2014年4月30日水曜日

<57>”侍”以外の大塚氏の調査

 姓氏調査をするときに、先祖に士分(侍)がいると「苗字」が残っているために調べ易いのだが、これが侍以外だと、苗字が公的記録に残っていないことが多いので調査にワンクッション必要になる場合が多い。

 ところが、一般的には「侍以外は苗字を持っていない」というイメージが浸透していると思うが、実はそんなことはなく、「侍以外は苗字を公に提示できない」というだけで、それぞれの家に苗字が実際はあることが多い。

 苗字・帯刀とは侍の「権利」であり、


 苗字を名乗ることが許されている

 刀を持つことが許されている


という許可の話であって、それぞれの家に「苗字がない」というのとは根本的に異なることを覚えておきたい。


 江戸期の資料を見ていると、その時点では町民や農民であっても、実は苗字を持っていて、さらになんらかの事情でそれを公にすることを許されている者もたくさんいる。

 今回は、そのあたりの「大塚氏」の事情が垣間見える資料をご紹介してみよう。


 豊津県、というのは明治の廃藩置県の際に短い間置かれていた小さな県だが、その後小倉県を経て福岡県に編入されている。

 というわけで、今回の資料も広い意味での福岡大塚氏の由来を示すものである。



 近代デジタルライブラリより 福岡県史資料 第4輯



 この中に「明治四年豊津県町家帯刀之者言上書」というのが収められていて、いわゆる明治初期に「苗字帯刀を許された士分以外の者」の説明がなされている。


 コマ数で言えば336コマにこんな記載がある。


「木城村 大塚孫造 嘉永6年に金5両献金、上下御免・・・(以下役職など)」


 この大塚氏は、藩に対する金銭的貢献によって、上下すなわち「裃(かみしも)」を着用することを許可された、というわけである。

 
 この文書をよく読んでいくと「一代苗字御免」とか「一代苗字帯刀」なんて記載も出てくるので、こうした「何がしかの理由で名字帯刀が許された者」には、「一代限り」の許可もあったことを学ぶことができる。

 
 残念ながら当文書における大塚氏は上の記載のみなので、それ以上の詳細がわかるところではないが、しかしながら、こうした記載があることで江戸期における福岡大塚氏には「士分」を持つ者、「町民」など、あるいは帰農している者など、封建的身分の上で多様な形態をとっていたことが推測できるのである。


 
 

2014年4月29日火曜日

<56>久留米藩竹ノ間組大塚氏の動向を探る

 実に面白い。


 久留米藩大塚氏と日田地方の関わりを探るうちに、面白い情報を発見した。そう。あの天領日田岡田代官に仕え、のち久留米藩竹の間組格となった大塚氏の動向である。

 
 軽くおさらい

 <41>わがままは男の罪。そのとーり!
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/02/blog-post_19.html


 
 久留米藩の系譜では、竹の間組大塚氏は「大塚伸右衛門」からはじまる。彼は日田生まれで、岡田代官から久留米藩に移動して仕えたことになっている。

 ところがこの人物、なかなかの実務派だったと見え、調べるうちに面白い動きをしていることがわかってきた。


 まず、いつものように、まずは近代デジタルライブラリを読もう。


 近代デジタルライブラリより 天草富岡回顧録
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1208334


 この本は基本的に天草・島原の話が書いてあるのだが、コマ数で言うと73コマに、天草が日田の管轄下にあった時期の事情が載っている。

 
 概要はこうだ。

 明和5年に、天草地方は島原城主の手を離れて、天領日田の管轄になる。そこから天明3年までの16年間、日田郡代揖斐十太夫の管理下におかれるのだが、事務引継ぎのため、実務者として「大塚伸右衛門」ら3名が島原へ出向、管理手続きの引継ぎを行った、というのである。


 そしてそのまま大塚伸右衛門は「元締」という立場で、島原を統括していたらしい。


 こうして考えると、大塚伸右衛門は、かなりバリバリな官僚であったと想像できる。日田代官の右腕から、島原統括、そして久留米藩へ転勤してからは奏者番的立場、であるから事務屋としての彼の能力の高さが伺えるというものである。


 そして、日田における「大塚伸右衛門」の名前は、歴史通には知られているらしい。それを裏付ける資料をもうひとつ発見した。


 創作童話「土に蘇る」 関美代子さんの小説から

 (日田に関するサイトを運営なさっている方のページより紹介)
 http://www.hita.ne.jp/~city/dowaok/seki/sk12-4.htm


  この資料はフィクションである。しかし、歴史小説の体裁を取っている為、それなりの資料に基づいて執筆が行われていると思われる。

 この物語では、大塚伸右衛門は、悪代官「岡田庄太夫」の右腕として描かれている。


 実は先に出てきた揖斐十太夫は、岡田庄太夫の2男であるらしい。


 ということは、フィクションということを前提にしても、大塚伸右衛門は、岡田庄太夫・岡田九郎左衛門・揖斐十太夫の3人に仕えているということが想像できる。


 このおそらく日田において歴史上一番濃い時代を過ごしている大塚氏伸右衛門が何ゆえに久留米藩に移ったのかは、興味深いところだが、まだその事情がわかる資料には行き当たっていない。


 というわけで、日田の大塚さん!何かご存知のことがあればご連絡くださいませ!


 

2014年4月28日月曜日

<調査中>左三つ巴大塚氏の新情報

 これまで2回当ブログにて取り上げている「左三つ巴」の大塚さんについて、新しい情報を頂きましたので、追加部分をまとめてゆきたいと思います。


 まずは、これまでのおさらい。


 【1回目】 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_21.html


 【2回目】 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/03/blog-post_4587.html



 特に2回目のほうで、現在茨城在住の大塚氏と郡上八幡井上氏の関わりについてざっと考察したのですが、さらに詳しい情報をいただきましたのでご紹介しておきます。


 郡上八幡藩の藩主だった井上正任は「茨城県笠間城主」から「岐阜県郡上八幡城主」へやってきて、「京都府亀山城主」に出てゆきます。

 そのため、茨城県と岐阜県の移動の状況でこんがらがっていたのですが、大塚さんからの情報ですっきり解決!しました。


 新情報は、井上正任の息子のお話。



 ウィキペディアより 井上正長(正任の3男)
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%AD%A3%E9%95%B7


 つまり、こういうことです。井上氏は「茨城県笠間城主」から「岐阜県郡上八幡城主」へやってきて、お父さんは亀岡に異動になったが、息子はその後の経緯で「茨城県下妻藩主」になった、ということになります。


 この流れがわかったことで、織田家臣の大塚氏が茨城へ移るという説が矛盾なく成立することになりますね。


 
 ちなみに織田氏に仕えていた大塚氏については、現在鋭意調査中です。これもまた別立てで紹介しようと思っていますが、今しばらくお待ちくださいませ。




2014年4月27日日曜日

<話題><55?>村上水軍の娘と村上水軍の子孫

 こんばんは

 BSバージョンの軍師官兵衛を見終えてこのブログを書いておりますが、総合TVバージョンは現在放映の真っ最中です。


 今日のお話は、上月城の戦いパート2でございまして、今回をもって尼子氏が滅亡します。

 
 尼子氏といえば、姫路打越地区の大塚氏の元の主であり、当時まさにお隣の書写山に秀吉が陣を張っているわけで、さあこの頃姫路大塚氏はいったいどうしていたのか気になるところ。

 ずっと当ブログでは後藤又兵衛系香寺大塚氏と尼子系打越大塚氏の動向を追いかけていますので、「軍師官兵衛」は毎回ワクワクドキドキでございます。


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 それはさておき、今回はyahoo!ニュースにこんな面白いことが載っていました。


 『<村上水軍>3家系当主、400年ぶりに結集』
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140427-00000011-mai-soci
 

 村上水軍ですよ村上水軍! 

 日本の海賊といえば村上氏!ルフィの大先輩です(笑)


 今年の本屋大賞に選ばれたのが、あの「のぼうの城」の作者和田竜さんの「村上水軍の娘」です。

 早く読みたいのですが、まだ読んでません。イパネマの娘でもなく、イグアナの娘でもなく、男の娘でもなく、なんといっても村上水軍の娘ですから!


 さて、しょーもないことは置いといて、村上氏というのは、いろいろ不確定ではありながら


 村上源氏の末裔(諸説のうち一つ)


ということになっています。

 その村上源氏の末裔が、あんなこんな経緯で瀬戸内海の島々を拠点に水軍として活動したのが「村上水軍」で、記事にもあるとおり3家に分かれてしまいます。

ウィキペディアより 村上水軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E4%B8%8A%E6%B0%B4%E8%BB%8D


『能島村上氏』・・・小早川氏につく。鶴見辰吾の家来だと覚えてね!

『因島村上氏』・・・毛利について毛利水軍の一角を成す。官兵衛ちゃんの敵!

『来島村上氏』・・・早くから秀吉方に下り、慶長6年には豊後「森藩」成立。


 さあ、ここから面白いのは、なんと来島村上氏は、早くから豊後日田地域を治めているのです。

(ただし、日田はのちに天領)

 ということは、村上源氏→日田→となるとどこかで聞いたようなお話。

  まさか、村上源氏大塚氏が、来島村上水軍経由で日田に入りそこから久留米藩へ、なんてルートはさすがに荒唐無稽な推測なんだか、どうなんだか。



 それにしても、次から次へとミステリーがとまらない戦国時代。和田竜さんのように、この時代と大塚氏をテーマにした小説をぜひ書いてみたいものです。


 実は当ブログの執筆者、大塚某は、まーったく無関係の別名で作家として「プチ全国デビュー」しております。ほんとうにプチです。ちょびっと。


 大塚某の小説を読みたい、という奇人変人がおられましたら、


 samurai_otsuka@yahoo.co.jp


 まで「小説希望」というタイトルでメールください。折り返し、どんな名前で書いているのかをこっそりお教えします。ついでに当ブログのご感想をいただけると大変助かります。






2014年4月25日金曜日

<54>久留米城図を読む 続編新資料!

 もうかなり前であるが、久留米城下の家臣の屋敷図を読んだことがある。

 
 <35>久留米城図を読む
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/02/blog-post_5.html


  この時は「久留米市誌」の別冊資料の中の久留米城下図をもとに、家臣の「大塚氏」の居宅を探して2氏発見したのだが、今回はもうひとつ比較資料を用意してみた。


 今回取り上げる資料は、前回より古い時代のものである。前回の地図が「天保年間」のものであるのに対して、今回のは「元禄」時代のものであるので、ざっくり140年前後は古いということになる。


 ちなみに、前回の地図はここ。

 近代デジタルライブラリ 「久留米市誌 別冊」
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209649



 今回は、おなじ近代デジタルライブラリより 「久留米小史」を見てみよう。


 近代デジタルライブラリ 「久留米小史」 巻之1-2
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766615


 コマ数は17~19コマ、前回のものよりかなり読みにくいが頑張って見てほしい。


 さあ、ここから面白いことが判明する。



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 まず、天保年間に竹ノ間組格と思われる「大塚氏」の屋敷場所を元禄年間の地図で見ると、名前がまったく異なっていることがわかる。

 つまり、元禄時代には竹ノ間組大塚氏はいない、ということである。

 ちなみに、天保年間の屋敷の並びは「大塚」「中村」「吉田」「榊」「松岡」だが、元禄年間にはおなじ場所は「藤野」「谷田」「吉田」「岡田」「豊前下屋敷」となっている。

(吉田家のみ変わっていないと考えられるが・・・)


 このことは、久留米藩の略系譜ともつじつまが合う。大塚平十郎に代表される竹ノ間組大塚氏の家柄は、系譜上では「天領日田代官に仕え、そののち久留米藩に来た」ことになっている。


 石高こそ300石で多いのは「それなりの待遇でやってきた」ということになろうか。


 
 さて、もう一方の中小姓格と思われる大塚氏についてだが、こちらは元禄と天保で実際の居宅の位置は異なるものの「もう、すぐそこ、目と鼻の先」くらいの場所に引っ越していることがわかる。


 ということは、このクラスの大塚氏は、元禄から天保までほぼ同格で続いていると見ることができるわけだ。


 元禄年間の地図から読み取れる大塚氏は、この1氏のみである。かなり文字が読みづらいのでもしかしたら見落としがあるかもしれないが、もし読者諸君の中で発見した方があれば、ぜひお知らせいただきたい。



 この調査でわかったことは「そりゃ140年もの間があいているのだから、けっこう住所が変わってるわな」ということである。


 いくら封建社会・身分固定とはいえ、藩士の状況は「意外に流動的」と見るほうが正しい。


 特に城下町の藩士の家ほど「転居が激しい」と思わざるを得ない。田舎の農家のほうが、よっぽど同じ土地に住み続けているように思われる。


 

2014年4月24日木曜日

<53-2>宮本武蔵と大塚氏 後編

 宮本武蔵は謎の人である。


 もちろん、おそらく日本史上最強かつ最も有名な剣豪・剣術家であることは言うまでもなく、たぶん木村拓哉や萬屋錦之助には似ていなかっただろうと思われるが、それでも武蔵は謎の人と言わざるを得ない。



 ウィキペディアより 宮本武蔵
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%9C%AC%E6%AD%A6%E8%94%B5


 
 ところが、これまた不思議なことに日本人のほとんどが「宮本武蔵」のことを良く知っていて、巌流島で佐々木小次郎と対決をして、武蔵が遅れてやってきたとか、小次郎が秘剣「つばめ返し」のワザで戦ったけれど、舟の櫂を両手に持った武蔵にやられたとか、いろんなことが有名になりすぎている。


 ところが、実際のところ武蔵は小次郎との戦いに勝ったものの、


 そもそも遅刻してない


とか


 起き上がった小次郎を隠れていた武蔵の弟子たちがフルボッコにして殺害した


とか、


 ところで、佐々木小次郎って誰?

 
とか、それはもういろんなツッコミどころがあるのだ。


 詳しいことは、それこそネットに山ほど情報が転がっているので、ぜひそうしたサイトを読みながら「へえ、ほお、ふうん」と驚いていただきたい。

 
 とにもかくにも、講談や吉川英治の小説で有名になってしまった「虚構の宮本武蔵像」が一人歩きしている中で、真実を探るのは面白いものである。


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 さて、福岡黒田藩の分限帳に戻る。


 なぜ、慶長分限帳が、宮本武蔵研究において「興味深い」「意義深い」存在なのかといえば、前回紹介したように

「新免無二」

なる人物が記載されているからである。


 そして宮本武蔵は「五輪書」の中で、自分のことを

「生まれた国は播磨」「新免武蔵守藤原玄信」

と書いている。

 つまり、新免無二は新免玄信の父であり、ついでに武蔵は藤原氏流だということである。


 しかし、話はここからさらにややこしくなり、「新免無二」は実父説、あるいは養父説、はたまた「新免無二とは宮本無二説」、など、枚挙にいとまがないくらい実態が不明なのである。


 となると、さらに、新免無二が黒田家に仕えていることをもって、「武蔵と父の無二が戦国期に官兵衛の下で戦っていたと」いう説もあれば、「いやいや、途絶えた新免家を継いだだけで無二と武蔵は出会ってもいない」説まで、楽しすぎる展開となっている。


 詳しい検証は、


 宮本武蔵 さんのサイト
 http://www.geocities.jp/themusasi1/


 を参考にしてほしい。


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 何はともあれ、とりあえず新免無二は黒田藩において「大塚氏」と顔くらいは見知った同僚(←推測)だったのだが、歴史は下って宮本武蔵と大塚氏のそこはかとない関係はいっそう香ばしくなってゆく。




 新免無二は、姫路から黒田家に従って九州へ移るのだが、武蔵はいったん姫路へ戻っているらしい。それから10代・20代と武蔵は決闘三昧であり、当初は播磨、のちに全国を廻って対決をしていた、ということになる。


 20代を決闘で過ごした武蔵は30代になると「卒業」し、弟子に教えるなどの「新しい生活」に入ったのだが、その中で30代半ばには姫路城主「本多氏」に仕えて播磨にて「宮本家」を創設したという。

 よって、この頃までは武蔵はあくまでも「新免さん」である。



 40代頃、養子の伊織が小笠原氏の家老職となり、小笠原氏が豊前小倉に転封になると、子供にくっついて再び九州入り、50代には肥後細川藩の客分として熊本入り、60代に熊本にて死去、という流れである。


 
 こうして概観すると、やはり武蔵も面白いように「九州と播磨」を行き来しながら生きていることがわかる。
 
 
 特に肥後において武蔵の流派は、2代「寺尾孫之允」、3代「柴任三左衛門」へと伝達されるのだが、柴任はのちに肥後細川藩をやめて福岡藩に移り、そこで「大塚氏」が柴任の弟子として武蔵の兵法を受け継いでいった、という話は前にもしたことがあると思う。

 
 詳しいことは<26>謎は熊本にあり、の記事を参照のこと。

 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_4.html



  というわけで、ここから先は新しい情報はないので、この節おわり!
 



2014年4月23日水曜日

<おまけ>先祖探しとは 大塚某の気持ち

 調査結果についていろいろと書きたいこともあるのですが、今回はちょっと小休止をして


「先祖探し」「ルーツ探し」とは何か、ということを私なりに考えてまとめておきたいと思います。


 自分の先祖を探るということには、いろんな意味でマイナスの要素を感じる人たちがいます。

 たとえば、


 ■ 江戸時代の身分制度のことをどうしても避けては通れないので、差別に関わることになる。


 とか、


 ■ 自分の先祖のことで負の側面を知ってしまうのではないか、と恐れる。(妾の子だったとか、何かやらかしていたことを見つけたとか)


 とか、知ることによって「掘り返さなくてもいいものを」見つけてしまうことを恐れる人たちがいるのも事実でしょう。


 逆に、これまた同じ意味で


 ■ うちはその昔家老の家系だった。うちは大庄屋だった。


など、かつての身分制度のことを少し自慢に思う、というヒトの嫌な側面もあることでしょう。


 あるいは、


 ■ 自分の家系に戦国武将や有名人がいるのではないか?


という期待を持つ、などちょっと「やらしい」気持ちが生まれてくることもあると思います。




==========



 しかし、こうした気持ちや考え方は、「先祖探しとまともに向き合っていない」間のほうが、誤った気持ちになりやすいものである、とも言えます。



 先祖探しが進むに連れて、そうした表面的なプラスやマイナスの感情は、いっそう削ぎ落とされて真摯なものへと変化してゆきます。



 真面目に日本の歴史をたどっていけば、江戸時代の一時期に「士農工商それ以外」の身分制度があったことは事実ですが、それより前には、身分が未分化の時代もしっかりあるわけで、

 「武士だったが帰農した」人もいれば、「農民だったが武家になった」人もいるし、「商人だったが武士格を金で買った」ものもいるし、「先祖は武士だったが、子孫は農民になった」人だってたくさんいるわけで、


身分というのは長い家系の歴史の一瞬を切り取った時のいち側面に過ぎない


ことがわかってきます。


 そうすると、明治のある時期に一瞬だけついたラベルである「わしは士族の末裔だもんね」ということで自慢するに値しないし、逆に封建社会のどんな身分であっても、一切恥じることはないということもわかってくるはずです。


 たとえば、今回、このブログでも途中に出てきますが、「秦氏」という士族は大陸からの渡来人の子孫であることがわかっています。

 彼らは当時の日本人に最新の文化を伝えた尊敬すべき外国人ですが、その同じ国々から最近来た人たちを嫌う風潮がこの国にあるのも事実で、私はとても悲しいことだと思います。



 たとえば、日本の近代において「皮革製品」を扱った人たちは差別されてきた歴史がありますが、そうした人たちは戦国期においては「武具・馬具」を製造する重要な軍需職人であるため、同時に武将たちから違う意味で保護されてきた対象でもありました。


 ある特定の時期の身分は、ほんとうに歴史の流れの渦の中の一瞬の姿であり、「差別するものも、差別されるものも」時代背景や宗教的背景や、社会情勢の中で


 翻弄されてきたわが先祖たち、日本のかつての人たちの必死のパッチの生き様


を表していると思えるわけです。


 封建社会の問題点は、そうした一瞬の身分をかなり長い間固定化してしまったことで、それ以前もそれ以後も、身分はかなり流動的でした。


 大正時代の資料などを見ていると、今度は新体制になって「突然金持ちになった人たち」が「どや、わしらはすごいやろう」とか「誰それは一代でここまでなったんじゃ」というギラギラした文章にたくさん出会います。


 それはそれで読んでいるとちょっと「引く」気持ちになるのですが(笑)、「ああ、これは封建社会から解放されたエネルギーなんだな」とも感じます。なにせ、それまで「武士ではない」身分だった人たちが、「経済的に勝ち組」になってゆくプロセスなのですから。

 
 このあたりは、現代の「正社員と非正社員問題」なんかにも通じるので、人間とはかくもしょーもない存在かと頭を痛めるところです。


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 まあ、そうしたいろいろな問題や事情を含んだ「先祖探し」でもありますが、私なりのテーマはひとつです。


 私はどこから来たのか、そしてどこへゆくのか


という人類の根源的哲学そのものでもあるのです。

 
 タイトルこそ「武家 大塚氏のルーツうんぬん」となっていますが、これはちょっとキャッチーなタイトルにしてしまっただけで(苦笑)、特に戦国武士は日本各地を転々とさせられているため、


 マジでうちはどこからやってきたの?


という単純な問いに帰着することができるのです。(その点、先祖代々の農家であれば、その土地に根ざしているからです)


 そもそもは、「寛政譜の抱き茗荷大塚氏が赤松流」という記載に端を発し、「ほんまにうちは姫路発なのか?あるいはその前は?」という素朴な疑問を解決するために始めたこのブログですが、えらいことにかなり大風呂敷になってきてしまっております(^^;


 そして、加えるなら全国の「大塚」さんのご先祖さまたちが、どんな思いで過ごし、どんな気持ちで「大塚」を名乗ったのかも知りたいと思っています。


 家紋についても同じです。どういう意図や由来があって、そうなっているのか。これはひとえに、先祖とその歴史について語り合いたいという気持ちそのものに他なりません。


 人類の歴史は霊長類を含めて1億年ともいわれます。


 どんな殺し合いや、どんな飢餓や、どんな災害があったかわかりませんが、とにかく


あなたもわたしも1億年の命のリレーでここに今生きていて、


これを書いたり読んだりしています。

 全ての人に平等に、1億年前からの先祖がいます。そしてそれは全て同じ「人類」であることは、間違いありません。


(ごめん、うちの先祖人類じゃないねん、というヒトがいたら、ぜひご連絡ください)


 ちょっと残念なことに「大塚」という姓は、DNAの血脈とは多少ずれてしまっていますが(家制度においてはほとんど全ての家に養子が入っているため)、それはさておいても


 生みの親と育ての親ではないですが、血の先祖と家の先祖のおかげで今がある


わけです。


 この1億年の命のリレーに参加する方法はたったひとつです。


 今晩、ベッドで頑張ってください!はあと。




 (せっかくいい話をしてたのに、オチはそれかい!)



★いやマジで、結局人類に与えられた使命は、子孫繁栄、五穀豊穣だけなんだなあ、と再実感する毎日です)



 

 




2014年4月21日月曜日

<53-1>宮本武蔵と大塚氏 前編

 少し前に入手した「福岡藩分限帳集成」であるが、その調査成果を全然書く暇がなかった。というわけで、小出しにしながら少しずつ読み解いていこうと思う。

 まず、これまでにブログに書いた仮説を押さえておくが、福岡藩分限帳集成に収録の大塚氏の家紋が、◇を5つ十字に集めたものであるため、これを久留米藩大塚氏の「家紋 碁石」と同一とするならば、

 福岡藩の大塚氏と久留米藩の大塚氏に同族がいる可能性がある


としたのは既出。



 というわけで、福岡藩の大塚氏についても「わが先祖にあるいは繋がる可能性あり」と仮押さえした上で調べている途中であるわけで。

 さて、「福岡藩分限帳集成」のうち、もっとも初期の分限帳である「慶長分限帳」に今回は着目したい。

この「慶長分限帳」はおおむね1596-1615の間の黒田長政(官兵衛の子)家臣を記載したものである。 補足として「慶長六年正月 中津より筑前へ御打ち入り(転封)の時の分限帳」という意味の語句が記されている。

 福岡藩黒田家初期の分限帳ということで、なかなか記載には興味深いものがある。


 まず、石高は大宰府天満宮の領地石高からはじまり、次に家臣の名簿が続く、


「井上九郎右衛門」(高橋一生)

「栗山四郎右衛門」(栗山大膳のおとんであり、濱田岳)

「母里太兵衛」(もこみち。料理が得意)

「後藤又兵衛」(塚本高史。まだ出てこない)


の順で書かれている名簿は、まさに「軍師官兵衛」でおなじみの面々であり、大塚氏としては、やはり

 後藤又兵衛の筑前入りと大塚氏(又兵衛のお兄ちゃんが大塚将監になるため)


の関係は、興味深いところである。 


 この分限帳における「大塚氏」は


「田代半七組 三百石 大塚久助」

「代官衆 百五十石  久助父 大塚久左衛門」


の2氏が載っている。


 問題は、この大塚氏が


A 播磨時代からの家臣で姫路からやってきた大塚氏なのか

B 中津で新たに召抱えられた九州大塚氏なのか


ということなのだが、これは現在調査中。


 考え方としても、二つに分かれる。

① 大塚久助が三百石なので、本家臣であり、その父は昔活躍していたが、第一線から引退させる意味で代官にしたという見方。


② 在地(中津)の実力者である大塚久左衛門が初期に取り立てられ、息子がさらにグレードアップしたという可能性。


 うーん、このあたりは単なる推測なので、正直わからないというのが正しいかも。


 印象的には、一代官にしては石高が多いような気がするので、(息子の半分とはいえ150石であれば、いわゆる上士であると思うので・・・)①のような気がするのだが。


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 さて、今日の本題。といっても前フリが長かったので、この節次回に続くのだが、とっかかりだけでも。

 この慶長分限帳には


「組遁 百石 武州師父 新免無二」


なる人物が載っていて、これが一部の歴史通には議論を巻き起こしているところである。


 そう、武州とは「武州玄信」ことあの宮本武蔵である。無二は宮本武蔵のおとんなのである!


 宮本武蔵のおとんと福岡藩大塚氏が同僚である、というこの事実。ここから武蔵と大塚家の不思議な縁が後の世まで続いてゆくことになるのだが、そのあたりは、



まて次回!





2014年4月19日土曜日

<52>名家「大塚家」は真実か?! ~福岡をめぐる新資料~

 先日も書いたところだが、特に九州北部における大塚氏のルーツについて、詳しく記載されている書物が少ないため、分布こそ多いものの、その出自については不明な点が多い。


 その中で福岡県の大塚氏について「そこはかとなくあっさりとした、しかしある意味濃い」資料を見つけたので紹介したい。

 
 この資料は、残念ながら我らが「三潴地方」のものではない。しかし、隣接区域であるため、調査対象としては十分に考慮したいところである。そう、この資料では「三池郡」が関わってくる。

 そもそも、明治4年に久留米県・三池県・柳川県が合併して「三潴県」ができたことからもわかるように、三潴地域と三池地域は密接に結びついている。

 現代の区分で言えば「大牟田市」と「みやま市」が相当するが、大牟田市こそ隣接は熊本県であるものの、みやま市地域は「八女市」や「柳川市」と隣接するなど三潴地域のほんとうのお隣さんである。


 ちなみに、江戸時代は「三池藩」が存在し、藩主は柳川藩と同族の「立花氏」である。


 ウィキペディアより 三池藩


 
 さて、いよいよ今回初登場の「三池大塚氏」の資料である。


 東洋成功軌範 (近代デジタルライブラリより)



   この本は、明治44年に中央教育社から出版された、なんというかまあ「えらい(笑)ひと」の本である。

 なんというか、我らが帝国日本において当代の偉い人の伝記についてまとめたというか、ざっくりといえば「ジョブズさんと孫さんと本田さんと井深さんと、それからそれから・・・」みたいな本だと思う。たぶん。きっと。


 そのため、考古学的資料としての価値はほとんどない(さらに笑)


 なので、「そこはかとなくあっさりとした」資料だと言わざるを得ないのだが、中身がこれまた苦笑してしまうほど「濃い」のである。


 その濃さは「どうや!この人たちはこんなに偉いんや!すごいやろ!」的なオーラに包まれているからで、その褒め具合たるや、「21世紀の日本のビジネスマン100選」を22世紀に読まされる的名面白さだといわざるを得ない。


 まあ、前置きはこれくらいにして、いよいよ読んでみよう。


 見よ!三池大塚氏の凄さを!感じてくれ!


 このスゴイ感じを味わってもらうために、今回全文意訳に挑戦している。(個人名一部伏字)

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 「医師 大塚K齋君」 

 二百年余り前からの名門の家であり、社会から篤く崇敬され、この人のすること、なすこと皆が慕う様子なのです。

 家祖である大塚源八郎さんは、万治元年に三池町に移り住み、莫大な財産を持っていて名声もあり、二代目の自悦さんは小さい時から医術が大好きで、一心に研究して同町に開業しました。

 それからの年月、大塚家は「医術」の家として歴代を重ね、実に8代続いています。

 K齋さんは、先代のK節さんの子として弘化2年に生まれ、明治4年に家督相続して医院を引き継がれました。明治17年には医師免許を取りヨーロッパから取り入れた「秘法」と長年の実績研究から独自の「神がかり的超医術」によって治療の手腕を発揮しています。

 遠くから噂を聞いて治療に訪れる人たちがごった返しており、足の踏み場もないほどです。

 流石は歴史ある医術の名家ですね!


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 ・・・・・・とにかくスゴイことがお分かりいただけたことと思う。

 大塚氏は名門であり、めっちゃお金持ちで医術は秘法で「神」レベル認定だそうである。


 さすがに恥ずかしいので、もう少し抑え目に書いてほしいものだが、まあ明治大正時代の記述はこんなもんである。ちょっとした医薬品のCMですら、「万病に効く」的な効能をかなり誇大に書くのが当たり前の時代なので、個人の業績を派手に書くことぐらいどうってことはない。


 しかし、「全く一切がっさい具体的証拠がない」上の記述であるが、


①大塚家を名家と捉えているらしい。そういう認識であることは事実。

②三池地方の医家として「大塚家」が一定の認識をされていることも事実。


だと思われる。ああ、できることならそのルーツについても言及して欲しかった!!




 ところで「大塚敬節」さんというこれはマジで素晴らしい医学界の有名人がおられるのだが、


 ウィキペディアより 大塚敬節


  こちらの大塚さんは高知であり、年代も合致しないことから関係ないと思われるのであるが、果たして調査中である。



  



2014年4月18日金曜日

<調査中>千葉県の大塚さん

 基本的に関東地方から北関東にかけて「大塚姓」はたくさん分布しているのですが、今回は千葉県の大塚さんについて少しだけ情報があったのでご紹介しておきます。

 
 現在東京で高級靴を取り扱っておられる「大塚製靴㈱」さんは皇室御用達の歴史ある靴メーカーさんですが、会社概要によるともともとは下総国佐倉藩士の家系とのこと。



 大塚製靴さんのサイトより
 http://www.otsuka-shoe.com/history/history.html



  さて、同家についてまたまた近代デジタルライブラリより興味深い資料がありました。



 「国家観念の喚起を翹望す」(近代デジタルライブラリより)
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1093192


  この文書にも大塚製靴さんの沿革についての記載がありますが、それによると、下総国佐倉藩において「大塚家」は宝蔵院流槍術の指南役であったことが記されています。


 ウィキペディアより 宝蔵院流槍術
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E8%94%B5%E9%99%A2%E6%B5%81%E6%A7%8D%E8%A1%93
 

 残念ながら佐倉藩に伝達されたこの槍術は、現代までは伝承されていないようです。



 佐倉藩家臣大塚氏については



 満開佐倉文庫 さんのサイトの家臣録
 http://park16.wakwak.com/~mankai/ji15.html



 におなじ大塚家の一族のみなさんの記録があります。

 
  その他佐倉藩士大塚氏としては、


 横見郡久保田村に見る佐倉藩飛地領の基礎的考察 髙木謙一 埼玉県立文書館
 http://www.monjo.spec.ed.jp/?action=common_download_main&upload_id=555



 に「大塚四郎三郎」をはじめとして記載があります。



 というわけで北関東の大塚さん家紋を教えてください!




2014年4月17日木曜日

<調査中><52>大分県の大塚さん

 九州地方に「大塚姓」が多い、それも特に九州の北半分(熊本から上)にたくさん見られることは周知の事実なのだが、それらの大塚姓の由来について言及されているデータが少ないのは奇妙なことだと思う。

 もちろん、私も限られた書物しかまだ見ていないので、どこかに隠れているだろうと思うのだが、それにしても分布の広さ、多さから考えても不思議なことである。


 九州の大塚姓のうち、ある程度由来がわかっているものに「日向国土持氏系列」の大塚氏がある。


 ウィキペディア 土持氏より
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E6%8C%81%E6%B0%8F


 この大塚氏は、系統を把握しやすい大塚さんだと思うが、それ以外の九州大塚氏は、ほとんどが漠然としていてルーツがはっきりしない。(なので困っているのだけれど)


 知ったような口をきけば「そりゃ、大塚は各地にそれぞれ別々に発生しているから、いろんな大塚さんがいるんじゃないの」で、済むんだけれど、本当にそれでいいのか?と個人的には思っている。


 いや、きっと何がしかの痕跡があるに違いない。


 福岡藩にも、久留米藩にも、柳川藩にも、熊本藩にも大塚氏は存在する、そしてポイントは

「それらの大塚氏は、もともと九州発生の大塚氏なのか、それともどこかから移って来た大塚氏なのか」

というところであり、それが当ブログの統一テーマであったりもするわけだ。


==========

 前置きが長くなったが、今日のテーマは「大分県」である。なので、<調査中><52>の併用区間でお届けしたい。


 現代の大塚姓分布を見ると、福岡県・熊本県・そして大分県にまとまった分布があることが「図面上」ではわかる。

 そして、これまでの当ブログの調査においても、「なんとなく大分県」なんとなくクリスタルではない)に絡みがありそうな話が既出している。


 たとえば、播磨の大塚将監の子孫が大分にいるらしいという伝承が、松本さんの「播州後藤氏の栄光」に出てくるし、久留米藩の略系譜のうち1氏は「天領日田代官に使えていた大塚氏」であり、もう1氏は「財津姓から始まる大塚氏」で、いずれも大分日田地方にゆかりがある。


 日田藩が天領になるあたりの概説は、すでにどこかでお話したと思うので割愛するが、「佐伯藩」の家臣に大塚姓を見つけたので報告をしたい。



 ウィキペディアより 佐伯藩
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E4%BC%AF%E8%97%A9


  戦国期以降の佐伯藩主「毛利氏」は毛利姓ではあるが、毛利元就で有名な中国地方の毛利氏では血縁ではなく、もともとは「森」姓である。


 この森氏、織田信長に仕えて明石に領地をもらっていたが、ただいま「軍師官兵衛」でやっているところの「毛利勢VS信長勢」と話が繋がってくる。

 毛利対信長の戦いは、三木城陥落の跡直接対決になるのか、と思いきや、信長が本能寺で殺害されることにより、最終的には「和解交渉」で終わることになるのはご存知の通り。

 その中で秀吉は、「中国大返し」なる一気に織田方へ引き返す行動を取るが、毛利との交渉で「人質」として渡されたのがこの「森高政」なのである。



 ウィキペディアより 毛利高政
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AF%9B%E5%88%A9%E9%AB%98%E6%94%BF


 
 ところが、大塚氏がいつの時点からの家臣なのかは全くもって不明なのだ。また例のごとく秀吉の中国攻めのあたりの話が出てきたので、播磨系大塚氏の可能性もなきにしもあらずではあるが、まあそこはあまりにひどい推論なので、自分でも信じてはいない。


 毛利高政の家臣に”財津三郎右衛門”の名が見えるので「ははあ、これは日田系の家臣だな」と想像できるくらいであるが、それ以上のものではない。


 あとはせめて、大分地方の大塚さんから話を聞いてもう少し情報を集めたいところである。


 というわけで、大分の大塚さん!家紋を教えてください!




2014年4月16日水曜日

<基礎資料>ご先祖さまの探し方 姓氏・家系・苗字の調べ方 姓氏家系辞書・辞典総覧

注意:今回の記事は、先祖探しのために皆さんが利用し易いようにまとめた目録のみです。

ご先祖様探し、苗字・名字の由来、ルーツ調査、家系調査などに利用できる資料の一覧です。



最終更新日 2014.6.21


★当目録は、姓氏調査のために使用できる各種辞典類・書物についてまとめたものである。

★当目録では各資料について、

 ①書名・発行者などの情報

 ②現在における入手・閲覧方法(特にWEB等)

を随時更新して記載してゆく。


==========


<辞典類 姓氏・苗字>

■ 『姓氏家系辞書』 太田亮 磯部甲陽堂1920


■ 『姓氏家系大辞典』3巻 太田亮 角川書店1963


 
■ 『新編姓氏家系辞書』 太田亮・丹羽基二 秋田書店1979


■ 『山口県姓氏家系大辞典』 角川書店1991


■ 『富山県姓氏家系大辞典』 角川書店1992


■ 『姓氏苗字事典』 丸山浩一 金園社1992


■ 『沖縄県姓氏家系大辞典』 角川書店1992


■ 『宮城県姓氏家系大辞典』 角川書店1994


■ 『鹿児島県姓氏家系大辞典』 角川書店1994


■ 『群馬県姓氏家系大辞典』 角川書店1995


■ 『静岡県姓氏家系大辞典』 角川書店1995


■ 『全国名字辞典』 森岡浩 東京堂出版1997


■ 『新編日本姓氏辞典』 千葉琢穂編 展望社1997


■ 日本の姓氏 大総鑑』 日正出版1997


■ 『神奈川県姓氏家系大辞典』 角川書店1998


■ 『日本名字家系大事典』 森岡浩 東京堂出版2002


■ 『姓氏家系大事典』 丹羽基二 新人物往来社2002


■ 『日本家系系図大事典』 奥富敬之 東京堂出版2008


■ 『全国名字大辞典』 森岡浩 東京堂出版2011


■ 『苗字辞典』 新藤正則 湘南社2011


■ 





<辞典類 家紋>


■ 『家紋大図鑑』 丹羽基二 秋田書店1971


■ 『上州の苗字と家紋』 萩原進編 上毛新聞社1979


■ 『日本家紋総覧』 能坂利雄 新人物往来社1990


■ 『姓氏・地名・家紋総合辞典』 丹羽基二 新人物往来社1990


■ 『家紋でたどるあなたの家系』 千鹿野茂 八木書店1995


■ 『続家紋でたどるあなたの家系』 千鹿野茂 八木書店1998


■ 『日本家紋総鑑』 千鹿野茂 角川書店1993


■ 『家紋大全5116紋』 本田總一郎 梧桐書院2004


■ 『家紋の事典』 高澤等・千鹿野茂 東京堂出版2008


■ 『苗字から引く家紋の辞典』 高澤等 東京堂出版2011


■ 『寛政重修諸家譜家紋〔オンデマンド版〕』 千鹿野茂 八木書店2014


■ 







<参考書>

■ 『新撰姓氏録の研究』佐伯有清 10巻1969~


■ 『地名・姓氏・家紋は一体である』 丹羽基二 新人物往来社1979


■ 『姓氏・家系・家紋の調べ方』 丹羽基二 新人物往来社2009






==========


大塚某の作った資料もあるぜい!

市販本に満足できないので、自分で書きました!





☆お金をかけずに先祖をたどる!

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当ブログでお伝えしているような「ご先祖さま探しのテクニック」を完全網羅した電子書籍


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頒布希望の方は、「お名前、ご住所、電話番号を明記」の上、大塚某までメールくださいませ。

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2014年4月12日土曜日

<51>農家 大塚氏の源流?!を求めて!

 
 少しの間更新していなかったのだが、研究は続けている。

 現在、「福岡藩分限帳集成」を引き続き読み込んでいるとともに、別の資料も調査兵団・・・、もとい!調査中な感じ。


 その中で、めちゃくちゃ面白い?!資料が発見できたのでご紹介。


 今回のテーマは「武家 大塚氏の源流を求めて」あらため、

 もしかしてだけど~♪、もしかしてだけど~♪ほんとは武士じゃなくて農家だったんじゃないの~♪的な発見

である。


 一応、申し添えておくが、「武家 大塚家」という当ブログのタイトルは

「捏造」

でない!断じて!悪意もございません!

「200回父から聞いてるんです!うちは武士だったって!」

ということで、


本当に大塚氏は武士だったのか?それとも違うのか?


を、科学的資料をもとにしながら検証したいと思う。


==========

 今回発見の資料は、資料名を明らかにすると「かなり個人情報がわかってしまう」ために、ここでは明らかにしないが、大正時代の福岡県農政局かなんかが発行したちゃんとした資料である。

(資料名を明らかにしないのは、オボ・・・ではありません。マジで個人名が出てるからです)


 そこに載っていたのはどういうことかというと、じっくり説明しよう。


①まず、わが大塚家の実家は福岡県三潴地方の某市町村の某地区にある(古くはA村としましょう)


②大正時代の資料に載っているのは、その某市町村(もちろん旧町村名です)のA村の田んぼの状況(=面積やらランク付けやら)を示したもので、もっと膨大なリストの中の一部である。


③そのリストの中で、A村についてリストアップされているのは2つの田んぼで、

 <1> 1つめの田んぼA村のどこそこ 田んぼのランク 地主 北島某 作人 北島某

 <2> 2つめの田んぼA村のどこそこ 田んぼのランク 地主 北島某 作人 大塚某


と書いてあるのを発見したのだ!


 北島さんの名前も、大塚さんの名前も本当は出ている。

 そして、ちょっと注意事項であるが、この

「大正時代に壮年であったろうと思われる大塚某さんの名前は、うちの戸籍にはない」

 ということを申し添えておく。ただ、同じムラのことであり、たぶん同じ一族である可能性がかなり高い。


 さらにもうひとつポイントとなる事項だが、今のA村(A地区)の電話帳データから見ると、一番多い苗字が

北島

で、次に多い苗字が

大塚

であるため、北島・大塚一族の勢力がなんとなく伺い知れる。



==========

 事実として提示できるのはここまでで、ここからは解釈の問題である。


<解釈1>北島家は地主である。ということは、江戸期には領主層もしくは庄屋的立場にあったと考えられる。

 北島家は作人でもあるので、農家だと仮定できる。大塚家は地主から田んぼを借りていた農家だと考えられる。



<解釈2>北島家は地主である。ということは、江戸期には領主層もしくは庄屋的立場にあったと考えられる。

 北島家は農家ではなかったが明治期以降直接耕作をした可能性がある。大塚家は地主から田んぼを借りていた農家だと考えられる。



<解釈3>北島家は地主である。ということは、江戸期には領主層もしくは庄屋的立場にあったと考えられる。

 大塚家は、北島家に従属していた可能性がある。江戸期には北島家の身分に連なる家臣層であったが、明治期以降いずれも直接耕作に携わった。



<解釈4>北島家は地主である。ということは、江戸期には領主層もしくは庄屋的立場にあったと考えられる。

 大塚家は、おなじ村であり、もとは武士身分であったが、明治に入り士族(もしくは郷士)身分を失ったあと農業を始めた。


==========

 まあ、ざっくりと分類すればこんな感じであろうか。いずれにしても他の傍証が見つからないと細かいニュアンスは正確には出せないが、可能性としての「農家 大塚氏」は面白い。


(もちろん、この大塚さんは、うちのかなり近い親戚ではあるものの、直接の我が家とは繋がっていない)


 そして同時に「北島氏」との関係を読みといてゆくのも、新しい課題になりそうなところである。



 しかし、どうも腑に落ちないのは、どう考えても現在の我が本家に「耕作をした痕跡」が全くないのはどうしたことだろうか。

 祖父の代から実家近くの状況を見ているが、「農業倉庫」もなければ「耕作機械」も持っておらず、親族が集まっても「田植えの田」のことばも出てこなかった記憶がある。

 裏の畑で何かを作っている跡もなく、ただ荒地にしているだけであり、少なくとも祖父以来の我が一族は農業らしきものに携わった形跡がないのである。



 現在私は兵庫県の田園地域に住んでいるが、農家の生活スタイルというものは肌で感じてわかっているし、農家の「住居・集落・地域」の構造についてもある程度頭に入っている。


 そこから考えて我が先祖が「農家」だったというのは、ちょっと不思議な感じがするのだが、このあたりはさらなる調査を進めてみたいところである。



 

2014年4月8日火曜日

<調査中><50>島根県の大塚さん 安来大塚氏に迫る

 前回の記事において、再び注目の的となった「大塚重太夫」の子孫、つまり姫路岩崎構に住んでいた大塚氏について、ガッツリ調査してみたい。

 姫路に住んでいる大塚氏は、「出雲国能義 郡大塚村(現安来市大塚町)」の出であり、戦国大名尼子氏の家臣を経て赤松氏に属したと考えられる。


 というわけで今回も、<調査中>と<50>の併用区間でお届け!


 安来大塚地区は、大塚さんには関係ない世間の人にとって「ゲゲゲの女房」のふるさととして有名なのだそうだ。


 ゲゲゲの女房のふるさと しまね観光ナビさんのサイトより
 http://kankou-shimane.com/mag/mov/gegege/index.html

 

 安来はそもそも島根の中でも東のはじっこであり、隣はもう鳥取県という、つまりは姫路よりの地域である。

 戦国大名尼子氏は、

 ウィキペディアより 尼子氏
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BC%E5%AD%90%E6%B0%8F


 出雲の国の守護代からスタートして、島根・鳥取を治め、安来にあった「月山富田城」を拠点としている。

 そういう意味では、この地の「大塚郷」の大塚氏は、尼子氏の中心に近いところの勢力ということになろう。


 尼子氏は、その後、広島の毛利氏と死闘を繰り広げ、中国地方の覇権をかけて争うことになるが、ご承知の通り、毛利には結局負けて滅亡してしまう。


 子孫は毛利方について一部生き残るものの、苗字を変えてなんとか現代まで続いているという感じらしい。


==========

 さて、尼子氏と大塚氏の関係を考える上で忘れてはならない重要人物がいる。それが


大塚与三右衛門(与三衛門)

 
なる人物で、ウィキペディアに載っている。わお!



ウィキペディアより 大塚与三衛門
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E4%B8%8E%E4%B8%89%E8%A1%9B%E9%96%80



 要するに、毛利と尼子が戦争をしている時に「誰それが裏切ろうとしてまっせ」と吹聴してまわったので、みんなが疑心暗鬼になってしまうという


 かなりやらかしてしまった人物


らしいのである。最終的には、


「いらんこと言うとるのはおまえか!」と尼子の重臣に切り捨てられてしまうのであるが、いやはや戦国の世の混乱が見えるようである。


 この大塚与三衛門が岩崎構大塚氏の一族かどうかの確証はないのだが、地域的には「安来」の大塚氏であろうので、同族だと推測してもよいと思う。


「戦国人名辞典」によれば、大塚与三右衛門は、尼子晴久・義久の側衆で二代にわたって重用されたらしい。



レファレンス協同データベース より
http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000151726




 また尼子義久の家臣に「大塚勝五郎」なる人物がいたことが、


 西国の山城 さんのブログ
 http://saigokunoyamajiro.blogspot.jp/2012/04/blog-post_20.html


 に示されている。


==========

 ちなみに、岩崎構地域の大塚氏の家紋は「片喰」であった。


 安来大塚氏の家紋をご存知の方は、ぜひお知らせいただきたい!
 




2014年4月7日月曜日

<49>いよいよ面白くなってきた”軍師官兵衛”と大塚氏

 世間的には評価が今ひとつらしいNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」であるが、基本的に「週刊ドラマで見る先祖探し」だと思っている私にとっては、日曜日が一応待ち遠しい(笑)

 そんな官兵衛くんであるが、いよいよ昨日は播磨地域の混乱が具体化する直前の様相となってきた。昨日のドラマでは上月城の戦いにスポットが当たっていたが、このあたりは


 広島地方の覇者「毛利氏」
 


 間に挟まれた ①島根地方から復活したい「尼子氏」
          
          ②岡山で様子伺いの「宇喜田氏」

          ③播磨でどうしたらいいか血迷い中の「赤松系別所氏たち」



 東から攻めてきた「信長勢(つまり秀吉や官兵衛ちゃん)」


という情勢なので、とにかく「正義と悪」「敵と味方」が常にはっきりせず、とってもややこしいのである。

 上月城の戦いでは、「尼子氏」が


はい!消えた!


になるわけで、このあと官兵衛最大のスペクタクルを誇る「三木攻め=別所抹殺事件」へと物語は突き進んでゆくことになる。


 そこに赤松系大塚氏がどう絡んでゆくのかは、「軍師官兵衛」ではまったく描かれる予定がなため、みなさんのために当ブログでそこらへんを補っておくことにしよう。


==========

 播磨における赤松系大塚氏のうち、後藤又兵衛のお兄ちゃんの血筋である「大塚将監」たちは、基本的に官兵衛と行動を共にしている。というわけで、官兵衛軍のエキストラとして、大河ドラマのどこか端っこのほうに「映っているであろう」ことだけは確かである。



 問題は、赤松系大塚氏のうち書写山ふもと岩崎構に居る「大塚重太夫の子孫」たちである。

さて、そもそもこの地区の大塚氏は、これまで論じてきたように


①赤松氏の家臣、本庄氏(本城氏)とケンカしてたりする。

②当地の大塚氏のうち、本願寺と関係を持っている者がいる。


など、赤松系に取り込まれてはいるものの、不思議な動きをしていることがわかる。


 それもそのはず、姫路大塚氏に詳しい方からの情報では、この大塚氏は


『出雲国能義郡大塚村(現安来市大塚町)から戦国大名尼子氏に仕え、のち赤松氏に属した』


のである。そうなのだ!もともと「赤松に仕えたのも、ちょっとワケあり」だし、「赤松が織田方に取り込まれていった」のも「ちょっと嫌」な感じで、心から赤松系になっているわけではない

腹に一物あるタイプ

の大塚氏なのであった。

 そのため、(ここから先は推測だが)赤松氏が基本的に織田方についた後も、織田と敵対する本願寺に協力する者が現れたり、なかなか面白い動きをしているのである。


 あるいは上月城等における「尼子氏」の動きによって、「自分たちはどのように動くべきか悩んでいた」可能性がある大塚氏だと考えられる。

 あるいはそれ以前に、岩崎構の地域が「龍野赤松氏」の領域に近いことを考えると、この大塚氏は「官兵衛と敵対していた」可能性もあるということになる。


 ★物語序盤に、龍野赤松氏があんなことやこんなことをして、官兵衛の(ドラマでは)初恋の人(実は妹)があんなことやこんなことになったくだりを思い出してほしい★


「おたつーっ!」

 のどこかに映っていた可能性もあったり、なかったり。


==========


 となると、である。おなじ赤松氏流大塚氏であっても、のちに「官兵衛ちゃんについて福岡にいったかもしれない大塚氏」は、どちらかというと「岩崎構大塚氏」ではない気がしてくる。

 また、同じように、三木合戦を経て「有馬(赤松)氏について久留米にいったかもしれない大塚氏」もまた、どちらかというと「岩崎構大塚氏」ではない気がしてくるのである。



★官兵衛ちゃんも有馬くんも、基本的に「秀吉にぴったり」くっついている純織田方である。そういう意味では、岩崎構大塚氏より、大塚将監系大塚氏のほうが、織田方率が高いと考えるのである。


 もちろん、これらは憶測で、どちらに進むのが正しいか誰も予測がつかない戦国の世にあって、基準はすべて

「生き残る」

ことであるわけで、各大塚氏はそれまでの経緯や歴史はともかく、「その時最善と思われる策」を取って取捨選択しているので、真実は今のところわからない。


なので、これからも真実を求めてがんばります!!













2014年4月6日日曜日

<48>もしかして謎が解けた?!ミステリーハンターがゆく!

 みなさんこんばんは。

 ブログ更新したかったのだが、小忙しくて今の時間となった。

  さて、まずはご報告から。・・・ふふふ、ははは!ついに買ってしまったのである。



 じゃじゃーん!「福岡藩分限帳集成」である。

  当ブログのコアなファン以外には、まったくもってなんのこっちゃ?、な書籍だが、じゃじゃーんと言いたくなるには理由がある。

 だって定価が23,000円(+税)もするんだもの!

  そのため、貧しいワタクシには、「ああ、これは絶対買えない」と諦めていた本だったのだが、幸いなことに中古でかなり安く買うことができた。ご先祖様のおかげ!


 さて、この本、市販の分限帳系書籍の中では、かなり丁寧に編集してあり、さすがは藩分限帳界のフェラーリみたいな値段がするだけのことはある。かなり中身が詰まっているすばらしい本だ。

 おまけに、今をときめく「黒田官兵衛」の福岡藩の分限帳であるから、あんな名前やこんな名前が載っていてかなり楽しい一冊!(笑)

 家系研究においても、いろいろ役に立つ情報が載っており、この本にまつわる研究結果はおいおい紹介してゆきたいが、今回はネタをひとつに絞ってお届けしようと思う。

 それは、「未解決事件になっていたあの謎」について、解決の糸口が見えてきたのである!

 ==========

 その謎とは、久留米藩の略系譜に出ていたとある「大塚氏」の一氏、「家紋 碁石」の大塚氏についての謎である。


 おさらい 当ブログ<40>碁石の謎の回
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/02/blog-post_17.html


 上の記事で「碁石紋」の大塚氏について知ってからというもの、家紋に詳しい方に尋ねたり、古い家紋帳を読める立場にあった方にtwitterでお願いしたりして調べてもらったのだが、いっこうに


碁石紋なんてみつからない・誰も知らない


状況が続いていた。それが、ちょっと面白い展開になってきた。みなさんも推理力を働かせながらわくわくしてほしい!

  「福岡藩分限帳集成」にはいくつもの時代の分限帳が収録されているのだが、その中に「安政分限帳」というものがある。

 この安政分限帳だけには、各藩士の名前のところに「家紋」の記載が記されている。家紋の書き方は基本的に文字での紹介で、たとえば「蔦紋」とかそういう風に文字で載っているので家紋の絵が描いてあるわけではない。

 しかし、文字で表現できないもの、特殊なものについては「絵」で描いてある。 そこでこれを見てほしい。

 安政分限帳に唯一載っている「大塚氏」がこの「大塚六之助」なのだが、家紋は上記のとおり絵で記載されている。

 この絵は、◇がタテに3つ、よこに2つ並んだ形状になっている。この紋の名称がわからないので、筆者は絵で描いたということになる。

 この絵を見て、ピンときた!

 ん?これはもしや!あやしい!あやしいぞ!

 というわけで、まずは


 家紋市場さんのサイト
 https://x181.secure.ne.jp/~x181007/kamon/goodslist.cgi?in_kate=15-1220


を見てほしい。 そうなのだ、◇や■は、基本的に「石紋」という名前になっている。

 https://x181.secure.ne.jp/~x181007/kamon/goodslist.cgi?in_kate=15-1220&in_start=20&max=


並びは、ふつうに横にならぶものもあれば、安政分限帳のように「ななめ配置」になっているものもある。

 しかし、共通して言えるのは「しかくは石を示す」ということだ。

 おなじみ播磨屋さんの解説では、この石はもともと石畳の敷石のことらしい。


 播磨屋さんのサイトより
 http://www.harimaya.com/kamon/column/ishi.html  


 そのため、敷石と碁石とでは、本質的には乖離があるのだが、「石紋」ということで解釈が変動していることは十分考えられまいか。


==========

 つまり、こういうことだ。安政分限帳に載っている大塚氏の家紋は、本来

「五つ石」

ということになる。

 そして、囲碁は石を垂直方向・水平方向に並べてゆくゲームであるから、上下左右方向に配置された石の紋を「碁石」に見立てることは容易い。

 そこで、当時の者達は「五石(いつついし)」を「五石(ごいし)」 と見立て、そこから「碁石」の紋としたのではないか。

 これなら、形状の面でも、呼び名の面でも合致する。さらに、こうした見立てが背景にあるから、全国共通の「碁石」紋という名前が無いことに繋がるのではないだろうか。

==========

 そして、もうひとつ、興味深いことがわかる。

 たしかに仮説ではあるが、つまりこうだ。


 もし、安政分限帳の大塚氏の家紋が「碁石」で合致するのであれば、

 福岡藩の大塚氏と久留米藩の大塚氏に共通の一族がいる


ということである。

 実に面白い。




 



 

2014年4月4日金曜日

<47>”郷士”とは何か

 ここのところ、全国の大塚氏についてばかり目を向けていたので、久しぶりの我が家ルーツ探しの旅であるが、今回は何度も原点に帰りながら考察を掘り下げてみたい。



① まず、我が一族の自宅は福岡県三潴地域にある。これは既出。


② そして久留米藩の武士であったという伝承を持っているが、当然久留米城下に住んでいるわけではない。これも既出。


③ 戸籍謄本を見る限り、いちおう先祖代々(どこまで遡るかは別にして)おなじ住所に住んでおり、既に述べている「大塚喜平次」も、その息子(わが曽祖父)も、おなじ住所に住んでいる。これも既出。


④ 知る限り我が家は農家ではなく農機具など持っていない。父の伝承によれば「うちはずっと地主であり、ここらへんの小作者から年貢をもらっていた。戦後の農地改革で土地を切り刻まれて小作者達に分配することになった」と聞いている。
 
 よって「地主」もしくはそのような立場にあった家だということがわかる。


⑤ 祖父の最後の職場は南満州鉄道であり、中国で終戦を迎えている。


⑦ 曽祖父について父が不思議な伝承を持っている。

 小さいときに村の老女に「あんたはどこの大塚さんやね」と尋ねられ「大塚■■」と父の名前を言ったが老女は、よくわからないような顔をしたので、「大塚▲▲の孫」と祖父(つまり喜平次の息子)の名前を言うと、「ああ、村長さんとこのお孫さんか」と納得してくれた。

 というのが父の記憶なのだが、私が調べて見る限り該当地域で大塚▲▲が村長をしていた記録が見つかっていない。


==========

 以上のようなことから、漠然とながら、「わが大塚家は、とりあえず旧家で土地を昔はたくさん持っていて、戦後没落した村長さん的立ち位置の家」(苦笑)というイメージを抱いていたのだが、これらを総合して考えると、


いわゆる城詰め武士の子孫というより「郷士」に近かったのではないか、と推測することができる。


 さて、郷士とは何か。

 ウィキペディアより 「郷士」
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%B7%E5%A3%AB


 簡単に言えば、農村に領地(支配地)を持っている家臣であるが、城詰め藩士とは身分が異なる者、といえようか。

 もちろん、久留米藩にも郷士身分はあったようである。


 郷士の身分や立ち位地については、「坂本竜馬」が好きな人ならすぐにピンとくると思うが、いわゆる武士の身分の中では、一般藩士より低く、土佐藩では上士・平士・郷士(下士)の身分差別が激しかったと言われる。

 一般論としての郷士は、下士に当たると考えていいのだが、このあたりも現在調査中だが、郷士の中にも「上士格」の者がいたり、ややこしい。

 
 そのあたりは「郷士」の成立過程とも密接に関わってくる。ウィキペディアによれば、


①戦国時代に士分であったが、江戸期に藩士でありながら在郷領主として活動した者


 A 戦国期は兵農一体だったため地元の豪族(豪農でもある)が藩士身分となり、藩主の影響下で直接自分の領地を支配した場合

 B 元の主君が滅びたため、帰農した実力者が新しい主君に取り立てられる形で藩政に組み込まれた場合


② 元は士分でなかったものが、士分に取り立てられた場合。


③ 元は藩士であったが、家禄で生活できず農地で営農するため郷士に身分を下げた場合。


④ そのほか特殊事情


と考えることができる。


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 久留米藩郷士については
 
 「久留米藩浪人制度と「国恩」の論理」 吉田昌彦 (九州大学)
 http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/8643/scs07pa021.pdf#search='%E4%B9%85%E7%95%99%E7%B1%B3%E8%97%A9+%E9%83%B7%E5%A3%AB+%E9%A6%AC%E5%BB%BB'


 が面白かったので紹介しておく。


 というのも、久留米藩士の系図を見ていると、世継ぎがなかった場合に養子をもらうのだが、その欄に「実は浪人誰それ」と書いてあることが多いのだ。

 「なんぼ跡継ぎがいなくても、浪人を入れるというのはどないやねん。誰でもいいのか」

とその時は思っていたのだが、浪人=郷士格と考えるとなるほど納得がいく。

 言い方は悪いが、「現状の身分上、藩士ではないから浪人扱いだが、家格や筋が良い者」として跡継ぎに引っ張ってきたとすれば、話が合う。

 郷士身分の者からすれば格が上がり、断絶の憂き目にあった家からすれば、「なんとか格好がつく」形で「浪人」を跡継ぎにした、ということなのであろう。



 というわけで、久留米藩と郷士の関係については、まだまだ調査続行!


2014年4月2日水曜日

<調査中>家紋「抱き柏」、東京の大塚さん<WEB墓碑研究>

 そもそも、家系調査や姓氏調査というのは、『事件は現場で起きてるんだ!』ではないですが、

 おうちを巡ってなんぼ、お墓を巡ってなんぼ

なところがあります。

 そのため、いわゆる「苗字研究」「家系研究」「姓氏研究」をなさっている先人のすごいところは、実際に村々、家々を廻ってお調べになったという大変さではないでしょうか。


 それに比べると、私なんぞがやっているのは、「大塚」ただ一氏についてだけであり、なおかつ、ふだんはふつうの仕事をしているので、休みの期間にパソコンの前だけで、調査しているので、

 みたいなもん


です。あと二十年くらいして定年退職したら、たぶん現地を歩き始めます(笑)


==========

 しかし、ネットという便利なものがある以上、それを使って「コピペ」するのも現代の流行というものです。

 なんせ日本を代表する科学研究のリーダー的存在である「理・・・・」の論文ですらコピ・・・・・、


・・・・このネタは自粛します!!!!


 ★念のため申し添えておきますが、当方のブログでは学術的『引用』はしていますがコピペはしてません!ゴーストライターもいません!

 かならず出典の引用元を明示し、かつ該当箇所にリンクで飛べるように意図しております。

==========

 さて、そんな「ネット徘徊」による大塚研究の一部として、”ネットお墓参り”なるものを進めています。ネットお墓参りとは、グーグルさんのストリートビューを使ってお墓を探して家紋を読み取ったり、ネットの画像を使って家紋を探るという作業ですが、もちろん、全国の大塚さんたちに敬意と親しみを込めて頭を垂れているところです。


 そこで今回は、家紋「抱き柏」の大塚さんについて研究です。


 東京都江戸川区の歴史 さんのブログより
 http://tokyoedogawa.blog.shinobi.jp/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D/


 東京都江戸川区に「大塚家」なる一族がおられるのですが、関連していくつか史跡があります。
 
 ひとつは江戸川区の登録有形文化財になっている「木造大塚氏先祖夫妻坐像」というもので、もうひとつは地場の梨栽培に尽力した「大塚宗蔵」(文政7年没)さんのお墓です。こちらも江戸川区の登録史跡になっています。

 さて、この大塚家のお墓を上記リンクの画像から解析すると、家紋「抱き柏」であることが読み取れます。

 大塚宗蔵が何者かについては


 JLogos辞書検索 
 http://premium.jlogos.com/new2_result2.html?keyword=%E5%A4%A7%E5%A1%9A%E5%AE%97%E8%94%B5%E3%81%AE%E5%A2%93&id=5700497


 によれば、「地元の名士で、享和年間に梨の栽培を開始した」とあります。”地元の名士”だけでは家系がわかりませんが、もう少し詳しい資料が、


 ジェイ・クオリス さんのサイト
 http://www.top-est.com/pages/simoimaimura


にありました。これによればこの地の梨は、幕府に献上されたり、かなり有名になったようですね。


 もっとも詳しい説明は

 江戸川区の地名の由来 さんのサイト
 http://www.geocities.jp/pccwm336/sub5.html


にあります。ここには興味深い説明があります。記事によると、大塚宗蔵は「大和の国から流れてきた武士の子」だそうです。


 ちなみに、毎度おなじみ『完全網羅 大塚姓・大塚氏・大塚さんのすべて! 全大塚氏族超まとめスペシャル』によれば、柏紋の大塚氏は、


<Q>吉岡氏(大塚) 藤原氏流 岡氏の子孫。寛政譜22 〔家紋〕柏 六角に三つ柏


となっています。


 実はこれ、かなり「キターッ」な展開でございまして(笑)、今から論証してゆきますね!


 岡氏というのは、


 ウィキペディアより 二上山城
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E4%B8%8A%E5%B1%B1%E5%9F%8E_(%E5%A4%A7%E5%92%8C%E5%9B%BD)


 を読めばわかるとおり、 大和国と河内国の境あたりに存在した「岡城」が拠点です。位置関係でいえば、岡城・二上山城・万歳山城が隣接しているということです。


 そして、毎度おなじみ播磨屋さんのサイトによれば


 播磨屋さんより 武家家伝 万歳氏
 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/banzai_k.html


 大和国(奈良)というのは、基本的にお寺の荘園がスタートで、興福寺の荘園管理官としての「岡氏」がおり、万歳氏とともに、興福寺門下の中で南北朝以降の激動に巻き込まれてゆく、ということになるわけです。

 
 こんな感じで、「点と線」が結びついてゆきます。奈良からきた大塚氏とは、つまり!

 結論は、


 江戸川区の大塚さんは、元「岡氏」であり、大和国興福寺の荘官がスタート、その子孫が奈良を離れて江戸に入ったと考えられる。ルーツは藤原氏。家紋は「柏紋」で決まり。


という感じでしょうか。


 というわけで、東京の大塚さん!ぜひ家紋を教えてくださいね!










2014年4月1日火曜日

<基礎資料>全国諸藩分限帳総覧 (藩士家臣録)<常に追加更新中>

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<告知です>


「あなただけの日本史」教科書を作成します。

 ~あなたが生まれるまでの1000年の物語~


https://coconala.com/services/79457

というサービスやっております。ご興味のある方はぜひ。


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<変更事項> 近代デジタルライブラリーが、「国立国会図書館デジタルコレクション」と統合されました。近代デジタルライブラリーのリンクで見つからない場合は、上記コレクション内で発見できますので、おしらせしておきます。


国立国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/



注意:今回の記事は、先祖探しのために皆さんが利用し易いようにまとめた目録のみです。


最終更新日 2020.2.5


★当目録は、姓氏調査のために使用できる江戸時代諸藩の「分限帳(ならびにその類)」についてまとめたものである。

★当目録では各藩の分限帳について、

 ①書名・発行者などの情報

 ②現在における入手・閲覧方法(特にWEB等)

を随時更新して記載してゆく。


★江戸時代、全国には幕末で276藩あり、消失した藩を加えるとそれより多くなるため、全てを網羅するには時間がかかることを許していただきたい。


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<徳川幕府>

■ 江戸幕府 『御家人分限帳』 鈴木寿 近藤出版社1984 日本史料選書23

■ 旗本明知遠山氏陣屋史料 明知年譜 坤 家臣分限帳 遠山家系図 明智町教育委員会H6




<北海道地方>


■ 三百藩家臣人名事典. 第1巻 (北海道・青森県・岩手県・宮城県・秋田県・山形県)  
   家臣人名事典編纂委員会 編 新人物往来社 1987


■ 渡島国松前藩 WEB『松前藩家臣団一覧』KUBO2000~(KUBOの家系城郭研究所)
  http://homepage1.nifty.com/t-kubo/Japan/matumae/kasindan.htm



<東北地方>


■ 三百藩家臣人名事典. 第1巻 (北海道・青森県・岩手県・宮城県・秋田県・山形県)  
   家臣人名事典編纂委員会 編 新人物往来社 1987



■ 陸奥国 『元禄十四年陸奥国棚倉領植田村外一ヶ村 惣百姓分限帳』 
        金沢春友 岩磐郷土史研究会S29


■ 陸奥国斗南藩  『会津藩 斗南へ』(「旧斗南藩人名録」)星亮一 三修社2009


■ 陸奥国七戸藩(盛岡藩支藩) 『七戸町史 第2巻』(七戸御給人小高帳) 七戸町1984


■ 陸奥国八戸藩  『岩手古文書館 第2巻』(八戸南部藩家臣録・八戸家御家中支配帳) 岩手古文書研究会1986

 『岩手史叢 第3巻』内史畧3 前18~前248(八戸藩士分限帳・文化年間) 岩手県立図書館 岩手県文化財愛護協会1974


 陸中国盛岡藩  『南部盛岡藩家士・諸職人総録』 吉田義昭 郷土史叢刊行会1976

  『南部盛岡藩御領分中各村御蔵・給所惣高書上帳(天保八年) 南部盛岡藩諸士・御給人等知行所書上(天保十年)』 吉田義昭 郷土史叢刊行会1976


■ 陸中国一関藩(仙台藩支藩) 『関藩列臣録』 西田耕三編 耕風社1995


■ 陸奥国会津藩 『会津藩士人名辞典 役名禄高住所明細 安政5』 古今堂書店S8
 国会図書館デジタルコレクション版http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1195026


■ 陸前国仙台藩 『伊達世臣家譜』 仙台叢書続刊(第2-7巻)1937 宝文堂(復刻)1975


■ 陸前国仙台藩 『伊達世臣家譜続編』 仙台藩史料大成 第2輯 宝文堂1978


■ 陸前国仙台藩 『仙台府諸士版籍』 仙台叢書 第六巻


■ 陸前国仙台藩涌谷伊達家 『涌谷伊達家の家臣名簿2』 涌谷町教育委員会2016


■ 越後国 『上杉氏分限帳』矢田俊文 福原圭一 片桐昭彦 編 高志書院2008

■ 羽前国庄内藩 『山形県史資料篇5(鶏肋編上)』
     「達三公御代諸士分限帳」「寛文十一亥ノ御家中分限帳」
     「諸士分限帳」「長寿公御代御家中分限帳」

   『山形県史資料篇17・附録(近世史料1)』「達三公御代分限帳」
 
   『鶴岡市史資料篇荘内史料集15』「延宝5年分限帳」「慶応4年分限帳」
      「大泉藩御役人名前覚」
   
   『山形県史料所在目録第3集』「天明4年御分限帳・庄内藩」
 
   『庄内藩士主上録』


■ 羽前国松山藩  『山形県史資料篇5(鶏肋編上)』「松山江御付被進候御人数名寄」

   『松山藩要職畧觧』


■ 羽前国新庄藩 『戸沢家中分限帳』 新庄図書館1979 郷土資料叢書12 


■ 羽前国米沢藩 『分限帳(7種)』 市立米沢図書館 デジタルライブラリ
  (『上杉侯家士分限簿』『会津御在城分限帳』『元禄三年分限帳』『寛政五年分限帳』
   『享和三年分限帳』『天保十二年分限帳』『嘉永二年分限帳』)
 http://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/index_1.html

  山形県史資料篇16「寛永八年分限帳」P30~51 

  米沢市史編集資料第2号「邑鑑・寛永八年分限帳(侍衆から袖領・寺領まで)

  米沢市史編集資料第1号「寛政5年分限帳」(駿河守様から御作事直支配まで)

  米澤藩中興名臣録巻之一、二(竹俣美作)

  米澤藩中興名臣録巻之三、四(莅戸善政ほか5

  米沢市史編集資料第6号「慶応元年分限帳」

  米沢市史編集資料第10号「米澤人國記」

  藩制成立史の綜合研究米沢藩

  上杉家御年譜二十三「上杉氏系図 外姻譜略 御家中諸士略系譜(1)」

  上杉家御年譜二十四「御家中諸士略系譜(2)」


■ 出羽(羽後)久保田藩(秋田藩) 『秋田藩の家臣団 : 系図の編纂と分限帳』秋田県公文書館2000


■ 出羽(羽後)国亀田藩 『研究資料 亀田藩分限帳・御侍中順帳』 岩城町史編集委員会 1978





<関東地方>

■ 三百藩家臣人名事典. 第2巻 (福島県.茨城県 1.栃木県.群馬県)
  家臣人名事典編纂委員会 編 新人物往来社 1988


■ 三百藩家臣人名事典. 第3巻 (茨城県 2.千葉県.埼玉県.神奈川県.富山県.石川県.福井県.長野県.山梨県.岐阜県) 
 家臣人名事典編纂委員会 編 新人物往来社 1988

■ 武蔵国 「成田系図および分限帳」  行田郷土史研究会2012
 http://gyouda2012.cocolog-nifty.com/blog/2018/08/post-e8dd.html


■ 安房国 『里見家 分限帳 集成 増補版』川名登 岩田書院2010 岩田書院 史料選書①


■ 相模国 『「小田原衆所領役帳」(「北条家分限帳」「小田原役帳」「小田原北条家分限帳」』 『新編埼玉県史 資料編』8中世4 埼玉県1986

■ 相模国 『小田原分限帳郡村略考』 史蹟を探る会S14 非売


■ 上野国沼田藩 『真田伊賀守家中附』『土岐氏家臣分限帳』 『群馬県史 資料編』12近世4 群馬県1977


■ 上野国高崎藩 「高崎藩新規召抱家臣書上」「安政六年五月 高崎藩家臣分限帳」「明治三年 高崎藩職員禄」「明治四年 高崎藩職 制役席順」 『群馬県史 資料編』10近世2 群馬県1977


 上野国伊勢崎藩 『嘉永年時 伊勢崎藩家臣分限帳』黒澤哲 伊勢崎郷土文化協会1995


 
■ 下野国黒羽藩 『家中分限帳(寛永19・万治3)』 『栃木県史史料編10近世(4)』 栃木県1975
 

■ 下野国喜連川藩 『喜連川家分限帳』 『喜連川町史  第3巻』 さくら市2007


■ 下野国烏山藩 『天保十年 烏山藩家中分限帳』 『栃木県史史料編10近世(4)』 栃木県1975


■ 常陸国笠間藩 「弘化三年名順帳」「明治初年役高定並家中分限帳」 『茨城県史史料』茨城県1970


■ 常陸国水戸藩 「寛文規式帳」「水戸藩御規式帳」「松岡分限帳」 『茨城県史史料』茨城県1970

■ 常陸国土浦藩 「天保一四年土浦分限秘録」「天保一四年江戸分限帳」「嘉永三年土浦住居家中席順並禄高調」「嘉永三年江戸住居家中席順並禄高調」 『茨城県史史料』茨城県1970

■ 常陸国谷田部藩 「弘化五年 茂木(谷田部)藩家中分限帳」 『栃木県史 史料編』栃木県1975

■ 上総国佐貫藩  「天保十四年十二月 佐貫藩家中分限帳」 『千葉県の歴史 資料編』近世1 千葉県2006

■ 下総国結城藩 『結城市史 第2巻』 結城市1979 (「天保十一年(1840)結城藩諸士勤仕改帳」「嘉永六年(1853)結城水野藩分限帳写」「結城藩家中姓名帳」)

■ 甲斐国甲府藩 『甲府殿分限帳』(甲斐叢書 7) 甲斐叢書刊行会1935




<北陸・信越地方>

■ 三百藩家臣人名事典. 第3巻 (茨城県 2.千葉県.埼玉県.神奈川県.富山県.石川県.福井県.長野県.山梨県.岐阜県) 
 家臣人名事典編纂委員会 編 新人物往来社 1988


■ 越前国丸岡藩 『丸岡藩鑑』(丸岡城略史) 五徳会1974


■ 越前国福井藩 『 結城秀康給帳』(『福井市史』資料編4 近世二) 福井市1988


■ 越前国福井藩 『給帳』(『福井県史』資料編3中・近世一)福井県1982


■ 越前国福井藩 『松平家蔵 慶永公御代給帳』 福井図書館1937


■ 越前国福井藩 『福井藩結城中納言秀康卿分限帳』 福井市立図書館1943


■ 越前国福井藩 『福井藩士履歴1~3』 福井県文書館2013~2015


■ 越前国勝山藩 『小笠原家給帳』(勝山市史 資料編第四巻)勝山市2010


■ 越前国勝山藩 『勝山藩士俸米帳』(勝山藩古事記)勝山藩古事記協賛会1931


■ 越前国大野藩 『土井家家臣由緒書』『土井家分限帳』『大野御家中切米分限帳』(大野市史 第四巻 藩政史料編一) 大野市役所1983


■ 越前国鯖江藩 『鯖江市史 資料編第五巻 藩政史料編Ⅰ・Ⅱ 鯖江藩御家人帳』 鯖江市役所1977


■ 越前国吉江藩 『延宝三卯年吉江給帳』(片聾記・続片聾記) 福井県立図書館1955


■ 越前国松岡藩 『松岡様御給帳』(松岡町史 上巻)松岡町1978


■ 越後国長岡藩  『長岡藩中分限帳(写)』 渡辺徳昭 町史考その14 1992



■ 越後国高田藩 『高田の家臣団(家中分限帳ほか)』 上越市史叢書5 上越市


■ 若狭国小浜藩 『小浜藩家臣由緒書』『分限帳』 (小浜市史 藩政史料編二) 小浜市役所1985


■ 越中国富山藩 『富山藩侍帳』 高瀬保 桂書房H3 越中資料集成1


■ 越中国富山藩 『明治二年富山藩分限帳』 富山県立図書館
  http://www.lib.pref.toyama.jp/gallery/collection/intro.aspx?isnvmngcd=1:1491



■ 加賀国加賀藩 『加賀藩組分侍帳』 金沢文化協会S12
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1144581


■ 加賀国加賀藩 『慶長元和寛永侍帳』 森田文庫K280/3(石川県立図書館)
  http://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/toshokan/dglib/samurai/index.html


■ 加賀国加賀藩 『寛文侍帳』 森田文庫K280/4(石川県立図書館)
  http://www.library.pref.ishikawa.lg.jp/toshokan/dglib/samurai/index.html


■ 加賀国加賀藩 『侍帳』 日置謙1927(『石川縣史』収録)
  https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ1400/WJJS16U/1700105100/1700105100100020


■ 加賀国大聖寺藩 『加賀藩・大聖寺藩侍帳』(石川県史・第2編S13)
 国立国会図書館デジタルライブラリー版  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184466


■ 加賀国大聖寺藩 「大聖寺藩士由緒帳1~3」(加賀市史料2・3・4 加賀市立図書館


■ 甲斐国 『甲斐叢書 7 甲国律令雑輯/甲陽遺宝/甲府殿分限帳』 甲斐叢書刊行会1935


■ 信濃国諏訪藩 『諏訪史料叢書32・33 分限帳 家中役人系図』 信濃教育会諏訪支部S17





<東海地方>

■  三百藩家臣人名事典. 第4巻 (新潟県.静岡県.愛知県.三重県 1.滋賀県.奈良県)
   家臣人名事典編纂委員会 編 新人物往来社 1988



■ 三河国岡崎藩 『本多家岡崎藩分限帳1~11』 岡崎市立中央図書館
  http://www.library.okazaki.aichi.jp/?action=common_download_main&upload_id=963
  (id=963の箇所を数字を上げていくと巻数が増えます。id=973が11巻)


■ 同上       『〃』 愛知芸術文化センター愛知県図書館 PDF版
  https://websv.aichi-pref-library.jp/wahon/detail/18.html


■ 三河国岡崎藩 『岡崎藩士名簿』 岡崎市立中央図書館 (大正十年七月調)
  http://websv.library.okazaki.aichi.jp/digital/


■ 三河国刈谷藩 『分限帳集成 刈谷土井家家臣録』刈谷古文書研究会  刈谷頌和会2014


■ 三河国西尾藩 『西尾藩の侍屋敷・西尾藩御役人両奉行系・西尾藩士成瀬氏資料・西尾藩大給松平氏分限帳索引』 西尾市史資料叢書3 西尾市教育委員会2007


■ 三河国西尾藩 『西尾藩大給松平氏分限帳』 西尾市教育委員会2006

  

■ 尾張国尾張藩 『尾州分限帳』 国文学研究資料館 
  http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0281-063017


■ 尾張国尾張藩家臣 『渡辺半蔵家家臣録』 太田正弘(自費出版)H11


■ 尾張国尾張藩 『藩士名寄』 徳川林政史研究所PDF公開ファイル(旧蓬左文庫)

  http://www.tokugawa.or.jp/institute/017.0001-koukai-siryou.htm





<近畿地方>

■  三百藩家臣人名事典. 第4巻 (新潟県.静岡県.愛知県.三重県 1.滋賀県.奈良県)
   家臣人名事典編纂委員会 編 新人物往来社 1988

■ 三百藩家臣人名事典. 第5巻 (三重県 2.和歌山県.京都府.兵庫県.大阪府.鳥取県.島根県)
   家臣人名事典編纂委員会 編 新人物往来社 1988


■ 伊勢国桑名藩 『桑名藩分限帳』 桑名市H1 
  http://www.city.kuwana.lg.jp/index.cfm/24,20507,235,414,html


■ 伊勢国桑名藩 『天明由緒』 桑名市教育委員会2008


■  伊勢国桑名藩 『桑名藩史料集成』 (「寛政二年分限帳」「安政二年無格分限帳」「文久元年御家中分限帳」)桑名市教育委員会 1990


■ 伊勢国桑名藩 『桑名市博物館紀要 第2号』(「桑藩家中分限帳」、「移封家臣名簿」)


■ 伊勢国津藩 『安政四年津藩分限帳』 堀井光次 光書房S59


■ 伊勢国津藩 『藤堂藩(津・久居)功臣年表―分限録』 三重県郷土資料叢書〈第86集〉1985


■ 近江国彦根藩 『侍中由緒帳』(既刊1~14) 彦根市1994~ 彦根藩史料叢書


■ 近江国水口藩 『近江国水口藩加藤家分限帳』 甲賀市2011 市史編纂叢書第7集


■ 和泉国岸和田藩 『岸和田藩家中分限録 』 出口神暁編 鬼洞叢書4輯 和泉文化研究会1951


■ 大和国郡山藩 『分限帳類集 上下』 堀井寿郎柳・沢文庫保存会 H5 柳沢史料集成


 大和国小泉藩  『小泉藩分限帳』 柳沢文庫専門委員会 大和郡山市役所1966


■ 大和国新庄藩  『桑山家分限帳』 改訂新庄町史編集委員会1983


■ 播磨国明石藩 『本多氏 御家中知行高并役附』 兵庫県史資料編 近世1 兵庫県1989

            『小笠原氏 御当家続史 二』  兵庫県史資料編 近世1 兵庫県1989


■ 播磨国明石藩 『明石藩旧臣録』 明石史話研究会 2004.9


■ 播磨国赤穂藩 『浅野氏 赤穂分限帳』『森氏 東西諸氏分限帳』 兵庫県史資料編 近世1 兵庫県1989


■ 播磨国赤穂藩 『浮田家分限帳』『浅野家分限帳』『森家分限帳』 赤穂市史 第5巻 赤穂市1982


■ 播磨国赤穂藩 『赤穂藩森家分限帳集』赤穂市史史料集 赤穂市教育委員会2016


■ 播磨国安志藩 『分限帳』『御家中筆並』『江戸詰め藩士の扶持高』『安志在藩の藩士扶持高』 安富町史  史料編 安富町1995


■ 播磨国小野藩 『一柳直盛国替につき直重・直家・直頼 供の面々』『一柳家中の席順名前書』  小野市史  第5巻 資料編2 小野市1998


■ 播磨国新宮藩 『新宮池田家藩士一覧』  播磨新宮町史  第7巻 新宮町教育委員会1969


■ 播磨国新宮藩 『池田家家臣由緒取調書』 播磨新宮町史  史料編1 新宮町2005


■ 播磨国龍野藩 『脇坂氏 分限帳』 兵庫県史資料編 近世1 兵庫県1989


■ 播磨国龍野藩 『脇坂氏分限帳 脇坂安政代』 竜野市史  第5巻 史料編2 竜野市1980


■ 播磨国林田藩 『林田藩禄席帳』『林田藩家禄扶持給分渡方帳』 林田郷土史 林田村教育委員会1955


■ 播磨国林田藩 『建部家分限』『御書方御礼式分限帳』『林田藩禄席帳』 林田の歴史 出口隆一2006


■ 播磨国姫路藩 『池田氏 侍帳』『酒井氏 江戸・姫路組分帳』 兵庫県史資料編 近世1 兵庫県1989


■ 播磨国姫路藩 『各年代の御船手組人名簿』 姫路藩御船手組 下里静1984


■ 播磨国姫路藩 『酒井家家臣 江戸・姫路組分帳』『御船手分限帳』 姫路市史  第10巻 姫路市1986


■ 播磨国姫路藩 『(赤松)政則の家士』『小寺家の家士』『黒田家の家士』『池田家の家士』  姫路城史  上巻 名著出版1973


■ 播磨国姫路藩 『奥平姓松平家の家士』 姫路城史  中巻 名著出版1973


■ 播磨国福本藩 『福本藩の士籍』 播州福本藩史 長谷川義徹1977


■ 播磨国三日月藩 『森家藩中順序』 三日月町史  第3巻近世 三日月町1982


■ 播磨国三日月藩 『三日月藩士の禄高と知行所』『幕末三日月藩の上士』 三日月町史  第5巻人物 三日月町1982


■ 播磨国三草藩 『三草藩士籍帳』 播州三草藩史  立藩編 播州三草藩史刊行会1984


■ 播磨国山崎藩 『松平康映の家臣団』『宍粟江戸両所ニ罷在人数帳』『本多政貞とその家臣団』 山崎町1977


■ 河内国丹南藩  「明和九年八月 丹南藩分限席順帳」 堺市史 続編 第4巻 堺市1973


■ 摂津国麻田 『麻田藩御家臣格序附』 三田市史 上巻 三田市役所1964


■ 摂津国尼崎藩 『青山氏 給紙集』『松平(桜井)氏 分限帳』 兵庫県史資料編 近世1 兵庫県1989


■ 摂津国尼崎藩 『尼崎藩青山氏給帳集』『尼崎藩松平氏分限帳』『尼崎藩松平氏家中分限帳大概』『尼崎藩松平氏給人高・渡米調べ帳』  尼崎市史  第5巻 史料編2 尼崎市役所1974


■ 摂津国尼崎藩 『尼崎藩家臣団データベース”分限”』(要登録) 尼崎市立地域研究史料館

 http://www.archives.city.amagasaki.hyogo.jp/digital/bugen/


■ 摂津国三田藩 『御地頭御役掛り』『摂三藩知行録』『御役掛名付』『藩政変革官員録』 三田市史  上巻 三田市役所1964


■ 摂津国三田藩 『三田藩九鬼家家臣系譜』『九鬼守隆・久隆代家中分限帳』『 九鬼久隆代組帳』『九鬼隆抵入部につき家中御礼帳』『九鬼隆徳代家中惣席録』 三田市史 第4巻近世資料 三田市2006


■ 摂津国三田藩 『久隆公三田入部の節列座』『九鬼隆昌公御代分限帳』『家中由緒書』『旧三田県華士族給禄人名簿』『廃絶した諸士』 三田藩の歴史  高田義久 2014


■ 丹波国柏原藩 『廃藩置県時の旧藩士氏名』『織田信包分限帳並に御物成拂方』『柏原移封の織田家家臣名簿』 柏原町志 (柏原)町志編纂委員会1955


■ 丹波国篠山藩 『青山氏 従御家老独礼迄勤仕年数附』 兵庫県史資料編 近世1 兵庫県1989


■ 丹波国篠山藩 『松平康信の家臣』『御家人一覧』 多紀郷土史考  上巻 多紀郷土史考刊行会 1958

■ 但馬国豊岡藩 『藩士分限帳』<宝永6・寛政12> 『豊岡誌 付録』 城崎郡豊岡町1942 


■ 但馬国豊岡藩 『田辺京極家分限帳』『豊岡京極家分限帳』  豊岡市史  史料編 上巻 豊岡市1990


■ 但馬国出石藩 『仙石氏 御侍帳』 兵庫県史資料編 近世1 兵庫県1989


■ 但馬国出石藩 『御侍帳(仙石氏)』  出石町史  第3巻 資料編 出石町1987


■ 但馬国村岡藩 『藩士分限下調帳』 村岡町誌  下巻 村岡町1982


■ 阿波国徳島藩(淡路) 『須本諸士役付并席順姓名記』『阿波国徴古雑抄続篇 小姓・中小姓・日帳の氏名』『洲本無格分限帳』『稲田家臣団』『稲田騒動直前の分限帳』 洲本市史 洲本市役所1974


■ 多田院領 『多田院御家人名前書』 かわにし  第5巻 川西市1978




<中国地方>

■ 三百藩家臣人名事典. 第5巻 (三重県 2.和歌山県.京都府.兵庫県.大阪府.鳥取県.島根県)
   家臣人名事典編纂委員会 編 新人物往来社 1988

■  三百藩家臣人名事典. 第6巻 (岡山県・広島県・山口県・徳島県・香川県・愛媛県・高知県)
    家臣人名事典編纂委員会 編 新人物往来社 1989


■ 『宇喜多家分限帳』 岡山市史 第2 岡山市1938
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1261440


■ 『資料毛利氏八箇国御時代分限帳』岸浩編 マツノ書店S62 


■ 長門国長州藩 『分限帳(7種)』 山口県文書館 毛利家文庫
  (『広島御時代分限帳』『元就公御馬廻知行高』『天正十七年御馬廻分限帳』
   『文禄慶長中分限帳』『慶長末年元和三年分限帳』『元和八年分限帳』)
  http://ymonjo.ysn21.jp/msearch/search.php?m=oth&op=search&c=


■ 長門国長府藩 『長府藩分限帳』 下関郷土会S48 『郷土第19集』
 

■ 長門国萩藩 『嘉永改正いろは寄 萩藩分限帳』萩郷土文化研究会編S43


■ 長門国萩藩 『萩藩給禄帳』樹下明樹、田村哲夫編 マツノ書店S59


■ 長門国萩藩 『萩藩城下町の絵図に見る人名簿及び住所録』阿部次男H2
  (-天和2(1682)~3(1683)年-)


■ 長門国萩藩 『萩城下町絵図にみる分限帳 -文化・文政年間』阿部次男H元


■ 長門国清末藩 『資料叢書 清末藩分限帳』 下関文書館S45




<四国地方>

■  三百藩家臣人名事典. 第6巻 (岡山県・広島県・山口県・徳島県・香川県・愛媛県・高知県)     家臣人名事典編纂委員会 編 新人物往来社 1989
 


■ 阿波国徳島藩 『明治三年徳島藩職員録並御分知御家中分限帳』 桑井薫1992


■ 阿波国徳島藩 『阿州分限帳』 国文学研究資料館
  http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0099-056002&IMG_SIZE=&IMG_NO=1


■ 阿波国阿波藩 『天保・阿波藩士分限帳』 三原宏文1978


■ 讃岐国生駒藩 (高松藩初期)『生駒家家臣分限ノ記』 合田學1999
  http://kousakashikenshoukai.blogspot.jp/2010/10/blog-post_1559.html


■ 讃岐国高松藩 『高松藩士由緒録』 高松市歴史資料館WEB
 http://www.city.takamatsu.kagawa.jp/kyouiku/bunkabu/rekisi/naiyou/yuisyo/yuisyo.htm

■ 讃岐国高松藩 『生駒壱岐守殿御家中分限帳』 上坂氏顕彰会史料出版部2001


■ 伊予国 『河野分限録』 伊予史料叢書第一集 長山源雄1900
  http://www.geocities.jp/greenvillage_conbo/oyaji/kouno6.htm


■ 伊予国 西条藩 『西條藩士族姓名簿』 西条報恩会誌 塩出光雅編著 西条報恩会1984


■ 伊予国 小松藩 『文久三年小松藩士分限帳』 小松町誌 小松町1992


■ 伊予国 今治藩 『藩士分限帳』 今治郷土史 第3巻 今治拾遺 今治市役所1987


■ 伊予国 松山藩 『松山藩役録』 伊予史談会1989


■ 伊予国 松山藩 『松山分限帳』『松山武鑑』ほか 松山市史料集 第3巻 松山市役所1986


■ 伊予国 松山藩 『松山藩分限録』 愛媛県史 資料編 近世上 愛媛県1984


■ 伊予国 松山藩 『諸家譜』 松山叢談 第四(予陽叢書第七巻) 予陽叢書刊行会1936


■ 伊予国 宇和島藩 『宇和島藩庁 伊達家史料4-6(上中下) 家中由緒書』(宇和島藩分限帳) 近代史文庫宇和島研究会1978-1980






<九州地方>

■  三百藩家臣人名事典. 第7巻 (福岡県・大分県・佐賀県・長崎県・熊本県・宮崎県・鹿児島県)
    家臣人名事典編纂委員会 編 新人物往来社 1989



■ 対馬国対馬藩 『対馬藩分限帳』 安藤良俊・梅野初平・中村正夫 九州大学出版会1990


■ 対馬国 『 対州八郷給人分限帳』 梅野初平 潮旺社印刷 S48 非売


■ 豊前国小倉藩  『豊前叢書 第5巻』(天明7年分限帳・天保12年慶応2丙寅/知行録) 国書刊行会1981


■ 豊前国小倉藩   『小笠原藩侍帳』 小倉藩史研究会 編 鵬和出版1994


■ 豊前国千束藩 『千束藩分限帳(明治4年)』 福岡県史資料 第10輯S13
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1208003

■ 豊前国中津藩   『豊前中津藩士銘々帖』 今永正樹 ふるさと豊前中津の会1987


■ 筑前国福岡藩 『黒田三藩分限帳』 福岡地方史談話会1978


■ 筑前国福岡藩 『福岡藩分限帳集成』 福岡地方史研究会 海鳥社1999 


■ 筑前国福岡藩 『福岡藩家中分限帳(万延元年)』 福岡県史資料 第9輯S13
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207977


■ 筑後国久留米藩 『久留米藩御家中分限帳』 鶴久二郎1974(『久留米小史別冊』)


■ 筑後国柳河藩 『柳河藩立花家分限帳』 柳川市 柳川歴史資料集成第3集


■ 筑後国柳河藩 『福岡柳川藩分限帳』 堤伝S63


■ 筑後国三池藩 『三池藩分限帳 御家中分限録(明治2年)』 福岡県史資料 第10輯S13
  近代デジタルライブラリー版 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1208003


■ 肥前国 『肥前鍋島家分限帳』 高野和人 青潮社H6


■ 肥前国佐賀藩 『佐賀藩着到帳集成』 佐賀県立図書館内古文書研究会1968/1981


■ 肥前国小城藩 『小城藩・着到と武家屋敷』 古賀次郎 小城町2001



■ 肥後国 『肥後加藤侯分限帳』 鈴木喬 青潮社S62


■ 肥後国熊本藩 WEB『新・肥後細川藩侍帳』 津々堂2003~
  http://www.shinshindoh.com/00-samurai.htm


■ 肥後国熊本藩 『熊本藩侍帳集成』 松本寿三郎 細川藩政史研究会H8


■ 肥後国熊本藩 『宝暦五年御侍帳』 松本寿三郎 出水神社・汲古書院1988


■ 肥後国相良藩 『肥後国相良藩士分限帳』 佐藤光昭 五木文化研究所1983


 日向国高鍋藩  『宮崎県史・史料編近世4』(高鍋藩人給帳) 宮崎県1995


■ 日向国佐土原藩 『佐土原藩分限帳』 野田敏夫  日向文化談話会1965


■ 日向国飫肥藩 『飫肥藩分限帳』  野田敏夫 日向文化談話会1974


■ 薩摩国薩摩藩 『薩州島津家分限帳』 高野和人 青潮社1984


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