2014年6月27日金曜日

<調査中>長野県あるいは秋田県の大塚さん

 さてさて、全国「大塚」ダーッの旅、ぼちぼち復活です。ダーッと隅から隅まで調べております。

 今回は、「長野あるいは秋田」とましたが、基本的には


 岩城貞隆


というおっさんの動向を中心に探ります。

 そういえば大学時代の友人に「岩城くん」という男の子がいましたな。彼はワタシとおなじ文学部の学生でしたが、


富野 由悠季


で卒論を書いたつわものです。機動戦士ガンダムです。


 ガンダムが果たして文学か?という永遠の謎を脇に置いといて、彼は卒論をそれで書ききり、卒業しましたのでまあ良しとしておきましょう。


 いやいやいや、ガンダムとエヴェンゲリオンとパトレイバーとマクロスは、立派な文学です。きっと。


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 もとい。


 以前にも、仙台の伊達政宗と関係のある「大塚将監Ⅱ」について、当ブログでは取り上げましたが、その一族とも関係がありそうです。


 ウィキペディアより 岩城貞隆
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A9%E5%9F%8E%E8%B2%9E%E9%9A%86



 この記事によると、岩城 貞隆は佐竹氏の分流で、当初は福島県に拠点を置きます。


 ところがいろいろあって、城主もろとも「浪人」の憂き目に逢い、なんと浅草で浪人生活を送ります。


 その時の浪人メンバー「赤穂浪士四十七士」ならぬ「浅草浪士四十二士」の中に


大塚内蔵頭


の名前が見えます。


 さて、岩城氏は、なんとこの浪人生活のあと、ARK42総選挙 大阪夏の陣の戦功により大名に復帰します。


 復帰後、信濃中村藩、出羽亀田藩の藩主となりますので、長野県あるいは秋田県の大塚さんは、関係があるかもしれません。


 北関東にも大塚氏が一定数勢力があるのですが、東北地方にもちらほら見え隠れしていますね。

 
 ちなみに長野県には600軒程度の、秋田県には400軒程度の大塚姓がそれぞれ現存しているようです。



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 別の観点では、いつもの「大塚氏族超まとめスペシャル」でいうところの

http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2013/12/blog-post_8828.html


<AH・D?E?>海野氏(大塚) 滋野氏


が長野の大塚さんのルーツだとか。


 家族の樹 さんのサイトより
 http://www.kakeisi.com/survey/survey_nagano.html



 長野県小諸市には清酒「浅間嶽」の大塚酒造さんがあり、こちらも江戸時代からの酒蔵だそうです。

 大塚酒造㈱ さんのサイトより
 http://www.asamadake.co.jp/kura/index.html



 秋田県には「秋田県能代市大塚」という地名が現在もあり、能代市には「大塚さん」がたくさん住んでおられるようです。

 
 佐竹系大塚氏のうち「大塚弾正忠と孫の十郎が秋田に移った」としているのは、


<戦国大名家臣団事典 東国編 山本/大∥編 新人物往来社>


です。ぜひご参照ください。



 というわけでいつもの締め。 長野や秋田の大塚さん、家紋を教えてください!





2014年6月26日木曜日

<話題>自分のルーツ・出自を知る権利 ~AID(非配偶者間人工授精)で生まれた医師~

 自分のルーツを探る、という壮大なテーマでお送りしている当ブログですが、いろいろと考えさせられる記事があったのでご紹介しておきます。


  AIDで生まれた医師 「遺伝上の父 知りたい」
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140626-00088268-kana-l14

(Yahoo!ニュース 神奈川新聞さんより)


 AIDというのは、非配偶者間人工授精のこと。つまり、お母さんのおなかから生まれてくることを考えいると、お父さんが誰かわからない状態での人工授精になります。

 この方の場合、自分が医学生だったことで、「両親と自分の血液について比較」する機会があり、父だと思っていた人が「実の父」ではなかったことに気づきます。

 それから、「DNA上の実の父」を探して、いろいろなところに当たりますが、まだ見つかってはいないそうです。


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 人工授精で生まれてくる子はたくさんおり、その「実の父」がわからないようになっていることが前提で運用されている今、このお医者さんは

「出自を知る権利」

「子供の視点」

をきちんと議論すべきだと提唱なさっています。

 より踏み込んで「出自を知る権利を法律で明文化すること」まで主張なさっていることは、現状とは真逆であるため、なかなか勇気のいることだと思います。


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 さて、当ブログを書いている中で、私個人も「出自を知る権利」「ルーツを知る権利」とはなんぞやと、いつも考えさせられています。

 さすがに、江戸時代以前のことを調べるには「DNA鑑定などない時代」のことなので、せいぜい「血縁上の先祖と家柄上の先祖」を意識することくらいしかできませんが、特に藩の系図などを見ていると、

「養子、実はどこどこの誰それ」

と明記されていることも多く、当時の人たちですら「実の血縁」「家柄の縁」は十分に意識していたことがうかがえます。


 先祖を知る、ということは、現代においては多くの場面で制限を受けます。個人情報を扱うことでもあり、お寺で過去帳を開示できなかったり、壬申戸籍が名目上廃棄されていたり、戸籍も直系尊属しか辿れなかったりします。

 個人的にはすべてにおいてオープンにするべきではないと思いますが、たしかに「出自を知る権利」のようなものを、もう少し意識してもいいのかな、と思います。


 逆説的で変な話ですが、学校で縄文時代から現代に至るまで「他人の歴史はいやというほど習わされるのに、自分の歴史は辿ることができない」というのもややナンセンスでもあります。


 2000年の日本史、世界史を習っても、自分の歴史が公的には100年そこらしか学ぶことができない、というのはちょっともやもやしますね。

 以上、雑感でした。


「ネットでできるご先祖様の探し方・家系調査」

 タイトルどおり、「ネットでできるご先祖様の探し方・家系調査」という資料を作成したのですが、どんな内容か知りたい、という質問があったので、回答がてら紹介しておきます。


 

 表紙はこんな感じ(あっさりしすぎ)。そのうちかっちょいい表紙がつくかもしれないし、つかないかもしれません(笑) 中身はおんなじです。


 もともと営利目的ではないので、当ブログの読者さんの中で「おんなじことがやってみたい!」とおもわれる方向けに、


 おんなじ方法


を伝授するだけの本です。


 『ご先祖様の探し方』とか『家系図を作ろう』みたいな市販の本はたくさん出ていますが、基本的にはそうした本をご参考になさることがいいと思います。


ただ、当方の資料は


「ネットでできる」


というところがミソ(笑)


 本格的なご先祖様調べの前段階、あるいは途中でもいつでもですが、


「インターネットを活用して、できるだけ早く、できるだけ安く」調べよう!


というところに主眼を置いてます。


以下、目次はこんな感じです。

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<目次> 

はじめに

 1 まずはここから!「姓氏家系辞書」「姓氏家系大辞典」を読んでみよう。

 2 事前準備 「苗字と家紋と出身地」を知っておこう。

 3 調査開始 「戸籍謄本」を取得してみよう。

 4 今の地名と江戸時代の地名を比べておこう。

 5 驚きの技術「地縁血縁解析法」を試してみよう。

 6 江戸時代の「藩」について調べてみよう。

 7 「藩士のリスト(分限帳)」を読んでみよう。

 8 地域の歴史(県・市町村・ムラ)を調べてみよう。

 9 ネット検索のテクニックを学ぼう。

10 専門書・古書の探し方を覚えよう。

11 古文書を読んでみよう。

12 より詳しい調査のために ~現地調査にとりかかろう~

 おわりに


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 いちおう、「ご先祖様探し・家系調査」の基本的なステップについても解説していますが、このうちかなりの活動を「インターネット上で行う」というところが他の本とは大きく違います。


 たとえば、最初の「姓氏家系辞書」「姓氏家系辞典」もネット上で読みます。

 分限帳や地域の歴史も、できるかぎりネット上で読みます。

 「効率的に」ご先祖様が引っかかってくる検索方法なんかも指南しています。


 図書館や古本を探す歳に「どうやって必要な本の名前をみつけてくるのか」などについても触れています。


 本家から遠方に住んでいる方が大半だと思うので、現地調査は最後に持ってきています。


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その他特徴的な内容として


① 『地縁血縁解析法』(先祖家系 本貫地解析法)の具体的な手法を詳しく説明


 ご先祖さまの本拠地・本貫地を解析して割り出すスペシャルな技術です。いまのところ、私がやっている分については100発100中。

 特に、「苗字の由来」を調べる時には、絶大な力を発揮します。




② 調べる・押さえるべきポイントをまとめた「調査シート」のフォーマットも収録。



 実際に大事だと思ったことを中心に実務的な観点から執筆したので、誰にでも当てはまるポイントがあると思います。


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頒布希望の方は、「お名前、ご住所、電話番号を明記」の上、大塚某までメールくださいませ。

折り返し詳細をお伝えします。メールアドレスは→ブログ右側に記載しています。


☆PDF資料50P

☆手数料として2000円お願いしています。







2014年6月24日火曜日

<話題>本能寺の変に新資料! なぜ新資料が見つかるのか

 なんということでしょう。

 今日のニュースからですが、なんと本能寺の変の理由に繋がるかもしれない新資料が出てきたそうです。



 本能寺の変に新資料 光秀側に長宗我部“嘆願” 「四国攻め回避」説を補強
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140624-00000088-san-soci

 (産経新聞6月24日)


 
 概略はこんな感じ。


 岡山県の林原美術館が収蔵している「石谷家文書」の中に、『土佐の長宗我部元親が、光秀の側近である斎藤利三に宛てて書いた手紙が見つかった』というもの。


 日付は天正10(1582)年5月21日のもので、長宗我部は、「信長に従う」旨を書いているという。


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 状況としては、信長は四国攻めを命じ、長宗我部は「降参!」と言って光秀にとりなしてもらおうとしているわけですが、それでも信長は「やれやれ!いてまえ!」と止まらないので、光秀としては、


 四国攻めを止めるために、信長を討った


というのが「四国説」なんだとか。




 ちなみに、光秀がなぜ信長に謀反したかという仮説シリーズには


① 怨恨説 ・・・信長に欄干で頭をドツかれたり、母を殺されたり、接待役を下ろされたりしたため。


② 野望説 ・・・わしも天下がほちぃ。的な。


③ 黒幕説 ・・・足利将軍が裏で糸を引いていたり、朝廷がバックアップしてたり的な。


④ 四国説 ・・・長宗我部との仲介をしていたが信リンがイケイケだったため。


⑤ 痴呆説 ・・・実は光秀、けっこう歳もいってて他にも行動がおかしかったので痴呆症だった。


などがあるそうです。


 われらが軍師官兵衛ちゃんでは、元「三匹の侍」でもある「小朝師匠」が毎回意味深な表情を浮かべておられますが、荒木村重のあたりから「じわじわストレスがきてる」展開になっているように見えますね。

 ついでに、おじゃるが帝のバックアップをほのめかしたり。


 ドラマでは複合要因をさりげなく散りばめている様子です。



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 それにしても、こうやって新資料が発見されるのは面白いですね。個人的には、先日自分の先祖に関わるかもしれない新資料を発見してしまった身なので、ドキドキワクワクも倍増です。


 というわけで「新資料」がどうやって見つかるのか列挙してみました。


① 本当にどこかの蔵や天井裏から新しい書状や書付が見つかる場合。


② すでに発見されていた文書が、新しく翻刻される場合。


③ 偽書かどうか不明だったものが、真筆だと確定された場合。


 
 新発見とはいえ、なかなか①は珍しいことです。よほどのことがない限り、なんらかの文書として「どこかの図書館や資料館に所蔵されている」か、「古書店などで扱われている」か、「誰かが買い取って所蔵している」ことが多いと思います。


 ただ、古文書の全てが「研究者によって目が通されている」わけではないので、「活字にされたり」「研究対象となったり」する際に、「おお、こんな資料があるじゃん!」と発見されることも。


 ③なんかは、その価値がわからないまま流通したり保管されたりしていて、真の価値が判明した場合ですね。この間の「坂本龍馬の手紙」なんかは、このタイプでしょう。



 

 

2014年6月23日月曜日

<姓氏家系>家系調査100発100中がいつまで続くか?!ご先祖様の本拠地・本貫地

 ここのところちょっと、休憩中の大塚某ですが、まーったくなーんにもしていないわけではありません。


 少し頼まれて「ある苗字の方の本拠地・本貫地」を推定する、という作業をやっていたのですが、これがなんと、またまたピタリと的中!

 
 我らが「地縁血縁解析法」こと「先祖家系本貫地解析法」の分析力の高いこと!判明率は現在まだ100%を維持しております(^^

 なんで名前変えたのか、って?”地縁血縁”ではご先祖さま探しとの関係性が伝わりにくいからです。SEO対策だってば(笑)



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 さて、具体的にはこんな感じで分析しました。


<プロセス1>
 
その「ある苗字」の方が、その市町村にどれくらい存在しているか判然としなかったので、「地縁血縁解析法」(先祖家系本貫地解析法)にかけると、なんと、その方の生まれ育ちの地域(ムラ)とその隣の村にしかその苗字が存在しないことがわかりました。



<プロセス2>

少なくとも、その市町村には、合計数軒しかその苗字の方がおらず、それもA村に多数のその苗字があったので、


 A村を「ある苗字」の氏族の本拠地


と推定しました。



<プロセス3>

 現在の市町村誌ではなく、旧郡誌を探し出して記述を調べると面白い記事が!


 江戸時代に書かれた書物の該当A村の箇所に、苗字についての記載があるとのこと。


 キタキタキターっ!



<プロセス4>


 その江戸時代の書物は「寛政年間に某藩の藩士によって書かれたもの」なのですが、その書物を探し出して読んだところ、


 「その村には○○、△△、□□、☆☆という苗字があって、それらは古家である」


とちゃーんと載ってました。


 寛政期に、農民しか住んでいないムラに対して四家の苗字についての言及があり、それらが「古い家柄だ」とわざわざ書いてあるということは、何らかの由緒がある家だということになります。


 まあ、とにかく「地縁血縁解析」「先祖家系本貫地解析」がズバッとまるっとバッチりハマリましたので、個人的には満足です。




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 残念ながら、じゃあ、その四家がどこから来たのかとか、もう一歩踏み込んだことについては、まだ調査中です。


 今のところ可能性は2つくらいありそうですが、どちらにしても「藩政期」以前にご先祖様がそちらへやってきたような気がします。

 


 とはいえ、私はご先祖さま探しを仕事としてやっている「業者」さんではありませんので、主にネットや資料だけでできる範囲の「アドバイス」程度しかやっておりませんが、いいヒントが見つかってよかったと思います。


 もし、ご自身でこの魔法の技術「地縁血縁解析法」「先祖家系本貫地解析法」をやってみたい、とお思いの方がおられましたら、メールいただければ資料についてご説明します~。



☆ 本拠地・本貫地解析に必要なのは、「苗字」と「住所(旧ムラ名・現在の字)」です。住所に番地はいりません。字(あざ)名までわかれば十分です。



2014年6月17日火曜日

<姓氏家系>完全網羅 苗字 太田姓・太田氏・太田さんのすべて! 全太田氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル

<改定済>

 ふだん私は「大塚姓」について、の研究をメインに行っているのだが、そのため嫁はんのことを蔑ろにしていたせいで、


 大変なことに


なっている。



 だいたい、大塚姓の調査のために「古書・専門書」を買いすぎたので、妻はご立腹なのである。


 というわけで、今回は特別編として、奥さんの旧姓である「太田」姓について、いつものリストをババーンとお届けする。


 これで奥さんの機嫌が直ればいいなあ、という浅はかで邪まな計画なのだが、そのおかげで全国の太田さんのためになればいいなあ、とも思う。


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 以下は、


 「日本中の全『太田』さんのルーツについて調べたリスト」

(太田姓・名字「太田」のルーツ、苗字・名字『太田』の由来などを調査した一覧)


である。


※おそらく大半の太田さんを網羅できているはずだと思うのだが、100%完璧かどうかはわからないので、もし漏れていたらぜひぜひ、ご連絡いただきたい。


☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
「苗字・名字の由来と先祖探しのアドバイスをします」
よりご依頼ください☆





★ 参考文献 ★

 今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。

 ① 「寛政重修諸家譜」 索引ならびに影印本 近代デジタルライブラリー 国立国会図書館

    http://kindai.ndl.go.jp/

 ② 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ③ 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ④ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版

 ⑤ 「日本の苗字7000傑」  http://www.myj7000.jp-biz.net/

 ⑥ その他
 

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 今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「太田姓」「太田氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。

※ 寛政譜に記載のある場合、数字においては【八木書店版】「寛政重修諸家譜」の巻数を表す。

【  】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。


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A 太田氏 美濃国安八郡大田村を領したことから称する。菅原氏族 寛政譜17  【梅鉢】

B 太田氏 三河国より起こる。藤原氏秀郷流 寛政譜14  【片喰】

B? 太田氏(政継系) 三河国より起こる。藤原氏秀郷流 寛政譜14  【夕顔蔓の内に源氏半車】【半車】

B? 太田氏(勝奥系) 三河国より起こる。藤原氏秀郷流 寛政譜14  【大文字】

B? 太田氏(正勝・正盛系) 三河国より起こる。藤原氏秀郷流 寛政譜14  【違い鷹の羽】

B? 太田氏(吉次系) 三河国より起こる。藤原氏秀郷流 寛政譜14 【左三つ巴】【竹に雀】

C 太田氏 三河国より起こる。清和源氏宇野愛子氏族 【片喰】

D 太田氏 清和源氏頼親流 太郎次郎頼遠が祖。寛政譜21  【片喰】【釘抜】

D? 太田氏(宗重系) 清和源氏頼親流 寛政譜19 【違い切り竹笹】【丸に桔梗】

D? 太田氏 清和源氏頼親流 頼景系を経て太田氏。【家紋不明】

E 太田氏 下野国より起こる。藤原氏秀郷流 寛政譜14  【桔梗】【糸輪に陰桔梗】 

E? 太田氏 下野国より起こる。藤原氏秀郷流足利氏族 寛政譜4  【井桁に違い鷹の羽】【熨斗輪に違い鷹の羽】【丸に桔梗】

F 太田氏 丹波国桑田郡太田に住み称す。清和源氏多田氏族 太田道灌の系 寛政譜4 18 19【太田桔梗】【石持地抜き桔梗】【違い矢】遠江掛川藩主

G 太田氏 藤原氏支流 寛政譜22 【茶の実】【三つ茶の実】

H 太田氏(正勝系) 清和源氏頼光流 寛政譜19 【九曜】【桔梗】

H? 太田氏(快政系) 清和源氏頼光流 寛政譜19 【巴】【丸に桔梗】

I 太田氏 上野国清和源氏義家流新田支流 寛政譜18 【蔦】

J 太田氏 甲斐国の藤原氏秀郷流 寛政譜14 【巴】【飛び雀】【笹竜胆】

K 太田氏 加賀藩給帳に記載あり。【四つ石】

L 太田氏 伊勢国源氏 尾張藩士にも記載あり。【丸に違い柏】

M 太田氏 清和源氏頼親流・宇野氏・髙木氏を経て太田氏【違い鷹の羽】

N 太田氏 藤原氏師実流 青方氏を経て太田氏 【家紋不明】

O 太田氏 近江国太田荘より起こる。清和源氏頼平流 柏原氏を経て太田氏 【家紋不明】

P 太田氏 桓武平氏維将流。久下氏を経て太田氏 【一米田】

Q 太田氏 豊後大神氏より、阿南氏系野津原氏の別姓。【三つ巴】

R 太田氏 藤原氏秀郷流 関氏を経て太田氏。【揚羽蝶】

S 太田氏 藤原南家為憲流より入江氏を経て太田氏。【丸に三つ石】

T 太田氏 村上源氏海老名氏、本間氏を経て太田氏。【寄掛目結】

U 太田氏 清和源氏義重流より里見氏を経て太田氏 【蔦】

V 太田氏 結城氏、白河氏を経て太田氏 【三つ巴】

W 太田氏 多田氏仲政流を経て、小野姓猪俣党太田氏。【桔梗】



現在のところA~Wまで23氏族判明中 調査継続!


(平成24年10月8日現在) 新しいことがわかれば更新します。

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<告知です>

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既に何件かサポートさせていただきましたが、喜んでいただいております(^^


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2014年6月16日月曜日

<研究法>自分の苗字のルーツを調べる方法 農民バージョン

 自分の苗字のルーツを探る方法、自分の先祖を探る方法、の特に「うちは農家ですたい!」の場合についてメモ書きです。


 「武士」だった場合は「分限帳」で探せ、とかよくアドバイスがありますし、私も実際その方法をやっていますが、この場合ちょっと癖があって


 分限帳と略系譜でわかるのは、そのものズバリの家系の時だけ


だと思います。ぶっちゃけ。


 そして、もっと言い方を変えると、


 幕末時点で士族だったと明らかな家だけ


かもしれません。


 これって、すごく低い確率で、「武士の分限帳も略系譜も、基本的に長男家系だけ継いで成立している」ので、本家筋の人は当たればラッキーだけど、ちょっと次男とか分家だと、すぐ逸脱してしまう、という問題点があります。


 一族の究極の本家を探す、って意外に難しいので、「分限帳におなじ苗字がある」くらいまではわかるけれど、「戸籍と合致した」なら幕末士族しかぴったんこしないし、「過去帳と合致」する場合は、そこまでいく時点でかなりのことが判明してるはずなのです。


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 となると、たとえ武士の家系でも「直系じゃなかったり、分家だったり」すると初期の時点で一代限りの足軽扱いになっていたり、逆に農民側トップの「庄屋」だったりすることのほうが多いので、農家ならではの調べ方が効果を発揮しそうです。

 (多くの藩で、「庄屋」は農民でありながら藩政サイドに組み込まれていた事例もあるのでね)


 農家の場合は、やはり、「その姓の分布の中心地」を探すことが結果的に近道だったりすると思います。

 じゃあ、やっぱり「地縁血縁解析法」(先祖家系本貫地解析法)を一回はかけといたほうが、いいような気も。


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  最初から最後までずっと農業でした、という家の人は、さすがに見つけにくいかもしれませんが、


「戦国時代は武士で、どこそこに定着して、のち帰農した」


という家は、このやり方でかなり有効なのではないか、と体感ですが思っています。


 地縁血縁解析法にかけると、「自分が思っている本家の場所」と「実際の分布による本家の本拠地の場所」のずれがわかるので、調査のターゲットの場所を確実にできそうです。




2014年6月15日日曜日

<中休み>全国の「大塚さん」調査第二段へ向けて

 みなさんこんばんは

 毎度おなじみ軍師官兵衛ちゃんを見終わったので、ブログ更新です。

 いやあ、今日は岡田くんも鶴太郎さんも良かったねえ。

 別所長治は、あっさりと開城したので、結局今回のNHK大河ドラマでは


 三木攻めのシーン全部カットやないかーい!


 播州後藤一族の活躍が一切無視というのはどういうこっちゃ。

 だって、又兵衛のネタとかどうするの?

 ツカミなしで、黒田二十四騎いきなり登場?!

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 閑話休題。


 いやいやいや、長かったわが三潴地域の「大塚」姓の由来について、おおむねメドがついて、「まあ、だいたいこんなとこだろう」というオチが決まったところで、いちおう当ブログの「初期の目的」は達したことになります。


<まとめ>

① 私の先祖の大塚家は、赤松系ではないと推測したほうが、確率が高い。

② 久留米藩に所属する、武士であったという資料が見つかっていない。

③ 戦国時代に武士であった可能性は、状況証拠から見て高いと思われる。


 とはいえ、ご先祖様調べは、まだまだ眠っている証拠がたくさんありますから、いったんここまでの結論とはいえ、また変更するかも。


<まだやりたりないこと>

① 旧土地台帳は調べていない。

② 寺の過去帳は未調査。しかし、寺の縁起の関係で、途切れている可能性が高い。

③ 宗門人別帳は未調査。

④ その他未発見資料あるかも。


 特に、私は実家本家から遠方に住んでいるので、「直接檀家でないのでお寺さん関係が弱い」とか「平日にいかなきゃならない法務局や役所関係が弱い」という弱点があります。

 
 基本、ネットと書籍だけで攻めておりますので、そこはご了承くださいませ。



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 さて、そんな感じで、ちょっと大団円シリーズも落ち着いたので、また「全国の大塚姓」シリーズをボチボチ復活させてゆきます。


 実は、ここんところ、新しい完全網羅版「大塚姓の由来」があまり増えてません。 基本的に、日本中の大塚さんはざっくり網羅できている証拠だと思いますが、各地の大塚姓について、もうちょっと深く掘り下げてゆきたいなあ、という今日この頃。


 今後とも「全国の大塚さん」からの情報をお待ちしております!



<73>『歴代鎮西志』を読む

 当ブログの第<65>~<67>回で調査した『北肥戦誌』であるが、実は九州戦国時代の様相を記した「兄弟本」のような資料がもうひとつある。

 それが『歴代鎮西志』であり、 佐賀藩士「犬塚六郎兵衛盛純」が元禄年間に佐賀藩に献上し、鍋島家に秘蔵されてきた幻の本である。

 北肥戦誌が、人物出来事を軸に描写し、歴代鎮西志が時間を軸に描写しているのは、まるで「紀伝体の古事記」と「編年体の日本書紀」のようでもある。


 その「歴代鎮西志」にも、大塚隠岐は登場する。それも、隠岐守ではなく「大塚隠岐」という表記で。

 登場する箇所は北肥戦誌とまったくおなじで、

 「神代長良が龍作寺に攻められ自害しようとしたとき」

であり、歴代鎮西志でも、長良は家臣たちに切腹を止められ無事に千布城を脱出する。


 さて、その時、長良の妻が城に取り残されていたので、その妻を守る形で城に残ったメンバーに「大塚隠岐」の名前が挙がる。

 大塚隠岐の名前がでてくるのはこの時だけだが、長良の妻はこのあと別ルートで城の脱出に成功、しばらく身を隠したのち、最後に長良と再会できるので、



 大塚隠岐は、長良の妻と行動し、脱出


したと考えることができる。



 これが1565年のことであり、神代長良はその後大友氏を一時頼り、最終的には龍造寺と和睦しその家臣となる。

 「隠岐」が当村に来たのは天正5年(1577)から天正15年(1587)の間なので、最短で千布城脱出から12年だが、その間大塚隠岐の記録が全くないとなれば、天正9年(1581)の神代長良死去(病死)のちに引退蟄居したのかもしれない。


 以上補足として書き加えておく。



<72>ご先祖様調べ・家系調査にかかる費用。そして「当家の推定家系図」


 長々と、そしてだらだらと書いてきた当ブログの、とりあえず「第一弾のまとめ」として、下記を挙げておく。

 ここまでくるのにかかった手間と時間など。


<年月>

 足掛け10年だけど、ほったらかし期間が9年と半年くらいあるので、実質6ヶ月くらいで到達いたしますた。


<費用>

 ネットでの調査。無料。グーグルさんにお世話になった数、プライスレス

 書籍代 たぶん、古本いろいろで6万円くらい。図書館複写依頼分は、全部で数百円。

 現地調査。一回だけ。家族旅行で10万円(新幹線・ホテル・レンタカー込み)+食費など。



<思うところ>

 家系調査やご先祖様探しを業者に頼むと、数十万円から100万円越えのところもあるようだが、結局何にお金がかかるかというと「現地調査の旅費」とか「資料代」とかで、あとは「時間的人件費」だと考えれば、

 考えようによっては、妥当

だと思う。

 
 戸籍をとって、それを読み取ってその範囲だけ家系図にするのは「1系統」なら5千円から1万円で可能。系統数が増えれば、それが2万になり4万になるだけ。


 問題はそこから先で、「現地に行く費用」「図書館で資料を探して読む時間給」、「また次の資料を探しにゆく手間賃」などを積算すると、軽く数十万円になるのはわかると思う。


 私の場合で、資料集めコストが16万として、それに一日2時間作業して、×6か月(180日)×時給1000円だとすれば、36万円で、合計52万円かかっていることになる。


 じゃあ、52万払って業者さんに頼んだほうがいいか、となるとそこは個別の考え方次第だと。


 自分でやるとめちゃくちゃ面白いけど、手間はたしかにかかるのである。



 というわけで、判明した家系図をちょろり。

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 当家の推定家系図である。

これは「家」「氏族」の家系であり、DNA的には確実に途切れていることが判明している


<始祖>

中臣鎌足(藤原鎌足) 



- 藤原秀郷 - (不明)



- 武藤頼平 -(養子)武藤資頼 のち少弐資頼


<少弐氏>

少弐資頼 - 少弐頼尚 - (兄)少弐冬資


- (弟)少弐資俊 - (三代) -大塚俊氏


<大塚氏>

大塚俊氏 - (不明) - 大塚隠岐守 -(不明) - 大塚喜平次


 <当家大塚氏>

大塚喜平次 -  曽祖父 - 祖父 - 父 ー 私


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 というわけで、自分で「ご先祖様探し」をやってみたい!と思うそこのあなたのために、今回このブログを書くのに使った全てのノウハウを詰め込んだ


「ネットでできるご先祖様の探し方・家系調査」


なる本(PDF電子書籍)を書き下ろしました。


 驚異の「地縁血縁解析法」の具体的なやり方とか、タダで苗字の由来を知る方法とか、ネット検索のテクニックとか、コンパクトですが実務を詰め込んでます。


 A4で50Pですが、濃い中身です。


 頒布はPDFファイルのメール添付です。





 頒布の詳細は、下記サイトにも載ってます。

https://note.com/myouji/n/naeb3b3c9901d

※noteでの公開に切り替えました!



 もちろん、このブログの右のほうにあるメールアドレスに問い合わせていただいてもかまいません。


 興味のある人だけどうぞ。(まあ、たいていの人にはあまり関係ないかも)



2014年6月14日土曜日

<71-8>大団円に向けて ~『抱き茗荷』の謎を解け!~

 さて、わが一族の先祖が「大塚隠岐守」なのではないか?と推定したところで、いよいよ最後の問題、とやらが残っているので、それを解決しよう。

 
 それは、・・・そう。家紋、家紋である。

 

 そもそも振り返ってみると、このブログの本来の目的は、「抱き茗荷の大塚氏は赤松氏流なのではないか?!」というところにあったはずだ。


 しかし、そんな話は、いつの間にか吹き飛んでしまっているのだが、いやいや忘れてはいけない


 我が家の家紋は「抱き茗荷」である。そこに、どんな秘密が隠されているのか、明らかにしてみよう。


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 ”佐賀の殿様は『抱き茗荷』やもんね”


という言葉が、佐賀地方ではよく口にされるという。ここにすべてのヒントがあるのだ。


 佐賀の殿様、つまり佐賀藩を治めた鍋島氏は


 こんな家紋を用いる。葉脈のついている「抱き杏葉」である「鍋島杏葉」である。


この家紋をみて、佐賀の人は「抱き茗荷」だと呼ぶのだ。


 さて、この家紋になったのには理由がある。既にこのブログでもお伝えしているが、鍋島信生が、大友氏の家紋を見て、

「やっべ、まぢいけてんじゃん。あれ、ほしくない?」

といいながら、大友氏から奪った家紋なのである。

 では、その大友氏の家紋とはどんなのか。




 こんなのである。 これが、どノーマルな「抱き杏葉」であーる。


 この家紋を見て、江戸時代中期の佐賀藩士「北肥戦誌の著者、馬渡俊継」は


 茗荷丸


だと書いた。ちなみに、大友氏から直接奪ったのは鍋島信生だが、彼は龍造寺氏の不動のセンターだったので、このとき、龍造寺氏も同じ「抱き杏葉」を家紋とした。



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 以上のように、江戸期から現代に至るまで、「抱き杏葉」と「抱き茗荷」は混同されていることがわかる。

 
 他の事例として、たとえば


 ウィキペディアより 熊懐氏



では、大友「抱き杏葉」から転じて、いつの間にか「抱き茗荷」が家紋になっている実例が挙がっている。



 また、浄土宗の宗祖「法然上人」は大友氏の出であり、浄土宗紋は「抱き杏葉」であるが、



 simmel20の日記 さんのブログより



にもある通り、寺院の中にも「抱き杏葉」と「抱き茗荷」を混同している例が絶えない。




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 さて、当家の「家紋のデザイン」を確認できる最古の墓碑は「昭和9年」のものである。そのデザインをもって私は「我が家の家紋は抱き茗荷」だとしてきたが、


 もしかしたら、古来は「抱き杏葉」であった


かもしれないと考える。


 それも、誤りがあったとしても、佐賀藩の馬渡俊継の件でわかるとおり、


下手すると、江戸中期から間違って描いている可能性だってある


と考えられるのだ。



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 結論はこうだ。


 当家の「抱き茗荷」は、「龍造寺氏の一門に属した」ことを表しており、それは「古賀伊豆や隠岐」が当地に定着した件と合致する。

 もし万一「隠岐」が「大塚隠岐」ではなかったとしても、私の祖先は、その一族もしくはその家臣に属する者であったことは、かなりの高確率で間違いない。



 その傍証となる事実がある。


 実は私の祖先が属する村の墓地・納骨堂を調査したおり、せまいムラの中で、「大塚・益田・吉田」姓の3家がおなじ「抱き茗荷」を使っていることが判明している。

 この3家は、いずれも、隠岐や古賀伊豆の家人・家臣であると推定しても、それほど外してはいないと思われる。


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 いやはや、はてさて、しかしまあ、なんですねえ。

 今頃こんなことを言うのはどうかと思うが。


赤松氏は、どこへいったんじゃーーーーーーーい!


(ごめんね。あんまり関係なかったみたい)



 これにて、一件落着。めでてえな。


2014年6月13日金曜日

<71-7>大団円直前! ~大塚氏の歴史的発見?!未発見資料が出た!

 クライマックス直前の今の時期になって、すごい資料が出てきたので、ドキドキが止まらない。


 だ・れ・か。ロマンティックと・め・て♪ フゥー!


古っ。ちなみに、CCBの笠浩二さんも福岡の人である。そしてなんと、あのめがねは


 伊達めがね


なんだとさ!新発見!


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 いやいや、今回の発見はそんなどころではない。

 わざわざ<速報!>としてお知らせするくらいだから、すごいのだ。


 そう言えば、最近「坂本竜馬の直筆の手紙」なるものが発見されたらしいが、さすがにそれには匹敵しないと思われる。



 発見したのは、先日よりお伝えしているわが大塚一族の住む「ムラ」に関する「マイナーな資料」の一部である。


 この資料、実はいろいろと複雑な状況になっている。資料名がバレると、わが大塚一族の住むところのプライバシーがバレてしまうので、伏せておくが、こんな感じだ。


 資料名を「K」としよう。

 「K」には、当時の藩に報告したいろいろな村からの情報が書き連ねてあるのだが、刊本として出版されているものは、一部の村々の記述が欠落している。


 そしてわが大塚家が属する村は、欠落した部分に当たるので、この「刊本版K」を読んでも情報はない。


 そこで、当時の研究者たちは、この欠落部分を「研究会誌」の形で後から補足した。よって、現在、この追加分は「研究会誌版K」によって読むことができる。


 ところがである。


 今回、私はその詳細を調査すべく、


「研究会誌版K」


を入手するとともに、


「Kの原本複写(オリジナルのコピー)」


を久留米市立図書館から取り寄せた。


 すると、すごいことがわかったのである。


 ちょうど、たった今このブログで絶賛調査中の「古賀伊豆」と「隠岐」に関する記述のうち、「研究会誌版K」では、ちょうど重要な部分が2ページ抜け落ちているのだ。


 そのため、研究会誌版Kでは、前後のつながりがおかしくなっている部分が生じてしまっている。研究会誌を読んでいる者は、それに気付かないと「大きなミス」を犯してしまうことになる。


 ということはである。


 その抜け落ちている2ページは、この世の誰も、まだ翻刻していない部分ということになる。


 誰も活字に起こしていないし、どこにも活字になっている出版物がないということだ。


 そして、そのことに気付いているのは


世界で私だけなのだふはははははは!!!!


(↑デーモン閣下風に読むと、雰囲気が出ます)


というわけで、本邦初公開。資料Kの未翻刻・未研究部分をお見せしよう!





 一部モザイクがかかっているのは、けしてエッチなことが書いてあるわけではない。お寺の名前が出ているので、いちおう伏せているからである。
 

 さて、その内容である。


 一枚目は、特に当家にとって重要ではないので、ほっといてよい。二枚目の最初はお寺の名前が出ていて、

「特にたいした記録はない」

と書いてある。


 そして、最後の部分である。ここが重要である。


「古賀屋敷というところがあって、古い松の大木があったりするんで御座候(ござそうろう)。天正年中に肥前龍造寺の幡下(家臣)の伊豆という人がおりまして・・・・(以下次のページ)」


 読めばわかるとおり、例の「古賀伊豆」の話である。そして、この次のページのところに、「隠岐」が出てくるのだが、大切なのは


天正年中


という年号である。


 これまで、私の推理では、「蒲池鎮漣と玉鶴姫が殺害されてしばらくののち」にR和尚や古賀伊豆や隠岐が、龍造寺から離脱して筑後に留まった、としてきた。


 これは当然ながら仮説であったのだが、「天正年中」という言葉がでてきたおかげで、その仮説が立証されたのである。


 具体的にみてみよう。年表を出してみた。



 天正5年(1577)R和尚 X寺建立。

 天正9年(1581)蒲池鎮漣と玉鶴姫殺される。

 天正9年(1581)龍造寺勢、鍋島直茂が柳川城へ入る。

 天正12年(1584)隆信の死により直茂佐賀へ帰還。代わって龍造寺家晴が柳川城主に。

 天正15年(1587)秀吉が九州平定。立花宗茂に柳川城を与える。


※公的記録では、R和尚のX寺創建と蒲池鎮漣殺人事件の順番がおかしいことになっているが、そこはあまり気にしない。R和尚は早々に龍造寺を離反していたのかもしれない。


 こうして考えると、「天正年中に古賀伊豆と隠岐が我が村に来た」とするならば、彼らがやってこれるのは


 天正5年から天正15年の、最大でも10年間しかない


ということが判明する。

 龍造寺方の人間が三潴地域にいたのは、その期間だけなのだ。


 この年代について確定立証できたのは、上の資料が発見されたおかげである。


 いやはや、こうやって歴史研究は進んでゆくのだ、と実感。

<基礎資料>”未翻刻”全国諸藩分限帳リスト<常に追加更新>



注意:今回の記事は、先祖探しのために皆さんが利用し易いようにまとめた目録のみです。


最終更新日 2017.6.16


★当目録は、姓氏調査のために使用できる江戸時代諸藩の「分限帳(ならびにその類)」についてまとめたものである。


 ただし、現在活字化され、公共図書館等で閲覧可能なものは、別に


 全国諸藩分限帳総覧
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/04/blog-post.html


としてまとめているので、そちらを参照願いたい。


 当”未翻刻”全国諸藩分限帳リストは、江戸時代の原本・写本のまま活字化されていない資料をリストアップしたものである。

 よって、以下の資料は、該当資料を古書などで入手した者以外は閲覧できないという特殊なものとなる。

 ただし、「そうした資料が国内のどこかに現存している」ということを知るためには、貴重な情報であると考える。


★江戸時代、全国には幕末で276藩あり、消失した藩を加えるとそれより多くなるため、全てを網羅するには時間がかかることを許していただきたい。


★ 販売中、とは「販売されていたことがある」の意味で、今現在売り切れている可能性もあることをあらかじめお断りしておく。




====================



■ 『御公家分限帳』 寛文7年 国立国会図書館デジタルライブラリー
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2539873

■ 『大閤秀吉公御時代分限帳』 国立国会図書館デジタルライブラリー
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2541621

■ 『豊臣太閤秀吉公御治代分限帳』 国立国会図書館デジタルライブラリー
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538855

■ 『古代 大名分限帳』 江戸末期写本 名雲書店 販売中


■ 『鉢形北條分限録』 北条氏 江戸期写本 北さん堂
 http://blogs.yahoo.co.jp/kitasan1970/MYBLOG/yblog.html?fid=0&m=lc&sk=0&sv=%CA%AC%B8%C2%C4%A2

■ 『北条家分限帳』 国立国会図書館デジタルライブラリー
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538668

■ 『侍分限帳』 本庄出羽守、市川土佐守など 承応2年 秦川堂書店所有 販売中

■ 『(山形藩)最上家中分限帳』 江戸期写本 山星書店所有 販売中

■ 『会津御在城分限帳』 慶長3年~ 市立米沢図書館デジタルライブラリ
  http://www.library.yonezawa.yamagata.jp/dg/KG002.html

■ 『信州高島藩分限帳』 (御家中分限簿) 江戸期写本 山星書店所有 販売中

■ 『信濃国上田藩 御家中列分限帳』 松平家 慶応元年 山星書店所有 販売中

■ 『信濃国松代藩真田家分限帳』 江戸期写本 山星書店所有 販売中

■ 『松本藩水野家分限帳』 享保期 山星書店所有 販売中

■ 『(加賀藩)御役列御礼次第帳』 文政期写本 山星書店所有 販売中

■ 『越前藩中分限帳』 文政初年 国立国会図書館デジタルライブラリー
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536275

■ 『(上州利根郡沼田城主家中)沼田分限帳』 国立国会図書館デジタルライブラリー
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538587



■ 『宇都宮家譜』 高山昌賢筆 享保2年 永楽屋所有 販売中

■ 『成田家分限帳』 国立国会図書館デジタルライブラリー
  http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2538669


■ 『(岐阜県加納藩)永井家分限帳写』 明治期写本 山星書店所有 販売中

■ 『金沢藩分限帳』 江戸期写本 山星書店所有 販売中

■ 『若狭国小浜藩酒井分限帳』 元文3頃 山星書店所有 販売中


■ 『岡山大学 池田家文庫マイクロフィルム』侍帳ほか
 http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/micro/list/b/%E8%97%A9%E5%A3%AB%EF%BC%88%E5%88%86%E9%99%90%E5%B8%B3%EF%BC%89

■ 『岡山藩家老 伊木豊後様侍帳』 江戸期写本 山星書店所有 販売中

■ 『(愛媛今治藩)天保三年御家中分限帳』 デジタル画像
  http://www.lib.ehime-u.ac.jp/EJIMA/html/02/siryo/2/2.htm


■ 『忠利公豊前於小倉御侍帳』 元和9年 (明治写本) 山星書店所有 販売中

■ 『秋月分限帳』(九大コレクション)和装1823









2014年6月12日木曜日

<71-7>大団円に向けて ~大塚隠岐守とは何者か~

 さて、いよいよ推理小説のクライマックスのような展開になってきた当「俺ん家コード」ブログであるが、ここに来て登場した


 大塚隠岐守


とは一体何者なのか。果たしてこの人物は、本当に「私のご先祖様」の可能性があるのか!


・・・・・・実は、この人物、このブログでは既出の武将であることは、当ブログファンの皆様ならすでにお気づきに相違ない。


 出てきたのはここ。


 <65>北肥戦誌を読む 第一回
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/05/65.html



 この時、大塚氏について列挙した一番最後に「神代長良の家臣、大塚隠岐守」として登場しているのである。


 先にも書いたが、神代氏はもともと久留米の高良玉垂神社の神主の家系である。ということは、この大塚隠岐守は、「筑後・久留米周辺の大塚氏」であった可能性が高い。


 そして、高良玉垂神社(ただし、末社)は、わが大塚家の村の神社でもあり、我々はその氏子でもある。

 
 その神代氏が、諸事情で佐賀へ逃れており、少弐氏の家臣になっていたところ、おなじ少弐氏の家臣であった龍造寺が権力を握り始めたせいで、神代長良と龍造寺は一時交戦状態になるわけである。


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 「北肥戦誌」を読んでみよう。


神代長良が龍造寺隆信に攻められて負けそうになり、自害ししようとした時、


「大塚隠岐守以下の家人共も、様々制して『早く御落あれ』と勧めたので、長良も承知して自害を思い留まり、主従二十人ばかり北小門よりお出になった」北肥戦誌より)


と、神代長良を逃がした家臣が大塚隠岐守である。このあと、長良と家臣は散り散りバラバラになって逃げるのだが、最終的に神代長良は龍造寺の家臣になるので、大塚隠岐守もそれに従った可能性はある。

(そのあと大塚隠岐守がどうなったか、北肥戦誌には記載がない)



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 時系列を追ってみよう。この長良脱出成功事件は、「永禄8(1565)」のことである。



永禄8年(1565) 大塚隠岐守 神代長良を脱出させる。

元亀2年(1571) 以降、神代長良は龍造寺家臣となる。

天正5年(1577) 龍造寺家臣のR和尚が出家してX寺を創建。

天正9年(1581) 蒲池鎮漣(34歳)・玉鶴姫殺される。
天正9年(1581) 神代長良 死去(45歳)

天正12年(1584) 龍造寺隆信 死去(55歳)


※公的記録上では、R和尚がX寺を建てた年と、蒲池が殺された年が入れ替わっていて、話のつじつまがあわない。

 R和尚は蒲池と玉鶴姫のために出家したという伝承になっているからである。

 しかし、この差4年であるので、ここはとりあえず「同じ時期」と見ておこう。



 そして、上の年表をよく読むと、「蒲池事件が起きたのと、長良が死んだのが同じ年」であり、それから「龍造寺隆信が死んだのもそれからたった3年」であることから、


 大塚隠岐守が、神代長良のことを思いながら、龍造寺家臣から離脱し、筑後に帰ることは、十分に成立する


ことがわかるのである。


 時に、大塚隠岐守が、長良より年上の家臣だったとして、天正9年時点で最大55歳程度、年下の家臣だったとして、最少35歳程度と想定できる。


 いずれにしても、蒲池事件の際、大塚隠岐守は


完全に同時代を生きた人物


だといえるのだ。


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 さて、同時期にB村に住み着いた「古賀伊豆」なる人物のことも忘れてはならない。九州には今でも「古賀さん」が多いのだが、この古賀姓の由来について



 日本の苗字7000傑さんのサイトより
 http://www.myj7000.jp-biz.net/q&a/kikajin.htm


 筑後国氏族譜さんのサイトより
 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad/1235/shizokufu.html



 面白い伝承がある。


 上記2サイトを参照してほしいのだが、古賀家の家伝では


『先祖は漢の高祖の末裔で、劉氏である。日本に帰化してはじめは甲斐の国に住み、それから筑後三潴郡古賀村に来て『古賀姓』となり、江上氏・龍造寺氏に仕えて、その後佐賀鍋島氏に仕えた』


となっている。


 これも、話ががっちり合う。


 三潴郡古賀村は、現在の柳川市領域で、これも筑後の氏族ということになる。


 つまり、わかっている限り、神代氏も古賀氏も「久留米・柳川」に住んだ一族の系列であり、とすれば、「大塚隠岐守」も同系列と推定できる。

 また、筑後が本拠地だったからこそ、龍造寺氏からの離反のあと、「筑後(それもより狭い範囲で言えば三潴)に戻ってきた」ことが推定できるのだ。


 

 そして、筑後系・神代・古賀・龍造寺といった一連の点と線をつなぐ中心地点は、やはり


少弐氏


であると言わざるを得ない。


 神代も龍造寺も、少弐氏の家臣から出た。もちろん、古賀氏も少弐氏家臣団にいる。そして、筑後の大塚氏は「少弐の末裔」であることが示されている。



 そうなのだ。あとは最後の問題をクリアさえすれば、すべての点と線は合致するのである。



(この章さらに続く)







2014年6月11日水曜日

<71-6>大団円に向けて ~『隠岐』と龍造寺氏をめぐる驚愕の事実!~

 突然だが、「背番号3」といえば、誰を思い浮かべるだろうか。


 そう日本が誇る野球人の中の野球人「長嶋茂雄」その人である。


 ついでに、サッカーで「キング」といえば「カズ」である。

 おまけにサッカーで「神様」といえば「ペレ」でもある。


 そして何より、「不動のセンター」といえば、「前田敦子」なのである!



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 冒頭からなんのこっちゃ、と思われる方が多数おられると思うが、今見たように、「称号」や「愛称」というのは、もともとは誰に対して呼んでもおかしくないはずのものが


特定の人の代名詞


になることは現代でもよくあることだ、ということを示したかったのだ。


 なぜ、そんな話が重要なのか、といえば、そう、前々回から引き続きお届けしている「隠岐」なる人物が、かなり驚愕なのである。



 日本には歴史マニアとか暦女(れきじょ)なる人たちがたくさんいると思うが、その人たちに今回の話をすると、一様に「ちょっとおもしろいね」あるいは、「それはちょっと奇妙だ」と首をかしげるに違いない。


 それはつまり、

「背番号3といえば、阪神の関本」

とか

「あっちゃんは一度総選挙で負けてるから、やっぱり大島優子なんじゃね」

とか、そういう話が出てきて「おいおいおい、それはちょっと変やろ」とチャチャが入るような話なのだ。



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 もとい。


 今回のテーマは「隠岐」である。


 わが大塚家のある地域に、その昔、龍造寺家臣の「隠岐」なる人物が住んだらしいという話を前回紹介したところだが、これだけ聞くと、歴史マニアの諸君は


「それはおかしいな」とか「それはおもしろいな」と、首をひねる


に違いない状況なのである。


 「隠岐」という言葉は、ふつうに考えれば名前ではない。それはおそらく官位で、前回出てきた「古賀伊豆」は「古賀伊豆守」であり、「隠岐」は「ほにゃらら隠岐守」と呼ばれた人物だと考えられる。


 豊臣秀吉でいうところの「羽柴筑前守」であり、彼が「ちくぜん」と呼ばれるシーンを思い浮かべてもらえばわかりやすいだろう。


 さて、その隠岐守が変なのだ。

 なぜか?龍造寺ときて「隠岐」といえば、冒頭の背番号3番ではないが、


隠岐守の位は、龍造寺本家の宗家代々が名乗る定番


だからである。


 おかしいでしょ?龍造寺の家臣の「隠岐」なんて。それは本来「龍造寺本家本元の長男」を意味するのだから、龍造寺の家臣が「隠岐」なんて名乗ること自体がおかしいわけだ。


 うそだと思ったら、ウィキペディアで見て欲しい。



 ウィキペディアより龍造寺家氏
 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BE%8D%E9%80%A0%E5%AF%BA%E5%AE%B6%E6%B0%8F


 
 右の方に「官位」が載っているので、「隠岐守」になっていることがわかるはずである。


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 この謎を解くには、いわゆる「□□守」などの官位について知っておく必要がある。もちろん、本来の官位は「朝廷から贈られる」ものである。

「筑前守」は筑前国の守護を任命されたものが拝命する官位というわけだ。


 しかし、戦国の世には朝廷の権力は実際には無力に等しかったため、時の実力者が、部下に勝手に官位を与えることが横行した。


「羽柴筑前守」とは、信長が秀吉に勝手に与えた官位である。しかし、そこはホレ。天下人の信長のことだから、事前申請ができなくても、 


事後承認でも、あとからなんぼでも朝廷に追認させてやるわ!


と考えていたわけで。


 そんな訳で、朝廷の追認は別にしても、戦国武将が勝手に官位を部下に与えることは、当たり前のように当時行われていた。


 ということは、我が村にやってきた「隠岐」という人物が、龍造寺氏当主その人でない限り、ふつうに考えれば、その人物は龍造寺氏以前から別の武将に仕えており、その武将から「隠岐」の官位を拝領していたので、そのまま使っていた、と推理することができるわけである。


 では、当時どんな「隠岐」なる人物がいたのか。

 そこで、調べてみると、北肥戦誌にはさらに興味深い記述があった!



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 北肥戦誌に登場する「隠岐」の名を持つものは、以下の通りである。


■ 小田隠岐入道覚一    ……蒲池氏の家臣

■ 大塚隠岐守    ……神代氏の家臣

■ 長野隠岐入道    ……大友氏の家臣

■ 龍造寺隠岐守家和    ……歴代龍造寺当主
■ 龍造寺隠岐守家氏
■ 龍造寺隠岐守康家
■ 龍造寺隠岐守家久


 前述したとおり、龍造寺の本家当主は、代々「隠岐守」を名乗っている。


 そして、何より、「大塚隠岐守」が存在していることが、果たして偶然の一致なのであろうか!


(いいところで、この章つづく)





2014年6月10日火曜日

<71-5>大団円に向けて ~謎の人物『隠岐』とは何者か~

 前回は、わが三潴大塚家の菩提寺が、九州最恐の戦国武将、「龍造寺隆信」の起こした事件に関係があるらしい、というところまでお伝えした。

 さて、本来、三潴郡という地域は、前回も地理関係をおさらいしたが、「佐賀の龍造寺」の支配地域ではない。

三潴地域は、歴史的に見ると、あんなことやこんなことがあるのだが、ざっくり言えば


西牟田氏 → 大友氏 → 蒲池氏


の順に力のあるものが順次支配してきたと言える。


 もちろん、柳川に拠点を持った蒲池氏ですら、その先祖は、「佐賀の松浦党」だというから、筑後と肥前の関係は、実に密接であることは否めない。



 しかし、とりあえず、「三潴はもともと大友氏の支配下にあった蒲池氏が押さえている」ということは、覚えておきたい。

 そこへ、いちおう同盟の関係で力を伸ばしてきたのが、佐賀龍造寺氏であった。

 しかし、ご承知のとおり、龍造寺氏と蒲池氏の関係は、先の「蒲池鎮漣殺人事件」をもって崩壊してゆく。


 その後、柳川はあんなことやこんなことがあって、残りの蒲池氏は城を龍造寺氏に明け渡し、そのうちに龍造寺隆信が死んだので、佐賀の本拠地のほうは


 龍造寺の一番弟子であった鍋島氏


が新センターを務めるようになっていった。


 鍋島氏の親分「鍋島信生あらため後の鍋島直茂」は、このころから秀吉と連絡を取り合っており、いよいよ秀吉が九州へやってきて戦国期も終わりとなる。


 直茂はそのまま佐賀藩祖となってゆき、秀吉の天下統一によって、三潴は元大友氏配下の「立花氏」が支配することになるのだが、キリがないのでこのへんで。



==========


 さて、話を龍造寺隆信の頃に戻そう。


 実は、わが大塚家のある地域について江戸時代の中期に書かれたとある「マイナーな資料」に、こんなことが書かれているのである。


 とりあえず、わが大塚家のあるムラをA村としておこう。そして、その隣の村(うちのムラと基本的に密接な関係にある)をB村とする。


 そして、その資料にはこんなことが書かれている。


「その昔、B村に龍造寺の家臣の『古賀伊豆』という人物が住みつき、A村にはこれまた龍造寺家臣の『隠岐』という人物が住んだ。その跡は『隠岐屋敷』と呼ばれているが、今は作地になっている」



 大塚家のある村はA村である。そこに「隠岐」なる人物が、住んでいた。そして彼も龍造寺氏の家臣であるという。


 R和尚といい、古賀伊豆といい、隠岐といい、我が実家のある地域には、なぜか「龍造寺氏の家臣」がやたらといるのだ。


 蒲池氏家臣でなく、龍造寺氏家臣だということは、考えられるのは2つしかない。



一つは、例の事件のあと、龍造寺氏から離反した面々が三潴に住んだ、ということ。


もう一つは、蒲池氏が柳川を龍造寺に明け渡した時の家臣で、彼らは佐賀に帰らなかった、ということ。


である。


 どちらにしても、R和尚をはじめ古賀伊豆も隠岐も「龍造寺氏に帰還しなかった」という点において、離反者であり、どちらかというと例の事件のあと「蒲池寄りの立場に立った者」ということになる。

 

 では「隠岐」とはいったいいかなる人物だったのか、これがさらなるミステリーなのであった。



(この章まだまだ続く)

2014年6月9日月曜日

<71-4>大団円に向けて ~伝説の男、龍造寺隆信~

 龍造寺隆信という男は、一言で言えば、「波乱万丈」の生涯を生きた人物であるという。

 あるいは、その生き方をもって「勇猛果敢」でありながら「冷酷非情」であるともいう。


 人は彼のことを「肥前の熊」と呼んだ。



 ちなみに、最近、「体操」を踊ったり、各地のイベントに出没したり、「サプライズ」運動に励んでいる例の彼がいるが、人は彼のことを


「肥後のくまモン」


と呼んでいる。 もちろん、全くの無関係である。



(※注 肥前=佐賀  肥後=熊本)


==========

 さて、本気で龍造寺氏のことを語れば、おそらくこのブログの最初から最後までくらいの「一大長編」になることは間違いないので、そこらへんは他のマニアの方々のサイト等を参考にしていただくとして、ここではざっくりとまとめてしまいたい。


 とにかく、龍造寺隆信という人物に集約される龍造寺氏は、佐賀の地頭職からはじまり戦国武将へとのし上がった。

 最盛期には肥筑地方を一手に制圧した「なり上がり」を絵に描いたような人物であり、それゆえに「なんでもあり」なエピソードに溢れている。


 恩人の子を殺す

 一族郎党皆殺し

 幼い子供を磔(はりつけ)

 デブくて馬に乗れない

 死んだ後の首を家臣が「いりません」と断った

 
などなど。



 そして、龍造寺最大にして、彼を自滅に追いやった最悪の悪行として挙げたいのが、


「実の娘の夫を殺す」


という


蒲池鎮漣殺人事件


である。


 この事件が、あるいは直接・間接的にわが大塚家のご先祖さまと繋がることになろうとは、知る由もない大塚某であったが、どうやら、事態はその事件へと一直線に進んでいるかのごとくである。




 押さえておきたいのは、位置関係だ。


 戦国時代、基本的に龍造寺氏は、佐賀を本拠地としている。そして、久留米や三潴をはじめとした筑後地方は、当時の柳川城を拠点とした「蒲池氏」が支配していると覚えておきたい。


 ちなみに蒲池氏の子孫が松田聖子さんであることは、九州歴史マニアであれば「全員が知っている」ところである。


 ついでに、その娘さんである、神田沙也加さんが世界的大ヒットを飛ばしている


 アナと雪の女王


に絶賛吹き替え中であることはご存知の通りである。(だからなんなんだ)



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 さて、龍造寺隆信は、以前に佐賀を追われてボロボロだったとき、佐賀から筑後に逃げてきて蒲池氏にかくまってもらった。その縁で自分の娘を「蒲池鎮漣」という武将と結婚させ、蒲池氏と同盟を組んでいたのである。


 しかし、そこは極悪非道な隆信である。ついでにいっそ筑後を乗っ取ってやるとばかりに、謀略をもって蒲池鎮漣を佐賀に誘い出しては殺してしまったのである。


 呼び出された時、隆信の娘である鎮漣の妻「玉鶴姫」は、「これは絶対あの親父の策略だから、あなた行ってはだめ!」と制したのだが、鎮漣はそれをわかっていて行ってしまった。


 この「玉鶴姫」はなかなかの女性で、

「わたしは蒲池に嫁いだ以上、いくら実の父とはいえ、龍造寺には従いません」

と頑なに父親に反抗し、ついに柳川塩塚城にて108人の従者とともに龍造寺勢に攻められ、打ち殺されてしまったというのである。

(西鉄塩塚駅からほど近く、「百八人塚」なる供養塔が現在もあるという)



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 この事件の後、ただでさえ「ろくでもない」主君にビビッていた龍造寺氏の家臣団は、一気に「いくらなんでも親分はやりすぎだ」と忠誠心を失い、家臣の団結がほころんでいったとされている。


 隆信の最後は、敵に囲まれても部下が「隆信をほったらかしにして逃げた」だの、最愛の部下であった鍋島氏に「首は別にいりません」と突き返されただの、これまた最低なエピソードだらけである。


 そんな龍造寺氏であったから、蒲池鎮漣の事件のあと、離反するものも多々あったのだろう。


そこで、前回の話に戻るのである。


X寺の創建者であるR和尚は、元々は龍造寺家臣の武将であったという。ところが蒲池事件のあと、鎮漣と玉鶴姫のことを思って出家し、その供養としてX寺を建てたというのである。


 そういう由来を持っているのが、我が家の菩提寺なのである。


そして、もっと不可思議なことに、我が大塚家のある地域には、この他にも

「龍造寺氏」に関する別な伝承が残っていることがわかったのだ。



(この章つづく)



2014年6月8日日曜日

<71-3>大団円に向けて ~三潴『存在しない寺』の謎を追え~

 当家のお墓に存在する、2つの宗派の戒名の刻まれた墓。

 それはどうやら、正徳~宝暦期のどこかで、わがご先祖様の所属した寺に何か事情があった、ということを推測させる。

 しかし、そんな事情が本当にあったのか?!


 2つの寺を巡るミステリー不思議発見!の続きがいよいよ始まる。



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 当大塚家の所属する三潴地方のお寺の名前を仮にX寺とする。X寺は浄土真宗大谷派の寺で、久留米藩においては藩主がある時期に「真宗本願寺派」を全て追い出すという「いけず」をしたために、管内には「本願寺派のお寺」は存在しないのだが、それはまた別のお話。


 当家の所属するX寺は、「天正年間」(1500年代)に創立した、戦国時代末期からの寺である。しかし、興味深いことに、江戸時代初期に久留米藩が収集した領内の「寺社のリスト」には


載っていない


のである。これは私がその資料を確認したので間違いない。一部の翻刻資料には誤ってX寺が存在するかのような記載があるものもあるが、それは誤植で、原典に当たると

Y寺

という別の名前が載っている。


 そして、そのX寺が江戸時代初期にそこに存在しない理由について「三潴郡誌」には詳細が載っていないのだが、別のとある資料にだけ


X寺は創建場所は別のところで、(明確ではないが)創建から△00年ぐらいして移動した


という旨が記載されていたのである。


 そして、これまた超マイナーな某資料に、”X寺を創建したR和尚(もしくは同名の人物)が、Y寺のお堂を修理した”ことが記録に残っていたのだ。


 お堂を直してからしばらくして書かれたのが、先に紹介した久留米藩の資料なのだが、この時にはまだX寺は別のところにあるか、もしくはその名前では存在していない。

 そして、久留米藩の資料からしばらくして、当家のお墓がある「正徳3年」を迎えることになり、つまり正徳3年の時点では、「X寺」はまだ当家の地域には来ていないことがわかったのである。



しかし、もともとY寺もR和尚が出入りするくらいなのでおなじ「浄土真宗大谷派」の寺院であった。それなのに、当家の正徳期のお墓が「浄土宗」戒名であるということは、


久留米藩資料が作成されてすぐに、Y寺が失われた


ということ以外には考えられない。


 そして、宝暦期には「浄土真宗」の戒名になっているので、この時にX寺はY寺跡に移転してきたのであろう、と推理できるわけだ。



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 それにしても、寺があったりなかったりしたということぐらい、「まあ、そんなことがあったんだね」で済みそうなものだが、そうではない。

 ここから先は、さらにディープな話になるが、実はR和尚というのは、もともと


龍造寺の配下の武士であり、それが”ある事件”のせいでこの世を儚んで出家した


という経歴の持ち主であることがわかったのだ。



 この事件。単なる歴史の一ページかと思いきや、これが私のご先祖様に繋がるかもしれないとは、このときはまだ思いもよらなかった。

 

 さあ、その事件とは一体なんなのか?!そして、事件と大塚家の関係とは?!



 まて次回!


(この章さらに続く)








<71-2>大団円に向けて ~2つの戒名の謎を解け~

 いよいよ、大団円に向けてはじまった「大塚家」のミステリー解決編。今回も、最終章にふさわしい、謎とミステリーと不思議満載でお届けする。


 まず、最初の”ミステリーふしぎ発見!”はこれだ。



 当家の敷地にあるお墓の件は、既に


”<64>『新事実発見!』 大塚家300年の歴史を辿る”
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/05/blog-post_4461.html


の回で述べた通りである。


 これが正徳3年のものであることも既出なのだが、前回は個人名のこともあるので、戒名は伏せて記事に書いていた。

 で、今回すこしだけチラ見せするのだが、この亡くなった子供の戒名に


”誉”


の文字が入っていることがわかっている。


 そして、今回新たにお伝えするのだが、これとは別に女性のお墓も存在していて、そちらは宝暦7年のもので、


”釈”


の文字が入っているのである。


 ついでにもうひとつ。別の女性のお墓があって、こちらは年号が読めないのだが、


□□四亥年


と刻んであり(「明和四年亥」「享保四年亥」「宝永四年亥」などが考えられる)、そして


”誉”


の文字が入っている。


 もう、この時点でたいていの人は「ぽっかーん」と口を開けて「なんのこっちゃ」と思っておられることと思うが、これがすごいミステリーなのだよワトソン君


(ホームズのりうつる)


「いいかい、よく聞きたまえ。「誉」という文字は、現代でもそうだが「浄土宗」の門徒に与えられる戒名なのだよ。そして、おかしなことに「釈」という文字は、「浄土真宗」の門徒に与えられる戒名だ。ということは、この家には「浄土宗」と「浄土真宗」の2つの宗派の戒名が並列で存在していることになるんだ」


「・・・変だろう?たとえばこういうことは聞いたことがある。あまりいい話ではないが、たとえば夫の家の宗派に嫁が入れてもらえず、ああ、まあ一種の男尊女卑だな。で、そのせいで夫婦が別のシステムのお墓になってしまう事例があったりするそうだが、この家の場合はどうにもそれも当てはまらない」


「だって、そうじゃないか。いいかい?まず子供の戒名が「浄土宗」で、女性のお墓に「浄土宗」と「浄土真宗」があるわけだ。そして、この家の現在の宗派が「浄土真宗」。この3つのお墓の年代は、基本的にすごく近い。男尊女卑なら、子供と女性でおなじ宗派のものが存在することが変だろう?」


「年代ごとに並べてみると、この謎をとくヒントがあるんだよ。ひとつだけ正式な年号がわからないお墓があるんだが、正徳が一番古く、宝暦のほうが新しい。もうひとつのお墓は、おそらく正徳より前か、もしくは正徳と宝暦の間ということになる。そして、宝暦のお墓が「浄土真宗」だ」


「ということはつまり、だ。宗門改めによって農村の人々は特定の寺の檀家(名簿)に結び付けられたんだが、この家では、正徳前後と宝暦以後で「所属していた寺が違う」という可能性があるわけだ」



 そんなことが本当にあったのか?!


 ・・・・・・それが、あったのだ。このお墓の状態が、ある寺の歴史的事実と合致したのである。


 当家のお墓に2つの宗派の戒名が並ばなくてはならなかった事情とは、いったい何か?!


 まて次回!


(この章まだ続く)







2014年6月7日土曜日

<71-1>大団円に向けて ~いよいよ判明したご先祖さまのご正体!~

 さて、これまで約70回の長きに渡って追跡してきた、わが三潴地域の大塚家のルーツであるが、そろそろ本気で


大団円


を迎えそうな気配がしている。




 本来であれば、万歳三唱といきたいところではあるものの、残念ながら謎もいくつか残して終わることになりそうなので、ちょびっとだけ残念である。


 しかし、ご先祖様探しにおわりというものはない。いくらなんでも、ピテカントロプス様にたどり着くまで遡るわけにも行かないし、アウストラロピテクス様とて同様である。


 いやまて、たぶん私たちの先祖は、ジャワ原人かなんかで、間違いないはずなのだが。・・・・・・もういいって!





 それはさておき、これまでに分かったことを、最終章としてこれからまとめに入ろうと考えている。




 思えば、ご先祖様探しの後半戦は「ナイナイ尽くし」の連続であった。


 どういうことかといえば、前半戦は「おそらくこうじゃないか」「こういう可能性もある」と多くの推理推論をとりあえず挙げ、それらをストックするのが主な活動になっていた。


 そして、中盤は、そうした推論・推理にリンクさせる形で、資料を探しては付き合わせるという活動が主になるわけである。


 そして、後半は、なかなか凹む毎日が続くのだが、「これも違ったか、ああ、こっちも矛盾するなあ。ああ、この資料にも載ってないなあ」と


全否定


の日々がやってくるのだ。


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 自慢ではないが、「これは」と思われる資料は、ほぼ全て読んだ。読んだからこそ言えるのだが、

「うちの先祖は、恐らく江戸中期以降は、久留米藩政に関わったという明確な証拠がない」

ということになる。


 藩の会議録、大庄屋や郡代の名前のリスト、浪人として地元に残っている者のリスト、藩内の旧家に関する由緒など、まあたいていの文書はチェックしたが


どこにも大塚の記載がない


というのもまたこれ事実なわけで。


 たしかにそれらの文書は完全なものではなく、100%網羅されていないので、それぞれからうまく全部抜け落ちているという可能性もないではないのだが、そこはほれ。科学的で合理的な大塚某のことなので、


ズバッとまるっとごりっと

無いもんはないんじゃい!


と潔く観念するわけなのだ。


(※ちなみに、大庄屋じゃなくて、庄屋さんたちの名前はおおむね把握したのだが、こちらは苗字がないので、うちの先祖と合致するかどうか文書上だけではわからない。寺の過去帳関係を当たれていないので、それで未確認なだけかもしれないが。)



 ところが、である。


 江戸中期以降の情報がないのは良いのだが、江戸時代に入る直前ぐらいから江戸中期ぐらいまでの情報をまとめていくと、どうも


奇妙なことが起きている


のだ。


 このいろんな不可思議な現象を説明するのには、ちょっと時間がかかったり、まわりくどかったりするかもしれない。

 それほど、事態はちょっとミステリーなのである。


 というわけで、第71章は、数回にわけてひとつずつ、それらの謎を解いていこうと思う。それらの謎が解けたとき、全てはひとつの事象を指し示す、というわけだ。


 ああ、まるでなんか本当にダヴィンチコードみたいだが、みなさんもドキドキしながら、謎解きにぜひ参加してほしい。



(この章つづく)




 

2014年6月6日金曜日

<70>ご先祖様が残してくれた宝物

 探していた資料が、概ね届き始め、いよいよ次で「大団円」を迎えそうな予感ですが、全国の大塚さまいかがお過ごしでしょうか。

 とはいえ、資料の到着を待つ間も、各役所やら図書館に問い合わせをして、「ある部分は撃沈」したりして落ち込んでいます。


 落ち込んだりもするけれど、わたしは元気です(byキキ)


 そんな時、半沢直樹であれば、釣瓶が作った「ネジを握って」血をにじませながら戦うのでしょうが、残念ながらわたしは違うものを握りながら頑張っております。


 というわけで、わが大塚家に伝わる、「たったひとつの宝物」をご紹介しましょう。


 それがこれ。


 




 なんと「寛永通宝」がたった一枚

 ちなみに裏はこれ。

 

なんともはや、300年も続いている家なのに、残っているのがたった一枚これっきり、というのには事情があります。

 まず、相撲に狂った某先祖が、財産を使い果たしたのがひとつ。それからうちのおじいちゃんから本家筋ではなく、長男以外が継ぐことになったので、それがふたつめ。最後は、うちのおとんが、そもそも長男ではないから。


 ようするに、私は本流ではないので、巡りめぐって私のところに来ているのがこれだけ、ということなのです。


 それでも、江戸期から残っている「大塚家」のご先祖様からの「宝物」であることには変わりません。


 というわけで、今日もこれを握りしめながら、


「やれーっっ、大和田ぁーっっ!!!!」


・・・・・・ちがうか。



2014年6月4日水曜日

<69>『北肥戦誌(九州治乱記)を読む』 補足編

 当ブログの第<65>回から<67>回まで3回にわけてお届けした

 ”北肥戦誌”を読む

のシリーズであるが、今回は、その増補・補足編ということで。


 ブログ本編では、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー版」を読んでいったのだが、なにせ古い資料でかつ、活字本ということで「誤植等」があったりしないかどうか比較のために別の資料を取り寄せてみたのである。


 で、実際に購入した別バージョンは青潮社から1995年に出た復刻版であった。開いてみてわかったのだが、ぬわんとこの復刻バージョン、


底本が近代デジタルライブラリー版と同じ


で、ちょっとずっこけた(笑)

(わざわざ金出して買ったのに、ただで読めるがな)


 ちなみに青潮社さんの名誉のために「よいしょ」しておくが、こちらのほうはさすがに「売り物」だけあって、いろいろいい面がある。

 さあ、みなさん!青潮社さんの「北肥戦誌」の特徴!よく聞いてくださいね!


①人名索引がついている。 

 なーんとみなさん!登場人物全員の名前があいうえお順で索引になってついてるんです!これは便利!

② 近デジ版では30巻までなのに、こちらは35巻まで。

 なーんとみなさん!いまだけ5巻もおまけで「続き」がついてくるんです!これはオトク!


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 とまあ、宣伝も終わったところで、アレな部をちょっと。


 近デジ版というのは「国史叢書本」のデジタル化資料なのだが、今回の青潮社版も、実は30巻までの部分は国史叢書本をまるごとそのままコピーして写真製版している。

 というわけで、もし万一あろうことか「国史叢書本」を作成した時に、誤植があったとしたら、青潮社のほうも、それはまるごとコピペされている可能性があるので、注意である。

(まあ、編集の際に、そこは気をつけておられると信じたいが・・・)


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 というわけで、補足を。

 上記のとおり、青潮社版でも「大塚」と「犬塚」のもし万一間違いが存在したとしても、そこはホレ、いちおう底本どおりということで、仮に100歩譲って間違ったとしたら


馬渡のおっさん(作者)が悪い


わけで、後世の者は悪くない、というスタンスでいようじゃあーりませんか。


 結論から言えば、青潮社版では、底本どおりたとえば

大塚左京亮盛家と犬塚左京允盛家は別人

扱いになっているので、 大塚と犬塚の誤植誤記があるかどうかは「わからん」というオチ。


というわけで、馬渡俊継殿、もし間違いがあったら訂正のほど、お願いするでござる。


※ あ、あとやっぱり何人か抜け落ちてた大塚氏がいた。あんまり態勢に影響ないのでピックアップしないが、知りたい人は

 ぜひ青潮社版「北肥戦誌」をゲットしてみよう!


<入門編>ネットでできるご先祖様の探し方・家系調査

 今回は、単なるつぶやきです。

 あんまりたいした内容はありませんが、当ブログの一部のファンの方には、いろんな意味で朗報です。




 突然ですが、私は大学時代文学部で学んでおり、「日本文学」専攻、つまり「国文科」を卒業して今に至ります。

 社会人時代の前半は、高校で国語を教えたりしておりましたので、いちおうは「国文学」のプロヘッショナルの端くれでもあります。


 しかしまあ、なんといっても「ぷろっしょなる」ですから「屁みたいなもん」です。至らぬところもたくさんあります。



 ・・・・・・早くプロフェッショナルになりたいものです。



 とはいえ、さらに告白してしまえば、おなじ国文学でも専門は「近世日本文学」つまりは江戸時代、でしたので、まさに


 ご先祖さま探し・家系調査


については、基本的にそっち系のジャンルの人、今風に言えば「江戸クラスタな人」ということになりましょう。



 そんな大塚某が、日本中の大塚さんにお届けしているのが


当ブログ「俺ん家コード」(史上希に見るエンターテイメント系ご先祖探訪ブログ)


なのですが、基本的に私は大半の調査を「ネット上」で行っています。もちろん、ご先祖さま探しや家系調査は、現地での調べものが「効く」のですが、先祖代々から伝わる実家に住んでいる人のほうが珍しいくらいの昨今ですから、なかなか地元で調べものをするわけにはいきません。


 しかーし、ご安心ください。


 当ブログで私がやっている「おもしろ家系調査」を読んでいただければわかるとおり、90%はネットだけの調査で今までやってきております。

(我が家の現地調査は、お墓の調査ぐらいです)


 ではどうしてあんなに「濃い」ネタをつぎつぎにお届けできるのか。それは、国語だけでなく、高校で「情報科」も教えていたというくらい、


 情報活用能力(リテラシー)


に詳しい大塚某ならではのコツがたくさんあるからです。


 というわけで、今回当ブログでお届けしているようなそれらのコツを一挙にお伝えすべく、



『ネットでできるご先祖様の探し方・家系調査』


なる資料を現在、鋭意書き書き中です。


 ふだん、このブログでは、そうして調べた「結果」をご紹介していますが、どちらかというと、



★大塚某がどうやってそれらの情報を探してきたのか、という「プロセス」

★具体的にどんな検索キーワードでグーグル先生と会話しているのかという「実例」

★どんな本・どんな資料・どんなデータに見当をつければいいのかという「ヒント」

★どんなサイトを活用し、どこに行けば目的のものに出会えるかという「アドバイス」



などを完全収録しようと思っています。


 いわばインターネット時代の「ご先祖さま探し」の入門書です。




 そして、ネットのいいところは、それらが全て「無料」で活用できるところだと思います。なんといってもタダより安いものはありません。

 そうして浮いた経費は、ぜひご先祖さま探しの「違う費用」に充てていただきたいものです。

(書籍を買ったり、実家に帰る旅費にしたり・・・)


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 まあ、そんな感じでボチボチ製作しておりますので、また完成したらお知らせします。


 ああ、それから!こちらも開発中の


「地縁血縁解析法」(先祖家系本貫地解析法)


もさらにグレードアップ中!


 これはなかなか強烈な技術です。


 なんと先日は、とある苗字の一族の分布について「地縁血縁解析法」にかけたら


「その一族はたぶんこの集落の北東方向に出身地があるだろう」

と予想が出て、さらに調べると(ゼンリンの住宅地図をヤフオクで落として見ると)


なんと、その苗字と全くおなじ地名が予想したとおりの位置の「小字(こあざ)」名で残っていることが判明したのです。



 おっそろしい的中率!


 自分で解析しておきながら、なんじゃこりゃあああ!と驚き桃の木21世紀梨です。


( いや、その前に最初からゼンリンの住宅地図を買えよ!)



 ヤバすぎる「地縁血縁解析法」も、完成をお待ちアレ!



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<特集で紹介されました~>

「こんなの見たことない!」ワクワクするユニークなサービスまとめ

http://coconala.com/featured/entry/4372



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<新サービス開始>

「戦国武将・歴史上の人物に出会う旅! ~あなたと偉人を繋げます~」

https://coconala.com/services/47988



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2014年6月3日火曜日

<調査中>岐阜県の大塚さん

 おかげさまで全国の大塚さんや、最近はなんと「海外の大塚」さんからもご連絡を頂くことが多く、感謝感激でございます。

 
 というわけで、「岐阜県の大塚さん」から価値ある情報をいただきましたのでご紹介いたします。


 ご連絡いただいた情報では、岐阜県恵那の郷士に「大塚氏」がおり、土岐氏からの分家だそうです。


土岐氏は、清和天皇から分かれ出た清和源氏の一部が美濃国守護になってから定着したもので、美濃源氏グループの中心だそうです。


 ウィキペディアより 土岐氏


 面白いのは流石に岐阜地方!

 なんと土岐氏の末裔に「明智光秀」がいるらしいので、信長との関係も気になるところですね。


 土岐一族は、本来、美濃守護として領地を確立していたのですが、斉藤道三による下克上で、勢力はなくなりますが、分家はしぶとく生き延びたとのこと。


 岐阜の大塚さんの情報でも、戦国時代「岐阜の大塚家」は城持ちであったのが、敗戦によって恵那に落ち延びた、とリサーチなさっておられます。


 また、「美濃加茂七宗町神淵大塚村」にある大塚古城が怪しい、と調査なさっているところ、とのこと。


 このあたり、私も追いかけてみたいと思っています。


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岐阜近辺の大塚姓で言えば



 古樹紀之房間 さんのサイトに
 http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/fukusima.htm




 「明智国篤の弟・大塚七郎国重」として、明智一族と大塚氏の関係についての指摘がありました。



 同じ土岐系として気になるところです。



 もうひとつ、


 さむらいたましい さんのサイトに
 http://1st.geocities.jp/tugami555syou/syouichi26.htm



 斉藤道三側の家臣として「大塚藤三郎種長」についての記述があります。


 

 岐阜の大塚さんからは、家紋についての情報は無かったのですが、もし土岐一族だとすれば、「桔梗」紋に関わりがある可能性が高いですね。



 というわけで、岐阜県の大塚さん、家紋を教えてください!



2014年6月1日日曜日

<話題>伊丹有岡城と大塚氏

 大河ドラマ「軍師官兵衛」では、ようやく官兵衛ちゃんが有岡城から助け出されましたね。一年ものあいだ、とっ捕まっていた岡田君もボロボロになっておられましたが、暗い牢の中お疲れ様でございましたm(_ _)m

 さて、荒木村重が勝手に脱出した有岡城ですが、実は私もちょびっとだけ有岡城とご縁があります。


 昨年でしたか、(昔の名前で言えば)有岡城 岸の砦にて開催されたとある展覧会に、不肖大塚某の執筆した文書を展示していただいたことがあるのです。

 うーん、戦国時代の位置で話をするとなんのこっちゃさっぱりわかりませんね(笑)

 タイプスクープハンター(byNHK)バリに翻訳すると、現在「岸の砦」(有岡城の一番北の砦)の周辺は「伊丹市立図書館」になっており、この図書館で行われた「ちょっとした展示」物に大塚某の本が並んでいた、という意味です。

 ちなみに、官兵衛ちゃんが捕まっていた牢の位置は、推定するに「阪神免許センター」や「イオンモール伊丹」のあたりではないかと言われているようです。


 なんでか?!

 官兵衛が閉じ込められていた牢獄からは藤の木が見え、藤が花をつけようとするのを心の励ましにして耐えた、という伝説がありますが、なんと免許センター近辺は「藤の木」という地名なんだそうです。

 以降、官兵衛の黒田家は「藤紋」に家紋を変え、「藤巴」が黒田家家紋となっています。


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 さて、伊丹といえば「大塚氏」です。



 伊丹市サイトより 「頼山陽の書いた墓碑」
 http://www.city.itami.lg.jp/SOSIKI/EDSHOGAI/EDSYAKAI/SINAI_BUNKAZAI/SI_SITEI/1386907275406.html


 実は伊丹周辺は「酒どころ」として有名なのですが、この地で酒造をしていた「大塚鳩斎」という人の墓碑(文政12年没)をあの頼山陽が書いており、それが今でもあるのです。


 大塚鳩斎は、本姓は富田、摂津上野出身で、伊丹で「泉川」というお酒を作って売り出し、大評判となったそうです。

 
 残念ながら、この「泉川」の大塚氏のルーツはわかりません。


 ちなみに、頼山陽(らいさんよう)は、幕末の尊皇攘夷運動に影響を与えた、すごいおっさんです。

 ベストセラー作家で、かつ大酒飲みであったそうで、酒飲みの作家といえば


 中島らも


さん、けっこう好きでした。ご冥福をお祈りいたしております。