2017年6月9日金曜日
満鉄社員の調べ方 ~南満州鉄道 社員録・社員名簿一覧~ (職員録・職員名簿)
昨年の記事で取り上げた「満鉄・南満州鉄道」関連の情報ですが、
(旧記事)
南満州鉄道に勤務していた祖父を探す
https://samurai-otsuka.blogspot.jp/2016/02/blog-post_12.html
満鉄会さん(満鉄会情報センター)
http://www.01.246.ne.jp/~mateka/index.html
も2016年3月で解散してしまったため、まずは自力で探す必要があります。
そこで、インターネット上でも満鉄職員を調べることができるリンクをご用意しましたので、デジタルな検索はかけられませんが、アナログでもよければご先祖さま調べにご利用ください。
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(国立国会図書館デジタルコレクション版)
■ 南満州鉄道株式会社 「社員録」 昭和9年9月1日現在
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1146528
■ 南満州鉄道株式会社 「社員録」 昭和10年12月1日現在
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1711143
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454615
■ 南満州鉄道株式会社 「社員録」 昭和12年9月1日現在
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1463740
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445379
■ 南満州鉄道株式会社 「社員録」 昭和15年7月1日現在
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1454231
■ 満州官民職員録 (多田商会1934) 昭和9年版
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1452665
■ 満州職員録 (満州日日新聞社1940) 昭和16年
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1445663
2017年6月1日木曜日
<調査中> 岐阜県を中心とした大塚さん
大塚氏についての調査は、あまり新しい情報が入ってこなかったので停滞気味だったのだが、ブログの読者の方から
かなり興味深いお話
を頂いたので、まとめつつご紹介する次第。
結論から言えば、まだ見つかっていなかった「新しい大塚一族」が発見されたので、さっそく詳細をお伝えすることにする。
ご連絡を頂いたのは関西地方にゆかりのある大塚さんなのだが、おそらくは系図の写しを持っておられるようで、その中身がかなり詳細で興味深いので、個人情報に配慮しながら記述を読み解いてゆきたいと思う。
本来の系図は、ある程度まとまった形のものだったと推測するが、資料を見せていただいたものは、
「人物の名前とちょっとした説明書き」
が書き連ねてあるもので、それでも、おそらく直系子孫が一筆書きでつながるような形になっている。
原本にはおそらく傍系も一部記載があったのかもしれないが、写しなので「当主」のみが続いている形である。
まずはその冒頭部分を
【大塚家譜 旗紋 根笹 幕紋 州浜 馬印 輪違い】
このように、3種類の家紋について言及があるので、なかなか本格的な武家の様式であると思われる。
現代私達がつかう家紋は、だいたいこれらのうちのどれかが伝承されて減ってしまうことが多いが、ちゃんと使い分けが記録されているところがすごい!
そして系統であるが
【 清和天皇 - 貞純親王 - 経基 - 満仲 - 頼光 - 頼国 】
とつながってゆく。
バリバリの清和源氏のわかりやすい系図である(^^
※清和源氏 清和天皇から出た源氏の本家本元みたいな流派。のちに鎌倉幕府を開く源頼朝も、室町幕府の足利氏ももちろんこの系統。
頼光
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%85%89
頼国
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%9B%BD
このあたりは歴史でもおなじみの人物である。
さてここから
【 国信 - 頼実 - 光信(始 号大塚) 】
と続く。
源光信が、”はじめて大塚と号した”と読める。
頼実まではウィキペディアでも拾えるが、
頼実
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BA%90%E9%A0%BC%E5%AE%9F
おそらくその子の光信は、大塚に名前を変えていることもあってか、他の記録に残っていない可能性もある。
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さて、この一族、ここから10代くらいは、おそらく都にいて官位をもらいながら貴族として生活したようである。
光信は「出羽守・従五位下」であり、この従五位下が平安貴族として認められる最低ラインなので、ここまでは朝廷の本流にいた、ということだと推定できる。
光信から6代は、おなじく従五位下の位で、 「伊賀守」「左近将監」「隠岐守」などの職を得ていることがわかる。
さて、この子孫のうち、途中で、
「国行 (後鳥羽院北面達)」
という人物が現れる。 このあたりからいわゆる「北面の武士」としてこの大塚家が、貴族から武家へと変化していったことがうかがえる。
ここから二十代くらいは、官職も「式部大輔」「大蔵少輔」「右京大夫」「上野介」など、役職が少しずつ下がっていることがわかる。
その後、南北朝時代になって、この大塚氏は土岐頼康の家臣になったことが書いてある。
この人物の註には
「厚見郡川手村に住む」
とあるので、
土岐頼康の居城「川手城」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E6%89%8B%E5%9F%8E
にいたことがわかる。
系図は、戦国時代ごろで終わっているのだが、こうして見ると、とある大塚家の内部の系図としては、
「かなり信憑性が高いし、丁寧に書かれている」
という印象を受ける。
無茶苦茶勝手に系図を繋いだりはしていないと思う。
なぜなら、土岐氏自身が清和源氏から美濃源氏へと出た大族なのだが、その系統とは
「違う」
ということをわざわざ書いているからである。 大きい意味では同族だけれども、ネームバリューの大きい土岐氏に引っ張られることなく、
「平安時代は美濃にいなかったもんね。京都にいたんだもん」
ということをさりげなく主張し、
「主人は土岐氏だけど、負けず劣らずうちも名家だもん」
ということを匂わしているあたりが、この系図の正しさを示していると思われる。
※土岐氏からは、あの明智光秀も出ている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9C%9F%E5%B2%90%E6%B0%8F
というわけで、新しい大塚氏は、清和源氏頼光流から出て、のちに土岐氏家臣となった名族ということでリストに加えて置くことにしたい。
(資料教えてくださった方に、心より感謝します)
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