2015年6月29日月曜日

<108> 講読『北肥戦誌』 ”神代長良妻室の事” 

 前回までの講読で、神代長良が千布・土生島城をからくも脱出した話を読み込んでみました。

 一方奥さんとは離れ離れになっていますので、長良の妻がどうなったのか、については巻の十七にて説明されることになるわけです。


 というわけで、今回はその次の巻を読んでみましょう。


==========

 神代長良妻室の事


  さて、長良の妻は、土生島の城を忍んで脱出し、河窪藤付の先達の坊へとひとまず身を落ち着かせていた。

 しかし、しばらくは良いとしても、このままいつまでもここに居るわけにはいかないだろうと、松延勘内に長良の元へ戻るよう命じ、乳母だけをお供にして故郷である鹿江へ向かうことにした。


 そこで、村の女が旅をしているような服へ変装し、編み笠姿にさもボロボロの草履を履いて、夜の闇に紛れるように出発なさった。

 頃は四月の末、ホトトギスの鳴き声が遠空にこだまするのを聞く彼女の心持はいかばかりのことだろうか。つと、その心境を筆に執り、

『心せよ なればかりかは時鳥(ほととぎす) 物思う身に夜半の一声』

としたためては、



※ここから先の部分は、ある意味軍記モノらしく、ちょっぴり浄瑠璃の脚本のように文章が書かれています。歌舞伎・浄瑠璃に詳しい人であれば、なるほど長良の妻の足取りを『道行(みちゆき)』に見立てて書いているのかな?と思わせるほど情緒的なシーンです(^^

(というわけで、まるで近松門左衛門のパクリのような原作のテイストをお楽しみください)


~と打誦して、分けつつ行けば小笠原、袖に玉散る篠木野や、ここはいずくぞ八溝の、水の流れの末かけて、妻の行方を安穏に守らせ給えと、あたりなる白髭の御社へ、心ばかりに奉幣あり~。


 さて、このようにあちこちと辿りながら、河窪から鹿江まではわずかの行程なのだが、三日三晩泣く泣く歩いてゆく様子はたいへんに痛々しい。

 ようやく実家にたどり着いた時には、母をはじめ皆大いに驚き、また大いに彼女を労わったものの、龍造寺に知られてはいけないと大堂の社家にかくまうのであった。


(この段終わり)

==========

 道行になっているところは、突然「七五調」に切り替わりますので、原文を読んでいる人はすぐに気づくと思います。

 この道行きの文体、今では歌舞伎や浄瑠璃でしか体験できませんが、実は鎌倉時代には成立していて、『太平記』あたりではバリバリ使われているようですね。

 さて、話を元に戻します。

 とりあえず神代長良の妻も、無事実家に帰ることができたわけですが、この後、神代長良本人も、浪人となって再起を誓います。

 残念ながらこのあたりでは、誰がどうしたという話は大変少なく、いろんな周囲の武将たちの助けを得ながら、龍造寺隆信へのリベンジの機会をうかがう、という話になってゆきます。

「長良の従者二百余人」

 という言葉がたくさん出てきますので、それくらいの家臣団が生き延びており、大塚隠岐もこの中にいるか、もしくは一旦別行動を取ったものの、後で合流しているのではないか、と想像します。

 その後、大きな活躍をしたのは古川新四郎で、彼はにっくき納富但馬守に復讐を果します。



 こうして読み込んでみましたが、大塚隠岐がその後どうなったのかは、一切記載がありません。

 ただ、「討ち死に」という記載がないことを重視すれば、なんとか生き延びて神代家臣として従い続けたのではなかろうか、と読むことができるのではないでしょうか?


==========





 

<おまけ>

 さて、おまけで今日は高校国語「古典」の授業をかましておきましょう。

問 なぜ北肥戦誌の作者、馬渡俊継はこの場面で「ホトトギス」を描写しているのでしょう。考えられる理由を説明しなさい。



 ・・・いやあ、高度ですねえ。高度だけれども、なかなか興味深い良問です(自画自賛)。東大入試で出たりしないかな(笑)

 でもまあ、いちおう高校国語レベルの知識で解けますので、いってみよ!


【解答】 

 ホトトギスは、漢字で書くと「時鳥」と書いたり、カッコウに似ているので誤って「郭公」と書かれたりします。正岡子規は、血を吐いたので、「血を吐くまで鳴く」と言われたホトトギスをもじって「子規」と号しました。

 また、「不如帰」という当て字で書くこともあります。これは中国の故事に由来しますが、『帰るに如かず』つまり、帰ることにかなわない・帰ることに越したことはない=帰りたい!という意味を持っています。

  神代長良の妻が、戦乱の中実家に戻ろうとする場面ですから、「無事に帰りたい」という彼女の気持ち、心情をホトトギスを使って感傷的に表現したものだと考えられます。





 馬渡俊継ちゃんは、基本的には冷たいというか淡々と文章を書いている人なのですが、実はハートはなかなかのセンチメンタル文学者なのです。ツンデレ?!





 






2015年6月27日土曜日

<107> 講読『北肥戦誌』 ”神代長良千布落城の事” その3

(前回から続く)

 さて、講読「北肥戦誌」の段もいよいよ第3回に突入!

 前回までは、神代☆グッド☆長良が、肥前のくまモン龍造寺隆信に攻められる経緯について読み込んでいきましたが、土生島城をかろうじて脱出した長良の下に「大塚隠岐守」がたしかにいたことまでわかったところです。

 というわけでここからは、陣営のうち「誰が死んで誰が死んでいないのか」についてじっくりと検証したいと思います。

 まずは、前回の続きをお楽しみくださいね!


==========

 こうして長良は、付き添っていた家臣たちとも散り散りになり、今はわずかに島田入道鶴栖・古川新四郎・松延勘内ばかりを連れて金立権現の下宮の辺りまで落ち延びてきたが、思い出されるのは妻のこと、さすがに心配でならない。

 そこで、今年15になる勘内が、

「殿、私が城の様子を隠れながら見て参ります!」

と申し出るので、 よしわかったと土生島へ戻すことにした。


 勘内が、森に紛れながら城に潜入すると、城内の外れに長良の妻たちが呆然としながら身を隠しているのに出くわした。そこで勘内は、

「よかった!ご無事でおられたのですね。殿は無事落ち延びられました。しかし、御前のことが心配でならず、金立から私をお帰しになったのです。早くおいでになってください、急いでお供いたします!」

と言ったのだが、長良の妻は首を縦に振ろうとしない。

「いえいえ、私の身などどうなってもよろしいのです。あなたこそ早く殿のところへ戻って、お守りしてください。殿のことこそ、心配でなりません」

そう言って、勘内を戻そうとするところを、

「何をおっしゃるのですか!なんとしてもお連れしますので急いでください!」

と無理やり諌めて、 長良の妻や乳母と共に城の後ろの堀に橋をかけ脱出し、主従3人は河窪村藤付の山伏の坊まで逃げて行った。


 一方、土生島城では、まだ敵味方入り乱れ命をかけて切り合いが続いていた。

  神代左馬助は、長良の行方を追って金立の松原まで馬を駆けて落ちてきた。味方も次々に追いついてきて、24人が残っている。

 左馬助は、彼らを従えて座主町を過ぎようとしていたが、頃は4月下旬のこと、24日の朝、辰の刻になった。

 すると、左馬助一行の具足や甲冑兜に朝日がきらめいて、光が反射する。それを遠方から見つけたのは、もちろん龍造寺の軍勢だった。

「やや!あそこに、長良の勢らしき者がいるぞ!あるいは、大将長良かもしれぬ!」

と龍造寺軍は、即座に追跡を始める。

 左馬助は、歳の頃壮年を過ぎ、イケメンの若武者である。 その左馬助も、佐賀勢が追ってきているのに気づき、

「気づいたか・・・、しつこい奴らだ!」

ときびすを返して、佐賀勢に向かって馬を駆け始めた。

 左馬助勢と龍造寺軍は、やがて真っ向勝負となり、近づく敵を切っては駆け、駆けては切って互いに暴れ回った。

 しかし、一人減り、二人減り、かくして24人は一人残らず討ち死にしてしまったのであった。


「首を取ったり!」

龍造寺軍の一人が、ついに左馬助の首を討ち、

「長良を討ったぞ!」

と勝ち鬨を上げた。龍造寺軍は一斉に声を上げ、勝利を確信したのであった。



 土生島に静寂が戻り、龍造寺勢が帰陣を始めた頃である。

 長良は、金立の下宮の西方の森に潜んでいたが、それから24日の朝金立山に登り、雲上寺の座主成長法印に対面した。

 この寺でしばらく休息してから、主従3人は名尾山へ向かって名尾式部大輔のところへ、島田入道を遣わして状況を知らせたところ、式部大輔は肝をつぶして驚き、

「それは、大変なことでした。すぐに、長良殿をお迎えいたそう!」

と島田と共に名尾勢6、7人をつけて出迎えに向かった。


 長良は、こうして名尾勢と合流し、畑瀬の城へ落ちていった。おりしもこの日は、神代勝利の死去から六十七日(むなのか)に当たっており、こうして長良の命があったのも、亡き勝利公の加護に違いないと、畑瀬城家中の者どもはみな泣いて、長良の姿を見て喜ぶのであった。

(巻之十六 終  十七へ続く  )



==========


 ・・・はてさて。

 相変わらずドラマチックな展開が続きますが、ここで原作の「巻16」は終了、次号へ続くという状態になっております。

  しかし、今回は検証作業がありますので、とりあえずここまでのおさらいをしておきましょう。


 まず、土生島城・神代長良サイドの人間と行動を確認しておきます。


 ■ 神代長良     → Aルート脱出成功
 ■ 妻          → Bルート脱出成功
 ■ 乳母         → Bルート脱出成功


 ■ 島田入道鶴栖     → Aルート金立まで脱出
 ■ 大塚隠岐守
 ■ 神代左京亮
 ■ 神代左馬助     →計24人討死
 ■ 中野新十郎
 ■ 古河新四郎     →Aルート金立まで脱出
 ■ 秀島伊賀守
 ■ 福所大蔵     →長良を名乗って切腹自死
 ■ 福島式部少輔     →敵中に入り討死
   
 ■ 松延勘内     →Aルート金立まで脱出 →城へ戻り妻と合流 →Bルート脱出


==========

 こうしてまとめるとわかりやすいのですが、登場人物それぞれの生死や行動を確認すると、大塚隠岐は、この段階ではどうしているのかさっぱりわかりません(笑)


 ひとつの考え方は、

「大塚隠岐は、あるいは城内に立てこもり戦っていた」

もうひとつは

「大塚隠岐は、長良に従って城を出た」

という考え方です。このふたつは、カンタンに言えば、夫を守っていたか妻を守っていたかの違いということになりましょう。


しかし、城を出ていたとしても、北肥戦誌の記述からは問題点があります。ここは原文でいってみましょう!


『かくて長良は付き添ひし者も散々になり、今は僅かに島田入道鶴栖・古川新四郎・松延勘内ばかりを召し具して』


 さあ、ここで問題になるのは「ばかり」の用法です。いきなり古文の時間ですが、大学入試を受けた人は、高校古文を思い出してください。

 もちろん、”ばかり”というのは「推し量る」「はかりごとをする」の計る・測るから来ています。なので一般的には「ほど・ぐらい」という訳し方をするのですが、ところが、”ばかり”が「程度」を表すのは、平安時代くらいまでで、それから後は、ほとんど


「ばかり=だけ」

という限定の用法へと変わるわけです。

 そうすると、この文章は、

『島田・古川・松延の三人だけ』

というニュアンスが強くなり、 ここにそのほかのメンバーはいない!とほぼ断定できることになるのです。ましてや、このあと松延勘内は奥さんの方を助けに行きますので、残りは、長良と島田・古川の3人きりです。

 それを裏付けるように、今日読み込んだ最後のほう、たしかに原文でも


「主従三人」



と書いてあり、状況は合致するのです。


==========

 とすれば、現時点において、大塚隠岐は、

① 長良に同行はしていない。しようとしたが、はぐれた可能性がある。

② 妻を助けるべく城に残っている。あるいは城内で戦っている。

③ しかし、妻と一緒に脱出したかどうかは、わからない。

④ 城内にいたまま、あるいは城下付近で戦いが終了した可能性がある。


ということになります。

 そして、大事な点として、

「死んだとは書かれていない」

ことも忘れてはいけません。


 そう!北肥戦誌は、討死者については丁寧に拾い上げて記載していますので、その中に入っていないことは、逆に重要なポイントだと考えることもできるわけで。



  そんな観点を持ちながら、それでは次回以降は、巻十七を読み進めてゆくとしましょう!


 おたのしみに。

 

==========

追伸>Sさま。

 こうやって読み込むと、北肥戦誌は歴史を追っているのではなく、『誰がどのように戦ったのか、あるいはどのように死んだか』を追っている戦功書だとよくわかりますね。

 だとすればなおさら、大塚隠岐は死んでない!

 (関係者が死んだ記録を出していない。そしてあるいはゆるゆる前線から引退したので、そこからはたいした武功がない。)

と推察しても、あながち外れじゃない気がするのですが(笑)



2015年6月26日金曜日

<106> 講読『北肥戦誌』 ”神代長良千布落城の事” その2


(前回から続く)


===========


 龍造寺隆信に派遣された二人の家臣は、はなっから神代長良を騙すつもりで土生島城へとやってきた。そうとも知らない神代長良は・・・。というのがこれまでのあらすじ。


===========

 しばらくすると、納富但馬と龍造寺美作は、

「さて、我々はちょっと所用があるので、城原のほうへ行ってから、また明後日お伺いするとしましょうかな。ご返事はその折に」

と暇請いをして、ひそかに佐賀に帰って行った。

 クマもん隆信は、まさか騙されているとは思わないグッド神代の裏をかいてやろうと、その夜が明けるか明けないかのうちに、納富但馬守を先鋒に、龍造寺美作守信明、高木左馬大輔盛房、副島民部大輔光家以下約600騎で淵高木より攻め上り、千布の土生島へと押しかけて鬨(とき)の声を上げたのであった。

 また、クマもんは、別に城原の江上武種に連絡を取っており、加勢するよう要請していたので、江上の軍勢も城原から駆けつけて、土生島の北方、権現原ルートの横道を完全に封鎖してしまっていた。

 一方、土生島城内の神代家中では、引き続いて起こる弔事のため悲しみの真っ只中におり、

 「も、申し上げます!大変です、龍造寺軍が!し、城を取り囲んでおります!」 

という見張りの一報で、あまりに仰天してしまい、周章狼狽の状況に陥ってしまうのであった。


 そうこうしているうちに、佐賀龍造寺軍は、納富但馬守信景が第一陣として早くも城戸口を破壊。そのまま城の庭へとなだれ込んでくる。

「はやくも来たか!」

長良は、拳を握り締め、建物から飛び出し、

「なんという悔しさ!あのブタ野郎という日本一の(ピーーーー)に出し抜かれ、こんな無様な死を迎えることになろうとは!」

と唇を噛んでいる。

「よくよく運にも見放されたか。ついにここまで」

と長良は、早くももろ肌脱いで腹を切ろうと今にも刀を自分に突きたてようとした、その瞬間であった。

「あなた、早まってはいけません!」

必死に取り付いて長良を止めたのは、長良の妻である。それに引き続いて、長良の家臣たちが彼を取り囲み、口々に制しはじめる。


「殿、ここで死んではなりません!」
「早く!お逃げください!」

 島田入道鶴栖、大塚隠岐守以下家来たちは、夢中で長良を逃がすべく彼を凝視している。そのまなざしを見て、長良はグッと力強く頷いた。

「よし、わかった!されば!」

 長良は自害を思いとどまると、身を翻して走り始める。主従20人ばかりは、長良を守るようにして裏の北小口から城を脱出するのであった。


「いたぞ!逃がすな!」

龍造寺勢はそれを見て、逃がすものかと一斉に押し寄せてくる。

「殿をお守りしろ!」

神代家臣たちは、主君を必ずや逃がそうと、刀を抜いて佐賀勢に切りかかる。

 神代左京亮・おなじく左馬介・大塚隠岐守・中野新十郎・古河新四郎・秀島伊賀守・福島式部少輔たちは、走って走って切って切って、前後左右立ち回りながら森の中を駈けずり回る。

 あるいは切られ、あるいは倒れながら、それでもついに、長良たちは追っ手を振り切ることに成功した。


 しかし、土生島城では、まだ戦いが続いている。佐賀軍では、空閑三河守光家が火花を散らして城に襲い掛かっているところであった。

 すると神代家臣の福所大蔵は、長良を首尾よく逃がそうと、突然客殿の真ん中で仁王立ちになり、大声を上げて叫びはじめた。

「てめえら!よく聞け!俺こそが神代長良だ! てめえらが欲しいのは俺の首だろうが!運命今こそここに極まった!腹を切るから、首が欲しいやつは恩賞に持っていきやがれ!」

その声に驚いた佐賀勢が大蔵の方を見るもまもなく、大蔵は腹を十文字にかき破り、

「ぐうううううう!!!」

と声を上げてそのままうつ伏せで倒れこんだ。


 長良を逃がすしんがりを務めていた福島式部少輔は、これを見て

「うわあああああああ!」

と自分も龍造寺軍の中へ飛び込んで行き、打ち死にしたのだった。



(つづく)

==========

 ・・・・・・はてさて。手に汗握る名場面でございます。物語はもう少し続きますが、この続きはのちほど「検証編」としてもう少し読み込んでいきますのでお楽しみに。


 まず、今回押さえておきたいのは、ここで登場したわれらが大塚隠岐守です。

 「北肥戦誌」の中で、大塚隠岐が登場するのは、たったここだけ。そう、まさに文章で言えば、2箇所しか登場しないのです。


 龍造寺軍に襲われた土生島城、そこで神代長良につき従っていた「近しい家臣」として描かれている大塚隠岐は、おそらく何がしかの資料に残っていた人物なのだと思われます。

 それが証拠に、おなじ場面を描いた部分で「歴代鎮西志」にも登場しますから、この時土生島城に詰めていたことは事実なのでありましょう。


 しかし、このあと、「北肥戦誌」にも「歴代鎮西志」にも、一切記述がなく、


大塚隠岐守の姿は歴史の闇へと消えて


しまうのであります。


 そんな大塚隠岐が、歴史の資料からは出てこないものの、実はこのあと何がしかの変遷をへて、三潴地域へ所領をもらって落ち着いたのではないか、というのがこのブログの仮説なのですが、そこへ至るまでには


神代長良が、いろいろあったけど龍造寺隆信の家臣になる


というところまで話が進まないといけません。


 さあ、本当に当家の先祖と思しき「隠岐」なる人物はこの大塚隠岐なのか?!


 それを徹底検証するためにも、このあとの記述が見逃せません。次回は、この後の部分をじっくり読みながら、長良の家臣のうち


 果たして、誰が死んで、誰が死んでいないのか


を読み解いてみたいと思います!!! まて次回!













2015年6月24日水曜日

<105> 講読『北肥戦誌』 ”神代長良千布落城の事” その1

 当家の先祖と推定している「大塚隠岐守」は、果たして戦場で死んだのか、それとも生きて当家の地にやってきたのか。

 この永遠のミステリーを解くために、今回からしばらくは『北肥戦誌』の記述をじっくりと舐めるように読んでみたいと思う。

 題して”講読・北肥戦誌”シリーズ。姓氏家系研究家にして、国文学専門家、元国語教員の名に恥じぬような読解をお届けする新シリーズは、読み物としても面白い出来のはず?(^^;;



(底本は国史叢書版『北肥戦誌』を使用した。)

==========

<これまでのあらすじ>

 元は筑前高良大社の神主の家系であった神代氏は、没落し浪人の身であった。

 肥前千布の地に浪々の果てに流れ着き、三瀬城主の剣術指南役の職を得て実力を発揮し始めたビクトリー☆神代(神代勝利) は、その人柄もあって付近一帯(山内)の総領となり、佐賀北部の山岳地帯を治めるようになる。

 しかし、天文4年、少弐病冬尚が龍造寺一族を滅ぼそうとした時にビクトリーは加勢し、龍造寺一族を皆殺しにする。

 親戚一同を殺された龍造寺☆くまモン☆隆信は、復讐の鬼となり、打倒ビクトリーを誓って永遠のバトルを繰り広げるのであったが、互いに有能な部下を失いながら、戦いは疲弊するばかり。

 そして永禄5年、ビクトリーとくまモンは、子のグッド☆神代(神代長良)の娘と隆信の息子を結婚させる約束で、ついに和解することになったのであった。


 ところが、そんな時に事件が起きたのである・・・。


==========


 神代長良千布落城の事

 永禄8年の春のことであった。肥前佐賀・小城・神崎、三地域の地主であった神代大和守勝利は、胃ガンのため3月15日、畑瀬の城で死去した。55歳であった。

 その嫡子である神代刑部大輔長良は、家督を相続する。

 思い出してみれば、ビクトリーと呼ばれた男は、長年武器を取って戦い、何度も龍造寺とバトルを繰り広げたものである。しかし、永禄5年の冬、龍造寺の老臣納富但馬守が隆信と相談して、長良の4歳の娘を隆信の三男、鶴仁王丸の嫁に迎えるという約束となり、その後両家は、今までのことは忘れて、山と里の村同士仲良くしようぜと契約を取り交わしたのであった。

  それから、永禄7年に勝利は畑瀬の山の中に城を築いて隠居したので、子の長良は、上佐賀の内千布、高橋土生島の城に移った。

 さて、グッド☆神代の奥さんは、鹿江遠江守兼明の娘で、男女二人のこどもがいた。一人は長寿丸11歳、もう一人は、くまモンと約束して嫁に出す予定の初菊ちゃん、今10歳である。

 ところが、この二人は永禄8年4月のこと、三瀬の館であいついで天然痘にかかり、あっという間に兄妹とも亡くなってしまったのであった。

 父、勝利の死に引き続いてこども二人も失い、神代夫妻の悲しみようといえば、計り知れないほどである。何もしてやれなかったと悔やんでは、合瀬の万福寺虎山和尚に頼んで葬儀を行い、悲嘆の涙に暮れるばかりなのだった。


 その状況を知ったくまモンは、 今がチャンスとばかりにグヘヘと笑っている。すぐに部下の納富但馬守と龍造寺美作守を呼んで密談して言うには、

「最近、長良のヤツ。こども二人が死んだからゲッソリやつれているらしいじゃないか。こりゃあ、チャンスだぜ。今のうちにあいつをヤッちまうに限る。おまいら二人はすぐに千布へ行って、かくかくしかじか俺の言うとおりにあいつを騙くらかしてこい!」

とのこと。そうして、隆信は計画を練り、長良の居城、土生島へ二人を使わしたのであった。


 「いや、これはこれは長良殿」

と納富但馬と美作は、長良に対面しては、言葉巧みに言いくるめ始める。

「この度の二人のお子様のこと、大変悲しいことでございましたな。隆信様も、もちろん大変残念に思われておりますです。しかしまあ、これはまた、ホレ、別な話ではあるのだけれども。初菊殿が亡くなられたということは、鶴仁王丸様の縁談も無くなってしまうということであるわけで、引いてはわれら両家の約束を違わすわけにもいかんのでですな。要は、ご結婚の話が無くなっても、改めて約束を交わして、今後とも互いの結束を、まあ、深めよう、というわけです。わかりますな?」

 そう言いながら、「隆信さまからの、改めての誓約書です」と、文書を差し出したので、長良のほうもまさかこれが計略だとは思わず、受け取って使いの二人を丁寧にもてなしたのであった。





(さあ、神代長良はいったいどうなってしまうのか?!悪名高き肥前の・・・もとい肥前の熊こと龍造寺隆信の計略はいかなるものか?!はてさて、大塚家の先祖と思しき大塚隠岐守は、いったいどこに登場するのか?!  ・・・まて次回!)










2015年6月20日土曜日

幻の伏見城と金箔瓦 ~あなたも秀吉になれるかも?~

 戦国好きにとっては面白いニュースが入ってきましたね!


 幻の伏見城(指月城)発見?!
  http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150618-00000574-san-soci



 京都の伏見で、なんと秀吉が最初に建てた伏見城の跡のようなものが出てきたそうです。

 これまでも瓦などは出土していましたが、遺構がはっきり出たのははじめてなんだとか。


 マンション建設現場から出てきたそうですが、さすがは伏見の地だけあります。


 信長・秀吉関係でやっぱり特別な感じがするのは、城の瓦に金箔が貼られているという成金仕様!!

 出土した金箔瓦はこんな感じ

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150618-00000065-jijp-soci.view-000


だそうです。


 攻撃対象、つまりはぶっ壊される可能性がある城に「金箔」を貼るというのは、合理的には完全に無駄遣いなのですが、そこはさすが


 信長は考えることが180度違う!


ところです。壊されるかもしれない城に金を貼りまくることで、逆に「なめんなよワレ!」と威光を見せ付けることができるという


 只者ではない感じ


が、さすが天下人の器だったのかもしれません。


 私の知り合いにも、ベンツのディーラーに田んぼから長靴・作業着で直行するおっさんがいます。


 「なんやこのおっさん」


と思わせておいて、新車のベンツを現金で買うという小金持ちのおっさんですが、彼はそのまま泥のついた長靴でベンツを運転して帰りますから、


 ある意味、そこまでやれば許せる


というかなんというか。 彼は本気で、「もったいない」とかそういうチンケなことは思ってないようです。


==========

 さて、伏見城。あまり幸運に恵まれていなかったらしく、何度も近辺で建てかえられており、今回見つかった指月城バージョンも慶長地震で倒壊したようです。

 
 この慶長地震は、1596年版の「阪神淡路大震災」で、


 ウィキペディアより 慶長伏見地震
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%B6%E9%95%B7%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%9C%B0%E9%9C%87

 
 京阪神の断層がずれた直下型地震だと考えられています。

 こういう古い記録をないがしろにしなければ、現代の地震被害も多少は少なくなろうと思うのですが、人間というのはすぐに忘れてしまうものなのですね。



 ウィキにもありますが、1995年の阪神淡路大震災は、慶長地震のすべり残しが動いたものという説があるそうで、戦国時代と現代が、ぴったり直に繋がっているということでもあります。


 歴史って、本当にすごいですね。



 話は戻って直近の伏見城は「伏見桃山城キャッスルランド跡地」として公園になっているようですが、 そこにでかでかと作られている模擬天守(要するに、にせもの)は


 耐震構造になっていないので、中に入れず放置


されているそうで。なんだかな~。また地震で倒壊するとすれば、因縁以外の何者でもありませんな(苦笑)



==========

 さて、そんな伏見城や安土城で使われた金箔瓦ですが、現在とある瓦メーカーが再現品を作っておられます。

 もし、あなたのおうちの屋根を金箔瓦に変えたい!ということでしたら、遠慮なく大塚某までお知らせください。大塚某は、建築資材を取り扱う会社におります(^^



(当社にて取り扱い中。ただし受注生産)


 ちなみに、何処の誰が金箔瓦を買うのかって?


 そりゃ、アレですよ。 中国の富裕層が、絶賛発注中らしいですよ。ここだけの話。

 さすがは世界の富が集まる中国ですね1





2015年6月17日水曜日

浅間山噴火と大塚氏 ~なぜ幽霊には足がないのか~ その2

 さて、前回はいいところで終わってしまいましたので、今回はじゃんじゃんバリバリ頑張っていきましょう!



 浅間山を取り巻くトリビア



でお届けした前回ですが、今回はなんと「幽霊に足がない理由と浅間山の関係」についてお話したいと思います。



==========

 ご存知のとおり、日本の幽霊には足がないとされていて、日本画に描かれた幽霊もその大半は足元が透けているという状態になっています。



 ウィキペディアより 幽霊
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BD%E9%9C%8A



 そんな壮大なテーマを文学部日本文学科の卒論テーマに選んだのが、何を隠そう私と大学時代をともに過ごした友人のIくんでございまして。


 彼は現在浅間山の近くの某所にて図書館司書をしているらしいのですが、



 おーい、I村、元気にしてるかー!FBにメッセージ書いたのに、見てないのか!返事しろー!


(失敬)



 当時22歳の彼は、「幽霊に足がなくなった理由」について果敢にアタックしたわけでありました。



 さて、文学部日本文学科近世ゼミに属していた大塚某とI村くんは、基本的におなじ作業をしていました。



 ちなみに私の卒論テーマは「近世演劇における人形と人間」というものでありまして、簡単に説明すれば以下のような話です。



 えーと。


 おねえさんとニャンちゅーがいますよね?わくわくさんとゴロリでもいいです。要するに、なんかしらんけど人間の演者がいて、横であきらかに人形とかぬいぐるみとか、人間でないものが存在しているときに、どうして両者は共演できるのだ?


という謎を解くのが卒論でした。


 つまり、人間と人形が一緒にいて、観客はそれがどちらも人格をもったキャラクターだと認識できるわけですが、これってよく考えたらそういう「共通理解・見立ての理解」がないとできないじゃん!じゃあ、それってどういう風に生まれたの?


 ということを江戸の演劇論から探るという手法でやったわけです。


(結論を言えば、からくりロボットが使われたり、人間が逆に人形のフリをしたり、いろんな演出があって大変面白いのですが、これはまた別のお話)



========

 というわけなので、実は卒論を書くにあたって、私とI村くんは全くおんなじ作業をしていました。


 方法は簡単。江戸時代の書物を片っ端からめくりながら、私は



 挿絵に人間と人形が同時に出てきたやつをピックアップする


作業。I村くんは、


 挿絵に幽霊が出てきたやつをピックアップする


作業、を延々と二人で繰り返していたわけです。なので、お互いに「こっちに幽霊の絵があったで」とか情報交換もしていたので、彼の卒論の内容は、ほとんど頭に入っているのです。




 さて、調べていると面白いことがわかってきました。私の場合は元が演劇のネタなので、どうしても演劇資料が中心になりますが、I村くんの方は、江戸の幽霊イラストを延々と見ているうちに、より古い時代のものがほとんどすべて


歌舞伎の「絵入狂言本」(イラスト付きパンフレット)


であることがわかってきたのです。


 つまり、いわゆる幽霊の絵そのものが広がる以前に、


「幽霊が登場するシーンを描いた、歌舞伎のパンフレット」


のほうがたくさん見つかった、というわけです。



 厳密に言えば、最も早い足なし幽霊の図は「花山院きさきあらそひ」という浄瑠璃本に出てくるのですが、これはぶっちゃけ



 足どころか、下半身が消えて宙に浮いているヤバイヤツ



として描かれています。


 というわけで、この時点では「足がない」という概念が生まれておらず、首だけ人間とか、胴まで人間という感覚だったのですが、足から下がないというおなじみのイメージが生まれるには、とある歌舞伎作品が影響しているのではないか、ということがわかってきたのです!



 それが、元禄11年に上演された歌舞伎



「けいせい浅間嶽」



で、主人公に縁があった遊女のラブレターを火鉢に入れると、煙がぶわっと上がって中から遊女の霊が現れる、というシーンが大反響を呼びました。


 もちろん、これは歌舞伎の舞台ですから、火鉢と煙を組み合わせて、役者が幽霊のように現れるというトリックを演じてみせたわけです。



 ところが、これが評判を呼んで、「浅間モノ」(けいせいナントカシリーズ)という似たような話がその後乱発上演されるようになったのです。

 このシリーズでは、必ず「ラブレターを燃やすと、遊女が煙から出てくる」シーンが取り入れられました。



 となると、その当時の歌舞伎界では、足元が煙で見えない遊女のシーンが描かれたパンフが乱発されますから、


 足元がない女=幽霊


というイメージ画像が定着することになります。


 これらに着想をえて、有名な円山応挙らが「足元の見えない幽霊画」を完成させたといっても過言ではありません。




===========


 というのが、I村くんの卒論のあらすじ。なかなか面白いでしょ?!


 これが事実なのかどうかは、みなさんもググって調べてみてくださいね。


 I村君は歌舞伎の絵入狂言本が原因だとして論を展開していましたが、「夢を見ているときのふきだしとしての雲」と関連づけて考える研究者もいるし、いろんなパターンがあります。



 余談ですが、幽霊画でいえば、大塚某は鰭崎英朋 「蚊帳の前の幽霊」なんかが好きですが。

 http://shanti.tumblr.com/post/16264744/via-32






 

浅間山噴火と大塚氏 ~なぜ幽霊には足がないのか~ その1

 先日より噴火の兆候があった「浅間山」が実際に噴火したようで、規模は小さいながら日本全体の火山活動に対して、ちょっぴり畏怖の念が生じている今日この頃。

 どうも、日本じゅうのマグマが活動しているらしく、箱根は噴火するわ、口永良部は噴火するわで、



 あとは富士山が噴火するかどうか



を残すのみとなりました。ああ、おそろしや。



 ちなみに、「浅間山」の”あさま”とは、古いことばで火山を意味していたようで、そのため、富士山にある神社も、行った人は知っているとおり



 富士浅間神社(あさま神社・せんげん神社)


と呼ばれています。



 そういう意味では、もちろん富士山も火山ですので、浅間山である、ということに。

 
 さすがに最近では、富士山が休火山だとは誰も思っていません。近い将来に噴火するのだろうなあ、と予想しながら毎日を過ごしているわけで。




==========


 さて、今回噴火しているのは、もちろん富士山ではなく、長野県と群馬県にまたがる「浅間山」です。


 実はこの浅間山、結構な頻度(ざっと、5年おきくらい)で噴火している現役バリバリの活火山です。


 そういう意味では、今回の噴火だけを取り上げるのであれば、まあいつものことなのですが。



 また、この浅間山、言わずとしれた



 あさま山荘事件


の舞台となった山でもあります。



==========


 とまあ、そんな余談から入りましたが、今回はこの浅間山と大塚氏の関係をリサーチ!


 地元の人たちにとっては、名峰「浅間山」というのはやっぱり偉大な存在であり、信州小諸ではその名もズバリ



 浅間嶽(あさまだけ)


なるお酒が造られています。作っておられるのは我らが大塚酒造さん。




 大塚酒造さんのサイトより
 http://www.asamadake.co.jp/



 なんといってもサイトのアドレスが、asamadake.co.jp ですから、この地でのこのお酒の知名度がわかりますね。



 大塚酒造さんは天保年間創業の江戸時代からつづく酒蔵さんなので、長い歴史です。



 さて、ここからは一般論ですが、長野県の大塚氏は、「佐久地方」や「小諸地方」に分布しており、



 佐久地域の歴史さんのサイトより
 http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/sakugun.html



によれば、旗本水野氏の陣屋が大塚家(庄屋)に置かれていたようですから、戦国武将の末裔だと推定できそうです。


 長野佐久地域は滋野氏グループの支配力が強く、滋野流大塚氏の流れである可能性が高いように思います。


 大塚氏は、鎌倉時代あたりに滋野から分かれたとされていますが、実は来年の大河ドラマ主人公である真田氏も、滋野流だということになっています。


 そして、これまたかなり推定なのですが、うちのおかんのルーツが、この滋野氏から出たY氏なのではないか、と現在調査を進めています。



 もし本当にそうならば、



 私の先祖は去年の大河ドラマ主人公黒田官兵衛ちゃんと共通


であり、かつ


 私の先祖は来年の大河ドラマ主人公真田父子と共通


であるということになるわけで、これはもう、あとは私が大河ドラマに出るしかない!と息巻いています。←バカ。




==========

 で、今日のもうひとつのテーマである、


「なぜ幽霊には足がないのか」


という日本人の一大問題についてですが、これもなんと浅間山に関係するというから驚きです。



 しかし、前半部分で今日の尺がずいぶん長くなったので、続きは次回ということで。



(この節つづく)

2015年6月14日日曜日

<調査中>鹿児島県(種子島)の大塚さん

引き続いて今回も小ネタ。


 種子島、といえば鉄砲伝来の話が有名ですが、鉄砲が日本に入ってくるちょっと前に、


 悲劇の大塚氏


がいたことがわかりました!



南種子町役場 さんのサイトより
http://www.town.minamitane.kagoshima.jp/bunkazai/bunkazai_details.html


応仁の時代、種子島の当主が律宗から法華宗へと改宗した際、それに従わなかった地頭大塚氏が


首のこぎりの刑(それも竹のこぎり)


にされたという強烈なお話。


 島に大塚山という地区があるので、この大塚氏はもともと島を本拠とする独立系の氏族だと考えられます。


 ちなみにこの物語は


 歴史小説 はごろも
 http://www.tamashida.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B0%8F%E8%AA%AC-%E3%81%AF%E3%81%94%E3%82%8D%E3%82%82-%E6%96%B0%E5%88%8A/


 という地元の作家さんによって詳細が書かれているそうなので、興味がある方はぜひどうぞ。




 それにしても、種子島に大塚さんが生き残っていたら、連絡ください。




2015年6月13日土曜日

<調査中>兵庫県(丹波篠山)の大塚さん

 今回は小ネタ。

 兵庫県の真ん中あたり、丹波篠山(デカンショ節で有名)に大塚氏を発見。



 図説 尼崎の歴史 さんのサイトより
 http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/chronicles/visual/03kinsei/kinsei3-2.html



 尼崎藩の片岡家というところの資料ですが、なんと「丹波篠山藩の大塚氏」から養子をもらったり、また養子に出したりしているらしい。


 しかし、これが文政時代というから、江戸も後期で、最近に近い話。


 文政時代の篠山藩は青山氏が治めていましたが、


 ウィキペディアより 篠山藩
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AF%A0%E5%B1%B1%E8%97%A9


 青山氏は丹波亀山(現在の亀岡)から入封しています。


 
 実は、この青山氏の分家が一時期尼崎藩主であり、この辺のからみで「篠山藩と尼崎藩」にネットワークがあったのかもしれません。



 しかし、当方のリサーチでは、「丹波地方に大塚氏として目だったものはいない」ので、この篠山藩の大塚氏はどこかからか縁あって流入したものだと考えられます。


 
 藩主の青山氏の経歴は、もともとは上野国吾妻が本拠であり、三河に土着して松平氏に従い、歴代あっちこっちをうろうろして篠山に落ち着いています。


 なので、この大塚氏を判別するのは、系図でも残っていないかぎりほぼ不可能かもしれませんね。




2015年6月5日金曜日

北海道在住者の苗字・家系・先祖調査について ~生田斗真さんと生田神社~

 昨日は、テレビの番組で「生田斗真さん」の”生田”という名字の由来について、というネタをやっていたので、楽しく拝聴しました。


 (櫻井有吉アブナイ夜会、という番組です)
 http://www.tbs.co.jp/abunaiyakai/



 番組では、”生田”という姓は、全国各地で自然発生的に生まれているので、どこの氏族かをつきとめるのは容易でない、という話とともに、


 一番古く登場する”生田さん”は?


ということで、神戸の生田神社に関わる姓についてのエピソードなんかが紹介されていました。


 さてさて、生田姓については、当ブログ「大塚まつり、大塚ファンクラブ、大塚マニアックス」としては、あまり関係ないので(オイ)、とりあえずほっておきますが、


生田斗真さんが北海道出身


ということで、



北海道民の苗字調べ


について、いくつかポイントをまとめておこうと思います。



 実は北海道には、苗字研究の専門家がいらっしゃって、岸本良信さんという方がおられます。


 ウィキペディアより
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%B8%E6%9C%AC%E8%89%AF%E4%BF%A1



 この方、当ブログではおなじみである日本の姓氏家系研究の第一人者、太田亮大先生の孫弟子に当たる方で、系統としては


太田亮 → 丹羽基二 → 岸本良信


という流れで研究者が続いています。大先輩の調査があってこそ、我々はたくさんのことを学べるわけで。





 それはさておき、北海道に住んでおられる方というのは、みなさんご存知の通り、幕末から新政府に変わった時期から、本州より移住なさった方というのが圧倒的に多く、そのため、本来の土地から切り離されているので先祖を辿るのが難しくなっているわけです。


 これが本州在住であれば、多少子孫が移動移住していても、


「本家はどこそこにあるらしい」


みたいな伝承が残っていたりするので、まだ先祖を辿り易かったりするのですが、北海道の若い世代の方にとっては、そうした地縁・血縁の感覚は、なかなか体感しづらいものがあるかもしれません。




==========



 さて、うちの奥さんは何を隠そう、隠すまでもなく北海道生まれなので、現在追跡調査のまっただ中です。


 どうしても大塚系を先に調べているので、嫁はんのルーツは後回しになり気味で怒られているのですが、着々と進んでいます。



 どうやって調べるのか?


 その方法はたった一つしかありません。とにかく「戸籍謄本・改製原戸籍謄本」などをとりまくるだけです。


 現在住んでいる住所から、両親の戸籍、あるいは祖父母の戸籍を取り、とにかく直系を辿って行く作業が、イロハのイになります。


 そして、戸籍が北海道を脱出したところから、いよいよ本当の先祖調べ、名字の由来調査へと移行するわけですね。



 というわけで、北海道のみなさんにはまず、



 津軽海峡を越えろ!



が最初のアドバイスです。


 そして、もっとマニアックなことを言えば、いわゆる「屯田兵」とか「入植」が盛んだったのは、明治初期なのですが、



諸藩による分領(いわゆる”北のゼロ年”のやつね)  明治2年~明治4年

開拓使制度 明治2年~明治15年 (明治4年からは松前藩一括統治)

屯田兵制度 明治7年~明治37年

その後の民間レベルでの移住開拓等



という時系列で見ると、旧身分が掲載されている壬申戸籍が明治5年式であり、かつ、私たちが現在取得できる最も古い形式の戸籍が明治19年式なので、



初期の移住者については、戸籍から拾えない可能性がある



ということになるわけです。


 簡単にいえば、後期~末期の屯田兵制度に該当する方や、もっと近年の民間移住については拾えるけれども、古くから道内に入植した方の名簿は、逆に



幕末の諸藩の資料などから拾わなければならない



こともありえるわけで。






 そんなこんなでうちの奥さんについては、現在



「北海道脱出に成功!」



したところであります。



 そして、北海道へ民間レベルで来た方は、東北地方の人が多い、という伝承通り、戸籍が示した先は



「宮城県!」



でありました。




========


 というわけで、まずは戸籍を取得してね、というところで今回はお開き。


 苗字調べの趣味が高じて




 苗字・名字の由来と先祖探し・ルーツ探しのアドバイスをします
 https://coconala.com/services/41874



というサポートもしております。おそらく苗字関係では最もリーズナブルな500円ですので、お気軽にご相談くださいませ。












2015年6月3日水曜日

<調査中>長野県の大塚さん

 いつも、全国各地の大塚さんからいろいろ貴重な情報を頂くのですが、今回は長野県に関係する大塚さんから連絡を頂きました。


 なんでも、「島津氏」の家臣だった大塚氏が、帰農して長野に定着している、ということがわかってきました。


 さあ、島津ですよ島津!


 島津といえば、誰もが真っ先に思いつくのは鹿児島薩摩藩の島津家ですね。


 なんと言っても、幕末では大活躍の島津であり、琉球王国を支配した島津であり、家康ちゃんが最後まで倒すに至らなかった島津であります。


 島津&毛利といえば、戦国時代の恨みを幕末に晴らす的な因縁の一族でありますから、誰もが知っているところ。



==========

 ところが、その島津氏が長野県にいた、となると庶民は


「・・・へ?」


となるのが普通です。ここでニヤリと笑うのは歴史マニアだけなので(苦笑)



 というわけで、まずは「島津氏」の歴史について、おさらいしてみましょう。


 時は平安時代から鎌倉時代にかけてのこと、源頼朝の部下である御家人のひとりに


「島津忠久」


というおにいちゃんがおりました。(正式には惟宗忠久)


 彼のお母さんは、源頼朝の乳母だったようで、その縁で頼朝に近しいところで活躍するのですが、結果

「日向国の地頭」
「信濃国の地頭」

などに任命され、最終的には「大隈国・薩摩国・日向国守護」として南九州を一手にゲットすることになるわけです。


 そのため、それぞれの地域に、系列の島津氏がおり、長野の島津氏は信濃島津氏としてこれまた広がってゆくのでありました。



 その信濃島津氏の家臣として大塚氏がいたことが判明したのですが、信濃を拠点とする国人としては



滋野氏流海野姓大塚氏

(一覧でいうところの

http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html

Q/D/Eの系統)


が該当するのではなかろうか、と考えています。


 実は長野には、いくつか大塚氏の痕跡がありますので、このあたりはじっくりと調べたいところ。


 また新しいデータが出れば報告しようと思います!



==========

 ざっと信濃の大塚姓を概観すると、



佐久地域の歴史さんのサイトより
http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/sakugun.html



 まずは現在の佐久市に大塚氏が水野氏の名主・代官に当てられたことがわかります。



国文学研究資料館のサイトより
http://base1.nijl.ac.jp/~eadfa/db/internal/ocl-JALIT-DHD/changeview.cgi?xmlfdir=ac1958002&xmlfname=33B_ead-src.xml&xslfname=EADFAentire.xsl


 それから、小県郡の高橋家に伝わる文書郡の中に、幕末から明治にかけて「名主→戸長」となった大塚氏の書類が残っています。



 大塚神社のルーツをさぐるさんのサイトより
http://nakamachi.nows.jp/hp/konjyaku/ootuka/ootuka2.htm



 いっぽうこちらは、地名や神社名として残る「大塚」について。氏族の名称と関連があるかどうかは、まだ調査中です。