大塚姓研究ではみなさまお久しぶりです。
通常の日本全国津々浦々の「苗字・ご先祖さま探し」では、たくさんのご依頼をいただき、勢力的に活動中な大塚某でございます。
さて、前々から読みたいと思っていたのですが、古い資料ばかり漁っていて、意外にちゃんと読めていなかった
『九州の苗字を歩く 岬茫洋 全5巻』 梓書院
http://www.azusashoin.com/
を手に取ることができたので、現在まずは「大塚姓」から読み込んでいるところです。
ところが、やっぱりというか、逆に寂しい思いをしているのですが、この本を持ってしても
「九州の大塚姓」
の詳細は謎に包まれたままであることがわかりました。
著者の岬茫洋さんは、実際に現地を歩いたり、リアルなその土地土地の苗字分布をリサーチしながら、各苗字についての伝承や推察などを詳細に書かれているのですが、少なくとも、当ブログに上がってきているようなデータが書かれていません。
なので、ちょっと残念。かつ、やっぱり、九州の大塚姓はマニアックなテーマであるのだと再確認した次第です。
さて、もちろん「九州の苗字を歩く」の中でも、有意義なデータは上がってきています。
たとえば、宮崎県編では『宮崎市大塚町』と「大塚姓」の関係について言及されていましたが、これはいわゆる「土持氏系大塚氏」との関連を示すものです。
宮崎県総合博物館にある「田部姓土持氏系図」にある土持新兵衛尉宣栄の項に
「建武二年宮崎大塚蓬莱山ニ居城ス」
とあり、これがいわゆる宮崎市大塚町になります。この場所は、別に「大墓別府」といい、宣栄はこの地の地頭に任命されたようです。
日本人名辞典さんより
https://kotobank.jp/word/%E5%9C%9F%E6%8C%81%E5%AE%A3%E6%A0%84-1092264
しかし、まあこの話は既出です。ところが、大塚某が食いついたのは、この土持氏が元は田部氏であり、 宇佐八幡宮の祀官四姓(宇佐・大神・田部・漆島)の一つであったことがわかったので、ビビビと来た次第。
以前、「宇佐宮大楽寺」に大塚氏が出てくる話を書きましたが、この辺りを再調査してみようかな、と思うわけで(^^
話は戻って「九州の苗字を歩く」についてですが、もう一点、やはり中津にかなりの大塚氏の分布があるようで、これも要チェックです。
もっとも、これについては官兵衛ちゃんが、豊前中津城に入る前に、この土地が「大塚山」と呼ばれていたので、 この名を持って大塚氏がいたとすれば、ある程度しっくりは来ますね。
(しかし、現在それを裏付ける資料を見つけていません)
==========
もちろん、それら以外にも、いくつかの大塚姓についてこの本では言及されているんですが、
「少弐系大塚氏」
についての示唆がいっさい無かったので、寂しいったらありゃしない!
よっぽど不確かな氏族だと思われているのでしょうか(笑)
こうなったら、大塚某はライフワークとしてとことこん大塚氏族を追いかけますので、ぜひみなさんも情報をお寄せくださいね!
2015年4月29日水曜日
2015年4月23日木曜日
<調査中>愛媛県の大塚さん
全国ダーツの旅ならぬ「オーツカ」の旅、各県めぐりはしばらく中断していましたが、今回は愛媛県にやってきました。
実は、全然別件で現在愛媛近辺の氏族を調査しているのですが、大変に難しいのがこの地域!
瀬戸内海と四国の氏族探しは、難航しそうな予感です。
さて、四国のみなさん、広島岡山の瀬戸内のみなさんのために、この地域独特の事情についてお話しておきましょう!
<難しいぞ瀬戸内!>
ふつうの地域に住んでいる氏族は、基本的に「土地」に根ざして生活しています。ところが、瀬戸内海ですから、この地のみなさんは「海」に根ざして生活しているのです。
なので、たとえば本州の広島岡山県海側にある氏族の名前が、四国の沿岸にも広がっていたりします。そう!どっちが先かは別にして「海を渡っている氏族」がたくさんいるのです。
そして、瀬戸内海といえば言わずとしれた「村上水軍の娘(BY和田竜)」ですね!水軍です水軍!
村上氏に限らず、軍師官兵衛ちゃんでも学んだとおり、このあたりは「毛利家」の支配地ですが、
「毛利水軍」といって、各種「海の男たち」がこの地で活躍していました。
水軍は古くは「海賊」と呼ばれ、いわゆる幕府の命令にあまり従わず、独自の権力形成をしていた一派です。ところが、その実力を買われて、各種戦国大名の海兵隊勢力として組み込まれてゆき、家臣化したものが、のちに別の土地に土着してゆくようになります。
<難しいぞ四国!>
四国の氏族を調査していると、ものすごく不思議なことがわかってきます。ふつうの本州の地域だと、地域ごとに氏族は放射状に分布してゆくのですが、四国という土地は、中心部が高い山で、海側周囲に平地が広がっているせいなのか、
「氏族が海側ぐるりと巡りながら伝播している」
ような動きに見えるのです。
これが、氏族の動きを分析するときに、大変に難しい!
ある名字を追いかけているときに、その名字の氏族が「広島岡山から移動してきたのか」それとも、四国内をぐるりと動いているのか、判断が悩ましいのです。
そして、戦国時代には、四国は領主がころころと変わっているので、氏族がどのように移動したのかもわかりにくくなっています。
==========
さて、そんな難しい四国のなかで、今回は愛媛で大塚さんを発見!
宇和島藩の庄屋 さんのサイトより
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10795/iyo/shoya.html
上記サイトの記述によれば、宇和島藩内の庄屋さんのうち4軒も大塚さんがいることがわかります。
津島全秀松村 大塚六左衛門
宇和内上伊南坊村 大塚六郎左衛門
宇和内上下松葉村 大塚七右衛門
宇和内上鞍貫村 大塚源四郎
の四氏を抽出。
ほとんどの名前が「官職風」なので、元戦国武士の家だと推定できます。
さて、
ウィキペディアより宇和島藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%92%8C%E5%B3%B6%E8%97%A9
を見ればこの藩の様子がわかるのですが、幕末までの藩政そのものは仙台系伊達氏が担っています。
しかし、もともとこの地は、古くは西園寺氏にはじまり、戦国時は長宗我部に支配されており、これらの旧臣が土着して農民化していることが特徴です。
えひめの記憶さんのページ
http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=2&P_SNO=47&P_FLG1=3&P_FLG2=1&P_FLG3=3&P_FLG4=0
を参考にすると、宇和島藩の庄屋とはつまり、戦国期山城の城主の系譜とほぼ合致するというのですから、
伊予大塚氏という戦国氏族がいた
という可能性が高いわけです。あるいは、戦国武将の家臣としての大塚氏でもよいでしょう。
という仮説を実証できそうな情報が、いま見つかりました(笑)
ポポブロ研究所さんのブログ
http://blog.livedoor.jp/popoburo/archives/1009317699.html
によれば、伊予宇都宮氏の家臣団の中に
大塚嵐之助
大塚助兵衛
大塚新兵衛
の三名がちゃんといますね。
伊予宇都宮氏は、もともとは豊前宇都宮氏六代目の宇都宮頼房が三男、宇都宮豊房の伊予守護職任官から始まりますから、筑後山門郡大木にいた宇都宮氏とは親戚です。
さてここからが面白い。
① 豊前大塚氏の本来の拠点は栃木県である。
② 栃木県には下野国都賀郡大塚(栃木県栃木市)を拠点とした大塚氏が存在する。
③ ところが、伊予宇都宮氏は、豊房に子がなく、筑後大木から宇都宮宗泰を連れてきて、継承させる。
④ ということは、伊予宇都宮とはつまり筑後宇都宮氏の系譜である。
⑤ 伊予宇都宮の家臣の大塚氏は、可能性として栃木系の可能性と、筑後系の可能性がある。
⑥ おいおいまってくれよ、じゃあ愛媛の大塚さんは、もしかして少弐系とかそんなことあるのかな?
という仮説が提唱できちゃったりするのですが、水曜どうでしょう?
このあたりについては、私は「山門郡には大塚郷という地名があり、現在もみやま市に残っている」ので、伊予宇都宮の大塚は、九州系だとしても、少弐じゃなくて山門郡の地場の大塚氏なんじゃないかと思いますが、
山門郡大塚氏の存在は未確認氏族
なので、あくまでも仮説です。
==========
というわけで、愛媛の大塚さん。家紋を教えてください!!!
実は、全然別件で現在愛媛近辺の氏族を調査しているのですが、大変に難しいのがこの地域!
瀬戸内海と四国の氏族探しは、難航しそうな予感です。
さて、四国のみなさん、広島岡山の瀬戸内のみなさんのために、この地域独特の事情についてお話しておきましょう!
<難しいぞ瀬戸内!>
ふつうの地域に住んでいる氏族は、基本的に「土地」に根ざして生活しています。ところが、瀬戸内海ですから、この地のみなさんは「海」に根ざして生活しているのです。
なので、たとえば本州の広島岡山県海側にある氏族の名前が、四国の沿岸にも広がっていたりします。そう!どっちが先かは別にして「海を渡っている氏族」がたくさんいるのです。
そして、瀬戸内海といえば言わずとしれた「村上水軍の娘(BY和田竜)」ですね!水軍です水軍!
村上氏に限らず、軍師官兵衛ちゃんでも学んだとおり、このあたりは「毛利家」の支配地ですが、
「毛利水軍」といって、各種「海の男たち」がこの地で活躍していました。
水軍は古くは「海賊」と呼ばれ、いわゆる幕府の命令にあまり従わず、独自の権力形成をしていた一派です。ところが、その実力を買われて、各種戦国大名の海兵隊勢力として組み込まれてゆき、家臣化したものが、のちに別の土地に土着してゆくようになります。
<難しいぞ四国!>
四国の氏族を調査していると、ものすごく不思議なことがわかってきます。ふつうの本州の地域だと、地域ごとに氏族は放射状に分布してゆくのですが、四国という土地は、中心部が高い山で、海側周囲に平地が広がっているせいなのか、
「氏族が海側ぐるりと巡りながら伝播している」
ような動きに見えるのです。
これが、氏族の動きを分析するときに、大変に難しい!
ある名字を追いかけているときに、その名字の氏族が「広島岡山から移動してきたのか」それとも、四国内をぐるりと動いているのか、判断が悩ましいのです。
そして、戦国時代には、四国は領主がころころと変わっているので、氏族がどのように移動したのかもわかりにくくなっています。
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さて、そんな難しい四国のなかで、今回は愛媛で大塚さんを発見!
宇和島藩の庄屋 さんのサイトより
http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~x10795/iyo/shoya.html
上記サイトの記述によれば、宇和島藩内の庄屋さんのうち4軒も大塚さんがいることがわかります。
津島全秀松村 大塚六左衛門
宇和内上伊南坊村 大塚六郎左衛門
宇和内上下松葉村 大塚七右衛門
宇和内上鞍貫村 大塚源四郎
の四氏を抽出。
ほとんどの名前が「官職風」なので、元戦国武士の家だと推定できます。
さて、
ウィキペディアより宇和島藩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%92%8C%E5%B3%B6%E8%97%A9
を見ればこの藩の様子がわかるのですが、幕末までの藩政そのものは仙台系伊達氏が担っています。
しかし、もともとこの地は、古くは西園寺氏にはじまり、戦国時は長宗我部に支配されており、これらの旧臣が土着して農民化していることが特徴です。
えひめの記憶さんのページ
http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_ECD=2&P_SNO=47&P_FLG1=3&P_FLG2=1&P_FLG3=3&P_FLG4=0
を参考にすると、宇和島藩の庄屋とはつまり、戦国期山城の城主の系譜とほぼ合致するというのですから、
伊予大塚氏という戦国氏族がいた
という可能性が高いわけです。あるいは、戦国武将の家臣としての大塚氏でもよいでしょう。
という仮説を実証できそうな情報が、いま見つかりました(笑)
ポポブロ研究所さんのブログ
http://blog.livedoor.jp/popoburo/archives/1009317699.html
によれば、伊予宇都宮氏の家臣団の中に
大塚嵐之助
大塚助兵衛
大塚新兵衛
の三名がちゃんといますね。
伊予宇都宮氏は、もともとは豊前宇都宮氏六代目の宇都宮頼房が三男、宇都宮豊房の伊予守護職任官から始まりますから、筑後山門郡大木にいた宇都宮氏とは親戚です。
さてここからが面白い。
① 豊前大塚氏の本来の拠点は栃木県である。
② 栃木県には下野国都賀郡大塚(栃木県栃木市)を拠点とした大塚氏が存在する。
③ ところが、伊予宇都宮氏は、豊房に子がなく、筑後大木から宇都宮宗泰を連れてきて、継承させる。
④ ということは、伊予宇都宮とはつまり筑後宇都宮氏の系譜である。
⑤ 伊予宇都宮の家臣の大塚氏は、可能性として栃木系の可能性と、筑後系の可能性がある。
⑥ おいおいまってくれよ、じゃあ愛媛の大塚さんは、もしかして少弐系とかそんなことあるのかな?
という仮説が提唱できちゃったりするのですが、水曜どうでしょう?
このあたりについては、私は「山門郡には大塚郷という地名があり、現在もみやま市に残っている」ので、伊予宇都宮の大塚は、九州系だとしても、少弐じゃなくて山門郡の地場の大塚氏なんじゃないかと思いますが、
山門郡大塚氏の存在は未確認氏族
なので、あくまでも仮説です。
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というわけで、愛媛の大塚さん。家紋を教えてください!!!
2015年4月20日月曜日
<話題>戦国武将対談が笑える!織田・徳川・前田・真田ビッグ4!
なんと、今日は珍しく連投でございます。
というのも、ちょっと調べ物をしていたら、面白いネタ・・・もとい「戦国ビッグ4対談」なる記事があり、それが可笑しくてしょうがないので、ぜひご紹介しようと思った次第。
引用元は朝日系「dot」さんです。
戦国4武将の子孫対談 学習院の殿様はバイリンガル?
http://dot.asahi.com/news/domestic/2015041700067.html?relLink=org1
「武将の末裔座談会」関ケ原トークに石田三成末裔も参戦
http://dot.asahi.com/news/domestic/2015041700068.html?relLink=org1
まずは、徳川氏のご子孫と、前田氏のご子孫による「学習院あるある」から!
旧華族の雰囲気を残した学習院時代のエピソードがなかなか面白いです。
松平くんやら徳川くんやら、南部くんやら鍋島くんがおなじクラスにいるという衝撃の学生時代は、歴史マニアならずともある意味、面白そうでうらやましい限り。
徳川15代将軍の名前を埋めよ、というテストの回答に、思わず自分の名前を入れちゃったり!
つづいては、本当はハゲのはずなのに、なぜかイケメンで描かれ続ける真田家の悶絶具合とか、会場になんと石田三成子孫が登場して愚痴をこぼしたりとか。
==========
さて、この戦国ビッグ4対談。2年ほど前にも別メンバーで開催されたようで、そちらは徳川・武田・長宗我部・真田の4子孫だったとか。
徳川家当主 苦労は悪いことができないこと「カンニングもできなかった(笑)」
http://dot.asahi.com/ent/culture/2013111400055.html?relLink=org3
こちらも、徳川家当主が「猿飛佐助とか、真田十勇士が子どものころのヒーローだった!」とか、笑いのツボを心得ていらっしゃる(^^
夢の「戦国時代ビッグ4」座談会を末裔たちが開催!
http://dot.asahi.com/ent/culture/2013111400067.html?relLink=org4
==========
さて、こうしたエピソードを読みながら、誰しもが気付くことがあります。そう!いずれも劣らぬ武将や大名たちの子孫でありながら、なんだかんだいって
「みんな普通の人」
となっている現代日本の凄いところ。これはいろいろな要因がありますが、今をときめくピケティさんの「21世紀の資本」の理屈なら、
資本家は資本を受け継いで、みんな豊かになっている
はずなのに、どうしてみな普通の人になってしまっているのでしょう。
その大きな理由は、幕末から明治にかけて、まず「華族以外を切り捨て」して、金銭面では優遇されるものを極端に絞り込んだことが第一弾。
そして、第二弾として、戦後の財産税や財閥解体、農地改革などにより、「資本家の財力を再配分した」結果によるものです。
そう!日本は「ほとんどすべての氏族の資本が、戦後一旦ガラガラポンされている稀有な国家」なのです。
そうしたこともあって、戦国由来の名家はみな没落・・・もとい、平等な国民・国家へと生まれ変わっているわけですね。
おなじdotの記事から、そのあたりの実状を武田さんが教えてくださっていますので、ぜひお読みください。
武田信玄の子孫 「息子の代でやっと江戸から甲斐に帰ることができた」
http://dot.asahi.com/news/domestic/2013082200023.html?relLink=org5
武将の子孫が、ふつうの暮らしになってゆく様子は、竹中半兵衛の子孫のお話からも伺い知ることができます。
子孫が語る「豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛」の本当の顔
http://dot.asahi.com/ent/culture/2014010900028.html?page=1
竹中家では、内職が家業になってゆく様子がありのまま語られています。
==========
こうしてみると、有名武将の子孫であっても、私たち庶民であっても、みな同じように生きているということがよくわかります。
一つ違うのは、彼らはある程度、先祖のことをしっかり思いながら、あるいは伝えながら暮らしているということ。
だとすれば私たちも、ご先祖さまがもしかしたら残しているかもしれないドラマを、今一度蘇らせながら私たちの「生に感謝する」というのもアリだと思うのですがどうでしょう?
というのも、ちょっと調べ物をしていたら、面白いネタ・・・もとい「戦国ビッグ4対談」なる記事があり、それが可笑しくてしょうがないので、ぜひご紹介しようと思った次第。
引用元は朝日系「dot」さんです。
戦国4武将の子孫対談 学習院の殿様はバイリンガル?
http://dot.asahi.com/news/domestic/2015041700067.html?relLink=org1
「武将の末裔座談会」関ケ原トークに石田三成末裔も参戦
http://dot.asahi.com/news/domestic/2015041700068.html?relLink=org1
まずは、徳川氏のご子孫と、前田氏のご子孫による「学習院あるある」から!
旧華族の雰囲気を残した学習院時代のエピソードがなかなか面白いです。
松平くんやら徳川くんやら、南部くんやら鍋島くんがおなじクラスにいるという衝撃の学生時代は、歴史マニアならずともある意味、面白そうでうらやましい限り。
徳川15代将軍の名前を埋めよ、というテストの回答に、思わず自分の名前を入れちゃったり!
つづいては、本当はハゲのはずなのに、なぜかイケメンで描かれ続ける真田家の悶絶具合とか、会場になんと石田三成子孫が登場して愚痴をこぼしたりとか。
==========
さて、この戦国ビッグ4対談。2年ほど前にも別メンバーで開催されたようで、そちらは徳川・武田・長宗我部・真田の4子孫だったとか。
徳川家当主 苦労は悪いことができないこと「カンニングもできなかった(笑)」
http://dot.asahi.com/ent/culture/2013111400055.html?relLink=org3
こちらも、徳川家当主が「猿飛佐助とか、真田十勇士が子どものころのヒーローだった!」とか、笑いのツボを心得ていらっしゃる(^^
夢の「戦国時代ビッグ4」座談会を末裔たちが開催!
http://dot.asahi.com/ent/culture/2013111400067.html?relLink=org4
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さて、こうしたエピソードを読みながら、誰しもが気付くことがあります。そう!いずれも劣らぬ武将や大名たちの子孫でありながら、なんだかんだいって
「みんな普通の人」
となっている現代日本の凄いところ。これはいろいろな要因がありますが、今をときめくピケティさんの「21世紀の資本」の理屈なら、
資本家は資本を受け継いで、みんな豊かになっている
はずなのに、どうしてみな普通の人になってしまっているのでしょう。
その大きな理由は、幕末から明治にかけて、まず「華族以外を切り捨て」して、金銭面では優遇されるものを極端に絞り込んだことが第一弾。
そして、第二弾として、戦後の財産税や財閥解体、農地改革などにより、「資本家の財力を再配分した」結果によるものです。
そう!日本は「ほとんどすべての氏族の資本が、戦後一旦ガラガラポンされている稀有な国家」なのです。
そうしたこともあって、戦国由来の名家はみな没落・・・もとい、平等な国民・国家へと生まれ変わっているわけですね。
おなじdotの記事から、そのあたりの実状を武田さんが教えてくださっていますので、ぜひお読みください。
武田信玄の子孫 「息子の代でやっと江戸から甲斐に帰ることができた」
http://dot.asahi.com/news/domestic/2013082200023.html?relLink=org5
武将の子孫が、ふつうの暮らしになってゆく様子は、竹中半兵衛の子孫のお話からも伺い知ることができます。
子孫が語る「豊臣秀吉の軍師・竹中半兵衛」の本当の顔
http://dot.asahi.com/ent/culture/2014010900028.html?page=1
竹中家では、内職が家業になってゆく様子がありのまま語られています。
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こうしてみると、有名武将の子孫であっても、私たち庶民であっても、みな同じように生きているということがよくわかります。
一つ違うのは、彼らはある程度、先祖のことをしっかり思いながら、あるいは伝えながら暮らしているということ。
だとすれば私たちも、ご先祖さまがもしかしたら残しているかもしれないドラマを、今一度蘇らせながら私たちの「生に感謝する」というのもアリだと思うのですがどうでしょう?
<情報求む>北部九州にお住まいの大塚さんへ
すこしご無沙汰が続いていますが、「大塚研究」のほうは、バックグラウンドでゴリゴリ動いている最中です。
ブログに記載してはいませんが、この間も九州各地の「大塚さんに由来のある方」たちと様々な情報交換をしており、それぞれ必要なデータの提供などに勤しんでおります。
というわけで、全国の、特にこのブログの専門である「北部九州地方の大塚さん」!遠慮なくメールをいただければ何がしかの新しい情報をお伝えできるかと存じます。
==========
現在、調査中の案件では、
<直方地方の大塚さん>
<福岡藩士の大塚さん>
<福岡沿岸部の大塚さん>
<日田地方にゆかりのある大塚さん>
<松浦地方の大塚さん>
<有田焼に関連のある大塚さん>
などなど、それぞれ異なった経緯を持つ大塚さんのお話をお聞かせ願えれば嬉しく思います。
もしかしたら、ご先祖さまが根っこの部分で繋がっているかもしれないし、違うかもしれません。
小さな情報の積み重ねで、いろんなことが判明するかと思いますので、ぜひご協力お願い申し上げます。
==========
また、こちらは全国各地対象ですが、「苗字研究・調査」の方もぐんぐん進展中!一般的な苗字辞典辞書の観点とはまた異なり、
「あなたの家のルーツがどこにあるのかを探る」
という視点でありとあらゆる苗字・ご先祖さま調べのお手伝いをしております。こちらは、個人のおうちのお話になることもあり、当ブログには一切書いておりませんが、ご了承ください。
このブログの読者さんならおなじみの「大塚某ならではのマニアックな視点」を生かしながらルーツ調査をしております。
☆苗字・ご先祖さま・ルーツ調べ☆は現在ココナラだけで受け付けています。500円しかかかりません(笑)
https://coconala.com/services/41874
すでに全国のみなさまにご依頼いただいており、喜ばれております。わたしも嬉しい!
みなさまの貴重なお話、お聞かせください!
ブログに記載してはいませんが、この間も九州各地の「大塚さんに由来のある方」たちと様々な情報交換をしており、それぞれ必要なデータの提供などに勤しんでおります。
というわけで、全国の、特にこのブログの専門である「北部九州地方の大塚さん」!遠慮なくメールをいただければ何がしかの新しい情報をお伝えできるかと存じます。
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現在、調査中の案件では、
<直方地方の大塚さん>
<福岡藩士の大塚さん>
<福岡沿岸部の大塚さん>
<日田地方にゆかりのある大塚さん>
<松浦地方の大塚さん>
<有田焼に関連のある大塚さん>
などなど、それぞれ異なった経緯を持つ大塚さんのお話をお聞かせ願えれば嬉しく思います。
もしかしたら、ご先祖さまが根っこの部分で繋がっているかもしれないし、違うかもしれません。
小さな情報の積み重ねで、いろんなことが判明するかと思いますので、ぜひご協力お願い申し上げます。
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また、こちらは全国各地対象ですが、「苗字研究・調査」の方もぐんぐん進展中!一般的な苗字辞典辞書の観点とはまた異なり、
「あなたの家のルーツがどこにあるのかを探る」
という視点でありとあらゆる苗字・ご先祖さま調べのお手伝いをしております。こちらは、個人のおうちのお話になることもあり、当ブログには一切書いておりませんが、ご了承ください。
このブログの読者さんならおなじみの「大塚某ならではのマニアックな視点」を生かしながらルーツ調査をしております。
☆苗字・ご先祖さま・ルーツ調べ☆は現在ココナラだけで受け付けています。500円しかかかりません(笑)
https://coconala.com/services/41874
すでに全国のみなさまにご依頼いただいており、喜ばれております。わたしも嬉しい!
みなさまの貴重なお話、お聞かせください!
2015年4月6日月曜日
竹中半兵衛の墓前に参ってきました。
2015年春になっても、まだまだ覚めやらぬ軍師官兵衛ちゃんブームですが、はて「枚方パーク」へ参列しようか、悩んでいる今日この頃でございます(笑)
それはさておき、先日はふと思い立って、
竹中半兵衛重治殿の墓前
に参ってまいりました。
思いつきで、戦国の軍師どののお墓に参ることができるのも、関西在住の喜びです。ふだんの仕事で車もけっこう乗っているものですから、岡山から滋賀くらいの間だったら、ひょこっと行って帰ってきます(^^
さて、竹中半兵衛どのは、言わずとしれたハンサムで、プロミスな男です(←そこは違う。)谷原章介さん、おとこまえです。
==========
< 竹中半兵衛の墓 三木市平井 >
ちょうど別所長治の三木城に相対する向かいの山のふもとにあります。
墓碑。ウィキペディアに
”今でも地元老人会などで手厚く供養されており、墓には献花が途切れることがない”
なんて紹介されているのですが、本当にそのとおりで、綺麗なお花と供物が供えられていました!
きちんと管理されている様子が伺えます。
いちおうセミプロとして、墓碑を調査してきましたが、おそらく現代に近い時代のものでしょうね。石の古さから江戸時代末期~明治ごろかな~。年号等ははいっていません。
誰か知っている人がいたら解説よろしく。
サイドの小さい献灯祠は昭和に入ってからのもの。戦後のものです。
写真に写っていませんが、手前に灯篭が2塔立っていますが、「文化文政」時代のものでした。
(チェックしたけど、文化だったか文政だったか忘れた!)
さて、この竹中半兵衛の墓。原始的な「武将の伝承」を良く伝えている形式になっています。
どういうことか?!
そもそも、戦国時代の墓碑は、現在とはまった異なったスタイルで、だいたい表に「竹中半兵衛の墓」なんて書いてありません。
私たちの知っている形式は、もっと後のもので、戦国時代の墓は石だけとか、せめて塔の形になっているとかです。
では、竹中半兵衛の墓はどうなっていたのかという裏話ですが、全体像を写真で取ると
小さな人工の塚(立派な木がその上に生えています)
になっていることがわかると思います。これが逆にリアルですね!
たぶん、伝承として
「あそこの畑の中の塚は、昔に竹中さまが陣中で亡くなって供養されたお墓なのじゃ」
という話が数百年も伝達されていて、のちに周りを囲ったり、墓石を立てたりと徐々に整備されたもの、というわけです。
実は、今回は行きませんでしたが、三木攻めの秀吉本陣は、ここからたった数百mしか離れていません。
なぜ行かなかったか?
うちのちびたちと一緒におまいりしたので、今回はパスしました(笑)
もちろん、平和な時代になってから「改葬」されて寺に墓があったりもするんですが、竹中半兵衛の場合は、やはり陣の中にそのまま葬られている感があり、戦国の息吹を感じることができます。
ちなみに、完全に余談ですが、狂言の和泉元彌さんのおかあさま(セッチー)は、竹中半兵衛ちゃんの子孫だそうです。
それはさておき、先日はふと思い立って、
竹中半兵衛重治殿の墓前
に参ってまいりました。
思いつきで、戦国の軍師どののお墓に参ることができるのも、関西在住の喜びです。ふだんの仕事で車もけっこう乗っているものですから、岡山から滋賀くらいの間だったら、ひょこっと行って帰ってきます(^^
さて、竹中半兵衛どのは、言わずとしれたハンサムで、プロミスな男です(←そこは違う。)谷原章介さん、おとこまえです。
==========
< 竹中半兵衛の墓 三木市平井 >
ちょうど別所長治の三木城に相対する向かいの山のふもとにあります。
墓碑。ウィキペディアに
”今でも地元老人会などで手厚く供養されており、墓には献花が途切れることがない”
なんて紹介されているのですが、本当にそのとおりで、綺麗なお花と供物が供えられていました!
きちんと管理されている様子が伺えます。
いちおうセミプロとして、墓碑を調査してきましたが、おそらく現代に近い時代のものでしょうね。石の古さから江戸時代末期~明治ごろかな~。年号等ははいっていません。
誰か知っている人がいたら解説よろしく。
サイドの小さい献灯祠は昭和に入ってからのもの。戦後のものです。
写真に写っていませんが、手前に灯篭が2塔立っていますが、「文化文政」時代のものでした。
(チェックしたけど、文化だったか文政だったか忘れた!)
さて、この竹中半兵衛の墓。原始的な「武将の伝承」を良く伝えている形式になっています。
どういうことか?!
そもそも、戦国時代の墓碑は、現在とはまった異なったスタイルで、だいたい表に「竹中半兵衛の墓」なんて書いてありません。
私たちの知っている形式は、もっと後のもので、戦国時代の墓は石だけとか、せめて塔の形になっているとかです。
では、竹中半兵衛の墓はどうなっていたのかという裏話ですが、全体像を写真で取ると
小さな人工の塚(立派な木がその上に生えています)
になっていることがわかると思います。これが逆にリアルですね!
たぶん、伝承として
「あそこの畑の中の塚は、昔に竹中さまが陣中で亡くなって供養されたお墓なのじゃ」
という話が数百年も伝達されていて、のちに周りを囲ったり、墓石を立てたりと徐々に整備されたもの、というわけです。
実は、今回は行きませんでしたが、三木攻めの秀吉本陣は、ここからたった数百mしか離れていません。
なぜ行かなかったか?
うちのちびたちと一緒におまいりしたので、今回はパスしました(笑)
もちろん、平和な時代になってから「改葬」されて寺に墓があったりもするんですが、竹中半兵衛の場合は、やはり陣の中にそのまま葬られている感があり、戦国の息吹を感じることができます。
ちなみに、完全に余談ですが、狂言の和泉元彌さんのおかあさま(セッチー)は、竹中半兵衛ちゃんの子孫だそうです。
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