2016年6月26日日曜日

<調査中> 山梨県の大塚さん

 ちょっとだけ思い出したように、全国の大塚さん調べを続けている。



山梨県東八代郡


の別の氏族の依頼で、苗字とルーツ探しをしていたところ、この地域にも「大塚」姓があることに気づき、ちょっとだけ寄り道をして調べてみた。



 すると、実は東八代ではなく西八代のほうに、「大塚村」を発見!正式には、


甲斐国西八代郡大塚村  (現在は、市川三郷町大塚)


という名称である。



 ちなみに、この大塚村と隣接していたのが



「甲斐国、下九一色村」


である。ん?んん?なんか聞いたことのある名前!!!




 そうである。今はなくなってしまったが、オウム事件で一躍有名になってしまった


「上九一色村」


の”下”のほうだった!




==========


 まあ、地理的にはそんなあたり、ということで完全に余談だったのだが、甲斐国の大塚姓についてはまだ資料をあまり見つけていないので、八代の大塚氏を含めてどういう系統かまだ判断がつかない。



 甲斐といえば武田氏族の支流に大塚氏は存在するようなのだが、この系統も資料がすくなく推測の域を出ていない。



 武田氏家臣の大塚氏については、たとえばこんなのが。


 Wikipediaより 武田信顕

 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%A1%95

 

 甲斐から出た武田氏で、天正期に徳島の脇城に入り、長曽我部と戦って最終的には負けるのだが、その遺体を家臣の大塚善太夫が埋めた、ということになっている。


 もちろん、これだけではこの大塚氏が甲斐の系統か、徳島の系統かわからないのでなんともいえないのだが・・・。



 調査続行!




2016年6月25日土曜日

<調査中> 秋田県、山形県、そして宮城県と栃木県?の大塚さん 〜出羽国と大塚氏〜

 久しぶりの全国大塚研究の記事であるが、ふと面白い記述を目にしたので、ご紹介しておきたい。


 北海道の岸本さんという方は、苗字研究の大家で有名なのだが、「税のしるべ」という大蔵財務協会という仰々しいところから出ている雑誌にこんな記事を書かれたことがあったらしい。


” 大塚さんは全国にいるが、一番多く住んでいるのは栃木県である。”


 税のしるべ電子版
 http://shirube.zaikyo.or.jp/article/2014/07/28/19648.html



 というわけで、この系統の大塚さんについて調べたいわけだが、以前にもどこかで書いたけれどこの系統は、近世には「伊達家」の家臣やそのグループに属していることが多い。


 その理由は以下のようなことらしい。



 秋田の中世を歩く さんのサイト
 http://zyousai.sakura.ne.jp/mysite1/kawanisi/ootuka.html


によると、


旧出羽国 山形県東置賜郡川西町中大塚

というところに「大塚城」なる城があり、


藤原道隆の九世の子孫大塚因幡守親行が、「置玉郡長井荘大塚城」に居住した


と「伊達世臣家譜」に書かれているという。



 その後、南北朝時代には伊達氏が一帯を制圧するため、その後は大塚氏は伊達家臣として生きていったと考えられるのだが、このことについては、他でも伊達の資料に大塚の名が散見されることから、一定の信憑性があるように感じられる。


 
 出羽大塚城については、


城郭放浪記 さんのサイト
http://www.hb.pei.jp/shiro/dewa/ohtsuka-jyo/


にも書かれている。



 実は、この系統は


<調査中><59> もう一人の”大塚将監”は何者なのか?! 山形県の大塚さん
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/05/blog-post_2.html


で一度取り上げているが、その時は、「藤原道隆」の系統であることがわからず、地元の氏族だと考えていた。



 なので、今回ちょっと進歩(笑)



 ちなみにこの系統、  


『宮城県姓氏家系大辞典』(角川)では


◇仙台藩家臣、藤原姓、大塚因幡守親行の十四代左衛門佐宗頼が祖。一族に列す。磐井郡(岩手県)西永井村に田宅を置く。
 

◇仙台藩家臣、(1)の宗頼の次男和泉頼賢に始まる。平士。宮城郡七北田村大沢(仙台市)に田宅を置く。
 

◇白石片倉家の家臣、一番座、一貫文。三吉が初代。
 

◇白石片倉家の家臣、士格の一。五〇〇文。清助が初代。


とあるうちの最初のものだと思われる。





 秋田県の大塚氏については、「秋田県史」344Pには



”山本郡河戸村肝煎”


として大塚氏の名前が出てくるので、出羽一帯の大塚姓の分布も要調査であろう。






2016年6月8日水曜日

全国の大塚さんたち!クライマックスが待ちきれない! 聞いて驚け”真田丸”最後の戦地は「大塚城」だったスペシャル!

 前回は、真田の家臣に「大塚氏」がいた、あるいは真田と遠縁の「大塚一族」がいたお話でしたが、今回は氏族とは無関係です。


 ですが、全国の大塚さんたちが多いに盛り上がりそうなこのお話。


 NHK大河ドラマ「真田丸」のクライマックスが待ち遠しい、地名の



「大塚城」



についてのご紹介です。


 大阪城の戦いにおける「真田丸」といえば、真田信繁が大阪城から外に出て築いた出城としての「真田丸」が有名ですが、 実は、真田の戦いのすごさは、


「真田丸じゃなくて、大塚城」


でそのクライマックスを迎えること、知ってました?



 というのも、真田丸の戦いは、一回目の「大阪冬の陣」でのお話、だからです。


 実際に信繁たちが滅びることになる「大阪夏の陣」は、2回目の戦いですから、ここで要注意なのです。



 2回目の戦いでは、信繁は真田丸を使っていない!!!!ババーン!



と言えば、みなさん驚くことでしょう。



 そうなんです。



 真田氏の2回目の戦いでは、真田丸はあんまり関係ないことになっちゃってるのです。




 では、真田丸の真の舞台は何処だったのか?!


 それが、現在茶臼山古墳として知られる、其の名も



「大塚城」


なのであります!


 ウィキペディアより大塚城
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%9F%8E


 

 この大塚城、実は大阪の陣を象徴するような城で、


1回目の大阪冬の陣では、家康の本陣


が置かれます。


そして

2回目の大阪夏の陣では、真田の陣


が置かれるのです!!!


 どっちから見ても最前線!!!特捜最前線です!!!(←古いわ)



 陣形については、ウィキペディアをご参照ください。


ウィキペディアより大阪の陣
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%9D%82%E3%81%AE%E9%99%A3



(画像はウィキペディアからの引用です)


 ちょうど一番でかい赤い凸型のあるところ、そこが大塚城(茶臼山)です。

冬の陣では、ここに家康がいます。





(画像はウィキペディアからの引用です)


そしてなんと!大阪夏の陣では堺雅人が大塚城にいるのです!!!!


 ちなみに、絵図では、信繁の下に、愛之助の息子「大谷吉治」の名前も。ノリカのこどもではないので、あしからず。



 いやあ、クライマックスが待ち遠しいですね!!!

2016年6月7日火曜日

<調査中> 真田丸と大塚氏 ドキッ?!信濃に真田家ゆかりの大塚氏がいたスペシャル!



 NHK大河ドラマ「真田丸」は未曾有の大人気で、昨今の大河の中でも1,2を争うほどの評判になっていますがみなさまいかがお過ごしでしょうか?(笑)


 そんな大人気の真田丸、もちろん大塚某も欠かさず毎週チェックしているのですが、ワタクシはどちらかといえば本拠が九州なので、信州から関東にかけてお話である真田氏界隈についてはあまりツッコまないように意識しておりました、・・・が。


 んがしかし!


 日本全国20万人を誇る大塚氏の中には、真田丸と無関係とは言いがたい大塚一族がいるので、ぜひその方々には真田丸を100倍楽しんでいただこう!とご紹介する次第です。




 その大塚氏、元々は信州を拠点とする大塚氏は、そもそものルーツを名族・滋野/海野氏に発します。


 真田丸ファンであれば、清和天皇の第四皇子から出たと言われる信濃の滋野氏はご存知と思いますが、その滋野氏は


「海野/禰津/望月」


の三氏に分かれて滋野三家と呼ばれたのは有名な話。


 そのうち、海野氏がいちおう嫡流の系統ということで、本当は禰津系らしい真田氏も、海野に系図をつなげちゃったりしちゃったりなんかして!という


もう!草刈パパったらいつもウソばっかりなんだから!


という状態なのでございますが、それはまた別のお話。





==========




 さて、ここで問題。






 もちろん、真田丸にも登場するこの紋、誰の家紋でしょうか?


といえば、もちろん、誰もが「真田氏」と答えますが、厳密にはこれは



 滋野氏


が用いた六文銭/六連銭紋なのです。



 ということは、滋野も海野も、そして当然真田もこの紋を使います。つまり、これは信濃国小県や佐久地方に根付いた滋野グループだよ~という意味でもあるわけです。



 というわけで、もちろん六文銭を家紋にした大塚氏も存在します。



<8>完全網羅 大塚姓・大塚氏・大塚さんのすべて! 全大塚氏族超まとめスペシャル
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html



でも既出で触れていますが、


Eに元真田を名乗る大塚氏がいる


ことがわかっています。



 しかし、厳密にはこの大塚氏、真田の名前が有名になったから「もと真田」を称しているだけで、本当は真田氏ではなく海野系の大塚氏だったのかもしれません。


  真田は滋野グループでも傍流ですが、海野から分かれた大塚氏もちゃんともともと存在するからです。




 日本の名字7000傑さんのサイト
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01210.htm


 だけでなく、


矢久長左衛門さんのサイト
www.geocities.jp/pmrpq000/iwasita.k.pdf


の系図にも出てきていますが、



 海野氏載という人物から、信州の大塚氏が始まっており、「岩下氏」や「矢沢氏」も、このあたりから分かれ出ていることがわかります。


 ちなみに、系図の流れで言えば、真田氏は後ろのほうで、ちょこっとくっつく感じですね。




 というわけで、真田家臣としての大塚氏もちゃんと存在していて、


真田家 家臣団 さんのサイト
http://www.geocities.jp/huckbeinboxer/sanada.html


にも、信繁と一緒に大阪城へ行く 大塚清兵衛 という人物が出ています。





また、加沢記 第一巻にも、そもそも村上義清の頃に



「禰津の親類であった大塚掃部介幸実が、村上家から諏訪に寝返ろうとした」


話なども出てきます。


 意外と、信濃の大塚氏は記録に出てきてるんですね!