光客に葵祭を見せるために存在している神社ではない」


ということです。あるいは、


「京都の観光や歴史の中核を担っているので、京都市民京都府民の宝であるわけでもない」


ということを覚えておきましょう。


 京都三大祭(葵祭・祇園祭・時代祭)のひとつ、「葵祭」は平安時代に遡る歴史ある祭りですが、そのことをもって


「文化庁・ひいては国・あるいは京都府・京都市がサポートすべきだ」


という意見もあるでしょう。それもひとつの方策ですが、実際には日本には歴史あるさまざまな寺社や文化遺産があるので、それらに公費をいつまでどこまで投入できるか、というのは難しい問題です。

 

 そこで、大塚某としては、そもそも「下鴨神社がどんな神社か」を再認識してほしいと考えます。





 ウィキペディアより 下鴨神社
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B3%80%E8%8C%82%E5%BE%A1%E7%A5%96%E7%A5%9E%E7%A4%BE
 



 詳細はリンク先を参照しながら読んでほしいのですが、そもそも下鴨神社とは


「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」


というのが正式名称で、賀茂氏というある一族の祖先を祀った神社であり、賀茂氏専用の氏神さまということになります。


 この神社で祭られている祭神は「賀茂別雷命」といい、日本書紀や古事記には登場しません。ということは、当時の皇室朝廷とは、最初の時点では関係しない独立した氏族だということです。

 
 ところが、この氏族がなぜ京都で崇敬を受けたかといえば、「賀茂別雷命」が、3本足のカラス「八咫烏」となって神武天皇の道案内をしたから、という伝説になっています。


 このカラス、サッカーを知っている人であればわかると思いますが、日本代表のユニフォームにもデザインされているあのカラスです。

 これは、八咫烏が熊野信仰にも登場することと、熊野と蹴鞠の関係から採用されたわけですが、そのルーツは賀茂氏にあるというわけです。



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 さて、その賀茂氏です。古代朝廷と関係を結んだ故に、日本や京都の歴史の上でもだんだんと重要な地位を占めるようになってきました。

 そのため、その子孫は日本各地に拡大し、勢力を広げています。


 もっとも判別しやすい賀茂氏族は、名前がそのまま”カモ”を含みます。


賀茂さん 加茂さん 鴨さん 高鴨さん 鴨部さん 加毛さん など


は、ベーシックな賀茂氏族です。


 しかし、それ以外にも賀茂系の子孫はたくさんいます。たとえば、


三歳さん 石部さん 慶滋さん 松下さん 伊奈さん

菅原さん 名取さん 大柴さん 間人さん 中島さん

矢田部さん 馬場さん 今園さん 八柳さん 木下さん

泉さん 小林さん 三善さん 山本さん 山口さん

河崎さん 大東さん 今井さん 杉山さん 西野さん

渡辺さん 北大路さん 岡本さん 大池さん 武蔵さん

鳥居さん 桟敷さん 河上さん 泉さん 芝さん 竹内さん

井関さん 冨野さん 北山さん 藤木さん 清水さん

戸田さん 寺沢さん



をはじめ多数の名字の方々が、実は賀茂氏族だったりするのです。


 そうした氏族が結束して、本来の祖先である下鴨神社をサポートすれば、賀茂一族の隆盛は間違いなしです。

 賀茂軍団の末裔であるあなた!いますぐ賀茂神社に参詣してパワーを貰ってください。



 というわけで、いよいよ結論です。


 きっと、ほとんど誰もが「自分が賀茂氏族であり、上賀茂神社や下鴨神社を崇敬することでパワーをもらえる」ことを知らないはずです。


 なので、今回こそ、隠れ加茂氏族の発掘により、加茂軍団が結束して下鴨神社に寄付をすべきなのです。きっと、加茂氏のご先祖さまも、


「マンションより、まずわしのこどもたちがわしのことを忘れてるのをなんとかしてくれ~」


と嘆いておられることでしょう。