さて、実は三木市には、もうひとつ「大塚」にかかわりのある地名がある。
前の記事にも出てきた「三木合戦」のわかりやすい図があったのでリンクしておくが、
YORIさんのホームページより
http://www.eonet.ne.jp/~yorisan/newpage43.htm
秀吉がどんな感じで三木城を取り囲んだのかが、この図からざっくりとわかるようになっている。
まず、大塚町の位置が、三木城から東方向にすぐ示されている。そして、もうひとつの「大塚」が、城から南西方向に図示されているのがわかるだろうか。
これが「高木大塚城」とよばれる砦の位置である。(三木市別所町朝日ヶ丘)
たびたび城たび100選 さんのサイトより
http://www.hyogo-tourism.jp/shirotabi/100castles/areas/detail.php?pageid=45&page=1
ここでいう「大塚」とはもちろん古墳のことである。古墳の丘を利用して砦を築いたために「高木大塚城」の名で呼ばれるのだが、ここが古来より「大塚」と呼ばれていたのなら、もしかしたら「大塚氏」と関係あるかも、と思わざるを得ない。
この時期、小寺氏(本家)は、信長に従うかどうか、うにょうにょやっていたのだが、最終的には反旗を翻して、御着城(小寺の居城、姫路城のとなり)を落とされてしまう。その結果、家来筋の黒田官兵衛の今度は部下にならざるを得なかった、というわけだ。
========
こうして2つの三木「大塚」について見てきたが、どちらも有馬・小寺(黒田)両氏との接点は三木合戦の前後に起きており、「大塚氏」との接点を見つけ出すのは難しい。
仮に、大塚氏が三木出身だとしても、この時点で「有馬・小寺(黒田)」氏と繋がったのではないと思う。
大塚が「赤松の家臣」として記録に残るのは、もっと前だからだ。
室町期の「大塚重太夫」も、のちの「大塚将監」も姫路市内に痕跡を残していて、三木周辺ではない。
百歩譲って、大塚氏の出自が三木大塚周辺だとしても、相当早い段階で赤松本家と合流している可能性が高い。
いよいよもって、謎が謎を呼ぶのであった。
2013年12月31日火曜日
<21>【1】三木市大塚地区を訪ねて
実のところ、我が「赤松支流大塚氏」のルーツとして、個人的にいちばん「あやしい?!」と睨んでいるのが、この三木市大塚地区である。
兵庫県三木市大塚、はなんとウィキペディアにわざわざ一項を立てて下さっているくらい有名?!な地域で、ざっくりとした解説はそちらをご参照いただきたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A_(%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%B8%82)
この三木市大塚地区は、今は三木市役所となっている「三木城」跡のほど近くの地域であり、古くは播磨国久留美庄に属し、もと美嚢郡三木町にある。
この大塚地区、なぜ「大塚」と呼ばれているのかはよくわかっていない。もちろん、古墳があったとか、「王塚(王の墓)」があったとか、いろんな由来らしきものは残っているらしいが、決定的に現存しているものがないため、理由が不詳である。
また、この大塚地区に大塚さんはほとんど住んでいない。不思議といえば不思議だが、「この大塚地区から大塚氏が出た」といった伝承も全然残っていない。
つまり、三木大塚と「大塚氏」の関係性は記録にはぜーんぜん残っていないのだが、そこかしこに「ほのかな香り」が残っているのが興味深い。
まず、室町時代から探ってみよう。
三木一帯は、赤松家臣団の中でも有力であった「別所氏」が治め、三木城を建てた。別所氏は赤松氏の血縁分家ではないが、家臣としては高い地位にある、いちおう赤松軍団のメンバーである。
ところが、赤松軍団はでっかくなりすぎた故に、戦国時代になるといろんなしがらみや考え方から、敵味方に分かれるようになる。
最終的に、別所氏は、「織田軍」に敵対するようになり、三木城は「豊臣秀吉」によって、兵糧攻めに逢って滅びてしまう。
この戦いは「三木合戦」として有名で、もちろん当ブログにおいても、このネタはもう少し後まで引っ張ることになる。
三木合戦 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%90%88%E6%88%A6
さて、この三木城のとなりが「久留美庄」で、そのとなりが「淡河」という地域なのだが、赤松軍団が内紛している戦国時代には、あの有馬氏の分家が秀吉の部下となって「淡河城」に入り、ひっきりなしに「三木城」を落とすべく頑張っているが、うまくいかなかったので、秀吉が乗り込んだという経緯がある。
久留米藩分限帳には、「大塚」以外に「小寺」や「淡河」といった家臣の名が見えることから、三木大塚が「大塚氏」にゆかりがある、といってもあながち見当違いではないようにも思われる。
そう、有馬氏は美嚢郡と関わりが深いのだ。
========
さて、もうひとつ僕が個人的に「大塚=三木大塚」の関わりについて気になっているポイントがある。
それは、この地の寺のことだ。
三木大塚からほど近くの、志染町に今でも残っている645年開基といわれる「伽耶院(がやいん)」という古刹があるのだが、ここが天台系修験道の寺院として有名なのである。
また、現存しないが、別に「高男寺(こうなんじ)」という天台宗の寺もあったという。(地名だけが残っている)
さらに、現在は曹洞宗だが、三木上の丸にある「雲龍寺」も天台宗の僧が開祖だという。
天台宗といえば、「抱き茗荷」である。
三木城を中心とした範囲は、めちゃくちゃ天台系の影響力が強い。ここが「大塚氏」の源流だとすれば、「抱き茗荷」紋の採用とも、整合性がある。
しかし、残念なことにそういったことの裏づけが何にも残っていないのである。
========
その大きな理由は、さっきも出てきた「三木合戦」だ。
秀吉はとにかく、三木城を落とすためにそこらへんに砦を築きまくり、その砦を作るために、そこらへんの寺院を焼き払った。
「伽耶院」も三木合戦の折に焼失、後々になってからの再建であり、「高男寺」は完全に消失。「雲龍寺」も秀吉のせいで「焼失」のち再建されたのである。
簡単に言えば、巨神兵のごとく、秀吉の猛火は、あたり一帯の歴史的遺構を
「やきはらえ!」
「なぎはらえ!」
してしまったのである。
だから、三木城周辺の寺社は、すべて三木城落城後の「再建」ばっかりなのである。
大塚氏の形跡がまったくこの地に残っていないのは、あるいは秀吉のせいかと疑ってしまう。
・・・・・・サルめ!
兵庫県三木市大塚、はなんとウィキペディアにわざわざ一項を立てて下さっているくらい有名?!な地域で、ざっくりとした解説はそちらをご参照いただきたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A_(%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%B8%82)
この三木市大塚地区は、今は三木市役所となっている「三木城」跡のほど近くの地域であり、古くは播磨国久留美庄に属し、もと美嚢郡三木町にある。
この大塚地区、なぜ「大塚」と呼ばれているのかはよくわかっていない。もちろん、古墳があったとか、「王塚(王の墓)」があったとか、いろんな由来らしきものは残っているらしいが、決定的に現存しているものがないため、理由が不詳である。
また、この大塚地区に大塚さんはほとんど住んでいない。不思議といえば不思議だが、「この大塚地区から大塚氏が出た」といった伝承も全然残っていない。
つまり、三木大塚と「大塚氏」の関係性は記録にはぜーんぜん残っていないのだが、そこかしこに「ほのかな香り」が残っているのが興味深い。
まず、室町時代から探ってみよう。
三木一帯は、赤松家臣団の中でも有力であった「別所氏」が治め、三木城を建てた。別所氏は赤松氏の血縁分家ではないが、家臣としては高い地位にある、いちおう赤松軍団のメンバーである。
ところが、赤松軍団はでっかくなりすぎた故に、戦国時代になるといろんなしがらみや考え方から、敵味方に分かれるようになる。
最終的に、別所氏は、「織田軍」に敵対するようになり、三木城は「豊臣秀吉」によって、兵糧攻めに逢って滅びてしまう。
この戦いは「三木合戦」として有名で、もちろん当ブログにおいても、このネタはもう少し後まで引っ張ることになる。
三木合戦 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%9C%A8%E5%90%88%E6%88%A6
さて、この三木城のとなりが「久留美庄」で、そのとなりが「淡河」という地域なのだが、赤松軍団が内紛している戦国時代には、あの有馬氏の分家が秀吉の部下となって「淡河城」に入り、ひっきりなしに「三木城」を落とすべく頑張っているが、うまくいかなかったので、秀吉が乗り込んだという経緯がある。
久留米藩分限帳には、「大塚」以外に「小寺」や「淡河」といった家臣の名が見えることから、三木大塚が「大塚氏」にゆかりがある、といってもあながち見当違いではないようにも思われる。
そう、有馬氏は美嚢郡と関わりが深いのだ。
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さて、もうひとつ僕が個人的に「大塚=三木大塚」の関わりについて気になっているポイントがある。
それは、この地の寺のことだ。
三木大塚からほど近くの、志染町に今でも残っている645年開基といわれる「伽耶院(がやいん)」という古刹があるのだが、ここが天台系修験道の寺院として有名なのである。
また、現存しないが、別に「高男寺(こうなんじ)」という天台宗の寺もあったという。(地名だけが残っている)
さらに、現在は曹洞宗だが、三木上の丸にある「雲龍寺」も天台宗の僧が開祖だという。
天台宗といえば、「抱き茗荷」である。
三木城を中心とした範囲は、めちゃくちゃ天台系の影響力が強い。ここが「大塚氏」の源流だとすれば、「抱き茗荷」紋の採用とも、整合性がある。
しかし、残念なことにそういったことの裏づけが何にも残っていないのである。
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その大きな理由は、さっきも出てきた「三木合戦」だ。
秀吉はとにかく、三木城を落とすためにそこらへんに砦を築きまくり、その砦を作るために、そこらへんの寺院を焼き払った。
「伽耶院」も三木合戦の折に焼失、後々になってからの再建であり、「高男寺」は完全に消失。「雲龍寺」も秀吉のせいで「焼失」のち再建されたのである。
簡単に言えば、巨神兵のごとく、秀吉の猛火は、あたり一帯の歴史的遺構を
「やきはらえ!」
「なぎはらえ!」
してしまったのである。
だから、三木城周辺の寺社は、すべて三木城落城後の「再建」ばっかりなのである。
大塚氏の形跡がまったくこの地に残っていないのは、あるいは秀吉のせいかと疑ってしまう。
・・・・・・サルめ!
2013年12月30日月曜日
<20>播磨国大塚、はいくつある?
そもそも、苗字というのは地名と密接に結びついている。ある苗字の一族が別の名前を名乗るようになるには、「とある土地」に住んだから名前を変えた、ということが多々ある。
そこで、大塚氏が「大塚」の名を地名から取ったと仮定して、播磨の国に「大塚」の地名があるののかどうかは調査することは有効だと考えられまいか?
残念なことに、現在播磨周辺で「ここから大塚氏がはじまった」という記録は見つかっていないが、ある程度の「想像」することは可能だと思う。
幸い関西在住の僕にとって、播磨、つまり姫路を中心とする兵庫県一帯を調査することは、それほど難しいことではない。
よって、いくつかの「大塚」の地を想定しながら、調査が始まったのであった。
【1】 三木大塚とその周辺
【2】 三木 高木大塚城
【3】 但馬と大塚の関係
【4】 加古川 宮山大塚古墳
【5】 加古川 日岡山(大塚)古墳群
【6】 赤穂 尾崎大塚古墳群
【7】 その他
兵庫県において、大塚氏の由来に関わりがありそうな地域というのは、上の7つほどに大別できる。
【1】~【3】までは、概ね中世から江戸期まで、【4】~【6】まではより古代にかけての時期がポイントとなる地域である。
赤松一族の隆盛を考えると、個人的には【1】の三木市大塚地区が「あやしい?!」と思うのだが、いずれも「ここぞ」という確証に欠けることは否めない。
というわけで、次回以降、もう少し各地区について詳しく見ていこう。
そこで、大塚氏が「大塚」の名を地名から取ったと仮定して、播磨の国に「大塚」の地名があるののかどうかは調査することは有効だと考えられまいか?
残念なことに、現在播磨周辺で「ここから大塚氏がはじまった」という記録は見つかっていないが、ある程度の「想像」することは可能だと思う。
幸い関西在住の僕にとって、播磨、つまり姫路を中心とする兵庫県一帯を調査することは、それほど難しいことではない。
よって、いくつかの「大塚」の地を想定しながら、調査が始まったのであった。
【1】 三木大塚とその周辺
【2】 三木 高木大塚城
【3】 但馬と大塚の関係
【4】 加古川 宮山大塚古墳
【5】 加古川 日岡山(大塚)古墳群
【6】 赤穂 尾崎大塚古墳群
【7】 その他
兵庫県において、大塚氏の由来に関わりがありそうな地域というのは、上の7つほどに大別できる。
【1】~【3】までは、概ね中世から江戸期まで、【4】~【6】まではより古代にかけての時期がポイントとなる地域である。
赤松一族の隆盛を考えると、個人的には【1】の三木市大塚地区が「あやしい?!」と思うのだが、いずれも「ここぞ」という確証に欠けることは否めない。
というわけで、次回以降、もう少し各地区について詳しく見ていこう。
2013年12月29日日曜日
<19>赤松支流大塚氏の源流はどこか?
これまでの調査で、福岡県と兵庫県の「大塚姓」のルーツとして「赤松支流大塚氏」のことがかなり明らかになってきたように思う。
しかし、だとしても肝心なことがまだ不明瞭である。それは、「赤松から大塚へ」の分岐点である。
赤松氏の勢力は絶大であったため、その影響力も膨大、多岐に渡っている。
「赤松三十六家」なる言葉があり、赤松から分れ出たたくさんの分家が、また新しい姓を名乗っているが、残念ながら「大塚氏」は赤松三十六家には含まれていない。
福岡黒田藩と関わりの深い「小寺」氏や、久留米藩「有馬」氏、また三木市周辺に勢力があった「別所」氏など、赤松氏との系統が比較的はっきりしている氏族に対して、どうしても「大塚」の出自証明は弱いと言わざるを得ない。
あるいはまた「赤松八十八家」なることばもある。こちらは厳密に88家を数えているというよりは、「それくらいたくさんの庶流があるよ」という比喩に近いものだと考えられるから、とにかく赤松系を「名乗る」氏族は多いのである。
しかし、赤松氏の勢力にあやかって「後だしジャンケンで『うちも赤松系に混ぜてよ』」と後世名乗った氏族よりは、どうも早くから赤松の支配下にあったような気配がする。
それは、室町時代から「大塚」の名が見えることや、有馬氏・小寺氏などの有力な赤松氏の臣下として、ちょこちょこいろんな所に姿を見せていることからも伺える。
簡単に言えば、赤松が多様に分流する以前の初期段階から、「大塚氏」は赤松氏に従っていたと考えられるのである。
だとすれば、可能性はいくつかある。
① 血縁上も赤松氏であるが、何かの理由によってその裏づけとなる記録が残っていない。
② 早い段階で赤松の臣下に下った地方豪族(播磨国)であり、血縁が薄い。
大きくは、この2つの理由が考えられないだろうか。
大塚氏は、赤松・有馬・小寺各家において、家老などの重鎮クラスではない。しかし、黒田家でも、有馬家でも「親衛隊クラス」「中堅家臣クラス」ぐらいには置かれている。
これを「古くからの赤松さんだけど、傍流だった」とみるか、「古くからの家来だった」と見るかは、微妙なところである。
「寛政重修諸家譜」をまとめる際に、各家からデータを中央へ吸い上げたわけだが、基本的には各家の申し出を信じるしかないため、いわゆるDNA的な正確さがあるわけではない。
歴代の大塚家の人間にとっては、史実上の「正解」は赤松氏の血縁であったろうが、事実は単なる赤松氏に「あっという間に負けてしまった」一族であると解することもできる。
そこで、僕は播磨に向かったわけである。
しかし、だとしても肝心なことがまだ不明瞭である。それは、「赤松から大塚へ」の分岐点である。
赤松氏の勢力は絶大であったため、その影響力も膨大、多岐に渡っている。
「赤松三十六家」なる言葉があり、赤松から分れ出たたくさんの分家が、また新しい姓を名乗っているが、残念ながら「大塚氏」は赤松三十六家には含まれていない。
福岡黒田藩と関わりの深い「小寺」氏や、久留米藩「有馬」氏、また三木市周辺に勢力があった「別所」氏など、赤松氏との系統が比較的はっきりしている氏族に対して、どうしても「大塚」の出自証明は弱いと言わざるを得ない。
あるいはまた「赤松八十八家」なることばもある。こちらは厳密に88家を数えているというよりは、「それくらいたくさんの庶流があるよ」という比喩に近いものだと考えられるから、とにかく赤松系を「名乗る」氏族は多いのである。
しかし、赤松氏の勢力にあやかって「後だしジャンケンで『うちも赤松系に混ぜてよ』」と後世名乗った氏族よりは、どうも早くから赤松の支配下にあったような気配がする。
それは、室町時代から「大塚」の名が見えることや、有馬氏・小寺氏などの有力な赤松氏の臣下として、ちょこちょこいろんな所に姿を見せていることからも伺える。
簡単に言えば、赤松が多様に分流する以前の初期段階から、「大塚氏」は赤松氏に従っていたと考えられるのである。
だとすれば、可能性はいくつかある。
① 血縁上も赤松氏であるが、何かの理由によってその裏づけとなる記録が残っていない。
② 早い段階で赤松の臣下に下った地方豪族(播磨国)であり、血縁が薄い。
大きくは、この2つの理由が考えられないだろうか。
大塚氏は、赤松・有馬・小寺各家において、家老などの重鎮クラスではない。しかし、黒田家でも、有馬家でも「親衛隊クラス」「中堅家臣クラス」ぐらいには置かれている。
これを「古くからの赤松さんだけど、傍流だった」とみるか、「古くからの家来だった」と見るかは、微妙なところである。
「寛政重修諸家譜」をまとめる際に、各家からデータを中央へ吸い上げたわけだが、基本的には各家の申し出を信じるしかないため、いわゆるDNA的な正確さがあるわけではない。
歴代の大塚家の人間にとっては、史実上の「正解」は赤松氏の血縁であったろうが、事実は単なる赤松氏に「あっという間に負けてしまった」一族であると解することもできる。
そこで、僕は播磨に向かったわけである。
<18>【第四グループ】その他の地域の赤松系大塚氏
これまで、主に播磨を出自とする赤松支流大塚氏の動向について判明してきたのだが、どうも播磨から九州以外の地域に移動した大塚氏がいるらしい、ということがおぼろげながら見えてきている。
いわゆる第4グループの大塚氏が、どういう流れで他の地域に移動したのかは、まだはっきりしていないが、今後も調査してゆきたい。
さて、以前にも、この流れの大塚氏に「幕臣が出ていた」ことを指摘なさっている方(千鹿野茂さん)がいたことは書いたが、それ以外にもちょっとした事例が見つかっている。
「大塚ひかり」さんという古典に詳しい著述家の方がおられるのだが、彼女は結婚なさっているものの、旧姓が「大塚」さんなのだという。
ウィキペディアより 「大塚ひかり」さん
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E3%81%B2%E3%81%8B%E3%82%8A
その大塚ひかりさんと僕は面識があるわけではないが、彼女の著作のとある一冊の中で、ちょっとだけ「家紋」の話が出てくる箇所がある。
その家紋が、どう見ても「抱き茗荷」なのである。
彼女はあまり意識しておられないかもしれないが、関東のご出身だそうなので、だとすれば赤松支流大塚氏が、関東に進出している、ということのちいさな証拠になりそうな気配がする。
実は関東系には他の有力な「大塚氏」がいるので、その中に混じってしまっているのだろうが、赤松系と関東の関係が明らかになってくれば、これはちょっと面白くなりそうだ。
★関東の大塚さんで、抱き茗荷紋の方、ぜひお話をきかせてくださいね!
<17-2>【第三グループ】福岡黒田藩士大塚氏 官兵衛ちゃんと武蔵くん
(前記事よりつづく)
□ 第二話 【武蔵くん】
剣豪、宮本武蔵は播磨国の生まれである。
父が関が原以前から黒田家に仕官していたという文書が残っているため、武蔵も関が原の合戦時には、黒田官兵衛の下で従軍したと考えられている。
ところが、さすがは剣豪武蔵である。そのまま福岡藩に留まっていた、となれば話は簡単なのだが、ともかくその後はあんなことやこんなことがあって、あっちへいったりこっちへいったり、あっちをうろうろこっちをうろうろしている。
そうこうして、最終的には、武蔵の剣術「二天一流」は、弟子たちに受け継がれることになるのだが、主に晩年を過ごした肥後熊本藩、そして、孫弟子「柴任三左衛門」のおかげで黒田福岡藩に伝えられることとなったわけである。
ウィキペディアより 柴任三左衛門 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E4%BB%BB%E4%B8%89%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
さて、ここから大塚氏の登場である。福岡藩に伝えられた二天一流は、その後「立花家」「大塚家」「林家」に伝えられて、幕末に至った。
(ちなみに、肥後熊本藩の二天一流においても、別の「大塚氏」がワザを伝承されているのだが、それはまた別途解説したい)
福岡藩の二天一流の系譜は、
「宮本武蔵」 さんのサイトに特に詳しい。
THE MUSASHI http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/gs00.html
なんといっても、上の項では武蔵の「五輪書」の伝達状況なんかも示されているので、その中で福岡藩大塚氏が残した書物なんかについても説明されている。
とにかくである。福岡藩の大塚氏は、うちなんかより、はるかに凄そうなのだ。
さもありなん。この一連の調査で判明したことは、おなじ武家でありながら、
うちは事務屋(竹ノ間組)
だったのだから(苦笑)
むこうはバリバリの武術家たちだから、そりゃあ実力が違うというものである。
さて、というわけで、福岡県内の大塚氏は、これでおおむね判明終了、ということになる。
次回以降は、また別の観点でお話を進めていこう。
□ 第二話 【武蔵くん】
剣豪、宮本武蔵は播磨国の生まれである。
父が関が原以前から黒田家に仕官していたという文書が残っているため、武蔵も関が原の合戦時には、黒田官兵衛の下で従軍したと考えられている。
ところが、さすがは剣豪武蔵である。そのまま福岡藩に留まっていた、となれば話は簡単なのだが、ともかくその後はあんなことやこんなことがあって、あっちへいったりこっちへいったり、あっちをうろうろこっちをうろうろしている。
そうこうして、最終的には、武蔵の剣術「二天一流」は、弟子たちに受け継がれることになるのだが、主に晩年を過ごした肥後熊本藩、そして、孫弟子「柴任三左衛門」のおかげで黒田福岡藩に伝えられることとなったわけである。
ウィキペディアより 柴任三左衛門 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E4%BB%BB%E4%B8%89%E5%B7%A6%E8%A1%9B%E9%96%80
さて、ここから大塚氏の登場である。福岡藩に伝えられた二天一流は、その後「立花家」「大塚家」「林家」に伝えられて、幕末に至った。
(ちなみに、肥後熊本藩の二天一流においても、別の「大塚氏」がワザを伝承されているのだが、それはまた別途解説したい)
福岡藩の二天一流の系譜は、
「宮本武蔵」 さんのサイトに特に詳しい。
THE MUSASHI http://www.geocities.jp/themusasi2g/gorin/gs00.html
なんといっても、上の項では武蔵の「五輪書」の伝達状況なんかも示されているので、その中で福岡藩大塚氏が残した書物なんかについても説明されている。
とにかくである。福岡藩の大塚氏は、うちなんかより、はるかに凄そうなのだ。
さもありなん。この一連の調査で判明したことは、おなじ武家でありながら、
うちは事務屋(竹ノ間組)
だったのだから(苦笑)
むこうはバリバリの武術家たちだから、そりゃあ実力が違うというものである。
さて、というわけで、福岡県内の大塚氏は、これでおおむね判明終了、ということになる。
次回以降は、また別の観点でお話を進めていこう。
<17-1>【第三グループ】福岡黒田藩士大塚氏 官兵衛ちゃんと武蔵くん
これまでの記事で、福岡県内における「大塚氏」のルーツについて、我が家の属する「久留米藩」系統以外にも、別の流れがあることがわかってきた。
現在の福岡県内における「大塚」さんの居住状況・分布とも合致するが、「福岡黒田藩」(ならびに同族の「秋月藩」)を中心にした黒田家臣の「大塚氏」について調べてみたい。
□ 第一話【官兵衛ちゃん】
まず、この話の主人公は、2014年の大河ドラマの主役「黒田官兵衛」その人である。
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」
http://www9.nhk.or.jp/kanbe/
僕も、まさかうちの家系調査から話がそんなところへ飛ぶとは思ってもいなかったので、驚いているのだが、こりゃ、来年は大河を見まくらなくてはなるまい!
僕の解説より先に、NHK大河ドラマの人物相関表をみていただくのが早いので、リンクしておこう。
「軍師官兵衛」人物相関図
http://www9.nhk.or.jp/kanbe/cast/index.html
簡単に言えば、黒田官兵衛という人は、「赤松支流の小寺氏」とものすごく関係が深い。つまり、黒田家は、赤松家と関わり、その絡みで「大塚氏」とも接点がある、というわけだ。
黒田官兵衛の経歴は、彼の祖父の時代に備前国から播磨に入ったことに始まり、黒田氏は、まず「赤松晴政」に仕えている。晴政は永生年間から永禄年間にかけて赤松家の当主(本流)であり、播磨・備前・美作の守護を務めた。
孫の官兵衛の代になると、次に赤松家分家の「小寺政職」に仕えることになる。小寺臣下としての黒田氏は重臣として重用され、姫路城を守らせたり、姻戚関係を結んで黒田氏の一部に「小寺姓」を名乗らせたり、橘紋を与えたりしている。
(小寺氏はのちに信長に滅ぼされ、小寺氏が逆に福岡藩黒田臣下として生き延びることとなる)
さて、姫路城に入っていた官兵衛は、信長・秀吉軍の播州戦に対して服従し、姫路城を秀吉に使わせるなどで織田軍に服するようになる。のち、別所氏や主君の政職などが三木合戦の結果滅びることで、完全に秀吉の部下となり、自分は「黒田」姓を名乗るようになる。
のち豊前国主として九州へ赴任、子の黒田長政がおなじ九州の筑前福岡藩に転封になることで、福岡藩当主としての黒田家は、幕末まで続くことになるのである。
官兵衛の子、長政についても見てゆこう。播磨姫路城で生まれた長政は、織田家臣として近江で過ごすが、のち播磨へ戻る。その後河内国を与えられるが、すぐ九州討伐へ向かい軍功により豊前国中津を与えられ、のち筑前福岡藩の初代当主になる。
ちなみに、長政が中津城を作った山は、「大塚山」と呼ばれており、大塚山の旧塁(昔の城)を基にして「丸山城」の名で築城。のち中津城となっている。中津の「大塚姓」はこの地に関わりがあると思われる。
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★福岡藩内の「大塚さん」の家紋を知りたいです。誰か教えて~。
現在の福岡県内における「大塚」さんの居住状況・分布とも合致するが、「福岡黒田藩」(ならびに同族の「秋月藩」)を中心にした黒田家臣の「大塚氏」について調べてみたい。
□ 第一話【官兵衛ちゃん】
まず、この話の主人公は、2014年の大河ドラマの主役「黒田官兵衛」その人である。
NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」
http://www9.nhk.or.jp/kanbe/
僕も、まさかうちの家系調査から話がそんなところへ飛ぶとは思ってもいなかったので、驚いているのだが、こりゃ、来年は大河を見まくらなくてはなるまい!
僕の解説より先に、NHK大河ドラマの人物相関表をみていただくのが早いので、リンクしておこう。
「軍師官兵衛」人物相関図
http://www9.nhk.or.jp/kanbe/cast/index.html
簡単に言えば、黒田官兵衛という人は、「赤松支流の小寺氏」とものすごく関係が深い。つまり、黒田家は、赤松家と関わり、その絡みで「大塚氏」とも接点がある、というわけだ。
黒田官兵衛の経歴は、彼の祖父の時代に備前国から播磨に入ったことに始まり、黒田氏は、まず「赤松晴政」に仕えている。晴政は永生年間から永禄年間にかけて赤松家の当主(本流)であり、播磨・備前・美作の守護を務めた。
孫の官兵衛の代になると、次に赤松家分家の「小寺政職」に仕えることになる。小寺臣下としての黒田氏は重臣として重用され、姫路城を守らせたり、姻戚関係を結んで黒田氏の一部に「小寺姓」を名乗らせたり、橘紋を与えたりしている。
(小寺氏はのちに信長に滅ぼされ、小寺氏が逆に福岡藩黒田臣下として生き延びることとなる)
さて、姫路城に入っていた官兵衛は、信長・秀吉軍の播州戦に対して服従し、姫路城を秀吉に使わせるなどで織田軍に服するようになる。のち、別所氏や主君の政職などが三木合戦の結果滅びることで、完全に秀吉の部下となり、自分は「黒田」姓を名乗るようになる。
のち豊前国主として九州へ赴任、子の黒田長政がおなじ九州の筑前福岡藩に転封になることで、福岡藩当主としての黒田家は、幕末まで続くことになるのである。
官兵衛の子、長政についても見てゆこう。播磨姫路城で生まれた長政は、織田家臣として近江で過ごすが、のち播磨へ戻る。その後河内国を与えられるが、すぐ九州討伐へ向かい軍功により豊前国中津を与えられ、のち筑前福岡藩の初代当主になる。
ちなみに、長政が中津城を作った山は、「大塚山」と呼ばれており、大塚山の旧塁(昔の城)を基にして「丸山城」の名で築城。のち中津城となっている。中津の「大塚姓」はこの地に関わりがあると思われる。
======
このように、基本的に福岡藩における「大塚氏」は、我が一族とおなじく「赤松支流」であり、戦国時代の播磨地域において、群雄が割拠する中で、黒田氏に従っていったものと考えられる。
実際、久留米藩においても、有馬家臣の「小寺氏」や、三木の豪族「淡河氏」の名前が分限帳にあることから、播磨一帯の中小武家は、有馬氏や黒田氏に取り込まれながら命を繋いでいったのであろう。
福岡藩の大塚氏について、いくつかピックアップしておこう。
「福岡藩士分限帳」をご覧になった行政書士の方のサイトでは、黒田氏家臣に「大塚姓」が見えることがわかる。
「武士の先祖探し・家系図作成中」 さんのサイトより
また、九州歴史資料館の「福岡藩関係資料」の中に、「弓頭江尋」という文書があり、作成者として大塚夘兵衛の名がある。
また、「家筋申図控」には筑紫氏・小川氏などと並んで大塚氏の家臣系図も記されている。
★福岡藩内の「大塚さん」の家紋を知りたいです。誰か教えて~。
(この章つづく)
2013年12月28日土曜日
<16-2>【第二グループ】 久留米藩士大塚氏 久留米小史を読む
(前記事よりつづく)
さて、今度は「久留米小史」より江戸時代の久留米藩の「官制」を読んでみたい。
官制、とは簡単に言えば階級制度のランクわけ、仕事の分担内容のようなものである。なぜ、これを見たいかといえば、「竹ノ間組」という職が、どうも久留米藩独自のものらしいので、この仕事がいったい何なのかを判断したかったからである。
しかし、その謎は、官制を見れば概ね解けた。
===========
家老 - 奏者番十六人 - 竹之間組四十三人
(略)
家老 - 六組番頭六人 - 馬廻組頭十一人
- 馬廻百九十八人
このサイトに、当時の久留米城内の見取り図が掲載されているのだが、これを見ると「竹ノ間」とは家老部屋のすぐ近くに配置されていることがわかる。
また、歴史に詳しい人ならすぐにピンとくるだろうが、「竹ノ間組」の上司が「奏者番」となっていることが大きなヒントになる。
奏者番とは、江戸幕府においては大名や旗本が将軍に謁見する際の取次ぎ役である。上使いとして将軍の代わりに派遣されたり、代理に参列するなどの「大使」のような役割を果たしていたので、竹ノ間組も同様の仕事をしていた、と推測できよう。
さて、「馬廻り」についてである。
「馬廻り」という言葉そのものは、主君の周囲にいる「親衛隊」のような存在であり、騎馬に乗る兵士が出発点である。
ところが、平和な時代になってくると、格式としての馬廻と実務部隊としての馬廻の間に相違が生じるようになり、「藩主に直接仕える親衛隊としての馬廻格」と「馬上資格のある馬廻」、また「馬上資格のない馬廻」、あるいは、「役職としての馬廻」など、多少幅のあるニュアンスで捉えられるようになった。
上級武士(上士)としての「馬廻」あるいは「馬廻格」は、家老をはじめ、大小姓など、「主君に直接仕える立場」を示すものと考えてよい。
逆に、役職としての馬廻は現代で言えば警察機動隊(白バイ隊や交通機動隊=警部以上)のような立場であり、中小姓格(中士)が相当であろう。
また、下級武士(下士)として、「徒士格」「足軽」などがあり、本来であれば騎馬勤務をしないため馬廻役になることはないが、藩によっては馬上資格のない「馬廻」職もあったようである。これらは「巡査」などに相当するものであろう。
(場上資格がなくとも、馬廻役は藩主への謁見が可能だったらしい)
馬廻役は戦争時には主君護衛隊として機能するが、平時には側近として事務の取次ぎを主な仕事としていたため、天下泰平の世が続くにつれて、だんだんと武官としての馬廻りの重要性は、薄れてくるようになったという。
これらのことを総合的に考えると、久留米藩において「竹ノ間組と馬廻組」はほぼ同格であり、藩主に近い親衛隊軍団のうち、事務方サイドに立つのが「竹ノ間組」、警備・軍事実務サイドに立つのが「馬廻組」だったと考えることができる。
だとすれば、我が家に伝わっている「大塚家は馬廻り役だった」という伝承は、実職としての「馬廻組に属していた」というよりは「格式が馬廻格相当だった」というニュアンスのほうがより近いことになる。
だが、そうした小さな差異はあれど、概ね我が家に伝わっている話が、あながち間違いではない、ということが公的な文書上からも確認できたといえよう。
閑話休題
さて、当家の出自が久留米藩分限帳の上でもざっと確認できたところで、もう一点だけ久留米藩士の「大塚氏」について押さえておきたいことがある。
それは「久留米藩士 大塚敬介」のことである。
彼は幕末の志士として、日本史上「ちょびっと」だけ登場する。
ウィキペディア 「禁門の変」 より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89
幕末の動乱の際、長州藩の処遇について朝廷に建白書を奏上したのが、薩摩藩士吉井幸輔、土佐藩士乾市郎平、久留米藩士大塚敬介たちであり、彼の名前はこのときだけ歴史上に登場する。
吉井幸輔なんかは、坂本竜馬のともだちみたいなものであり、のちに「えらい人」になるのだが、大塚敬介くんは、その後ちっとも姿を見せないので、大塚氏らしいといえば大塚氏らしい。
歴史の一ページにちょっとだけ「いっちょ噛み」しながら、けしてメジャーにはなれないのが、わが大塚氏の運命なのかもしれない。
さて、今度は「久留米小史」より江戸時代の久留米藩の「官制」を読んでみたい。
官制、とは簡単に言えば階級制度のランクわけ、仕事の分担内容のようなものである。なぜ、これを見たいかといえば、「竹ノ間組」という職が、どうも久留米藩独自のものらしいので、この仕事がいったい何なのかを判断したかったからである。
しかし、その謎は、官制を見れば概ね解けた。
===========
家老 - 奏者番十六人 - 竹之間組四十三人
(略)
家老 - 六組番頭六人 - 馬廻組頭十一人
- 馬廻百九十八人
===========
久留米藩の官制からいえば、竹ノ間組は家老から奏者番の下に仕えることになっている。
参考までに馬廻り役についても挙げてみたが、官制の並びでいえば竹ノ間組より少し後に書かれていて、こちらは、全6グループ設定されており、チーフ、兵士の順に制度が敷かれていることがわかる。
しかし、前回の記事の「分限帳」を見ると、竹ノ間組格の大塚さんたちより前に「馬廻り組」の藩士たちが書かれているので、
久留米藩の官制からいえば、竹ノ間組は家老から奏者番の下に仕えることになっている。
参考までに馬廻り役についても挙げてみたが、官制の並びでいえば竹ノ間組より少し後に書かれていて、こちらは、全6グループ設定されており、チーフ、兵士の順に制度が敷かれていることがわかる。
しかし、前回の記事の「分限帳」を見ると、竹ノ間組格の大塚さんたちより前に「馬廻り組」の藩士たちが書かれているので、
「ん?序列的に、『竹ノ間組』と『馬廻り役』とどちらが格が上なのか?下なのか?」
という疑問が生じることになる。
これを解く鍵は「馬廻り」ということばにある。
まずは、次のサイトを参照してほしい。
という疑問が生じることになる。
これを解く鍵は「馬廻り」ということばにある。
まずは、次のサイトを参照してほしい。
「写真で見る久留米城」 さんのサイトより
このサイトに、当時の久留米城内の見取り図が掲載されているのだが、これを見ると「竹ノ間」とは家老部屋のすぐ近くに配置されていることがわかる。
また、歴史に詳しい人ならすぐにピンとくるだろうが、「竹ノ間組」の上司が「奏者番」となっていることが大きなヒントになる。
奏者番とは、江戸幕府においては大名や旗本が将軍に謁見する際の取次ぎ役である。上使いとして将軍の代わりに派遣されたり、代理に参列するなどの「大使」のような役割を果たしていたので、竹ノ間組も同様の仕事をしていた、と推測できよう。
さて、「馬廻り」についてである。
「馬廻り」という言葉そのものは、主君の周囲にいる「親衛隊」のような存在であり、騎馬に乗る兵士が出発点である。
ところが、平和な時代になってくると、格式としての馬廻と実務部隊としての馬廻の間に相違が生じるようになり、「藩主に直接仕える親衛隊としての馬廻格」と「馬上資格のある馬廻」、また「馬上資格のない馬廻」、あるいは、「役職としての馬廻」など、多少幅のあるニュアンスで捉えられるようになった。
上級武士(上士)としての「馬廻」あるいは「馬廻格」は、家老をはじめ、大小姓など、「主君に直接仕える立場」を示すものと考えてよい。
逆に、役職としての馬廻は現代で言えば警察機動隊(白バイ隊や交通機動隊=警部以上)のような立場であり、中小姓格(中士)が相当であろう。
また、下級武士(下士)として、「徒士格」「足軽」などがあり、本来であれば騎馬勤務をしないため馬廻役になることはないが、藩によっては馬上資格のない「馬廻」職もあったようである。これらは「巡査」などに相当するものであろう。
(場上資格がなくとも、馬廻役は藩主への謁見が可能だったらしい)
馬廻役は戦争時には主君護衛隊として機能するが、平時には側近として事務の取次ぎを主な仕事としていたため、天下泰平の世が続くにつれて、だんだんと武官としての馬廻りの重要性は、薄れてくるようになったという。
これらのことを総合的に考えると、久留米藩において「竹ノ間組と馬廻組」はほぼ同格であり、藩主に近い親衛隊軍団のうち、事務方サイドに立つのが「竹ノ間組」、警備・軍事実務サイドに立つのが「馬廻組」だったと考えることができる。
だとすれば、我が家に伝わっている「大塚家は馬廻り役だった」という伝承は、実職としての「馬廻組に属していた」というよりは「格式が馬廻格相当だった」というニュアンスのほうがより近いことになる。
だが、そうした小さな差異はあれど、概ね我が家に伝わっている話が、あながち間違いではない、ということが公的な文書上からも確認できたといえよう。
閑話休題
さて、当家の出自が久留米藩分限帳の上でもざっと確認できたところで、もう一点だけ久留米藩士の「大塚氏」について押さえておきたいことがある。
それは「久留米藩士 大塚敬介」のことである。
彼は幕末の志士として、日本史上「ちょびっと」だけ登場する。
ウィキペディア 「禁門の変」 より
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%81%E9%96%80%E3%81%AE%E5%A4%89
幕末の動乱の際、長州藩の処遇について朝廷に建白書を奏上したのが、薩摩藩士吉井幸輔、土佐藩士乾市郎平、久留米藩士大塚敬介たちであり、彼の名前はこのときだけ歴史上に登場する。
吉井幸輔なんかは、坂本竜馬のともだちみたいなものであり、のちに「えらい人」になるのだが、大塚敬介くんは、その後ちっとも姿を見せないので、大塚氏らしいといえば大塚氏らしい。
歴史の一ページにちょっとだけ「いっちょ噛み」しながら、けしてメジャーにはなれないのが、わが大塚氏の運命なのかもしれない。
<16-1>【第二グループ】 久留米藩士大塚氏 久留米藩分限帳を読む
さて、第二グループでは、我が家を含む久留米藩に仕えた「大塚氏」の様相を調査してゆきたい。
前回と同じく「同姓同名探しと名前ランキング」さんのサイトを用いながら、今度は福岡県における「大塚さん」の分布を調べてみた。それが次の結果である。
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E5%A4%A7%E5%A1%9A&firstname=&tdfk=%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C
これがなかなか興味深い。
まず、このリストの読み方にちょっとくせがあるのだが、市町村レベルで一番多いのが飯塚市149人、次が嘉麻市86人・久留米市85人、八女市65人・・・、といった具合になっている。
ところが、このリストは、北九州市と福岡市が区分けされているので、本来的には、福岡市が合計157人、北九州市が180人ということになる。
もう少し噛み砕いて説明すると、こういうことだ。福岡県における「大塚さん」の分布は、旧福岡藩領がとても多く、そして、旧久留米藩領にも多数の「大塚さん」がいる、という見立てができる。
このブログの早い段階で出てきた柳川藩関係にいたっては、例えば「柳川市3人(少ない)」という具合だから、やはり柳川藩に「大塚氏」はいなかった可能性が高い。
ここで、一旦ひとつの大きなポイントを提起しておきたい。
それは、我が家のように「久留米藩に属する大塚氏」がいるのと同様、あるいはそれ以上の勢力として「福岡藩に属する大塚氏」がいる、という発見である。
この「福岡藩系大塚氏」は【第三グループ】として別項を立てて詳細に説明するので、そちらをご期待いただきたい。
==========
話を久留米藩に戻そう。今回僕は、福岡市内の古書店で「久留米藩分限帳」を入手した。
「分限帳」とは、簡単に言えば、久留米藩士の「名簿・リスト」である。この分限帳は、「久留米小史」という久留米に関わる歴史書の別冊として付録されているもので、
「久留米小史 戸田乾吉著 鶴久二郎編」
として1974年に刊行されたものである。
九州の各市町村図書館や九州大学・福岡大学などの一部の図書館で読むことができるが、基本的にはあまり出回っている冊数が多くない「古本」である。ただ、学術的には誰でもどこでも読めるので、まあ目にしやすい本であることは間違いない。
さて、結論から言えば、「久留米藩分限帳」には有馬氏の家臣として「大塚」の名前がきちんと掲載されている。
=========
☆ 寛文六年版(1666年)
大塚次兵衛 の記載が読める。(影印)
☆ 文久二年版(1862年)
竹之間組 三百石 大塚平十郎
(略)
中小性組 拾五石三人扶持 大塚九兵衛
(略)
荒巻太左衛門組 拾二石三人壹歩扶持 大塚處平
(略)
御納戸役支配 御徒士並格 拾石三人壹歩扶持 大塚忠兵衛
☆ 弘化三年版(1846年) 「手鑑」
竹之間御番 大塚伸左衛門
(略)
御進物方 大塚九兵衛
(略)
馬廻組 (一番組~六番組)
竹ノ間組 大塚伸右衛門
(略)
御徒士 文化十二亥四 大塚九兵衛
(略)
御徒士御雇 二人扶持銀五枚 大塚処平
(略)
集徒士 御徒士並 文政十二丑十二 大塚忠兵衛
(略)
御能役者 九石 大塚陽次郎
前回と同じく「同姓同名探しと名前ランキング」さんのサイトを用いながら、今度は福岡県における「大塚さん」の分布を調べてみた。それが次の結果である。
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E5%A4%A7%E5%A1%9A&firstname=&tdfk=%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C
これがなかなか興味深い。
まず、このリストの読み方にちょっとくせがあるのだが、市町村レベルで一番多いのが飯塚市149人、次が嘉麻市86人・久留米市85人、八女市65人・・・、といった具合になっている。
ところが、このリストは、北九州市と福岡市が区分けされているので、本来的には、福岡市が合計157人、北九州市が180人ということになる。
もう少し噛み砕いて説明すると、こういうことだ。福岡県における「大塚さん」の分布は、旧福岡藩領がとても多く、そして、旧久留米藩領にも多数の「大塚さん」がいる、という見立てができる。
このブログの早い段階で出てきた柳川藩関係にいたっては、例えば「柳川市3人(少ない)」という具合だから、やはり柳川藩に「大塚氏」はいなかった可能性が高い。
ここで、一旦ひとつの大きなポイントを提起しておきたい。
それは、我が家のように「久留米藩に属する大塚氏」がいるのと同様、あるいはそれ以上の勢力として「福岡藩に属する大塚氏」がいる、という発見である。
この「福岡藩系大塚氏」は【第三グループ】として別項を立てて詳細に説明するので、そちらをご期待いただきたい。
==========
話を久留米藩に戻そう。今回僕は、福岡市内の古書店で「久留米藩分限帳」を入手した。
「分限帳」とは、簡単に言えば、久留米藩士の「名簿・リスト」である。この分限帳は、「久留米小史」という久留米に関わる歴史書の別冊として付録されているもので、
「久留米小史 戸田乾吉著 鶴久二郎編」
として1974年に刊行されたものである。
九州の各市町村図書館や九州大学・福岡大学などの一部の図書館で読むことができるが、基本的にはあまり出回っている冊数が多くない「古本」である。ただ、学術的には誰でもどこでも読めるので、まあ目にしやすい本であることは間違いない。
さて、結論から言えば、「久留米藩分限帳」には有馬氏の家臣として「大塚」の名前がきちんと掲載されている。
=========
☆ 寛文六年版(1666年)
大塚次兵衛 の記載が読める。(影印)
☆ 文久二年版(1862年)
竹之間組 三百石 大塚平十郎
(略)
中小性組 拾五石三人扶持 大塚九兵衛
(略)
荒巻太左衛門組 拾二石三人壹歩扶持 大塚處平
(略)
御納戸役支配 御徒士並格 拾石三人壹歩扶持 大塚忠兵衛
☆ 弘化三年版(1846年) 「手鑑」
竹之間御番 大塚伸左衛門
(略)
御進物方 大塚九兵衛
(略)
馬廻組 (一番組~六番組)
竹ノ間組 大塚伸右衛門
(略)
御徒士 文化十二亥四 大塚九兵衛
(略)
御徒士御雇 二人扶持銀五枚 大塚処平
(略)
集徒士 御徒士並 文政十二丑十二 大塚忠兵衛
(略)
御能役者 九石 大塚陽次郎
☆ 明治二年版(1869年)「久留米藩御記録分限帳」
御馬廻 壱~六番 ならびに 並
竹之間組 三石(百の誤りか?)石 大塚平十郎
(略)
中小性組 片山兵左エ門組 成産方 大塚処平
☆ 明治五年版(1872年)「元久留米県官禄取調帳控」
現六石六斗 士族 大塚処平
(略)
貸銭方 二石三斗一升宛 大塚福蔵
===========
これらの記述から、久留米藩の大塚氏は大きく分けて3身分の者が存在したことがわかる。
「竹の間組」の三百石クラスの一家
「中小姓」クラスの一家
「徒士」クラスの一家
の約3家である。
もちろん、子が生まれるごとに長男はともかく、次男三男はより下位の役職に就かざるを得ないため、これらの大塚家が元は同族であることも十分ありうるが、やはり基本となるのは「竹ノ間組」に属した大塚平十郎や伸左衛門(伸右衛門)たちであろう。
(この章つづく)
2013年12月27日金曜日
<15>【第一グループ】 播磨に残る赤松支流大塚氏 姫路の大塚さん
戦国時代は、まさに生き残りをかけた弱肉強食の時代であった。ある者は大名として名を上げ、ある者は討ち死にし、またある者は、誰かの家来となってかろうじて命脈を保ったりした。
本流としての赤松家は、既に断絶して久しい。赤松一族の中で幕末まで栄えたのは、あるいは有馬家ぐらいだ、といっても過言ではないくらいである。
それでも、その子孫たちは以外にずぶとく乱世を生き抜き、天下泰平となった江戸時代を通じて、次の世代へと家系を受け継いできた。
たとえば、先に述べたわが母方の「赤松さん」一族なんかもその例である。彼らがいったいどれほどの血筋の「赤松家」なのかは、今では明らかにすることも難しいかもしれないが、それでも「赤松氏」の末裔として生き延びていることには相違ない。
播磨国赤松臣下であったはずの「大塚家」の一族も、当然播磨で生き延びている。戦国の世の中である者は有馬家に仕えたりはしたものの、播磨に残った大塚氏は、いわば本流に近い大塚氏であると言うこともできる。
その証拠探しの調査をはじめよう。
以前にも紹介した「同姓同名探しと名前ランキング」さんのサイトをもう少し詳しく見てみることにする。
全国の「大塚さん」が約3万件ある、と既に指摘しているが、このサイトでは県市町村別に絞り込むことができるようになっている。
そこで、兵庫県の「大塚さん」に限定して検索をかけると、
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E5%A4%A7%E5%A1%9A&firstname=&tdfk=%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C
のような結果になった。
もちろん、これは現代におけるデータであるが、兵庫県内では「姫路市」に突出して「大塚さん」が多いことがわかる。
旧播磨国である周辺の市町村をあわせると、かなり高い率で「播磨国に大塚さんがいる」ことがわかってくる。
これが示しているのは、いったいどういうことか。
そう、「赤松支流大塚氏の末裔は、たしかに姫路周辺に今でも生きている」ということに他ならない。
彼らは、有馬氏や別に述べる小寺氏に仕えて九州へ移らなかった「大塚氏」の子孫であろう。
残念ながら、現時点で文献上彼らの情報を得ることができていないが、もし、姫路周辺の「大塚さん」がこのブログを見ていたらぜひご連絡いただきたい。
そう、まっさきに尋ねたいことがあるのだ。それは、
あなたのおうちの家紋は、「抱き茗荷」ではありませんか?
ということだ。
本流としての赤松家は、既に断絶して久しい。赤松一族の中で幕末まで栄えたのは、あるいは有馬家ぐらいだ、といっても過言ではないくらいである。
それでも、その子孫たちは以外にずぶとく乱世を生き抜き、天下泰平となった江戸時代を通じて、次の世代へと家系を受け継いできた。
たとえば、先に述べたわが母方の「赤松さん」一族なんかもその例である。彼らがいったいどれほどの血筋の「赤松家」なのかは、今では明らかにすることも難しいかもしれないが、それでも「赤松氏」の末裔として生き延びていることには相違ない。
播磨国赤松臣下であったはずの「大塚家」の一族も、当然播磨で生き延びている。戦国の世の中である者は有馬家に仕えたりはしたものの、播磨に残った大塚氏は、いわば本流に近い大塚氏であると言うこともできる。
その証拠探しの調査をはじめよう。
以前にも紹介した「同姓同名探しと名前ランキング」さんのサイトをもう少し詳しく見てみることにする。
全国の「大塚さん」が約3万件ある、と既に指摘しているが、このサイトでは県市町村別に絞り込むことができるようになっている。
そこで、兵庫県の「大塚さん」に限定して検索をかけると、
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E5%A4%A7%E5%A1%9A&firstname=&tdfk=%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C
のような結果になった。
もちろん、これは現代におけるデータであるが、兵庫県内では「姫路市」に突出して「大塚さん」が多いことがわかる。
旧播磨国である周辺の市町村をあわせると、かなり高い率で「播磨国に大塚さんがいる」ことがわかってくる。
これが示しているのは、いったいどういうことか。
そう、「赤松支流大塚氏の末裔は、たしかに姫路周辺に今でも生きている」ということに他ならない。
彼らは、有馬氏や別に述べる小寺氏に仕えて九州へ移らなかった「大塚氏」の子孫であろう。
残念ながら、現時点で文献上彼らの情報を得ることができていないが、もし、姫路周辺の「大塚さん」がこのブログを見ていたらぜひご連絡いただきたい。
そう、まっさきに尋ねたいことがあるのだ。それは、
あなたのおうちの家紋は、「抱き茗荷」ではありませんか?
ということだ。
<14>家紋が「抱き茗荷」な大塚氏は4グループある?!
わが家系のルーツが、「赤松支流大塚氏(家紋 抱き茗荷)」であることは、すでに判明した。
しかし、それは僕の直接の先祖を遡っていった道筋と、「寛政重修諸家譜」を中心にした古文書から逆に降りてきた道筋が一点で結び合わさったということにすぎない。
実は、この調査を進めてゆくうちに、広い意味での僕らの親族・一族に相当する「赤松支流大塚氏」には、少なくとも4つのグループというか分派というか、流れがあることがわかってきた。
【第一グループ】 赤松支流大塚氏 本流
赤松氏の家臣であったが、戦国時代を生き抜く間に、赤松一族から分かれて播磨に残った大塚氏。
【第二グループ】 赤松支流大塚氏 久留米藩所属 有馬軍団
有馬氏に姓を変えた赤松氏の家臣であり、播磨~摂津を経て、最終的に久留米藩へ移った大塚氏。
これがうちの家系である。
【第三グループ】 赤松支流大塚氏 福岡藩所属 黒田軍団
赤松家臣のうち、小寺家に仕えた大塚氏であり、今度の大河ドラマ「黒田官兵衛」の活躍のせいで福岡藩へ移った一族。宮本武蔵の武術流派である「二天一流」を継承する。
【第四のグループ】 それ以外の赤松支流大塚氏
播磨地域から外に出て、あるいは他の主君に仕えた赤松支流大塚氏。
★重要ポイント★
「寛政重修諸家譜」に掲載されている「赤松支流大塚氏」は、どれかわからない。
ただ、久留米藩家臣、福岡藩家臣の一家来に過ぎない弱小士族のことをわざわざ収録するとは思えないため、第一グループか、第四グループに当たると考えることもできる。
千鹿野茂さんの著作では「幕臣が出る」との記述があるから、第一もしくは第四グループから将軍家に入ったものがいる可能性がある。
残念ながら、現時点では、4つめのグループを確認できていないが、もし「自分も抱き茗荷の大塚姓で、これこれこういう経緯を持っているよ」という方がおられれば、ぜひお教えいただきたい。
さて、かくかくしかじかで、次回からは上の3つのグループに着目して話をまとめてみたい。
しかし、それは僕の直接の先祖を遡っていった道筋と、「寛政重修諸家譜」を中心にした古文書から逆に降りてきた道筋が一点で結び合わさったということにすぎない。
実は、この調査を進めてゆくうちに、広い意味での僕らの親族・一族に相当する「赤松支流大塚氏」には、少なくとも4つのグループというか分派というか、流れがあることがわかってきた。
【第一グループ】 赤松支流大塚氏 本流
赤松氏の家臣であったが、戦国時代を生き抜く間に、赤松一族から分かれて播磨に残った大塚氏。
【第二グループ】 赤松支流大塚氏 久留米藩所属 有馬軍団
有馬氏に姓を変えた赤松氏の家臣であり、播磨~摂津を経て、最終的に久留米藩へ移った大塚氏。
これがうちの家系である。
【第三グループ】 赤松支流大塚氏 福岡藩所属 黒田軍団
赤松家臣のうち、小寺家に仕えた大塚氏であり、今度の大河ドラマ「黒田官兵衛」の活躍のせいで福岡藩へ移った一族。宮本武蔵の武術流派である「二天一流」を継承する。
【第四のグループ】 それ以外の赤松支流大塚氏
播磨地域から外に出て、あるいは他の主君に仕えた赤松支流大塚氏。
★重要ポイント★
「寛政重修諸家譜」に掲載されている「赤松支流大塚氏」は、どれかわからない。
ただ、久留米藩家臣、福岡藩家臣の一家来に過ぎない弱小士族のことをわざわざ収録するとは思えないため、第一グループか、第四グループに当たると考えることもできる。
千鹿野茂さんの著作では「幕臣が出る」との記述があるから、第一もしくは第四グループから将軍家に入ったものがいる可能性がある。
残念ながら、現時点では、4つめのグループを確認できていないが、もし「自分も抱き茗荷の大塚姓で、これこれこういう経緯を持っているよ」という方がおられれば、ぜひお教えいただきたい。
さて、かくかくしかじかで、次回からは上の3つのグループに着目して話をまとめてみたい。
2013年12月26日木曜日
<13>赤松氏は謎の一族
播磨に残る「赤松氏」と「大塚氏」の関係については、あまり多いとはいえないものの、とりあえず記録として見出すことができた。
しかし、赤松氏そのものについては、歴史認識の上でも、かなりその出自に疑義がある存在で有名なので、そのこともあわせて紹介しておきたい。
「寛政重修諸家譜」に残っている大塚氏の記述は、「村上源氏赤松支流」ということになっている。
これは、赤松氏の先祖が村上天皇の子孫であり、臣籍降下して「源(みなもと)」姓を賜った「源師季」から始まるとされているからで、赤松一族はみないちおう源氏の末裔ということになっている。
だが、そもそも赤松氏が本当に源師季、またその子「源師房」に血縁の事実としてつながるのかどうかは、怪しいとされている。
このあたりは、赤松氏に関するどこの歴史書や説明を見ても、けっこう詳しく書いてあるので、誰でも簡単に調べることができると思う。
(もちろん、「怪しいぜ」という説と「それでも、やっぱり高貴な身分からスタートしたらしいよ」という説がどちらもあることを合わせて書いておこう)
このあたりの経緯を詳しくまとめてあるサイトがあるので、紹介しておこう。
兵庫県歴史研究会 さんのブログから
http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050131
こちらの記事は、赤松氏の家系偽造の観点からの説明が詳しく載っている。
上に上げた「兵庫県歴史研究会」さんの赤松の謎シリーズはとても面白く、赤松氏が「村上源氏」ではないとしても、そのルーツがかなり興味深いことがわかる。
なかでも、播州近辺で一大赤松勢力を形成するときに、「秦氏」の末裔を取り込んでいった可能性についての言及は、かなりのわくわくさんである。ゴロリ。
というのも、このブログでも説明したが、「抱き茗荷」紋と摩多羅神信仰には、秦氏が関係してくるから、大塚氏はもしかしたら秦氏の末裔かもしれない、という新説が作れるからである。
というわけで、当ブログにおいても僕は
「わーいわーい、うちは天皇家の子孫で源氏だもんね」
と無邪気なことは全く言うつもりはない。
もしかしたら赤松氏の子孫ですらないかもしれないし、事実を問えばわからないことだらけだからだ。
記録上は、「赤松家」から分家した「大塚家」ということが伺えるのだが、正式な系図として「赤松の誰それが大塚になった」とは残っていない。むしろ、大塚氏の側から、「むかし、うちは赤松系だった」と主張しているのであり、(もちろん、家臣としては記録されているが)親族かどうかはわからないからだ。
もうすこし丁寧な言い方をすれば、赤松氏が勢力を拡大する折に、かなり初期の段階で取り込んだ地元の豪族として大塚氏が存在していて、それが家臣として姻戚関係を結んでいくうちに記録上「赤松支流」として取り込まれた、と考えることもできる。
しかし、そういう微妙な部分は別にして、大枠で語るときに、わが大塚家が、有馬家と関係があり、当然赤松家と関係があり、そのために現在九州に実家がある、というところまでは、おおむね確定だといえる。
これだけで既に室町時代~現代までの家系がだいたい判明したのだからたいしたものである。
しかし、赤松氏そのものについては、歴史認識の上でも、かなりその出自に疑義がある存在で有名なので、そのこともあわせて紹介しておきたい。
「寛政重修諸家譜」に残っている大塚氏の記述は、「村上源氏赤松支流」ということになっている。
これは、赤松氏の先祖が村上天皇の子孫であり、臣籍降下して「源(みなもと)」姓を賜った「源師季」から始まるとされているからで、赤松一族はみないちおう源氏の末裔ということになっている。
だが、そもそも赤松氏が本当に源師季、またその子「源師房」に血縁の事実としてつながるのかどうかは、怪しいとされている。
このあたりは、赤松氏に関するどこの歴史書や説明を見ても、けっこう詳しく書いてあるので、誰でも簡単に調べることができると思う。
(もちろん、「怪しいぜ」という説と「それでも、やっぱり高貴な身分からスタートしたらしいよ」という説がどちらもあることを合わせて書いておこう)
このあたりの経緯を詳しくまとめてあるサイトがあるので、紹介しておこう。
兵庫県歴史研究会 さんのブログから
http://d.hatena.ne.jp/hyogorekiken/20050131
こちらの記事は、赤松氏の家系偽造の観点からの説明が詳しく載っている。
上に上げた「兵庫県歴史研究会」さんの赤松の謎シリーズはとても面白く、赤松氏が「村上源氏」ではないとしても、そのルーツがかなり興味深いことがわかる。
なかでも、播州近辺で一大赤松勢力を形成するときに、「秦氏」の末裔を取り込んでいった可能性についての言及は、かなりのわくわくさんである。ゴロリ。
というのも、このブログでも説明したが、「抱き茗荷」紋と摩多羅神信仰には、秦氏が関係してくるから、大塚氏はもしかしたら秦氏の末裔かもしれない、という新説が作れるからである。
というわけで、当ブログにおいても僕は
「わーいわーい、うちは天皇家の子孫で源氏だもんね」
と無邪気なことは全く言うつもりはない。
もしかしたら赤松氏の子孫ですらないかもしれないし、事実を問えばわからないことだらけだからだ。
記録上は、「赤松家」から分家した「大塚家」ということが伺えるのだが、正式な系図として「赤松の誰それが大塚になった」とは残っていない。むしろ、大塚氏の側から、「むかし、うちは赤松系だった」と主張しているのであり、(もちろん、家臣としては記録されているが)親族かどうかはわからないからだ。
もうすこし丁寧な言い方をすれば、赤松氏が勢力を拡大する折に、かなり初期の段階で取り込んだ地元の豪族として大塚氏が存在していて、それが家臣として姻戚関係を結んでいくうちに記録上「赤松支流」として取り込まれた、と考えることもできる。
しかし、そういう微妙な部分は別にして、大枠で語るときに、わが大塚家が、有馬家と関係があり、当然赤松家と関係があり、そのために現在九州に実家がある、というところまでは、おおむね確定だといえる。
これだけで既に室町時代~現代までの家系がだいたい判明したのだからたいしたものである。
<12>播磨国に残る先祖の痕跡 その2
前回、播磨国における大塚氏の痕跡を2点挙げたが、あと少しだけ見てゆこう。
③ 赤松家臣の「大塚氏」
武将系譜辞典 さんのサイト http://www.geocities.jp/kawabemasatake/
に「赤松家人名録」に赤松家関係者の一覧がある。
ちょっと長いテキストリストなので、検索をかけてもらうとわかりやすいが「大塚権兵衛」なる人物が、「赤松家臣」として挙げられている。つまり、赤松家の部下に、たしかに「大塚氏」がいた、ということがわかる。
※この場合の赤松氏は「有馬氏」ではなく、本流サイドの「赤松氏」である。
④ 小寺家臣の「大塚氏」
同じ「赤松家人名録」に今度は「小寺家臣」の欄があるのだが、ここにも「大塚権兵衛」が登場する。同姓同名であるため、この二者が同一人物なのか違うのかが少しわかりにくいが、小寺氏も赤松氏族の庶流であり、広い意味での同族としては興味深い。
この「小寺系大塚氏」については、今後別項目でとても重要な位置に出てくるので、要チェックである。
のちのちいろいろと話に挙がってくると思うが、あの「宮本武蔵」を祖とする二天一流を、福岡黒田藩において受け継いだのが福岡藩の「大塚家」であり、こちらは小寺系であると推測できるからである。
※筑前 大塚藤郷などが有名。
③ 赤松家臣の「大塚氏」
武将系譜辞典 さんのサイト http://www.geocities.jp/kawabemasatake/
に「赤松家人名録」に赤松家関係者の一覧がある。
ちょっと長いテキストリストなので、検索をかけてもらうとわかりやすいが「大塚権兵衛」なる人物が、「赤松家臣」として挙げられている。つまり、赤松家の部下に、たしかに「大塚氏」がいた、ということがわかる。
※この場合の赤松氏は「有馬氏」ではなく、本流サイドの「赤松氏」である。
④ 小寺家臣の「大塚氏」
同じ「赤松家人名録」に今度は「小寺家臣」の欄があるのだが、ここにも「大塚権兵衛」が登場する。同姓同名であるため、この二者が同一人物なのか違うのかが少しわかりにくいが、小寺氏も赤松氏族の庶流であり、広い意味での同族としては興味深い。
この「小寺系大塚氏」については、今後別項目でとても重要な位置に出てくるので、要チェックである。
のちのちいろいろと話に挙がってくると思うが、あの「宮本武蔵」を祖とする二天一流を、福岡黒田藩において受け継いだのが福岡藩の「大塚家」であり、こちらは小寺系であると推測できるからである。
※筑前 大塚藤郷などが有名。
<11>播磨国に残る先祖の痕跡
ついに判明したわが大塚家のルーツ、それは播磨国の「赤松一族」に源流があるらしい。
江戸時代からずっと九州出身だと思っていた僕ら一家にとって、それはかなりの驚きだったが、藩主有馬家がもと「赤松氏」で、関が原の合戦以降に主君が転勤したのだから、仕方がない。
むしろ、これで戦国時代以前の動向が、だんだんと明らかになってきたのである。実に面白い。
そこで、今度は播磨(現在の姫路)における赤松氏と大塚氏の関係について、調査を始めたわけである。
関西在住の僕にとって、摂津・播磨・丹波・但馬など兵庫県エリアは土地勘がある。時間が許せば現地調査も可能な範囲になったことは、とても嬉しかった。
まず、播磨における大塚氏の痕跡を2点発見することができた。
①姫路市 「上野構」跡
城めぐ.com さんのサイトより
http://www.siromegu.com/castle/hyogo/ueno/ueno.htm
城郭放浪記さん のサイトより
http://www.hb.pei.jp/shiro/harima/ueno-ko/
なんとなく城郭めぐり さんのサイトより
http://tenniskun.blog.ocn.ne.jp/img/2013/11/post_af46.html
「構」というのは、屋敷・館、あるいはほんの小さな城のようなものである。
姫路市船津町上野に、「上野構」という史跡があり、そこに「大塚将監」なる人物が居を構えていたことがわかっている。
上記サイトでは、大塚将監は「赤松家の家臣」「赤松氏の幕下」であると記述があるが、
近畿の山城 さんのサイトより
http://kirinosato.fc2web.com/yamasiroNISHIHARIMA.htm
を参考にすると、
城主が「永禄年間 赤松氏麾下の大塚将監」
※永禄年間 1558~1570
なる記述がどうやら「播磨鑑」にあるらしい。
「麾下(きか)」とは直属・じきじきの部下・家臣という意味であるから、血縁関係の証明にはならないものの、本流の赤松家にかなり近しい位置にあったことは想像できる。
大塚氏そのものが歴史の表舞台にあまり出てこない弱小赤松氏族であるが、それでも「直系の家臣」だとすれば、血筋としては傍流ながらも赤松氏の血縁があると考えてよいと思う。
※「播磨鑑」 江戸期宝暦(1762)頃成立の地誌。
詳細はウィキペディアを参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%AD%E7%A3%A8%E9%91%91
②姫路市 「岩崎構」跡
城めぐ.com さんのサイトより
http://www.siromegu.com/castle/hyogo/iwasakikou/iwasakikou.htm
播磨城郭案内 さんのサイトより
http://blogs.yahoo.co.jp/harima_bushi/5391524.html
なんとなく城郭めぐり さんのサイトより
http://tenniskun.blog.ocn.ne.jp/img/2013/11/post_c383.html
姫路市打越にある「岩崎構」も小さな館・城跡である。
赤松大系図によると室町時代大塚重太夫が構居し香山構主本庄次基と地境争いを起した、という記録があるらしい。
さきほどの上野構の「永禄年間」とは戦国時代の末期で、安土桃山時代よりちょっとだけ前ということになるが、「室町時代」となると戦国時代より前である。
となると、この「大塚重太夫」が赤松一族かどうかの明示はないものの、(赤松大系図に収録されているのだから、関係者だということはわかる)もし仮にそうだとすれば、赤松氏が大活躍した室町時代には、既に「大塚氏」が赤松から分派していたということになる。
これらの調査から、わが先祖の「大塚氏」は、どちらかと言えば早い段階で赤松氏から分派したらしいことが伺われる。
そのため本流サイドの「赤松氏」の家臣団の記録から外れ、ちょっと陰に隠れてしまった形になったのではなかろうか。
(古い記録ほど遺失するとすれば、後代になって分派したほうが、赤松本流の記録に残りやすいとも考えられる)
※可能性として、赤松氏と大塚氏の血縁関係がない、という仮説ももちろんあり、である。早い時代から赤松氏に仕えていた単なる家来として「大塚氏」が存在したということも考えられる。
しかしながら、文献上は「村上源氏赤松支流大塚氏」として残ってしまっているので、とりあえずはそれを尊重することにする、
江戸時代からずっと九州出身だと思っていた僕ら一家にとって、それはかなりの驚きだったが、藩主有馬家がもと「赤松氏」で、関が原の合戦以降に主君が転勤したのだから、仕方がない。
むしろ、これで戦国時代以前の動向が、だんだんと明らかになってきたのである。実に面白い。
そこで、今度は播磨(現在の姫路)における赤松氏と大塚氏の関係について、調査を始めたわけである。
関西在住の僕にとって、摂津・播磨・丹波・但馬など兵庫県エリアは土地勘がある。時間が許せば現地調査も可能な範囲になったことは、とても嬉しかった。
まず、播磨における大塚氏の痕跡を2点発見することができた。
①姫路市 「上野構」跡
城めぐ.com さんのサイトより
http://www.siromegu.com/castle/hyogo/ueno/ueno.htm
城郭放浪記さん のサイトより
http://www.hb.pei.jp/shiro/harima/ueno-ko/
なんとなく城郭めぐり さんのサイトより
http://tenniskun.blog.ocn.ne.jp/img/2013/11/post_af46.html
「構」というのは、屋敷・館、あるいはほんの小さな城のようなものである。
姫路市船津町上野に、「上野構」という史跡があり、そこに「大塚将監」なる人物が居を構えていたことがわかっている。
上記サイトでは、大塚将監は「赤松家の家臣」「赤松氏の幕下」であると記述があるが、
近畿の山城 さんのサイトより
http://kirinosato.fc2web.com/yamasiroNISHIHARIMA.htm
を参考にすると、
城主が「永禄年間 赤松氏麾下の大塚将監」
※永禄年間 1558~1570
なる記述がどうやら「播磨鑑」にあるらしい。
「麾下(きか)」とは直属・じきじきの部下・家臣という意味であるから、血縁関係の証明にはならないものの、本流の赤松家にかなり近しい位置にあったことは想像できる。
大塚氏そのものが歴史の表舞台にあまり出てこない弱小赤松氏族であるが、それでも「直系の家臣」だとすれば、血筋としては傍流ながらも赤松氏の血縁があると考えてよいと思う。
※「播磨鑑」 江戸期宝暦(1762)頃成立の地誌。
詳細はウィキペディアを参照のこと。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%92%AD%E7%A3%A8%E9%91%91
②姫路市 「岩崎構」跡
城めぐ.com さんのサイトより
http://www.siromegu.com/castle/hyogo/iwasakikou/iwasakikou.htm
播磨城郭案内 さんのサイトより
http://blogs.yahoo.co.jp/harima_bushi/5391524.html
なんとなく城郭めぐり さんのサイトより
http://tenniskun.blog.ocn.ne.jp/img/2013/11/post_c383.html
姫路市打越にある「岩崎構」も小さな館・城跡である。
赤松大系図によると室町時代大塚重太夫が構居し香山構主本庄次基と地境争いを起した、という記録があるらしい。
さきほどの上野構の「永禄年間」とは戦国時代の末期で、安土桃山時代よりちょっとだけ前ということになるが、「室町時代」となると戦国時代より前である。
となると、この「大塚重太夫」が赤松一族かどうかの明示はないものの、(赤松大系図に収録されているのだから、関係者だということはわかる)もし仮にそうだとすれば、赤松氏が大活躍した室町時代には、既に「大塚氏」が赤松から分派していたということになる。
これらの調査から、わが先祖の「大塚氏」は、どちらかと言えば早い段階で赤松氏から分派したらしいことが伺われる。
そのため本流サイドの「赤松氏」の家臣団の記録から外れ、ちょっと陰に隠れてしまった形になったのではなかろうか。
(古い記録ほど遺失するとすれば、後代になって分派したほうが、赤松本流の記録に残りやすいとも考えられる)
※可能性として、赤松氏と大塚氏の血縁関係がない、という仮説ももちろんあり、である。早い時代から赤松氏に仕えていた単なる家来として「大塚氏」が存在したということも考えられる。
しかしながら、文献上は「村上源氏赤松支流大塚氏」として残ってしまっているので、とりあえずはそれを尊重することにする、
2013年12月25日水曜日
<おまけ>全国の「大塚」な、みなさーん!
今回はおまけです。
日本全国の「大塚」さんに向けて発信しているこのブログ。
いったい読者がどれくらいいそうなのかを調べてみました。
「同姓同名探しと名前ランキング」というサイトによれば、
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E5%A4%A7%E5%A1%9A&tdfk=%E5%85%A8%E5%9B%BD
(このサイトは電話帳データを元に、氏名の件数をカウントしているそうです)
全国に大塚さんは3万485人おられるそうです。
もちろん、この件数はほぼ世帯主さんの数ですから、一家にざっと平均3人くらいいるかもしれないと仮定すれば、全国で大塚さんは約10万人弱、ということになりそうです。
そのうち、何人がこのブログを読んでくれるのやら・・・(^^;
日本全国の「大塚」さんに向けて発信しているこのブログ。
いったい読者がどれくらいいそうなのかを調べてみました。
「同姓同名探しと名前ランキング」というサイトによれば、
http://namaeranking.com/?search=%E5%90%8C%E5%A7%93%E5%90%8C%E5%90%8D&surname=%E5%A4%A7%E5%A1%9A&tdfk=%E5%85%A8%E5%9B%BD
(このサイトは電話帳データを元に、氏名の件数をカウントしているそうです)
全国に大塚さんは3万485人おられるそうです。
もちろん、この件数はほぼ世帯主さんの数ですから、一家にざっと平均3人くらいいるかもしれないと仮定すれば、全国で大塚さんは約10万人弱、ということになりそうです。
そのうち、何人がこのブログを読んでくれるのやら・・・(^^;
<10> W(ダブル)赤松、そして誰とでも赤松
前回、自分のルーツが播磨の赤松氏にあることを知り、驚きのあまりに、のたうち回った僕だったが、さらに大河ドラマな展開が待っていることに衝撃を受けた。
いくら日本史で有名とはいえ、いくら日本史で大学受験したとはいえ、播磨の「赤松氏」のことを都合よく覚えていた、というのはちょっと出来すぎている。
そう、僕にはそれ以外に「赤松氏」のことをよく知っている理由があったのである。
まだ、小さかった頃、母方の親戚の家に遊びにいったことがあるのだが、そこのお父さんは郵便局長さんをなさっていて、某播磨地域の端っこに住んでいた。
いまから思えば、特定郵便局だっただろうから、かのお父さんは地元の名士の一家の末裔であったのだろう。
そう、そのおうちの名前が「赤松」さんだったのである!
なんでも、聞くところによれば、うちの母の一族とその赤松さんの家とは縁があって、母の母の母が、赤松家から母の家に嫁いできたらしい。
ということは、めぐりめぐって僕や僕のきょうだいは、なんということでしょう!父方からも母方からも「赤松」一族の血を受け継いでいるらしいことになる。
まさにW(ダブル)赤松!!
そして、赤松の倍返しだ!!
・・・・・・2013年でしか通用しない冗談はさておき、それから僕は「赤松氏」のことをより調べるようになった。
赤松氏族大塚氏とは、いったいどんな歴史を持つ一族なのか!
そこには、さらなる歴史の深みが待ち受けていたのであった!
いくら日本史で有名とはいえ、いくら日本史で大学受験したとはいえ、播磨の「赤松氏」のことを都合よく覚えていた、というのはちょっと出来すぎている。
そう、僕にはそれ以外に「赤松氏」のことをよく知っている理由があったのである。
まだ、小さかった頃、母方の親戚の家に遊びにいったことがあるのだが、そこのお父さんは郵便局長さんをなさっていて、某播磨地域の端っこに住んでいた。
いまから思えば、特定郵便局だっただろうから、かのお父さんは地元の名士の一家の末裔であったのだろう。
そう、そのおうちの名前が「赤松」さんだったのである!
なんでも、聞くところによれば、うちの母の一族とその赤松さんの家とは縁があって、母の母の母が、赤松家から母の家に嫁いできたらしい。
ということは、めぐりめぐって僕や僕のきょうだいは、なんということでしょう!父方からも母方からも「赤松」一族の血を受け継いでいるらしいことになる。
まさにW(ダブル)赤松!!
そして、赤松の倍返しだ!!
・・・・・・2013年でしか通用しない冗談はさておき、それから僕は「赤松氏」のことをより調べるようになった。
赤松氏族大塚氏とは、いったいどんな歴史を持つ一族なのか!
そこには、さらなる歴史の深みが待ち受けていたのであった!
<9>驚愕の新事実! わが大塚家は九州出身ではなかった!
前回の記事、「完全網羅 大塚氏・大塚姓のすべて! 全大塚氏族超まとめスペシャル!」
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html
は、文学部国文学科卒業ならではの、変態的執着系古典研究によって明らかにした日本中の「大塚」さんのまとめデータである。
その調査とまとめ作業を終えるや否や、僕は驚愕の事実に驚くことになってしまった。
僕の苗字である「大塚」のうち、うちの家紋である「抱き茗荷」紋を使っているのは、全37大塚氏族のうち、たったひとつしかない、ということに行き着いたのである。
それは、リストでいえば<C>の「村上源氏赤松支流の大塚氏」だけなのだ。
いや、厳密に言えば、<AC>の加賀国の山上氏あらため大塚氏も「隅切角に抱き茗荷」を用いるのだが、我が家の場合は、「隅切角」(角を落とした四角形の枠)なんて装飾はついていない。純粋な「抱き茗荷」であるから、<C>に該当で間違いないと思われる。
もちろん、家紋には「定紋」と「替え紋」があり、定紋のほうが正式な家紋、替え紋がサブ家紋ということになっている。その定紋・替え紋ともに、「抱き茗荷」を使うのは<C>の「村上源氏赤松支流の大塚氏」のみであるから、これまたこの一族こそわが一家だと考えざるを得ないわけである。
しかし!んがしかし!
赤松、という名は、日本史好きであればすぐに「ああ、あの赤松か」と思い浮かべるくらいのビッグネームである。
僕が昔図書館でハマった「まんが日本史」にもバリバリ登場する、そして、山川出版社の日本史教科書にも当然登場し、受験で日本史を取った人なら今でも覚えているはずのあの、赤松以外に赤松はない!
・・・・・・そう。鎌倉時代から活躍し、一休さんでおなじみの足利将軍家のバックアップをつとめ、挙句の果てには、将軍足利義教を暗殺してしまっちゃったりした、あの「赤松」一族である!!
そのせいで、戦国時代が始まっちゃったりしたので、なんともえらいことをしでかした赤松一族だったりする、あの「赤松」である!
赤松氏 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%B0%8F
だが、だがだがだが!
赤松氏といえば、播磨の守護からスタートして大名になったわけなので、兵庫県姫路を本拠地とする氏族ではないか。
うちの家系は代々、九州筑後三潴地方に住んでいるわけだから、わけがわからない。何ゆえに、我らの家が、「赤松氏族の分派」であると言えるのか!
・・・・・・ふふふふ。ふはははは!ぬははははは!
その時、僕は急に高笑いをはじめてしまった。
そうか!そういうことだったのか!!!!
謎は、すべて解けた!!!じっちゃんの名にかけて!
日本史フェチのうち、戦国マニア、戦国大名マニアの方なら、すでにこの「点と線」がつながった松本清張的展開にお気づきになったに違いない。
そうだ。大きなヒントが有馬温泉。冗談ではなく、有馬温泉を治めることになった戦国大名「有馬」氏が、その点と線をつなぐポイントだったのだ。
赤松則祐の5男、義祐は1391年の明徳の乱の戦功によって、摂津有馬荘の地頭職になり、そこから「有馬」を名乗るようになる。
その子孫である、有馬豊氏が関が原の合戦の戦功でもらった領地がどこだと思う?
そう、そうなのだ。
有馬豊氏がもらった領地。それこそが筑後久留米21万石なのである!!!
ミステリーの謎解きはこうだ。わが大塚家のもとの苗字は当然「赤松」、そして、久留米藩主「有馬」氏のもとの苗字も当然「赤松」だ。
歴史的には、赤松氏は「赤松三十六家」なんて呼ばれたりするほどの支流を持つ大所帯である。
赤松氏について(播磨屋さんのサイトより)
http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_rekisi.html
赤松三十六家
http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_36ke.html
しかし、赤松三十六家に「大塚」は入っていないので、そこまで取り上げられない弱小支流であったのだろうが、とにかく、「大塚」氏は大きな意味で赤松一族・赤松軍団のメンバーであったと思われる。
その中で、同族赤松氏の中でも力のあった「有馬のおっちゃん(いちおう親族なのでおっちゃんと呼ぶ)」の家臣になっていたのが、おそらく僕らの先祖の「大塚」氏だったのだろう。
それが、久留米藩に領地替えになった時に、いっしょにくっついていったに違いないのだ!
だから我が家の実家のある地域は「久留米藩領」であり、我が家は近しい家臣なので「久留米藩の馬廻り役(藩主の親衛隊)」ということになるわけだ。
もちろん、直接系図を見たわけでもなんでもないので、物的証拠があるわけではない。しかし、状況証拠としては、すべてが一直線に繋がったではないか!!!
そして、何より、「自分、不器用ですから」な九州男児だと思っていたうちの家系が、今の僕とおんなじ関西人だったことに、驚きを隠せなかったのである。
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html
は、文学部国文学科卒業ならではの、変態的執着系古典研究によって明らかにした日本中の「大塚」さんのまとめデータである。
その調査とまとめ作業を終えるや否や、僕は驚愕の事実に驚くことになってしまった。
僕の苗字である「大塚」のうち、うちの家紋である「抱き茗荷」紋を使っているのは、全37大塚氏族のうち、たったひとつしかない、ということに行き着いたのである。
それは、リストでいえば<C>の「村上源氏赤松支流の大塚氏」だけなのだ。
いや、厳密に言えば、<AC>の加賀国の山上氏あらため大塚氏も「隅切角に抱き茗荷」を用いるのだが、我が家の場合は、「隅切角」(角を落とした四角形の枠)なんて装飾はついていない。純粋な「抱き茗荷」であるから、<C>に該当で間違いないと思われる。
もちろん、家紋には「定紋」と「替え紋」があり、定紋のほうが正式な家紋、替え紋がサブ家紋ということになっている。その定紋・替え紋ともに、「抱き茗荷」を使うのは<C>の「村上源氏赤松支流の大塚氏」のみであるから、これまたこの一族こそわが一家だと考えざるを得ないわけである。
しかし!んがしかし!
赤松、という名は、日本史好きであればすぐに「ああ、あの赤松か」と思い浮かべるくらいのビッグネームである。
僕が昔図書館でハマった「まんが日本史」にもバリバリ登場する、そして、山川出版社の日本史教科書にも当然登場し、受験で日本史を取った人なら今でも覚えているはずのあの、赤松以外に赤松はない!
・・・・・・そう。鎌倉時代から活躍し、一休さんでおなじみの足利将軍家のバックアップをつとめ、挙句の果てには、将軍足利義教を暗殺してしまっちゃったりした、あの「赤松」一族である!!
そのせいで、戦国時代が始まっちゃったりしたので、なんともえらいことをしでかした赤松一族だったりする、あの「赤松」である!
赤松氏 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%B0%8F
だが、だがだがだが!
赤松氏といえば、播磨の守護からスタートして大名になったわけなので、兵庫県姫路を本拠地とする氏族ではないか。
うちの家系は代々、九州筑後三潴地方に住んでいるわけだから、わけがわからない。何ゆえに、我らの家が、「赤松氏族の分派」であると言えるのか!
・・・・・・ふふふふ。ふはははは!ぬははははは!
その時、僕は急に高笑いをはじめてしまった。
そうか!そういうことだったのか!!!!
謎は、すべて解けた!!!じっちゃんの名にかけて!
日本史フェチのうち、戦国マニア、戦国大名マニアの方なら、すでにこの「点と線」がつながった松本清張的展開にお気づきになったに違いない。
そうだ。大きなヒントが有馬温泉。冗談ではなく、有馬温泉を治めることになった戦国大名「有馬」氏が、その点と線をつなぐポイントだったのだ。
赤松則祐の5男、義祐は1391年の明徳の乱の戦功によって、摂津有馬荘の地頭職になり、そこから「有馬」を名乗るようになる。
その子孫である、有馬豊氏が関が原の合戦の戦功でもらった領地がどこだと思う?
そう、そうなのだ。
有馬豊氏がもらった領地。それこそが筑後久留米21万石なのである!!!
ミステリーの謎解きはこうだ。わが大塚家のもとの苗字は当然「赤松」、そして、久留米藩主「有馬」氏のもとの苗字も当然「赤松」だ。
歴史的には、赤松氏は「赤松三十六家」なんて呼ばれたりするほどの支流を持つ大所帯である。
赤松氏について(播磨屋さんのサイトより)
http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_rekisi.html
赤松三十六家
http://www2.harimaya.com/akamatu/html/ak_36ke.html
しかし、赤松三十六家に「大塚」は入っていないので、そこまで取り上げられない弱小支流であったのだろうが、とにかく、「大塚」氏は大きな意味で赤松一族・赤松軍団のメンバーであったと思われる。
その中で、同族赤松氏の中でも力のあった「有馬のおっちゃん(いちおう親族なのでおっちゃんと呼ぶ)」の家臣になっていたのが、おそらく僕らの先祖の「大塚」氏だったのだろう。
それが、久留米藩に領地替えになった時に、いっしょにくっついていったに違いないのだ!
だから我が家の実家のある地域は「久留米藩領」であり、我が家は近しい家臣なので「久留米藩の馬廻り役(藩主の親衛隊)」ということになるわけだ。
もちろん、直接系図を見たわけでもなんでもないので、物的証拠があるわけではない。しかし、状況証拠としては、すべてが一直線に繋がったではないか!!!
そして、何より、「自分、不器用ですから」な九州男児だと思っていたうちの家系が、今の僕とおんなじ関西人だったことに、驚きを隠せなかったのである。
2013年12月24日火曜日
<8>完全網羅 大塚姓・大塚氏・大塚さんのすべて! 全大塚氏族超まとめスペシャル
平成31年2月6日追記・最新
<全面改定済>
この記事は、
「日本中の全『大塚』さんのルーツについて調べたリスト」
です。
更新に更新を重ねて、国内のほぼ全ての大塚姓のルーツについて触れています。
みなさんのご先祖さまや、出自について、ここに取り上げた内容を足がかりに、より詳細な調査を行うことができると思います。
もし、ご自身の大塚姓についてより深く知りたい場合は、一度大塚某までメールをください。
もしかしたら何か新しいことがわかるかもしれません。
☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」
よりご依頼ください☆
==========
※おそらく大半の大塚さんを網羅できているはずだと思うのだが、100%完璧かどうかはわからないので、もし漏れていたらぜひぜひ、ご連絡いただきたい。
残念なことに、これまで大塚さんに特化しての調査研究はあまりなされてこなかったので、みなさんがインターネットで「大塚姓」について調べても、あまり「これだ!」という解答は得られなかったかもしれない。
しかし、それも今日まで!
きっと、日本中の「大塚な」皆さんのお役に立つことと信じている。
★各都道府県の大塚さんについては「都道府県別 大塚さんルーツ一覧表」を参照のこと。
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_3758.html
=========
★ 参考文献 ★
今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。
① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館
http://kindai.ndl.go.jp/
② 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
③ 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂 八木書店
④ 「新編 姓氏家系辞書」 秋田書店
⑤ 「日本の苗字7000傑」 http://www.myj7000.jp-biz.net/
⑥ その他、当ブログにおいて調査のち判明分。
=========
今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「大塚姓」「大塚氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。
<A>大塚氏 宇多源氏 佐々木支流 〔家紋〕丸に花菱 丸に橘
<B>大塚氏 今は池田氏 もと大塚を名乗る 寛政譜13 〔家紋〕剣梅鉢 揚葉蝶 丸に桔梗
<B>大塚氏 秀郷流 秀元-元重-政長に至り、外家池田氏を名乗った。〔家紋〕剣梅鉢 揚葉蝶
<B>大塚氏 下野国 藤原氏秀郷流 〔家紋〕剣梅鉢 蝶
<C>大塚氏 村上源氏赤松支流 〔家紋〕抱茗荷 丸に釘抜 丸に澤瀉(おもだか)
<C>大塚氏 赤松氏族 〔家紋〕抱茗荷 丸に釘抜 丸に澤瀉
<C>大塚氏 幕臣が出る。〔家紋〕澤瀉 澤瀉桐 三つ松
<D>大塚氏 藤原氏北家 安達大曽根氏 大曽根時長の末裔は〔家紋〕六連銭 寛政譜21 〔家紋〕丸に雁金 蔦
<D>大塚氏 藤原北家 安達大曽根氏族 安達盛長の子大曽根時長の子孫。〔家紋〕丸に雁金 蔦
<D>安達氏(大塚) 大曽根時長の末裔。藤原氏山蔭流。
<E>大塚氏 未勘源氏 〔家紋〕丸に上文字 亀甲に松皮菱 もと真田氏を名乗る者は〔家紋〕六連銭
<E>大塚氏 寛政譜20 〔家紋〕亀甲に花菱
<F>大塚氏 安部氏族 佐々木流 寛政譜に2家。〔家紋〕丸に堅二引 餅の内抱澤瀉
<F>大塚氏 安部氏族 佐々木流 寛政譜に2家。〔家紋〕丸に堅二引 餅の内抱澤瀉
<G>大塚氏 藤原北家 道隆流 道隆6世孫家行の子孫泰親より出る。家紋不明。
<H>大塚氏 桓武平氏 千葉氏族 千葉常胤の庶流。家紋不明。
<I>大塚氏 加賀藩給帳に記録あり。〔家紋〕三つ鱗
<J>大塚氏 河内国丹比郡大塚邑より起こる。橘氏族楠木氏流。〔家紋〕方喰(かたばみ) 橘 桜
<K>大塚氏 近江国蒲生郡大塚村より起こる。寛政譜19 宇多源氏佐々木氏流 〔家紋〕大文字
<L>大塚氏 加賀藩給帳に記録。〔家紋〕鶴の丸
<M>小野崎氏(大塚) 秀郷流 のち大塚姓。茨城県多珂荘大塚郷。鎌倉時代に地頭職。新田義貞の下につく。家紋不明。
<N>児玉氏(大塚) 安芸児玉氏から大塚氏へ。家紋不明。
<O・J?>楠木氏(大塚) 伊予楠木氏から大塚氏へ。家紋不明。
<P>藤井/薬師寺氏(大塚) 秀郷流小山氏より。家紋不明。
<Q・D?E?>海野氏(大塚) 滋野氏より大塚氏へ。〔家紋〕六連銭
<R>後藤氏(大塚) 基清流後藤氏(播磨後藤庶流) 藤原氏利仁流。家紋不明。
<S>土持氏(大塚) 日向国の田部氏の系統、土持氏より起こる。家紋不明。
<T>大塚氏 現茨城在住。織田信長家臣の伝承を持つ?〔家紋〕三つ巴
<U>大塚氏 出雲国能義郡大塚村に起こる。尼子氏配下 〔家紋〕 方喰か?<S>土持氏(大塚) 日向国の田部氏の系統、土持氏より起こる。家紋不明。
<T>大塚氏 現茨城在住。織田信長家臣の伝承を持つ?〔家紋〕三つ巴
<V>財津氏?(大塚) 豊後日田より起こる?久留米藩 〔家紋〕 丸のうち大古文字・碁石
<W>大塚氏 甲斐武田氏より則武氏を経て大塚姓か?岡山県。
<X>大塚氏 武藤少弐より小弐氏子孫大塚氏。佐賀県・福岡県周辺
<Y・X?>大塚氏 佐賀県小城市出身の小城一揆衆大塚氏か?
<Z>大塚氏 佐賀・本庄神社神職の大塚氏(本姓藤原)を継いだ佐賀・千布氏
<A1>大塚氏 豊前秋月氏のうち、大塚を称したものあり(豊前大鑑) /秋月種実から出た大塚大膳政時の子孫あり。(田川郡)
<A2>大塚氏 大友氏流 大友親著の庶子に大塚氏あり。(直入郡志)
<A3>大塚氏 茨城県 新治地方に太田道灌系大塚氏あり。(茨城県多珂荘系と別か?)
<A4>大塚氏 清和源氏頼光流より出て、源光信より大塚氏。のちに美濃土岐氏家臣。
その他、大塚姓の家紋として
板屋貝
井筒
丸に団扇
澤瀉
柏 六角に三つ柏
烏の丸
剣唐花
外四つ鐶に釘抜
亀甲に松皮菱
大文字亀甲
石持地抜き違い鷹の羽
丸に五葉根笹
丸に根笹に雀
丸に陰蔦
右一つ巴
上り藤
隅切角に抱茗荷
木瓜(情報あり分)
州浜・輪違い・根笹(情報あり分)
を用いるものがある。
※ いくつかの文献に重ねて登場するものは、おなじ記号<B>などにまとめて列記している。
※ <?>のついているものについては、一応別の氏として分けてあるものの、既に登場している氏と重なっている可能性があるものである。
※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては八木書店版「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。
☆追記
(詳細な調査の結果、このブログの執筆者「大塚某」の出自は、「武藤少弐より小弐氏子孫大塚氏」であることが判明しました!)
もちろん、精査してゆけば、この中にもまだ重なっているものがあろうし、逆にここに挙がっていない「大塚家・大塚氏」が存在する可能性もある。
しかし、全国にこれだけ出自の異なる「大塚」さんがいるのだから、これはなかなかわくわくするミステリーではないか!
さあ、あなたはどの「大塚」さんなのか、まずは自分のおうちの家紋を調べてみてほしい!
きっとあなただけの「俺んちコード・あたしんちコード」な謎解きが始まるからである!
・・・あ、ちなみに元ネタは「ダヴィンチ・コード」ね。いまさらだが。
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<7>グーグルさんのおかげです
さて、振り出しに戻り、仕切り直し、ということになった我が家の「ルーツ探し」の調査だったが、実はそれからしばらくは進展がなく、中断という感じになっていた。
というのも、僕自身がほったらかしにしている間に、すっかり忘れてしまっていたからだ(笑)。
ところが、これまたほんの小さなきっかけで、事態が大きく動くことになる。
まあ、一昔前なら、考えられなかったようなハイテクなことが起きたのである。
そもそも、家系探しや先祖探しというものは、手間と暇とお金がかかるものだった。第一に、親や親戚の話を聞いて、それから地域の図書館を廻って文献をあさり、そこから関連する書籍を拾い出しては、今度はそこへ行く、というのが定石だ。
文献によっては図書館や資料館でも閉架のところに置いてあって、おいそれとは見られなかったり、よくてマイクロフィルムに納められていたりする。
ましてや僕らのように、本来の実家から遠く離れたところに住んでいる者にとっては、それだけの調査にかける日程が取れないではないか。日々の忙しさにかまけて、すっかり放り投げてしまっていたとしても、ある意味仕方がないことではある。
しかし、これがインターネットの発達によって、最近は大きく事態が変わっているのである。本格的な資料はいざしらず、これまでなら絶対に図書館めぐりをしなければ出会えなかったような資料が、ネット上から簡単にアクセスできちゃったりするのである。
もちろん、全部が全部、というわけではない。でも、ほんのちょっと一部の資料であっても、とっかかりにアクセスできるだけでも大きな進歩だ。仮に、実際にどこかの図書館に出向く必要があったとしても、「かなりの当たり・見当をつけて出かけてゆく」ことができるようになったのだ。
今回の僕の場合、「大塚家」の出自について調査するに当たって、一番の助けになったのは、あの世界的企業
グーグル
さんであった。
グーグルさんは、世界中の本をデジタル化して取り込む、という野望を持っていらっしゃるらしくそのプロジェクトの一環として「グーグルブックス」http://books.google.co.jp/なるサービスを遂行中なのだが、これがすごいのだ。
このサービスは、まだまだ未完成だが、とにかく「普通の本をスキャンして取り込もう」という発想ではなく、「学術研究書の類まで網羅しよう」というとてつもないプロジェクトなのである。
そのため、これまたこれまでなら大学の図書館とか、専門古書店にしか置いていないようなマニアックな学術書・研究書までが、たとえそのサワリの部分だけでも、読めるようになっているのである。
おかげで、僕が思い出したように何気なく検索をかけたことで、あれよあれよと「大塚氏」の歴史・出自が専門書でどんなふうに記載されているか、「ちょびっと」読めてしまったのである。
なぜちょびっと、なのかと言えば、グーグルブックスでは現在市販されている本は丸ごと読めるわけではなく「出版社から買ってね」というスタイルになっている。これは当然のお話。
ところが、その一部が、ところどころ透けて見えるようには、してくれている。これが大いに役立った。
「あ、この本に気になる記述があるらしいっぽい」
とか
「あ、この本に『大塚氏』についての記事が確実にある」
なんてことが自宅のパソコンからわかるのだから、超便利だ。おまけに著作権が切れたものについては、全文が読めちゃったりするから、素晴らしい!のひとことである。
こうなると、後は早い。文学部国文学科出身の僕は、古典籍の調査研究はお手のものである。大学時代は、図書館の倉庫の中で、誰も読まなそうな江戸時代の文献やら、影印本(写真を撮った写しの本)を毎日めくっていたのであるから、ヒントさえもらえれば、芋づる式に資料を探し出すのは容易いことだった。
そうして、グーグルさんにもらったヒントによって、僕の「俺んちコード」の旅は、一気にスピードアップするのである。
<次回予告>
さあ、いよいよ本丸に突入の「大塚」探しの旅。ところが、それは壮大な歴史ロマンの入り口に過ぎなかった?!
独自の追加調査によって判明する、日本中の「大塚」さんの網羅研究がついに始まる!
次回は、「全大塚氏族の超まとめスペシャル!」と題して大公開。
そこのあなたも、あちらのあなたも、すべての大塚さんのルーツを一挙大公開!この中に載っていない「大塚」さんは、たぶんいないはず?いないと思うよ?いたらごめんね!な内容でお届けします!
というのも、僕自身がほったらかしにしている間に、すっかり忘れてしまっていたからだ(笑)。
ところが、これまたほんの小さなきっかけで、事態が大きく動くことになる。
まあ、一昔前なら、考えられなかったようなハイテクなことが起きたのである。
そもそも、家系探しや先祖探しというものは、手間と暇とお金がかかるものだった。第一に、親や親戚の話を聞いて、それから地域の図書館を廻って文献をあさり、そこから関連する書籍を拾い出しては、今度はそこへ行く、というのが定石だ。
文献によっては図書館や資料館でも閉架のところに置いてあって、おいそれとは見られなかったり、よくてマイクロフィルムに納められていたりする。
ましてや僕らのように、本来の実家から遠く離れたところに住んでいる者にとっては、それだけの調査にかける日程が取れないではないか。日々の忙しさにかまけて、すっかり放り投げてしまっていたとしても、ある意味仕方がないことではある。
しかし、これがインターネットの発達によって、最近は大きく事態が変わっているのである。本格的な資料はいざしらず、これまでなら絶対に図書館めぐりをしなければ出会えなかったような資料が、ネット上から簡単にアクセスできちゃったりするのである。
もちろん、全部が全部、というわけではない。でも、ほんのちょっと一部の資料であっても、とっかかりにアクセスできるだけでも大きな進歩だ。仮に、実際にどこかの図書館に出向く必要があったとしても、「かなりの当たり・見当をつけて出かけてゆく」ことができるようになったのだ。
今回の僕の場合、「大塚家」の出自について調査するに当たって、一番の助けになったのは、あの世界的企業
グーグル
さんであった。
グーグルさんは、世界中の本をデジタル化して取り込む、という野望を持っていらっしゃるらしくそのプロジェクトの一環として「グーグルブックス」http://books.google.co.jp/なるサービスを遂行中なのだが、これがすごいのだ。
このサービスは、まだまだ未完成だが、とにかく「普通の本をスキャンして取り込もう」という発想ではなく、「学術研究書の類まで網羅しよう」というとてつもないプロジェクトなのである。
そのため、これまたこれまでなら大学の図書館とか、専門古書店にしか置いていないようなマニアックな学術書・研究書までが、たとえそのサワリの部分だけでも、読めるようになっているのである。
おかげで、僕が思い出したように何気なく検索をかけたことで、あれよあれよと「大塚氏」の歴史・出自が専門書でどんなふうに記載されているか、「ちょびっと」読めてしまったのである。
なぜちょびっと、なのかと言えば、グーグルブックスでは現在市販されている本は丸ごと読めるわけではなく「出版社から買ってね」というスタイルになっている。これは当然のお話。
ところが、その一部が、ところどころ透けて見えるようには、してくれている。これが大いに役立った。
「あ、この本に気になる記述があるらしいっぽい」
とか
「あ、この本に『大塚氏』についての記事が確実にある」
なんてことが自宅のパソコンからわかるのだから、超便利だ。おまけに著作権が切れたものについては、全文が読めちゃったりするから、素晴らしい!のひとことである。
こうなると、後は早い。文学部国文学科出身の僕は、古典籍の調査研究はお手のものである。大学時代は、図書館の倉庫の中で、誰も読まなそうな江戸時代の文献やら、影印本(写真を撮った写しの本)を毎日めくっていたのであるから、ヒントさえもらえれば、芋づる式に資料を探し出すのは容易いことだった。
そうして、グーグルさんにもらったヒントによって、僕の「俺んちコード」の旅は、一気にスピードアップするのである。
<次回予告>
さあ、いよいよ本丸に突入の「大塚」探しの旅。ところが、それは壮大な歴史ロマンの入り口に過ぎなかった?!
独自の追加調査によって判明する、日本中の「大塚」さんの網羅研究がついに始まる!
次回は、「全大塚氏族の超まとめスペシャル!」と題して大公開。
そこのあなたも、あちらのあなたも、すべての大塚さんのルーツを一挙大公開!この中に載っていない「大塚」さんは、たぶんいないはず?いないと思うよ?いたらごめんね!な内容でお届けします!
<6>紛れもない「抱き茗荷」紋
”我が大塚家の家紋は、口伝では「抱き茗荷」と伝えられているが、実際は「抱き杏葉」かもしれない。”
とまあ、そんな仮説をもとに考えていた、「大塚家-立花家-大友家」の関係であったが、その真実は意外にあっさりと解決することになった。
というのも、父親の長兄(僕にとっては伯父である)が亡くなったおり、一家で葬儀に参列した際、実際にかの「墓所」へ確認しに行ったからである。
※「墓所」というのは、http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_21.htmlで説明した大塚家の墓のことである。
僕も実際に確認するまで気がつかなかったのだが、確かに墓所の中心の大きな墓石には、家紋の刻印が彫りこんである。
「ああ、やっぱり『抱き茗荷』に間違いないわ」
とその場にいた、僕も父も弟も同意した。風雨にさらされて多少角がとれてはいるものの、刻印が判別できないほどではなく、まぎれもなく「抱き茗荷」のデザインがそこにあった。
僕らは念のため紙と鉛筆を持ってきていて、その場で拓本を取り、もちろんデジカメで写真を撮って持って帰った。
この刻印が
「紛れもなく、抱き茗荷」
であることが示す事実はひとつである。それは、我が家の家紋は「杏葉」紋と混同されてはいない、ということに他ならない。
たしかに、前回引用した立花家の説明においても、杏葉紋を「茗荷紋」と間違えて読むことはあっても、家紋のデザインそのものが混乱したり誤用されたりしたことはない、とのことであるから、この時点で、杏葉系の氏族とは無関係であることが確定したわけである。
九州に一大勢力を築いた「大友」氏・家との関わりは、一旦否定せざるを得ない。となれば、必然的に、いくら柳川藩が近くにあるとはいえ、立花家の「抱き杏葉」紋とも偶然似ていただけ、ということになるわけだ。
つまり、ある意味我が家のルーツ探しが振り出しに戻ってしまったような感じになったのである。
★コラム★ 抱き茗荷紋を知る
あなたのお家の家紋が「抱き茗荷」だった時に、読むと面白いサイトをいくつか紹介しておきます。
☆「播磨屋」さんのページより
http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/myouga.html
戦国武将と家紋について、膨大なデータベースと解説をお持ちの「播磨屋」さんのサイトは、家紋調べの入門編としてたいへん役に立ちます。
☆きもの屋さん「みなぎ」さんのページより
http://minagi.p-kit.com/page136576.html
茗荷紋の変種がたくさん掲載されています。基本的にシンプルな家紋が古い紋で、それからどんどん装飾が増えたり、他の形と組み合わさって新しい紋が出来上がるようになります。
紋を少しずつ変えることで、「本家とは違う分家だよ」等、オリジナルとの違いを示すことができるからです。
☆「民のかまどはにぎはひにけり」ブログさんより
http://dakimyouga111111.blog.fc2.com/blog-entry-50.html
http://dakimyouga111111.blog.fc2.com/blog-entry-51.html
茗荷紋は、摩多羅神という天台密教系の神様の信仰と深い関わりがある、ということは、いろんなサイトでも説明されているのですが、ちょっと詳しい突っ込んだ記述がありましたのでご紹介。
実は僕は、大学時代この「摩多羅神」を祀った謎の奇祭を見たことがあります。大学時代、下宿アパートが京都太秦の広隆寺の近くにありましたので、
「太秦の牛祭り」
を見に行ったことがあるのです。
詳しくは、
☆「摩多羅神は何処から来たのか」さんのサイトより
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_J.html
に説明があるので、ご興味のある方はどうぞ!
とまあ、そんな仮説をもとに考えていた、「大塚家-立花家-大友家」の関係であったが、その真実は意外にあっさりと解決することになった。
というのも、父親の長兄(僕にとっては伯父である)が亡くなったおり、一家で葬儀に参列した際、実際にかの「墓所」へ確認しに行ったからである。
※「墓所」というのは、http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_21.htmlで説明した大塚家の墓のことである。
僕も実際に確認するまで気がつかなかったのだが、確かに墓所の中心の大きな墓石には、家紋の刻印が彫りこんである。
「ああ、やっぱり『抱き茗荷』に間違いないわ」
とその場にいた、僕も父も弟も同意した。風雨にさらされて多少角がとれてはいるものの、刻印が判別できないほどではなく、まぎれもなく「抱き茗荷」のデザインがそこにあった。
僕らは念のため紙と鉛筆を持ってきていて、その場で拓本を取り、もちろんデジカメで写真を撮って持って帰った。
この刻印が
「紛れもなく、抱き茗荷」
であることが示す事実はひとつである。それは、我が家の家紋は「杏葉」紋と混同されてはいない、ということに他ならない。
たしかに、前回引用した立花家の説明においても、杏葉紋を「茗荷紋」と間違えて読むことはあっても、家紋のデザインそのものが混乱したり誤用されたりしたことはない、とのことであるから、この時点で、杏葉系の氏族とは無関係であることが確定したわけである。
九州に一大勢力を築いた「大友」氏・家との関わりは、一旦否定せざるを得ない。となれば、必然的に、いくら柳川藩が近くにあるとはいえ、立花家の「抱き杏葉」紋とも偶然似ていただけ、ということになるわけだ。
つまり、ある意味我が家のルーツ探しが振り出しに戻ってしまったような感じになったのである。
★コラム★ 抱き茗荷紋を知る
あなたのお家の家紋が「抱き茗荷」だった時に、読むと面白いサイトをいくつか紹介しておきます。
☆「播磨屋」さんのページより
http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/myouga.html
戦国武将と家紋について、膨大なデータベースと解説をお持ちの「播磨屋」さんのサイトは、家紋調べの入門編としてたいへん役に立ちます。
☆きもの屋さん「みなぎ」さんのページより
http://minagi.p-kit.com/page136576.html
茗荷紋の変種がたくさん掲載されています。基本的にシンプルな家紋が古い紋で、それからどんどん装飾が増えたり、他の形と組み合わさって新しい紋が出来上がるようになります。
紋を少しずつ変えることで、「本家とは違う分家だよ」等、オリジナルとの違いを示すことができるからです。
☆「民のかまどはにぎはひにけり」ブログさんより
http://dakimyouga111111.blog.fc2.com/blog-entry-50.html
http://dakimyouga111111.blog.fc2.com/blog-entry-51.html
茗荷紋は、摩多羅神という天台密教系の神様の信仰と深い関わりがある、ということは、いろんなサイトでも説明されているのですが、ちょっと詳しい突っ込んだ記述がありましたのでご紹介。
実は僕は、大学時代この「摩多羅神」を祀った謎の奇祭を見たことがあります。大学時代、下宿アパートが京都太秦の広隆寺の近くにありましたので、
「太秦の牛祭り」
を見に行ったことがあるのです。
詳しくは、
☆「摩多羅神は何処から来たのか」さんのサイトより
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_J.html
に説明があるので、ご興味のある方はどうぞ!
2013年12月23日月曜日
<5>家紋の怪 ~抱き茗荷は二つある~
「そういえば、えらい大事なことを忘れていた!」
それを思い出したのは、福岡旅行から帰ってしばらくのことであった。そういえば、かねてより父親から聞いてはいたのだが、これまた漠然と右の耳から左の耳に抜けていただけで、改まって意識したことのない、でも大切なポイントである。
そう、それは我が家の家紋についてであった。
父親によれは、うちの家紋は、
「抱き茗荷」
であるという。
ところが、言葉では知っていたものの、それがどんな紋であるのかは、インターネットを見て後から知ったくらいで、ああ、お恥ずかしい限りである。
それもそのはずで、うちの父親はすでに実家を出て何年も経っているので、だいたい家紋の入った何かを持っているはずもなく、今時正装する機会もなければ、末っ子の父だから紋付を持っているわけでもない。
正規の家紋がついた所持品が何一つないわけだから、僕らが見たことがないのも当然と言わざるを得ない。
そこで、僕の中では、「うちの家紋は抱き茗荷」という言葉だけが記憶に残ることになり、そしてこの言葉によって、結構苦しめられちゃうことになるのである。
そう、「抱き茗荷」は歴史上稀に見るややこしい家紋でもあるのだ。
抱き茗荷とは、こんな家紋である。
(引用元 ウィキペディアより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_crest_daki_Myouga.svg)
「抱き茗荷」紋は日本の十大家紋に入っているので、メジャーなほうの家紋らしいのだが、実はこれにそっくりな紋がもう一つあって、よくその紋と混同されることが多い。
それが「抱き杏葉」紋であり、そっちはこんなデザインになっている。
(引用元 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_Crest_Daki_hana_Gyouyou.svg)
調べていくと、この「抱き茗荷・抱き杏葉」はどんどん深みに入っていくようなややこしさを持っている家紋だということがわかってきた。
まず、形が似ているので、「抱き杏葉」の家紋を持っている家でも、その呼び名を「抱き茗荷」だということがあるという。
このあたり、わかりやすい説明をしてくれているのが、前回登場した柳川藩当主「立花家」のサイトである。
立花家十七代が語る立花宗茂と柳川 「杏葉紋のこと」
http://www.muneshige.com/column/05.html
この説明によると、もともと杏葉紋は豊後の戦国大名「大友家」が用いており、そこから肥前佐賀「鍋島家」が用いるようになった、という。
そして、大友家軍団は、大友家からこの紋を用いる許可を与えられたので、(それを同紋衆というらしい)、柳川の「立花家」でも杏葉紋を用いるようになったとのこと。
ついでに江戸時代を通じて、杏葉紋なのに「抱き茗荷」だと混同する例も多く、ややこしいなあ、と率直に思わざるを得ないのである。
このあたりから、僕は当初大きな誤解をしてしまう。この誤った推測というのはこうだ。
「大塚家も、もしかしたら大友家の支配下にあって、それゆえに抱き茗荷紋を使うようになったのではないか?だとすれば、そもそも柳川藩の支配地域であったこととも繋がってくる。大友-立花-の流れと大塚家の関係性があるのではないか?」
そんな仮説から追っていったルーツ探しだったが、結果としてはNOだった。
なぜか?!それは、後に一発で覆される仮説だったからである。
それを思い出したのは、福岡旅行から帰ってしばらくのことであった。そういえば、かねてより父親から聞いてはいたのだが、これまた漠然と右の耳から左の耳に抜けていただけで、改まって意識したことのない、でも大切なポイントである。
そう、それは我が家の家紋についてであった。
父親によれは、うちの家紋は、
「抱き茗荷」
であるという。
ところが、言葉では知っていたものの、それがどんな紋であるのかは、インターネットを見て後から知ったくらいで、ああ、お恥ずかしい限りである。
それもそのはずで、うちの父親はすでに実家を出て何年も経っているので、だいたい家紋の入った何かを持っているはずもなく、今時正装する機会もなければ、末っ子の父だから紋付を持っているわけでもない。
正規の家紋がついた所持品が何一つないわけだから、僕らが見たことがないのも当然と言わざるを得ない。
そこで、僕の中では、「うちの家紋は抱き茗荷」という言葉だけが記憶に残ることになり、そしてこの言葉によって、結構苦しめられちゃうことになるのである。
そう、「抱き茗荷」は歴史上稀に見るややこしい家紋でもあるのだ。
抱き茗荷とは、こんな家紋である。
(引用元 ウィキペディアより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_crest_daki_Myouga.svg)
「抱き茗荷」紋は日本の十大家紋に入っているので、メジャーなほうの家紋らしいのだが、実はこれにそっくりな紋がもう一つあって、よくその紋と混同されることが多い。
それが「抱き杏葉」紋であり、そっちはこんなデザインになっている。
(引用元 ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Japanese_Crest_Daki_hana_Gyouyou.svg)
調べていくと、この「抱き茗荷・抱き杏葉」はどんどん深みに入っていくようなややこしさを持っている家紋だということがわかってきた。
まず、形が似ているので、「抱き杏葉」の家紋を持っている家でも、その呼び名を「抱き茗荷」だということがあるという。
このあたり、わかりやすい説明をしてくれているのが、前回登場した柳川藩当主「立花家」のサイトである。
立花家十七代が語る立花宗茂と柳川 「杏葉紋のこと」
http://www.muneshige.com/column/05.html
この説明によると、もともと杏葉紋は豊後の戦国大名「大友家」が用いており、そこから肥前佐賀「鍋島家」が用いるようになった、という。
そして、大友家軍団は、大友家からこの紋を用いる許可を与えられたので、(それを同紋衆というらしい)、柳川の「立花家」でも杏葉紋を用いるようになったとのこと。
ついでに江戸時代を通じて、杏葉紋なのに「抱き茗荷」だと混同する例も多く、ややこしいなあ、と率直に思わざるを得ないのである。
このあたりから、僕は当初大きな誤解をしてしまう。この誤った推測というのはこうだ。
「大塚家も、もしかしたら大友家の支配下にあって、それゆえに抱き茗荷紋を使うようになったのではないか?だとすれば、そもそも柳川藩の支配地域であったこととも繋がってくる。大友-立花-の流れと大塚家の関係性があるのではないか?」
そんな仮説から追っていったルーツ探しだったが、結果としてはNOだった。
なぜか?!それは、後に一発で覆される仮説だったからである。
<4>水郷 柳川
僕の本来の実家がある福岡県三潴地域というのは、現在では合併合併を繰り返して、「大川市」「大木町」「柳川市」「久留米市」「筑後市」という5つの市町村になっているが、本来はもっと多くの二十ちかくの村が集まった地域のことを指す。
中でも観光地として有名なのが、北原白秋のふるさとでもある「水郷 柳川」である。この町もクリーク(堀割り)で有名で、柳川城をめぐる縦横無尽の堀が未だに残っているので、観光として「川下り」を楽しむことができる。
僕ら夫婦の福岡旅行の中で、旅の締めくくりは「柳川観光」となったのは、ある意味定番の流れであり、「本吉屋」でうなぎのせいろむしを食べ、「川下り」を楽しむことになった。
やや寒い季節に訪問したため、その時の僕らの川下りは貸切状態で、古い町の風情を十分に楽しんだのを覚えている。
柳川の川下りは、入り組んだ街の中の掘割を進んでいくのだが、そのラストは柳川城跡の堀をぐるりと廻って、柳川藩の旧藩主の屋敷である立花邸「御花」に到着して終了、という流れになっている。
御花
http://www.ohana.co.jp/
この藩主の屋敷はとても素晴らしい建物で、現在では結婚式場や料亭のような使われ方をしているが、さすがに柳川藩藩主の屋敷だけあって、一見の価値がある。
さて、うちの実家は、柳川にもすぐ行けるところなので、その昔父親に
「うちって柳川藩やったっけ?久留米藩やったっけ?」
と尋ねてみたことがあるのだが、父親が言うには、
「いや、柳川にも近いけれど、うちは久留米藩だ」
という答えが帰ってきた。
「御花」の壮大さを見れば納得がいくのだが、もともと筑後の国は「柳川藩(柳河藩)」が一藩で支配していたのが、後に久留米藩ができたことで二つに分割されたような格好になったらしい。
筑後の国の領地は、その結果もともと似たような地域にあるはずのものが、「久留米藩」と「柳川藩」に分かれることとなり、そのため我が大塚家の地域は「久留米藩に属する」ことになっていたようなのである。
僕にとって、小さいときに何度か連れて行ってもらった「御花」はもとより、この結婚後の旅行は、ちょっとした刺激になった。
久留米藩成立前に、我が実家のある地域が柳川藩に属していた可能性があるとすれば、こりゃ縁もゆかりもないわけでもなかろう、というわけだ。
そこから、当時の九州一帯の戦国武将ならびに、諸藩の様相についても、俄然興味が沸いてきたのである。
その頃、僕が思い描いていた「想像」はこうだ。
「大塚一族は、九州にあって、周辺の武将たちの動乱・騒乱・力加減の中で三潴地域に定着していったと思われる。あるいは、立花家に仕えていた可能性もあるし、そこから久留米藩に仕えることになったと思われる。でもいったい、どこからやってきた一族なんだろう」
まあ、そんな漠然としたイメージで捉えていたわけだが、これは結果的には大間違いであったことが、のちのちわかってくるのである。
中でも観光地として有名なのが、北原白秋のふるさとでもある「水郷 柳川」である。この町もクリーク(堀割り)で有名で、柳川城をめぐる縦横無尽の堀が未だに残っているので、観光として「川下り」を楽しむことができる。
僕ら夫婦の福岡旅行の中で、旅の締めくくりは「柳川観光」となったのは、ある意味定番の流れであり、「本吉屋」でうなぎのせいろむしを食べ、「川下り」を楽しむことになった。
やや寒い季節に訪問したため、その時の僕らの川下りは貸切状態で、古い町の風情を十分に楽しんだのを覚えている。
柳川の川下りは、入り組んだ街の中の掘割を進んでいくのだが、そのラストは柳川城跡の堀をぐるりと廻って、柳川藩の旧藩主の屋敷である立花邸「御花」に到着して終了、という流れになっている。
御花
http://www.ohana.co.jp/
この藩主の屋敷はとても素晴らしい建物で、現在では結婚式場や料亭のような使われ方をしているが、さすがに柳川藩藩主の屋敷だけあって、一見の価値がある。
さて、うちの実家は、柳川にもすぐ行けるところなので、その昔父親に
「うちって柳川藩やったっけ?久留米藩やったっけ?」
と尋ねてみたことがあるのだが、父親が言うには、
「いや、柳川にも近いけれど、うちは久留米藩だ」
という答えが帰ってきた。
「御花」の壮大さを見れば納得がいくのだが、もともと筑後の国は「柳川藩(柳河藩)」が一藩で支配していたのが、後に久留米藩ができたことで二つに分割されたような格好になったらしい。
筑後の国の領地は、その結果もともと似たような地域にあるはずのものが、「久留米藩」と「柳川藩」に分かれることとなり、そのため我が大塚家の地域は「久留米藩に属する」ことになっていたようなのである。
僕にとって、小さいときに何度か連れて行ってもらった「御花」はもとより、この結婚後の旅行は、ちょっとした刺激になった。
久留米藩成立前に、我が実家のある地域が柳川藩に属していた可能性があるとすれば、こりゃ縁もゆかりもないわけでもなかろう、というわけだ。
そこから、当時の九州一帯の戦国武将ならびに、諸藩の様相についても、俄然興味が沸いてきたのである。
その頃、僕が思い描いていた「想像」はこうだ。
「大塚一族は、九州にあって、周辺の武将たちの動乱・騒乱・力加減の中で三潴地域に定着していったと思われる。あるいは、立花家に仕えていた可能性もあるし、そこから久留米藩に仕えることになったと思われる。でもいったい、どこからやってきた一族なんだろう」
まあ、そんな漠然としたイメージで捉えていたわけだが、これは結果的には大間違いであったことが、のちのちわかってくるのである。
<3>ご先祖様の痕跡を求めて
とまあ、これまでの記事に書いたように、大人(=社会人)になるまで、僕のルーツ探しの旅は完全に停滞していたのだが、事態はちょっとした成り行きで大きく動き始めたのだった。
というのも、自分が結婚することになり、妻になった女性にとっては、「姓が変わる」という一大イベントを迎えたわけであり、当然、彼女にとっても自分が嫁ぐ「大塚家」なるものが興味の対象になる、というのは自然な流れなわけで。
ようするに、そんな話をネタにしながら、遊びがてら九州旅行に行くことになったのである。
旅行そのものは、博多でとんこつラーメンを食べたり、大宰府天満宮へ行ったりするという至極オーソドックスな福岡満喫旅行だったのだが、ついでに親父の実家を説明したり、ちょっとした調査を実行してみた。
調査、というのはこういうことだ。そもそも、父親から聞いていた我が家の「大塚家」像というのは、ある意味では話だけだったので、ざっくりとした感じではあるが、
「あ、そうだ。地元の図書館に行けば、なんか資料らしきものがあるのではないか?」
と思いついてしまったのである。
・・・・・・というわけで、実家のある市町村の図書館で、「市町村史」のようなものを調べてみたのだが、残念なことに我が家の家系につながりそうな人物の名前は残っていなかった。
ただ、おなじ集落の何がしかの功績があった人物として、大塚某さんの名前があったので、後で父親に訊いてみたら、
「ああ、その人は昔合ったことがあるなあ。たしかに近くに住んでた」
と知っている、とのことではあった。しかし、その人が親戚ではあっても、残念ながら村長さんをしていたらしい曽祖父の名前は見つからなかったし、町内や地域で我が一族が目立った働きをしたような記録が見つからないもんだから、「成果なし」に等しい結果だと言わざるを得ない。
というわけで、僕ら夫婦は、とりあえず先祖探しの調査を横に置いておいて、観光の旅へと戻ったわけである。
★コラム★ 自分の先祖を探す方法
自分の先祖の痕跡を探す方法、というのには実は2つのアプローチがあります。今、話の中で取り上げているのは一つ目のアプローチ、つまり
「自分の側から、親・親戚などの一族に伝わっている話を聞く」
という方法です。結局のところ、自分の家のことは自分たちしかわからないわけですから、自分の家のこれまでの歴史が、どのように口伝されているか、をまずは大切にしましょう。
その時、核になるのは「苗字・名字」と「家紋」です。それから、「地域・村・地区」などの住んでいるところも、ポイントになります。
この「名字・家紋・地域」を軸にしながら、自分の家に伝わる物語を肉付けすることで、過去に遡ることができます。
本家筋であれば、「親戚のだれそれさんが家系図を持っている」などの情報に当たることもできますが、次男三男の家系だと、いつのまにかそれらはわからなくなっていることが大半です。
ちょっとマニアックな方法としては、戸籍に載っている記録を遡っていくという手もありますが、こうした方法は行政書士の手助けを借りたりしないと、難しいかもしれません。
自分の父や祖父くらいまでは記録を辿れますが、そこから先はどんどん閉じた戸籍になっていくからです。
さて、もう一つのアプローチは
「公的な記録・古文書等から逆に自分の家を辿っていく」
方法です。
この方法については、このブログの記事の中でこれからどんどん効果を発揮していきますから、解説を楽しみに待っていてください。
全国の「大塚」さんにとって、自分がどの、どこの、どんな大塚なのか探るテクニックを、どどんと公開してしまいますよ!
(ただ、話がまだそこまで行かないので、もう少し待って下さいね)
というのも、自分が結婚することになり、妻になった女性にとっては、「姓が変わる」という一大イベントを迎えたわけであり、当然、彼女にとっても自分が嫁ぐ「大塚家」なるものが興味の対象になる、というのは自然な流れなわけで。
ようするに、そんな話をネタにしながら、遊びがてら九州旅行に行くことになったのである。
旅行そのものは、博多でとんこつラーメンを食べたり、大宰府天満宮へ行ったりするという至極オーソドックスな福岡満喫旅行だったのだが、ついでに親父の実家を説明したり、ちょっとした調査を実行してみた。
調査、というのはこういうことだ。そもそも、父親から聞いていた我が家の「大塚家」像というのは、ある意味では話だけだったので、ざっくりとした感じではあるが、
「あ、そうだ。地元の図書館に行けば、なんか資料らしきものがあるのではないか?」
と思いついてしまったのである。
・・・・・・というわけで、実家のある市町村の図書館で、「市町村史」のようなものを調べてみたのだが、残念なことに我が家の家系につながりそうな人物の名前は残っていなかった。
ただ、おなじ集落の何がしかの功績があった人物として、大塚某さんの名前があったので、後で父親に訊いてみたら、
「ああ、その人は昔合ったことがあるなあ。たしかに近くに住んでた」
と知っている、とのことではあった。しかし、その人が親戚ではあっても、残念ながら村長さんをしていたらしい曽祖父の名前は見つからなかったし、町内や地域で我が一族が目立った働きをしたような記録が見つからないもんだから、「成果なし」に等しい結果だと言わざるを得ない。
というわけで、僕ら夫婦は、とりあえず先祖探しの調査を横に置いておいて、観光の旅へと戻ったわけである。
★コラム★ 自分の先祖を探す方法
自分の先祖の痕跡を探す方法、というのには実は2つのアプローチがあります。今、話の中で取り上げているのは一つ目のアプローチ、つまり
「自分の側から、親・親戚などの一族に伝わっている話を聞く」
という方法です。結局のところ、自分の家のことは自分たちしかわからないわけですから、自分の家のこれまでの歴史が、どのように口伝されているか、をまずは大切にしましょう。
その時、核になるのは「苗字・名字」と「家紋」です。それから、「地域・村・地区」などの住んでいるところも、ポイントになります。
この「名字・家紋・地域」を軸にしながら、自分の家に伝わる物語を肉付けすることで、過去に遡ることができます。
本家筋であれば、「親戚のだれそれさんが家系図を持っている」などの情報に当たることもできますが、次男三男の家系だと、いつのまにかそれらはわからなくなっていることが大半です。
ちょっとマニアックな方法としては、戸籍に載っている記録を遡っていくという手もありますが、こうした方法は行政書士の手助けを借りたりしないと、難しいかもしれません。
自分の父や祖父くらいまでは記録を辿れますが、そこから先はどんどん閉じた戸籍になっていくからです。
さて、もう一つのアプローチは
「公的な記録・古文書等から逆に自分の家を辿っていく」
方法です。
この方法については、このブログの記事の中でこれからどんどん効果を発揮していきますから、解説を楽しみに待っていてください。
全国の「大塚」さんにとって、自分がどの、どこの、どんな大塚なのか探るテクニックを、どどんと公開してしまいますよ!
(ただ、話がまだそこまで行かないので、もう少し待って下さいね)
<2>全国の”大塚”さん
自分の苗字が”大塚”であるからか、全国各地にある”大塚”という地名やら、名前やらに興味を持つのは当然のことなのだが、大人になるまで僕は、それほどそのことに関心を持たなかった。
というのも、小学校から大学に至るまで、僕の周辺に僕以外の「大塚」さんがおらず、「もしかしたらこの友達と遠い親戚なんだろうか」と思うようなことが全くなかったからだ。
もちろん、西宮には、「津門大塚」という地名があるので、ちょびっとぐらいは関連性を想像してもよかったのだが、西宮時代の僕は小さくて遊び場は主に武庫川沿いだったので、それほど意識しなかったというのがリアルなところである。
(津門大塚は、武庫川周辺からは離れている)
ところが、大学生から社会人くらいになると、良くも悪くも歳をとっていったために「はて、自分のルーツとはなんだろう」ということに漠然とながら意識がいくようになっていった。
その頃には「東京に大塚という地名があるなあ」とか、「めざましテレビに大塚さん(アナウンサー)が出てるなあ」とか、「大塚愛ちゃんがヒットしてるなあ」とかそういうことくらいは頭の片隅に置くようになっていって、
「あー、全国にはいろいろ大塚さんがいるな」
ぐらいは思うようになったわけである。
それでも、自分の実家は九州だと思っているので、少なくとも九州出身の「大塚さん」には興味を示したのかもしれないけれど、「本州の大塚さん」あるいは「東京の大塚さん」などは、頭から自分とのそこはかとない関係性を想像することは、やっぱりなかった。
あいかわらず、地元では「あんた大塚さんっていうの?ここらの人じゃないやろ」的なニュアンスで語られることの多い苗字だったので、自分のアイデンティティは、やっぱり九州なんだ、くらいの気持ちだったように思う。
★コラム★ 全国の大塚さん
「大塚」という姓は、相互に関係性がなく、全国に散らばっています。その理由は、これまでにも少し書きましたが、「大塚」という苗字が、「大きい塚が付近にあった」という地名に関係しているためです。
大きい塚とは、主に古墳のことですから、それぞれ別の土地で「大塚」が生まれてもまったく不思議なことではありません。
「大塚」姓の分布については、
日本名字分布図鑑 さんが参考になるかもしれません。
http://myozi.web.fc2.com/spring/zukan/frame/f000086.htm
この図を見ると、全国の「大塚」さんは、北海道・関東・近畿・北九州に多い、ということがわかります。
もちろん、その地域が特に多い、というだけで、広がりそのものは全国に散らばっています。
このブログで後々明らかにしてゆきますが、全国に個別の「大塚」姓のルーツは約40家あり、それぞれの約40家は、バラバラに誕生しています。
あなたが約40家のうちどの「大塚」さんなのかも、ある程度判別できるようにまとめてゆくつもりですので、ぜひ当ブログの更新をお楽しみに!
というのも、小学校から大学に至るまで、僕の周辺に僕以外の「大塚」さんがおらず、「もしかしたらこの友達と遠い親戚なんだろうか」と思うようなことが全くなかったからだ。
もちろん、西宮には、「津門大塚」という地名があるので、ちょびっとぐらいは関連性を想像してもよかったのだが、西宮時代の僕は小さくて遊び場は主に武庫川沿いだったので、それほど意識しなかったというのがリアルなところである。
(津門大塚は、武庫川周辺からは離れている)
ところが、大学生から社会人くらいになると、良くも悪くも歳をとっていったために「はて、自分のルーツとはなんだろう」ということに漠然とながら意識がいくようになっていった。
その頃には「東京に大塚という地名があるなあ」とか、「めざましテレビに大塚さん(アナウンサー)が出てるなあ」とか、「大塚愛ちゃんがヒットしてるなあ」とかそういうことくらいは頭の片隅に置くようになっていって、
「あー、全国にはいろいろ大塚さんがいるな」
ぐらいは思うようになったわけである。
それでも、自分の実家は九州だと思っているので、少なくとも九州出身の「大塚さん」には興味を示したのかもしれないけれど、「本州の大塚さん」あるいは「東京の大塚さん」などは、頭から自分とのそこはかとない関係性を想像することは、やっぱりなかった。
あいかわらず、地元では「あんた大塚さんっていうの?ここらの人じゃないやろ」的なニュアンスで語られることの多い苗字だったので、自分のアイデンティティは、やっぱり九州なんだ、くらいの気持ちだったように思う。
★コラム★ 全国の大塚さん
「大塚」という姓は、相互に関係性がなく、全国に散らばっています。その理由は、これまでにも少し書きましたが、「大塚」という苗字が、「大きい塚が付近にあった」という地名に関係しているためです。
大きい塚とは、主に古墳のことですから、それぞれ別の土地で「大塚」が生まれてもまったく不思議なことではありません。
「大塚」姓の分布については、
日本名字分布図鑑 さんが参考になるかもしれません。
http://myozi.web.fc2.com/spring/zukan/frame/f000086.htm
この図を見ると、全国の「大塚」さんは、北海道・関東・近畿・北九州に多い、ということがわかります。
もちろん、その地域が特に多い、というだけで、広がりそのものは全国に散らばっています。
このブログで後々明らかにしてゆきますが、全国に個別の「大塚」姓のルーツは約40家あり、それぞれの約40家は、バラバラに誕生しています。
あなたが約40家のうちどの「大塚」さんなのかも、ある程度判別できるようにまとめてゆくつもりですので、ぜひ当ブログの更新をお楽しみに!
2013年12月21日土曜日
<1>父の昔話
九州のお屋敷に比べて、僕ら家族が関西で住んでいたのは、小さな国鉄アパートだった。それはもう古いアパートで、僕らが住んでいる当時から「ボロっちいなあ」という印象だったから、いったい築何年だったろうか。
もちろん、今では取り壊されていて、付近は新しく住宅地に生まれ変わっているが、実は1棟だけ今でも当時の建物が残されている。さすがに今は使われていないように聞いているが、最後はJR職員の独身寮かなんかに利用されていたらしい。
父が国鉄職員になったのは、祖父が敗戦まで南満州鉄道の運転士だった関係である。父の長兄も、某市役所に勤めていたり、次兄も某公社に勤めていたりと、基本的に大塚家は公務員・準公務員一族なのがとても面白い。
「うちは武家の子孫だから、”官”な家系なのかもしれない」
みたいなことを父親が言っていたのだが、どうやら父によれば我が大塚家は武士の家系だったという。
九州、福岡県三潴地域の「大塚家」の実家が、子供のだった僕らの目に「城のようなお屋敷」に見えたことは前回書いたとおりだが、それ以外にもいろんな話を父から聞いている。
「うちは、久留米藩の馬廻り役の家柄で、実家のあたり一帯は、もともとは全部うちの土地だった。ところが、他の人に小作させて米を作らせていたせいで、戦後の農地解放の際に全部取り上げられてしまい、今の実家の敷地のあたりだけが残ったと聞いてる。うちの親父は長男ではなかったので満州へ行ったが、いろいろあって最終的にはもとの実家の土地屋敷を継ぐことになった。だからあそこは大塚家の本家筋の家屋敷であることは間違いない」
「親父のお父さん、つまりお前らから見たらひいおじいちゃんは、合併する前の小さな村の村長とか、それくらいの地位にいたので、俺が小さかった時は、近所のおばあちゃんに「村長さんとこの坊や」とよく可愛がってもらった。もちろん、親父は引き揚げしてきて財産は全部失っていたんだけれど、この家には空気銃があったり、バイオリンや三味線が何台もあったり、たぶん刀のようなものもあったような気がする」
「だから、うちの兄たちは、食べ物が少なかったから、よく空気銃で雀を打ち落として焼き鳥にして食べてた。親父もバイオリンを弾いたりしていたので子供心にハイカラな父だなあ、と思っていた」
「村長をしていた親父のお父さんは人格者だったらしいが、その前の先祖が困った人で、なんでも相撲が大好きだったらしく、各地から相撲の巡業を呼んでは興行させていたので、うちの財産がどんどんなくなっていくというえらい目にあったらしい」
そんなことを父は折に触れ話して聞かせてくれた。
のちに、僕は大学で三味線を弾くようになり、その際には実家のおじ・おばに頼んで三味線を一棹譲ってもらった。今でも僕の手元にあるが、この楽器は歴代大塚家に伝わっていたものである。
これがまた、超お宝だったら面白いのだが、全然高級な楽器ではなさそうだから、ちょっくら残念な気持ちもある。ところがこの楽器、一風変わった仕上げになっている。
三味線は、いちおう使われている木材によってランクが分かれるようになっている、高級なものだと紅木、それから紫檀、ランクが下がって花梨というのが簡単な分類で樫なんかも入門者用に用いられる。
僕の持っている大塚家の三味線は、材は「樫」である。仕上げもめちゃくちゃ上等というわけでないので、ランクの低い楽器だと思われるが、おかしなことに、表面は薄く漆が塗ってあるものの、そのさらに表に朱漆で模様がつけてあるのだ。
模様というのは「木目」である。そう、ふつうの木の木目のことだ。そりゃ木の楽器なんだから、木目があって当然だ、と思うかもしれないが、そうではない。
僕も最初、まさしくそんな風に思っていて、棹に木目が出ているなあ、くらいに思っていたのだが、あるとき、よーーーくその三味線を見て驚いた。
大塚家の三味線の木目は、全部手描きで描き込まれている!ということに気付いたのである。よくよく見ると、数千本に及ぶ木の目が、極細の面相筆を使って朱漆で手描きされている。なんというマニアックな仕上げだろう。
楽器そのものがあまり上ランクでないことを考えると、この仕上げは一種の「遊び」なのだと思う。そう、いわゆる「通」とか「粋」な仕上げになっていると考えられるのだ。
そんなおかしな楽器が眠っている大塚家だから、相撲狂いの当主がいたり、数寄者の家系であったとしてもあながち変ではない。
とにもかくにも、僕の印象では大塚家は「昔はそこそこの家格だったようだけれど、戦後は落ちぶれた普通の家」くらいのイメージで、いちおう元は武士だったらしい、その状況証拠はポツポツ転がってるなあ、ぐらいの感覚だったのだ。
そうこうしながら、僕はだんだんと大人になっていった。
もちろん、今では取り壊されていて、付近は新しく住宅地に生まれ変わっているが、実は1棟だけ今でも当時の建物が残されている。さすがに今は使われていないように聞いているが、最後はJR職員の独身寮かなんかに利用されていたらしい。
父が国鉄職員になったのは、祖父が敗戦まで南満州鉄道の運転士だった関係である。父の長兄も、某市役所に勤めていたり、次兄も某公社に勤めていたりと、基本的に大塚家は公務員・準公務員一族なのがとても面白い。
「うちは武家の子孫だから、”官”な家系なのかもしれない」
みたいなことを父親が言っていたのだが、どうやら父によれば我が大塚家は武士の家系だったという。
九州、福岡県三潴地域の「大塚家」の実家が、子供のだった僕らの目に「城のようなお屋敷」に見えたことは前回書いたとおりだが、それ以外にもいろんな話を父から聞いている。
「うちは、久留米藩の馬廻り役の家柄で、実家のあたり一帯は、もともとは全部うちの土地だった。ところが、他の人に小作させて米を作らせていたせいで、戦後の農地解放の際に全部取り上げられてしまい、今の実家の敷地のあたりだけが残ったと聞いてる。うちの親父は長男ではなかったので満州へ行ったが、いろいろあって最終的にはもとの実家の土地屋敷を継ぐことになった。だからあそこは大塚家の本家筋の家屋敷であることは間違いない」
「親父のお父さん、つまりお前らから見たらひいおじいちゃんは、合併する前の小さな村の村長とか、それくらいの地位にいたので、俺が小さかった時は、近所のおばあちゃんに「村長さんとこの坊や」とよく可愛がってもらった。もちろん、親父は引き揚げしてきて財産は全部失っていたんだけれど、この家には空気銃があったり、バイオリンや三味線が何台もあったり、たぶん刀のようなものもあったような気がする」
「だから、うちの兄たちは、食べ物が少なかったから、よく空気銃で雀を打ち落として焼き鳥にして食べてた。親父もバイオリンを弾いたりしていたので子供心にハイカラな父だなあ、と思っていた」
「村長をしていた親父のお父さんは人格者だったらしいが、その前の先祖が困った人で、なんでも相撲が大好きだったらしく、各地から相撲の巡業を呼んでは興行させていたので、うちの財産がどんどんなくなっていくというえらい目にあったらしい」
そんなことを父は折に触れ話して聞かせてくれた。
のちに、僕は大学で三味線を弾くようになり、その際には実家のおじ・おばに頼んで三味線を一棹譲ってもらった。今でも僕の手元にあるが、この楽器は歴代大塚家に伝わっていたものである。
これがまた、超お宝だったら面白いのだが、全然高級な楽器ではなさそうだから、ちょっくら残念な気持ちもある。ところがこの楽器、一風変わった仕上げになっている。
三味線は、いちおう使われている木材によってランクが分かれるようになっている、高級なものだと紅木、それから紫檀、ランクが下がって花梨というのが簡単な分類で樫なんかも入門者用に用いられる。
僕の持っている大塚家の三味線は、材は「樫」である。仕上げもめちゃくちゃ上等というわけでないので、ランクの低い楽器だと思われるが、おかしなことに、表面は薄く漆が塗ってあるものの、そのさらに表に朱漆で模様がつけてあるのだ。
模様というのは「木目」である。そう、ふつうの木の木目のことだ。そりゃ木の楽器なんだから、木目があって当然だ、と思うかもしれないが、そうではない。
僕も最初、まさしくそんな風に思っていて、棹に木目が出ているなあ、くらいに思っていたのだが、あるとき、よーーーくその三味線を見て驚いた。
大塚家の三味線の木目は、全部手描きで描き込まれている!ということに気付いたのである。よくよく見ると、数千本に及ぶ木の目が、極細の面相筆を使って朱漆で手描きされている。なんというマニアックな仕上げだろう。
楽器そのものがあまり上ランクでないことを考えると、この仕上げは一種の「遊び」なのだと思う。そう、いわゆる「通」とか「粋」な仕上げになっていると考えられるのだ。
そんなおかしな楽器が眠っている大塚家だから、相撲狂いの当主がいたり、数寄者の家系であったとしてもあながち変ではない。
とにもかくにも、僕の印象では大塚家は「昔はそこそこの家格だったようだけれど、戦後は落ちぶれた普通の家」くらいのイメージで、いちおう元は武士だったらしい、その状況証拠はポツポツ転がってるなあ、ぐらいの感覚だったのだ。
そうこうしながら、僕はだんだんと大人になっていった。
<プロローグ>
<プロローグ>
山、というのはすぐ背後に迫っているものだ、と僕は幼い頃から思っていた。
生まれた町が阪神間の西宮市だったから、南へ行けば海、北へ上ればすぐに山というのが、当たり前の風景だったし、小学校の遠足は近くの「甲山」へ登り、ちょっと大きくなれば神戸寄りの「六甲山」へ遊びに連れていってもらうのが、ここいらの子供達の共通体験だったからだ。
西宮市、芦屋市、神戸市を経て明石市に至るまで、海沿いの平野部はほんの狭い距離しかない。特に神戸に入ると、この狭さは尋常じゃなくなり、右を見ればそそり立つ山、左を見ればすぐ海、という景色になってゆく。
「すぐ近くに山がある」というこの感覚は、あるいは兵庫県民の多くに共通するイメージかもしれない。阪神間、つまり旧摂津地域は、大阪平野に連なる平地に見えて、その実、意外と山に囲まれている。宝塚市から三田市にかけても、かなり急激な上り坂を経て入っていくし、六甲山の裏へ廻っても、狭い谷あいを抜ければまた山々の連続である。
丹波地方、但馬地方は言うまでもない。近年グーグルのCMなどで全国区になった天空の城竹田城は、雲海の山の中から顔を出す。
逆に、兵庫県内で平野(へいや)らしい平野といえば、小野市・三木市・姫路市周辺の播州平野一帯が思い浮かぶ。
その姫路も、相生あたりまで行けば切り立った崖に囲まれ、新幹線は山の中を走り抜けていくイメージになる。
とにかく、僕らは山を見ながら育ったのだ。
僕の父親が、兵庫県出身の母との結婚を気に、関西地方へ移ってきたのは、もう40年ぐらい前のことになる。
父親は九州の出身で、見渡す限り広大な筑後平野のなかで育ったため、まず当地の「山」に驚いた。
母親の実家が兵庫県の中ほどにあったたため、父が、母の両親に挨拶に行って一晩泊めてもらったおりには、
「ああ、あの山の向こうからゴジラが現れそうだ」
と思い、なかなか寝付けなかったと聞いている。
関西で生まれ育った僕だが、父親の実家が九州福岡県にあるため、僕の本籍地もまだ福岡のままになっている。最近は免許証の中の本籍地を示す欄が消されるようになったが、ついこの間までは、毎日のように福岡県のその住所を見ていたものだ。
福岡県三潴地方のその土地に、代々我が大塚家は居を構えている。
うちの父は末っ子だったため、長男のように実家を継ぐこともなく、勝手に関西へ飛び出してもいっこうに問題なかったのだが、おかげで僕らの一家は、実家サイドの親戚と数年に1回程度しか交流できずに過ごしてきた。
それでもまだ、祖父が存命の折には、小さい僕たちを連れて新幹線に乗って帰省をしたものだが、祖父が亡くなり、父の長兄が亡くなり、そして祖母や父も亡くなってしまったため、いよいよ今では九州へ帰る機会はなくなってしまいそうだと思う。
大塚家、僕らの父親の実家は、三潴地方の某地区にある。見渡す限りの田んぼとクリーク(堀)が縦横に走っている平野の中に、小さな集落があって、その中にそこそこ広い敷地を持った「お屋敷」のような家が建っている。
堀が屋敷の土地とリンクした形になっているので、一見すると「堀に囲まれた小さな城」のような風情がある。小さい頃の僕と弟は、「うちの実家は城なんだ!」妙に興奮していたのを覚えている。
敷地はやたら広いのだが、その一角に墓があり、いや墓というより「墓所」というべきスペースが設けられていて、これまたやたら大きい「大塚家の墓」が中央にそびえている。そびえている、という表現も云い得て妙で、墓石に辿りつくには、数段の高い階段を上らないと上までいけないようになっていて、壇上が少しだけテラス(回廊)状になった墓の形状であるため、とにかく威風堂々とした墓になっているのだ。
墓の台座部分は空洞になっているらしく、後ろに扉がついている。父親が小さいころに覗いてみたそうだが、そこに遺体や骨壷が安置してあるというよりは、すでにこれまでの時代の中で、中身はあらかた整理されていたらしい。
そして、その周囲には、これまで亡くなったであろういろいろな人たちの小さい墓石が、あちらこちらに建っている。そのどれもが、かなり古いもので、表面の文字は読めなくなっているものが多い。
とにかく、由緒ある墓所なんだろうな、という感じがして、小さかった僕ら兄弟は「怖い」とかそういう感情よりも、「なんか、すげえ!」という印象を持ったものだ。
まさに、実家には大きなお墓がある。だからうちの名前は「大塚(おおつか)」なんだ、と僕は勝手にそう思っていた。
大塚、という苗字の由来は、基本的には「大きなお墓」で問題ないだろう。しかし、もちろん、この場合のお墓は、うちの実家のような近世の墓所や墓石ではなく、もっと古い時代の「古墳や古塚」のようなものだと考えられる。
大きな塚のそばに住んでいたから「大塚」とか、古墳のある地域・場所に由来する氏姓だから「大塚」とか、そういう由来で「大塚」姓は生まれたと考えられている。
ところが、残念ながらうちの実家の近所には、それらしい「古墳」なんかは全然なく、やっぱり大きい塚はうちのお墓しかなかったので、子供の僕にはよくわからないままだった。
どんな子供だって、小さいうちは自分の苗字の由来なんかより、もっと面白そうな・興味関心のあることが山ほどあるのだから、そんなもんだとしかいいようがない。
ともかく、僕は大塚一族の一員で、今では遠く離れてしまっているけれど、僕の出所はこの九州の小さな町のこの家なんだ、ということだけは、間違いなかった。
そして、ずっと、僕は九州出身の一族の人間だと思い込んでいたのだ。そう、40年近く、ずっと!
山、というのはすぐ背後に迫っているものだ、と僕は幼い頃から思っていた。
生まれた町が阪神間の西宮市だったから、南へ行けば海、北へ上ればすぐに山というのが、当たり前の風景だったし、小学校の遠足は近くの「甲山」へ登り、ちょっと大きくなれば神戸寄りの「六甲山」へ遊びに連れていってもらうのが、ここいらの子供達の共通体験だったからだ。
西宮市、芦屋市、神戸市を経て明石市に至るまで、海沿いの平野部はほんの狭い距離しかない。特に神戸に入ると、この狭さは尋常じゃなくなり、右を見ればそそり立つ山、左を見ればすぐ海、という景色になってゆく。
「すぐ近くに山がある」というこの感覚は、あるいは兵庫県民の多くに共通するイメージかもしれない。阪神間、つまり旧摂津地域は、大阪平野に連なる平地に見えて、その実、意外と山に囲まれている。宝塚市から三田市にかけても、かなり急激な上り坂を経て入っていくし、六甲山の裏へ廻っても、狭い谷あいを抜ければまた山々の連続である。
丹波地方、但馬地方は言うまでもない。近年グーグルのCMなどで全国区になった天空の城竹田城は、雲海の山の中から顔を出す。
逆に、兵庫県内で平野(へいや)らしい平野といえば、小野市・三木市・姫路市周辺の播州平野一帯が思い浮かぶ。
その姫路も、相生あたりまで行けば切り立った崖に囲まれ、新幹線は山の中を走り抜けていくイメージになる。
とにかく、僕らは山を見ながら育ったのだ。
僕の父親が、兵庫県出身の母との結婚を気に、関西地方へ移ってきたのは、もう40年ぐらい前のことになる。
父親は九州の出身で、見渡す限り広大な筑後平野のなかで育ったため、まず当地の「山」に驚いた。
母親の実家が兵庫県の中ほどにあったたため、父が、母の両親に挨拶に行って一晩泊めてもらったおりには、
「ああ、あの山の向こうからゴジラが現れそうだ」
と思い、なかなか寝付けなかったと聞いている。
関西で生まれ育った僕だが、父親の実家が九州福岡県にあるため、僕の本籍地もまだ福岡のままになっている。最近は免許証の中の本籍地を示す欄が消されるようになったが、ついこの間までは、毎日のように福岡県のその住所を見ていたものだ。
福岡県三潴地方のその土地に、代々我が大塚家は居を構えている。
うちの父は末っ子だったため、長男のように実家を継ぐこともなく、勝手に関西へ飛び出してもいっこうに問題なかったのだが、おかげで僕らの一家は、実家サイドの親戚と数年に1回程度しか交流できずに過ごしてきた。
それでもまだ、祖父が存命の折には、小さい僕たちを連れて新幹線に乗って帰省をしたものだが、祖父が亡くなり、父の長兄が亡くなり、そして祖母や父も亡くなってしまったため、いよいよ今では九州へ帰る機会はなくなってしまいそうだと思う。
大塚家、僕らの父親の実家は、三潴地方の某地区にある。見渡す限りの田んぼとクリーク(堀)が縦横に走っている平野の中に、小さな集落があって、その中にそこそこ広い敷地を持った「お屋敷」のような家が建っている。
堀が屋敷の土地とリンクした形になっているので、一見すると「堀に囲まれた小さな城」のような風情がある。小さい頃の僕と弟は、「うちの実家は城なんだ!」妙に興奮していたのを覚えている。
敷地はやたら広いのだが、その一角に墓があり、いや墓というより「墓所」というべきスペースが設けられていて、これまたやたら大きい「大塚家の墓」が中央にそびえている。そびえている、という表現も云い得て妙で、墓石に辿りつくには、数段の高い階段を上らないと上までいけないようになっていて、壇上が少しだけテラス(回廊)状になった墓の形状であるため、とにかく威風堂々とした墓になっているのだ。
墓の台座部分は空洞になっているらしく、後ろに扉がついている。父親が小さいころに覗いてみたそうだが、そこに遺体や骨壷が安置してあるというよりは、すでにこれまでの時代の中で、中身はあらかた整理されていたらしい。
そして、その周囲には、これまで亡くなったであろういろいろな人たちの小さい墓石が、あちらこちらに建っている。そのどれもが、かなり古いもので、表面の文字は読めなくなっているものが多い。
とにかく、由緒ある墓所なんだろうな、という感じがして、小さかった僕ら兄弟は「怖い」とかそういう感情よりも、「なんか、すげえ!」という印象を持ったものだ。
まさに、実家には大きなお墓がある。だからうちの名前は「大塚(おおつか)」なんだ、と僕は勝手にそう思っていた。
大塚、という苗字の由来は、基本的には「大きなお墓」で問題ないだろう。しかし、もちろん、この場合のお墓は、うちの実家のような近世の墓所や墓石ではなく、もっと古い時代の「古墳や古塚」のようなものだと考えられる。
大きな塚のそばに住んでいたから「大塚」とか、古墳のある地域・場所に由来する氏姓だから「大塚」とか、そういう由来で「大塚」姓は生まれたと考えられている。
ところが、残念ながらうちの実家の近所には、それらしい「古墳」なんかは全然なく、やっぱり大きい塚はうちのお墓しかなかったので、子供の僕にはよくわからないままだった。
どんな子供だって、小さいうちは自分の苗字の由来なんかより、もっと面白そうな・興味関心のあることが山ほどあるのだから、そんなもんだとしかいいようがない。
ともかく、僕は大塚一族の一員で、今では遠く離れてしまっているけれど、僕の出所はこの九州の小さな町のこの家なんだ、ということだけは、間違いなかった。
そして、ずっと、僕は九州出身の一族の人間だと思い込んでいたのだ。そう、40年近く、ずっと!
<ごあいさつ> 全国の”大塚”さんへ
みなさんこんにちは
そして、全国の「大塚」さん、どうもどうもこんにちは。
当ブログは、hidari-Dこと大塚某である私が、自分の一族の家系について調べた際の情報を、ややドラマチックかつ、やや感傷的にまとめあげた記録です。
記事はちょっぴり物語風にしてありますので、できるだけ読み易く書いていくつもりです。
記事はちょっぴり物語風にしてありますので、できるだけ読み易く書いていくつもりです。
もしこれを読んでおられるあなたが「大塚姓」「大塚氏」「苗字が大塚」「名字が大塚」さんだったら、ほんの少し足を止めて、自分の一族のことが載っていないかどうか、まったりと立ち読みして行ってください。
残念なことに、全国の「大塚な、大塚っぽい、大塚的な」みなさんは、先祖に有名な武将がいるわけでもないし、高名な政治家がいるわけでもないし、かといって苗字ランキングの5本の指に入るとか、逆に国内でとっても珍しい苗字であるとか、そういうことも全くなく平凡な日々を過ごしておられることと思います。
そんな微妙な立ち位置の大塚さんですが、このブログではいよいよ満を持してわれらが「大塚一族」にスポットをあて、激動の日本史を紐解いてゆきます。
おそらく、これまで誰もあんまりやっていない「唯一・随一の”大塚”研究」になることは間違いありません(笑)
それではみなさん、はじまるよ!
★お願い★
読者のみなさんの中で、「大塚」さんに関する資料や情報をお持ちの方は、遠慮なく当ブログまでご一報くださいませ。
随時、検討、調査の上、より正しい記事内容へと更新して参ります。
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