2014年1月28日火曜日

<特別編つづき>「栗山大膳」登場の「大塚権兵衛」の正体

 いろんな意味で、新たな発見に振り回されている毎日だが、今日も新発見でお届けする。


 先日、森鴎外の「栗山大膳」の回で書いた福岡藩家臣「大塚権兵衛」の正体が判明したので、お伝えする次第である。


 とりあえずは、

<特別編>
http://samurai-otsuka.blogspot.jp/2014/01/blog-post_22.html

のほうをざっとまとめ読みしてもらうとして、もう少し奥まで切り込んでいこう。


 さて、ここに登場する大塚権兵衛、父と子の二人存在している。このあたりの様子をじっくり見るために、


武将系譜辞典 さんのサイトより「赤松家人名録


http://www.geocities.jp/kawabemasatake/akamatu.html



を読み直してほしい。


 まず、長いので「大塚」で検索をかけるといいのだが、大塚氏は


赤松家臣の小河氏の末裔の欄に書いてあり、小川有光からはじまる系譜の中で、「小河直常は大塚権兵衛の子権兵衛ですよ」と示してあるわけだ。

 そして、今度は小寺家臣のところで、「大塚権兵衛は十右衛門権兵衛で、吉田久太夫の子が継いだ(嗣)んですよ」と示してある。


 おなじことを、ちょっと中国のサイトでおもしろいのだが、



江戸時期的黒田家 さんのサイト
http://bbs.szpco.com/read.php?tid=233&ds=1



から読んでみよう。こちらには、


「大塚権兵衛-権兵衛=十右衛門(1000石)
兵法家,出仕黒田長政。権兵衛无嗣,收小河家吉田久太夫之子为養子。」


「无」は無とおなじ意味、「为」は為(なる)である。

第二外国語を「中国語」にしておいて良かった!

 大塚権兵衛の子権兵衛は十右衛門で1000石、兵法家。権兵衛に跡継ぎがなかったので、小河家の吉田久太夫の子を養子にした、と書いてある。


 とりあえず、この2つの話は同じことを言ってわけである。


 そして、今度は、



資料メモログ さんのサイトを見てみる。
https://sites.google.com/site/ajyararu/home/ji-tian-jia-chuan-lumemo3-zhi-nian



こちらは「吉田家伝録メモ」ということで古文書の記録をわかりやすくまとめておられるのだが、ここにも

 黒田忠之の家来の「大塚権兵衛直重(父)」と「大塚権兵衛直常(子)」が登場する。そして、直常は、小河常章に子供がいなかったので養子となり「小河直常」に名前を変える。

 このサイトでは、その後、小河直常がのちに剃髪して「道魁」と名乗り、他国へ出て大阪へ移り、子孫は小河氏のち石川氏として続く様子が書かれている。


 この話の後半部分は、

 もずの独り言 さんのサイトに、説明がある。
 http://blog.livedoor.jp/safehome-el.dorado/tag/%E6%AD%B4%E5%8F%B2?p=18



  延宝3年に黒田藩主光之が、息子の綱之を廃嫡したときに、綱之付きの家老をクビにするのだが、このとき綱之付きだった小河直常が、「この恨みはらさでおくべきか~」と福岡を去ったという、まさにこの話である。



 まとめてみよう。

① 大塚権兵衛(父)には子供がいなかったので、小河(吉田)久太夫の子供を養子にして、彼が大塚権兵衛(子)になった。

② 大塚権兵衛(子)は、小河常章のところへ養子へ行って、「小河直常」になった。


 話としては、これだけなのだが、史実と小説「栗山大膳」に登場する大塚権兵衛の正体はおおむねわかったとして

 赤松家臣の大塚権兵衛と、その元々の一族はどこから来たんだ?

ということがここでは「さっぱりわからない」のである。実に面白い。


 つまり、大塚権兵衛(父)の親父やきょうだいに「大塚一族」がいて、彼らが「大塚重太夫」系の大塚なのか、「後藤将監」系の大塚なのか、この段階では不明なのである。


 だから、福岡藩の大塚さんの家紋がわかれば、嬉しいのだ!

 抱き茗荷なのか違うのかによって、あらかた道筋が付くからである。



 

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