2014年1月28日火曜日

<調査中>北海道の大塚さん<追記>

 播磨の「大塚氏」のややこしさに最近頭をうちのめされているので、気分転換に他地域の「大塚さん」に戻ってみることにしました。

 というわけで、北海道地域の「大塚さん」から!


 実は私も少しだけ北海道に住んでいたことがあるので、もしかしたら北海道の大塚さんのルーツになっていた可能性もないわけではありません。

 
 まずは、とっかかりの意味もこめて、散漫な資料を列記してゆきましょう!


【1】 「北海道人物文献目録」(明治~戦前期)

 http://www.library.pref.hokkaido.jp/web/hoppo/qulnh00000000gpa-att/qulnh00000000gqr.pdf#search='%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%98%89%E8%BC%9D'


 北海道立図書館で、「大塚さん」に関する文献をあさる時に、まずはこのへんからどうぞ。13名の大塚さんが列記されています。

 この中で、有名な人を当たると



「大塚嘉輝」 札幌農学校第一期卒業生 屯田兵中佐 札幌連隊司令官 釧路連隊司令官


 「北海道屯田兵制側面観」 北海道大学 より
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/10674/1/8_p1-29.pdf#search='%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93+%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%A7%93+%E5%85%A5%E6%A4%8D' 
「ウィキペディアより」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%A7%E8%B7%AF%E9%80%A3%E9%9A%8A%E5%8C%BA



「大塚賀久治」 幕臣 函館戦争を戦うなど。

「ウィキペディアより」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E9%9C%8D%E4%B9%8B%E4%B8%9E



などが、すぐに探せるでしょう。


 基本的に、北海道に来られている大塚氏は、士族かどうかに関わらず入植者であることが多いです。

 たとえば、札幌琴似村の入植者の場合は、こんな記録も。


琴似ネットワークス さんのサイトより 「琴似兵村入植者」
http://www.kotoni-works.co.jp/history/history3/history3.shtml


 上記、サイトの記事では、宮城県からこられた大塚さんがおられることがわかります。


 そんなことを書いている横から、すごい名簿を見つけました。なんと全屯田兵の出身と名前が書いてあるという名簿です。


 屯田浜屋 さんのサイトより「全屯田兵名簿」
http://www.asahi-net.or.jp/~xj6t-tkd/tonden/


 名簿はこちら
http://www.asahi-net.or.jp/~xj6t-tkd/tonden/meibo/meibo_all.pdf


 これによると「宮城県・佐賀県・徳島県・鳥取県・山口県・大分県・佐賀県・島根県・滋賀県」から全12士族が屯田兵として入植されたことがわかります。

 

 もちろん、この他にも、たとえば


 足寄町史 のサイトより
 http://www.tokachi.pref.hokkaido.jp/d-archive/sityousonsi/asyoro_gaiyou.html


 のように、福島県から入植された方もおられます。


 さすがに、北海道は他地域からこられた方が多いので、直接のルーツ探しは一度、道外の出身地へ立ち戻る必要がありそうです。


 また、調査が進めばわかり次第追記します。



<2014.3.4追記>

 徳島藩から、静内に移住された方々の名簿が見つかりました。大塚氏5名記載されています。

 
 快左衛門さんのサイトより

 http://kaizaemon.com/inada/ijumeibo.html




<特別編つづき>「栗山大膳」登場の「大塚権兵衛」の正体

 いろんな意味で、新たな発見に振り回されている毎日だが、今日も新発見でお届けする。


 先日、森鴎外の「栗山大膳」の回で書いた福岡藩家臣「大塚権兵衛」の正体が判明したので、お伝えする次第である。


 とりあえずは、

<特別編>
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_22.html

のほうをざっとまとめ読みしてもらうとして、もう少し奥まで切り込んでいこう。


 さて、ここに登場する大塚権兵衛、父と子の二人存在している。このあたりの様子をじっくり見るために、


武将系譜辞典 さんのサイトより「赤松家人名録


http://www.geocities.jp/kawabemasatake/akamatu.html



を読み直してほしい。


 まず、長いので「大塚」で検索をかけるといいのだが、大塚氏は


赤松家臣の小河氏の末裔の欄に書いてあり、小川有光からはじまる系譜の中で、「小河直常は大塚権兵衛の子権兵衛ですよ」と示してあるわけだ。

 そして、今度は小寺家臣のところで、「大塚権兵衛は十右衛門権兵衛で、吉田久太夫の子が継いだ(嗣)んですよ」と示してある。


 おなじことを、ちょっと中国のサイトでおもしろいのだが、



江戸時期的黒田家 さんのサイト
http://bbs.szpco.com/read.php?tid=233&ds=1



から読んでみよう。こちらには、


「大塚権兵衛-権兵衛=十右衛門(1000石)
兵法家,出仕黒田長政。権兵衛无嗣,收小河家吉田久太夫之子为養子。」


「无」は無とおなじ意味、「为」は為(なる)である。

第二外国語を「中国語」にしておいて良かった!

 大塚権兵衛の子権兵衛は十右衛門で1000石、兵法家。権兵衛に跡継ぎがなかったので、小河家の吉田久太夫の子を養子にした、と書いてある。


 とりあえず、この2つの話は同じことを言ってわけである。


 そして、今度は、



資料メモログ さんのサイトを見てみる。
https://sites.google.com/site/ajyararu/home/ji-tian-jia-chuan-lumemo3-zhi-nian



こちらは「吉田家伝録メモ」ということで古文書の記録をわかりやすくまとめておられるのだが、ここにも

 黒田忠之の家来の「大塚権兵衛直重(父)」と「大塚権兵衛直常(子)」が登場する。そして、直常は、小河常章に子供がいなかったので養子となり「小河直常」に名前を変える。

 このサイトでは、その後、小河直常がのちに剃髪して「道魁」と名乗り、他国へ出て大阪へ移り、子孫は小河氏のち石川氏として続く様子が書かれている。


 この話の後半部分は、

 もずの独り言 さんのサイトに、説明がある。
 http://blog.livedoor.jp/safehome-el.dorado/tag/%E6%AD%B4%E5%8F%B2?p=18



  延宝3年に黒田藩主光之が、息子の綱之を廃嫡したときに、綱之付きの家老をクビにするのだが、このとき綱之付きだった小河直常が、「この恨みはらさでおくべきか~」と福岡を去ったという、まさにこの話である。



 まとめてみよう。

① 大塚権兵衛(父)には子供がいなかったので、小河(吉田)久太夫の子供を養子にして、彼が大塚権兵衛(子)になった。

② 大塚権兵衛(子)は、小河常章のところへ養子へ行って、「小河直常」になった。


 話としては、これだけなのだが、史実と小説「栗山大膳」に登場する大塚権兵衛の正体はおおむねわかったとして

 赤松家臣の大塚権兵衛と、その元々の一族はどこから来たんだ?

ということがここでは「さっぱりわからない」のである。実に面白い。


 つまり、大塚権兵衛(父)の親父やきょうだいに「大塚一族」がいて、彼らが「大塚重太夫」系の大塚なのか、「後藤将監」系の大塚なのか、この段階では不明なのである。


 だから、福岡藩の大塚さんの家紋がわかれば、嬉しいのだ!

 抱き茗荷なのか違うのかによって、あらかた道筋が付くからである。



 

2014年1月27日月曜日

<32-2> 大塚将監は、後藤又兵衛の兄だった?!

 前回の衝撃的発見は、さらに続く。

 永禄年間に姫路「上野構」に住んでいた大塚将監が、おそらく”あの後藤又兵衛”の父か兄らしいことは、既に述べた。

 今回は、その物的証拠っぽいものが見つかったので紹介したい。


 竹宮神社秋季例大祭 さんのサイトより
 http://takenomiya.main.jp/minami/goto.html


 竹宮神社さんは、姫路市山田町にある神社で、平安時代より続く神社であるとの記録があるらしい。

 さて、問題なのは、もともと近辺にあった「後藤霊社(神社)」で、ここは又兵衛の一族「後藤氏」を祭っているという。

 上記サイトでは、後藤神社ができたいきさつと、後藤一族の系譜が載っているのだが、


あったあった!

 後藤基国(将監)の息子の「基」も、後藤将監であり、のちに大塚将監となることが記されている。


 なるほど、親子で同じ名前なのでわかりにくいが、大塚将監の正体は、「後藤又兵衛」の兄貴としてよさそうである。

 この由緒記が出来たのは天明期1785年(江戸時代)であるから、多少の伝承的問題はあるかもしれないが、「播磨鑑」の出来た年も、宝暦期1762年ごろとされているので、時空軸は一致する。

 
 また、同じサイトには気になる記述があった。

 http://takenomiya.main.jp/minami.html
 

 それは、後藤又兵衛の一族と「蛇塚」に関する伝承で、大蛇退治の物語になっている。大蛇の件はともかく、ここでいう「蛇塚」は古墳の跡であろうから、それを持って後藤将監が「大塚」姓を名乗ったとしても不思議ではない。


 それにしても、赤松支流大塚氏が2氏存在することが、なかなか興味深い。また、赤松大系図の「大塚重太夫」が、直接の置塩城の家臣でなかったとすると、赤松支流大塚氏とは、「実は後藤氏」という可能性だってあるわけだ。

 まだまだルーツ探しの旅は、続きそうである!


<32-1>振りだしに戻る大発見か?!謎が謎を呼ぶ播磨「大塚将監」の正体!

 なんということでしょう!

 先日、ある程度メドがついたと思われる「播磨の赤松家臣、大塚氏」のルーツについての調査であったが、ここへきて振り出しに戻るような発見があったので、慌てふためいているところである。

 一体、何を見つけてしまったというのか。それは、姫路の上野構に住んでいたとされる赤松氏の家臣、「大塚将監」の正体である。

 やばい!これはヤバすぎる大発見かもしれない。


・・・・・・というのも、僕は残念ながら歴史の専門家ではなく、どちらかといえば文学の専門家なので、(あはは)、詳しい人が見れば当ブログの内容をみて

 ここが間違ってるよ

とか

 ここがおかしい!

とかいっぱい突っ込まれても仕方がないのだが、ああ、人に指摘されるよりも自分で気付いてしまったときの恥ずかしさよ!

(これまでの記事の多くを消し去りたいが、とりあえず残しておくことにする)


 いや、しかし。崩れ落ちそうな膝を立て起こして、頑張ってその事件を追っていくことにしよう。


========

 もういちど、経緯をまとめておく。久留米藩士であった我が大塚一族の家紋が「抱き茗荷」であり、「寛政重修諸家譜」記載の抱き茗荷紋大塚氏が「村上源氏赤松支流」とのことだったので、その文言をもとに播磨の赤松氏を追っていったのが、このブログのこれまでの記事である。


 そして、赤松氏と大塚氏の接点が2つ発見され、ひとつは姫路市の「上野構」の「永禄年間」の城主が「赤松氏の家臣の大塚将監」だったことがわかり、もうひとつはこれまた姫路市の「岩崎構」の「室町時代」の城主が「大塚重太夫」だったことがわかったのであった。


 これで、赤松-大塚ラインが存在することがわかり、特にわが家系については、赤松氏の子孫であった有馬氏経由で、久留米藩へ入ったという「点と線が繋がった」ので、ざっくりとルーツが判明した、というところまでは既にお伝えしている。


 この時、おなじ赤松一門の小寺氏経由で、今をときめく「黒田官兵衛」の家臣として大塚氏が存在し、この流れで福岡藩に大塚一族が根付いたという可能性も示してきた。


しかし、こうした推理が、ある程度どんぶり返りそうな勢いで、新発見をしてしまったわけである。

 
========


 物語は、久留米藩経由ではなく、黒田福岡藩経由ではじまる。

 黒田官兵衛には、「後藤又兵衛」なる有名な部下がいる。この後藤基次は、後藤基国という「別所氏家臣で、のちに小寺氏に仕えた」おっさんの次男として生まれ、官兵衛に仕えたり、のちに黒田家を出奔して浪人になり、豊臣家に仕えたりして、最終的には大阪夏の陣がらみで戦死することになる。

 後藤氏は、藤原利仁の子孫である(利仁流)。いろいろあって、姫路・福崎町の春日山城に拠点を持っていたが、のちに勢力を拡大した赤松氏と協調関係でやっていかざるを得ないようになり、戦国時代には前述したように、赤松系の緒家と関係しながら細々と命脈を繋いでいた。

 この後藤氏から大塚氏が出たことは、すでに

「全大塚氏族超まとめスペシャル」
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html

の<AI>後藤氏(大塚) 藤原氏利仁流 家紋不明 として掲載しているのだが、詳しいことはわからないままだった。

 
 さて、ここで発見したのが、次のサイトの記述だ。

 播磨黒田氏 黒田官兵衛 さんのサイトより
 http://www.geocities.jp/kurodazensi/361.html


 ここでは黒田家の前史について研究なさっているのだが、ここに「後藤基国」の系図が載っていて、基国の長男「基」が、上野蟄居後、大塚を名乗ったということが書いてある。

 ん?と僕はここでかなりひっかかった。というかピンと来た。

 上野、大塚・・・。そうだ。これは怪しいのだ。


 同じページに、又兵衛の父、基国のことはよくわからん人物だと説明されているのだが、なんと、彼は他のサイトを調べると

 後藤新左衛門、後藤将監、後藤将監基国

と呼ばれているのだ、


 戦国武将列伝 さんのサイトより
http://senjp.com/goto-2/


 他にも、多数このことを書いているサイトはある。

 ちなみに、又兵衛が生まれたとされる1560年はまさに年号でいえば「永禄」である。時代も符合する。


 つまり、これまで僕が追いかけていた大塚将監とは、後藤又兵衛の親父もしくは、その跡を継いだかもしれない又兵衛の兄貴、の可能性がめちゃくちゃ高いのである。



 となると、少なくとも福岡藩の大塚氏は、こちらの系統の可能性もある。播磨後藤氏の家紋は「下がり藤」であり、福岡藩系列の大塚さんの家紋が「下がり藤」ならドンピシャだ。

 あるいは、もっとすごいことを考えるのだが、赤松支流大塚氏とは、「播磨後藤氏」の姿を変えた一族、という大胆仮説もありうる。

(もっとも、その場合は、大塚重太夫との整合性がずれてくるので、赤松家臣の大塚氏は

①大塚重太夫系の古い大塚氏

②大塚将監系の新しい大塚氏

の2種類が存在することになるのか?!)


 そして、この話が確定してくると、これまで赤松系大塚氏について挙げてきた「4つのグループ」そのものがさらに広がってくるのである。

①久留米藩に残る大塚氏 系統【1】赤松支流大塚氏 抱き茗荷

②福岡藩に残る大塚氏 系統【2】赤松系大塚氏(もと後藤氏 家紋不明(下り藤?))あるいは、福岡藩にも【1】がいるのか?

③播磨に残る大塚氏は、【1】なのか【2】なのか、それとも両方か?

④その他の地域に残る大塚氏は 【1】なのか【2】なのか?!


 これは、なかなかすごいことになってきた!


とにかく、福岡県の大塚さん、家紋を教えてくださいませ!!


(特に、黒田藩の家臣だった方、プリーズ)


2014年1月22日水曜日

<特別編>文豪森鴎外の描く大塚氏 ~「栗山大膳」を読む~

 NHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」を毎週見ているのだが、やはり我が先祖の過ごした日々を想像しながら、戦国時代に思いを馳せる次第である。

 残念ながら、官兵衛に仕えた大塚氏は、それほどビッグネームではないので、ドラマの中に登場することはないと思うが、史実としての大塚氏はのちに福岡藩で宮本武蔵の二天一流を継承するなど、今日へ至る大きな仕事を成し遂げていると言ってよい。

  さて、そんな黒田福岡藩にまつわるエピソードとして、今回はあの文豪「森鴎外」の作品に登場する大塚氏について、特別編をお届けしたい。

 文学における「大塚氏」に手を広げるのは、いささかルール違反のようにも思えるのだが、森鴎外の書いた「栗山大膳」は、小説でありながら、歴史的なバックグラウンドがあるので、今回取り上げることにした。


★フィクションを扱っていいなら、ぜひ「南総里美八犬伝」を読み解きたいのだが!武蔵大塚の大塚番作はじめ、最初の犬士、犬塚信乃の活躍を見よ!
(このネタもいつかやるので、こうご期待!)★



さて、本題に戻って 栗山ちあ・・・もとい大膳である。


森鴎外「栗山大膳」 青空文庫版
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/681_22936.html


 まずは、青空文庫版「栗山大膳」を読んでみてほしい。我らが大塚氏が登場するのは、ほんの一瞬である。


 物語は、江戸三大お家騒動のひとつとして有名な「黒田騒動」を描いている。

 黒田騒動とは、ざっくりといえば、黒田官兵衛に仕えた家老、栗山大膳が、官兵衛の息子である黒田忠之の代になって、突然「福岡藩主、忠之が反逆を計画している!」と幕府に申し出た事件である。

 それ以前から、忠之の行動がおかしいと幕府に目をつけられていたこともあり、すぐに幕府によって両者の取調べが始まるのだが、最終的に「反逆の計画はなかった」として、忠之はお咎めなし、大膳は流罪になってチャンチャンと片がつく。


 で、ここで誰もが不思議に思うことがあり、それは「じゃあ、そもそもなぜ大膳はそんなことを幕府にチクったのだ」という疑問である。そこで、2つの解釈が生まれるわけだ。

 ひとつは、官兵衛の息子、忠之がちょっとグレてチャラかったために、幕府から怪しまれる先手を打って、大膳は大博打に打って出て騒動を起こした説。(結果的に、忠之を救ったことになる)

 そして、もうひとつは、ほんとに大膳は二代目ボンボンの忠之と仲が悪くなったので、チクってやった説。このうち前者の方が受け入れられて、「忠臣栗山大膳」として現代まで話が伝わっている、という流れである。


 森鴎外版「栗山大膳」も、もちろん忠義の家臣説を取っているのだが、前半はちょっとミステリー仕立てになっているので、どちらが善でどちらが悪か、わかりにくいかもしれない。

 中盤からチャラ男の子分、十太夫という人物が登場し、藩政を好きなように牛耳るようになると、「ああ、忠之がだいぶダメ男になりよるなあ」ということがわかってくる。

 そうして、いよいよ幕府から「忠之、ちょっと江戸へ出て来い」と体育教官室の前に呼び出された悪ガキのような感じになるのだが、福岡の城では家臣たちの間で「いざ、殿が殺された場合は、城を明け渡すか徹底抗戦するか」という話になり、それぞれ守りを固める、という風にストーリーは進んでいく。


 その中の一節に大塚氏が登場するのだ。「三瀬越には大塚権兵衛、(が守りについた)」というたったそれだけ!


 最終的に、忠之は「問題なし」という結果になり、大膳が流罪になって終わるのだが、もちろん十太夫くんも排斥されて藩はうまくもとにおさまる、という次第である。


==========

 さて、鴎外版の「栗山大膳」がどうせ小説だしフィクションなんだろう?と思われてはシャクなので、この話の伝記部分がいちおう歴史に基づいているということで以下の資料を合わせて紹介しておく。



L.A.Wさんのサイトより 「栗山大膳記」 (底本:『列侯深秘録 全』歴史図書社 1975年)
http://law.kan-be.com/daizenki.html#



 こちらは時系列にそって、あった出来事を列記してある記録であるが、「大塚権兵衛・大塚権之亟」として、おなじく大塚氏について記載がある。



 ここで出てくる大塚権兵衛、面白いことに以前紹介した


武将系譜辞典 さんのサイトより「赤松家人名録」

http://www.geocities.jp/kawabemasatake/akamatu.html


の赤松家臣・小寺家臣の「大塚権兵衛」とおそらく同一人物であろうと思われるのだ!じゃじゃーん。

 上記サイトをよく読むと、大塚権兵衛の息子も権兵衛を名乗ったらしいので、栗山大膳に出てくる権兵衛がお父さんなのか、息子の代なのかは少しわからないが、話は一致するのである。


 ということで、赤松-小寺-黒田ルートの大塚氏が、ここでも話のつじつまが合うことから、黒田福岡藩の大塚氏が、やっぱり赤松系でうちの遠い先祖であると考えられるのである。


福岡県の大塚さん!読んでたらご連絡お待ちしてます!家紋教えてくださいね!



2014年1月21日火曜日

<調査中>家紋「左三つ巴」の大塚さん

 茨城県にお住まいの大塚さんからご連絡をいただきまして、その方は家紋が「左三つ巴」だそうです。

 この方、とても興味深い情報をお持ちで、ご先祖さまが信長の家臣で、建てた家を信長に褒められたことがある、との伝承を持っておられるそうです。

 
 この「大塚氏」が茨城に来た経緯には、いろいろあるそうなのですが、僕もまだまとまっていないので、もう少し時間をかけて調べてみようと思っています。

 
 ただ、左三つ巴紋の大塚氏については、僕もこれまで把握していなかったので、いよいよ39家目の新しい発見になりそうです。

 
 気になる参考事項としては


 一本気新聞 さんのサイトで、いろんな有名人の家紋を調査しておられるのですが、ここに「大塚博紀」さんという茨城県の「空手家」の方のことが紹介されています。

 一本気新聞 さんのサイトより
 http://www.ippongi.com/2011/12/23/tomoe-2/

 なんとこの方の家紋が「五瓜に左三つ巴」なんです。


 この家紋だけだと、よくわからないと思いますが、実は織田信長の家紋が「織田木瓜」といって、五瓜紋なのです!!


 とすると、もしかしたら大塚博紀さんの家紋が「織田家臣であること」を意味していて、メールを下さった大塚さんの話と合致するとしたら、ちょっと面白いことになってきませんか?

 何かと何かが組み合わさった家紋は、時代で言えば後の時代になり、「何かの由来があって組み合わせた」ことが多いので、たいへん気になります。



 家紋が左三つ巴の大塚さんがおられましたら連絡くださいね!



2014年1月20日月曜日

<31-2>いよいよ最終章?!赤松支流大塚氏のルーツはここだ?!

 というわけで、長々と調査してきた我ら久留米藩士「大塚氏」の源流だが、いよいよ最終章を迎えそうな予感がしている。

 室町時代、大塚重太夫の構居であったと思われる「岩崎構」は、書写山円教寺のふもとに位置する姫路市打越にある。


 現在は、姫路随一の「謎のテーマパーク・太陽公園」のすぐ近くなのだが、お暇な方はぜひ太陽公園へお出かけいただきたい。


 太陽公園さんのサイトより

 http://www.taiyo-park.com/


 もう、ドキドキわくわく間違い無しのパラダイスである。



 太陽公園はさておき、大塚重太夫が住んだこの地には、やはり「大塚古墳」が存在することが判明した。

 
 そもそも、大塚重太夫とケンカしていた本庄氏の構居である、現天神神社のある香山構も、古墳の山をベースにしているように思われる。この当たり一帯は、古墳がたくさん存在しているのだが、「大塚」と名の付く古墳ももちろんある。


大和国古墳墓取調室 さんのサイトより

http://obito1.web.fc2.com/himezinisi.html


 上記サイトで紹介してくださっている古墳のうち、

「刀出天神古墳」が香山構跡であり、「伯母池大塚古墳」(伯母山1号墳)が、打越地域の古墳のうち「大塚」らしいものである。


古墳のお部屋ブログ館 さんのサイトにも訪問記あり。

http://kofunoheya.blog.fc2.com/blog-entry-1651.html



 グーグルマップで「姫路市打越」と検索すればわかるが、現在でも、打越地区は、峰相小学校をはさんで南北に広がる地域になっている。

 もちろん、「岩崎構」も、「伯母池」もおなじ地域に当たる。


 ちなみに、打越伯母池あたりの道をはさんで東隣からは「六角」という地名になるのだが、ここに伝わる伝承も興味深い。

 
黄門ちゃま漫遊記 さんのブログより

http://blogs.yahoo.co.jp/hotsumairu2003/32090893.html


 上記記事によると、山名と赤松の播磨争いの際に、「本城義俊」が書写山に逃れて、山名が去ってから山を降りて付近に村を開いたらしい。

 この本城(赤松)義俊の子が権頭源六角為持といい、六角村の起源となったというのだが、「本城」とは「本庄」氏と同一であろうから、話は合っている。


 つまり、打越地域に対して、その東側は北部から南部まで「本庄氏」の所領であり、そのラインが赤松支配下にあったことは、これまでの話・調査と合致するのである。


(どうやら刀出・六角などの地区はそもそもは書写山円教寺領であったらしい)



 さて、打越地域は、古くは播磨国揖東郡打越村であり、江戸期は龍野藩に属している。


 ところが、刀出地区などの東側は、古くは播磨国飾磨郡菅生澗村となり、姫路藩領に当たるのだ。


 こうなると俄然面白い。この地が村と村の境だけでなく、古代から郡と郡の境界だったとすると、大塚氏と本庄氏の対立は、「何者かVS赤松」の図式だったと見ることもできる。

 つまり、大塚重太夫本人、あるいはその子孫は、最終的には、赤松側に下るのだけれども(取り込まれてゆく)、当初は赤松側(置塩城主側)ではなかった可能性が出てくるのである。


 しかし、これ以上はなかなかつっこめそうにない。赤松氏は室町時代初期には播磨国の守護になっているから、一応付近一帯は「赤松」の息がかかっているはずである。大塚氏が、何者かの残党だったのかどうかもわからない。


 仮説で考えてみる。


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 置塩城は1469年に赤松政則によって築城され、そこから5代続いて1580年に廃城となる。ところが、政則は、その直前まで加賀国にいたので、このあたり一帯は「山名氏」によって支配されていた。

 政則の置塩城築城は、没落していた赤松再興と同時に、山名宗全をはじめとするVS「山名軍」の布陣であるとも言える。



 山名氏から見ると、1441年の将軍義政殺人事件(犯人は赤松)により、赤松討伐の総大将を勤めたゆえに、播磨守護職をゲットしている。

 ところが、ぐちゃぐちゃして1467年に応仁の乱勃発。1473年に宗全は死去することになる。

 そうして播磨は再び赤松に奪われ、1488年には撤退することになる。


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 こうしてみると、大塚氏が赤松家臣本庄氏と1470年頃~1490年頃に対立していたとすれば、大塚氏の出自はこの時点だけを見ると山名家臣ということになる。

(なぜこうした言い回しをするかといえば、山名の播磨支配は一時的であるため、もともと大塚氏が赤松家臣であったものの、赤松没落により山名支配下にあった可能性があるためである)


 だが、もう一つ気になる点があり、実は応仁の乱では1467年から1468年にかけて、赤松本体ではなく家臣の「宇野政秀」に命じて播磨奪還作戦を決行している、ということである。

 宇野政秀は、「赤松政秀」とも呼ばれるが、そのルーツがよくわからない人物でもある。ようするに赤松本流ではなく、家臣筋の養子なのだ。


 宇野政秀の播磨統治期間は以下の通りである。

1467~1483 第一次播磨奪還に成功。

1483~     山名とやりあう「福岡合戦」、のち赤松同士で内紛「東西取合合戦」

1499      龍野城築城 政秀の孫「赤松政秀(おなじ名前でややこしい)」が龍野城を作る。
 
1506~1577 龍野赤松氏4代続く。秀吉の中国攻めに斎村(赤松)政広が降伏。

(ちなみに1558~1570の永禄年間に大塚将監が岩崎構に住む)



 今度は、1490~1558までを考えると、大塚氏は当初龍野赤松氏の支配下にあり、そこから離れていったと考えることができる。


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 とにかく、このあたりの経緯はややこしいのである。同じ赤松一族同士でケンカしたり、あっちへついたりこっちへついたり、赤松本流を誰が取るかでもめたりしているので、本当にわけがわからない。

 可能性は低いが、大塚氏は山名氏にくっついてきたことも考えられるし、そうではなく、元からの赤松系だとも考えられる。

 ただ、赤松大系図において、大塚重太夫の表現が微妙なのは、個人的には地勢から考えて「当時、重太夫はどうも龍野赤松系に属していたのではないか?」という雰囲気を感じる。

 その後、大塚氏は「小寺家臣」として登場したり、「有馬家臣」として登場したりしたことを考えると、戦国の世のことであるから、やむなくいろいろな形で赤松一族の「どこか」にくっついていたように思うのである。

 そのあたりのポジションを総括すると、「やっぱり赤松一族の隅っこの氏族」としか言いようがないのだが、いや、現代まで僕が生きているのならそれもそれでいいのだ。

 ご先祖様戦国の世を生き抜いてくれてありがとう!






<31-1>【7】ついに発見か!大塚氏の源流と、『ラストサムライ』

 ハリウッド映画「47RONIN」がだいぶハズしているらしい、という噂を聞いているが、かくいう僕も、忠臣蔵にドラゴンが出てくる予告編を見た時点で「あかん!それはあっかーん!」と愕然としてしまったのを思い出す。

 ハリウッド時代劇といえば、「ラストサムライ」がおなじファンタジーとは言え、名作であることは否めない。「47RONIN」も「ラストサムライ」みたいなイメージで製作したかったのだろうが、残念な結果になってしまったのは何故なんだか。


 実は、僕の大学時代の友人は、この本家「忠臣蔵」「幽霊になぜ足がないのか」という興味深い謎をからめて卒論を書こうとしたが、ちょっとばかり論証が足りずに今一歩の結果になってしまったという思い出がある。

 でも、目のつけどころはかなり面白い。物証があれば驚くべき発見に繋がったかもしれないと今でも思う。

 ちなみに、その時の僕は、人形浄瑠璃における人間と人形の共演について研究しており、簡単に言えば「伊藤かずえニャンちゅうが、どうして人と人形という生命体と非生命体なのに、おなじ舞台上で会話を交わせるのか」という究極の問題について卒論を書いた。

 いや、ニャンちゅうは「たとえ」なので、「どーもくんとあんりお姉さん」でも、「じゃじゃ丸ぴっころゴロリ」でも、「いつも元気なワンワンでーす、とほのぼのさん」でもなんでもいいのだが。

 それはさておき、僕の卒論はその年のR館大学文学部日本文学専攻の次席を取り、学生論集に収録されているので、読みたい人はどうぞ。

 ちなみに、その年首席だった女の子には、学会での発表と金時計が送られたのだそうだが、彼女に「大塚くんは、あたしの永遠のライバルだと思ってるの」と卒業後に言われた記憶があるようなないような。

 もしかしてだけど~、もしかしてだけど~♪ 彼女はオイラに惚れてたんじゃないの~♪


 ・・・・・・もし、その子が読んでたらマズいので、かなりフィクションだと申し添えておく。

 あ、でも彼女は高橋由美子に似た美人さんだったので、実は僕も好きでした。


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 話は、もとに戻る。なんせ今回は、「ついに!発見か!大塚氏の源流!」スペシャルなのだ。あの毎回ドキドキさせられた「徳川埋蔵金スペシャル」バリの特番なのである。

 さっそく、我が赤松支流大塚家のルーツを掘り起こしにかかろう!

 そのキモになるのが「ラストサムライ」で一躍有名になった「書写山円教寺」である。そう、あの勝元(渡辺健)のお屋敷として使われた侘びさびのあるお寺だ。

 そもそも、どうして思いつかなかったのか、と悔やんだのだが、抱き茗荷紋が天台宗と関係があるらしい、という話を書いたのは、かなり以前のことで、だいたいその時に気付くべきだったのだ。

 書写山円教寺こそ、播磨最大の天台宗別格本山である

ということを。

 そのことを再確認させられたのは、やはり「事件は現場で起きてんだ!(織田裕二)」というあの名台詞の通りであった。


 僕がネットを見ながら「ぽんからきんこんかん」とキーボードを叩いているだけでは気付かなかったものすごいことが、現場で起きていたのである。


 現場は、ここだ。

 http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?p=%E5%B3%B0%E7%9B%B8%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1&lat=34.8842035&lon=134.6351071&ei=utf-8&datum=wgs&lnm=%E5%B8%82%E7%AB%8B%E5%B3%B0%E7%9B%B8%E5%B0%8F%E5%AD%A6%E6%A0%A1&idx=33&v=2&sc=3&uid=b11234d6ae8e4a9ba022070045dd115164d836b9&fa=ids

 地図を表示してほしいのだが、姫路市立峰相小学校付近、姫路市打越地区がその舞台である。

 この峰相小学校の横に「岩崎構」の碑文があり、「室町時代大塚重太夫が住んでいて、隣の香山構主、本庄次基と地境争いをした」という。


 そして、もうひとつの現場が、ここ。

 http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?ei=UTF-8&type=scroll&mode=map&lon=134.63634202&lat=34.89385965&p=%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E5%A7%AB%E8%B7%AF%E5%B8%82%E5%88%80%E5%87%BA&z=16&layer=pa&v=3&ac=28201&az=062

 地図内に「天神神社」があると思うが、そこが「香山構」跡であり、こちらには新しい碑文が建っている。

 碑文の内容は姫路市の資料を参照してほしいのだが

 http://www.city.himeji.lg.jp/var/rev0/0017/8995/2009811132938.pdf#search='%E9%A6%99%E5%B1%B1%E6%A7%8B+%E6%9C%AC%E5%BA%84'
 

【香山構跡】
 碑文 「赤松大系図によると室町時代置塩城主に仕えていた本庄新
十郎長永は谷口樫谷穴師を領地としていた」

とある。

 本庄次基と、本庄新十郎長永という名前の違いはあるが、岩崎構=大塚氏で、香山構=本庄氏であることがわかる。

 そして、碑文より本庄氏は「置塩城主」つまり、赤松政則、義村、晴政、義祐、則房の5代のうちの誰かに仕えていたことがわかるのである。


 さて、この時、大塚氏も置塩城の家臣であったかどうかは明記がない。

もし、このときの大塚氏が赤松家臣でなければ、播磨の一氏族で、のちに赤松に征服・合流されたことになるし、すでに赤松氏の支配下にあったとすれば、内輪で本庄氏とごにゃごにゃケンカしていたことになる。



 というわけで、岩崎構と香山構、そして赤松本拠地置塩城との関係がなんとなくまとまったところで、ラストサムライである。

 実は、この両地域、地図をズームアウトしてみればすぐにわかるが、書写山のふもとなのである。それも、すぐ真下に位置する。

 これで、大塚氏と抱き茗荷の関係も、一応説明がつく。当時の大塚氏が、天台信仰を持っていても全く不思議ではない、というか地理的特性から、恐らくそうに違いない、とまで言えそうだ。


 そして、さらに、新しい発見に繋がるのである!待て次回!



(つづく)


<30-3>暴れん坊吉宗と大塚氏 ~紀州系大塚氏は二人いる?!~

 寛政譜に残された抱き茗荷紋の赤松支流「大塚氏」が、紀州徳川吉宗に仕えた有馬氏倫つながりなのではないか、という大胆仮説が登場したところで、前回は筆を置いた。

 しかし、寛政譜において抱き茗荷の大塚氏は「御徒に召し加えられ」としか記述されていないため、そこに至る経緯が実は全くわからないのも、事実なのである。

 そのため、誰も何にも言ってないのに、僕の勝手な推論で「有馬氏倫」ルートを仮定したのだが、調査しているうちに、ものすごく気になることを発見してしまったのである。


 まずは、何を見つけてしまったのか、その事実だけを提示したい。


 もういちど、寛政譜に立ち戻ってみる。

 寛政譜に収録されている「大塚氏」は4家であり、それぞれ

1「宇多源氏 佐々木庶流」
2「村上源氏 赤松支流」
3「未勘源氏」
4「藤原氏 山蔭流」

となっている。そこで、「2」は前回掲載したのでほっておくとして、それ以外の記述を読んでみると以下のようになっている。

★数字は便宜的に僕がつけている。かな表記・漢字表記も読みやすいように多少改めている。

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1)宇多源氏 佐々木庶流

 大塚

 重時 清六郎 神田の館において小十人をつとむ。延宝8年徳松殿西城にいらせたもうのとき、従いたてまつり御家人に列す。


<略>

 大塚

 友昌 弥門 はじめ紀伊家に仕え、享保元年有徳院殿本城にいらせたもうのとき、従いたてまつり、御家人に列し、(以下略)



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3)未勘源氏

 大塚

 某 茂右衛門 御鷹方をつとむ。

 光広 太左衛門 神田の館において右筆をつとむ。延宝8年徳松殿西城にいらせたもうのとき、従いたてまつり、御家人に列し(以下略)



=======

4)藤原氏 山蔭流 

 大塚 家伝に大曾禰次郎兵衛時永が後胤にして、のち大塚を称すという。

 信光 太右衛門 神田の館に仕え、延宝8年御家人に列し、三丸の御墓所人をつとむ。


=======


 まず、よく出てくる延宝8年というのは、5代将軍綱吉が将軍になった時であり、徳松殿というのは、綱吉の息子のことだが、彼は5歳で死んでいる。

 神田の館とは、綱吉が住んでいた家のことで、西城は江戸城西御丸のことと思われる。

 
 つまり、1の友昌以外の「大塚氏」は、5代将軍綱吉の家来もしくは、その息子徳松の家来だったということがわかる。そもそも、徳松も父が将軍になったため2歳で父の代わりになり、5歳で死んでいるので、実質的にはこれらの大塚氏は綱吉の支配下にあったと考えてよい。


 そして、それらの系統とは別に、「大塚友昌」だけが、もともと紀州徳川家に仕えていた宇多源氏佐々木庶流大塚氏であり、彼は有徳院つまり徳川吉宗にくっついて江戸へ来た、ということになる。


 こうして見ると、やはり赤松支流大塚氏の大塚盛美だけが、幕臣となった経緯がわからない唯一の人物ということになるわけである。

 
 これをどのように解釈すればいいのか、実はよくわからない。

 前回の仮説のように、盛美は紀州徳川の家来というよりは、氏倫系有馬氏の家来だったために一段階扱いが低かったから、徳川氏との関係において記載がない、と解釈してよいのか、あるいは、やっぱり、盛美だけは、全然違うルートで幕臣に取り立てられたのか・・・。


 この謎を誰か解いてほしい。じっちゃんの名にかけて!








 

2014年1月18日土曜日

<30-2> 幕臣大塚氏と「第三の男」 そして、『バンサンケツマ!』

 あの国民的ドラマTRICKが、いよいよ最終回を迎えるということで、早く映画が見たくて仕方ない。

 「大塚のルーツは、まるっとごりっとさらっとお見通しだ!」

と人差し指を突き立てたいものだが、なかなかそこまで行かずにもがいている。


 しかし、アホな冗談を言っているわけではない。寛政譜に登場する謎の「抱き茗荷紋の幕臣大塚氏」と、「バンサンケツマ」は、意外なトリックで繋がっている。



 そう、これから述べるのは、上田次郎バリに怪しげで突拍子もない、名推理(仮説)である!



 ★「バンサンケツマ」は、『劇場版TRICK 霊能力者バトルロイヤル』のネタである。ご参考まで★



まず、寛政譜の抱き茗荷「大塚氏」の項を引用しておく。


==========

大塚

盛美(もりよし) 庄三郎 

 明和八年御徒にめし加えられ、のち御作事下奉行となり、拝謁をゆるされ、其後御天守番にうつる。



盛定(もりさだ) 亀之進 母は中山氏の女

 寛政六年十月六日遺跡を継、のち御徒目付をつとめ、八年三月十七日班をすすめられて町奉行支配の留役となる。

 時に三十九歳 四月二十九日役名を町奉行吟味物調役とあらためらる。妻は榊原七郎右衛門長次が女。

盛服(もりのり) 安之助

女子



某 亀三郎 母は長次が女


家紋 抱蓑荷 丸に釘抜 丸に澤瀉


(補足説明)  盛美 - 盛定 - 某 が直系。 盛定と盛服と女子がきょうだい。


===========


 まず、明和8年とは1771年のことで、将軍は10代徳川家治の頃である。

 家治は、8代将軍マツケンサンバこと徳川吉宗暴れん坊将軍(松平健)に一番愛された孫であり、父親(つまり、吉宗の子、9代将軍徳川家重)に言語障害があったため、早くからのちの跡継ぎとして帝王学を叩き込まれている。


 では、なぜこの将軍家治と大塚盛美が出会うことになるのか?


 大塚盛美は、寛政譜に突然登場し、そして3代であっさり消えていく。それだけ、たいしたことのない家臣で終わってしまうのではあるが、それでもそれなりの功績・能力があったからこそ盛美は幕臣に取り立てられたのであろうと推測できる。

 いくらなんでも、将軍家の家臣であるから、

「そこらへんを歩いていて召抱えられた」とか「浪人だったけど雇われた」とか、そんな理由であるはずはない。


『作事下奉行』で100俵高10人扶持ぐらい、『拝謁をゆるされ、御天守番』で100俵高5人扶持ぐらいなので、まあ、だいたいのランクが想像できるのだが、石高に換算して100石くらいに当たる。

息子の代の『徒目付』で、100俵5人扶持、『町奉行吟味物調役』・(旧名)評定所留役は150表クラスなので150石程度、いずれにしても幕府で言えば、「下級武士だが、まあその中では上のほう」ぐらいの位置づけになる。

ちなみに、必殺仕事人「中村主水」(藤田まこと)が30俵2人扶持であるから、ご参考まで。


 話を元に戻そう。いくら下級武士とはいえ、そこらへんで拾われたのとは訳が違うので、「故あって、徳川家・将軍家に取り立てられた」と見るのが筋であり、逆に言えば、それまでは誰かに仕えていた、つまり、徳川家の幕臣の誰かの「家臣」であったと考えられないか。



 さて、大塚盛美と徳川家、この点と点をつなぐ「線」として一人の男の存在が浮かび上がる。その男の名は、「有馬頼次」、そう、またしても「有馬氏」なのである。

 有馬頼次は、久留米有馬藩豊氏の三男であり、分家して駿府徳川家・徳川忠長に仕えることになる。ところが、忠長はいろいろあって改易され、頼次は、また父の豊氏に預けられたりするのだが、39歳で亡くなってしまう。


★ちなみに、この忠長の息子が「長七郎江戸日記」の松平長七郎(里見浩太朗)なのである。ババーン!★


 そこで、養子の有馬吉政が跡を継ぐのだが、彼は紀州徳川家(吉宗の祖父・頼宣)に仕えるのである。

 こうして紀州徳川家と繋がった有馬氏は、孫の有馬氏倫(暴れん坊将軍では有馬彦右衛門・名古屋章)の時、吉宗の側近となり、伊勢西条藩初代藩主となった。この家系を「氏倫系有馬氏」という。

 
 
 推理はこうだ。久留米有馬藩と、紀州徳川藩は、上記の縁で非常に近い関係にある。これが点をつなぐ線に違いない。

 だとすれば、有馬頼次が徳川家に仕えるに当たって、一緒についていった家臣に「赤松支流大塚氏」がいても全く不思議ではない。そもそも、有馬と大塚はおなじ赤松一族であり、近い位置にある。

 この有馬氏に従っている大塚氏は、氏倫の代に紀州徳川家と接点ができ、吉宗が将軍になった時点で、江戸幕府本体との接点も出来ることになる。

 つまり、大塚盛美は、紀州徳川本家の家臣というよりも、もとは有馬家家臣であり、あるいは伊勢西条藩がらみの人物であったかもしれない。

 だからこそ、徳川幕府が、紀州徳川家に移って以降の10代家治の代に、直接徳川家の家臣に取り立てられたのではなかろうか。


 だから、抱き茗荷の大塚氏が幕臣になれたわけであり、寛政譜に記録が残った、というわけだ。


 状況証拠は、揃った。久留米藩ルート、福岡藩ルート、そして第三の紀州徳川藩ルートが、こうして発見されたと言っていいだろう。


 だが、もう一つだけ、怪しい・疑問・気になる点が残っているのだ。


(つづく)










 

2014年1月17日金曜日

<30-1>【第四グループ】をめぐる点と線 幕臣「大塚氏」はどこから来たのか?!

 抱き茗荷紋の大塚氏の流れについて、新たな仮説が浮上したので、ここで取り上げたい。

 
そもそも、赤松系大塚氏の4グループについて見ていったときに、

 ① 播磨に残った赤松支流大塚氏

 ② 有馬氏に従って久留米藩に移動した大塚氏

 ③ 小寺家臣を経て、黒田氏に従い福岡藩に移動した大塚氏

 ④ その他

という分類を提示した訳だが、この「その他」の流れをもう少し突っ込んでみたいわけである。


 原点に戻ろう。


 我が大塚家のルーツ探しにおいて、大きなポイントとなった「寛政重修諸家譜」であるが、ここに「抱き茗荷」紋の大塚氏がいる、という発見が基本的にはこのブログのテーマそのものなのである。

 しかし、考えてみたら、「寛政ほにゃらら~(以下寛政譜)」に載っている大塚さんは、②や③ではないのである。

 「幕臣」大塚氏として記載されているのであるから、有馬家臣でも黒田家臣でもなく、あえて言おう。

 徳川家臣の大塚氏

というわけなのだ。


 そもそも、寛政譜の出来た経緯というのは、簡単に言えば幕府が徳川に従う者たち(大名・幕臣など諸家)に

「おまえんとこのルーツを書いて、提出しなさい」

という命令を出して、各家が

「はい、うちはこうですねん。こういう由来やいわれがあるそうですねん」

という回答を上奏した結果なのだ。当然、それが史実かどうか検証する客観的手段はないのだから、徳川幕府とすれば

「・・・って言ってるから、そうらしいわ。とりあえず、そう書いておこう」

という扱いをする以外にないわけである。



 まどこっろしいが、何を言いたいのかといえば、こういうことだ。

 とある幕臣の大塚氏がいて、「おまえのルーツはなんだ?」と尋ねられて、「うちは赤松家の支流の大塚だと聞いてます」と答えた、それが寛政譜の記載になるわけである。

(↑ざっくりといえば、であるが)


 では、その大塚氏は、どこから徳川に仕えることになったのか。基本的には①か④であり、播磨は特段徳川氏と直接関係があるとは思えないので、④の可能性を探るべし、ということになりはしないか?

 点と線をつなぐ作業が必要になりそうである。


「この大塚氏は、いったいどこから江戸に来たのか?!」


これが、この章のテーマである。


(つづく)

<29>大塚太蔵と久留米絣 謎の出自をめぐって<追記あり>

 久留米藩と大塚氏の関係を探っていくうちに、もう一人、「大塚姓」の人物を発見した。その名を「大塚太蔵」といい、久留米の特産品「久留米絣(かすり)」の製法を発明した一人、ということになっている。

 久留米絣は、久留米地方で生産される「綿織物」の一種で、日本の三大絣のひとつに数えられるほど有名なのだそうだ。


 ウィキペディアさんより 
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%85%E7%95%99%E7%B1%B3%E7%B5%A3


 その久留米絣、なかなか面白い由来を持っている。そもそも、この久留米絣は、井上(伝)デンという女性によって製法が考案され、井上デンは、さまざまな人たちと協力しながら、さらに新しい製法を生み出してゆく。

 
 井上デンの創意工夫については、

 筑紫次郎の世界 さんのサイトに詳しい。
 http://www5b.biglobe.ne.jp/~ms-koga/01den-000top.html


 また、

 風のおくりもの さんのサイトにも、詳細が記してある。

 http://www.kazenookurimono.jp/kasuri/story.html



 さて、この久留米絣を発展させる上で、一人は田中久重という天才が大きく関わっている。田中久重は「からくり儀右衛門」として有名な東芝の創始者であり、誰でも「弓曳き童子」や「文字書き人形」のからくり人形をテレビなどで見たことがあると思う。

 井上デンは、機織機の製作を当時14歳の久重に依頼しており、こうしたことから、久重は機械づくりの道へのめりこんでいったという。


 ところで、もう一人、久留米絣の発展に寄与した人物がいる。それが井上デンの後継者のひとり、大塚太蔵で、彼は絣の反物に絵柄を配置する「絵絣」の製法を発明したといわれている。


 太蔵の伝記はなかなか興味深い。一般に久留米絣の紹介をしている現代の文献では

「大塚太蔵は、三潴の農家の子として生まれ、・・・・」

「大塚太蔵は、足軽上がりであり、・・・」

の二種類の記述があり、その出自については軽くスルーされている。ところが、身分制度の厳しい江戸時代のことであるから、農家の子と、いくら足軽とはいえ武士とでは大きな違いがある。

 それよりも、当ブログ的には、

 久留米藩における「大塚氏」は赤松家臣の武家である、という前提に立っているため、農家「大塚家」の存在はぜひとも調査しておきたい部分に感じられたのである。


 しかし、この謎は、古文献を探るうちに概ね解けた。 

 久留米絣と大塚太蔵に関する現代の文献やサイトでは、大塚太蔵の出自については、ほとんど書かれていないのだが、ありがたいことに、またまた「国立国会図書館」の近代資料に文献が残っていた。


 明治36年に久留米商業学校同窓会が発行した「久留米絣」という本の中に、大塚太蔵のたどった軌跡が詳しく書かれている。

 
 近代デジタルライブラリー 「久留米絣」
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/900995


 これによると、太蔵は、文化3年に三潴郡津福村(今は久留米市)に農家の子として生まれている。父親の名は林右衛門、母親の名はタカという。

 ここからの太蔵の行動が面白い。代々農家の家に生まれた彼は「農家として一生を過ごすのは、いやだ。俺はビッグになりたいんだ」と、立身出世を夢見て、あろうことか妻子を捨てて藩主有馬頼永の小人となり、なんと、参勤交代についていって江戸まで行ってしまうのである。

 その江戸で、どうやら絵織物に触れその手法を応用することを思いついたらしいのだが、帰ってきてせっかく得た士分を「痔になった」せいでお勤めできなくなり、また転身して機織の道に入ったというのである。



 太蔵は、絵絣を発明したのちも、なかなか苦労しているようで、着物に夢中になっているものだから「女太蔵」だの「狂太蔵」だのとバカにされ、これではいかんと考えた挙句、自分の娘に最新モードの服を作っては着せて、人が多いところ、集まるところへわざと出向かせて評判にさせる、という裏ワザを使ったらしい。

 38歳で死んだ太蔵は、むしろ亡くなってから後に評価され、表彰されるようになったという。



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 ところで、古文献にはもうひとつ、大塚太蔵についての記述がある本がある。

 おなじ近代デジタルライブラリーで読むことができる昭和10年刊行の「郷土資料」というものである。


 近代デジタルライブラリー  「郷土資料 修身の部 久留米初等教員会」
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1026935


 これは、おそらく久留米の小学校の先生たちがつくった教科書副読本であろうが、時代背景を反映して天皇家の業績から始まる。


 こちらの記載は、「太蔵の家は代々足軽で、太蔵は藩主の馬丁を勤めていたが、後に病気で職を辞し、実業を興して家計を支えようとした」となっている。

 
 これもまた当ブログ的には面白い。

 『大塚家は代々足軽で、有馬家の馬の世話をしていた』という話は、おそらく正しい。


 僕の実家は、おなじ三潴地域といっても、津福村ではないのだが、これまた似たような話も伝わっているのだ。


 当大塚家が「馬廻り役」であった、という伝承とともに「えー、そうやなくて馬の世話係だったらしいで」とか「足軽頭やったらしいで」とか、そういう話もあるのだ。

 ぶっちゃけ、「馬」ということばだけが一人歩きして、「馬廻り」だの「馬を飼ってた」だの話があっちこっちへ飛んでいるのだが、当家が久留米城下に居を構えているわけではない以上、直接の先祖は、すでに家格が落ちていたとしても不思議ではない。

 馬廻りは相当前の先祖であって、近代の先祖は足軽(徒士)であっても、全然おかしくないわけである(笑)


 これも今となっては我が先祖「大塚喜平次」の役職・身分がわからない以上どうしようもないのだが、なかなかどうして大塚太蔵に親近感を覚えずにはいられないのである。


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 大塚太蔵について、詳しく記載されていると思われる文献を発見したので追記しておく。


 『久留米人物誌』 篠原正一 久留米人物誌刊行委員会 菊竹金文堂S56


 によると、ざっくりまとめるが”太蔵は文化3年5月生まれで、父は林太郎、母はタカ。農を嫌い、武士になりたくてつてを頼って藩主の馬丁になり、のち士分に取り立てられた”、とある。

 この資料上では、大塚家は農家であると読める。全体的には前述の「久留米絣」の記載を踏まえているように感じられる。

 
 さらに同書には大塚太蔵の孫である「大塚猪之助」の項があり、こちらでは久留米絣の発展に息子も関わっていたことが記されている。

 
★2014.5.8 記事追加・修正しました。

2014年1月16日木曜日

<28>除籍謄本と直系尊属

 しばらく中断していた我が家の家系調査だが、正月明けすぐから動いて本籍地の戸籍データから、直系尊属の追跡を開始した。


 当然、僕の本籍は福岡県にあるので、郵送での手続きになる。そのため、結果が届くのに今まで時間がかかってしまったというわけである。


 直系尊属、つまり、自分のお父さんのお父さんのお父さんのお父さん・・・・を調べるには、以下の手続きをする。


① 本籍地の市役所戸籍係に「自分の直系尊属について、遡るだけ遡りたい」旨を説明し、そのために「除籍謄本・改製原戸籍」を取りたいのだが、必要な通数を教えてほしい、と申し出る。

② 通数がわかれば、申請書に記入&手数料750円×通数を払う。

③ 自分の身分証明を提示・添付する。


 とまあ、基本は簡単なのだが、実際には遠隔地の役所とやりとりをするので、手数料を郵便小為替で払ったり、返信用封筒&切手を同封したり、とちまちまとした手続きに手間がかかってしまう。


 ややこしいのは、ご先祖が本籍地を移動していたら、その先でも同じことをやらなくてはいけないので、最低でも数週間から1ヶ月くらいは覚悟しておいたほうが良いかもしれない。

 僕の場合は、事前に電話で複雑な説明は全部終えていたのだが、実際に届くのには、2週間近くかかってしまった。


 さて、判明したのは直系尊属4親等、高祖父までであった(江戸時代の人)


5 【それ以上】
  ↑
4 【高祖父】
  ↑
3 【曽祖父】
  ↑
2 【祖父】
  ↑
1 【父】
  ↑
  【僕】
  ↓
1 【子】
  ↓
2 【孫】


 高祖父の名は「喜平次」。残念ながら喜平次自身の戸籍は既になく、喜平次の息子、つまり僕の曽祖父の戸籍の欄に、「前戸主」ならびに「父」という記載があるので、「喜平次」が高祖父であると判明したわけである。


 さて、この大塚喜平次、残念ながら久留米藩の分限帳には名前が載っていない。名前があれば、直接家系と繋がるので、「大発見」となるのだが、うちが分家であれば早くから分かれてしまっていると考えられる。

 もちろん、我が実家は三潴地区にあるので、久留米から離れていることを考えると、何らかのいきさつで久留米城から離れたところに領地をもらっている、ということになる。

 このあたりの流れは、さすがに現時点では追跡しようがない、と、このルートでの調査もここまで、ということになりそうである。


 というわけで

 福岡県三潴地域にゆかりのある方で、大塚喜平次の曽孫または玄孫の方、連絡求む!

 たぶん、自分がそうかどうか、ほとんどの人はわかんないと思う(^^;;;。

2014年1月15日水曜日

<話題>小判ザクザク?!

 ちょっとばかり昔の時代にスポットを当てているこのブログですが、面白いニュースがあったので、思わず目が釘づけになってしまいました。


 2千万円相当の小判ザクザク・・・旧豪商の土蔵
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140115-00000470-yom-soci


 ヤフーニュースに取り上げられていたこの話題。かなりうらやましいです(笑)


 小判が見つかったのは滋賀県の「四居家」だそうで、土蔵の桐たんすの隠し引き出しに、いろんな種類の当時の貨幣が隠されていたそうです。


 四居家住宅の写真があったので、ご紹介しておきます。


 岡山の観光地案内 さんのサイトより
 http://www2a.biglobe.ne.jp/~marusan/phyotsuikejyutakunagahama1.html


 
 内部はこんな感じ↓

 匠工房 一級建築士事務所 さんのサイトより
 http://www.takumikoubou.jp/minkasaisei/yotuike.html



 まあ、とにかく「うだつ」が上がりまくりの家です。凄い!


 本当に豪商だったのでしょうね(^^


2014年1月13日月曜日

<調査中>宮崎県の「大塚」さん

 九州地方の「大塚」氏を調査していくうちに、これまでに判明しているのとは別系統の「大塚」氏が存在することがわかってきたので、報告です。

 特に宮崎県(日向国)の北部から出た大塚さんは、日向の有力氏族「土持氏」の系統だとわかっているようです。

 ウィキペディアより 土持氏
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%8C%81%E6%B0%8F


 播磨屋さんより
  http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tutimoti.html


 土持氏は、宇佐八幡宮との関係上、早くから宮崎に根を生やして活躍している一族ですが、平安末期には「大塚」地域に住んだ「大塚土持氏」なる氏族が生まれています。

 土持氏の家紋は、播磨屋さんの指摘では、「唐花」「三つ巴」 ですが、当ブログの家紋一覧とは合致するものがありません。

 あるいは38番目の新「大塚さん」としてもよいかもしれません(^^


 宮崎県の大塚さん!ぜひ家紋を教えてください!


2014年1月12日日曜日

<おまけ>都道府県別 「大塚」さんのルーツ一覧表<常に最新>


 ブログの記事の方は、主に我が家のルーツを中心にまとめていますので、どうしても全国に散らばる「大塚さん」から見るとわかりにくいと思います。


 なので、この記事は随時更新しながら、ブログ更新の上で判明した「都道府県別」の「大塚姓」「大塚氏」「大塚さん」の出自について、簡単ですがまとめてゆきたいと思います。




<全国 大塚氏 家系判別一覧表>


 ★判明分については色を変えています。 赤色調査続行中。

 ★随時新しい情報に更新します。(最終更新2015.1.15)



【北海道地方】

北海道     (入植判明分)

          宮城県・佐賀県・徳島県・鳥取県・山口県

          大分県・佐賀県・島根県・滋賀県・福島県より入植。判明順調査中。

          福岡県より移動分あり。



【東北地方】

青森県     津軽藩・斗南藩士大塚氏 また三戸郡に大塚氏あり。

岩手県

宮城県     仙台藩士大塚氏 伊達家の家臣。調査中!

          蒲生大塚を本拠地とする佐々木氏流大塚氏の子孫か?

秋田県

山形県      伊達家臣大塚氏 天正頃帰農。大塚親行~大塚将監の子孫か?調査中!

福島県      蒲生大塚を本拠地とする佐々木氏流大塚氏



【関東地方】

茨城県     秀郷流小野崎氏系大塚氏。新田義貞家臣を経て佐竹氏家臣。
          
          ほかに織田信長家臣の大塚氏あり。調査中!

栃木県

群馬県

埼玉県     ★埼玉苗字辞典を参照のこと。横瀬党・児玉党・藤原氏・平氏・佐々木氏など。

          近江佐々木氏系列、金田氏を経て大塚氏か?

千葉県     長尾藩本多氏家臣に大塚氏あり?調査中。出自未詳。

東京都     幕臣大塚氏は、宇多源氏佐々木庶流に2氏、村上源氏赤松支流、

          未勘源氏、藤原氏山蔭流、の合計4氏(5氏)がいる。

          
          奈良大和国「岡氏」の子孫で、江戸川区「大塚宗蔵」の家系は藤原氏流。


神奈川県    出自不明ながら横浜・横須賀周辺に大塚姓の旧家がいくつかある。



【中部地方】

新潟県

富山県     加賀藩士大塚氏あり。

石川県     加賀藩士大塚氏  石山本願寺との関係あり? 調査中!

福井県

山梨県

長野県    もと滋野氏の子孫か?

岐阜県    もと長塩氏(大塚) 藤原氏秀郷流足利氏流 の子孫が一部あり。調査中!

         いま池田氏(もと大塚) 藤原氏秀郷流足利氏流の子孫が多い?

静岡県    田中藩本多氏家臣に大塚氏あり?一部千葉へ。調査中!

愛知県



【近畿地方】

三重県

滋賀県     蒲生大塚を本拠地とする佐々木氏流大塚氏が残っている可能性あり

京都府

大阪府

兵庫県     村上源氏赤松支流 大塚氏  ①赤松氏家臣 播磨出身

          藤原氏利仁流 後藤氏 後藤又兵衛の一族より大塚氏

          徳島藩家老稲田氏家臣(淡路島) 大塚氏

奈良県

和歌山県



【中国地方】

鳥取県

島根県     尼子家臣大塚氏。島根県安来より起こる。子孫の一部は姫路打越へ。

岡山県     則武姓から大塚姓へ。もと甲斐武田氏か? 国富姓から大塚姓も?

広島県

山口県



【四国地方】

徳島県     徳島藩稲田家家臣に大塚氏。板野郡土成町の「十三塚」に由来する大塚氏。

香川県

愛媛県

高知県



【九州地方】

福岡県     武藤氏→少弐氏を経て大塚氏。

          後藤又兵衛一族 藤原利仁流 小寺氏家臣をへて黒田氏家臣

          大分日田より起こる、もと財津氏か。久留米藩士。  

          佐賀千布氏より大塚を名乗るものあり。        

佐賀県     武藤氏→少弐氏を経て大塚氏。 小城市出身大塚氏もあり?

          神代氏親類の千布氏、藤原氏系大塚氏の名跡を継ぐ?

長崎県

熊本県     肥後熊本藩細川氏との関係を調査中!

大分県     日田より起こる、もと財津氏?
          大友氏家臣「大塚民部」の子孫が竹田市周辺に。
          豊前秋月氏の分流に大塚を名乗った者あり。

宮崎県     日向・田部氏系統土持氏より起こる、大塚土持氏。調査中!

鹿児島県



【沖縄地方】

沖縄県     佐賀から移住の大塚氏あり。



「大塚さん」に関する情報を随時お待ちしています!


==========

<特集で紹介されました~>

「こんなの見たことない!」ワクワクするユニークなサービスまとめ

http://coconala.com/featured/entry/4372



<おまけ>あなたの「大塚」は”大塚”ですか?

 こんばんは

 今日のお話はおまけ程度に。

 僕の苗字は、ご承知のとおり「大塚」なのですが、 実は細かいことを言えば、戸籍上も住民票も、表記が

 大塚

ではなく、


 大塚


になっています。(もしかしたら、コンピュータによっては表示できていないかもしれません)


  はい、そうです。旧字の「塚」なので、真ん中に「てん」が入った「塚」のほうなんですね。

 そのため、厳密に言えば漢字の画数も違うため、たとえば姓名判断なんかをしたいとき、子供の名前の画数を調べるときなどは、旧漢字でカウントしなくてはなりません。

  時代が新しくなるにつれ、旧字・新字のことをあまり考えなくても良いようになっているため、若い人などでは、意識せず新字を使っている方も多いと思います。

  僕個人は、もうくせというか身についてしまっているので、通常のサイン等でも崩して書かない限りは「てん」をつけた”塚”を書いてしまうのですが、これを読んでおられる「大塚さん」な皆さんも、ぜひほんとうの苗字を一度確認してみてはいかがでしょうか?


<調査中>仙台藩・伊達・宮城県の「大塚」さん

 先日より、多様な大塚さんのルーツを少しずつ調べているところですが、今日も更新です。


 家紋については未調査であるものの、宮城県・旧仙台藩領・伊達氏家臣の「大塚」さんがおられることが判明したので、一応ざっくりと示しておきます。


 仙台藩家臣 ウィキペディアさんの記事より

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E5%8F%B0%E8%97%A9%E5%AE%B6%E8%87%A3



 戦国大名 二階堂氏の興亡史 さんのサイトより

 http://www.muratasystem.or.jp/~hideyuki/date-iekaku.html


 ふたつのデータは共通なのですが、仙台藩の「一族」の家格に「大塚氏」がいることがわかります。
 ウィキペディアには簡単な系図もありますね。

 毎度おなじみ「同姓同名探しと名前ランキング」さんの検索をかけると、宮城県には153人の大塚さんがおられるようですが、確かに仙台地区に特に集中しています。

 現在のところ、家紋が不明なので、どういった経緯で伊達氏とつながっているのか不明ですが、(あるいは伊達氏からどう分かれたかなども)ゆっくり調べてみたいと思っています。


宮城県や仙台にお住まいの大塚さん、ぜひ家紋を教えてください!

2014年1月11日土曜日

<調査中>家紋「剣梅鉢」の大塚さん

 前回、「竹・笹に雀」の家紋を持つ大塚さんの関係で岐阜県に注目しましたが、ここで新しい家紋の「大塚さん」「大塚氏」について話を進めたいと思います。

 岐阜の「紋や」さんは、仕事柄家紋を調査した結果をHPにて報告してくださっているのですが、なかなか興味深い分布を見ることができます。



 「姓と家紋と集落」 さんのサイトより


 このページは、岐阜県の一地方を中心に、実際のお墓を参考にしながら家と家紋の関係を緻密に調べておられるものです。地域が限られてはいますが、たいへんな労力をかけておられるので、とても参考になります。


 大塚の項

 大塚 写真による実例


 
 さて、このデータを見ると、岐阜県のこの地方には「梅鉢」「州浜」「亀甲に剣片喰」「亀甲に花菱」「揚葉蝶」などの大塚さんがおられることがわかります。

 もちろん、少数ですが、「抱き茗荷」「鶴丸」の大塚さんもおられます。


 そこで、当ブログのデータと参照しあってみたいのですが、今回は

「梅鉢」紋について注目してみましょう。


「完全網羅 大塚姓・大塚氏・大塚さんのすべて! 全大塚氏族超まとめスペシャル」


 分類<B>の大塚氏をよく見てください。

 寛政譜13の秀郷流の「今は池田氏、もと大塚氏」の家紋を見ると、「剣梅鉢」が定紋で、「揚葉蝶」
が替え紋になっているのがわかります。


 紋やさんのデータでも、「梅鉢」紋と同様に、この地域に「揚葉蝶」の大塚さんもおられることから、関係性が高そうです。

 念のため、「池田氏」の欄もみておきますが、


 こちらにも「剣梅鉢」と「揚葉蝶」の池田さんがおられるので、ここらあたりも興味深いです。



 ちなみに、ただの梅鉢と剣梅鉢のデザインは本来違うのですが、(剣梅鉢は、梅の中央部分のデザインが大きい)、梅の中央部が尖っていれば「剣」と呼んでいる例も多いのでこれまたややこしい!



 そういえば、岐阜の大塚酒造さんも「竹に雀」であれば秀郷流でしたので、この地域は、秀郷流の流れを追っていったほうがよさそうですね。


「梅鉢・揚葉蝶」紋の大塚さん!ご連絡お待ちしています!

2014年1月10日金曜日

<調査中>家紋「竹雀」の大塚さん<追加発見>

 前回は「鶴の丸」の大塚さんにスポットを当てましたが、今回も別な家紋の大塚さんを取り上げてみましょう。

 岐阜県に酒蔵「大塚酒造」さんがいらっしゃるのですが、その大塚家の家紋が「竹に雀」ということで、家紋にちなんで「竹雀」というお酒も作っておられるとのこと。


 はばたけ すずめちゃん!(大塚酒造さん)のブログより

 http://ameblo.jp/takesuzume2011/entry-10996200372.html



 地産地消のすすめ さんのサイトには、より詳しい経緯が紹介されています。

 http://chisanchisho.dochubu.com/2013/01/16/ootukasyuzo/



  さて、「竹紋」というのは面白くて、竹でありながら笹も同じ種類の紋になっています。なので、デザインによっては「竹」であったり「笹」であったりするのでことばの上で「竹に雀」という家紋になっていても実際の絵の造形はいろんなバリエーションがあったりします。

 
 では、「竹に雀」の大塚さんは、我らが「完全網羅 大塚姓・大塚氏・大塚さんのすべて! 全大塚氏族超まとめスペシャル」ではどうなっているかというと・・・・・・!


 いちおう、ありますね。


 当ブログ第<8>回より
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html


 分類<Y>の長塩氏(大塚)が、

” 藤原氏秀郷流足利氏流 寛政譜11 〔家紋〕丸に根笹に雀 ”

ということになっています。


 ただし、寛政譜にはことばの上での「丸に根笹に雀」としか書いてありませんから、実際のデザインがどうなっているかは不明です。


 今回この記事で取り上げたものの、大塚酒造さんの家紋と一致しているかどうかは、不明です。もしかしたら、全く関係ないかもしれません。

(無関係だったらごめんなさい)



 画像検索してもらえばわかりますが、この笹と雀のデザインは、バリエーションがめちゃくちゃ多くて、そして時代が古そうな図案から洗練された後代のものまで、とにかくいろいろありすぎます。

 また、本家分家等で、少しずつデザインを変えて受け継ぐこともあるので、判定は難しいかもしれません。


 竹・笹・雀に関する情報は、播磨屋さんのページにも解説がありますのでご参照ください。


 苗字と家紋 さんのサイトより
 http://www.harimaya.com/kamon/column/sasa.html



 さて、秀郷流長塩氏は、現栃木県下野国長塩谷を領したことにはじまる、藤原氏の末裔で足利氏の子孫です。


 上の苗字と家紋さんのサイトではあの上杉謙信で有名な上杉氏との関係も指摘されていますので、もう少しデータがほしいところ。

 
 竹・笹紋の大塚さん!ご連絡お待ちしています!



★追加発見★


 岐阜県で着物に紋を入れる仕事をなさっている方のブログに面白い記事を発見しました。


 紋やのつぶやき さんのブログより

 http://blog.goo.ne.jp/chitaya/e/22bd04166653f68e311ca0770059b62f


 珍しき紋、ということで「変わり根笹に舞雀」の紋を使う大塚さんのことが書いてありました。

 
 記事で取り上げた「寛政譜」に登場する”根笹と雀”の紋は、おおむねこのデザインに近かったり、似ていたりします。

 上の記事本文では、大塚酒造さんの紋と、寛政譜の紋は違うかもしれない、と思っていたのですが、「紋や」さんの指摘では、この方は岐阜ですから、大塚酒造さんの岐阜と合致します。

 偶然の一致にしては、できすぎてませんか?


 いや、おそらくこのデータから推測するに、寛政譜の大塚氏と岐阜の大塚氏は同族だと思います。

(もちろん、岐阜の大半の大塚さんは、この氏族ではなく、「梅鉢」紋を使う別の大塚氏だと考えられますが、これはまた別に解説します)

<調査中>家紋「鶴の丸」の大塚さん<追加発見>

 さてみなさんこんにちは

 赤松支流大塚氏の源流探しが少し行き詰まり、肥後熊本藩細川氏家臣の大塚氏の情報も停滞している今日このごろですが、なんとあの熊本藩細川氏の末裔、細川護煕元首相が、都知事選に出るとか出ないとか(笑)

 ちょっとばかりタイムリーですね。

 
 それはさておき、とにかく全国の「大塚」さんについて、いっちょ噛みたいこのブログですから、少しでもとっかかりがあると、つい攻め込んでしまいたくなります。


 しばらくは同時並行しながら全国の大塚さんを繋いでゆきましょう。


__________

 今回は、京都の和菓子屋さん「亀屋陸奥」さんのお名前が「大塚さん」だと判明。本願寺ゆかりの「銘菓 松風」を作っておられるそうです。


 亀屋陸奥 さんのサイトより
 
 この亀屋陸奥さんには、直接家紋についての言及がないのですが、同じ家から出た「三木都」さんが家紋を紹介してくださっています。

 三木都 さんのサイトより


 こちらも銘菓「松風」をお作りになっているようで、もともと松風は石山本願寺(旧の大阪城です)に篭城している浄土真宗信者の兵糧として大塚治右衛門春近さんが作った食べ物がルーツのようです。


 さて、この大塚一族の家紋が「鶴の丸」です。JALのマークの原型になっている鶴が丸く羽根を広げた形のデザインですが、現在の三木都さんの家紋は、鶴がイチョウの葉っぱを咥えている形ですね。


 鶴丸紋は、浄土真宗本願寺の開祖、親鸞が「日野氏」の出身であるため、日野家の紋である「鶴丸」が本願寺と密接に結びつくようになったといいます。

 日野氏、本願寺、鶴丸の関係については、播磨屋さんのページに詳しくありました。


 播磨屋 さんのサイトより




 ところで、僕らの「完全網羅 大塚姓・大塚氏・大塚さんのすべて! 全大塚氏族超まとめスペシャル」においても、鶴丸紋の「大塚氏」が登場します。


当ブログ第<8>回より


 分類で言えば<L>の大塚氏で、加賀藩給帳に記録があるといいます。


 加賀藩に「大塚」さんがいた、という記録だけなので、ちょっとデータ不足ですが、関係があるかもしれません。

 この場合、「亀屋陸奥・三木都の大塚さんが加賀出身」というわけではなく、


 とある大塚氏が本願寺信仰により「鶴紋」を付け、石山合戦を経てその一族の末裔が加賀へ移った。


という仮説が成り立ちそうです。


 もちろん、逆もありえなくはないですが、論拠が江戸期の「加賀藩給帳」だけだと、かなり近年の記録ということになるため、本願寺攻めの際の大塚氏が「鶴丸紋」ということを考えれば、こちらのほうが古そうですね。


 このネタも、新データが揃えば更新します。


 鶴丸紋の大塚さん!ご連絡お待ちしています!



★追加発見★


有鹿神輿伝承会 さんのブログにて、会員の「大塚さん」が「鶴丸紋」であることを発見しました。

http://ameblo.jp/yujinkai/entry-10244347125.html


会員の方が、半纏をおつくりになったときの記録です。

ノーマルですが「鶴の丸」の紋ですね。


 有鹿神社は、神奈川県(相模国)最古級の由緒ある神社です。

ウィキペディアさんより 

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E9%B9%BF%E7%A5%9E%E7%A4%BE


相模には「相模大塚」という地名もあるので、何か関係がありそうですね。ワクワクします。


偶然の一致なのか、それとも秘められた歴史があるのでしょうか?!

2014年1月7日火曜日

<コラム>家紋といえば平安紋鑑

 さてみなさんこんばんは

 今日はちょっとばかり、ふだんのお仕事の話をしておきます。


 実は、僕は本業の仕事でも「家紋」をたまに扱うことがあります。別に和服や染物をしているとか、デザインに関係する仕事をしているわけではないのですが、建築関係のはじっこのほうで生きていますので、純和風建築のおうちを建てるときの部材を扱っている絡みで「家紋」を知っておく必要があるのです。


それも、僕の仕事は、建築の中でもかなり和風寄りの業界なため、標準の家紋はもとより、特注の家紋を扱ったりすることがあり、その場合はメーカーさんや職人さんに、そうした家紋を誂えた部材を作ってもらうことになります。


 というわけで、わが社に常備してあるのが、家紋といえばこれ!の決定版


 「平安紋鑑」



にごじゃりまする。



 かなり、ヨレヨレになってますが・・・・・・。

誰や!本の上にコップ置いたやつは!(苦笑)



 ちょうど抱き茗荷の項を開けていますが「みょうが」は「め」のところになります。旧仮名遣いなので・・・・・・。


 この平安紋鑑は、京都の紋章工芸協同組合さんが制作した家紋図案集で、和装の紋を入れる際に、正確な図案が必要だったために編集されたものです。


 めちゃくちゃ希少本というわけではないですが、ちょっと金額が高かったり、廃盤だったり、手に入れるのにくせがある本ですね。


 というわけで、ふだんのビジネスの話ですが(笑)、弊社では「家紋入りの置物」とか「家紋入りの焼き物」とかそういうのも作ることができますので、お好きな方はどうぞ。


 我が家もいっちょ何か作ってもらおうかな・・・。



 

2014年1月5日日曜日

<27>肥後熊本藩 細川氏を追え!


 宮本武蔵の弟子に「大塚氏」がいる!ということ、そして、熊本県が福岡県に次いで「大塚氏」が多い、というあたりを手がかりに始まった肥後熊本藩の調査。

 この調査においては、めちゃくちゃお世話になったサイトがあるので、まずはそちらをご紹介しておきたい。


 肥後細川藩拾遺 さんのサイト

 http://www.shinshindoh.com/index.htm


 とにかく、すばらしいサイトで、肥後藩、細川氏のことであればなんでもわかるという熊本最強の歴史サイトのひとつであることは間違いない!

 ああ、誰か久留米藩もこんなの作ってくれないかな~、と思わず切望してしまうほど!


 このサイトには、肥後大塚氏についての多くの記録が紹介されているのだが、「新・肥後細川藩侍帳」という項が、管理人さんが調べに調べまくった「細川藩の家臣の一大記録」である。

 とにかく膨大な記録なのだが、この中から「大塚氏」に関してまず押さえておきたいことが2点ある。

①細川家家臣となった旧加藤家家臣 大塚七右衛門
 http://www.shinshindoh.com/katou.html

 加藤家侍帳に記載があり、熊本藩初代藩主の加藤家から細川家に仕えるようになった「大塚氏」がいる、ということがわかる。


②細川家家臣団の中の「大塚氏」たち
 http://www.shinshindoh.com/samurai/05-o.htm

 管理人さんが各古文書からリサーチしてまとめた藩士の記録のうち、「大塚氏」に関するもの。

 まず、大半の大塚氏が「豊前小倉御侍帳」に記載があり、細川氏が熊本に来る前からの家臣であることがわかる。

 そして、特筆すべきは「大塚源次」の項「大塚又左衛門」の記載の欄だが、

  「丹後御入国以前より御奉公、於豊前知行百石拝領」

と書いてある。

 これは気になる。細川氏の動きを、もっと調べてみなくてはなるまいて!



==========

 肥後細川氏は、肥後熊本の前に豊前小倉、小倉の前に丹後田辺・宮津を治めている。また、肥後入城前には、加藤清正のことを最大限尊重し、加藤家の家臣を自分の部下として迎え入れたという。


 ウィキペディア 熊本藩 より
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E8%97%A9

 これらの事実は、上記①・②の大塚氏の記載とも合致している。また、丹後と小倉に入城したのは、細川忠興とその父の頃の家臣だと考えてよい。

 ウィキペディアより 細川忠興
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%B0%E5%B7%9D%E5%BF%A0%E8%88%88

 
 忠興の父細川藤孝は、足利家の庶流であり、足利将軍家に仕え、のち織田信長に従うことで丹後の藩主となる。

 ただ、難しいのは、細川藤孝は足利将軍に近い所にいるものの、養子にいったり没落したりと、順風満帆に大名ルート一直線に進んだわけではない。

 つまり、彼の臣下の「大塚氏」が、もともと誰の部下で、どの時点で肥後細川氏の家臣となったのかが、いまいちわからないのである。

 足利本家に近ければ、まだ登場していな関東系の大塚氏である可能性もあるし、もちろん、地盤を考えれば赤松系の大塚氏の可能性もある。


 ある程度家紋がわかれば判定できそうな気がするので、


ぜひ熊本県の大塚さん!家紋の情報を教えてほしい!




2014年1月4日土曜日

<26>謎は熊本にあり!

 ああ!調査は行き詰まりなのである。

 前回までの記事で、赤松支流大塚氏の源流がどこにあるのか、という謎解きが完全に行き詰ってしまった僕は、しばらくこのネタを放置・・・いや、熟成させることにした。

 だいたい、室町期No1のビッグダ・・・もといビッグネームである、「赤松氏」自体、その源流が明らかになっていないのに、赤松系の末席に過ぎない「大塚氏」の源流を見つけようなんて、おこがましいにもほどがある。

 というわけで、九州福岡は三潴からスタートしたわが大塚家のルーツ探しはいったんこれにて保留にしておいて、別の目線で考えてゆくことにしたのである。



 そうだ!そうなのだ。このブログの崇高なる目的は、日本中の「大塚氏・大塚さん」の謎を解くという壮大なプロジェクトなのである。このブログ第25回まで「赤松支流大塚氏」で引っ張ったのだから、そろそろ他の「大塚氏」に目を向けてもいい頃ではないか。


 そんな折である、ひょんなことから面白い情報が入ってきた!!

 それはくまモンの故郷、熊本県からであった!


 
 話は少し前に戻る。九州における大塚姓の分布について調べるため、僕が

 同姓同名探しと名前ランキング さんのサイト
 http://namaeranking.com/

を使って「捜査の当たり」をつけていたことは皆さんもご存知のことと思う。

 そこで、九州における「大塚さん」の分布の基礎調査として、九州各県の大塚姓についてサーチをかけてみた。その結果が以下である。


 福岡県  1231人
 熊本県   954人
 大分県   792人
 佐賀県   300人
 長崎県   290人
 鹿児島県  166人
 宮崎県   160人
 沖縄県    10人


 これを見れば、なんとなくわかると思うが、福岡・熊本・大分が突出して大塚姓の分布が多そうだ、ということが伝わってくる。

 福岡県については、既に説明したとおり、福岡藩(+秋月藩)・久留米藩領内の大塚姓は明らかになっている。

 というわけで、次のターゲットは、まず熊本、そして大分あたりはぜひ調査しなくてはならない気がする!


 そこで、僕はなかなか面白い資料にぶち当たってしまったのである!

 
==========

 近世の熊本県は、まず肥後熊本藩という大藩がある。熊本藩には宇土藩と肥後新田藩のち高瀬藩という支藩があり、熊本の大半の地域を占めている。別に人吉藩があるが、こちらは熊本藩とは別系統ということになる。

 熊本という地域は、ややこしい。戦国期までは、地元の菊池氏や阿蘇氏がうにょうにょやっていたり、戦国期末には「せいしょこさん」こと加藤清正が熊本藩の礎を固めることになるのだが、残念ながら加藤家は2代で途絶えてしまうことになる。

 そこで、近世の最初から幕末までは小倉から転勤してきた「細川氏」が熊本城に入るわけだが、ここにミソがある。

 細川氏を追えば、「大塚」に繋がる。なんとも不思議発見なミステリーだが、逆におしりから追いかければ、この面白さが伝わるのではないかと思う。


 以前に、宮本武蔵の「二天一流」の件を記事にしたことがあるが、宮本武蔵の剣術は傍流として柴任三左衛門を通して福岡藩に伝わり、福岡藩では「大塚氏」が二天一流を伝えたことは紹介済みである。

 ところが、宮本武蔵は、晩年は肥後熊本藩にいて、そこで 本流として二天一流を弟子に伝達している。その本流にも「大塚氏」がいたらしいのだ。

 まずは、NPO法人 二天一流武蔵会 さんのサイトを見てみよう。
 http://musashikai.jp/index.html
 
  武蔵の業績などについていろいろ説明してくださっているが、その中に、二天一流の流派系統図がある。

 http://musashikai.jp/content02/denkeizu.pdf

 ↑をじっくり見て欲しい。

 福岡藩の柴任三左衛門は、左端の系統にいる。宮本武蔵の本名は新免武蔵なので、真ん中の筋がいわば肥後熊本系なのだが、この系列の中に「大塚氏」がいることがわかる。


★参考★
 ちなみに、武蔵の実の父親はよくわかっておらず、新免氏(新免無二もしくは宮本無二)に養子に行ったらしい。新免氏は赤松支流で、 美作を地盤とする。


 この肥後熊本の「大塚氏」は何者なのか?!が今回のテーマである。長くなりそうなので、謎解き編は

 まて次回!!!

 

 
 
 





 

2014年1月2日木曜日

<25>【6】大塚氏の源流か?!赤穂大塚古墳とその周辺

 さて、これまで有馬氏との関わりで見れば、三木周辺の「大塚」にまつわる地名が怪しいと思っていたのだが、ここへ来てもう一箇所、「なんだか匂いがプンプンする!」という場所が見つかった。

 三木の問題点は、室町時代には既に成立していたはずの「大塚姓」との接点があまりなく、むしろ戦国時代から安土桃山時代周辺の「江戸期に近い」時期に話が集中しているところがマズいのである。

 ああ、マズい!たしかにマズいのだ。

 有馬氏だけを見ていれば、有馬-大塚ラインの接点は美嚢郡(三木)ということになるが、小寺氏との関係ではそうはいかない。

 そして、今後さらに新発見に繋がるのだが、実は「大塚氏」は有馬氏や小寺氏だけでなく「細川氏」とも関係が出てくるので、ますます話がおかしくなるのである。


 ★↑細川氏との怪しい関係については、次回以降を待て!!★


 というわけで、僕が勝手に推測した仮説はこうだ。

 大塚氏は、赤松と血縁があろうがなかろうが、もっと初期に赤松本家と接点があるに違いない。だとすれば、赤松氏が起こったのは播磨国佐用荘赤松村だから、もっともっと西側ということになる。

 赤松氏は、西側からどんどん東へ勢力を伸ばし、(ああ、ついでにより西側の岡山県側にも進出していっ)たわけだから、初期に赤松との接点があるとすれば、佐用の近くではないか?!と考えることができる。

 旧播磨国の群割りは、ウィキペディアを参照してほしい。

 


http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a3/Harima_province_rough_map.PNG


引用元 ウィキペディア 

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a3/Harima_province_rough_map.PNG


 佐用(作用)郡は、播磨の西のはしっこである。大塚重太夫や大塚将監のいた姫路市は、飾磨郡、そして、有馬氏の美嚢郡は東のはしっこに当たる。

  中世から近世への、時代の流れと、赤松氏と大塚氏の関係性は、もしや西から東へ、という

進撃の・・・・!

ルートなのではないか?!(←このネタは、無理矢理です)


==========

 そこで、気になるのが赤穂の「尾崎大塚古墳」である。

 ふたたび「古墳」さんのサイトから見てみよう。

 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/4702/ozakiootuka.html

 「尾崎大塚古墳」そのものは、↑で紹介されているとおりの石室の残る「古墳」である。


 踏査にいこう! さんのサイトにもレポートがあったので、ご紹介。

 http://shashino.blog.fc2.com/blog-entry-13.html

 
 さて、古墳自体については、前回と同じく「古墳時代の遺跡」に過ぎないので直接的にここから「大塚氏」につなげるのは難しい。

 しかし、実はこの一帯「大塚海岸」として現在も地名に大塚が残っているという。怪しいではないか!

 尾崎大塚古墳の位置は、yahoo!地図さんによると

 http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?lat=34.74320609&lon=134.41907110&ac=28212&az=9&z=16&id=&fa=pa&ei=utf8&p=%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E8%B5%A4%E7%A9%82%E5%B8%82%E5%B0%BE%E5%B4%8E

である。

 その南、野外活動センターのあたりが「大塚海岸」と呼ばれているらしい。

 そりゃまあ、そうだ。大塚=古墳の近くの海岸なのだから。

 
 さて、この尾崎には天台宗の寺が2つある。ひとつは、聖徳太子によって開かれたという「普門寺」だが、寺の由緒によれば、もともとはこの地にあったわけではないらしい。

 明王山 普門寺さん のサイトより

 http://www.e-ako.sakura.ne.jp/fumonji/contents/03_yuisyo_00.html

 
 もうひとつは如来寺というが、こちらは赤穂八幡宮の神宮寺としてスタートしている。

 赤穂市観光 さんのサイトより

 http://www.hyoutabi.com/akou/nyorai.html

 この赤穂八幡もここにあったわけではなく、赤穂市さんのサイトによると、「1406年に銭戸島から移された」とされている。

 赤穂市 さんのサイトより

http://www.city.ako.lg.jp/kensetsu/kankou/shisetsu/kanko/hachimangu.html


 うーん、三木の時のように、ズバッと物的証拠があるわけではない感じですっきりしない。少なくとも、1406年で足利義満の時代なので、近いようで、逆に赤松氏は既にバリバリ現役なのでずれているような気もする。

 赤松最大の功労者、円心が1350年に死んでいるので、個人的には大塚氏との接点は1400年よりもう少し早い気もするのである。

 

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 しかし、もう一つ気がかりなことがある。それは当ブログでもちょくちょく触れているが、抱き茗荷=摩多羅神=秦氏という関係が成り立つとすれば、この「赤穂尾崎」地区の東隣の海岸は「坂越(さこし)」地区といって、なんと秦氏の元祖「秦河勝」が没した地として有名なのである。

 これは単なる偶然であろうか?!


 播磨国の秦氏系の痕跡は、この坂越を中心に広がっている。学者によっては、赤松氏そのものが実は「秦氏」の末裔で、この地区での秦氏の広がりと赤松氏の広がりが連動している、という説を唱える人もいるらしい。

 また、赤松氏が秦氏でなかったとしても、この地区の秦氏の力を借りて、あるいは巻き込んで赤松氏が播磨一帯に進出していった、という説もある。

 天台宗寺院、という物理的な痕跡はちょっと物足りないが、秦氏との関係で言えば、「赤穂尾崎大塚」は、かなりいい線をいっているようにも思える。


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 まとめると、赤穂を巡る「大塚氏」の仮説は3つである。


① 赤松氏は、秦氏であり、佐用から赤穂一帯にまず勢力を伸ばした。大塚氏は、そのうち赤穂を中心に活動した支流であり、赤松本家とともに、播磨中心部へと進んでいった。
(赤松も大塚も秦氏説)

② 赤松氏は、佐用から起こり、西播磨の秦氏の力を借りながら東へ進んでいった。そのときに、秦氏のうち赤穂に住んでいた地元の豪族と合流し、その子孫が元の土地「大塚」を名乗った。
(大塚だけ秦氏説)
 
③ 赤松氏は佐用から起こり、少しずつ東へ進んで土地を治めていった。そのうち赤穂に一時定着した者が「大塚」姓を名乗ったが、赤松本家とともに、さらに播磨中央部へ進んだ。大塚の地で、秦氏との接触があり、天台信仰を得て抱き茗荷紋を用いた。
(赤松氏、大塚氏とも秦氏ではない説)

 さあ、事実はいったいどれなのか?!・・・・・・わからん!!!


 




<24>【4】【5】加古川に残る2つの「大塚」古墳

 播磨の国に残る「大塚」の地名的考察を続けている最中だが、加古川市にも2つほど「大塚」に関する地名的遺跡が残っているので調べておくことにする。

 まずは、「宮山大塚古墳」 なるものがあるという。

 ウィキペディアさんより 宮山遺跡
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E5%B1%B1%E9%81%BA%E8%B7%A1

 前方後円墳「宮山大塚古墳」は直径40mのまあ、それなりのサイズの古墳である。その周囲に小さい古墳がいくつかあるそうで、古墳時代の葬送地なんだろうなあ、というぐらい。

 考古学に詳しい方が調べてみても、あまりたいしたデータがないそうである。


 まぁ坊の思いつくまま考古学日記 さんのブログより
 http://blog.livedoor.jp/marbow_archeo/archives/51877892.html

 プロのまぁ坊さんからみても難しい古墳なので、素人の僕なんかでは手も足もでません(^^;

 このあたり一帯は他にも古墳群がたくさんあるので、いわゆる古墳時代に栄えていたんだろうなあ、と思うが、そこから室町期前後にはちょっと飛びすぎかな。



 おなじく、近くにあるのが、「日岡古墳群」で、ここは現在、日岡山公園という公園になっているらしい。

 大きいのが宮内庁管轄の「日岡陵」で、景行天皇の奥さんが祀られているらしい。


ウィキペディアさんより http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%B2%A1%E9%99%B5


 この地には、日岡陵の他にいくつかの古墳があるのだが、 「南大塚」「北大塚」「西大塚」古墳という、まあ「大塚」な名前がついている(苦笑)

 古墳 さんのサイトより
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/4702/hioka.html

 ↑上の方が詳細な現地レポを上げてくださっているのだが、やっぱりそれ以上のことはわからないよなあ、という率直な感想。

 
 いずれの遺跡についても言えるのだが、さすがに古墳時代に目を向けると、文書としての記録がないものだから、平安末期以降に武家に一般化した「苗字・姓氏」と結びつけるのが難しい。


 というわけで、もやもやした気持ちだけが残ったまま、「加古川」地域については保留、ということになってしまった。

 

<23>【3】但馬と大塚のそこはかとない関係

 大塚、の地名は実は但馬にもあり、現在の養父市大塚がその地である。


yahoo!地図 さんより
 http://maps.loco.yahoo.co.jp/maps?ei=UTF-8&type=scroll&mode=map&lon=134.82299838&lat=35.37700415&p=%E5%85%B5%E5%BA%AB%E7%9C%8C%E9%A4%8A%E7%88%B6%E5%B8%82%E5%A4%A7%E5%A1%9A&z=16&layer=pa&v=3&ac=28222&az=009



 古くは「大塚庄」だったらしく、

 丹ものがたり さんのサイトには面白い話が伝わっていることが書いてある。

 http://sakezo.web.fc2.com/sengoku2.html




 記事によると、竹田赤松氏の家老が養父大塚庄を領地としてもらった、とのことなので、やっぱりここにも赤松氏が登場!というわけだ。

 竹田赤松氏の竹田とは、グーグルさんのCMでも有名になったあの「天空の城ラピュ・・・竹田城のことに他ならない。

  もともと、竹田城は山名宗全によって築城され、その部下太田垣氏が治めることになるのだが、この但馬山名・太田垣氏と播磨赤松氏は、室町期から戦国期までガチンコでぶつかりまくるようになる。

 そりゃそのはずで、播磨と但馬は南北で隣同士なので、勢力争いが起きて当たり前。その結果、一時は赤松側がやられたり、やり返したりして、結局また案の上いろいろあって、秀吉が登場(笑)。織田軍は最終的に秀吉の弟が竹田城を落とすことに成功したわけで。

 
 で、結局竹田城最後の城主は、赤松氏になるのだが、関が原の合戦の結果、家康は「はい、廃城!」との命令を下して現代に至る、というわけ。



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 もちろん、山名氏も赤松氏とおなじく室町幕府四天王の一人であるから、この地域に早くから「大塚」が起こって山名氏にくっつき、その後赤松氏にくっついた、という仮説も作れないわけではないが、室町期~江戸初期までずっと記録的に「赤松-大塚」ラインのほうが多い(強い)ので、やっぱり但馬系大塚説は無理があるような気がする。

 というわけでこの地については、いちおうチェックだけしてまた検討、ということで済ませておこう。

 


  

2014年1月1日水曜日

<特別編>姫路城に行ってきました。

 新年、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします!


 いつもは赤松氏と大塚氏について語りまくっている当ブログですが、今日は特別編です。

 というわけで、元日無料公開の「姫路城」へ行ってきました。

 

 姫路城には何度も行っているのですが、あまりに人が多かったので今まで「天空の白鷺」に入ったことがありませんでした。ところが、いよいよ屋根の上の公開も1月半ばまで、ということで、閉まる前にいかなあかん!と


元旦に朝のオープンを狙って


突入して参りました!

 それでも、前に800人くらいいて、1時間は軽く待たされました(苦笑) 平常時は2時間半くらい待たされるので、まだましかな・・・・・・。



 はい!これがてっぺんの様子です。既に工事は終了しているので、じっくりゆっくり見ることができます。銀色の瓦と白い漆喰が美しい!

 この姫路城、わが大塚一族にとっても、無関係というわけではなさそうです。何といっても、初代砦を築いたのは赤松氏で、次に姫路城の城郭としての基礎を作ったのは小寺氏-黒田官兵衛だそうですから、赤松の城といっても過言ではありません(笑)←過言。

 今の姫路城としての完成形を作ったのはその後姫路に入った池田氏ですので、そこからは赤松系の手を離れますが、やはり播磨には赤松の遺構がたくさんありますね。


 さてこの姫路城、今でこそ国内最大級の城として親しまれているものの、三木合戦の頃までは、播磨には

「御着城」(小寺氏)

「三木城」(別所氏)

「英賀城」(三木氏)

という播磨三大城なるものが大きく、本来姫路城の方が先に作られているものの、姫路城は御着城の支城扱いだったそうです。

  小寺家臣の黒田氏が、姫路城を守るのもこのためで、メインは御着城、サブが姫路城、という感じですね。


 最終的に、播磨の各城が秀吉方に負けて滅びてしまうわけですが、その時点で官兵衛ちゃんが、秀吉に姫路城をプレゼントして、秀吉によって姫路は播磨の中心地域に整備されていく、というわけだそうで。

 姫路城はいつ行っても面白いので、ぜひ一度遊びに行ってみてください!