2015年7月25日土曜日

<姓氏家系>完全網羅 苗字 横岳姓・横岳氏・横岳さんのすべて! 全横岳氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル

 今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。

 全国の横岳氏・横岳さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。

 抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。(最終更新 2015.7.25)


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★ 参考文献 ★

 今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。


 

 ① 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版

 ② 「日本の苗字7000傑」  http://www.myj7000.jp-biz.net/
 
 ③ その他

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 今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「横岳姓」「横岳氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。



【  】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。


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A  横岳氏  少弐系 少弐貞頼の二男頼房が肥前国三根郡西島に居城して横岳を称す。【寄掛目結】

A'   横岳氏  少弐系 肥前国神崎郡横武邑より起こる。少弐系図では「頼房(横岳孫次郎・横岳組)とある。


A' 横武氏  佐賀県神埼市神埼町横武発祥。(少弐横岳氏と同系か?)



 この他は現在調査中

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<姓氏家系>完全網羅 苗字 安永姓・安永氏・安永さんのすべて! 全安永氏族 由来・ルーツ 超まとめスペシャル

 今回の記事は、九州少弐系の氏族を中心としながら、横の広がりを調査するためにまとめたものです。

 全国の安永氏・安永さんにまつわる先祖のルーツを完全網羅しています。

 抜けているもの、未調査のものは、随時加筆しています。(最終更新 2016.3.28)


 ☆個別の御家のルーツについてより詳しく知りたい方は、記事下部の
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★ 参考文献 ★

 今回のリスト制作に当たっては、以下の参考文献を元に作成した。

 

 ① 「家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ② 「続・家紋でたどるあなたの家系」 千鹿野茂  八木書店

 ③ 「姓氏家系辞書・姓氏家系大辞典」 太田亮 近代デジタルライブラリー版

 ④ 「日本の苗字7000傑」  http://www.myj7000.jp-biz.net/
 
 ⑤ その他

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 今回のリストは、上記参考文献を元に、全国各地に散らばる「安永姓」「安永氏」について、なるべく重複を避ける形でわかっていることを列記したものである。



【  】内についてはわかるかぎりの家紋を示した。


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A 安永氏  大蔵氏流(帰化漢族の末裔) 岩門氏を経て安永氏 安永種永が祖 【地紙か?】

B 安永氏  豊前田川の豪族 応永正長の頃に安永大膳允がいた。 家紋不明

B' 安永氏  少弐系 武藤資頼の次男頼茂から四代後の定行が安永と称し鞍手(郡)に住む。領地田川郡大任町安永より名を取る。 家紋不明

B' 安永氏  少弐系  資頼の次男頼茂の四代目である定行が筑後国三原郡の安永荘を賜り姓を安永と定めその子、安永但馬守藤原重勝が若宮町日少神社(北斗宮)を建立した、とある。

C 安永氏  肥前三根郡安永より出た氏族がいたか? 家紋不明

D 安永氏  熊本県上益城郡益城町安永より出た氏族がいたか? 家紋不明

E 安永氏  御井郡安永村(久留米市北野町中川・安永)より出た氏族がいたか? 家紋不明


そのほか、安永姓の家紋では

【桐紋】


を用いるものがある。


 この他は現在調査中

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2015年7月22日水曜日

<113>福岡藩大塚氏 続報 ~官兵衛ちゃんの家臣はやっぱり播磨から来たのだ~

 いつも、福岡藩の大塚氏について色々な情報をお寄せくださっている方から、新しいデータが届いたので紹介しておきたい。


 いやあ、それにして九州の大塚姓は、一筋縄ではいかない!それぞれ様々な由緒を持っている別個の氏族が入り混じっているので、ロマンティックが止まらないのである。


 だ・れ・か、ロマンティックと・め・て♪


 CCBはココナッツボーイズの略だって知ってた?それから眼鏡の笠さんは福岡出身だってことも!


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 だからなんなんだ、という余興は置いといて、本題へ。



<1>大塚権兵衛 情報続編


 以前、何度かシリーズで取り上げた福岡藩の「大塚権兵衛」、彼は森鴎外の名作「栗山大膳」にも登場する。

 
 <特別編>文豪森鴎外の描く大塚氏 ~「栗山大膳」を読む~
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_22.html


 <特別編つづき>「栗山大膳」登場の「大塚権兵衛」の正体
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_28.html


 <特別編・補足> 森鴎外「栗山大膳」に登場する大塚権兵衛について
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/09/blog-post_12.html


 
 とまあ、3回も記事になっているので当ブログでは有名人の大塚権兵衛であるが、以前に考察したとおり、吉田家と養子のやり取りをしている関係上、吉田氏とともにチェックすべしである。

 今回寄せてくださった情報では、


「吉田家伝録」



「大塚権兵衛直重ハ播州ノ人ナリ。始祖ノ系伝未ダ知ラズ。権兵衛直重若年ノ比ロ、前田加賀ノ守利家ニ仕エシトカヤ」


という記述があった、という。


 吉田家も播磨から官兵衛ちゃんに付き従っているので、大塚氏も播磨系であってもいっこうにおかしくなかったのだが、ここにきちんと「播磨大塚氏」という存在が出てきたわけである。


 推定としては、「後藤又兵衛兄の大塚将監の系」「白鳥にいる島根から来た大塚氏」「寛政譜の赤松支流大塚氏」が真っ先に考えられるのだが、前田利家との絡みでいえば、


 <調査中>石川県周辺の大塚さん
 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/03/blog-post_29.html


で考察したとおり、加賀前田家臣にはやたらと大塚氏がいるので、関係があるのかもしれない。


 余談だが、三木攻めの時に、播磨に小さい砦がたくさん築かれるのだが、その中で


「高木大塚城」

お城の旅日記さんのサイトより
http://www.asahi-net.or.jp/~qb2t-nkns/takagiootuka.htm



は前田利家が築城担当であった。これは関係ないかな?




<2>福岡藩船方の大塚氏


 これも、同じ方からの情報。福岡藩で船方を担当していた大塚氏は、福岡市博物館の資料によれば、


「大塚右京之進宗種」が大友義統の家臣であり、大友氏衰退ののち「大塚宗久(惣太夫)」が長政に召抱えられ、「大塚喜太夫」に至る


とのこと。


 大塚右京と言えば、佐賀勢では小城に「大塚右京」がいたことが知られているが、


(「小城桜岡、其昔鯖岡と申候由、天正之頃大塚右京宅地のよし、日峰様御隠居あそばれ候には、鯖の字を桜の字にあそばれ候よし」 小城町史「「千枝の落ち葉」より)

 
 これはおそらく別人。それよりも、以前に考察した大友配下の大塚氏との関連性を調べたいところである。



<86>豊前大塚氏の痕跡を追え! 大友家臣の大塚氏はいたのか?!
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/08/blog-post.html



 いやあ、それにしても尽きませんねえ。北部九州の大塚氏の系統を読むだけで、論文が書けそうなくらい!




2015年7月19日日曜日

<112・話題> 『情報日本文学会』をマジで立ち上げたいお年頃。『情報国文学会』でもいいからさ。

 ワタクシ大塚某のような在野の研究家のことを平たく言えば



 ・・・マニア



と言うのがおそらく正解だと思うが、ちょっと卑猥な感じがするので(どこが)、せめて



 ・・・研究家



と呼んでほしい。


 で、大塚某がいったい何の専門家なのかと言えば、そりゃ「国文学・国史学」の狭い領域(特に苗字と家系と限られたエリア)になるわけだが、本当はもう少し広い意味での


「情報と国文学」とか「情報と国史学」


という分野領域に興味がある。


 実はこの分野は、学問としてはまーったくと言っていいほど立ち上がっていないと思われる。国文学にしても、国史学にしても、基本的には


 「元ネタとなる実物や、原本というテクスト」


が存在するわけで、国文学や国史学のアプローチから言えば、そのホンモノこそに価値があり、まずはそこから学問が波及するというわけだ。



 ところが、どんどこしょ。



 情報と冠が付くくらいだから、私がやりたい国文学は、何がしかの形で「電子化」されているだろうし、IT化されているのだろうが、モノホンの研究者から見れば、電子化されたテクストや史料なんて、二番煎じでちゃんちゃらおかしいぜ、ということになるのだが、ワタクシは、そこに落とし穴があると考えている。




 いいですか?みなさん。



 国文学研究の歴史をひもといてみれば、とりあえずはホンモノからの活字化の歴史だったと言ってよい。


 漢文を訓読し、くずし字を解いてなんぼという国文学・国史学の歴史は、考え方をちょっとやわらかくしてやれば、


「ただの、テクストへの変換」


に過ぎなかったことになる。


 活字化に成功して、索引を作りまくって、図書館にある資料同士を繋げて考察するのが人間さまの役目であり、それが国文学国史学だったのだ、という部分に着目すれば、



 そんなの、電子テキストとハイパーリンクにまかせてしまえばいいじゃん!


ということになる。


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 ワタクシが大学を卒業したのは、1997年だったのだけれども、ワタクシの直接のセンセイに当たる人物は当時から面白いことをしていた。


 彼は、今でも基本的にはおんなじことをやっているのだが、「浮世絵」をデジカメで撮って集める、という作業を命がけでやっている。



 浮世絵をデジカメで撮る、というと、なんだかアホみたいだが本人は当時から大真面目だった。


 かっこよく今風に言い直そうか?


「浮世絵コンテンツを、デジタルでスキャンして補正し、データをアーカイブしてクラウドに収蔵してビッグデータに変換する」


ということを彼はやっていたわけだ。


 もう随分ご無沙汰しているので、センセイはワタクシのことなんぞ忘れてしまっているに違いないが、現在でも「文化のデジタルアーカイブと分析」にかけては最先端を突っ走っておられる。



 その直属の教え子なので、ワタクシも当然そういう発想で動いている。だから、パソコンの前に諏座っているだけでたいていの研究はやってしまうし、たいていの史料はただでどこからか探してくる。


 そこで思うのである。


「とりあえず、史料をデジタル化するところまでは、たくさんの研究機関がやっている。図書館にあるデジタルデータもそうだし、検索のデジタル化もそうだ。しかし!しかしなのだよ!


 それらのデータを有機的に繋いで、デジタル上で研究を進める手法を、私たちはまだ発見していない!


ということなのだ」




 このブログを長く読んでおられる読者にはおなじみだが、私のやっている大塚研究は基本は「インターネット上のテキスト検索」だけである。


 そんなのグーグル先生だってやるし、siri先生だってお得意だ。


 だが、彼らは単純にキーワードを順番に並べているだけで、まだ有機的な検索結果を出してはこない。



 情報日本文学の研究者は、その間隙を突きたいのだ!!


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 ちなみに、「研究者」と名乗っていいのは、大学に所属しているとか「学会に属している」人だけなんだそうだ。


 というわけでワタクシのような在野の兄ちゃんは「研究家(マニア)」でしかないのだが、それなら勝手に「学会を作ればいいんだろ、バーロー」と開き直った。


 だいたい、人文学系の大学をつぶそうなんて動きがあるくらいだから、大学のセンセイたちが在野に転げ落とされてくるのも時間の問題である。



 それなら、大学なんて縛りは気にせずに、俺たちゃ好きなようにやるぜ!


ってこと。



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 というわけで、自称「情報日本文学会」なる学会を1人ではじめました。まるで、冷やし中華のごとく!


”Infomation Technology of literature”

”Infomation Technology of history”


をよろしくね!

2015年7月18日土曜日

<111>講読『歴代鎮西志』『歴代鎮西要略』 ~忘れられた氏族 大塚氏~

 というわけで、前回は心ならずも引っ張ってしまった「歴代鎮西要略」発見の段なのだが、阿波国蜂須賀家に残っていたのは、


 全13巻のうち6巻だけ


なので、主に前半に関わる部分での講読を進めたいと思う。



 さて、この歴代鎮西要略だが、いちおう表向きは「歴代鎮西志のダイジェスト」ということになっている。

 なので、言い方を正せば


「歴代鎮西志があれば、要略のほうはいらないじゃん」


ということになりそうなものだが、果たしてそれでいいのか?!


 ってことで、歴代鎮西志と歴代鎮西要略の記述を追いながら、そのあたりのことも考察してゆこう。



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 大塚氏の由来については歴代鎮西志では「大永四年」の項に説明がある。原文は漢文であり。返り点や送り仮名はついているのだが、ネットだと表現しにくいので、白文で失礼させていただく。




『歴代鎮西志』 

 四年甲申

 春正月十八日 馬場肥前守頼周 以謀殺戮 筑紫満門父子三人 於所々(満門之廟在 綾部 或曰 四月四日也) 

 千葉胤勝之属衆 逃山中 蓋此馬場氏者少弐氏一族也

 玄祖少弐貞経入道妙恵 有五男子 頼尚為世子 次男号馬場肥前守経員 三男頼賢 四男貞衡(称大塚氏) 五男僧宗応也

 経員生頼興 頼興生頼継(於那須城討死) 頼継之子肥前守資幸(資一作頼) 斉名源幸 頼周者源幸之適孫也



『歴代鎮西要略』

 四年 甲申

 春正月十八日 少二一族馬場肥前守頼周 謀而殺戮 筑紫満門父子三人(或曰 二月四日也 満門之廟在綾部)

 資元称誅 得満門以報父兄之仇 略其采地而与之 馬場頼周矣 夫頼周其先筑前人 太宰府之司馬而 与少二蓋同胞也




 こうして読み比べてみると、最初の2行についてはよく似ているものの、後半部分は


 それぞれ言っていることがだいぶん違う


ことに気付くと思う。


「鎮西志」のほうは、「少弐貞経に5人のこどもがおってじゃな」、と系譜をつらつら喋りだしているのに、「鎮西要略」のほうは、

「少弐資元はこれでやっと父と兄の仇を報いることができた」

なんて感傷に浸っているわけである。   



 こうしてみると、「歴代鎮西要略は歴代鎮西志のダイジェストなんかではない」と言うことがよくわかる。


 取り上げている事象は共通しているかもしれないが、視点の置き方や、着眼点がそれぞれ違うのだ。


 これはすなわち、執筆者の姿勢や立場を暗示しているのではないか、と考えられる。



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 さて、ここにきて判明したのは「歴代鎮西要略」では大塚氏の由来が著述されていない、ということである。


 これで少弐系大塚氏の成り立ちについて記載しているのは「歴代鎮西志」と「北肥戦誌」の2つだけだ、ということがわかった。

 悲しいかな、戦国北部九州の歴史において、大塚氏はそれほど活躍しなかったからである。




<110>講読『歴代鎮西志』『歴代鎮西要略』 幻の史書がいよいよ登場!

 以前の記事でがっちり読み込んだ「北肥戦誌」講読の段であるが、北肥戦誌だけ取り上げるのはさすがにツメが甘いので、ここはぜひとも


「歴代鎮西志」と「歴代鎮西要略」


についても、読み込んでいきたいところではある。しかし、まあ慌てなさんな。



 古きをたずねて新しきを知る、というが、書物は逃げはしない。時間はたっぷりあるのだ。


 というわけで、大塚隠岐に関する神代長良受難の戦いの場面は、とりあえずお楽しみにとっておくことにして、今回は「大塚氏」そのものの記述について読み込んでいくことにする。



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「歴代鎮西志」は青潮社から平成になって影印復刻されているため、比較的入手しやすく現時点でも古本屋で何冊も出物がある。


ところが、一方の「歴代鎮西要略」は、オリジナルの「史籍集覧」には一度採録されたものの、新編集の時に欠落してしまいそのままになっているという幻の書である。


 我々一般人が読むには、文献出版から出された「増補 歴代鎮西要略」を購入・閲覧するしかないのだが、これも限定300部で作られたお宝書物なのである。


 というわけで、戦国九州を学ぼうとするものの間では、必読の書でありながら、入手が難しいマニアよだれだらだらな資料となっている。


 ああ、失礼。つい本音が飛び出してしまった。よだれだらだらを熟語で書くと


「マニア垂涎(すいぜん)の資料」


と表現する。けして水前寺清子とは関係ないので、答案にそう書かないように。



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 さて、その幻のお宝「歴代鎮西要略 全13巻」のうち、前半部分を今回は特別にお届けしよう!


 そして、「歴代鎮西要略 原本(写本)」を読みながら、大塚氏の成立について大いに考察しようではないか!!!バババーン。


 
 ずっと探し求めていた歴代鎮西要略だが、今回大塚某の国際的「情報収集能力」により、6巻までの閲覧に成功した。


 これぞまさしくIT(いんふぉめーしょん・てくのろじー)である。自分をほめてやりたいので、


「情報日本文学会」(情報国文学会)ならびに「情報日本史学会」


を勝手に立ち上げそうなくらいである。



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 さて、どこかのテレビ番組のように、ネタを引っ張っているが悪意があるわけではないので、そろそろ本題に突入しよう。

 「歴代鎮西要略」はここにある。



 徳島県立図書館 デジタルライブラリ 阿波国文庫
 http://www.library.tokushima-ec.ed.jp/digital/monjyo/awadegitalhyouzi.php



なんと阿波藩主であった蜂須賀家が、藩政期に収集した資料の中に眠っていたのだ。


ありがとう蜂須賀小六!

長政が”いとちゃん”を離縁したけど、そろそろ許してやってくれ!



と声を大にして言いたいところである。



 それにしても、大塚某が長い間見つけられなかったのはリストに「鎮西要略」という名前で登録されているからだった。


 表紙にはたしかに「鎮西要略」と書いてあるが、見開きにはちゃんと「歴代鎮西要略」と書かれているのだからそこらへんはちゃんと登録しとけーーーー!!!


 こういう書誌情報ひとつにとっても、こんな小さなことで検索に漏れたりするんだから、情報国文学の視点はとても大事なのだ!



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 というわけで、長くなったのでつづきはまたのちほど・・・・


(この節つづく。前置き長すぎwww)




2015年7月13日月曜日

<109> 新視点で読み解く佐賀大塚氏 ~大塚佐渡とは何者か~

 膠着状態が続いており、新しいデータが集まってこない今日この頃。

 それでも、新しい切り口や、新しい視点はないか?と多角的に考察を深めている大塚某だが、ちょっと気になる事実を発見した。


 ここに来て、面白い人物の存在に気付いたのである。




 その名は「大塚佐渡」マルキド・サドではない。オオツカ・サドである。

 ちなみに、マルキド・サドは史上最強の変態である。かっこわらい。





 もとい。大塚佐渡は、本来の表記で言えば「大塚佐渡守」という名称こそ正しいと思われる戦国時代の武将である。


 現在、資料取り寄せ中なので、詳しいことは手元に古書が来てから解説したいのだが、現時点でわかっていることは、


①水ヶ江龍造寺家の家臣に、大塚なんとかという者がおり、その先祖が「大塚佐渡」らしい。

②大塚佐渡の親分は「天理様」だそうである。


ということに過ぎない。


 しかし、我らが「大塚隠岐」に対して、「大塚佐渡」がいた、となるとその気なんの気、気になる気である。


 それはもう、大塚サドと大塚マゾがいたくらいの、怪しさ満点だとは思わないか?・・・・・・え?思わないって?



 サドネタはいいかげんにしつこいので、これくらいにしておくが、もう少し調査をすすめておこう。



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 「大塚佐渡」の名前が登場するのは、次の2つの資料である。



■ 「水江臣記」 (九州史料落穂集 第五冊) 

■ 「丹邱邑誌」



 水江臣記のほうは、簡単にいえば「水ヶ江龍造寺氏、つまり後多久氏」の家臣録ということになる。


 ちなみに、この氏族のことをキムタクに対して「アトタク」と呼ぼう!


 これまたちなみに、龍造寺の後を鍋島が継ごうとするのだが、のちのち龍造寺の系統のにいちゃんが


「いや、俺のほうが鍋島より本家スジだし」


と言い出したときに、


「ちょ、ちょっと待てよ!それなら俺のほうがマジ龍造寺だし」


と鍋島の肩を持ったので、ゴタゴタが丸くおさまったという、要は鍋島家にとってのHEROなのである。


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 キムタクのせいで話がややこしくなったので、話を戻そう。


 くまモン龍造寺隆信のいちばん末の弟がおり、彼の名を龍造寺長信という。この人物の別名が天理様なので、ようするに、大塚佐賀は龍造寺長信の家臣だったということになる。


 で、この長信の長男が、多久安順なので、お父さんの時代は龍造寺を名乗っていて、息子のアトタクが、多久氏を名乗りはじめた、ということになるわけである。




 水江臣記・丹邱邑誌を参考にすると(まだ読み込んでないので簡易検索ね)


「大塚佐渡と子の大塚大塚弥八左エ門は、天理様が多久へ入城する際に従って多久入りしており、その子孫に大塚伝右衛門がいる」


ということが書いてあるらしい。


 天理様の存命期間は「天文7年(1538年) - 慶長18年10月26日(1613年12月7日)」とされている。

 この時代に、大塚佐渡が生きていたとすれば、土生島城から神代長良が脱出したのが永禄8年(1565)なので、同世代の人物とすることができる。


 つまり、大塚佐渡と大塚隠岐は、同時代に生きていて、どちらも龍造寺の家臣だった可能性が高い。


 もっと精査するとこうなる。




■永禄8年(1565) 大塚隠岐守 神代長良を脱出させる。

■元亀2年(1571) 以降、神代長良は龍造寺家臣となる。





□天正年間(1573~1593) 隠岐が現在の当家の村にやってくる。




□天正9年(1581) 神代長良 死去(45歳)

□天正12年(1584) 龍造寺隆信 死去(55歳)



■天文7年(1538年) - 慶長18年(1613年) 天理様:龍造寺長信の存命期間


□大塚佐渡は上記期間に準じて存在する。



ね?大塚隠岐とうちの村の隠岐は同一人物の可能性があるし、大塚隠岐と大塚佐渡も同時代の人物の可能性があるでしょ?



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 で、何が言いたいかといえば、大塚隠岐と大塚佐渡が、おなじ系列の大塚氏だという可能性だってあるわけで。隠岐と佐渡をそれぞれ「武将名としてもらっている」あたりが気になるわけである。



(この節つづく)





2015年7月11日土曜日

<話題> なんと!くずし字が自動で解読できる時代?! ~来年の大河は「真田丸」~

 いよいよ来年の大河ドラマ「真田丸」の出演者陣が決まり始めており、楽しみになってきたところですが、いかがお過ごしでしょうか?

 
2016年大河ドラマ「真田丸」出演者発表

http://www2.nhk.or.jp/pr-movie/detail/index.cgi?id=07_0003#1412


 真田幸村ちゃんこと堺雅人さんはさておき、


 なぜか大泉洋ちゃんが真田信之とか(^^

 個人的には、藤岡弘、の 本多忠勝が気になって仕方ありません(笑)ていうか、藤岡さん大河ドラマ21年ぶりらしいです!


 というわけで、来年の大河は、昨年のように新年より当ブログでも追いかけてゆくつもりなので、よろしくお願いします。


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 さて、この夏とっても面白い情報が飛び込んできました。

 それは凸版印刷さんのプレスリリースなのですが、


 凸版印刷 くずし字解読するOCR発表
 http://www.toppan.co.jp/news/2015/07/newsrelease150703_2.html


 とのこと。われら日本文学・日本史専攻者にとっては、


 すっげーーーーーーー!!!


という時代の幕開けのようで(笑)


 くずし字というのは、本来は「変体かな」や「草書体」というものなのですが、なんせ近世以前の人には


 楷書という発想がない


のです。 なので、自筆でも印刷物でも、ぜんぶ「くずし字で書いてある」のが普通!それを読みこなすのは、日本史研究の上でとても重要かつ難解なのでありました。


 ところが、OCRである程度読んでくれれば、解読スピードが大幅にアップすること間違い無しです。 これは楽しみな技術ですね。


 そもそも、人間が読み解く「くずし字解読」も、実は技能の根幹部分はパターン認識です。

 この形のくずし字は、本来この字であるというパターン化された経験則があれば、解読の速度と精度が飛躍的に上がるので、コンピュータ向きかもしれません。

(実際、くずし字辞典はよりたくさんの用例が載っていることに意義があります。つまり、パターンマッチングなのですね)


 ただし、気になるのはリンク先にあるくずし字の実例なのですが・・・・。


 あまりに美しいくずし字の見本なので、


 これやったら誰でもすぐ読めるわーーーー!!!!


と突っ込みたくなるのは私だけでしょうか?(笑)

 ぜひ、もっと難解なやつにも対応できるよう、お願いしますね。


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 さて、それはともかく、IT技術と古典を結びつけるといういわば「情報日本文学」「情報国文学」という領域・ジャンルはまだ学問的に確立していません。

 研究段階としてはプロジェクトがいろいろあることと思いますが、これから「古典とテキスト」の問題とか、研究テーマがたくさん生まれてくるように想像します。


 あー、私が研究者として生きていれば、絶対この分野を絡めていただろうなあ。と思いますが、残念ながらそれは空想のお話。このあたりのことは、また別にお話する機会を設けたいと思っています。


 では。今日のところはこれくらいで。





2015年7月3日金曜日

<話題>サマーウォーズ、はじめました

 やってますねー。金曜ロードショー。

 細田守監督の「サマーウォーズ」絶賛放映中でございます。


 長野県上田市を舞台に繰り広げられる、現実社会とネット社会の大混乱を


 花札で解決する


というお話。(合ってるけど、なんかちがーう!)


 さて、お話の舞台は、室町時代から続くという架空の一族


 陣内家(じんのうちけ)


の大家族を中心にしながら繰り広げられるのですが、 床に飾られている六文銭の甲冑から、


信州真田家


をモデルにしていると思われます。


六文銭は、真田家の旗印。本来の家紋は、結び雁金であり、サマーウォーズでも、おばあちゃんの着ている和服に、この紋が入っていますね。







 さて、この真田氏、次の大河ドラマでは主役なのですが、実は出自はよくわかっていません。


 信濃の名族である、滋野流、ひいては源氏を名乗ってはいるものの、どうも偉くなってからの仮冒だと考えられています。


 本当のところは、信濃の根津氏の支流もしくは配下にあったプチ領主・ミニ豪族だったのではないかと。

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 さて、この信濃上田方面には、

 http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2015/06/blog-post.html


でも軽く説明したとおり、滋野/海野系の大塚氏がおります。


 というわけで、サマーウォーズにご縁のある大塚さんが今頃テレビに釘付けなのでは?(笑)